第35回 スクロヴァチェフスキのブルックナー『第7』

 10月15日、東京芸術劇場でおこなわれたスタニスワフ・スクロヴァチェフスキ指揮、読売日本交響楽団の演奏会に行った。曲目はシューベルトの『交響曲第7番「未完成」』とブルックナーの『交響曲第7番』である。
  席は2階RBD席の前の方。ベストだと思って買ったのだが、実際に座ってみるとちょっと前すぎた。中低弦がやや弱く、金管ではホルンが若干強い。同じような失敗は10月8日、紀尾井ホールでのペーター・レーゼルでもやってしまった。まあ、両日の席とも極端に悪くはないが、思っていたのとはちょっと違う。これは、日頃招待券に依存して、買うことをあまりしていないので、感覚が鈍っていたのだと反省した。
『未完成』は辛口ですっきりした、とてもきれいな演奏だった。弦楽器の人数がかなり減らされていたのは自分の好みではないが(確か第1ヴァイオリンが10人だったか)、でも特に不満というわけでもなかった。
  休憩後のブルックナーはフル編成。第1楽章はいかにも壮大である。席の位置の関係もあるかもしれないが、今年(2010年)の3月に聴いた同じコンビによる『交響曲第8番』よりも音の厚みがいっそう増しているように思えた。オーケストラの細かなミスは散見されたが、ブルックナーらしい深い響きに浸れる喜びをかみしめることができたのである。
  第2楽章も非常に充実した、濃い音で始まった。ところが、4、5分経過したころだっただろうか、突然、自分の目の前に女子高生の顔が浮かんだ。そう、この2、3日前に解体工事現場の壁が崩れ、その下敷きになってわずか17歳の命を散らしてしまった女の子である。なぜこんなときにこの子の顔が、と一瞬たじろいだが、その理由がわかった。それは、開演前に読んだプログラムに掲載されていた宇野功芳のエッセイ「いいたい芳題」である。今回のテーマは「死という宿命、永遠への恐怖」である。このなかでは台本作者・中嶋敬彦氏の文章が引用されている。生まれ出たそのときから死に向かって歩むという宿命を負わされている人間に幸せなどないのではないか、人間は死があるからこそ救いがあり、世の無常から解き放たれるのだ、といった内容である。この女子高生の突然の死は家族や友人にとっては言いようもない悲劇だろう。でもこのエッセイのテーマに沿うならば、この子はほかの人よりも早く、この世の苦しみから解放されたのである。
  わずか1秒にも満たない時間にそんな思いがよぎったが、その瞬間から私にはオーケストラの音色ががらりと変わったように感じられた。とてつもなく崇高だが、限りなく悲痛な音のように。むろん、実際の舞台では特に大きな変化はなかったはずだ。ただ、自分のなかで何かが起こっただけなのだ。
  このことが何を意味するのかは、私にはわからない。もしもこの日の演奏会評を依頼されていたら、自分には的確なことが書けないと思う。ただ、こうした現象が起こったのは、何よりも演奏が優れていたからだと、これだけははっきりと言える。
  後半の2つの楽章も立派だった。第4楽章ではあれこれと細かい操作をおこなっていた個所もあったが、いかにも不自然と受け取れるようなところはなかった。
  この15日と翌16日の両日、発売を前提に録音がなされたという。自分勝手なことを言わせてもらえば、私が聴いた15日の方が製品化されることを希望したい。特にその第2楽章がどうだったのか、改めて聴いてみたい。

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