「不思議な視点」で「不思議なもの」を見つけたい――『戦後日本の聴覚文化』を書いて

広瀬正浩

 このたび青弓社から『戦後日本の聴覚文化――音楽・物語・身体』を出す機会を得ました。これは私にとって初の単著となります。
 この本を書店で手に取ってくださった方、あるいは青弓社のウェブサイト内にあります本書の紹介ページをごらんになった方ならご承知かと存じますが、本書はきわめて雑多なテーマを扱っています。
 序章でアニメの『けいおん!』にふれたうえで、冒頭の2つの章で小島信夫という通好みの作家の小説を登場させ、細野晴臣や坂本龍一などといったミュージシャンの実践についての議論を展開したあとに、マンガ『20世紀少年』の作品分析を続けるのです。そして、室生犀星『杏っ子』という古くて渋めの小説から「声フェチ」的な問題をえぐり出し、その流れで、私の暗い(?)情熱に支えられた初音ミク論を展開させる……。このように雑多なテーマを扱っているため、研究書としては無節操だ、と感じられる方もいらっしゃるかもしれませんね。
 ただ、執筆した本人は、無節操だとは露ほども思っていないのです。
 本書の「あとがき」でもふれたことですが、私はここのところずっと、「音声から考える他者論」というのを考えていました。誰かの声を聴くことで、その聴取者はその相手に対し、どのような想像力を構成するのか。音楽の実践を通じて浮き彫りになる、文化の“内”と“外”とははたしてどのようなものなのか。……そうした問題意識を抱えながら、自分が興味をもったさまざまな対象を引き寄せて論じてみたところ、結果的に、文学や音楽などといったジャンルの境界なんて最初から存在しないかのような振る舞いを形成してしまっていた、というわけなのです。おおまじめに取り組んだあげ句、無節操なものに見えてしまうという、この皮肉さ。
 しかし、この雑食的な性格のため、本書を“商品”として発信してくださった出版社や書店の方々は苦労したのではないか、と思います。本書は「文学研究」のコーナーに置かれるべきなのか、「音楽研究」のコーナーに置かれるべきなのか、それとも「文化研究」のコーナーなのか……。この本のどの章を重視するかで本書の位置づけが変化してしまいます。出版社や書店の方々もいろいろと工夫なさったのではないでしょうか。ご尽力に感謝します。

 ところで、本書のタイトルの印象から、戦後期の日本人の聴覚的な経験を記録した資料を網羅的に扱った研究書だ、と本書のことを想像なさった方も、いらっしゃるかもしれません。半分埋もれかけた歴史的な資料を掘り起こし、そこから「事実」を浮き彫りにしていくという、いわゆる「文化研究」によく見られるスタイルは、本書では第5章、8章、9章あたりで少し見られますが、では本書全体では、どのようなスタイルが採られているのか。……私自身の言葉で言うならば、“「不思議な視点」で「不思議なもの」を見つけ出していく”というスタイルです。
 言うまでもなく、一般に、他の人でも言えることをわざわざ自分が言う必要など、どこにもありません。特にそれが「研究」となると、なおさらです。他の人でも容易に獲得できるような視点によっておこなわれる研究は、別に自分がおこなわなくても、他の誰かがしてくれるのです。もし自分が何かについて研究をするならば、他人が簡単には思いつかないような視点、「不思議な視点」で対象を捉え、一見すると何げない、退屈そうに見えるもののなかから「不思議なもの」を見つけていく。そういう実践を通して、私たちのなかに潜在する未開発な感覚を刺激していく。そんなスタイルこそが、私の好むスタイルです。本書では、特に第2章、第9章、第10章あたりが、そうしたスタイルを少しは貫けたかなと自負する章になります。
「不思議な視点」を獲得するためには、「文学研究」「音楽研究」「映像研究」などの諸領域のなかの1つに閉じていてはいけないだろう、と思います。音楽のことを考えながら文学のことを考える、アニメのことを考えながら音楽のことを考える、という“複眼的”な思考が大切なのだろう、と思います。もっともっと貪欲に、いろいろなものを見ていかなければならないのでしょう。

 40歳になる手前でなんとか単著を出せたことに、ひとまず安堵しているところです。しかし、それほどのんびりしているわけにもいきません。私の周りにはきっと、まだ見ぬ「不思議なもの」がいっぱい転がっているはずですし、何よりも私は自分自身の好奇心で窒息してしまいたい。
 私はこれからも、「不思議なもの」を追いかけていきたい。でもそんな私自身が、「不思議なもの」を追いかけたいと考えている誰かの支えになることができればいいな、とも考えています。

クロマチックハーモニカ時代の到来――『まるごとハーモニカの本』を書いて

山内秀紀

 昨年(2012年)暮れ、執筆依頼状が届いた。ハーモニカの本を出版することなど、まったく頭になかったが、「クロマチックハーモニカを主体にしたハーモニカの本でいい」ということだったので、気持ちにスイッチが入った。年明けの1カ月は、資料を集めたり、ハーモニカメーカーに取材をしたり、海外資料の翻訳作業やインターネットなどでの情報収集で、あっという間に過ぎていった。秋にはコンサートが控えていたので、遅くともそれまでに出版が間に合うようにスケジュールを立て、短期集中型の私は、4カ月程度でほとんど書き終えた。文章を見直したり、校正作業などで9月刊行になったが、なんとかイベントにも間に合いホッとしている。
 ハーモニカという楽器は、誰でも知っているが、ハーモニカのなかで楽器としての完成度がいちばん高いクロマチックハーモニカについて知っている人は少ない。「ハーモニカは、おもちゃのような楽器であり、ヴァイオリンやサックスと同じレベルで語るなんて、とんでもない」と多くの人は言うかもしれない。しかし、そんな人にこそ、クロマチックハーモニカのすばらしさを伝えたいとの思いで本書を書いたので、ぜひ読んでほしい。そして最近は、インターネットで誰でもクロマチックハーモニカの音色を聴くことができるので、その音色も聴いてほしい。きっと、ハーモニカのイメージが変わるはずだ。15年前、私が感じたように……。
 さて、本書の内容だが、まずはハーモニカがどんな楽器であるかを理解してもらうために、第1章では起源や歴史について書いてみた。いろいろ調べていくと、まったく関係ないと思っていた事柄が実はどこかでつながっていたりと歴史はなかなか面白い。自分で執筆しながらハーモニカの新たな魅力も発見できた。本書は、これからクロマチックハーモニカを始める人や興味をもった人が主な対象だが、楽器やハーモニカメーカーの歴史や、奏者の生い立ちなどは、すでにクロマチックハーモニカを始めている人でも十分楽しめるだろう。第2章では、クロマチックハーモニカの魅力や可能性、奏者の紹介から日本で発売されているクロマチックハーモニカをすべて紹介している。さらに吹き方の基礎からメンテナンスや楽しみ方までも取り上げて、ここまで盛りだくさんの内容を1冊にまとめた本はいままで出版されたことがない。クロマチックハーモニカの情報をまるごと詰め込んだ、文字どおり「まるごとハーモニカの本」に仕上がったと思う。
 本書を読んでいただいた演奏家の方々からも過分なるお褒めの言葉をいただき、また発売の次の日には、読者から感謝のメールが届いた。
 ハーモニカのなかでクロマチックハーモニカは、いままであまり注目されていなかったが、そろそろ主役の番が回ってきてもいいころだ。クロマチックハーモニカを吹いている人も、なぜいままでこのハーモニカの専門書がなかったのかと感じているにちがいない。何より、私自身がこんな本を探していたのだから。
 本書の執筆作業などで肝心のハーモニカの練習がおろそかになってしまったが、クロマチックハーモニカの歴史や背景、楽しみ方を知る前と後では、演奏するときの気持ちも変わってくるだろう。楽器は、音を奏でてなんぼだ。
 クロマチックハーモニカの魅力を知ってもらうため、10月には出版記念コンサートも企画している。本書を執筆したことが私自身の演奏に反映すると信じているし、読者のみなさんの演奏力向上に少しでもお役に立てば幸いである。

1927年(昭和2年)の「クリスマスの催し」――『ホテル百物語』を書いて

富田昭次

 青弓社から『ホテルと日本近代』を出してちょうど10年。振り返れば、筆者の近代史への興味は、いつもホテルが入り口になっていた。昔のホテルの絵はがきやパンフレット、ホテルでの過去の出来事が筆者を日本の近代へと誘ってくれた。昨2012年の『ホテル博物誌』も、新刊『ホテル百物語』も、そんな流れから派生したものといえるだろう。
 ことに史料との出合いが出発点になって、調べることが多かった。
 そうだ、いい機会だから、書き漏らした素材をひとつ、俎上に載せてみよう。
 手元に『クリスマスの催し』と記された小冊子がある。帝国ホテルが1927年(昭和2年)に発行したものだ。この年、帝国ホテルは昼の部と夜の部に分けて「クリスマス祭」を催していて、それぞれ、食事や活動写真、漫談、音楽、舞踊などの企画が用意されていた。ダンスは夜の部に限られているが、午後8時から11時まで「表食堂」で楽しめるようになっていた。
 そして、当時の支配人・犬丸徹三が次のように呼びかけている。
「御子供様方の為めに  一日の御嬉遊
紳士淑女方の為めに  一夜の御清興
当日、独特の御献立、高尚な音楽、面白い余興、誠心こめたサンタクロースの贈物など、何卒御来館の程を御待申上げて居ります」
 また、小冊子の表4には、次の文が記されている。
「待ちにまった/クリスマス/帝国ホテルで遊びませう/父さま 母さま/兄様 姉様/サアご一しょに/まゐりませう」
 こういった文章を読むと、当時の子供たちが喜びで頬を紅潮させるさまが思い浮かび、こちらもその場にいるかのような浮き浮きした気分にさせてくれる。いや、郷愁の思いといったほうがいいだろうか。
 ところで、この史料を見て、ひとつの疑問が湧いた。クリスマスの一夜を楽しむ習慣は、日本ではどのような形で広まり、いつごろから盛んになったのだろうか、と。
 それで、手近の資料で調べてみた。
 石井研堂の『増訂 明治事物起原』(春陽堂、1926年)を見ると、初期のころはキリスト教信者だけが集まって贈り物の交換などをおこなっていたようだが、1888年(明治21年)ごろにはクリスマスカードの輸入が見られ、「三十四五年頃の絵葉書流行も手伝へて一般の趣味ハイカラに赴きクリスマスが自ら本邦年中行事の一となるに至れり」となったという。
 次に『明治ニュース事典 第七巻 明治36年―明治40年』(毎日コミュニケーションズ、1986年)を見ると、1904年(明治37年)12月17日付の「日本新聞」の記事が紹介されている。
「東京市内に於けるクリスマス飾りの率先者たる、京橋銀座二丁目のキリンビール明治屋にては、本年は皇軍戦捷と家屋増築の祝意をかね、例年よりはいっそう花やかに、去る十五日よりクリスマス飾りをなし、毎夜イルミネーションを点じつつあり」
 これらを読むと、明治も後半期を過ぎると、クリスマスは、キリスト教信者に限らず、広く日本人の間に浸透しつつあったことがうかがわれる。
 では、ホテルでは、どんな光景が見られたのだろうか。
『明治ニュース事典 第四巻 明治21年―明治25年』(毎日コミュニケーションズ、1984年)には、1888年に横浜のグランドホテルで開かれたクリスマス夜会の様子を報じる12月11日付の「東京日日新聞」の記事が掲載されていた。
「この夜会に連なる者は男女とも日本の衣類を着用する事となり、男は黒紋付に仙台平の袴、女は裾模様にシッチン、緞子その他思い思いの丸帯を〆め」
 仙台平とは絹地で礼装用の袴、シッチンとは繻子地に金糸・銀糸などで模様を浮き彫りにさせた織物のことである。当時、グランドホテルに出入りしていたのがおもに外国人だったことを考えると、一種の仮装パーティーが催されたということなのか。
 帝国ホテルではどうだったのだろう。詳しい記述ではないが、『帝国ホテルの120年』(帝国ホテル、2010年)には、大正時代のクリスマスの写真とともに、こんなキャプションが記されていた。
「大正時代初期の帝国ホテルでおこなわれていたクリスマス。この催しも、林愛作支配人が取り入れたアイデアで、多くの人たちにホテルに足を運んでいただく工夫であった」
 林愛作は、山中商会のニューヨーク支店に勤め、欧米の上流階級の生活様式に精通していた。なるほど、そういう人物だから、一種の販売促進として、クリスマス・パーティーが導入できたということなのだろう。先の写真は、家族が食事を楽しんでいる光景を映し出している。林支配人の策が見事、功を奏したようだ。
 さて、それから十数年後。1927年「クリスマスの催し」の夜の部では、水谷八重子が出演する舞踊が企画されていて、「三味線」や「長唄」の文字も見えていた。つまり、邦楽が演奏されたわけである。クリスマスに邦楽――こんな和洋折衷の組み合わせを見ると、この時期にはもうしっかりと、日本人らしいクリスマスの楽しみ方ができていたということなのかもしれない。

 なお、昭和2年(1927年)の「クリスマスの催し」は12月26日に開かれた。なぜかといえば、前年の12月25日に大正天皇がこの世を去り、昭和2年の12月26日が諒闇明けで、服喪期間が終わった日だったからだ。

身体を加工する動物=人間――『美容整形と〈普通のわたし〉』を書いて

川添裕子

 立ち居振る舞いやしぐさから外見の整え方に至るまで、人の身体は一生を通して文化的に加工され続けます。本書のテーマである美容整形は、多様な身体加工術の一つといえます。では美容整形はどのような特徴をもった加工技術で、その経験はどのようなものなのでしょうか。ここでは、読者が面白かったと言ってくれたなかから4点を取り上げて、本書で見えてきたことを少し紹介したいと思います。

・伝統的な身体加工
 伝統的な共同体で慣習としてなされる加工には、形態美以外にも広い意味があります。たとえば共同体メンバーが参加する儀礼のなかで、身体に瘢痕文身(はんこんぶんしん:皮膚を刃物などで切ったりすることで文様を描く)が施されることで、その人は特別な力を得る、異なる段階へ進む、あるいはまた別の存在になります。加工に伴う痛みは必須の試練とされ、できあがった形の細部が気に入らなくて何度もやり直すといったことは基本的にはありません。これらは見栄えの向上に特化した美容整形とは異なる点です。ただし、伝統的な身体加工と現代的な身体加工を排他的に分けてしまうことは適切ではありません。瘢痕文身に対する認識も変化してきていますし、美容整形にも見栄えをよくするだけではない面が見えてくるからです。

・負傷兵治療と美容整形
 病気やケガ、刑罰などによる外見の悩みを解消しようという試みは古くからありましたが、近代的な美容整形は麻酔術や消毒法が確立した19世紀に入ってから本格的に始まります。その技術は、クリミア戦争や2つの世界大戦での負傷兵の治療を経て発展してきました。ケガの治療と美容整形では患者を取り巻く状況は全く違いますが、使われる技術や執刀する外科医は基本的には同じです。ですからケガや病気と美容を単純に二分化してしまっては、外見の問題を十分に検討することができなくなります。本書では男性患者への聞き取りはわずかしかできませんでしたが、「美容整形=美=女」ではなく、「美容整形=外見=人」という立場で検討しています。

・普通文化と儒教
 少し前まで日本では、美容整形は「親からもらった身体を傷つけない」という儒教の教えに背くといった意見が聞かれました。しかし、日本以上に儒教が浸透している韓国で調査してみると、整形して異性の目を引き付け結婚し子どもを産めば、孝や先祖祭祀を重視する儒教に適(かな)うという見方もできることがわかります。身体に何を「すべき」で、何が身体を「傷つける」のかの判断は、社会によっても時代によっても変化しうるといえます。現在のところ美容整形についての対応は、日本では「秘密」と「普通」を強調する声が意外に多く、韓国ではかなりおおっぴらな美の追求というように対照的です。しかしこれも「世間」と「ウリ(われわれ)」という独特の人間関係から捉え返してみると、日本では話さないほうが社会に対して、韓国では話すほうがウリ仲間に対して、関係を損なわないと考えられていることがわかります。日本の患者の「普通」の訴えにも社会的影響がみられます。「普通」であることが肯定的に評価される日本社会で、美容整形は人びとが信頼を置く大学病院から長い間排除されてきました。美容整形を受けることは「普通でないことをしない」というタブーを犯したとみなされかねません。だから話さないし、とびきりの美男美女にもならない。「秘密」と「普通」は日本社会での無難な選択でもあるのです。これは、美容整形をすることが「普通」とみなされるようになったら、整形をしないわけにはいかない風潮が生まれる可能性も示しています。さらに確固とした実態があるわけではない「普通」や「美」を数値や図像などに同一視していくだけでは、〈普通でないわたし〉や〈醜いわたし〉ばかりが量産されることにもなります。

・鏡や写真に映る〈わたし〉
 メディアで伝えられる美容整形のイメージは両極端になりがちです。一つは別人のようになって新しい人生を歩みだすハッピーな物語、もう一つは整形を繰り返すことで破滅に向かう不幸の物語です。実際の調査では、この2つの面は同一人物の同じ時期にも生じうることがわかりました。身体は生きる基盤です。劇的な変化、新しい身体の痛みや違和感、その身体で他者の前に出ることなどを経験していくなかで、「生まれ変わる」ことを実感する可能性があります。しかし身体の状態を常に監視して、反省して、問題があれば対処する習性を身につけた現代人からは、「これでいいのか」という思いが消えることはありません。鏡や写真に映った自分を見てさらなる整形が必要と思えば、「整形リピーター」になるのは簡単です。美容整形とは、儀礼を通して出来事的に人を変える伝統的な身体加工と、監視し反省し対処するという近・現代の身体加工の狭間を揺れているというのが本書の結論です。
 身体は、人が属する社会の価値観を踏まえて加工されます。美容整形は近・現代社会の方向性と合致しているからこそ流行しています。美容整形について、同時代を生きる人間の身体のありようについて、一緒に考えてみませんか。

「わたしは」「思う」――『海辺の恋と日本人――ひと夏の物語と近代』を書いて

瀬崎圭二

 5年前に、博士論文をほぼそのまま出版する形で『流行と虚栄の生成――消費文化を映す日本近代文学』(世界思想社、2008年)を刊行した際、反省させられたことがいくつかあった。この本には、私の〈専門〉である日本近現代文学研究の外側へ歩み出そうという意図があったし、なるべく私とは専門が異なる方々に読んでもらいたいという願いもあった。しかし、私の力不足や専門書という限界も手伝って、それらを完全に実現することはできなかったように思う。
 このたび、青弓社から刊行した『海辺の恋と日本人――ひと夏の物語と近代』では、とにかくこの点を少しでも改善したかった。拙著はやはりそれなりの紆余曲折、試行錯誤を経て、最終的に「青弓社ライブラリー」の一冊として刊行されることになったのだが、それは自分自身が望んだことでもある。かねてから私も読者としてこのシリーズを何冊も読んでいて、かたさとやわらかさとが入り混じったその体裁を気に入っていたからだ。
 今回の目標を、専門が異なる方々だけではなく、人文学に関心などない方々、戦前の古い文学、表現などにあまり興味を示さない学生たちにも読んでもらうことに定め、私自身もこれまで書いてきた文体を大幅に変えることにした。とはいえ、文学の研究論文の文体に慣れ親しんでいた私が、「青弓社ライブラリー」にふさわしい文体で文章を書くには多少の苦労があった。これまで守ってきた文体のルールを破らなくてはならなかったのである。
 私が大学の卒業論文を書いていた頃、こう指導されたことがある。「「わたし」という一人称を使ってはならない。「思う」という語を使ってはならない。研究論文というものは、厳正に客観的な事実を書くものである」と。以来、私はその言いつけをかたくなに守って、たとえ中身が適当でいい加減なものであっても、文体だけは断定調、あたかも自分が言っていることが〈客観的な事実〉であるかのように書いてきた。
 このたびの拙著の「はじめに」を書いていた頃のこと、担当編集者の矢野未知生さんがこんなことを求めてきた。「読者の「読書したい」という気持ちを「はじめに」でつかむために、自分の経験などを書くようにしてみてください」。自分の経験を書くとなると、「わたし」という一人称や、「思う」「思われる」という語を使わざるをえない……。こうして、私は卒業論文執筆以来15年以上守ってきた禁を破ることにしたのである。
 私としては今回の拙著はエッセーだと考えているし、少しでも多くの方々や、人文学に無縁な方々に読んでもらいたいという願いがある。そうした読者を念頭に置いたとき、やはり「わたしは」「思う」というところからスタートしないと伝わらないだろう。また、〈客観的な事実〉を書くことを厳密に重視した結果、最終的に「わたし」という一人称で語るしか術がないという認識に達し、それを選ぶことも一つの学問的態度であるだろう(実際、文学研究者のなかにはそのように論文を書いている方もいる)。
 禁を破って書いた「わたしは」「思う」の文体は、特に拙著の「はじめに」や「おわりに」の部分に顕著だが、これが意外に難しく、結局うんうんうなりながら書くはめになった。最も時間がかかったのはこの個所であることは間違いない。「わたしは」「思う」と書くことが、なんと不自由で責任を伴う表現であることか……。そして、もはや本当に思っているかどうかもよくわからなくなってきたようなことを「わたしは」「思う」と書いて、「おわりに」を結んでしまった。
 さて、拙著を脱稿して数日後のことである。大学の教員をしている私の研究室に、指導を希望する学生が論文の草稿を持ってきた。ざっと目を通し、少し困ってしまった。そこには「わたしは」「思う」というあの記述が列挙されているのである。以前なら、かつての私の先生が指導してくださったように書き改めるように言うのだが……。
 しばしの間考えあぐむのであった……。

エイズ問題との関わりを通して見えてきた日本と/の「ゲイ」 ――『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』を書いて

新ヶ江章友

 本書を書き上げたあと、様々な不安が心をよぎった。その不安はいまも続いている。調査対象者とのラポール関係を築くのが難しかったと書いたが、あのようなことを書いてもよかったのだろうか。このようなことを考え始めると、本が出版できたことの喜びとともに、憂鬱な気持ちが何度も心を去来していった。
 私は2006年に、「HIV感染不安の身体――日本における「男性同性愛者」の主体化の批判的検討」という論文を筑波大学の紀要に書いた。この内容は大幅に改稿して、本書の第3章として所収している。この論文は筑波大学附属図書館のウェブサイトからダウンロードが可能で誰でも読むことができるが、これ自体が、いわゆるエイズの活動をおこなっている「ゲイ・コミュニティ」のなかで物議を醸してしまったようなのである。この論文は、日本の「ゲイ・コミュニティ」を批判したものとしてゲイ・アクティビストやエイズ・アクティビストたちに受け入れられてしまった。書いた文章が一旦筆者の手を離れると、それを読んでどのように解釈するのかは読者に委ねられる。読者による解釈の意図がどのようなものだったかはまた別の問題として、私の論文が「ゲイ・コミュニティ」に対して何らかの刺激を与えたことで、私は今後「ゲイ・コミュニティ」とどのように関わっていくことができるのかを常に思い悩みながら現在に至っている。
 私が書いた2006年の論文は、読み方によってはたしかに「ゲイ・コミュニティ」批判ととらえられかねない側面もある。しかし私があの論文で述べたかったことは、特定の個人やコミュニティを批判することではなかった。2000年代当時、世界だけではなく日本の「ゲイ」の間で、HIV/AIDSをめぐる公衆衛生施策を通して一体何が起ころうとしていたのかを、その活動に巻き込まれながらも距離をとるという人類学的「反省」の視点から現場を見ることが、そのときとても重要であるように感じたのだ。その現場で一体何が起こっているのか――そのことを言語化し、自分なりに納得したいと思った。その成果が、本書『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』だと言える。
 日本の「ゲイ」とエイズをめぐって、どのような知が形成されていったのか。そのうえで、MSM(Men who have Sex with Men、男性と性行為をする男性)が「ゲイ」という主体としてどのように立ち上がっていくのか。本書では、この点を執拗に追い求めている。
 科学的知識が決して価値中立的で客観的なものではなく、研究者たちが生きる研究室のなかの日常的実践の延長線上で生成されるという、科学人類学におけるいわゆる「実験室研究」の見解は、MSMのHIV/AIDS感染リスク行動の調査研究にもあてはまる。純粋科学としての数学や物理学などの知識生成とは異なり、社会とより密接なつながりをもった疫学の知識生成では、その政治性がより顕在化してくると言えるだろう。厚生労働省の研究費の配分の仕方、アンケートを収集するための「ゲイ・コミュニティ」と研究者との連携のあり方、誰が味方で誰が敵かなど、そのような人間関係(=権力関係)のもとで、客観的だと言われている科学的知識(この場合、疫学的知識)はより政治性を帯びながら生成されてくる。しかし本書で描かれていることは、日本の「ゲイ」とHIV/AIDS研究をめぐる様々な実践のうちの、ほんの氷山の一角を示したにすぎない。その背後には、実はもっと多様な権力をめぐるドラマが隠れているのだ。
 本書の大きなテーマの一つになっているのが、「ゲイ」というアイデンティティと国家との関係である。私たちは国家を、人間の生き方や行動を統治していく一つの暴力機構としてとらえることもできる。その国家との結び付きを強めながらエイズ施策を展開していくという「ゲイ・コミュニティ」の構図そのものが、一体何を意味するのか。1980年代の雑誌「薔薇族」(第二書房)は、HIV/AIDSの流行にともなって日本の「ホモ」たちに批判の目が向かないよう、読者たちにおとなしくしようと呼びかけていた。だが弱者の立場に置かれたマイノリティが国家の政策と連携し始めるとき、そこで一体何が起こるのだろうか。社会学者の森山至貴は『「ゲイコミュニティ」の社会学』(勁草書房)で、「ゲイコミュニティ」についていけなさという重要な問題提起をおこなっている。しかし私にとって、「ゲイ・コミュニティ」は何か不安なものに見えてくる。ここで言う「ゲイ・コミュニティ」とは、東京・新宿二丁目などの繁華街を指しているのではない。私が言いたいのは、同性愛者同士のつながりそのものに不安を感じるのではなく、「ゲイ・コミュニティ」をコミュニティとして語ろうとする人々の語り方そのものに、何か不安なものを感じるのである。
 日本の「ゲイ」のあり方を国家との関係から分析するという試みは、まだ端緒についたばかりだ。海外では同性婚をめぐる法の整備が進んでいるが、日本では今後どうなるのだろうか。本書に示したとおり、1980年代のエイズ問題に対してこの国がどのような反応を示したのかを見ればわかるが、同性婚をめぐる問題に対しても、「対岸の火事」としてすませるわけにはいかない日がくるのではないか。そのとき、生殖医療をめぐって国内でくすぶっている様々な問題が、今度は同性婚と接続されながら議論されることになるのかもしれない。この問題は、文化人類学のなかで長年議論されてきた親族研究に、新たな一ページを刻んでいくことにもなるだろう。研究だけではなく日常生活でも、同性婚は親族や家族の意味そのものを大きく書き換えていく可能性を秘めている。そのとき、この日本という国自体が、そして日本の「ゲイ」自身が、この問題に対してどのような反応を示すのだろうか。日本で同性愛の生の様式が真の意味で試されるのは、おそらくはこれからだろうと私自身は考えている。

「ヒップホップ」を通して見えてくる世界があるはずだ――『ヒップホップ!――黒い断層と21世紀』を書いて

関口義人

 2003年に青弓社から上梓した『バルカン音楽ガイド』から数えてちょうど10冊目となる今回の本は、なんと「ヒップホップ」がテーマだ。自分でも意外と言えば意外だった。何しろバルカン、ブラス、ジプシー、アラブ、ベリーダンスというここまでの流れの先に「ヒップホップ」なのだ。青弓社と出版を合意したものの、昨年(2012年)末までは資料集めや全体の構想の決定だけに相当まごまごし、書き始めたのは年が変わってからだった。私自身長い海外生活の結果、自分の“いわゆる”アイデンティティーが希薄になり続け、どこに立っているのかが見えにくくなった。そんなときに語りかけてきたのが「ラップ」であり、聞こえてきた音楽が「ヒップホップ」だった。この音楽には、アメリカという故郷はあっても、長じた先の環境は世界中のいたるところにあるとしか言いようがないのだ。そこに焦点を絞って書いていこうと決めたものの、そこに行き着くまでの論議が薄っぺらでは説得力がない。そこで結局、ヒップホップ生誕の地であるブロンクスからまずはアメリカを縦横無尽に走り抜け、イギリス、日本を巡って世界の五大陸へと筆を進めることになった。
 私が「ヒップホップ」を愛聴しはじめて15年になる。しかしここで書きたかったのは自分のヒップホップ愛ではない。
 1989年(東欧革命)、2001年(アメリカ同時多発テロ事件)、11年(東日本大震災)と世界(そして日本)が激変し、自分たちが生まれた惑星である地球の様相が一変してしまった現在、世界を見渡す羅針盤としての意図せざる役割がヒップホップには生じた気がする。実は日本のヒップホップは世界的に見ても非常に特殊な内容を表している。それはそのまま日本社会が歩んできた「移民なき国家」の姿であり、それゆえに20年遅れてやってきた階級社会の図でもあるのだ。
 一方で世界は良くも悪くも20世紀の前半に既に階級社会が定着した。そこに生じた労働、経済、言語、社会、宗教、文化などの対立やら闘争なりが“くびき”として市民社会の上に重くのしかかった。世界が東西に分断された1945年以降も、その分岐線が南北に分かたれた80年以降の世界でも、問題の基軸の一つが「移民」だったのだ。そしてこのテーマにもっとも敏感かつ過激に反応したのはどこの国でも10代の若者たちだった。そしてそんな彼らが放ったのが「ラップ」だったのである。社会に放たれた異物としての「移民」にとっては生死をかけた一生に一度の賭けなのだ。言葉も不自由で、社会制度にもなじめない土地で彼らが獲得した、同胞との連帯とそれを支えるコミュニティー、そしてそこで交わされるコミュニケーションとしてのラップとヒップホップの激しいビートは、そのまま彼らの生の叫びであり、取り上げられるテーマは彼らの日々の苦しみなのだ。
 私が本書のタイトルに「断層」の語を選んだのはそういう理由による。それは移民としての身分の問題や、そこで加えられる差別の問題もあるし、ときには移民同士のなかにさえ火種が燻る。ヒップホップ発祥の地アメリカ東部にあっても、この音楽は明らかに移民生活を続けた人々やその子どもの世代に起爆した。それはあくまで「遊び」や「集い」のなかにしか娯楽や楽しみを見いだせなかった彼らの日常のフラストレーションの発散の手法だった。しかしやがてこの文化をになった1980年代のヒップホップ後継者たちが、そこに政治や社会的意見を持ち込んだ。ここにはじめてアメリカのブラックピープルによる言論が立ち上がったのだ。その意味で、これまでにアメリカに響いたブルース、ゴスペル、ソウル、ジャズなどの黒人が中心に発展してきた音楽と“ヒップホップ”は根本的に相違がある、と私は考えたのである。

 8章からなる本書には1,000人にも及ぶ「ステージネーム」の保有者の名前が登場する。ヒップホップに関わるDJやトラックメーカー、ラッパーなどはほとんど自らのサイン代わりにステージネームを採用し、その名前で活動する。そういうこともあって読者、ことにヒップホップになじみがない読み手にとって本書には咀嚼しにくい部分も多々あるだろう。しかし、それこそがこの文化の根幹に関わる要素であるのだから、お許し願うしかない。
 一方で普段からヒップホップをライブや音源で聴いている人々に本書がどう受け取られるかに私は大きな関心をもっている。固有のラッパーやDJについての好き嫌いにはあまり言及せずに、彼らが残してきた作品を中心に周囲の状況などとも絡めて解説を加えた。世界中で響くラップをその国の言語で理解できるリスナーは世界を探してもそう多くはいないだろう。“ことば”の表現であるヒップホップには結果として(言語の)「壁」が立ち塞がる結果になる。しかしそれが世界の現実だし、世界とはそうした場所なのである。移民はまず、その壁と闘いながら新たな土地での生活を築いていかなければならないのだ。世界に断層が存在すること自体は否定してもはじまらない。しかしそれらの対立や軋轢が人々の対話や粘り強い交渉によって、または「ラップ」の応酬によって平和裏に解決されることを心から願って、本書を書き上げた次第である。相当に疲れた。しかし充実した仕事になった。

占いは人間の営みの一つ――『占いにはまる女性と若者』を書いて

板橋作美

 今日の日本に、占いはあふれている。ところが、占いについて、それを真正面から論じたものはないに等しい。それどころか、私が占いについての本を書くと言うと、周囲から、とくに大学のような「知的」な場所では、うさんくさいものを見るような顔をされる。
 私は、昨2012年、小学校高学年から中学校低学年の生徒を対象とした占いについての本を監修したのだが、出版社の編集者から、ちょっとしたことで文部科学省に問い合わせたら、「占いですか?」と学校教育に占いなどありえないという反応だった、という話を聞いた。もちろん、それは当然で、私も学校で占いを教えるべきだなどと思ってはいない。
 ただ、人間というものを考えようとしたら、占いの問題は、避けて通りすぎるわけにはいかない問題の一つではないだろうかということだ。占いは、科学などよりもはるか昔からあり、また科学が発達した今日でもなくなることがない。それほど、占いは人間のあり方と深く結び付いている。
 占いは、人間の営みの一つである。いったい、人間以外の動植物の何が占いなどするだろう。占いは、人間が人間であるゆえん、人間が文化をもち、社会のなかで生きるということそのものに関わっている。
 私は占いの専門家ではない。私は、迷信とか俗信とか言われるもの、具体的には禁忌やまじないや予兆、あるいはキツネ憑きなどの憑きもの信仰に関心をもっている。そして、そういう迷信を人はなぜ信じるのかを考えてきた。占いは、その一部である。
 中村雄二郎は、現代思想・現代哲学の主要ポイントの一つは〈深層的人間〉の発見であり、1960年代初頭に出た3冊、フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960年)、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』(1961年)、そしてクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962年)がその問題に初めて光を当てたとしている(『西田幾多郎Ⅱ』〔岩波現代文庫〕、岩波書店、2001年、10-12ページ)。子供、精神病者、未開人らの深層的人間、そして中村がそれに加えた女性は、近代社会の内部と外部であるいは固定化され、あるいは見捨てられてきた。彼らにおいては、生は、意識的・主知的でなく、無意識的・身体的であり、またパトス的・共感的原理に支配されているとされてきた。
 彼らは、その感性的資質のために迷信にとらわれやすい人とされてきた。逆に言えば、迷信とはそういう人に固有な知識あるいは思考とみなされたのである。未開人は迷信に支配され、子供の知識と思考は迷信的であり、女性は迷信に弱いとされる。迷信の一つ、憑霊信仰では、霊的存在に憑依された者は異常な言動を示し、それは医学的には精神を病んだ人、つまり彼らは精神病者とみなされる。
 しかし、本当にそうなのだろうか。深層的人間の知識と思考は、男女の別なく、ごく普通の現代人にも潜んでいるし、われわれの知識と思考のなかには、子供、精神病者、未開人、女性と通底する何かがあると私は考えている。迷信は、一部の人間の特殊な精神に関わるものではなく、すべての人間にとって根源的な何かと結び付いているのではないかと考えるのである。柳田国男も、迷信について、「時あつては我々自身の、胸の中にさへ住んで居る。現に自分なども其一例で、今でも敷居の上に乗らず、便所に入つて唾を吐かず、竈の肩に庖丁を置かず、殊にくさめを二つすると誰かが蔭口をきいてるなどと、考へて見る場合は甚だ多い」(「青年と学問」『定本 柳田國男集』第二十五巻、筑摩書房、1964年、257ページ)と書いている。
 迷信は、特別な思考法とか論理によるものではなく、ごく日常的な思考法や論理に基づいているからこそ、いまでもなくなることがないのだ。占いは、そういう迷信の一つなのである。

裁判記録の入手だけでも難関が多い ――『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』を書いて

杉田 聡

 最高裁判決を吟味する作業は大変でした。論理の組み立て以前に、必要な文書類がなかなか手に入らなかったからです。最高裁の判決文自体は、ひとまず最高裁のウェブサイトで比較的容易に見ることができます。
 しかし最高裁判決には、地裁・高裁での判決日・判決番号などが一切書かれていません。それぞれに電話を入れましたが、どの判決かは確認できないと言われて途方に暮れました。最低でも判決番号か被告の名前がわからないとだめなようなのです。もちろん被告の名前はわかりません。判決番号もわかりません。しかし、判決日がわかれば事件はある程度は絞られます。
 でも、判決日をどう確認すればいいのか? 事件は千葉市で起きたことがわかりましたので、「千葉日報」その他の地方紙に出向いて縮刷版をめくる必要があると判断しました。ある地方紙に許可をとりましたが、はたして判決が本当に報道されているどうか。それは全く確証がありません。
 それでやむなく再度地裁と高裁に電話を入れ、何とか手がかりがないかと問い合わせました。でも、何も手がかりはありませんでした。再び途方に暮れましたが、ほかに手がないため、試しに最高裁に電話を入れてみました。ところが、予想に反して担当者が親切な人で、「じゃあちょっと調べてみる」と言ってくれ、ほどなく地裁第一審・高裁控訴審の判決日・判決番号がわかりました。
 しかし、問題はこれでは終わりませんでした。問い合わせたのが、最高裁判決が出てからあまり間がない時期だったので、関連書類一式は第一審を担当した地検(千葉地検)に戻されるとわかったものの、戻るまでに実はかなりの時間がかかるというのです。
 それで待つこと4カ月。やっと書類が戻されて許可が下り、2011年12月下旬に千葉地検に出向いて、第一審・控訴審それぞれの判決文を閲覧しました。一般に判決文は閲覧できません(「判例時報」などにも両判決はいまだに記載されていません)。でも私は研究者であり目的は研究ですから、許可される可能性は大きいのです。ただし、私は法律学が専門ではありません。所属は畜産学部であり専門は哲学です。でも性犯罪は私の研究テーマの一つでこれまで何冊かの関連本を書いているという説明をすると、幸い問題なく閲覧の許可が出ました。
 そして千葉地検で判決文を閲覧した日は、当の事件が起きた月と日でした。というより、その日に合わせて千葉地検に出向いたのです。というのは、現場を見ておく必要がどうしてもあったからです。特に、現場は「有数の繁華街」なのに女性が逃げられなかったことは不自然だと判決は決め付け、それをもって女性の供述に信用がおけないと判断したからです。本当はどの程度の繁華街なのかを見る必要がありました。
実際は、事件現場はほとんど人けがない場所だったことは、本文に記しました。裁判官はもちろん弁護側も、その事実を確認していません。もちろん、人けが多いかどうかは直接には問題に関係しませんが(人けが多くても女性が逃げられるとはかぎりません)、少なくとも最高裁判決がこれを問題にした以上、それが事実かどうかの確認はどうしても必要でした。そして事件が起きたのは午後7時すぎでしたが、師走のこの時期は現場付近はかなりの暗がりでした。しかし最高裁判決では、近くにホテルがあったから明るかったはずだと決め付けています。そうした事実が単なる憶測でしかないこともわかりました。
ただし、気象庁の気象記録を見ますと、事件が起きた2006年の12月27日と11年の同日とでは、気温差が小さくないことがわかりました。つまり、私が現場に行った日はたまたま寒かったために人けが少なかった可能性があります。そのために、別の気候がよい時期の同じ時間帯に再度確認する必要があると思い、以下に述べるように、12年の7月24日に再度千葉地検に行った際、同じ場所、同じ時間帯に、現場での人通りを確認しました。このときすでに日は陰り、気温は26、7度程度でした。でも両日ともに、人けにほとんど違いはありませんでした。ただし、5年間で周辺環境が変わった可能性はないとは言えません。この点は、すぐそばに立つ交番で複数の警察官に確認しましたが、基本的に変わっていないこともわかりました。
 第一審・控訴審判決文は無事に入手しましたが、次の問題が起きました。判決文を見ただけでは、事件の細部はやはりわからないのです。コラム執筆の弁護士(養父氏)に相談して、どの調書類を見る必要があるかを指示してもらい、次の機会には、可能な限り多くを閲覧する必要があると判断しました。
 でも、ここで問題が起きました。調書類を含めて当該事件に関わる書類一式が、研究のために他の裁判所あるいは検察庁に貸し出されてしまい、なかなかそれが千葉地検に戻らなかったのです。かなりの時間待ちましたが、それを閲覧できたのは、判決文を閲覧し終えてから7カ月(最高裁判決が出てから1年)もたっていました。それでようやく7月下旬に再度千葉地検に赴き、1泊して2日間、細かな調書類をかなり読みました。そして同時に、上記のように現場に再度行き、人通りがどのくらいなのかを確認しました。また女性が働いていた場所と被害現場までの距離、その現場の様子などを確認しました(弁護側は、女性が職場を出てから被害にあうまでの時間が合わない、だから女性の供述は嘘だ、という控訴趣意書を出していましたので、職場から現場までの距離などを確認する必要がありました。また被害のさなかに警備員が2人を見ていますが、そこがどの程度に事実を認知できる明るさだったかも、確認する必要がありました)。
 こんな苦労がありました。私は北海道帯広に住んでいるので、帯広→東京→千葉と移動し、書類を入手するだけで往復を含め最低でも2、3日を要します。謄写(コピー)費用を含めて経費もばかになりません。大変な苦労をしましたが、現状の改革にいくらかでも資するところがあるなら、苦労も十分に報われます。

ひとは政治をどのように見ているか――マーレー・エーデルマン『政治スペクタクルの構築』を訳して

法貴良一

 マーレー・エーデルマンは人々の政治に対する意味づけを研究の焦点とする数少ない政治学者のひとりである。本書によれば、政治における指導者や敵、問題は「即自的に」指導者や敵、問題であるわけではなく、政治のアクターやマス・メディア、一般の人々がそのように把握することによって、指導者や敵、問題になるという。こうした視座から、エーデルマンはニュースがスペクタクルを提供すること、ニュースが指導者や敵、政治問題からなるスペクタクルを構築するように人々に促すこと(人々は単なるスペクタクルの受け手ではなく、自分でもスペクタクルを構築する)、それは政治に対する意味づけであり、意味づけはなんらかのストーリーのかたちをとることを説明する。こうした分析枠組は政治学においてはきわめて異例のものだが、われわれが政治を理解したり、政治に関わる際に生じている事態に照らせば、きわめて正当な設定だと私は考えている。この小文ではそのことを簡単に説明してみたい。
 ふつうのひとの政治の捉え方は、多くの社会科学者が目指すような「価値中立的」な事実関係の把握やその合理的な説明とは異なる(ただし、社会についての学問は社会に還流するから、社会科学者の捉え方が援用されることもある)。人々にとって政治は感情移入と道徳的判断の対象である。たとえば社会保障縮小政策は、ある人々にとってはみじめな老後をもたらす悪政として、義憤の的となる。だが、別の人々にとってはそれは政府依存からの脱却であり、自助精神の回復をもたらす善政として歓迎すべきものとなる。また、貿易や領土をめぐる他国との紛争は、理不尽な相手国による国家の尊厳の毀損であり、自国政府の軟弱政策の破綻を意味するものとなるかもしれないし、自国政府の無神経な対外政策の当然の帰結と捉えられるかもしれない。むろん、いずれの例にせよ、別の捉え方がされる可能性がある。だが、ここで押さえておくべきはそうした捉え方の中身ではなく、人々が政治的なできごとについてなんらかの感情的かつ道徳的な観点から意味づけをおこなっていることである。そして、意味は文脈のなかであらわれるものだから、決して完成することのない物語であるにせよ、政治的なできごとは物語の一場面として捉えられていると言ってよい。
 人々が政治に意味づけをおこない物語を読みとっていることは政治のアクターも承知している。だから、政治家や官僚、マス・メディアは政治活動や政策をドラマ仕立てで提供しようとする。この政策を採用することでこれこれの成果が達成されるはずであると語ること、ある事態がどのような歴史的経過で発生したか説明すること、いずれも一つの物語の提供である。政治のアクターがどのような行動方針を推進し、どのような社会を実現しようとするにせよ、それを説得力あるストーリーに仕立てなければ多くの人々の支持や忠誠を得ることはできない。こうして、政治は、できごとや政策、アクターについてのさまざまな意味づけが競合し、さまざまな物語が錯綜するアリーナとなる。
 エーデルマンのような例外はあるものの、不思議なことに、政治学は一般の人々やアクターが政治をどのような観点から捉え、そこにどのような意味を読みとり、どのような物語を仕立て上げるかという問題にほとんど関心を寄せてこなかった。政治学における政治は権力や利益をめぐる闘争であり、イデオロギーをめぐる対立であり、制度や政策の創出や改変をめぐる選択である。それを「客観的に」局外者の視点から、言い換えれば神の視点から検討する。もとより、人々の感情や道徳的スタンスがつねに無視されるというわけではない。そうした「非合理的要素」は、政治の世界を合理的な枠組で理解するために、世論調査のデータのように研究者の必要に即したかたちで処理される。こうして、設定される政治の世界はすべて研究者のコントロール下に置かれる。それは政治の当事者たちが築いている世界ではない。
 私はたいていの政治学が設定する政治の世界に違和感を禁じえなかった。一般の人々にせよアクターにせよ、彼らの政治の捉え方が彼らの政治的選択や政治行動を規定する最大の要因のはずである。それを見ずして、いくら概念を精緻化し、複雑な分析枠組をつくり上げたところで、現実の政治を説明できるわけがない。そうした違和感を抱えたまま、政治学主流と同じ方向を目指すことはとてもできそうもない。私は政治学に向いていないのではないか。そんな思いを払拭できずにいるところに出会ったのがエーデルマンであった。最近では政治学の書物は敬遠される傾向にあるようだが、もしその原因が政治学主流の設定する政治の世界に対する違和感だとしたら、ぜひエーデルマンを読んでいただきたい。ものごとを意味づけ物語を紡ぐ存在としての人間を理論にとり込もうと努力したのがエーデルマンである。