自然体の軽やかさ 追悼・熊谷元一先生―― 『写真家・熊谷元一とメディアの時代――昭和の記録/記憶』 を書いて

矢野敬一

 手元からいつの間にか小型のカメラを取り出し、シャッターを切る。その所作がいかにも自然で軽やかだ。だからこそ被写体も構えることなく、写真に収まる。10年ほど前のことだろうか、筆者が見た熊谷元一先生の撮影場面での印象だ。熊谷元一写真賞授賞式の後、かつて先生が勤務したこともある長野県阿智村の小学校でのことだった。自然体が身についたその姿は熊谷先生の生き方そのものだ、と改めて思ったことがいまも印象に残っている。
  大型のカメラとたくさんの機材を使って、構図一つ決めるのにも時間をかける撮影方法もある。しかし熊谷先生のやり方は、およそその対極といってよい。先生自身、その仕事を三足のわらじ、と言っていた。小学校教師、童画家、そして写真家の三つだ。だが写真家については、絶えず自分はアマチュアだ、ということを強調されておられた。そしてアマチュアでしかできない仕事を自分はするのだ、ということも。先生の写真家としての仕事の軌跡を見ていると、アマチュアに徹したことのすごみ、さえ感じる。
  代表作の岩波写真文庫『一年生』は、小型のキヤノンⅡDで主に撮影した。フラッシュは用いない。撮影という点では、かなり制限があったことになる。だが受け持ちの新入生を被写体とする一年に及ぶ撮影の日々は、いきいきとした子供たちの姿をカメラに収めることに成功した。一発勝負、ではなく時間をかけて関係性を築き上げ、その可能性をフルに活かすというのが、熊谷先生の撮影手法といってよい。根気強い撮影ができるアマチュアならではのやり方だ。
  それは自分の生まれ育った村を被写体とし続けたことにも通じる。戦前、若き小学校教師時代に朝日新聞社から刊行された写真集『会地村 一農村の記録』から、その写真家としてのキャリアは始まった。当時、郷土という問題が注目されていたこともあり、この本は一躍脚光を浴びる。戦後になると、今度は農村婦人の問題がたまたま社会問題となっていたこともあり、岩波写真文庫から『農村の婦人』を刊行する。だがその後社会問題となった過疎や出稼ぎといったジャーナリスティックな被写体は、ことさら追い求めることはなかった。そういったこともあって、絶えず日常の生活を記録し続けても写真集として刊行する機会を得ない年月がその後続く。普通なら、そこで撮影を中断なり断念してしまうだろう。それをしなかったところが、熊谷先生のアマチュアとしての足腰の強さだ。昭和50年代以降になると昭和を回顧する機運の高まりとともに、熊谷先生の写真は時代の証言者として再び注目される。そして『ふるさとの昭和史』での日本写真協会賞功労賞、『熊谷元一写真全集』全四巻での毎日出版文化賞特別賞他、多くの受賞につながっていく。
  なぜ熊谷先生にだけは、こうした仕事ができたのか。先生の口からよく出たのは「~をするとおもしろいんではないか」という言葉だ。そんな軽やかな自然体で「おもしろさを見つける達人」だからこそ、ありきたりの暮らしのなかからもおもしろさを見逃さず、被写体にし続けることができたのではないか。そうした姿勢は童画家としての仕事、教師としての仕事にも一貫していた。童画家としての代表作『二ほんのかきの木』は、カキの木を中心として、村の一年の生活を風情豊かに描いた作品だ。あたりまえすぎる題材におもしろさという生命を吹き込むという姿勢は、ここにも息づいている。教え子との関係も、そうだ。自然体で接するなかから、その後教え子とのコラボレーション『五十歳になった一年生』や『一年生の時戦争が始まった』が生み出されていった。
  そうした日常の暮らしの現場からおもしろさを見出し、70年以上にわたってカメラや絵筆でつぶさに写しつづけてきたまなざしが、閉じられた。熊谷元一、享年百一歳。最後にお目にかかったのは、今年七月。誕生日のお祝いにご挨拶に行った折だ。もうその温顔に触れることができない寂しさを胸に、先生のご冥福をお祈りする。

ライトノベルの歴史に向き合って――スタンスをめぐるあれこれ

――『ライトノベルよ、どこへいく――一九八〇年代からゼロ年代まで』を書いて

山中智省

 言説資料を手がかりにライトノベルの歴史と動向を捉え直す。そんな本書の試みをいま一度振り返ってみると、あらためて実感するのは歴史認識と資料選定の重要性、あるいはその難しさである。
  例えばライトノベルの歴史をめぐる議論のなかで、「歴史のスタート地点をどこに見出すのか?」という問題は避けて通れないものだろう。これに対して「それは○○年/年代からだ!」と即答できる方もいるかもしれない。しかし「答えに迷うなぁ…」という方もけっこう多いのではないだろうか。当然「ライトノベルの歴史」と言っても、いつ、どこから、どのように捉えるかによって、浮き彫りになる歴史は様々に形を変えうる。場合によっては数百年前、それこそ『源氏物語』の時代にまでさかのぼってみることも不可能ではないのだ。したがってライトノベルの歴史に向き合おうとすれば、まずはそのスタンスを明確にすることから始めなければなるまい。
  私も学生時代、本書のもとになった修士論文執筆時にこうした作業をおこなったものの、いざ考え始めるとこれがなかなか難しい。スタート地点ひとつとっても、朝日ソノラマ文庫や集英社コバルト文庫の創刊、新井素子や氷室冴子といった作家がデビューした1970年代か、はたまた角川スニーカー文庫や富士見ファンタジア文庫の創刊、神坂一『スレイヤーズ!』(富士見ファンタジア文庫)が登場した1980年代末頃か………これまでの指摘を踏まえると様々な候補が思い浮かぶ。さて、どうしたものか。すでに収集済みだった資料と向き合いながら悩んだ末、今回は冒頭で述べたテーマとカルチュラル・スタディーズの応用である文化研究のスタンスを軸に、ライトノベルという名称が誕生したとされる時期に絞り込むことで落ち着いた。
  しかし安心したのも束の間、続いては資料の選定作業が待ち構えていて、こちらも一筋縄ではいかなかった。どのような資料をそろえるか次第で歴史の見え方も変わってくる以上、選定作業は万全を期したいと考えていた。とはいえ、掲げたテーマに沿う資料は非常に膨大で、ある時は市立図書館で「活字倶楽部」や「SFマガジン」を、県立図書館で「出版月報」や「出版指標年報」を10年から20年分閲覧請求し、またあるときは国会図書館で「電撃hp」や「ザ・スニーカー」のバックナンバーを読み漁り………気がつけば図書館めぐりに明け暮れる日々。かさむ交通費とコピー代。新たに収集する資料も次から次へと増えていき、果てしない宇宙をさまようごとく途方に暮れたこともしばしばだった。
  そんなときは恩師・一柳廣孝先生やゼミメンバーから「ちゃんと絞り込もうね~」とのあたたかい(?)助言をいただきつつ、先の歴史認識を考慮したうえで「特定の小説群が「ライトノベルとして」語られた言説資料」という枠組みで収集するよう努めた(とは言うものの、興味深い資料を見つけるとついつい集めてしまったのだが)。そういえば、かつてゼミの先輩からこうした作業について「それが決まれば研究の6割から7割は終わったも同然」と言われたのを憶えている。誇張もあると思うが、要するに「研究の6割から7割」を占めるほど重要性が高いというわけで、いま思えば苦労して当然のことだったわけだ。そうした苦労の果てに本書があることを思うと、いまさらながら感慨深い。
  さて、以上の過程を経て紡ぎ出されたのが、本書で示したライトノベルの歴史と動向である。今回浮き彫りになった事柄によって、これまでのライトノベルを捉え直す、あるいはこれからのライトノベルの行く先を考えるきっかけにしていただければ幸いである。また今後のライトノベル研究のなかで、ジャンル認識や文学/文芸観の変遷をめぐる議論の叩き台として本書をご活用いただけたなら、著者としてこれ以上の喜びはない。

 最後にもうひとつ。本書のために素敵なイラストを描いてくださったゼミの大先輩・佐藤ちひろさんに、あらためて深く感謝申し上げます。内容と見事にシンクロしたイラストの魅力を、読者の方々もぜひご堪能ください!

第35回 スクロヴァチェフスキのブルックナー『第7』

 10月15日、東京芸術劇場でおこなわれたスタニスワフ・スクロヴァチェフスキ指揮、読売日本交響楽団の演奏会に行った。曲目はシューベルトの『交響曲第7番「未完成」』とブルックナーの『交響曲第7番』である。
  席は2階RBD席の前の方。ベストだと思って買ったのだが、実際に座ってみるとちょっと前すぎた。中低弦がやや弱く、金管ではホルンが若干強い。同じような失敗は10月8日、紀尾井ホールでのペーター・レーゼルでもやってしまった。まあ、両日の席とも極端に悪くはないが、思っていたのとはちょっと違う。これは、日頃招待券に依存して、買うことをあまりしていないので、感覚が鈍っていたのだと反省した。
『未完成』は辛口ですっきりした、とてもきれいな演奏だった。弦楽器の人数がかなり減らされていたのは自分の好みではないが(確か第1ヴァイオリンが10人だったか)、でも特に不満というわけでもなかった。
  休憩後のブルックナーはフル編成。第1楽章はいかにも壮大である。席の位置の関係もあるかもしれないが、今年(2010年)の3月に聴いた同じコンビによる『交響曲第8番』よりも音の厚みがいっそう増しているように思えた。オーケストラの細かなミスは散見されたが、ブルックナーらしい深い響きに浸れる喜びをかみしめることができたのである。
  第2楽章も非常に充実した、濃い音で始まった。ところが、4、5分経過したころだっただろうか、突然、自分の目の前に女子高生の顔が浮かんだ。そう、この2、3日前に解体工事現場の壁が崩れ、その下敷きになってわずか17歳の命を散らしてしまった女の子である。なぜこんなときにこの子の顔が、と一瞬たじろいだが、その理由がわかった。それは、開演前に読んだプログラムに掲載されていた宇野功芳のエッセイ「いいたい芳題」である。今回のテーマは「死という宿命、永遠への恐怖」である。このなかでは台本作者・中嶋敬彦氏の文章が引用されている。生まれ出たそのときから死に向かって歩むという宿命を負わされている人間に幸せなどないのではないか、人間は死があるからこそ救いがあり、世の無常から解き放たれるのだ、といった内容である。この女子高生の突然の死は家族や友人にとっては言いようもない悲劇だろう。でもこのエッセイのテーマに沿うならば、この子はほかの人よりも早く、この世の苦しみから解放されたのである。
  わずか1秒にも満たない時間にそんな思いがよぎったが、その瞬間から私にはオーケストラの音色ががらりと変わったように感じられた。とてつもなく崇高だが、限りなく悲痛な音のように。むろん、実際の舞台では特に大きな変化はなかったはずだ。ただ、自分のなかで何かが起こっただけなのだ。
  このことが何を意味するのかは、私にはわからない。もしもこの日の演奏会評を依頼されていたら、自分には的確なことが書けないと思う。ただ、こうした現象が起こったのは、何よりも演奏が優れていたからだと、これだけははっきりと言える。
  後半の2つの楽章も立派だった。第4楽章ではあれこれと細かい操作をおこなっていた個所もあったが、いかにも不自然と受け取れるようなところはなかった。
  この15日と翌16日の両日、発売を前提に録音がなされたという。自分勝手なことを言わせてもらえば、私が聴いた15日の方が製品化されることを希望したい。特にその第2楽章がどうだったのか、改めて聴いてみたい。

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第34回 上岡敏之――ヴッパータール響の“意外な”アンコール

 10月12日、東京オペラシティの「ウィークデイ・ティータイム・コンサート11」に行った。内容は上岡敏之指揮、ヴッパータール交響楽団で、オール・ワーグナー・プロ。まず、『ジークフリート牧歌』に始まり、後半は『ニーベルングの指環』のハイライト。平日の昼間だからチケットなんかいくらでもあるだろうと思ったが、念のために当日の朝チケットセンターに電話した。すると、これがけっこう売れていたが、かろうじてそこそこの席を1枚確保する。
  開演前に指揮者の短い話があったのち、まず最初の『ジークフリート牧歌』である。弦の人数は全く減らさないフル編成。第1ヴァイオリンは14人か16人いたと思う。コントラバスは8人、これは客席からきちんと数えることができた。やはり、これだけの大きなホールであれば、この程度の人数でもぜんぜんおかしくない。以前、同じくフル編成でウラジミール・フェドセーエフがモスクワ放送交響楽団を指揮したチャイコフスキーの『弦楽セレナード』を聴いたことがあるが、厚ぼったいとか、重苦しいとか、そんなふうには全く思わなかった。むしろ、大編成のメリットの方を感じた。その点では今回の上岡の演奏も同じである。ただ、彼の解釈はあれこれと実にさまざまな工夫を盛り込んだものだ。作為的に思えた個所もないとはいえなかったが、全体としては個性豊かな美演奏という印象である。
  後半は「ワルキューレの騎行」とか「ジークフリートのラインへの旅」とか、おなじみの曲が演奏された。ただし、曲と曲との接続部分は耳にしたことがないものだった。これらの曲でも上岡は独自の解釈をみせ、オーケストラもそれによく応えていた。私がいちばんいいと思ったのは「森のささやき」で、次点は「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」だろうか。最後は「ジークフリートの死と葬送行進曲」。地味に終わるので、きっとアンコールは派手にやるだろうと予想した。『ローエングリン』第3幕前奏曲とか、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲あたりだろうと。やがて、予想どおりにアンコールが始まる。ところが、頭の中がすっかりワーグナー・モードに切り替わっていたため、何の曲かがわかるまで時間がかかってしまった。「??? これはワーグナーの……何だっけ? えーと、えーと、違う……あっ!、これは『英雄』の第2楽章じゃないか!」。気づくまでに12小節以上も経過していた。
  ベートーヴェンの『交響曲第3番「英雄」』の第2楽章をアンコール演奏した意外性にも驚いたが、もっと度肝を抜かれたのはその演奏内容である。テンポは恐ろしく速い。しかも、そのえぐり取るようなすさまじいエネルギーと狂気は晩年のヘルマン・シェルヘンのライブを思い起こさせた。十分にびっくりさせてもらったが、ふと頭によぎったこともある。
  それはふたつ。ひとつは前回来日したときに上岡が振ったベートーヴェンの『交響曲第5番』と解釈が違いすぎることだ。むろん、『英雄』とは曲も違うし、前回の来日から3年も経過しているので、違っても当たり前とも思えるが、私は一貫性のなさも少なからず感じた。
  もうひとつは、これだけ意表を突くアンコールというのは、メインの印象を希薄にするのではという危惧。それと、お客の側に芽生えてきそうなアンコールへの過度の期待である。もちろん、こうしたことを今後絶対にやってくれるなと言っているわけではない。自分も楽しませてもらったけれど、やはり気になることは気になると、ちゃんと書くべきだと思った次第である。
  いずれにせよ、このように書けるのも、上岡が注目すべき逸材だからだ。このあとの10月18日、ヴッパータール響とのマーラーも楽しみだし、今後予定されている日本のオーケストラとの共演も興味津々である。

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最新の名探偵ホームズがわかる本――『ホームズなんでも事典』を書いて

平賀三郎

 ホームズ100周年(1987年)のころには各社からたくさんのホームズ本が出版されたが、その後は繰り返しになったのか、出版業界の不況の影響を受けたのか、ホームズ研究本の新刊はやや滞った感がある。
 一方、日本シャーロック・ホームズ・クラブ(JSHC)が設立されて30年、その活動のなかで発表された国産研究も多い。欧米の先行研究や各種の解説についての再チェックが進んだのである。2000年ごろまでに活字になった本は、半世紀、四半世紀前に発表された欧米での研究レベルを出ないものが多いが、その後クラブのフォーラム、セミナーや支部例会で発表されたものにはなかなか充実した新しい研究がある。
 たとえば、作家のコナン=ドイルは、2人の夫人と5人の子ども全員に「コナン」の名を与えている。ミドルネーム・洗礼名としては、これはおかしい。家族全員がコナンを名乗っている事実は、ドイルに関する本を読んだほとんどのシャーロキアンは知っている。しかし、これが姓なのか名なのかは、欧米の研究では取り上げられているものがあるが、わが国ではJSHCの年次大会でもクラブの会誌でも公然と発表されてはいなかった。作家研究も、本人の自伝や子息の友人が書いた好意的な伝記が翻訳されているが、これだけを読んで、それを無批判に信用するのでは研究にはならない。どうやら自分の代から複合姓にしたようである。
 ホームズの愛好者シャーロキアンの特徴は、すなわちアイドルのファンクラブとの違いは、この「研究」にある。架空の人物が、あたかも18世紀から19世紀のロンドンで活躍した歴史上の人物のようにとらえ、事件簿全60編を読み解き、当時の地理・歴史・文化・社会上の事実に照らした作品研究をおこなうのである。もちろん、会員相互の親睦を忘れてはならないが、この「ホームズ学」こそ、事件簿が出版されて130年を経た今日まで読み継がれ、世界各国にシャーロキアン団体が結成されている最大の理由だろう。
 クラブも30年たった時点での国産研究の成果をとりまとめ、2009年に、平賀を編著者として会員13人の共著で『ホームズまるわかり事典』(青弓社)を上梓した。ホームズを読む人、これから研究する人を対象にして、JSHC内の発表のなかから出版にふさわしいものを選択し、 101項目を「読む事典」として編集した。約30年前に出版された『シャーロック・ホームズ雑学百科』(小林司/東山あかね編、東京図書、1983年)や、約10年前に編集された『シャーロック・ホームズ大事典』(小林司/東山あかね編、東京堂出版、2001年)などの会員による労作からは30年なり10年なり進んだ、新しい研究を反映させたものを目指している。
 代表的な辞典の『広辞苑』(新村出編、岩波書店、1955年)も版を重ねるたびに項目が入れ替わり、記述も補正される。そもそも事典は、最終不動のものではなく、学問や社会の進歩によって内容は次々と更新されるべきもので、その時点で最新のものであっても翌日から古くなっていく宿命にある。
 ホームズに関するその時点で最新の解説や研究の項目は、とても前著の101項目にとどまるものではない。今回は第2弾を『ホームズなんでも事典』として刊行した。大学教授や単著で出版している作家なども加わったシャーロキアン19人の共著で、103項目を所収している。
 冒頭は「青いガーネット」である。クリスマスの宝石盗難事件だが、わが国の「義理堅い」シャーロキアンのなかには「ガーネットは赤い宝石で、青いガーネットなどありえない、荒唐無稽な事件である」と批判する人がいたり、「本来は赤い宝石が青いからこそ珍しいのである」と擁護する人がいたが、鉱物学的に結論が得られた。宝石の色は微量の成分の差によるので、青いガーネットもありうるし、自然科学の発展途上であった当時、ほかの青い鉱物をガーネットと思い込んだ可能性もあるという研究書が発表された。「青いガーネット」はこの最新の研究に基づく項目である。
 次は「アビ・ハウス」。ロンドンを訪れたシャーロキアンが必ず立ち寄ったベーカー街221番地に立ち、1951年の英国フェスティバルで地元の区役所がホームズの部屋を復元して展示した建物である。しかし、最近再開発され、入り口に掲げられていたホームズの横顔のデザインのプレートも姿を消した。シャーロキアンにとって、ロンドンで必ず訪れる場所が失われ哀愁をさそう項目である。
 以下「ワトスンの結婚」まで、興味をもった項目から自由に読んでいただけるものとして編集している。

〈孤独〉という創造力――『写真の孤独――「死」と「記憶」のはざまに』を書いて

伊勢功治

『写真の孤独』という本書の書名は、書き下ろしの「写真の孤独――ジャコメッリと須賀敦子の出会いから」からとった。通常、原稿を書いた後に書名を付けるものだが、まず、最初にこの書名が頭に浮かんだ。これは私にとって、はじめての経験だった。自然に生まれたものだったが、〈孤独〉という言葉に格別の思い入れがあったわけではない。
  私にとって写真は〈死〉の表象として常にそばにあり、写真はいつも〈孤独〉とともにあった。これまで人の死や病、そして別れが写真についての文章を書かせたような気がする。写真は遺影のように〈記憶〉をよみがえらせ、立ち止まって書くことによって追悼してきたともいえる。本書に書いたもののほとんどがそうだった。そして、この書き下ろしの原稿を書くにあたり、誰をその中心軸にするかが最大の課題となった。
  あるとき、イタリアの写真家マリオ・ジャコメッリの神父たちを捉えた写真が目に飛び込んできたときに、はじめてこのテーマで書けるという確信のようなものを得た。
  また、須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』(文藝春秋、1992年)のなかのジャコメッリの写真との出会いに関する記述が筆を進める後押しになった。この2人の作家の根底には、詩から多くのインスピレーションを得て、世界を広げ、自らの作品に浸透させて生まれた結晶がある。
  私にとって須賀の最初のエッセイ『ミラノ 霧の風景』(白水社、1990年)は、私がブックデザインの仕事を始めた頃の記念碑的な本でもあったので、運命的な再会のようなものを感じた。出会いはいつも深層の〈記憶〉のなかから生まれる、そんな気がした。
  写真作家について知りたいという気持ちが、ひとつひとつの川を渡るように筆を進める力になったのは事実だ。写真評論を生業としていないため、興味のある写真家や写真だけを取り上げることができたことは、幸いだったといえるかもしれない。
  本書に収めた10年ほどの間の写真家についての文章を振り返ると、作家の写真に直接入り込むことを避けるかのように、詩や音楽、映画などを経由しながら、写真に近づいていったことがわかる。ときには筆を止め、思考が道草することもあった。迂回し、遠回りしながらいちばん落ち着く場所を見つける、これまでの自分の歩み方にどこか似ているような気がする。
  ジャコメッリに関する資料を集める段になって、日本では多木浩二と辺見庸の著作以外にないことがわかり、洋書を集めることになった。そのために多くの時間を費やしたが、ジャコメッリという写真家について知れば知るほど、一筋縄ではいかないその奥行きの深さに興味が湧いた。
  特に彼が、詩や美術といった他分野の芸術から敏感に、かつ深く感応する芸術家でありながら、一方で現実に真摯に向き合う姿勢に強く惹かれた。従来の写真の様式にとらわれることなく、最前線の流行からも自由だった。彼は孤独を愛し、〈写真の孤独〉こそが創造の源泉であった。
 
  洋書のなかで、Enzo Carliの Giacomelli, CHARTA, 1995 の冒頭でJean Claud Lemagnyが書いたIntroductionの日本語訳は、早稲田大学院生の今中菜々さんにお願いした。この場を借りてお礼を言いたい。

(本書のオノデラユキに関する文章のなかで書いた私の詩が「小見さゆりが書いた」と間違えて表記されてしまった。小見さゆりさんには深くおわびを申し上げます)

「賢治する」と鉱物や樹木と共感できる――『宮沢賢治と天然石』を書いて

北出幸男

  『宮沢賢治と天然石』のカバー表の写真は花巻農学校の教師時代、28歳の宮沢賢治。『心象スケッチ 春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』を出版したころで、作家として覇気と、おそらくは野望に満ちていた時期でした。鹿皮の陣羽織を仕立てなおした上着を着ていて、坊主頭や写真の雰囲気からはうかがいにくいのですが、けっこうおしゃれな人だったようです。
  カバー裏の石の写真は、1点は自然のいたずらで「愛の店」とも「愛の石」とも読めるソーラークォーツ、メノウを核に鍾乳石状に発達した水晶を輪切りにしたものです。世界全体の幸せを願った賢治に似つかわしいと思います。もう1点は切断したメノウに現れた天然の模様で、「見立て」の力を使うと氷山を背景に船が浮かんでいるように見えます。賢治の代表作『銀河鉄道の夜』にはタイタニック号の遭難事件で犠牲となった若者と彼に連れられた幼い姉弟が登場します。他者の救済のために自分を犠牲にしたこの事件に、賢治はいたく感動したようです。
  2点の鉱物の写真は石好きだった賢治が驚くようにと選んであります。偶然にもこれらの石をここで紹介できるようになったのは、不思議といえば不思議なことですが。
    
『銀河鉄道の夜』や『雨ニモマケズ』『風の又三郎』の作者として知られている宮沢賢治は、鉱物や地質学の専門教育を受けた民間の科学者で、短い期間、農村指導者として過ごしました。80年ほど前に現代的なフリースクールを創設したことでも有名です。
  賢治は霊視できる、幻臭を嗅ぐなど、生来のシャーマン的気質のために、容易に意識を変性させて向こう側へと行ってしまえる人でした。日常的な視覚を超えることで開けてくる世界を〈心象スケッチ〉とよび、幻想的で透き通った詩や物語を残しました。
  本書の第1部では、シャーマン的な気質のために生きることに難儀したこちら側での賢治の生涯を追いました。
  第2部ではシャーマン的気質と変性意識との関係を分析し、〈心象スケッチ〉は特異なものではなく、私たちも体験できることを検討しました。意識を変容させて賢治ふうの「行ってしまった景色」に遊ぶためのメソッドを付けています。
  第3部では、賢治と天然石に的をしぼり、彼が天然石をどのように眺めていたかを特集しました。蛋白石(オパール)・琥珀(アンバー)・玉髄(カルセドニー)・瑠璃(ラピスラズリ)・土耳古玉(ターコイス)など、賢治作品中の使用例を引いて、賢治と天然石の関係を解説しました。
  全体としてはポスト・ニューエイジの賢治論とでもいった味わい。「これまで誰も試みたことがない〈心象スケッチ〉の21世紀的解釈」となっています。
    
  ポスト・ニューエイジへのこだわりがぼくにはあって、宮沢賢治との出会いは、自分なりにそれを再考する機会になりました。
  日本ではオウム真理教事件以降、ニューエイジは地に落ちたようで、いまでは「スピリチュアル」という言葉も、幼児向けのガチャポンか女性誌の星占いと同程度に扱われています。「闇と暴力と混沌に満ちた世界ではなしに、透き通った愛と光にあふれた世界、精神の解放が水瓶座の時代なのである」(マリリン・ファーガソン『アクエリアン革命―― ’80年代を変革する「透明の知性」』堺屋太一監訳、実業之日本社、1981年)とうたわれたニューエイジはどこへいってしまったのか。このままでは、自分だけが得をすればいい、他人に迷惑さえかけなければ後は何だっていい、という風潮しか子どもたちの世代に残せないのではないか、といった心配は、ひとりひとりの人が「賢治する」ことで、その人のまわりから少しずつ解消されていくだろうと期待しています。
  ぼくと賢治とのかかわりは、本を1冊書いたから終わりというわけではなく、開催時期は未定ですが、今後は自分の店ザ・ストーンズ・バザールで「賢治と天然石展」のようなものを開き、ブログでは本書をまとめるにあたって省略した部分の紹介や、お気に入りの賢治作品のポスト・ニューエイジふう解説などを書いていこうと考えています。
  これらの情報には「ストーンズ・バザール」または「北出幸男」で検索するとアクセスできます。新刊の『宮沢賢治と天然石』をもっともっと楽しんでもらえるよう努めます。
  真昼の空や夜の月を眺め、草や木や石たちを眺めて、「きれいだなあ、おい」と、みんなのひとりひとりが言えるといい。

第33回 飯守のブラームス

 飯守泰次郎指揮、関西フィルハーモニー管弦楽団による『ブラームス 交響曲全集』(フォンテック、FOCD9476/8)が発売された。特に何も考えずに、まず「第1番」の頭を鳴らしてみた。すると、響きもたっぷりしていて透明感もある。「かなりいい音だ」と思った。ならば、とほかの3曲も同じく頭の部分をかけてみると、同傾向の音がする。録音機材でも入れ替えたのかと思って帯やら中の解説を見たら、これは最近には珍しくライブではなく、完全にセッションで録ったものだという。収録は2009年4月(「第1番」「第2番」)、10年3月(「第3番」「第4番」)で、場所は大阪のいずみホール。
  私はこのホールには一度しか行ったことがないが、響きのいい中ホール(座席は約800席)だったと記憶する。その響きを十分に生かしたのが今回の全集なのだが、私は猛暑にもかかわらず、ある日の午後に「第4番」→「第2番」→「第3番」→「第1番」という順序で、一気に聴き通した。
  出来のよさにあえて順位を付けるならば、「第1番」、「第2番」、「第4番」、「第3番」となるだろうか。たとえば第1番の冒頭部分、ここは数あるCDのなかでもすごく立派な部類に入る。悠然と堂々と鳴り響き、ティンパニもなかなか雄弁。ブラインド・テストをすれば、「ベーム? ザンデルリンク? クレンペラー? コンヴィチュニー?」なんて声が出てくる可能性がある。主部も実に余裕があり、展開部ではシューリヒトのようにテンポを遅くするが、ここも豊かな響きとあいまって、非常に効果的である。続いては第4楽章に感銘を受けた。たとえば、例の有名な主題が出てくるところ、ここも大変に質のいい音で鳴っている。
「第2番」は第1楽章がよかった。全くの正攻法ながら、弦楽器の響きもきれいだし、管楽器のソロもホールの中にきれいにこだましている。また、第2楽章のすっきりと、やや冷たい感触の雰囲気もよかった。この飯守の「第2番」は、演奏・録音ともに最近発売された小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラ盤(『ブラームス:交響曲第2番、ラヴェル:道化師の朝の歌、シェエラザード』ユニバーサルクラシック、UCGD-9011/2)をずっと上回っていると思う。
  第4番では第1楽章が個性的だった。ブラームス晩年の孤独を切々と訴えかけるように繊細に歌っているが、決して過度になっていないところがいい。第3楽章では積極的にティンパニを活躍させているのが特徴的だった。
  今後のためにも、いちおう問題点も指摘しておこう。たとえば「第3番」の第3楽章のように、オーケストラ自体にもう少し練り込んだ音が出ればいっそうよかったと思う個所がいくつかある。また、指揮の方では「第1番」の第2楽章や「第3番」の第1楽章のように、いささか無難すぎると感じるところもあった。
  とはいえ、全体的にはすばらしい瞬間がたくさんあり、今後の展開に期待がもてる。いずれにせよ、あえてセッションで臨んだ結果がきちんと出ている点は大いに評価したい。

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日記に見る雪中行軍の時代――『凍える帝国――八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』を書いて

丸山泰明

 今回博士論文を書籍にまとめるにあたって、いくつかの日記の記述を新たに取り入れている。これは博士論文を読んだ編集者の矢野未知生さんの、あれだけの出来事が社会にどのような衝撃を与えたのかわからず物足りないという批判に応えるものだったことは「あとがき」に書いたとおりだ。日記を資料として活用することにより、同時代の人々が雪中行軍をどのように受け止めたのかを生き生きと描き出せるのではないかと目論んだわけである。
  このような思惑から調査にとりかかったのだが、同時代の日記に雪中行軍の記述を探す作業は当初予想していた以上に苦労するところが多いものだった。雪中行軍隊が遭難した1902年(明治35年)の頃を記述した日記の公刊数が少なく、公刊されている日記があっても記述されておらず、記述があったとしてもごく簡単に書き留めたにすぎず取り上げるに至らないものもあったからだ。とはいえ、この苦労の見返りは大きかった。特に、陸軍大臣の寺内正毅や、陸軍省軍務局軍事課長の井口省吾といった陸軍中枢で関わっていた人物の日記に行き着くことができたのは有益であり、またこれまで存在に気づいていなかったことが強く悔まれた。この2人のほかにも本書では、跡見花蹊、中浜東一郎、近衛篤麿の日記を利用している。
  ところで、こうして調べるなかで行き当たった穂積歌子の日記は、非常に興味が引かれる記述ではあるものの、微小な事柄に入り込みすぎて論旨から離れてしまうので、残念ながら取り上げなかった。穂積歌子は実業家として有名な渋沢栄一の長女であり、法学者の穂積陳重と結婚した人物である。私のような民俗学を専攻している人間には、渋沢敬三の父篤二の姉、石黒忠篤の妻光子の母と表現したほうがなじみ深い人物だ。この穂積歌子の日記の1902年2月3日の個所には、「五時五十七分品川発汽車にて帰」った際に、「新宿より軍人一人乗合せたるが、青森へ今度の事件に付て行きたる人と見え、いろいろと話をなしたり」(穂積重行編『穂積歌子日記――明治一法学者の周辺 1890-1906』みすず書房、1989年、665ページ)と書き記されている。ここに出てくる「今度の事件」とは、八甲田山雪中行軍遭難事件のことを指していると考えて間違いない。このとき、新宿から乗り合わせた軍人とはいったい誰なのか。この日は清水谷実英東宮武官の一行が鉄道で青森へと向かっているが、当時の時刻表では青森行きは上野駅発午後6時なので品川駅発午後5時57分の汽車に乗っていたはずはない。穂積歌子はこの軍人とどのような会話をし、どのように批評したのだろうか。上層階級の女性の受け止め方として、とても興味が引かれるところである。
  穂積歌子の日記にはもう一つ気になる個所がある。それは同年5月28日の記述である。この日、穂積は「おくにさん」をつれて肺炎で熱を出した伯父をお見舞いに行った帰りに浅草に立ち寄っている。おくにさんこと大内くにとは渋沢栄一の妾であり、穂積より10歳年上だった。正妻の長女にとっての父の妾という存在は、横溝正史的大家族の世界ではとんでもない修羅場が巻き起こるはずの相手なのだが、そういうことはなく親しい間柄だったらしい。ともあれ、穂積はおくにさんと浅草で遊んだことを「浅草に立寄り花やしきに入り、次に珍世界に行き、エキス光線を見たり」(同書685ページ)と日記に書いている。この珍世界という見世物小屋で、2月19日から雪中行軍のジオラマが公開されたことは本書で述べたが、日記に書かれているのはX線の見世物だけである。ジオラマはもう撤去されていたのか。あるいは書き残されなかっただけなのか、残っていたのならば見てどのように思ったのか。非常にもどかしい。
  日記を探すために使った方法は、実に地道なものだった。勤務先の国立歴史民俗博物館の図書室と東京都立中央図書館、そして非常勤講師として通っていた学習院大学図書館の書架を歩き、背表紙を眺めて記述がありそうな日記を片っ端から開くというものだ。あらかじめ期待していたのに実際に読んでみると何も書いてなくてがっくりした人物もいる。原敬や森鴎外がそうだ。もしすべての書籍が電子化されれば、インターネットの検索でどの日記にどのような記述があるかはすぐにわかるようになるだろう。1冊1冊を開いて確認する作業は確かに手間がかかるし、なかった場合は資料を探すという目的の限りでは時間と労力を浪費したことになる。
  だが、ないならないなりに、寄り道する楽しさが紙の本にはある。日記を調べる作業は、しばしば当初の目的から離れて、この時代に生きた人々の日常を垣間見るものともなった。たとえば南方熊楠の日記から見えてくるのは、熊野の山中で観察と標本採集に連日没頭する姿だけだ。つい雪中行軍のことばかりに注目してしまいがちになるが、同じ時代に世事に惑わされずただひたすら微小な世界に生命の深奥を探ろうとした異能の博物学者もまた生きていたことにあらためて気づかされた。ある時期に集中して複数の日記を読むことはその時代を「輪切り」にすることでもあったのであり、その断面には様々な人々の多様な生き方が現れ出たのである。この時代の丸ごとの空気にふれることができたことこそが、日記を調べることによって得られた最大の収穫だった。

第32回 セヴラックのヴァイオリン曲

 先日、お店であるCDを発見した。帯の背文字に「プーレ」とあったので、ヴァイオリニストのジェラール・プーレらしいということはすぐにわかった。そのうえにサラサーテ、ファリャと並んでいるので、内容もだいたい想像はついたのだが、「セヴラック」とあったのには一瞬「?」と思った。それで裏を見ると、なんとセヴラックのヴァイオリン小品が3曲含まれているという。アルバムのタイトルは『ピレネーの太陽――セヴラック、サラサーテ作品集』(キングインターナショナル、KKC-28)。
  セヴラックはドビュッシー、ラヴェルと並ぶ天才と称されたのだが、彼自身は都会生活になじめず、終生南フランスにこもりっきりだった。主に知られているのはピアノ小品で、私も舘野泉が弾いたアルバム『ひまわりの海――セヴラック・ピアノ作品集』(ワーナー/フィンランディア、WPCS-11028、11029)は気に入って聴き、あちこちに書いた(ちなみに、この舘野のセヴラックは、目下のところ彼が両手のピアニストだった最後の録音である)。
  さて、その『ピレネーの太陽』のなかにあるセヴラックのヴァイオリン曲「ミニョネッタ」「セレの想い出」「ロマンティックな歌」は、どれも非常に魅惑的である。たった3曲というのはいかにも惜しいが、ほかにも同種の作品があったらぜひとも聴いてみたいものである。また、伴奏している深尾由美子が弾くセヴラックのピアノ小品も3曲含まれている。
  それ以外の曲はファリャの「ホタ」、ラヴェルの「ハバネラ形式の小品」、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」などのおなじみの作品が収録されている。これらの演奏も実に明るくしゃれていて、非常に聴き応えがある。古いヴァイオリニストのように決して形は崩さず、けれども決して薄味な感じがしないのはさすがにべテラン、プーレである。
  なお、知っている人にはくどい話かもしれないが、プーレの父ガストンはドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを初演した人である。初演のとき、ピアノ伴奏を受け持ったのはドビュッシー自身だが、息子ジェラールが父ガストンから聞いた初演にいたるまでの秘話は月刊「ストリング」2008年8月号(レッスンの友社)に掲載されている。興味のある方は一読なさるといい。
  いずれにせよこの『ピレネーの太陽』は、酷暑のなかに吹く涼風のようなアルバムだった。

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