第19回 モノーラル・アレルギー

 今年に入って、自前のレーベルGrand Slamで初期ステレオLPからの復刻盤CDを2点発売した。4月にはクナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィル、ワーグナーの『ワルキューレ』第1幕全曲(GS-2033)で、5月はシューリヒト指揮ウィーン・フィル、モーツァルトの『ハフナー』、シューベルトの『未完成』、ベートーヴェンの『交響曲第2番』(これだけモノーラル)(GS-2034)である。この不況のなかにあって、すでに世に知られた名盤を新たにカタログに加えるのには多少心配もしたが、多くの方々のご協力もあってそこそこ順調に動いている。この次に発売するワルター指揮コロンビア交響楽団、ベートーヴェンの『田園』(GS-2035、5月27日頃発売予定)も同様になることを期待したいものだ。
  ということで、初期ステレオLPのCD化を進めるにあたり、この頃の演奏についてあれこれと調べているのだが、ちょっと面白いことに気がついた。ステレオLPは1955年頃から実用化されたが、ステレオ装置の普及に若干時間を要したせいか、しばらくの間はオリジナルのステレオ音源も、モノーラル盤とステレオ盤が並行してLP発売されていた。これはちょうどCDが登場した頃も同様で、「LP、CD同時発売」と記された雑誌の広告などを見かけた人も多いだろう。
  その初期LP時代、モノーラル盤が発売されて、そのあとにステレオ盤が発売されていたが、間もなくモノーラル、ステレオ同時発売が当たり前になった。しかし、時代がステレオへと流れが変わるにつれて、ステレオLPだけの発売も次第に増えていった。しかし、一方ではステレオ盤LPが発売されたあとに、あえてモノーラル盤が発売されていた例も珍しくない。
  今日の感覚で言えば、きっと誰もが「ステレオが先に出たのならば、追いかけてモノーラル盤を出す必要はない」と思うに違いない。けれども、当時の技術者にとっては、ステレオはまだわからないことが多かった。だから、発売する方にとってはステレオ盤よりもむしろモノーラル盤の方が自信を持って出せたのである。また、当時の雑誌の批評にも「これは○年○月にステレオ盤が発売され、今回はモノーラルでの再発売である。音は前に出たステレオ盤よりも優れており、私としてはこのモノーラル盤の方をお勧めしたい」といった口調のものも意外に多い。
  確かに、初期LPのステレオ録音にはちょっと変わった音がするものもある。全然低音が出ないもの、特定のパートがいかにもマイクに近いもの、左右のチャンネルに極端に分離して真ん中の響きが薄いもの、あるいはひろがりがなくてほとんどモノーラルのように思えるもの、などなど。こんな音だったら、まとまりのいいモノーラルの方が聴きやすいかもしれない。また、当時は聴く側もステレオの音には慣れていないことも考えられるだろう。
  新しいものが出てくると、必ずその反動が起きる。CDも、登場した頃は「音が固い」「20キロヘルツ以上の帯域がカットされているので、響きの成分が失われている」とか、さんざん言われていた。なかには「製造後6年以上が経過すると音が出なくなる」とか、「○○研究所によると、CDは後半になるにしたがってピッチが少しずつあがっていく」という、けっこうむちゃくちゃなものもあった。
  ステレオ初期に出たモノーラル盤は、確かにそれなりの味わいを持っている。これは未確認ではあるが、イギリスのデッカなどはモノーラルとステレオを別のラインで収録していたとも聞いている。もしもこれが本当だとすると、あえてモノーラル盤を聴く意味はある。私はステレオ音源をあえてモノーラル盤で聴こうとは思わないが、ちょうどこの頃のモノーラル盤をステレオ盤よりも高く評価するコレクターの気持ちは理解できる。いずれにせよ、モノーラルだろうがステレオだろうが、それなりに心地よい音で響けばいいのだ。
 
  ちょっと長い前振りになってしまったが、世の中には「モノーラル」と耳にしただけで拒絶する人が案外多いのだそうだ。これはCDショップの人からよく聞く話である。客がCDを持ってきて、「これはモノーラルですか? ステレオですか?」と尋ねてくる。「それはモノーラルですね」と答えると、すぐに棚に戻してしまうそうな。そんなことがしょっちゅうあるので、ある店員は「これはモノーラルですが、とてもいい演奏です。お勧めです」と言い続けたけれども、そうしたモノーラル・アレルギーの人は、ほとんど耳を貸さないそうだ。その店員は「モノーラルとステレオの区別と、演奏の良し悪しや自分の好みとは全く関係がないのに、なんででしょうねえ」と嘆いていたが。
  モノーラルは絶対に聴かない、こういった人々の心理は何だろう。モノーラルを聴くと脳が破壊されると信じているのだろうか? それとも、たまたま最初に聴いたモノーラル録音が非常にひどくて、それがトラウマになってしまったか? また、そんな人は古い映画も観ないのか? ラジオのAM放送が流れると耳をふさいでしまう? 
  いやいや、これはきっと某業界関係者が新録音の新譜を買わせるために、「モノーラルを聴くと難聴になる」という情報をひそかに流しているためだ。あるいは、モノーラルを聴くと体中に赤い発疹ができてしまうという、一般的にはほとんど知られていない病気があるからだ……。
  ということはあるわけがないが、でも、このモノーラル・アレルギーとは、いったい何だろう。

[追記]そういえば、デジタル録音でないと聴かない、という人がいると聞いたことがある。そういう人は“アナログ・アレルギー”か。

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第18回 音楽とスポーツの関係

 この4月にデビューCD『夢のあとに』(MAレコーディングズ MAJ-506)を発売した枝並千花(えだなみ・ちか)という若手ヴァイオリニストがいる。私はこのCDの解説を書くために枝並本人に会って話を聞いたが、そのとき、なるほどと思ったことがあった。
  新潟県出身の彼女はクラシック大好きの両親のもとで育ち、ごく自然にピアノとヴァイオリンを始めた。並行して、テニス、水泳、スキー、剣道などのスポーツもたくさんやったという。けれども、習い事のように押し付けられたわけではなく、彼女自身はどれも気軽に楽しんでやっていたようだ。
  枝並のようにあれこれとたくさんやるというのは、どうも日本ではよくないことのように思われがちである。スポーツなどが特にそうだ。日本の伝統的なスポーツは柔道、剣道、合気道と、“道”がつくものが多い(書道、華道というのもあるが)。国技と言われる相撲は道の字がついていないけれども、特に力士は昇進のときに「相撲道に邁進する」と口にすることが多い。野球だって「野球道」などと言われることも珍しくない。
  この“道”という漢字は周囲を見ず、ひたすらまっすぐ突き進むかのような印象を与えるせいか、日本では小さいときから野球なら野球だけ、サッカーならひたすらサッカーだけに打ち込むというケースが多い。これを“一種目主義”と呼ぶ。この主義は短期間で目標を達成しやすいが、明らかなデメリットがあるという。つまり、ひとつのスポーツだけをやっていると動きがいつも同じであるため、使う筋肉と使わない筋肉が早い時期にはっきりと分かれてしまい、結果として全身の筋肉がバランスよく鍛えられないというのである。
  スポーツ医学的には、中学生くらいまでは複数のスポーツをやって身体全体の筋肉を刺激した方がいいとされている。たとえばこんな例がある。日本人で初めて短距離の国際大会でメダルを獲得したハードルの為末大(ためすえ・だい)がいる。彼は「昨日までの自分を常に疑っている」と語っているように、コーチを置かず、自分自身でトレーニング方法を試みているアスリートとして知られている。為末は『日本人の足を速くする』(新潮新書、新潮社)で、たとえば日本人と欧米人の骨格の根本的な違いから、日本人には一般的に悪いとされるガニ股、猫背の走法の方が似合っているのではないかとか、足を速くするには負荷が大きな上り坂の練習を多用するよりも、下り坂の練習の方が効果的ではないかとか、独自の論理を展開している。
  為末の著作によると、彼は中学時代、陸上部の顧問からは彼の専門であるハードルの練習を少なめにし、砲丸投げ、やり投げ、走り幅跳び、マラソンなど、陸上の全種目をやるように言われていたらしい。これは文字どおり全身の筋肉を鍛えるためだが、為末自身もこれが非常によかったと記している。
  かつての剛速球投手、奪三振の日本記録保持者、元阪神タイガースの江夏豊も為末と似ている。『左腕の誇り――江夏豊自伝』(草思社)によると、彼は中学時代には陸上部に所属して砲丸投げをやっていた。さらに彼は週3回はバレーボールの練習をし、それに加えて相撲やラグビーの大会にまで駆り出されたという。江夏自身も、このときの経験はのちに非常に役に立ったと語っている。
“道”と化したスポーツはまた、“楽しさ”とも縁が薄いような気もする。たとえば、近所でもやっている少年野球、その指導者たちの罵詈雑言は聞くに堪えないものだ。それはまるで勝ちに妄執する醜い大人の姿と言えるだろう。こうした例はテレビ番組でもときどき見かけることがあるが、なんであんな野蛮なシーンを放映するか理解に苦しむ。つい最近の「朝日新聞」の夕刊で、ボクシングの名トレーナー、エディ・タウンゼントの名前が出ていた。私がハワイ出身の日系人エディのことを知ったのは『メンタル・コーチング――流れを変え、奇跡を生む方法』(光文社新書、光文社)だった。彼は藤猛、井岡弘樹、ガッツ石松など、数々の世界チャンピオンを育ててきた人物である。ことボクシングのような格闘技だと、その指導者たちは鬼のような形相をし、竹刀を持って怒鳴り散らすのが定番である。だが、エディはまったく違った。彼はちょっとなよっぽい言葉で、うまくできると「ナイスボーイ!」と言って選手をハグするのだった。口癖は「ハートのラヴで教えるの」「ボクシング楽しいの。試合になればもっと楽しいの」だった。そのエディが竹刀を持った指導者を見て、「なんで竹刀なの? ボク、選手を殴らない」と言っていたのは当然のことだった。
  為末はスポーツだけではなく、投資にも詳しいが、その為末と似ているのがシアトル・マリナーズで活躍していた長谷川滋利だった。彼の著作『適者生存――メジャーへの挑戦』(幻冬舎文庫、幻冬舎)によると、長谷川自身、高校時代の野球部では年間に2日程度しか休みがない、まさに野球漬けの日々だった。しかし、大学時代、野球部の監督は野球漬けにはしなかった。その結果、彼には考える力が身に付き、これがのちにメジャーでの生活をする際に大いに役立ったらしい。長谷川はメジャーに行き、体格も劣るし、球速もさしてない自分がどんな練習をしたら生き残れるかを思案した。また彼は英語を勉強し、通訳なしでも取材に応じることができた。併せて「ウォール・ストリート・ジャーナル」に目を通し、株や経済の勉強もした。また、長谷川はその著作のなかで、日本とアメリカでは中学生・高校生の野球がどう違うかに触れている。彼が言うには、日本の中学・高校は組織だったプレーができているが、その時期に完成されてしまい、頭打ちのような気がする、反対にアメリカのそれは自由にのびのびとやらせておいて、そのなかで腕に自信のある者がメジャーに入り、信じられないくらいに伸びる選手も少なくない、そうだ。
  ここでやっとヴァイオリニスト、枝並の話に戻る。歌ったり楽器を演奏したりすることも全身の筋肉運動である。枝並のきれいでのびやかな音を聴いていると、小さい頃からあらゆるスポーツをおこない、自然と身体全体の筋肉がバランスよく発達した結果ではないかとも思う。さらに、この音の素直さは、彼女が音楽もスポーツも“楽しんで”やってきたからだとも考えている。やはり音楽もスポーツも根本は“楽しむ”である。もちろん、音がきれいで素直というだけで枝並の今後の活躍が保証されるわけではないが、長谷川が言うように「信じられないくらいに伸びる」ことを期待したいものである。

『夢のあとに』(MAJ-506)の内容
フォーレ「夢のあとに」
フランク「ヴァイオリン・ソナタ」
フォーレ「ヴァイオリン・ソナタ第2番」
枝並千花(Vn)、長尾洋史(p)
録音:2008年7月

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第17回 若手の育成方法

 落語の独演会に行ったことがある人はおわかりだろう。独演会とはいっても、最初に必ずひとりやふたり弟子が出てくる。その弟子にもものすごくぎこちないのから、そこそこやってくれる者までいろいろだが、いずれにせよあとに出てくる師匠との格の違いは明らかである。でも、最初に出てくる弟子はまだましである。なぜなら、誰もが最低ひとりは出てくることを了解しているからだ。だから最初は、ま、一席はおつきあいをしましょうといった空気が会場に漂うが、これがふたりめの登場となると「え? まだ出てくるの?」といった、いくらか白々しい雰囲気に変わってくる。
  同じ舞台で弟子と師匠の格の違いがはっきりと示される、これは見方によってはなかなか残酷な方法とも言える。それに、弟子たちは出番が終わったあとにきっと師匠からあれこれとお小言をちょうだいしているにちがいない。「おまえね、あそこであんなにもたもたしてちゃあダメだよ。もっとパパッとやんなきゃあ」とか、「どうしてそこんとこで先を急ぐんだい? もっとのんびりやんなきゃあ気分が出ないよ」とか。かくして、客の冷たい視線に耐え、師匠のお小言を拝聴しながら、弟子たちは「いつかはきっと自分も独演会をやるぞ」という希望を胸に抱いて成長していくのである。
  クラシックの演奏会もこの落語の独演会方式で若手を育ててはどうだろうか? 通常のオーケストラ・コンサートでは序曲だけ、あるいは真ん中の協奏曲だけを指揮するとか。リサイタルでは最初の1、2曲をササッと弾いて引っ込む。そうしていくうちに、なかには後半の主役を食いそうなほどの力をたくわえてくるようなやつが出てくる。そうなったら、今度はその人が主役である。
  そう考えると、つくづくコンクールというのは罪作りだと思う。若いときのある一定の期間の演奏でその後の人生ががらりと変わることがしばしばである。コンクールの前後でその演奏家の音楽はほとんど何の変化もないのに、周囲の状況だけが一変してしまう。
  こうした芸事というのは、常にある一定の水準を長期間維持できることが重要である。たとえば、プロ・スポーツの世界では、ある特定の試合で大活躍したからといってその選手にいきなり途方もない高額の契約金を提示することはありえない。過去のデータをしっかり集め、分析してから契約を提示するはずである。
  話はまた落語に戻るが、最近は独演会ができる噺家が増え、落語界は活況を呈しているようだ。けれども、ほんのちょっと前は風前の灯と言われるくらいに下火の時期があったらしい。今年の初めに寄席で柳家小三治が言っていた、「ちょっと前ですが、あたしが舞台に出たら、300人の小屋でお客が5人しかいなかったんですよ」と。そこで、噺家たちは何とかしなきゃと危機感を抱き、最近の落語ブームにまで盛り上げていったのである。300分の5というと1・7パーセントの入りである。2,000人のホールに換算すると、33人ということになる。たとえば、33人しか客のいないサントリーホールを想像してみてほしい。クラシック界が不況だ、チケットが売れないと言ったところで、こんなにすさまじいことは起こっていないだろう。
  落語やスポーツとクラシック音楽とは単純に比較はできないけれども、これまでのクラシック音楽界は、その場しのぎ的な方法でやりくりしてきたのかもしれない。低迷していると言われて久しいクラシック音楽界も、いまはそのツケがきた状態なのだろう。現実的にはなかなか難しいかもしれないが、いまこそ長期的な視野に立った改善策が模索されてしかるべきではないだろうか。

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第16回 見過ごされがちなクレンペラーのヴォックス録音

 クレンペラーのようにモノーラルとステレオにまたがって録音を残し、なおかつ晩年の方がいいと言われるタイプの指揮者は、たいていの場合、モノーラルの方はあまり見向きもされない。
  このたび初めて国内盤として発売されたクレンペラー指揮、ウィーン交響楽団のブルックナーとマーラー(コロムビア/ヴォックス 84583~4)は、改めてその真価を問われるべきものではないかと思った次第である。クレンペラーは戦後、アメリカ・ヴォックスにまとまった量の録音をおこなっているが、この2曲はそのなかで1951年に録音されたものである。
  ブルックナーの『交響曲第4番「ロマンティック」』はSP時代のベーム、ヨッフムに続く史上3番目の録音で、LP用の初めての録音でもあった。第1楽章はかなり速い。統計をとっているわけではないが、史上最速かもしれない。そのみなぎる覇気には驚かされるが、このときクレンペラーは60代半ばなのである。第2楽章以降は第1楽章ほどは速くはないが、それでもいかにも張りがあって、若々しい。
  もうひとつ指摘しなければならないのは、この当時のウィーン響の音である。この頃はまだ古い楽器を使用していたのだろう、ホルンをはじめオーボエなどの管楽器がいかにもひなびた味わいである。特にホルンはウィーン・フィルそっくりで、そこらのマニアに「これはウィーン・フィルだ。指揮者は誰かわかるか?」と尋ねても怪しまれないだろう。弦楽器もかなり艶っぽい音を出している。たとえば第2楽章のヴィオラ、チェロなど、この頃のウィーン響がこんなに甘い音だったとは知らなかった。なお、クレンペラーはこの第2楽章の途中のヴィオラの旋律をソロに変更している。むろん、これはクレンペラー独自の改変で、賛否はあるだろうが、これはこれでなかなか味があると思う。また、輸入盤(CDX2 5520)はこの第2楽章冒頭に欠落があったが、この国内盤は正常である。
  マーラーの『大地の歌』はワルターのSP録音に続く史上2番目の録音で、ブルックナー同様最初のLP用録音である。『ロマンティック』同様、速めのテンポで処理しているが、ここでもオーケストラの柔らかい音色が十分に物を言っている。さすがにワルター/ウィーン・フィルほど結晶化はされているとは言えないものの、個性的であるのは間違いない。ヴァイオリン・ソロなども場所によってはかなり甘く歌っている。デルモータの美声はさすがで、この曲の名唱のひとつではないだろうか。
  一方のカヴェルティはポルタメントが多い古いスタイルの歌い方だが、この曲の退廃的な雰囲気とよく合っていて、決して悪いとは思わない。ただ、この2人の歌手があまりにもマイクに近すぎるのがちょっと気にはなるが。
 『ロマンティック』だけ国内盤と輸入盤とを聴き比べてみた。音の傾向は全く同じだが、国内盤の方がよりピントがぴったり合った音質のように思える。また、国内盤はブックレットに2曲の初版LPのデザインをあしらっているが、これはマニア心をくすぐるだろう。

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