第17回 若手の育成方法

 落語の独演会に行ったことがある人はおわかりだろう。独演会とはいっても、最初に必ずひとりやふたり弟子が出てくる。その弟子にもものすごくぎこちないのから、そこそこやってくれる者までいろいろだが、いずれにせよあとに出てくる師匠との格の違いは明らかである。でも、最初に出てくる弟子はまだましである。なぜなら、誰もが最低ひとりは出てくることを了解しているからだ。だから最初は、ま、一席はおつきあいをしましょうといった空気が会場に漂うが、これがふたりめの登場となると「え? まだ出てくるの?」といった、いくらか白々しい雰囲気に変わってくる。
  同じ舞台で弟子と師匠の格の違いがはっきりと示される、これは見方によってはなかなか残酷な方法とも言える。それに、弟子たちは出番が終わったあとにきっと師匠からあれこれとお小言をちょうだいしているにちがいない。「おまえね、あそこであんなにもたもたしてちゃあダメだよ。もっとパパッとやんなきゃあ」とか、「どうしてそこんとこで先を急ぐんだい? もっとのんびりやんなきゃあ気分が出ないよ」とか。かくして、客の冷たい視線に耐え、師匠のお小言を拝聴しながら、弟子たちは「いつかはきっと自分も独演会をやるぞ」という希望を胸に抱いて成長していくのである。
  クラシックの演奏会もこの落語の独演会方式で若手を育ててはどうだろうか? 通常のオーケストラ・コンサートでは序曲だけ、あるいは真ん中の協奏曲だけを指揮するとか。リサイタルでは最初の1、2曲をササッと弾いて引っ込む。そうしていくうちに、なかには後半の主役を食いそうなほどの力をたくわえてくるようなやつが出てくる。そうなったら、今度はその人が主役である。
  そう考えると、つくづくコンクールというのは罪作りだと思う。若いときのある一定の期間の演奏でその後の人生ががらりと変わることがしばしばである。コンクールの前後でその演奏家の音楽はほとんど何の変化もないのに、周囲の状況だけが一変してしまう。
  こうした芸事というのは、常にある一定の水準を長期間維持できることが重要である。たとえば、プロ・スポーツの世界では、ある特定の試合で大活躍したからといってその選手にいきなり途方もない高額の契約金を提示することはありえない。過去のデータをしっかり集め、分析してから契約を提示するはずである。
  話はまた落語に戻るが、最近は独演会ができる噺家が増え、落語界は活況を呈しているようだ。けれども、ほんのちょっと前は風前の灯と言われるくらいに下火の時期があったらしい。今年の初めに寄席で柳家小三治が言っていた、「ちょっと前ですが、あたしが舞台に出たら、300人の小屋でお客が5人しかいなかったんですよ」と。そこで、噺家たちは何とかしなきゃと危機感を抱き、最近の落語ブームにまで盛り上げていったのである。300分の5というと1・7パーセントの入りである。2,000人のホールに換算すると、33人ということになる。たとえば、33人しか客のいないサントリーホールを想像してみてほしい。クラシック界が不況だ、チケットが売れないと言ったところで、こんなにすさまじいことは起こっていないだろう。
  落語やスポーツとクラシック音楽とは単純に比較はできないけれども、これまでのクラシック音楽界は、その場しのぎ的な方法でやりくりしてきたのかもしれない。低迷していると言われて久しいクラシック音楽界も、いまはそのツケがきた状態なのだろう。現実的にはなかなか難しいかもしれないが、いまこそ長期的な視野に立った改善策が模索されてしかるべきではないだろうか。

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