この本に描き出した「子どものシーン」の原型となった子どもたちは、(残念ながら)そのほとんどが、私のフィールドワークの期間中に亡くなっていった。
病棟に(基本的に)週1回しか行けないフィールドワーカーの私にとって、終末期/臨死期の子どもと会った翌週のフィールドワークは、とても気の重いものだった。まず、ナースステーションに入る。挨拶もそこそこにおそるおそる入院中の子どもの名札を見る。個室に入室している子どもの名前に目をやる。そこに先週会った彼/彼女の名前はない。
私は彼/彼女が、短い人生の最後のひとときを母親とすごしただろう個室の前に立つ。新しい個室入室者はまだいない。引き戸のドアをスライドさせてなかに入る。がらんとしたベッドがきれいに掃除されて、ぽつんと部屋のなかにある。ものすごい違和感だ。彼/彼女の痕跡はまったくない。しんと静まりかえっている。沈黙そのものですら押し黙っている感じだ。あるいはしんという音がうるさいくらい耳ざわりだ。ついこの前までこの個室で、子どもが死に逝きつつあることを知っている母親は、どのような気持ちで、子どもとの最後のひとときをすごしたのだろうか? 身体がどんどん悪化して苦しくなるなか、子どもは迫りくる自分の死というものをどのように認識していたのだろうか?
小児がんの病棟で、子どもは、(まだ)生きていること、子どもであることの証として、遊んだり泣いたりしていた。ときにぶっきらぼうになり、ときに熱心になって私に受け答えをしてくれた。あるいはときに悲しそうに。ときに苦しそうに。ときにさびしそうに。ほんとうにいろいろな姿を母親に、私に、ほかの子どもたちに、医師や看護師にみせてくれた彼/彼女は消えてしまった。
あるいは(今週は)もう会えないくらい病状が悪化していて、完璧に個室で母親と2人きりになっている子ども。もちろん、治療をする/看護行為をする以外の者は、その個室に入ることがすでにできなくなっている。私は、彼/彼女ともう会うことはない。顔を見ることもない。私が、どんなに母親やその子どもと仲がよかったとしても、もう彼/彼女は死に捕らわれてしまっている。死の覆いがすべてを包み込んでいる。唯一、母親だけが、その子どもという命を産み出した母親だけが、自分がこの世にひとつの命として産み出した子どもの、刻々と死に逝きつつある状況を子どもとともにする。子どもの命に寄り添っている。そして(おそらく)次の週には、彼/彼女の名前はない。
思い返してみて、こうして死に逝きつつ死に至るという時期でさえ、そこにあるのは社会的な営みを維持しながら死んでゆくための子どもと母親の営為である。もっと具体的に言えば、母親との最後の関係を維持しつつ、きわめて社会的に死に逝こうとする子どもの姿が、死とともにそこにあるということだ。そして、ここに至るまでにさまざまな方法とニュアンスで子どもは(そして母親は)小児がん病棟を構築し、それを支えるために通底する社会的文脈を絶えず維持・生成する方向でのダンスを踊る。壊す方向ではもちろんなく。そのような「破壊」につながる方向での言動・行動はタブー視され徹底して回避する方向で。病棟社会を構成する人々が、それぞれの役割を存分に担い合いながら。
いま、こうして本が上梓されることになって、振り返ってみると、ほんとに眩暈がするくらいの社会的な営為の積み重ねが、病棟社会のそこここに展開していたことがよくわかる。幼い子は幼い子なりに、母親は母親なりに。かように、人間は人間であるがゆえに(最後まで人間であるために)、社会/関係という鎧をしっかり着込んで病気なり、死が近しくなるにつれて、病棟社会の社会的属性、鎧を脱ぎ捨てながら(幼い子どもは赤ちゃん返りして)死に逝く。母子関係という原初的な関係は最後まで維持しながら。それらは、死に子どもと母親が近づくことよって、治療を究極の社会目標とする病棟社会の一員である必要がなくなるということだ。ここにおいて初めて、子どもは子どもに、母親は母親に(再び)存分に帰っていくのである。病院にくるはるか以前の、ごく普通の「健康」だった子どもと母親の関係に。
最後に、本文ではあまりふれることができなかったが、医師と看護師の献身的な治療と看護に言及しておきたい。
治療・看護対象が子どもだということもあると思う。彼らとは、本来、死んではいけない存在なのだ。元気に走り回っている存在なのだ。だからこそ、医師も看護師もそれこそ、その小児がんに子どもが罹患するという理不尽さに全力で抵抗し戦っていた。もてる力を出しきりながら懸命に子どもにかかわっていた。それが、短い生涯を全力で生き、全力で死んでいった子どもらへの「畏敬」と「はなむけ」の証であるかのように。
最後の最後に。
なによりも子どもと母親に。そして、医師と看護婦に。心から感謝の気持ちをこめて。ほんとにありがとうございました。
笠原美智子『写真、時代に抗するもの』私は抗しつづける
拙著『写真、時代に抗するもの』が出版された。できあがってほやほやの本に頬ずりして、にまにましながら、さすってみる。もう読む必要もないのに、何回も見返して、ことあるごとに取り出してページをめくる。そうした幸せな躁状態がすこし落ち着いて、つくづく眺めて思うのは、「わたし、よくこれだけ仕事してきたよね」。
1989年に東京都写真美術館の学芸員になってから今年の7月に東京都現代美術館に異動するまでの13年間で、この本と98年に出版した『ヌードのポリティクス――女性写真家の仕事』の2冊をまとめることができた。13年間で本2冊というのは普通の書き手としては少ないのかもしれない。けれども美術館の学芸員としては、「よく」と自画自賛してもバチは当たらないのではないかと思う。なにせ、学芸員の仕事の9割以上は雑務である。展覧会のための調査や研究、図録の論文書きなどは雑務の合間のわずかな時間をかすめてやるか、勤務後や休日に家で書くしかない。日本の学芸員が雑芸員といわれる所以である。自他共に認めるめんどくさがり、怠惰このうえないわたしが、こんな状況で、「よく」これだけ仕事をしてきたものだとわれながら感心する。好きな仕事だし、やりたい展覧会だからではあるが、怠け者のわたしを衝き動かしていたのはそれだけではない。それは「怒りのパワー」とでも呼ぶべきものである。
本当にわたしは怒っていた。美術館とはどんなものであるかもちゃんと調べずに美術館を作ってしまい、まっとうな組織構成も人事もせず、10年にも満たないうちに、入館者が少ないからといって予算を大幅に削減したり廃館をにおわす、東京都のいいかげんな文化行政に対して。自分の権利だけを主張して、義務をなおざりにする役人化した学芸員に対して。コンセプトだけ考えれば展覧会ができると思っている大学の先生に対して。展覧会を金儲けのイベントとしか考えていない一部の新聞社事業部に対して。普段美術館に興味もなく来もしないのに、海外旅行でたまたま立ち寄った美術館の聞きかじりをわけ知り顔で吹聴し日本の美術館をけなす政治家や一般の人に対して。自分の写真だけは美術館で取りあげられるべきだと信じ込んでいる写真家に対して。専門分化も役割分化もできていない日本の美術館に対して。貸館になっても専門家以外の館長が就任しても、異を唱えるどころかその問題点すらわかっていない写真界に対して。写真のことなど何の興味もなく勉強もしていないのに展覧会を企画する「現代美術」のキュレーターに対して。そもそも批評文化が成立しないこの国の文化的貧困について……。
もちろんわたしは自分のことを棚に上げている。そんなことははなからわかっている。しかし、上は日本の文化情勢から、果ては日常の細々とした出来事まで、毎日毎日何かが起こり、怒りの種は尽きず、怒髪天を衝くような環境でわたしは暮らしていた。
最近わたしは怒らなくなった。「大人になったね」ともたまに言われる。45歳の女をつかまえて「大人になった」もないもんだけれども、確かに大声を出すことも、怒りで身を震わすことも少なくなった。愚痴をこぼすのもめっきり減った。何が起こってもたいがいのことではあわてふためいたりはしない。状況が好転しているからではなく、むしろその逆で、美術館や写真を巡る状況は悪化の一途を辿っている。しかし経験とは恐ろしいもので、怒りのハードルはどんどん低くなっていく。めったなことでは動じなくなった。
わたしは自分の身に起こっているこの変化がおそろしい。これは成熟と言うよりもむしろ、諦念が忍び寄っているのではないか。嫌悪してきた予定調和の世界に、知らず知らずに自分も身を浸しているのではないか。エネルギー値が落ちてきているような気もする。
怒りの代わりに人を動かすのは何だろう。人によっていろいろあるだろうけれども、わたしの場合の答えはわかっている。そしてわたしはいま必死でそれを探している。
早川洋行『流言の社会学――形式社会学からの接近』マージナルな社会学者
最近、わが家の連れ合いと子どもたちは「犬夜叉」というテレビアニメにはまっている。これは、犬夜叉という半妖(妖怪と人間の合いの子)と日暮かごめという女子中学生が「四魂の玉」を求めて旅をする高橋留美子の作品である。
犬夜叉は、外見上は犬の耳をもつということ以外、なんら人間と変わらないのだが、メチャクチャ強い。妖怪や悪い人間を次々と倒してしまう。おそらく妖怪退治にかけては「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる作)と並ぶ日本のヒーローだろう。そういえば、ゲゲゲの鬼太郎も、人間でも妖怪でもない幽霊族という設定だった。マージナル(境界的)なものがいちばん強い、という命題は普遍的なものだと思う。
最近、社会学の世界は専門分化が進み、それは研究者世界のタコツボ化、研究者のおたく化を生んでいる。一般人ばかりでなく同じ社会学者であっても分野が違うと言葉が通じないのである。これではいけないという危機感が、最近の、学会における社会学教育への関心の高まりにも表れている。
もちろん、スタンダードな教科書を作ったりカリキュラムを組んだりして、社会学教育体制を確立することは重要なことである。しかし、なにより大切なのは研究者一人ひとりが、みずからの研究を誰にでもわかる言葉で語ることだろう。私が本書で心がけたのもそのことである。
アカデミズムの世界と一般人の世界、そのどちらにも安住しないで橋渡しをするような存在、私はそういうマージナルな社会学者でありたいと思っているし、そういう思いから、本書は社会学者のみならず、「一般人でもわかる社会学書」として書かれたものである。
この本の出版後、ある学会で「流言の専門家」と紹介され面映ゆい思いがした。私は流言の専門家では断じてない。ただの社会学者であり、流言は研究テーマのうちの一つであるにすぎない。とはいっても、私が流言について考えはじめ、論文を書きはじめてからすでに10年以上経つ。その間、違うテーマの研究もいろいろ発表してきたが、私の研究の全体を知らない人には、そういう誤解が生じてもしかたがないのかもしれない。
流言を研究テーマにしたのは全くの偶然だった。その契機について述べておくことにしよう。
大学院生のころ、たいへん厳しいというかたいへん怖いS先生に指導を受けた。ゼミのときには、院生はみんな、報告内容ばかりでなく、言葉や態度、服装や髪形にいたるまで気を使った。先生のご機嫌を損ねないよう、授業中は緊張で院生たちの血圧は確実に20上がっていただろう。
あるとき、院生仲間と話していて、人にはそれぞれ「うそパワー」というものがある、という話になった。うそパワーとは、たとえうそであってもそれを他人に信じ込ませてしまう力である。詐欺師たちは、その自身の能力を商売に使う人びとである。もし、うそパワー・オリンピックがあれば、彼らはもっとまっとうな生き方ができたにちがいない。ヒトラーやスターリンは、こうした市井の詐欺師のレベルを超えて、かなりのうそパワーの持ち主だったと考えられる。歴史は、うそパワーはけっして悪用してはいけない力であることを教えている。
しかし、私たち院生には、ヒトラーやスターリンやそのへんの詐欺師たちには騙されないという自信があった。では、私たちも騙されてしまうような、強力なうそパワーをもつ人物がいるとすればそれは誰か。私たちは、S先生であるという認識で一致した。誤解なきように言うが、もちろん、S先生が大ウソつきであったということではない。S先生の言うことが真実であるか虚偽であるかにかかわりなく、私たち院生たちには説得力をもっていた、ということである(そのS先生の実名は「あとがき」に書いておいた)。
そんなバカ話から、そもそも真実と虚偽は誰がどのようにして決めるのか、という問題に興味をもった。これは、意味世界の問題であり現象学的社会学が取り扱ってきたテーマである。そして当時注目されていたハーバマスのコミュニケーション的行為に関する議論とも隣接する問題だった。この問題を考えていくうちに、いつのまにかそれは流言論に結実したのである。
だから、この本は、戯言(たわむれごと)から生まれた作品である。本書で論じたように、真面目な言説よりも不真面目な言説のなかに、思わぬ創造の芽が潜んでいるものである。
さて、自称「半妖」あるいは「幽霊族」である、早川洋行のうそパワーがどれほどのものであるか。それはこの本の売れ行きが示してくれるにちがいない。
関 朝之『10人のノンフィクション術』大切な自分の想いを表現する人たち
「ノンフィクション」とは、「フィクション以外の文学」という意味である。換言すれば「記録文学」ということだろう。
現場で体験した客観的な事実を正確に筆録する「ルポルタージュ」。旅の見聞や感想などを記した「紀行文」。個人の生涯の行跡を綴った「伝記」。毎日の出来事や感想を記録する「日記」……など、あまりにも広い分野を総称して呼んでいる。
そんな「ノンフィクション」の取材術・執筆術を、第一線で活躍されるノンフィクション作家の方々に訊いて歩いたのが、この『10人のノンフィクション術』である。
十人いれば十通りのノンフィクションのスタンスがあり、その取り組み方は、それぞれの生き方にも似ていた。つまり「ノンフィクションの書き方」は、「ノンフィクション作家の生き方」だと、ぼんやりと思っている。
本書では、それぞれの書き手の作品から例文を引用し、インタビューでの言葉とシンクロさせての解説を試みた。また、これだけの著名ノンフィクション作家のノウハウが、一冊に納まっているのも珍しいのではないか。とりわけ、フィクションではないノンフィクションという広い分野で、みずからの身の置きどころを選択している方々の言葉には、取材活動という「実人生」を宿している迫力があった。
もちろん、ノンフィクションの取材術や執筆術は大切なことなのだが、ぼくがいちばん興味をもったのは、その人が、どのようなものに衝き動かされてノンフィクションを書くようになったか、である。この衝き動かされる「なにか」こそが、ノンフィクションを書くカギのような気がしてならなかった。
取材は緊張した。なにしろ、インタビューのプロ中のプロにインタビューするのだから……。その反面、楽しかった。本棚でしか見たことがなかった作家が目の前にいたからだ。
佐野眞一さん──「時代」を自分の言葉で後世に伝える──。
久田恵さん──メディアが落としていった事実を拾い集めて──。
鎌田慧さん──頑固なまでに志を貫くルポルタージュ──。
北島行徳さん──登場人物に愛されるように描く──。
足立倫行さん──人を描いてテーマを語る?現場報告の手法?──。
柳原和子さん──インタビューする相手を丸ごと好きになる──。
大崎善生さん──感情に支えられた心優しきノンフィクション──。
高山文彦さん──諦めずにいれば、書くチャンスは巡ってくる──。
後藤正治さん──ライターになるのではなく、ノンフィクションを書く──。
櫻井よしこさん──知りたい事実を解き明かすために書いていく──。
もちろん、「この十人」に出会うまで何人もの方々に断られた。「どこの誰だかわからぬやつ」に、自分の蓄積してきた「ノンフィクション術」を本にされることに抵抗を覚えても仕方がないことだ。けれども、というか、だからこそ、「この十人」に出会えた。「どこの誰だかわからぬやつ」に時間をさいてくれたノンフィクション作家は、かつてみずからも「どこの誰だかわからぬやつ」だったのかもしれない……、となんとなく思っている。それゆえ本書は、これからノンフィクションの書き手をめざす方々にとって、これ以上ない「十人の言霊」が詰まった書籍である。
本書がノンフィクション作家志願者のみなさまにとり、技術的な実用書となることはもちろん、その道程で迷ったときの指南書となれば……、と思う。また、もし「この本に登場してくれた十人のノンフィクション作家は、どんな人たちだった?」と問われたら、「大切な自分の想いの表現を諦めなかった人たちだったよ」と、答えてみたいと思っている──。
山本善行『古本泣き笑い日記』一書畏るべし
まさか自分が古本日記を書くことになるとは思わなかった。ただ、ひとの読む本、買う本が気になるほうで、ひとの日記を読むのはずっと好きだった。
たとえば、殿山泰司の『JAMJAM日記』や、小林信彦『1960年代日記』は何回も読んでいるし、木佐木勝『木佐木日記』は、図書新聞社版ではあるが、おもしろくておもしろくて読み終えるのがもったいないと感じたぐらいだ。現代史出版会の『木佐木日記』全四巻本は値段の問題でまだ持ってないが、ぜひ揃えたいと思う。書いていると欲しくなって、安く出ていないかネットで見てみたが、やはり三、四万円している。どこかの出版社、文庫にしてくれるとありがたいが。迂闊なひとは、そんなにいい本なら、四万円でも五万円でも買えばいいではないか、と思うかもしれないが、値打ちのある本はこれだけでなくいっぱいあるわけで、多少高くても、なんてのんきなことを言ってては、即破産まちがいない。
もちろん、経済状態の問題もある。わたしのところなんか、妻に、「必要なものでも買わないのが本当の節約だ」と言い聞かせているぐらい厳しい状況で、そんななかでの古本買いなのだ。だから、百円なら買うが三百円では買わないといったような、神経をすり減らすような、まるで、なにかの修行みたいになるのである。
自分で古本日記を書くようになり、古本屋で、これは日記に書けるぞ、とか思うのは、いいことなのかどうか。また、古本屋の店先に座ってごそごそ均一本を探していると、店主がそれを見てにやにや笑っていたりする。古本まつりの会場で知人に会うと、「百円均一どうでした」なんて聞かれる。「どうせわたしは安い本専門ですよ」と開き直るしかないのだろうか。
こんなわたしだけれど、はじめからこんなんではなかった。
わたしの周りに本が集まりだして、いつのまにか、二十五年ぐらいになるだろうか。思い出せば、はじめのころは私もかわいかった。新刊本屋でも売っているような文庫を古本屋で五十円ぐらいで探し出しては、友人に自慢していたのだから。
大学は出たけれど、就職せずに、京都三条のやっと首が出せるような窓しかないアパートに住んで、せっせと本を読んでいた。お金がなくなると、アルバイト。ライオンの歯磨きやシャンプーを店頭で冗談いいながら売っていた。実演だといって、その場で頭にシャンプーをかけ洗いだしたときには、さすがに店長に注意された。
時間だけがたっぷりとあった。いまから考えれば図書館を利用すればよかったとも思うが、当時からもう本そのものへの興味があったのだろう、お金はなくても、買って自分のものにして繰り返し読みたかったのだ。
仕事のほうは、そのあと友人の学習塾を手伝ったりしていたが、その友人が突然、「塾なんかやっててはあかん。これからの教育はシュタイナーや」という言葉を残して塾をやめると言いだした。いまから二十年ほど前の話だ。わたしはそのあとを引き継いでいまも続けているのだが、なんとか食べてこれたのは、そのシュタイナーのおかげだと思っている。仕事が夕方からだということもあり、昼間はせっせと古本屋めぐりの生活というのも、気に入っている。
書いてきて気がついた。わたしという現象は、はじめからあまり変わっていない、ということに。でも、自分でも不思議なのは、本への思いが、多少の波はあるものの、昔ながらの熱を持ちつづけているということだ。ますますのめり込んでいるのかも。古本が絡まないと、力が出ない。そこに本があれば、そこまで行けるのである。
気がつけば古本屋の前の均一台をながめている。買えるときはまだいいのだけれど、たいていはただ見るだけの繰り返しである。
近ごろよく言われるのは、「またこの前、古本見てたな、なんか恐くてよう声かけへんかったわ」。そうでしょう、そうでしょう、そんなときのわたしはきっと哀しそうな背中を見せているのでは、と思う。なにかから、逃げているのだ、と感じるときもある。
そんなわたしではあるが、「一書畏るべし」という気持ちで本を読みたいと思うし、自分の本についても、わたしなりの魂は入れたつもりである。
森 佳子『笑うオペラ』ワインでもあけて、オペラで笑って!
この本は私にとって、はじめての書き下ろしである。オペラという広大な森に入り込み、笑いの角度からあちこち枝を切り取って、コラージュを作ってみた。一つのキャンバスにいろいろなものを構成して貼り付けていくような感じでやってみた。筆者の気のむくまま、好き勝手に書きつらねたように見えるかもしれない。しかし、じつはけっこうそれなりに頭を使ったのだ。とにかく、書いた当人がおもしろがりながら書いたものだから、読む人にもそれが伝わるだろう、と期待している。
この本を手にする人は、おそらくオペラを少し聴く人であろう。私としても、通向けに書いたのではない。それにしては、あまりメジャーじゃない作品がいくつも入っているじゃないか、と言われそうだ。しかしオペラ本が山ほど出ている昨今、日本でメジャーな作品ばかり集めてもいまひとつ意味がないように思われた。そのかわり、それぞれの作品解説を時代順に並べるような堅苦しいことはしていない。時代と無関係に、内容で大きくタイプ分けして、おおまかな鑑賞のしかたを提言したつもりである。問題があるとすると、本書を見てCDを買おうとして、手に入りにくいものもあるかもしれないということだ。探すのもまた楽しいことであると割り切って、お許し願いたい。
カバーは渋い赤色で、デザインも素敵なものに仕上げてもらった。いうまでもなく赤は劇場の色。古いオペラハウスの座席のクッションや幕はふつう深紅が多いのではなかろうか。ハレの日のおしゃれな色なのだ。こう書いてふと思い浮かぶのは、パリにあるフランス古典劇の殿堂、コメディ=フランセ-ズのパレ=ロワイヤル劇場である。喜劇王モリエールの根城でもあったここでは、当時オペラもやっていたが、いまではオペラはオペラ座に移ってしまった。現在になって建物のわきのほうにちょっとした売店が設置されて、観光客用のおみやげグッズなどを売っていた。思い起こせば数年前、何の気なしに私はここでモリエールの小さな像を買ってきたのだった。ポスターやカレンダーなどのグッズは、みな同じ凝った深紅を基調としたデザインで統一されており、ディスプレイを見るだけでも楽しく、フランス人の色彩への執着を感じた。像はむろん白い普通のものだが、店員はそれを同じ渋い深紅の包み紙に包んだものをくれた。じつはこの像を眺めているうちに、本のアイディアが浮かんできたのだが。
この本のタイトル『笑うオペラ』は「笑うためのオペラ」という意味だ。笑いをおこすオペラのすばらしさ、楽しさをわかってもらおう!というのが表向きの趣旨である。その裏には笑いをモチーフにした私の舞台芸術論が隠されている。そしてその根底にもやもやと流れているのは、日本における舞台芸術を取り巻く消極的な現状、沈みつつある状況そのものを憂えている、私の個人的な思いだ。多くの人にせめて言葉でなにかのメッセージを伝えねばならないのだ。それがいちばんいちばん手っ取り早い。むろん日本で、欧米のようにオペラを低料金で観劇できるようになるなどという、贅沢な日々が訪れるとはまったく思わない。異文化の輸入ものであるからだ。しかしながら、これほどまでに疲れきってなるべく小さく生きようとするいまのような時代になれば、当然、じゃんじゃん金を捨てるようなものと思われている舞台芸術の優先度はどんどん低くなる。そうしてオペラだけでなく舞台芸術全般において、芸術家にも、プロデューサーにも、創作意欲が失われていく。そうなると、そんな人たちの創ったものなどレヴェルが低くておもしろくないので、目の肥えた観客はますます育たないという悪循環になる。せっかくバブルのときに建てられた公立の劇場は、税金の投入に見合う質の高い活動をしているだろうか? そのうち取り壊されて駐車場にでも姿を変えはしないだろうか? 結局、建物は業者が潤うだけのものだったのか? それにしても、日本で劇場がいっぱいできたときのあの盛り上がりはいったいなんだったのか。熱しやすく冷めやすい日本人と、どれだけ言い古されてきたことか……。
楽しそうな宣伝文を書かなければと思いつつ、悲観論になってしまった……。まあ日本の将来のことはさておき、好きな人は自分だけで楽しい思いをすればよいのだ。オペラなら映像も出ているし、いまや海外も行きやすい時代だから、そちらで吟味して観てくるのもいい。
ほかにPRしたいところをあげるとしよう。自作のイラストについてである。なぜ描いたかというと、白黒写真や図版などよりもシルエットのはっきりした漫画のような絵のほうが、強いインパクトを残すと思ったからだ。私は子どものころに『ベルばら』を読んだ世代。オペラに出てくるような豪華絢爛な世界を漫画をとおして知った。それこそ昔は、『ベルばら』の登場人物の似顔絵を描くのは大得意であった。そんな私でもこの本のために、笑い顔を描く練習を相当重ねた。好きで描いているのは楽しかったが、笑い顔っていうのはホントに難しい。ちょっとした1ミリ程度の線のゆがみで、怒ったような顔にもなってしまうのだ(笑い顔とは関係ないけど、たとえば無表情なウサギのミッフィーみたいな、あんな単純な絵でもまねて描いてみると、微妙な線の違いで表情がまったく変わって別人のようになってしまいますね)。それから理想としては、もっとアマチュアくさい感じの不器用な絵にしたかったのだが(アマチュアでなければ描けない絵ってあると思う)、自分で言うのもナンだが、こういうことにはわりと器用なほうで、そういう絵を描くのはかえって難しかった。
とにかくここで紹介した作品は、リヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』だのプッチーニの『トスカ』だのと違って、お家でワインでもあけながら、のんびりビデオで楽しめるようなものがほとんどだ。くつろげることを保証する。日本茶を飲みながらではよさは半減してしまう。ワインはやっぱり赤、なかでも深紅のボルドーがいいだろう。いまは夏だから赤ワインよりビールかもしれないが、じきにオペラの季節がやってくる。オペラ好きな人も、そうでない人も、とにかくみなさん、まず本を買って読んでみてくださいね!
田中マリコ『宝塚冗談タイムス』献辞。匠ひびき、絵麻緒ゆう、そして2001年度に退団した61人の生徒たちに
えー、どうも、みなさま。田中マリコです。今度、新刊を出しましたのでよろしくというごあいさつでございます。
今回はいつもの私の宝塚本と違い、ちょっとシリアスモードでまとめてみました。その意図は、いまの宝塚シーンそのものが非常に厳しく、とても個々の演技にツッコミを入れてシャレになる状況ではないからです。それなら開き直って、なぜ宝塚はこうなったのかを、『ベルばら』からの宝塚史三十年をテーマに考えてみました。
そして、執筆中はあまりの状況の変化にまったく余裕がなかったのですが、完成してみますと、しみじみこの『宝塚冗談タイムス』は「彼女たちへのレクイエム」だったと思います。宝塚歌劇の新世紀へむけての転換期に巻き込まれ、花開かぬつぼみのまま、どこか不本意な思いを胸に秘めて宝塚を去っていった生徒たち。もちろん彼女たちは、舞台と観客に深く感謝を捧げて宝塚を去っていきました。しかし、それでもどこか無念だったのではないかと推測できるのは、企業化した宝塚歌劇団の方針が人間らしい情けをあまりに欠いたものだったからです。
だからこそいま、ここで書き加えたい。「献辞。匠ひびき、絵麻緒ゆう、そして2001年度に退団した61人の生徒たちに」(「献辞」。これは三谷幸喜さんの舞台のセリフの一つですが)。
さて、なぜタイトルが『宝塚冗談タイムス』なのか。そりぁ~、あーた、「このシリアスさが、ほんの冗談よー」ってことですわよ~。私の書くことをあんまり真に受けないよーに。なんて、本のあとがきに書くと、あんまりひっくり返しすぎかと思ってやめたのですが、「冗談」に厄払いの意味をこめております。おほほほ。
今回のイラストは、ワコムのタブレットを使って、自分で撮影した写真をパソコンで加工したフォトコラージュです。挿絵の加工材料の写真のもとになった彫刻は花の道に安置されております。一度、お参りのほどを。5円、10円など、銅像の足もとにお供えして、宝塚歌劇の繁栄を願かけするのも、来宝記念になることでしょう。
しかし、一企業の銅像を宝塚市の血税で建てたそうで、なんだか公費のムダ使いという気がせんでもないですが。まがりなりにも公費で建てたからには、りっぱな公共物なのですが、銅像が肖像権を主張したときにそなえて、いちおうこの作品は著作権登録しておきました。その名も「彫刻コラージュ」。コンセプトは「街頭彫刻に直接落書きすると器物破損になるが、自分でとった写真に落書きするとだれにも怒られず愉快。新しいイメージが生まれ、とても愉快」で、みごと著作物として認定がとおりました。
なかでもとくにおもしろいものをホームページならではのカラーでご紹介しましょう。夏真っ盛りふう・君に胸きゅんきゅん。オスカルの手にしたブタの蚊取り線香にご注目。真琴グッズですね~。ブタの香取線香。ぜひ作ってほしいアイテムの一つでした。
トップ娘役のイラストでお気に入り2点は、花總まりの千手観音と大鳥れいのカニ。基本的に両者とも、背負い羽根の要領で作れば実現可能だと思いますが、どうでしょう。花總まりに残された最後の高貴な役は、もう千手観音くらいしかないでしょう。大鳥れいは大阪の元気なねえちゃんで、道頓堀の名物看板・かに道楽のカニを背負わせました。♪とれ~とれ~ピチピチカニ料理~♪の名曲はナニワの心そのものです。月影瞳には二宮金次郎像の薪を背負わせようかと思いましたが、二宮の像が絶滅しており断念いたしました。プリクラふうもオツかと思いますが、♪赤い灯~、青い灯~は時節がら、グリコのマークがワールドカップ仕様なのも注目していただきたいですね。
なおアンドレとオスカルの春琴ふうは、友人Hが17年前に新婚旅行にいったときのベルサイユ宮殿の春の噴水が背景ですが、しかしこうして実際にオルカルとアンドレを現地においてみますと、そこはかとなく笑いを誘うのはこれまたなぜでしょう。
さて、ここで問題です。第1章の扉絵に壮大な仕掛けが隠されております。さて、それはなんでしょう。ヒントはやはりフランス語ですね。まぁ、訳して、大笑いしてください。
あとの内容は読んでからのお楽しみということで、お買い上げのほど、よろしくお願い申し上げましょう~。
山本宏子『日本の太鼓、アジアの太鼓』『日本の太鼓、アジアの太鼓』を書き終えて
自分の本が刊行されるというのは、なんとも晴れがましくうれしいものだ。いままでにも、さまざまなチャンスに、研究論文やエッセイを数えきれないほど(ちゃんと数えたことがないので)発表してきた。でも、それらが載っている本はすべて共同執筆だったので、たった一人で書いたいわゆる単著は、本書がはじめてだった。
単著というものは著者に晴れがましさと同時に、恐怖ももたらす。共著だと大勢で執筆しているので「できた?」「まだ」という情報が飛び交い、「みんなで遅れりゃ怖くない」の標語のもと編集者を泣かせても、それほど罪悪感はおこらない。もちろん、あくまでも「それほど」であって、後ろめたさと申し訳なさはいっぱいであるが。しかし、一人で書いていると、申し訳なさに恐怖が加わってくる。
本書はいくつかの書き下ろしを含んでいるが、それをこの1年間で執筆した。2001年は、私にとって過去・未来すべてを含む人生で、もっとも忙しい年だっただろう。ジェットコースターに乗ったような1年だった。旧正月に雲南省のチベット族芸能調査、3月にロンドンとパリの博物館・図書館で資料収集、5月に上海で国際研究会発表、夏にラサと四川省のチベット族芸能調査、年が明けて3月に上海と蘇州で楽器製作調査。それ以外にも11月に沖縄で国際学会発表、あいまを縫って四国・九州・関東・沖縄などでも芸能調査をおこなった。さらに、これがいちばんビックイベントだったのだが、大阪大学文学部に提出した博士論文「神を請う楽の音――福建省泉州提線木偶戯における技法の象徴性とその継承」を執筆していたのだ。
夏にラサへいくことが決まったときには、日ごろ楽天的な私もあおくなって泣きを入れた。矢野さんはおだやかに「わかりました、待ちましょう」とおっしゃってくださって、しばし猶予をいただいた。けっきょく2カ月にわたる夏休みには1枚も書かなかった。ラサで、ときどき矢野さんの顔が脳裏をチラチラした。このまま企画が流れてしまうのではないかという恐怖のもと、「ごめんね、矢野さん」と西の空の下で手を合わせながら、私は毎日楽しくチベット・オペラを見ていたのでした。
刊行されてからは、また別の恐怖が始まる。出版当日、本屋に偵察に出かけて、並んでいる本書を見つけたとき、まずは小躍りしたいほどうれしかった。そばで本を選んでいる知らない人に「これ私の本、私の!」と言いたいくらいうれしかった。しかしその夜、本書を風呂敷で背負って、営業に精をだしている私の夢をみた。売れなかったらどうしよう。知人から「買いましたよ、おもしろかった」という手紙をいただいて、まずはホッとしている。
青弓社とは、今回はじめてのお付き合いだ。どのような本を出版していたかはよく知らなかったが、お話があったとき、企画内容とその条件をはっきり提示してくださった矢野さんが頼もしくみえて、お引き受けすることにした。『青弓社図書目録』をいただいたけれど、なかなか目をとおすことができなかった。校正が佳境にはいったころ、編集担当の加藤さんを煩わせて日曜出勤してもらい、人気のない青弓社のオフィスで一日中楽譜を手直したり写真を付き合わせたりした。昼食後のひとやすみ、オフィスの一角に青弓社がいままでに出した本が並んでいるのを発見した。私が読んだことのある本があるではないか。さらに、どれとは申しませんが読みたい本がいっぱい。思わず「著者がもらえることになっている自分の本の代わりに、これらの本をもらえませんか」といいたくなるほどだ。一読者にもどって、本屋に探しに行ってみよう。
さて、カバーのカラー見本が刷り上がってきたとき、本当に満足した。デザイナーの方には何度も要求を出して作り変えてもらったが、最終的な出来はすばらしいものとなった。思わず「カバーの抜き刷り(?)を作ってもらえませんか?」とお願いしたくなるほどだ。カバーは、それだけ単独でも欲しくなるほど、いいできあがりだった。
原稿を書くことは大変だったけれど、一方では、フィールドで出会った音楽や芸能を再体験することでもあり、とても楽しかった。過去の体験でも、新たな視点で見直すことで、新たな発見につながることに気づかせてもらった。
またいつか、次の企画でお会いできることを祈りつつ、もうひとつのあとがき「原稿の余白に」を終えることにしよう。
足立 博『まるごとピアノの本』「音が苦」ではなく「音楽」のために
振り返ってみれば、幼いころピアノに興味をもちはじめてから、半世紀ちかくがたってしまった。当時は、男の子がピアノなんて、という風潮と認識のなかで、もちろん、家にはピアノはなく、私は学校の休み時間に音楽教室にもぐり込んで、先生や生徒の目を盗んでピアノに触れるのが精いっぱいだった。
そんなわけで、私は親の無理解を長年恨みつづけたものだが、いまから思えば、今日までピアノに関する興味を保ちつづけることができたのは、このいわばハングリー精神が糧となっているという面があるかもしれない。皮肉にも、ピアノ教室にかよっていた妹やいとこたちは、ピアノを習う機会は十分与えられていながら、ピアノの演奏を楽しんでいるという様子はない。そして私も、もしも体育会系(?)のピアノ教師の訓練を受けていたなら、いまごろはかえってピアノ嫌いになっていたかもしれないとの思いもある。
また、私よりも前の世代には、紙鍵盤で練習を重ねて、プロ並みの技術を身につけた人もいたと聞いているので、本当に才能があれば、環境や周囲の無理解はあまり関係がないということなのかもしれない。
私自身もこの歳になってようやくピアノの練習をはじめたのだが、少しずつだがレパートリーも増え、趣味として楽しむには十分で、過去の経緯は、もう水に流してもよさそうだ。もっとも、私の繰り返しの練習に耐えかねて不平をもらす、妻や娘の無理解(?)と闘う必要はいまも続いているが。
というわけで、私が拙著で訴えたかったことの一つは、ピアノの練習はいつでもできるということ、また本当に楽しんで練習してほしいということだ。そして、自分の弾きたい曲をいきなり練習してもいいということもぜひ知ってほしかった。
ちなみに、私はいま、ベートーベンのソナタの『30番』の「第三楽章」とアンドレ・ギャニオンの『巡り合い』を練習している。音符の音程を一つ一つ指でなぞりながら一音一音弾く姿は、はたから見ればおかしいだろうと思うし、正統派のピアノの教師からは冒涜だと非難されそうだが、何度も同じことを繰り返して、やがて手がそれを覚えるようになると、われながらほれぼれするような(?)曲になっていくのは感動ものである。そして、ウサギとカメの寓話同様、いつかは正規の訓練を受けたものを超えたいとの願いもある。
私が訴えたかった二つ目の点としては、調律も含めて、ピアノのメンテナンスはアマチュアにも、やってやれないことはないという点だ。アメリカでは、ピアノのメンテナンスが一種のホビーとして認知されているようであるが、日本ではピアノの内部にしろうとが手を出してはいけないという風潮があるように思う。それで、拙著がアマチュアチューナーのブームのきっかけとなるのではないかとの、ひそかな期待もいだいている。
もっとも、しろうとが壊したピアノの修理のためにプロが奔走する事態も招きかねないが、業界の活性化(?)にも一役買うのではないだろうか。
いずれにせよ、ユーザー車検のガイドブックが発表されたときは、かなりの物議を醸したことを記憶しているが、少なくとも命にかかわることのないピアノのメンテナンスについては、もっとオープンに考えても責められるべきではないと思う。
さて、マイナーだが品質の優れたピアノが数多く存在することをぜひ知ってほしいということも、拙著を上梓するきっかけの一つだった。ユーザーあっての物づくりであるので、機械生産のピアノが普及するのはやむをえないことではあるが、楽器としてのピアノの命はけっしてなくしてほしくないとの思いが強い。ピアノ風キーボード(デジタルピアノ)の音色が標準になってしまったら、ピアノの命は終わりだとさえ思う。現に、デジタル風の音色の生ピアノがあるのが怖い。
もっとも、この原因は結局はユーザーにあるのかもしれない。画一化や平等感を重んじる日本では個性的な楽器は受け入れられないのかもしれない。ウイスキーにしても住宅にしても「本物」が日本に定着することはなかった。もっとも、自動車などは近年はようやく本物になりつつあるので、ピアノについても今後は期待できるかもしれない。
住宅に関しては、過去、十冊以上の本を上梓して、そのなかでの言いたい放題で、業界にかなりの影響と混乱をおよぼした責任を自覚しているが、ピアノに関しても、いろいろな意味で一石を、いや三石を投じるものになったのではないかと自負している。ともかく、拙著が業界の活性化の一助となり、真に優れたピアノの普及にいささかでも貢献できれば、本懐である。
太田省一『社会は笑う――ボケとツッコミの人間関係』テレビっ子は語る
そもそも文章を書くという行為がそうなのかもしれないが、書いてみてはじめて自分の書きたかったことに気づかされることがある。ましてや一冊の本ほどの分量にもなると、その感はいっそう深い。だから今回書いてみてそうした感覚になったとしても不思議はないのだが、それでもそうした部分とは別に、今回とくに気づかされたこともあった。
当初青弓社の矢野恵二さんと今回の企画について打ち合わせたときにコンセプトとしてあったのは、現代日本社会にあふれる笑いへの欲望のようなものを社会学的な視座から広く考察するというようなことだったと記憶している。ところが完成したものは、そのコンセプトを踏まえながらも、広くさまざまな事例を取り上げるというよりは、結局テレビの笑いということに相当大きな比重を置いたものになってしまった。当然ながら、笑いのかたちは、それだけではない。テレビの笑いが、いまやそのなかの主流を形づくるものだとしてもである。
そうなってしまったのには、本書のあとがきでもふれたように、一つには、単純に筆者の個人的な嗜好によるところが大きい。その意味で、笑いを判断するとき、暗黙のうちにテレビ的なものを基準にする習性が身についているだろうし、とりあえず何でも笑えれば楽しいというある意味では困った価値観が染みついているような部分もある。要するに、筆者はいわゆる「テレビっ子」なのである。
もちろんそうしたテレビっ子としての自己形成には、育ってきた時代背景もあるだろう。きわめて紋切り型な表現で恐縮だが、物心がついた時点ですでにテレビが身近にあったという環境は、大きな影響をおよぼしたにちがいない。テレビ世代以前と以後という区分けの説得力は、メディア史的な検証を待つまでもなく私たちの確たる実感として共有されているのではないか。
しかし、そうした世代論ですませてしまうことにも抵抗を感じないではない。テレビっ子的あり方は、世代や成育環境といったことを超えて一つのコミュニケーション主体としてもはや無視できない実質を社会的に獲得しているように思われるからだ。そしてそれは、本書の基本前提でもある。
たとえば、テレビに対してツッコむという行為を考えてみよう。テレビ画面での言動あるいは展開などに対して、「おいおい」とか「そんなわけないだろっ」とか言いながら、ほとんど反射的にツッコんでしまうという経験を、かなり多くの人がもっているのではないだろうか。さらに一人でテレビを観ているときだったりすれば、その頻度も高まるにちがいない(もちろん筆者もご多分にもれない)。
この行為を一つの「コミュニケーション」として考えてみよう。するとそこには、テレビっ子のコミュニケーション主体としての特性がよくみえてくる。
言うまでもなくそれは、疑似的なコミュニケーションにすぎない。ただしそれは、疑似だからこそ私たちを誘惑するという側面をもっている。そこには、他者から隔離された場所で物を言いたいという欲求と他者と言葉を交わしたいという欲求とが同居している。言葉を換えていえば、テレビに対するツッコミは、独白であると同時に会話なのである。そこには、テレビを自然に親しい他者とするような奇妙な感覚がみてとれるだろう。だがその両義的なあり方のなかにこそ、テレビっ子のコミュニケーション空間は成立している。
ただしテレビっ子は、隔離されたところでツッコむ自分に完全に自足しているわけではない。そこには、どこか居心地の悪さがともなっている。そのことは、テレビに対して思わずツッコんでしまった自分に対してこみあげてくるあの気恥ずかしい感覚を思い出してもらえばいいだろう。それは、テレビにツッコむ自分に対してもツッコまずにはいられない自分が常に隣り合っていることのあかしである。そしてその自己反省的な部分もまた、テレビっ子的主体の本質的一面なのである。
その意味で本書は、テレビっ子であることを自覚した筆者が、テレビっ子的あり方が当たり前のようになっている現在の日本社会を語る試みとして読んでもらえるだろう。そのような一種の自己分析的構図ゆえに、読者は、そこかしこで筆者が対象に寄り添いすぎているところを発見し、苦笑してしまわれるにちがいない。だがそのなかで、テレビっ子としての語りに新しさとおもしろさを少しでも感じとっていただければ、筆者としてそれに優る喜びはない。