第29回 新旧ヴァイオリニスト

  先日、たまたま店頭で新人らしきヴァイオリニストのCDを見つけた。ハンブルク生まれのザブリナ=ヴィヴィアン・ヘプカー(Sabrina-Vivian Hopcker(oはウムラウト付き))。年齢は不明だが、写真から20代と推測される。曲目はマックス・ブルッフの『スコットランド幻想曲』、フェリックス・メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』、伴奏はエドウィン・アウトウォーター指揮/北西ドイツ・フィル、マルティン・ブラウス指揮/ゲッティンゲン響、レーベルはトゥルー・サウンズTrue Soundsと、初耳が続く(番号はTSC-0209)。
  CDでは後ろの方に収録されているメンデルスゾーンから聴いたのだが、これがなかなかいい。アンネ=ゾフィー・ムターのデビュー時を思わせるような、明るく力強く、伸びがあるヴァイオリンだ。だが、最初のブルッフの方がもっと個性が濃厚に出ている。全体の響きも非常にいい。ディスクの表示によると、このブルッフはスタジオでの収録らしく、それで音がいっそういいのだろう。彼女の音色もたいへんにみずみずしく捉えられている。ブックレットを見ると、R・シュトラウスとセルゲイ・プロコフィエフのソナタが同じレーベルから出ているという。こちらも、なるべく早くに聴かなければ。
  エクストンから韓国生まれのベク・ジュヤン(Ju-Yang Baek)という、これまた若手のブラームス、ブルッフ(第1番)の協奏曲集(OVCL-00422)が出た。彼女は日本のオーケストラと過去に何回か共演しているらしいが、私は初めて聴く。まず気がついたのは音楽の運びがとてもゆっくり。しかも、高音域はキーンと迫るのではなく、どことなく丸みを帯びていて、反対に中低域はややヴィブラートを大きめにして、打ち震えるように歌っている。そこはかとなく妖艶さも漂うが、ちょっと往年のジョコンダ・デ・ヴィートを想起させる。伴奏はヘンリク・シェーファー指揮/新日本フィル。いかにも安全運転のように思えたが、聴き進むうちに、彼女のそのゆったりとした呼吸に極力合わせようとした結果なのだということがわかった。
  往年の奏者といえば、ヨハンナ・マルツィの初出ライヴも発売された(ドレミ DHR-7778)。曲目はベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』(オトマール・ヌッシオ指揮/スイス・イタリア放送、1954年)、モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ変ロ長調K.454』(ジャン・アントニエッティ、ピアノ)の2曲。前者はおっとりと上品に歌う。テンポも常に微妙に揺れていて、伴奏とピタッと合っていないところがいい。響きが乾いているせいか、伴奏はいかにも素っ気ないが、独奏が明瞭に捉えられているので鑑賞上は全く問題ない。後者は気持ち曇った音質ではあるが、決して悪くない。とにかく、きわめて優雅なその独奏は非常に個性的で、こんな表現は最近にヴァイオリニストからは聴けない。
  6月、サロネン/フィルハーモニアの来日公演でヒラリー・ハーンのチャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲』を聴いた(サントリーホール)。いつものように技巧的には完璧無比ではあったが、全体の表現としては、何か迷いのようなものを感じさせた。仕掛けようとしたが思い切れず、心の中では何かやりたい、やらなければという気持ちがくすぶっていたように思えた。むろん、ハーンはこの先が長い人である。こういうときもあって当然だろう。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第28回 ムターを聴く

  4月19日、サントリーホールでアンネ=ゾフィー・ムターのリサイタルを聴いた。ピアノはCDと同じランバート・オルキス、曲目はブラームスの3つのソナタだった。
  舞台に出てきたムターは気品があり、美しくて凛々しく、豊かな風格が感じられた。楽器を持って構える姿も実にカッコよかった。ヴァイオリンを常に床と平行か、わずかに上の角度で持ち、弾いている最中もどちらかというと動きが少ないほうだ。背筋はピンと伸び、見ただけでもびくともしない安定感を与えてくれた。
  出てくる音も実に多彩だった。強弱、濃淡を大胆に、あるいは繊細に弾き分け、テンポも巧みに変化する。最も見事だと思ったのは休憩後の『第3番』だろうか。息を飲んだのは2番目に弾いた『第1番』のソナタ。冒頭、ふっと息を吹きかけられたような音が中空に舞い、それがスウッと消えていく。そこを聴いただけでも「きょうは来てよかったなあ」と思った。アンコールはブラームスの『ハンガリー舞曲』の『第1番』『第2番』『第7番』、『子守歌』、それとマスネの『タイスの瞑想曲』と、5曲も弾いた。特に『ハンガリー舞曲』はいっそう自在で意欲的だった。オルキスもムターにぴたりとつけていて、有機的なアンサンブルという点でも申し分がなかった。
  どこで読んだか忘れたが、ムターは「チューニングなどはお客に聴かせるものではない」と語っていた。この日も彼女は舞台上では一度もチューニングしていない。これは、何ということもないがすがすがしくて好きだ。2009年秋にエンリコ・オノフリの演奏会に行ったが、そのときはコンサート・マスターがいちいち各パートのトップ奏者のところに歩み寄ってまでチューニングをしていた。しかも、曲の始まる前はもちろん、楽章間も。これを誠実さの現れと捉える人もあるかもしれないが、私にはなんとも見苦しいものとしか思えなかった。
  ムターは、ピアニストが座るやいなや間髪を入れずに弾いていた。楽章間もほとんどアタッカに近い。よけいな思わせぶりを排し、音だけで勝負するような気迫さえ感じた。また、この日はピアニストの横に座る譜めくり係もいなかった。これは単純に、あえて用意する必要がないからそうしたのだろう。しかし、私には音楽をしない人間は舞台には必要ない、といった演奏者の言外のメッセージではないかと感じた次第である。
  印象的だったのは、この日の舞台上には大きな花輪が飾られていたこと。この花はムターの要望なのかどうかはわからないが、当日の演奏の記憶を彩るものとしては実にふさわしいものだと思った。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第27回 祝! 『クラシック100バカ』増刷

 このメール・マガジンも、ずいぶんと間があいてしまった。昨日、青弓社から「『クラシック100バカ』を増刷します」と連絡があった。これは2004年秋に出版して、ほどなく増刷されたので、今回は第3刷ということである。といってもそんなに大量部数ではないが、どこの出版社も「売れない」とぼやいているご時世にあっては、まことにおめでたいと言わざるをえない。
  いま読み返してみると、項目によってはちょっと古くなってしまったものもあるが(たとえば、CCCDについて書いてあるものなど)、「よくもこんなにいろいろと書いたなあ」というのが正直なところである。この本を出して、「本当のバカはお前だよ」なんてネットに書かれていたし、一部の人は不快な思いをしたかもしれない。しかし、私の基本的な考えとしては、蔭で裏でブツブツ言ったところで何も生み出さない、始まらない、ということである。それらは単なる愚痴以外の何ものでもないからだ。
『100バカ』もある意味力作だったが、自分ではなんといっても構想から完成まで12年も費やした『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房)に思い入れがある。ごく最近、出版社に問い合わせたら、この事典もほとんど在庫がなくなっているそうだ。もちろん、増刷したらしたで単純にうれしいが、私としては近い将来大幅に増補改訂したいという気持ちがある。理由は、ある程度内容を掘り下げようとしたために曲を絞り込んだことと、もうひとつは締め切りまでにSP、LPなどの現物(あるいは初版が手に入らず、やむなく再発売のもので代用したものもあった)が手に入らなかったものが多数あったからだ。

 ところで、話題はガラリと変わる。3月25日、スクロヴァチェフスキ指揮、読売交響楽団のブルックナーの『交響曲第8番』(東京オペラ・シティ)を聴いて、たいへんに感銘を受けた。近年聴いた演奏会のなかでも屈指のものだった。かつて客席で耳にしたマタチッチ/NHK交響楽団を上回ったかもしれない。これだけ創意と工夫に満ちていながらも、曲も持ち味を全く崩してないのは驚きだった。この日はどうやら録音が入っていたらしい。発売されるかどうかは不明だが、発売されたときのために、詳細な報告はあえて記さないでおきたい。ただし、これだけは書いておきたい。読響の真剣で真摯な演奏ぶりはすごかった。これだけやってくれれば、正直、そこらの海外オーケストラ公演はあえて行く必要がないと感じた。拍手。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

衣・職・住――サービス・ワークの労働市場と女性たち――『温泉リゾート・スタディーズ――箱根・熱海の癒し空間とサービスワーク』を書いて

文貞實

 1980年代、定時制高校の話――当時、筆者は朝鮮学校を卒業後、都内の都立高校の定時制に編入し大学進学の準備をしていた(当時、朝鮮学校から日本の大学へ進学する場合、「大検」を取るか、「通信」「定時制」などへ編入しなければならなかった)。定時制の同窓生は10代から50代まで幅広い年齢層だったが、理容院や製菓店、和菓子屋などの住み込みから製造業の生産ラインで働いていた。ロッテのガム工場で働いていたAさんは、工場長が15分、時計を遅らすために、毎回、授業に遅刻していた。新宿の花園饅頭で住み込みで働いていた20代後半のBさんは、中卒で入社した新人のCさんと一緒に定時制に再入学したという。当時、都会に出てきて働いていた同窓生たちの環境に正直驚いた。何よりも彼女らがバブル経済前夜の豊かさと全く無縁だったことである。また、彼女らを通して東京に「衣・職・住」がセットの仕事が意外に多く、製造業だけでなく、理容院、手打ちそば屋(飲食店)など寮完備の自営業の裾野が広いことを知る。
    *
  2000年代、公立中学校の教諭から聞いた話――冬休みに家出した生徒が繁華街でキャバクラのティッシュ配りをしているところを見つけた。小柄な中学生が大人に交じって、冬空の下でミニスカートの上にベンチコートを羽織ってティッシュを配る姿にすぐには声をかけられなかったという。当時、生徒はキャバクラの寮に20代の先輩と一緒に暮らしていた。迎えに来た教諭を前に、先輩女性が「捜してくれる人がいるうちに、帰りなさい」と諭したという。当時、15歳の少女の居場所は家庭でも学校でもなく、優しい先輩と一緒に暮らすキャバクラの寮だった。実際、自分の居場所を仕事に求める女子が増えているという。『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?』(三浦展、〔光文社新書〕、光文社、2008年)によれば、近年の格差社会の拡大のなかで、キャバクラ嬢になりたい女子が増えているという。その背景として同書では、低所得・低学歴の女子の仕事がサービスワークの非正規職に多いという現実とそれらのサービスワークが人に承認される仕事だという点をあげている。サービスワークは、もともと、自分のスキルを磨くことで、顧客から直接的に感謝される場面が多い仕事である。同書によれば、家庭環境や学歴など文化資本をもたない女子が自分の能力を磨くことで、他者から承認されるだけでなく、さらにお金を得られる仕事として、近年、キャバクラ嬢に関心が高まっているということらしい。同書ではふれていないが、そのようなキャバクラ(飲食店)の多くは寮完備である。このことも女子たちを引き付ける要因になっているのではないだろうか。
    *
  本書『温泉リゾート・スタディーズ』の話――本書の後半では、温泉リゾート地に観光ではなく、「衣・職・住」を求めてやってくる女性労働者に焦点を当てている。筆者がインタビューしたホテル・旅館の女性従業員(仲居さん)の多くが「衣・職・住」を求めて熱海・箱根にやってきた。彼女たちがハローワークや求人誌で仕事を探すときの第一条件は「住み込み」である。さらに、旅館では賄いの「食事」があり、「制服」の着用のため、着の身着のままで家を出てきた中高年の女性たちが飛び込みやすい仕事だ。しかし、初めての仕事に入るには、誰かの後押しが必要である。ある仲居さんは、テレビで『女は度胸』(NHK、泉ピン子主演)を観たのがこの仕事に入るきっかけになったと話していた。また別の仲居さんは、子連れで社員寮に入り、他の同僚たちが水商売や他の仕事に転職していくのを横目で見ながら、30年近く「辛抱、辛抱」と経文を唱えるうちにいつしか子育てを終え、結婚もさせ、孫まで抱けるようになったという。本書では、そのような仲居さんたちの熟練化(感情労働の主体化)についてふれたが、一方で、長時間労働やサービスワークに付随する感情労働の要請に応じられずに転職していった仲居さんたちの後を追うことはできなかった。自分の居場所を求めて、転職していった女性たちのその後の人生について考えるのは別の機会に譲る。
  最後に、刷り上がったばかりの本は真新しいインクや紙の匂いがする。その匂いのなかに、熱海・箱根で出会った仲居さんたちの人生の匂いが残っていたらと願う。

事後的にわかる研究動機――『植民地朝鮮の宗教と学知――帝国日本の眼差しの構築』を書いて

川瀬貴也

「どうしてそれを研究しているのですか?」「なぜそのテーマを選んだのですか?」
  この質問がいちばん苦手だった。しかし、人文系の研究をしていると、必ずこのような質問に遭うことがある。「面白そうだったから」というのは大前提なので、この質問はそういうことを聞いているのではなく、はたまた「誰もやっていないから(チャンスだと思った)」という功名心をぎらぎらさせた回答も期待していない(誰も手を付けていない、というのも大きなモティベーションの一つではあるが、「資料が少なすぎる」とか「あまり面白くない」からいままで誰も手を付けていなかっただけという危険性もあるので要注意)。
  教員となったいまは、聞かれるよりも聞く側になってこの問いを学生にしているが、この質問は実は、その研究をせざるをえない、その人の「実存的」なあり方を聞いている場合が多い。だから、この質問に簡単に答えることができないのはある意味当たり前。そして、このような質問をされるということは、少なくともその研究の面白さを伝え損ねていることが多いから、ますます聞かれた側はしどろもどろになってしまう。そして何よりも大きな問題は、「なぜその研究をやったのか」ということは、その研究にいったんけりをつけた時点で、事後的に(いくぶんの自己欺瞞をも交えながら)わかることが多いので、「いま答えろ」というのは実は酷なことなのだ。

 本書の「あとがき」に書いたが、僕が韓国研究に手を染めたきっかけは、指導教官の勧めと(指導教官のS先生は「広く東アジアに目を向けよ」と英語が苦手な教え子におっしゃってくださっただけで、韓国を選んだのは僕の選択)、幼少期の韓国体験である。
  もともと何事においても移り気な僕は、なかなか研究対象を絞ることができず、本書の内容もお読みになればおわかりのとおり、その時代のさまざまな事象をいわば「つまみ食い」して、なんとか「鳥瞰図」として仕立て上げようとしたものである。博士課程時代の最大の悩みは、そのテーマ(例えば教団や人物)一つで博士論文を書いてやろうと思える対象がなかなか見つからなかったことなのである(結局、そういうテーマは見つけられなかったので、本書のもととなるような博士論文を書くことになった)。しかし、もっと深い実存的なレベルを掘り起こせば、本書で取り上げたさまざまなテーマは、ある一貫性をもっている(少なくとも、研究動機には一貫性がある)と自分では思っている。それを自己分析すれば、以下のようなものだろう。
  まずは、韓国に幼少期に住んでいたといっても、韓国の歴史や言葉に本当に無知だったことへの反省がある。「あとがき」に書いたが、外国人が集住する地域で、ろくに韓国語を使うこともなく、ぬくぬくと「コロニアル」な生活をしていたことに罪悪感といわないまでも負い目は感じており、いずれもっと本腰を入れて韓国を知らなければ、と心のどこかで思っていたのは確かである。そして、大学院に入ってさまざまな韓国人留学生と交流をもった、ということも大きく影響していると思う。日本に来たばかりの留学生のお手伝いをする「チューター制度」というものがあり、僕は数人の韓国人留学生のチューターをしたが、彼らの話の端々に、1980年代の苦しかった民主化運動(当時留学にきていた人は、80年代後半期に学生運動を経験した人が多かった)の影が差していた。密輸した岩波文庫の『資本論』でマルクス主義と日本語を勉強した、と言う彼らの話から、いつしか僕は「ポストコロニアル」という、いままで抽象的にしか感じていなかった「流行」の用語の「生きた姿」を見るようになった。そして彼らと同じゼミ、自主的な研究会を繰り返し、ますますその思いは強まった。また、ネガティブな形ではあるが、「自由主義史観」やら「嫌韓流」といった流れも、僕の研究の背中を押したと思う。
「ポストコロニアル」というのは、俗で雑なまとめをすると「植民地状況が名目的には終わったにもかかわらず、生活のそこかしこに、いまだに植民地主義の名残が発見できる状態にイライラ・モヤモヤしている状態」ということだと思うが、僕の研究動機そのものがまさにポストコロニアリズムだったのだ、と見本刷りの本書をなでながら、自分で改めて得心したのだった(博士論文の口頭試問では、「なぜこのような対象を取り上げたのか」と質問され、しどろもどろだったのに)。

 なお、見本刷りが届いた日は、奇しくも僕の誕生日だった。僕の周りの人すべてに感謝するにはうってつけの日だった。

第26回 もっとセッション録音を!

 最近発売されたユベール・スダーン指揮、東京交響楽団のブルックナーの『交響曲第7番』(ファイン・エヌエフ/SACDシングルレイヤー=NF61202、通常CD=NF21202)を聴き、その演奏と録音のすばらしさに感動した。
  これがここまで成功したのは、やはりきちんとセッションを組んだ録音だからなのだろう(収録は2009年3月27、28日、ミューザ川崎シンフォニーホール)。以前は、製品として売るレコードは無人のホールか録音専用会場で収録することが常識だった。ところが、近年ではリハーサルと本番の両方を録音し、後日、傷のないテイクを編集するという方法が主流である。言うまでもなく、リハーサルと本番とでは会場の響きが全く異なる。それを電気的に加工してつなぎ合わせるのだから、音が不自然になることは容易に想像がつくだろう。それに聴衆の有無が演奏者に影響を与えることも考慮すれば、なおさらである。
  しかし現実的には、特にオーケストラのような大所帯を、演奏会とは別の日にセッティングして録音するのは膨大な経費がかかる。ことに最近のような不況だと、ますますこうしたセッション録音はできにくくなる。ただ、こうした回しっぱなしの録音は、晩年のギュンター・ヴァントのような高齢の演奏家の負担を減らすことができるという利点もある。けれども、このような場合は特例と捉えた方がいいのではないだろうか。
  技術者は現在の技術を駆使すれば不自然な音にはならないと考えているようだが、実際は全くそうではないと思う。たとえば、1960年代、70年代のアナログ時代に録音されたオーケストラの録音を聴いていると、譜面をめくる音、弓が譜面台に触れた音、弱音器を床に置いたと思われる音、椅子がきしむ音、靴音などなど、実にさまざまな演奏ノイズが入っている。これらは入っていて当たり前なのだが、驚くことにこうした音は最近のCDからはほとんど聴こえてこないのである。おそらく、技術者が懸命になって除去しているのだろう。そういったノイズはない方がいいのかもしれないが、この操作によって必要な響きの成分までもが犠牲になっていると推測できる。
  私が最も嫌いなのは、ライヴとはとても思えないライヴ録音である。演奏中の会場は不気味なほど静かであり、奏者もむしろ淡々と弾いているが、演奏が終わるやいなや盛大なブラヴォー。しかもこのブラヴォーは音楽が鳴っているときよりもはるかに臨場感豊かに響いている。正直、こんな不自然な拍手ならば、カットしてくれた方がよほどましである。
  ファイン・エヌエフは、このスダーンに限らず長岡京室内管弦楽団などもすべてセッションで収録している。他のレーベルでセッション録音を積極的におこなっているのはエクストンだろう。たとえばエド・デ・ワールト指揮のR・シュトラウス、ワーグナー、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮のブルックナー、ストラヴィンスキー、小林研一郎指揮のチャイコフスキーの『交響曲第5番』(アーネム・フィル)など、絶賛されるべき内容のものは多い。また、ちょっと一般的ではないが、エクストンから発売中の“ダイレクト・カットSACD”、1枚2万円の高額盤だが、これが言葉を失うほどすごい音が出てくる。私はいままでにデ・ワールト指揮の『ツァラ』(OVXL00020)、ズヴェーデン指揮のブルックナーの『交響曲第9番』(OVXL00014)、同じくズヴェーデンのストラヴィンスキーの『春の祭典』(OVXL00007)を購入したが、2010年にはさらに2、3枚手に入れようと思っている。
  オーケストラ音楽はやはりクラシック音楽のなかでも最も注目される分野である。したがって、2010年はオーケストラのセッション録音がひとつでも多くおこなわれ、さらにそれらがSACDという優れたフォーマットで発売されることを期待したい。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第25回 ミュンシュのライヴ

 この年末にパリ管弦楽団発足ライヴ録音(1967年11月14日)がアルトゥスから発売される(ALT182)。指揮はシャルル・ミュンシュ。当日のプログラムはドビュッシーの『海』、ストラヴィンスキーの『レクイエム・カンティクルス』、ベルリオーズの『幻想交響曲』だったが、このディスクにはストラヴィンスキー以外の2曲が収録されている。
  この演奏について宣伝文を書いてくれと依頼されて、私は以下のように書いた。「これは人間の演奏ではない。神と悪魔が手を組んだ饗宴である。大爆発、驚天動地、未曾有、空前絶後、千載一遇――こうした言葉をいくつ並べてもこの演奏の凄さを言い表すのに十分ではない。トリカブトの百万倍の猛毒を持った極めて危険なライヴ録音」
  私は、このなかから適当に選んでくださいと言ったつもりだったが、レコード会社はそのまま全部使用したようだ。これを読んだある人が、「ものすごいキャッチを書かれていましたねえ」と言っていたが、これは決して大げさではない。さらに言えば、これは過去10年20年に発掘されたライヴのなかでも突出して輝いているのだ。
  私はミュンシュという指揮者にそれほど強い思い入れはない。パリ管弦楽団発足を記念してEMIに録音されたベルリオーズの『幻想交響曲』、ブラームスの『交響曲第1番』も高く評価されるべき演奏だとは思うが、決して自分にとっての最高峰ではない。しかし、今回のライヴを聴き、このミュンシュという指揮者について、もう一度きちんと聴き直したいと思わせられた。とにかく、各パートが生き物のように動き、オーケストラ全体からは信じがたいエネルギーが放射されている。単に燃えているという言葉では言い尽くせず、取り憑かれていると言ってもまだ不十分だ。特にベルリオーズを聴いて思ったのだが、この約1カ月前のEMI録音と、その細部の表情がかなり違っていることである。つまり、この1カ月の間に、ミュンシュはまだ試行錯誤していたのだ。もうひとつは、これだけ荒れ狂っているのに、それほどオーケストラが乱れていないことだ。シェルヘンやアーベントロートのライヴのなかには、オーケストラが崩壊したかのような場面が含まれているものもあるが、それらと比べると、このミュンシュ盤の演奏は本当に個々の団員が棒に食らいついているのがわかる。
  この日は、フランス国内はもとよりヨーロッパ各地から各界の重鎮が列席していたことだろう。そのため、指揮者も楽団員もやる気満々だったことは想像に難くないが、それでも、これだけ空恐ろしい演奏が繰り広げられたというのは奇跡とも言うべきものだ。

 話題はがらりと変わる。けさの新聞を見たら、「ビートルズのモノーラル・ボックス、在庫僅少、お早めに」なんて広告が出ていた。そこには「モノーラルで聴いてこそ本当のビートルズの音がわかる」といったキャッチコピーがあった。これを見て、即座に自分が先日発売した『クナッパーツブッシュ/ウィーンの休日』(GS-2040)を思い出した。すでに買っていただいた方はおわかりだろうが、このCDにはモノーラル録音をあえてボーナス・トラックに加えている。ビートルズの広告にあるように、「モノーラルでなければ本当の良さがわからない」とまでは言わないが、このビートルズの広告が私の仕事をも評価してくれているような気がして、ちょっとうれしかった。あ、宣伝で申し訳ない、このGS-2040も在庫僅少です。

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

想像力を刺激する音を求めて――『クラシック名盤名演奏100』を書いて

平林直哉

 今回上梓した『クラシック名盤名演奏100』だが、このなかには自分が制作したCDがいくつか含まれている。なぜ、こうしたCD制作を始めるようになったのか、そのきっかけについては旧著『盤鬼、クラシック100盤勝負!』を読んでいただきたいのだが、もうひとつ私が日頃から気をつけていることがある。それはCDの解説書である。
  LPを買い始めた頃、あの見開きのデラックス・ジャケット盤はあこがれであった。わくわくして、神妙に見つめていた。そこに書いてあることがまだ完全に理解できたわけではないが、読めばなんとなく偉くなったような気がした。写真類もあれこれと掲載されていた。たとえば、ベートーヴェンが生きていた頃の街並みとか、作曲家が作品を仕上げた別荘、あるいは録音セッション風景、アーティストとその家族の写真とかである。それらを見て、あれこれといろいろなことを想像したのであり、こうした行為はいま思い出しても実に楽しい日々だった。
  ところがこの時代、CDも「安ければよし」という風潮に染まっている。CDを作ったことがある人にはわかりきったことだろうが、この解説書(ブックレット)はコストが高い。したがって、制作者が真っ先にこれをカットするのは十分に理解できる。けれども、何も書いていない、あるいはありきたりのことがごく少量書かれているだけとか、そんなCDを手にすると、少なくとも私は聴く意欲がさほど湧いてこないのである。
「文藝春秋」2009年12月号には「ユニクロ栄えて国滅ぶ」という浜矩子氏の一文が掲載されていた。その内容をごくおおまかに言えば、利益がないに等しい商品は賃金を低くし、消費はさらに低迷し、結果として生活を圧迫する悪循環を生むというものである。この文に追従する形で同誌2010年1月号に、作家の塩野七生氏が「価格破壊に追従しない理由」を寄稿していた。塩野氏は「価格破壊は文明の破壊」と位置づけ、その理由を「想像力の欠如」としている。たとえば、塩野氏自身は高価なハンドバッグを買うと、これに合う服は何か、あるいはどういうスタイルで持てばいいのか、と想像力が刺激されるというのである。そして印象的だったのは、塩野氏の「想像力とは筋力に似て、使わないと劣化するという性質を持つ」という言葉だった。さらに自身の創作についても、「損をさせません、と言える作品を書くには、頭脳と時間とおカネは充分に使う必要がある」、だから結果的に高くならざるをえないとも結んでいる。
  私がこれまでに作ったCDのブックレットには、埋もれさせておくには惜しい原稿を再使用したり、海外の文献を訳してもらったり、さらにはCDのために新規に依頼したインタビューを掲載したことも少なくない。要するに時間とお金はそれなりにかけているのである。こうした文章のなかには、たとえば「クナッパーツブッシュの地鳴りのような音」とある。これはいったいどんなものだったのか想像したくなるに違いない。また、「フルトヴェングラーの指揮で同じ曲を何度も演奏しても飽きなかった」というのはなぜなのか、その理由を多少なりとも考えたりするのではないだろうか。
  あしらいに使用したプログラム類にも気を遣った。ときには「なんでこんな薄っぺらい紙切れ1枚にあんなに高額を払ったのだろう」と後悔することもあったが、このプログラムを手にした人はどんな職業だったのかとか、その人はどれほどの感慨を抱いて帰路についたのかといったことに思いをめぐらせていくうちに、そうした苦労は次第に忘れてしまう。
  表紙に使用するアーティスト写真も重要である。いくらPD(公的所有物)音源とはいえ、先人たちの数々の苦労によって生み出された音源を拝借してCDを制作するのである。そこに、ありきたりの写真を使用することなど、とても失礼ではないか。手抜きブックレットにすれば、おそらく現在の倍以上のペースで発売することも可能である。しかし、そうしてしまえば、それこそ自分の想像力が一気に低下してきそうである。
  物書きなのにこんなにCD制作をしていていいのか、とときどき思う。でも、そうした作業を通じて、原稿に生かせるものをたくさん吸収していることも事実である。物書きとCD制作を通じて、最近特に強く思うことがある。それは「世の中には自分の知らないことが多すぎる」である。

ヴァーグナーを(で)笑え?――『ヴァーグナーの「ドイツ」──超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ』を書いて

吉田 寛

 先日、私の勤務先の大学で、フランス人とカナダ人の研究者と一緒にランチをする機会があった。前者はフランスから集中講義のために来ている哲学研究者で、私とは初対面、後者はフランス語圏カナダ人の政治学・経済学者で、私の同僚である。その場にいた私以外の全員がフランス語を話せるが、私はフランス語を話せないので、私が会話に加わると全員が(バイリンガルであるそのカナダ人以外にとって不慣れな)英語にスイッチしてくれる。だから、以下で紹介する会話は英語でおこなわれたものだ。
  最初の自己紹介の折に、その場にいた私の別の同僚(日本人)が、私が最近ヴァーグナーについての本を出版したことをそのフランス人研究者に伝えた。おそらくはそのためだろうが、そのランチの途中で(文脈は忘れてしまったのだが)ヴァーグナーの話題になり、フランス人研究者は私に「ウッディ・アレンのヴァーグナーに関するジョークを知っているか?」と尋ねてきた。彼の口ぶりではかなり有名なジョークらしく、いかにも当然知ってるよね?といった感じで聞かれたのだが、私は本当に知らなかったし、その場の日本人は全員知らなかったようだったので、せっかくなので(話題を流すこともできたのだが単純に知りたかったこともあり)教えてもらうことにした。
「私はそんなに長くワーグナーを聴けない。ポーランドを征服したくなる衝動にかられるから」というのがそのジョークである。後で調べたところ、ウッディ・アレンの『マンハッタン殺人ミステリー』(1993年)という映画に出てくるせりふらしい。フランス人研究者はこれをわれわれに紹介して、隣のカナダ人研究者と一緒に大爆笑。ただ私は(他の日本人もおよそ同様だったが)意味はわかるが、どこが面白いのかわからず、つられて苦笑するのがやっとであった。
  さて、この日のランチ以降、現在まで私が解決できていない問題は、この「笑い」のギャップは何だったのか、ということだ。言うまでもなく、ポーランドを侵攻したヒトラーがヴァーグナーを好んで聴いていた、という歴史的事実(およびそれに関する知識)が、このジョークの「意味」を形成している。だが、そのジョークで「大爆笑」できるかどうかは(すべてのジョークがそうであるように)、そうした「意味」とはまったく別の次元にある。意味がわからなければ(普通は)大爆笑はできないが、意味がわかったからといって(私がそうだったように)大爆笑できるとはかぎらないのだ。そして想像するに、私の周りの人々(分野は様々だが大半は日本人の研究者)はそのジョークの意味は理解できるはずだが、それを聞いて大爆笑はしないはずだ。ちなみにそのカナダ人の同僚は、日頃の笑いのツボはわりあい私と似通っているのだ。
  これは単にジョークや「笑い」に対する国民性の違いなのか(いわゆるフレンチ・ジョーク?)。それともとりわけ日本人が第二次世界大戦の影をまだ引きずっているからなのか。あるいは(その映画を見ていないから何とも言えないのだが)、歴史の大きな暗部をも「大爆笑」に変えてしまうウッディ・アレンの才能が特別なだけなのか。それはわからない。とにかく私はいま、ヴァーグナーなるものの本質は依然としてまったく謎だなあと落胆しており、だがそれと同時に、その日に目にした「大爆笑」が未来に向かうどこか明るい兆しであるような気がしている。
  ところで、私が『ヴァーグナーの「ドイツ」』をお送りした方々のひとりに、同年代の友人で、ドイツに留学してベートーヴェン研究で博士学位を取った新進気鋭の音楽学者がいる。その彼は、本を受け取ると即座に丁寧な御礼のハガキを私に送って寄こし、しかもそのハガキにヴァーグナーをあしらった絵葉書を用いる、という小粋なプレーを演じて私を脱帽させた。その絵葉書には「ヴァーグナーの音楽は聞こえほど悪くはない(Wagner’s music is better than it sounds)」というマーク・トウェインの言葉がドイツ語と英語で併記してある。
  さあ、またしてもヴァーグナー・ジョークだ。要は、何だかんだ言っても結局はひどい音楽だ、というわけである。しかも驚いたことに、後で本人の口から聞けば、この絵葉書はバイロイトのヴァーグナー記念館で買ったものだという。確かにそう聞いたうえでよく見ると、それまでは気付かなかったが、背景の絵は祝祭劇場のバルコニーと思しき場面であるし、隅っこに小さく「バイロイト:リヒャルト・ヴァーグナー祝祭」と印刷されてもいる。だが、バイロイトでこのような絵葉書をこっそり(かどうか知らないが)売ってしまうユーモアの感覚は、先に紹介した「大爆笑」とは違う意味でだが、やはり私には(その友人も同様の感想を述べていたが)理解しづらいものであり、また意外でもあった。一般的には日本人以上に「お堅い」と言われるドイツ人もなかなかやるじゃないかという感じだ。
  こうしたユーモアやジョークの感覚、あるいはその効果としての笑いは、先に述べたように、表面的な知識や解釈の層ではなく、人間の心のより深い部分に根ざしている。したがって、それを分析対象として捉えて、言語化し、議論の俎上に載せることは容易ではない(昨今のいわゆる「お笑い論」のようなものがしばしば失敗しているのはそのためだろう)。だがそうした部分にまであえて踏み込まないと、今日において本当にヴァーグナーについて考えたこと、論じたことにはならないのではないか、と私は、以上で記した体験を踏まえて、いま痛感しているところだ。次にヴァーグナーについての本を書くときには、ぜひこうした「笑い」の心性までをも視野に入れてみたいと意気込む一方、どうせジョークそのものの力には勝てないのだからと諦めてもいる。だったらいっそのこと新しいヴァーグナー・ジョークの1つでも作ってやるか、という野心はかえって身の程知らずだろうか。

現場で会える、きっと。――『スポーツライターになろう!』を書いて

川端康生

 本書のお話をはじめにもらったのは2006年春のことだったから、3年以上前になる。当時はちょうどドイツ・ワールドカップの直前。多忙さを言い訳に頭の隅の、さらに隅の方にうっちゃっているうちに時は流れ、ワールドカップが始まり僕はドイツへと旅立ち、興奮と熱狂の1カ月を過ごすうちに、ついに頭の隅からもこぼれ落ちた。ひどいことに忘れてしまったのである。
  依頼された「スポーツライターになろう」というテーマに、正直に言ってさほど食指が動かなかったせいもある。スポーツ選手になるのではなく、「スポーツライター」になる以上、やるべきトレーニングは決まっている。ライターとしての技術、つまり日本語の文章技術を身につけることである。ライター志望者ならそんなことはわかっているに違いないし、わかっているだけじゃなくそれなりの技術はすでに持っているはず。だとすれば、改めてアドバイスすることなどさほどないのではないかと感じていた。「わざわざ何を書けばいいのだろう?」と首を捻っている面もあった。

 そんな不誠実で懐疑的な僕が、それも3年以上もたったいまごろになって、今度は自分から「もしよかったら書かせてください」と申し出て本書に取り組んだのは、この間にスポーツライター志望者に対する認識を改める経験をしたからだ。
  2007年に、Jリーグの湘南ベルマーレの賛同を得て「スポーツマスコミ塾」を開講した。受講資格は高校生以上の男女。要するに10代や20代の学生から社会人まで、様々な立場や境遇のスポーツライター志望者と向き合うことになったのだ。
  そんななかで実感したのは、スポーツファンとスポーツライターとの一線に無頓着な志望者の多さだった。「スポーツライターになりたい」と言いながらほとんど本を読んでいない者、文章を書こうとしたことがない者、そういう受講者が少なくなかったのだ。
  なんのことはない。スポーツライターという職業の根幹である「書く」ということに対して無自覚なままに「スポーツライターになりたい」と願っているのである。もちろん、そんな願いが叶うことはありえない。
  だからスポーツマスコミ塾では最初の講義で「サッカー選手はボールを足で扱う仕事ですよね。ねらったところにボールを蹴るためにキックの練習をしますよね。その前に90分間走れる体力が必要ですよね。そのためにサッカー選手がトレーニングしているのはご存じのとおり。では、スポーツライターとはどんな仕事でしょう?……ならば、どんなトレーニングが必要でしょう?」と必ず問いかけるのが恒例になっている。
  そして毎講義(自主トレと称して)課題を出して、原稿の提出も求めるようにしている。とにかく「書く」ことに慣れてもらうためである。できるだけ原稿を書く機会を作るようにして、スポーツファンからスポーツライターへと塾生の意識を変え、スキルを身につけてもらおうと腐心しているというわけだ。
 そんな経験を反映して書いたのが本書である。だからスポーツマスコミ塾での講義と同じ流れで構成されている。まずは意識改革。スポーツ選手でもスポーツファンでもなく、スポーツ「ライター」になるのだという自覚を持ってもらうことからスタートし、それから「取材」や「企画」といったスポーツライターとしての専門技術へと進んでいく。
 同時にハウツーめいたことから営業や収入といった下世話なことまで、スポーツライターがどんな世界なのかを知ることができるように具体的なエピソードも挿入しながら紹介した。スポーツライターとして押さえておくべきことはひととおり網羅したつもりである。
 もちろん本気で「スポーツライターになろう」と思えば、まず書かなければならない。書けば書くほど必ず上達していくことは塾生たちを見ていても明らかだ。真面目に自主トレをこなし、原稿を書くことに慣れた者は必ずうまくなっていくのである。
 ちなみにスポーツマスコミ塾の受講生のなかからも、すでにプロのスポーツライターとしてデビューした者も出ている。やっぱり本気で「スポーツライターになろう」とした塾生である。本気で取り組めば、必ず原稿が書けるようになり、実力があればチャンスは意外に巡ってくる、スポーツライターとはそんな世界なのだ。
 本書を読んでスポーツライターを目指した本気のあなたと現場で会える日だってきっとくると僕は信じている。