外骨の声:もう一つの『映像のアルケオロジー』――『映像のアルケオロジー――視覚理論・光学メディア・映像文化』を書いて

大久保 遼

 本書のもとになった博士論文の、そのまたもとになった論文を書いていた頃の話である。長い学生生活の、そのまた延長戦のような日々を過ごしながら、本郷にある地下の薄暗い書庫に通っていた一時期があった。明治期に発行された写真雑誌や教育雑誌、投稿雑誌などに掲載された幻燈についての記事を探すためである。古めかしい扉を開けたその先には、いつも古い紙とインクの匂いが立ち込めていて、明治か大正で時間が止まったようなその書庫の閲覧室で、100年以上前の雑誌をとにかく一心不乱にめくっていた。その頃私の人生はいろいろあって、これはもう引きこもって研究でもするよりほかにないという状況で、とにかくその書庫に通いながら完成するあてのない論文を書き続けていたのである。と書くと、あまりに時代錯誤で浮世離れしていて投げやりなように思われるかもしれないが(たしかに事実そのとおりだったわけだが)、その書庫と閲覧室で過ごした時間は、振り返ってみると、慌ただしい日々のなかの一時の凪のような、とても静かで心穏やかな時間だったように思う。
 一口に明治時代の雑誌記事を探すといっても、目当てにしていたのは著名な雑誌ばかりではなかったから、もちろん記事がデジタル化されているわけでも全文検索ができるわけでもない。当時は「明探」(「明治新聞雑誌文庫所蔵検索システム」〔http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp〕)などという便利なものもなく、かろうじて冊子体の索引が用意されている雑誌がある程度だった。しかも「幻燈会」の開催報告のようなマイナーな記事が目次レベルで登場することはまれで、あれこれ試したあげく、結局1冊ずつ全文に目を通すことになった。とはいえ教育会雑誌だけでも各府県、場合によっては市単位で月1とか隔週で発行されていて、明治20年代から30年代に限ったとしても、生半可な学生にとっては気が遠くなるような作業だった。途方もない数のボロボロの冊子を前にめまいを起こしながら、しかし無駄に時間と投げやりな心境だけはあったので、「まあ仕方ない、やるか」ととくに前向きとも言えない心持ちで、来る日も来る日もページをめくっては「幻燈」の2文字を追っていた。
 最初は明治期の学校教育のレポートだの熱意ある先生方の議論だのを興味深く拝読する余裕があったのだが、途中からはあまりの量に、「幻」と「燈」の2文字だけを、ほとんど獲物を探すハイエナのように追い回すはめになった。どれだけ読んでも獲物が見つからない日もあれば、一度に大量の収穫があるときもあり、そのうち長い長い空振りと落胆と意気消沈の果てに「幻」と「燈」の2文字を見つけると、アドレナリンがどっと脳内に放出されて、眼前にまさに幻の燈がぼおっと浮かび上がって見えるような気さえするようになったのである――(というか、その前に早く寝るべきである)。そうして半地下の書庫から日常へと帰還する頃には、いつもとっくに日が暮れていた。
 そんなある日のことである。もう時効だと思うのでここに記すが、いつものように19世紀末の古雑誌を読みに地下へ続く階段を下りて重々しい扉を開けると、夏の書庫はいつにもまして静かで、ただひんやりとした空気があたりに漂っている。閲覧室にも人の気配がなく、いつもの司書の方々の姿もない。奥で大事な会議でもしているのだろうか、そう思ってうろうろしてみたものの、人の気配がないばかりか物音さえしない。とりあえず廊下の端から端まで歩いてみたが、手掛かりなし。はて、おかしなこともあるものだ、そう思いながら、ふと廊下の隅に目を向けると、いつもは固く閉ざされているはずの扉の1つが、なぜか半開きになっている。それだけならば、とりたてて気を引くような出来事でもないのだが、どういうわけかその日はその扉の向こう側が気になった。
 いまでもなぜ、そんなことをしようと思ったかわからない。しかしそのとき、なぜか衝動的に、その扉を開けて、見知らぬ部屋のなかに足を踏み入れていた。魔がさした、としか言いようがない。それはそれほど広くはない書斎のような部屋で、書棚とキャビネットが数台、あとは古めかしい机と椅子が置かれていたように思う。なにせなんの心構えもなかったのであいまいな記憶で申し訳ないが、とにかくそこに1枚の写真が掲げられているのが目に留まった。それが、このアーカイブの創設者で初代の主任を務めた宮武外骨の写真だったのである。そこではたと気がついた。ここが、赤瀬川原平さんの本に登場した、宮武外骨の部屋ではないかと。
 そう思って部屋のなかを見回すと、入り口脇のキャビネットに古いアルバムが並べられているのが目に入った。これはもしや……とおそるおそる手に取ってページを開くと、そこにあらわれたのは、外骨によって収集された絵はがきのコレクションだった。『外骨という人がいた!』のなかで紹介されていた、あの絵はがきである。「一二三」だの「笑う女」だの「骨」だのと題されたアルバムには奇怪でナンセンスでどこかユーモラスな絵はがきの数々が並べられている。近代日本の言論空間を形成した膨大な数の新聞と雑誌を収めたアーカイブのなかに、歴史や意味や物語が充満した書庫の真ん中に、とびきり魅力的な無意味を仕掛けておくなんて、さすが宮武外骨! ただ者ではない、などと思いながら一心にページをめくっては、ただただ無数の絵はがきの、訳がわからないイメージの氾濫を眺めていた。そのときふと人の気配がして振り向くと、そこには誰の姿もなくただがらんとした書斎が広がっているばかりであり、しかしどこか遠くから豪快な笑い声だけがかすかに聞こえた気がした。

第47回 『フルトヴェングラーを追って』、発売後2週間で増刷決定!

 拙著『フルトヴェングラーを追って』(青弓社、2014年)が発売後、わずか2週間で増刷が決定した。これは、単純にうれしい。無論、初刷も第2刷も部数は少ないのだが、この出版不況のなかにあっての増刷は、ちょっと胸を張ってもいいかもしれない。フルトヴェングラーにも感謝、である。
 すでに直接感想を寄せてくれた人がいるが、そのなかで最も多かったのは「フルトヴェングラーのSACDについて」だった。私と同じように、「いったいどこがいいのか、さっぱりわからない」と悩んでいたファンが、本書を読んで我が意を得たりと納得してくれたのである。続いて多かったのは、「レコード年表」を喜んでくれた人。「見ていると、次々にいろいろなことを思い出しました」「フルトヴェングラーが他界した時点で終わっているのではなく、現在まで続いているのがよかった」など。あとは「手前味噌」、自分の作ったCDの制作裏話である。私自身はそんなに面白いとは思わないけれど、でも多くの人が楽しんで読んでいるのは間違いないようだ。そうなると、フルトヴェングラー以外のCDについても、〝自作CD裏話〟などとして1冊にまとめたら受けるだろうか。何せ自前レーベルのCDは予定も含め、いまや110タイトルにもなる。そのうちの4割がフルトヴェングラーだが、それ以外はブルーノ・ワルター、カール・シューリヒト、ハンス・クナッパーツブッシュ、ポール・パレー、ピエール・モントゥー、ヘルベルト・フォン・カラヤンなどである。特にワルターは、かつてのコロンビア・レコードのプロデューサーだったジョン・マックルーアとも直接連絡がとれ、実に多くの情報を得ることができた。つらつらと思い出してみると、それなりにネタはあるかもしれない。真剣に考えてみようか。
『フルトヴェングラーを追って』をインターネットで検索していたら、「Amazon」のカスタマーレビューがたまたま引っかかってきた。ふーんと思った。投稿者はたとえば、本書の「メロディア/ユニコーン総ざらい」の項について「特に目新しいものはない」と書いている。この文章の一部はベートーヴェンの『交響曲第9番「合唱」』(GS-2090/2013年1月発売)の解説にも書いていて、内容の一部は重複するが、ユニコーンの創設者ジョン・ゴールドスミスやイギリス・フルトヴェングラー協会会長のポール・ミンチンなどの顔写真は、ゴールドスミスから提供されて初めて確認できたものだ。それ以前、国内の出版物に彼らの写真は使用されたことはないと思うし、日本国内でもこの2人の顔を認識できるフルトヴェングラー・ファンはほとんどいないと思われる。そして、最後のほうには私以外の、わずかに1人か2人の関係者しか知りえない情報も記してある。そもそも、メロディアとユニコーンについて、これだけ系統だって記した文献は過去に日本国内ではもちろんのこと、海外でさえも例はない。にもかかわらず、この「Amazon」の投稿者は「目新しいものはない」と断じている。そうなると、この人物は、それこそ化け物のようにフルトヴェングラーに関する知識と情報をもち、なおかつ内部情報さえも見透かす神通力の持ち主ということになる。近々、この投稿者と連絡がとれることがあれば、こちらから頭を下げて教えを乞うとしよう。さすが、世の中、上には上がいるものである。

(2014年2月4日執筆)

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第46回 書き下ろし、『フルトヴェングラーを追って』が完成

 2014年1月22日に、拙著『フルトヴェングラーを追って』(青弓社、四六判、288ページ、定価2,000円+税。参考〔/wp/books/isbn978-4-7872-7345-1〕)が発売される。これは『クラシック100バカ』(青弓社、2004年)、『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房、2008年)、『クラシック・マニア道入門』(青弓社、2011年)に続く、4冊目の書き下ろしである。詳細は上記の青弓社のウェブサイトで確認していただきたいのだが、とにかくヴィルヘルム・フルトヴェングラーのディスクに焦点を絞り、そこを徹底的に掘り下げたものである。写真は通常のSP、LP、CDのレーベルやジャケットは無論のこと、さまざまな肖像、リハーサル風景、プログラム、チラシなど、200点以上も含まれる。この本のおかげでこの年末年始は1日も休めず、12月に入ってから続けて40日も無休だった。けれども、08年の『クラシック名曲初演&初録音事典』は08年1月2日から約2カ月半、全く無休だったのに比べると、今回はずっと楽だった。
 本書を校正していて、ある一定の速度で書いたのはいいのだが、文章が相当に隙だらけだったことを反省した。速く書いても、もっときちっと書けるようにしなくてはならないのだ。もう1つ感じたのは、精度を上げることの難しさである。章ごとに書いた時期が異なるとはいえ、表記の不統一をはじめ、見落としや思い込みがあちこちに散乱していた。校正は初校、再校、再々校、そして印刷に入る直前にもう一度、合計4回も見直したわけだが、特に3度目の再々校は「それまで何を見ていたの?」と言われても仕方がないほどたくさんの赤字で埋まった。もちろん、この4回の間には編集者のチェックも入るのだが、それでも次々と修正が出てくる。ちなみに、『クラシック名曲初演&初録音事典』は筆者、担当編集者、外部スタッフ4人(全体を4分割して集中的にチェック)が総出で原稿を見ていたのである。『フルトヴェングラーを追って』にも、あってはほしくないが、おそらくいくつかの間違いは含まれているだろう。そう思うと、ほとんどノー・チェックで垂れ流されているインターネットの情報が、いかに精度が低いかがわかるというものだ。
 今回、こうしてフルトヴェングラーの本を1冊出してみて、自分の頭のなかではいろいろなことが整理された。それに、大小さまざまな新規の情報は、まだまだ掘り起こせるのだという手応えも感じた。加えておきたいのは何人かの協力者に対する感謝である。彼らについては「あとがき」に記しているが、その方々のおかげで本書がいっそう読み応え・見応えのあるものになった。
 本書とほぼ並行して、フルトヴェングラーのCDの仕込みを2点分おこなった。その過程でもいくつかの発見はあった。そのような次第なので、自分にとってフルトヴェングラーは、引き続き追い続けなければならない対象のようだ。

(2014年1月14日執筆)

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第45回 クリストファ・N・野澤先生をしのぶ

 日本人演奏家、および日本で活躍した海外の演奏家についての研究者・コレクターであったクリストファ・N・野澤先生が、2013年8月13日に亡くなられた。享年89歳。この知らせはなぜか伏せられていて、9月に入って私を含め、多くの音楽関係者に伝えられた。
 まず、野澤先生の略歴は以下のとおりである。1924年4月24日、東京生まれ。小学校時代はロンドンで過ごし、このときにハミルトン・ハーティら多くの演奏家を聴く。暁星を経て名古屋帝国大学に入学、遺伝学を専攻。卒業後は上智大学、清泉女子大学などで生物を講義。コオロギの研究では著作もあり、北杜夫『どくとるマンボウ昆虫記』(〔新潮文庫〕、新潮社、1966年、181ページ。当時の筆名は野澤登)でも触れられている。また、昆虫の鳴き声を録音したレコードの監修もおこなう。
 父親のコレクションを戦火で失うが、戦後から日本人演奏家のものを中心に収集を始める。ラジオ番組『音楽の森』(FM東京、1976―90年)では故・立川澄人らとのトークで人気を博す。1996年から弦楽器専門誌「ストリング」(レッスンの友社)では邦人によるクラシック演奏史の研究「幻の名盤伝説」を70回あまり連載。最近では、ロームミュージックファンデーションのSP復刻シリーズ、諏訪根自子の追悼盤(日本コロムビア)など、野澤先生監修のCDは多数発売されている。
 私が野澤先生に初めてお目にかかったのは2000年か01年だと思う。とある方から「会ってみませんか」と言われたが、何せコレクターのなかには一癖二癖ある人が多く、ちょっと二の足を踏んでしまった。しかし、実際にお目にかかった野澤先生は非常に温和な紳士だった。最初の出会いは先生のご自宅である。狭い部屋にはレコード、資料類がびっしりと並んでいた。コレクターのお宅におじゃますると、「お聴かせしたいが、行方不明なので次回までに探しておきます」ということがときどきある。けれども、野澤先生の主要なコレクションはきちんと整理されていて、そのようなことは全くなかった。ノートがたくさんあって、個々の演奏には番号が付けられていて、その該当の番号のCDR、ミニ・ディスク、カセット・テープなどがすぐに取り出されるのだ。もちろん、SP盤も次から次へと出てくる。とにかく、野澤先生のお宅にうかがうと、あれこれと希少な音源が矢継ぎ早に鳴らされるし、見たこともないような貴重なプログラムや写真などが次々に出されるので、ひたすら「ええ?」とか「おー!」とか、そんな声を出しっぱなしだった。
 野澤先生はご自身の収集方針について、以下のようなことを言われていた。「海外の演奏家は海外の人たちに任せればいいんです。日本人の演奏家のことは、日本人にしかできませんから」「私はとにかく現物主義。雑誌の予告にあった、カタログに載っていた、それをうのみにしてはいけません」「完璧な人間はいません。どんな立派な資料だって間違いはあります。それに単にケチをつけるのではなく、みんなで情報を交換し合って、より精度の高い物を作り上げればいいんです」
 野澤先生とお会いして以来、個人的に最も印象が強いのは1910年に録音されたベートーヴェンの『交響曲第5番』(ドイツ・オデオン)だった。このSP盤は指揮者の記載がなく、しかもシュトライヒ・オルケスター(ストリング・オーケストラ、弦楽合奏団)と記されていることから、長い間「弦楽器だけで演奏された駄盤」と認識されていた。ところが、野澤先生が入手されたSPを聴くと、完全なフル編成であり、カットもない完全全曲だったことが判明したのである。それまではベートーヴェンの『交響曲第5番』といえばアルトゥル・ニキシュ指揮、ベルリン・フィルの1913年録音が史上初の全曲盤とされていたわけだが、この定説が見事に覆されたのである(この演奏はのちに指揮者も判明し、CD化もなされた/ウィング・ディスク WCD-62)。
 8月に入り、ある関係者が野澤先生に何度電話しても出ないことを不審に思い、アパートの管理人や警察官同伴で野澤先生宅に入ったところ、倒れている野澤先生が発見されたという。もう少し発見が早ければ、助かったのではと思った。しかし、ある方から耳にしたのは、野澤先生が「もしかすると、今年の夏は越せないかもしれない」と漏らしておられたとのことだった。
 野澤先生ご自身が自覚されていたのであれば、これは仕方がないことだ。天寿を全うされたとしか言いようがない。けれども、客人が驚き、その姿を見て上品な笑みを浮かべておられた野澤先生の姿が二度と見られないのは、やはり非常に寂しい。
(略歴に関しては富士レコード社、河合修一郎氏から情報を提供していただきました)

(2013年9月11日執筆)

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背中を押してくれたこと――『政岡憲三とその時代――「日本アニメーションの父」の戦前と戦後』を書いて

萩原由加里

 かれこれ10年以上に及んだ研究を1冊の本としてまとめる作業は、思っていたよりも骨が折れる作業だった。特に、本書のベースになった博士論文の提出から6年が過ぎている。博士論文の提出後から現在に至るまで、さまざまな大学で非常勤講師をしてきたが、教壇に立ってからのほうが、大学院に在籍していたころよりも学ぶことが多かった。単に調査を進め、新たな事実が明らかになったことだけではない、自分自身の研究手法の変化が、本書を執筆するにあたって最も苦労した点である。本書の随所に、10年間にわたる著者の成長が反映されていて、各時期の論文がパッチワークのように組み合わされているので、パートによって雰囲気が違うことに気づいた読者もいるかもしれない。
 そして、一度構築した博士論文を、再構築するという作業にも苦戦した。例えば「あとがき」に図版を入れているが、これは本書のために新しく撮影しにいった写真である。苦肉の策として「あとがき」に組み込んでみた。8月の猛暑のなか、君野直樹氏に同行して政岡憲三の墓を訪れ、汗だくになりながら草取りをしたときの写真である。余談ながら、筆者の趣味はガーデニングであり、草取りには自信がある。このようなところで自分の趣味が生かされるとは思いもよらなかった。
 ところで、この数年間でアニメーションに関する研究は急速に進んでいて、どこまで最新の知見を盛り込むかという点でも悩んだ。学術として、より完成度が高いものを求めれば求めるほど、この本は永遠に刊行できないままだと途中で覚悟を決めた。あくまでも博士論文を基礎とし、その後の調査で得た資料を追加するという形に落ち着いた。十分な分析をできなかった資料もあり、また目は通していたものの文中では言及できなかった著作や論文が多い。本書は基礎研究としての位置づけであり、それぞれの学問分野から政岡憲三という人物を研究するきっかけになってくれれば幸いである。
 なお、本書は著者が大学院時代に所属していた研究科から助成金を受けて刊行したものである。2014年の秋、助成金は14年度で最後になるとアナウンスされた。この助成金に採択される条件の一つが、14年度3月末までに刊行されることである。このころ、本書の刊行時期は未定だった。しかし、この知らせを受けて、3月末までに刊行することが決まった。そこからスケジュールを逆算して、怒涛の勢いで作業は進んでいった。そのせいか、完成した見本を手にした後で、うっかり参考文献一覧の類いを掲載し忘れたことに気づいた。読者のみなさまには何かとご不便をかける本である。
 その肝心の助成金だが、2015年度も継続することになった。その知らせが著者の元に届いたのは15年4月1日であり、最初はエイプリルフールのジョークかと疑ったほどだ。しかし、14年度で助成金が最後になるという知らせがなければ、著者は本書を刊行する最後の決心がつかなかったはずである。物事には勢いというか、時の運というものもあるのかもしれない。

第44回 諏訪根自子の新発見音源について

 2013年6月5日、「朝日新聞」の夕刊に諏訪根自子の新発見音源についての記事「天才少女全盛期の調べ」が掲載されていた。曲目はブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』、1949年11月28日の放送で、東宝交響楽団との共演とある。これを見て、私は何やら意図的なものや、釈然としないものを感じた。諏訪は2012年3月に他界していたが、それが公になったのが同年9月だったため、多くの人に衝撃を与えたのは記憶に新しい。とにかく、この「朝日新聞」の記事を読むかぎりでは、新発見の音源は諏訪の死後、思いがけず発見されたかのように読めてしまう。だが、これは厳密に言えば正しくない。そもそもこの音源の存在は、私が知るかぎり、少なくとも数年以上も前に知られていたからだ。なぜなら、私はある関係者から「このような音源があるが、発売する意義はあるだろうか」と相談されたことがあり、しかも、その関係者は私に音源のコピーまで送付してくれたのである。
 こうした音源が世に出ることに関しては歓迎すべきことだが、正しくない事実関係については、やはり異議を唱えたい。なお、私が得た情報では、このブラームスの伴奏指揮は上田仁(うえだ・まさし)とのことである。

(2013年6月5日執筆)

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第1回 書店を辞めて、遍在する本屋を目指す

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

 はじめまして、久禮亮太と申します。今年の1月に、新刊書店のあゆみBOOKS小石川店の店長の職を離れ、「久禮書店」を始めました。
「久禮書店」とは名乗っていますが、まだ店舗はおろか、本の在庫も持ってはいません。ネット古書店や、いわゆるアフィリエイトで稼ごうというものでもありません。書店員の仕事の経験や人脈、技能を携えてあちこちへ出向くという、いわばフリーランス書店員を始めることにしたのです。
 勝手に始めたこのわけのわからない取り組みに対して興味を示してくださる方々がいて、ありがたいことに、報酬がある仕事をくださる方も現れました。
 独立して初めての仕事は、新刊書店でもあるブックカフェで、売り場全体の選書をすることでした。また別の、本と雑貨とカフェの店では、ブックフェアの選書に加えて、書籍担当スタッフに書店実務を指導するというご依頼をいただきました。
 このような選書に絞って関わる、いわゆるブックコーディネートや、書店の現場に即した知恵を共有していく仕事は、本屋の専門的な技能として、いろいろな場所で求められていることがわかりました。
 また今後は、他店に身ひとつで関わる仕事だけではなく、自分自身の売り場を持って、この手で仕入れた本を読者に届けたいと思っています。ただ、それは一軒の自分の店を開業するということではなく、いろいろな場所に棚を持って出かけていく「あちこち書店」をやりたいのです。つまり、棚を乗せて移動する車両書店、様々な業種の店舗やオフィスに間借りする書棚、イベントスペースを貸し切って「ひとり書店」たちが小ブースを並べるブックフェスなど。そのような活動を継続しながら、その後に、自分の店を構えたいと思うのです。
 この連載では、久禮書店の今後の活動をリアルタイムでお伝えしながら、久禮書店の土台となったあゆみBOOKSでの経験を、回を追って次のように振り返りたいと思います。

 棚や平台をどう編集してきたか――書店で本を探すということ自体に楽しさを感じてもらい、長く店のファンでいてもらうためには、いちばん大切な仕事ではないでしょうか。ネットで買ってもいいし、買わなくても生きていける本というものをどうやって面白そうにみせるのか。
 売れた本のスリップを、どう活用してきたのか――売り上げスリップをチェックするのは、単に売れ筋を追いかける作業ではありません。なぜ売れたのかと考えながら、読者の視点を自分の内面に取り込んで、その立場なら、次は何を求めているだろうかと考える作業なのです。
 新刊書籍だけではなく、アウトレット本を扱ってきたのはなぜか――それは、書店にも、よそでは買えない掘り出し物や、その場限りのバーゲンの楽しさがあるべきだと考えたからです。また、新本の仕入れ予算や持てる在庫の制限に対抗して、本にこだわった品揃えで棚を演出するには、うってつけの商材だったからです。
 読者とどのようにコミュニケーションをとるのか――売り上げスリップと平台を介した無言のやりとりや売り場での会話を通して、読者のライフスタイルに寄り添った売り場の編集をできるか。売り場でのイベントに参加してもらうことで、リアル店舗の楽しさを生み出していけるか。

 このような事柄について、これまでの取り組みと、これからどう発展させていくかということをレポートしていきたいと思います。
 そして、この連載をきっかけに、現場の様々な制約のなかで仕事を模索する書店員のみなさんと、会社の垣根を越えて連帯し、教え合い学び合う場を実際に作れたらと期待しています。さらに、書店員がその経験や技術を生かして著者や編集者と協働する場を持つことをも考えていきたいと思います。

 私は、あゆみBOOKSでおよそ18年を過ごしました。学生時代にアルバイトとして早稲田店に入って6年間。その後、よその新刊書店への短い就職を経て、正社員としてあゆみに戻って12年間。最後の4年間は、小石川店の店長を務めました。
 あゆみBOOKSチェーンは、首都圏と宮城に13店舗があり、おもに100坪以下の中規模店で構成されています。どの店も、書籍の品揃えは正社員が担当していて、各人の裁量が大きく認められてきました。どの店も、地域住民の好みや各店長の色が反映されて、独自の雰囲気をつくってきました。
 どの店も比較的、書籍単行本の売り上げ構成比が大きく、とくに私が預かる小石川店は、売り上げ構成比以上に、人文書や文芸書の在庫を潤沢に持っていました。しかし、それは順調に売れていればこそ、可能なことでした。
 私たちの店も、業界全体の流れと同じく、売り上げは漸減していました。私たちが、その売り上げ減少の実情に合わせて在庫を返品し、新たな仕入れを減らすことは、経営上当然のことでした。
 他方、この状況をより複雑にする事情も出てきました。私たちが書籍の大半を仕入れる取次が、ある施策を始めたのです。簡単にまとめると、こうです。店舗の売り上げ額に対する返品額の比率(返品率)を、前年よりも下げればその成績に応じて取次から書店に報奨金を支払い、反対に上回れば書店が罰金を納めるという契約です。あゆみBOOKSも数年前から、この取り組みに参加しました。
 返品を減らし、それによって得る報奨金という、いわば真水の現金を獲得することは、経営を短期的には潤します。本の売り上げ金から純利益を濾過して同額の現金を得ようとすれば、途方もない売り上げが必要だからです。
 仕入れにかかる支払いの軽減と、この契約による報奨金の獲得を両方とも実現するためには、現場の私たちは、ひとまずは在庫を一気に返品し、以後は注文をできるだけ抑えて在庫を少なく維持して、無用の返品を出さないことが必要でした。そうすることで、本を売って得ることよりも大きな現金収入を会社にもたらすという、倒錯した「成果」を生み出すかもしれなかったからです。
 しかし実際には、そううまくはいかない。少ない在庫を回転させて、思惑どおりに低い返品率のなかで安定して売り上げをたてられる店は限られています。例えば駅前の好立地で、競合店がない。不特定多数の幅広い客層に恵まれているために、配本で入荷したもの以外に、意図的に品揃えを差別化する発注が(とりあえずは)少なくてすむ。そのような条件のもとでだけではないでしょうか。
 当然、そんな恵まれた店はそうそうありませんし、その好調な店にしても、標準的な商品構成の店であるかぎりは、業界全体に共通する売り上げの減少には、大筋では同調しています。
 売り上げの縮小に合わせて店舗の在庫量を減らさなければならない。それでいて委託配本は入荷する。たいてい、それらは店に最適なタイトルの本ばかりではないので、より売れそうなものを積極的に注文して入れなければいけません。配本された新刊にも、自分で注文したものにも、やはり当たり外れはあります。売ろうとすれば、どうしても返品は増えます。チャレンジする品目は減らさないで、1点あたりの注文冊数を少しずつ抑えていくしかありません。
 このように在庫をスリムにしながらもできるだけ売ることを目指すには、日々の売り上げや仕入れ、返品の数字を把握する必要があります。予算が許すギリギリの線まで、積極的な仕入れと、売れるものへと取り替える注文が必要ですし、長く積むべきものの在庫を守るためには、より短期のうちに見切りをつけるべきものを探し当てて返品もしなければいけません。
 ここに、返品率を下げれば金を出すという条件が挟まれるとなると、ややこしくなりました。「注文してはいけない」「返品してはいけない」という経営上の要請を、具体的な指標よりも曖昧なムードとして、現場担当者は過剰に忖度するようになりました。
 何かを平積みにして試してみようと自分から注文をすると在庫が増えるし、それが売れるのかはわからない。どうせ返品になるのなら、何もしないことがいちばん儲かるらしい。売れ筋データのベスト20に挙がっている商品くらいは、欠品すると怒られるから、とりあえず入れておこう。なんとなくそういう雰囲気になりがちでした。
 本来なら、その空気に抵抗してでも売るという棚担当者たちの見識があるべきです。新刊・既刊を問わず、できるだけ幅広く目配せをして、これから売れそうな兆しを見せている本を掘り出して積む。手をかけなくても積んでおくだけで売れるヒット商品があるのなら、その隣に何を積めばあわせて買ってもらえるのか、あれこれと探ってみる。それが本来の仕事です。
 売り上げデータの上位には上がってこない中位グループを豊かにすることが、書店の売り上げ全体を下支えするとともに、品揃えを面白くもします。ベスト20ではなく、それ以外の1,000点の平積みそれぞれが月に1冊でも多く売れることや、その組み合わせが読者の衝動買いやまとめ買いを生むことほどに面白いことが重要です。しかし、その試みや成果は、売り上げ順に並べ替えられた結果だけを追ってもわかりにくいものです。
 私たちは、店全体あるいはジャンルごとの売り上げ額やその前年比の下降というような大きな数字にとらわれすぎていました。そういうわかりやすい数字によって、責任を感じたり不安に思ったりしました。一方で、品揃えの一冊一冊への判断の仕方や組み合わせの面白さをどう作り出すか、読者とどのようにコミュニケーションをとるのかといった仕事の細部は、重要なのに自分自身にも成果が見えにくく、現場にいない本部からはなおさら評価もしづらいものです。
 そのために、このような本屋の技能を磨いたり共有することを、疎かにしてしまいました。以前は確かにやっていたはずの訓練を、だんだんとしなくなってしまったのです。
 店の棚担当者全員が集まって、ジャンルにとらわれずに毎日の新刊を1冊ずつ手にして、各自の判断を言い合う。売り上げスリップの束を、全員が全ジャンルのそれを一枚一枚めくって、次の品揃えにつながるヒントを探す。平積みの並べ方を批評し合う。そういう訓練や育成を日課にしていたはずでした。
 確かに、そのようにしていい品揃えをして部分的な成功を得ても、全体の大きな売り上げ減少の流れのなかにいては、成果を自己評価しづらい。私たちも現場で、「どうせなに積んでも売れないしなあ」という思いにとらわれることもありました。現に、売り上げは減少しています。
 しかし、私たちは日々、実際に買ってくださるたくさんの人々と接していたはずです。つまり、本は確実に求められているし売れているが、かつて好調なころの店舗や制度の設計では、おもに家賃などの経費が見合わない、ペイしない。そのために、会社の存続が危ういという自分たちの不安を語っていたのだと思います。
 売り上げの減少に合わせて店舗や組織を縮小するという、避けられない変化に対応するときに、守るべき本屋の仕事の核心は何でしょうか。読者に本にまつわるすばらしい体験を提供するサービスであり、得た報酬を書き手や作り手に還元すること、本をめぐる生態系を維持することだと、私は思います。この循環の技術や労力と、そこに集まる人たちとのコミュニケーションという、書店員の属人的な技能こそが本屋の仕事の中心ではないでしょうか。
 それ以外の要素、つまり店舗の規模やそれに伴う家賃、流通制度の維持やそのコストという枠組みに縛られて、かわりに仕事の本質的な部分を継承していくことが軽んじられていくのはいやだと思ったのです。

 そこで私がまず取り組んだのが、アウトレット本の販売でした。新本のバーゲン品は、すべて買切で仕入れなければいけませんが、適切に仕入れれば粗利がとても大きく、読者にも喜ばれます。つまり、書店員の目利きの力で、本にこだわった品揃えをしながら利益率を高める方法なのです。これは、より多くの新刊書店で取り組むべきことだと考えています。
 利益率と家賃の問題をめぐっては、多くの新刊書店が様々な取り組みを始めています。雑貨や文具、食料品など様々な商材を混ぜ込むことで、書籍の在庫負担を軽減しながら利益率を高め、読者の購買体験を楽しいものにデザインする。または、カフェなど飲食店を併設することで、家賃を分担しながら、人が集まり滞在する場所づくりをする。
 一方で、読者が雑誌を定期的に買いにくるという習慣が全体に減り、入店する人の数も減っているといいます。それに代わって、なんとなく来店するきっかけや何度も立ち寄りたくなる魅力を、様々な方法で模索しているという面もあります。
 それなら、一軒の書店を構えて待っているだけでなくてもかまわないのではないか。家賃という固定費に縛られずにもっと身軽になって、本屋や棚が自由に読者のいるところへあちこち出張していくことも、一つのやり方なのではないか。その仕組みを考えたいと、私は思いました。
 そのような考えから、私は会社を離れて自分が考える取り組みを試してみることにしました。実際には、会社勤めを辞める理由は一つではありませんでした。在職しながら、私が考える「あちこち書店」企画を実行する道もあったかもしれません。私の場合は、働く妻のキャリアと幼い娘の育児を合わせて考えたときに、どんなワークライフ・バランスを実現したいかという問題もありました。

 次回からの連載では、フリーランス書店員あるいは「あちこち書店」など、久禮書店の具体的な取り組みを紹介しながら、今回の問題提起の答えを考えていきたいと思います。

 

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幻の補論――『人工授精の近代――戦後の「家族」と医療・技術』を書いて

由井秀樹

 本書で主に語られているのは、戦後間もなく日本でもはじめられた、提供精子を用いた人工授精(非配偶者間人工授精;AID)の歴史だ。これは私の博士論文がベースになっているのだが、そこには組み込まれなかった幻の補論がある。その内容は、AIDで生まれた方へのインタビュー調査から、彼らが何を思って生きているのか、検討したものだ。なぜこれが組み込まれなかったかといえば、「歴史研究としての性格が不明瞭になるからやめておけ」とのアドバイスを異口同音にいろいろな方からいただいていたからだ。
 たしかにそれはそのとおりだ。こうして、補論になる予定だった原稿はあえなく幻となってしまった(ただし、その一部は単発の論文にはまとめてあり、某学術雑誌に掲載されている)。
 もともと私はAIDで生まれた方へのインタビュー調査をもとにした質的研究をおこなっていた。ここで、少しだけインタビュー調査で明らかになってきたことを書いておきたい。彼らは、大人になってから自身がAIDで生まれたことを知り混乱していた。やがて、生物学上の父を知りたいと思うようになるが、今日に至るまで精子提供者の匿名性は原則的に維持されており、自身の半分を構成する情報が得られないことでアイデンティティーの危機に瀕する。ここまでのことは先行研究でも言われ尽くされているのだが、物語には続きがある。精子提供者を知りたいという思いがある一方で、提供者に対して否定的な感情をもっている方もいた。また、なかには親族の男性からの提供精子で生まれていて、つまり、提供者が特定されているケースもあり、その方は親族男性(の家族)との関係でも悩んでいた。ここから、提供者を知ることができた時点で納得するケースもあれば、そこから先の人間関係の調整が必要になってくるケースも存在するであろうことが示唆される。
 このようなことがわかってきたのだが、研究を進めていくうちに、このAIDなるものがどういった経緯ではじめられ、今日まで続けられているのか、という疑問がわいてきた。それは既存の二次文献をどれだけ調べてもよくわからなかった。AIDの歴史を正面からまともに取り組んでいる研究者などいなかったのだ。こうして私はフィールドワークと並行して、歴史研究をおこなうようになった。
 では、なぜ自らわざわざ歴史をも調べるようになったのか。それにはいろいろと理由がある。とりあえず4つほど書いておくと、第1に、隙間産業だったのでそれなりに需要はあるだろう、という何とも打算的な理由。第2に、手広くいろいろな研究をおこないながらも、科学史を専門にする師匠の影響。第3に、「家族」をキーワードに研究を進めていたのだが、現在のAIDと「家族」の関係を、過去のそれを理解せずして把握することが不可能だったという一応学術的な理由。そして第4に、たぶんこれがいちばん大きな理由だろう。「そもそも、この技術がどういった経緯ではじめられたのかさえ、わからない」、こんなことをAIDで生まれた方が語っていて、それが心のどこかにひっかかっていたのだ。歴史を調べたところで彼らが置かれている状況が変化するわけではないことは重々承知していたが、それでも、何かしらの役には立てるかもしれない。そんな思いがどこかにあった。
 さて、この原稿を書いているのは2015年4月初頭なのだが、周知のように日本にはAIDや卵子提供、代理出産といった、第三者が関わる生殖補助技術を規制する法律はない。ただ、それを作ろうとする動きはある。その際、最も真摯に議論を重ねなければならないのは――補論は幻になってしまったが――、第三者が関わる生殖補助技術で生まれた方のことだろう(実は本書第4章で取り上げた1950年代の法学者たちの議論でも同じようなことが語られていた)。どのような方向に進むにしても、法制化の動向から目は離せない。
 しかし、ここでいったん立ち止まってみたい。立法は概してその後の制度設計を念頭に置いている。もちろん、未来を見据えることは重要だ。だが、未来を見据えるのは現在である。そして、過去があったからこそ、現在があり、現在を理解するには過去を理解しなければいけない。それにもかかわらず、過去のことはよくわかっていない。要するに――私が歴史を調べ始めた第3の理由とも重なるが――、第三者が関わる生殖補助技術をめぐって、私たちはいま、どこに立って未来に目を向けているのかよくわからず、足元さえ定まっていないのだ。本書が過去から現在を経て、未来へと続く道筋――それは決して平坦な一本道ではなく、ぐねぐねと複雑に入り組んでいるのだろうが――に多少なりとも光を照らすことができているのか。手に取ってくださった方々の判断を待ちたい。

広告写真は時代を映し出す投射装置である ――『広告写真のモダニズム――写真家・中山岩太と一九三○年代』を書いて

松實輝彦

 本書は神戸と芦屋を拠点に活躍した写真家・中山岩太が1930年に撮影した一枚の広告写真をめぐって、当時の写真界や商業美術と呼ばれたデザイン界の動向、それらを含めた視覚文化メディアがどのような反応を示し、どのような文化的変容を経験したのかを写真史の観点から考察した、興味深い試みである。と前口上を切ると、たった一枚の写真がはたしてモダニズムの時代を揺さぶり、戦前期のメディアを変容させたのかと、しばしあっけにとられるかもしれない。たしかにこれまでの概説的な写真史の本ではそんな図太い発想のままに記述されることはなかった。あまり前例がない、という点から「冒険する研究書!」といったあおりの惹句を本書のどこかに追加すべきかもしれない。
 では考察の主要な対象となる中山岩太とはどのような写真家なのか。この人物紹介が案外と難しいのである。関西の写真史研究の基盤を築いた故・中島徳博氏は、中山岩太を語る際に、その生き方が似ているとして、アンドレ・ケルテスをよく引き合いに出していた。中山の生年が1895年、ケルテスは94年にハンガリーのブタペストに生まれている。ふたりとも同時期にパリに移り住み、多くの芸術家たちと交流をもつ。ケルテスの写真といえばソファでおどける踊り子や仔犬を懐に抱く少年を思い浮かべるのだが、中島氏はピエト・モンドリアンのアトリエを撮影した作品に注目した。なにげなく写されたようでいて緻密に画面構成された室内風景は長く印象に残り、中山の出世作となった広告写真「福助足袋」ともどこか通じるものがある。しまった、このことは本書ではふれずじまいだった。
 本書を中山の紹介から書きだすにあたって、中島氏に倣いながら、当初はアーウィン・ブルーメンフェルドを引き合いにするつもりだった。ちょうど初稿をまとめている2013年の春に東京都写真美術館で回顧展が開催されていて、「ヴォーグ」などのファッション誌で活躍したブルーメンフェルドの作品群に接して感銘を受けたから。彼も1897年にドイツ・ベルリンに生まれ、1930年代にパリで広告写真の仕事をしている。最晩年、「私のベスト写真100選」で自ら取り上げた最後の作品は、モデルの両足の裏だけを撮影して構成したモノクロームの写真だった。それは中山の「福助足袋」とほとんど同じ構図であり、大いに驚いたものである。もしものたとえではあるが、中山が長命であったならば、ブルーメンフェルドのようなファッション写真を撮っていたかもしれない、と思った。きっと洗練された優美さとシャープな感覚が一体となったすてきな作品だったろう、と。しかし結果的に「はじめに」では、ケルテスでもブルーメンフェルドでもなく、宮崎駿監督作品『風立ちぬ』(スタジオジブリ、2013年)の主役人物のモデルとなった戦闘機の設計技師・堀越二郎に登場してもらった。どうしてそうなったかについては、本書の冒頭にあるので手に取って確かめていただきたい。
 本書ではこれまで紹介される機会がなかった中山自身の言葉を資料の束のなかからできるかぎり拾い出し、モダニズムの写真家の思考に迫ろうとした。と同時に写真家を取り巻く戦前期の時代環境や、海港都市である神戸、保養地の芦屋といった地域環境、生活のため日々働いた百貨店の写真室という職場環境にそれぞれ注目した。そしてそれぞれの環境がどのように構成されていたかを示す資料もできるかぎり収集し、新たな資料の掘り出しにも精いっぱいの力を注いだ。そうすることで、総体的に中山が広告写真といかに関わっていったのかを捉えようと努めた。研究としては、まったくもって当たり前のことではあるが、準備にはたっぷりと時間がかかってしまった。
 ひとわたり書き終えて実感することは、つくづく広告写真はその時代を映し出す投射装置だということ。それがたった一枚の写真であっても、すぐれた写真であるならば、そこには必ず時代のかけらがなにかしら封じ込められ、見る者の心のスクリーンに美しい影を投げかける。中山岩太の広告写真「福助足袋」には、日本のモダニズムに関するとびきり上等ないくつものイメージが内包されている。そこからどんなイメージが読者一人ひとりに投影されることやら。前口上はこのへんにして、つづきはどうぞ本書でご観覧あれ。

ラジオというメディアの魅力――『コミュニティFMの可能性――公共性・地域・コミュニケーション』を書いて

北郷裕美

 この原稿を書いている2月21日は(僭越ながら)私の誕生日である。以前から続いている「Facebook」のタイムラインには、新年の挨拶に匹敵するたくさんのメッセージがいまも入ってきている。年齢を意識する場面は日常のなかで極力減ったが、まあきょうくらいはいいかなと、一人ひとりに一生懸命返信していたところである。
 そのなかに学生時代の友人の名前もちらほらある。「Facebook」で復活した友人たち。今度会おうぜ、が挨拶がわりになってしまっている。そんな彼らと共有していた昭和の時代は、机の横に必ずトランジスターラジオ(のちにラジカセに出世するが)があった。自分も「ながら族」の典型だったが、夜の帳のなかで器用に勉強と両立していたかはかなり疑問である。現在も続く深夜放送のプロトタイプ番組のそのなかで、自分はさまざまなことを思いめぐらせていた。その行為は消費するという感覚ではなく、貪欲にかつ積極的に受容するものだった。「ラジオの前のあなた」とパーソナリティーから一人称で発せられるメッセージも、演歌から歌謡曲、映画音楽、ポップスからロックまで混在するチャートがあった頃の音楽も、さまざまな下世話で役立つ情報も、すべて……。
 ラジオを聴くシチュエーション。そこにたたずむのは自分一人。深夜の孤独な時間をまさに積極的に享受していた。アクセスなどという積極性ではなく、スイッチを入れたらあとは音声に任せてしまう。ただビジュアルが伴わない分、頭のなかのスクリーンにはフル回転で映像が投影され続ける(結局、学業は疎かになる)。落合恵子の声に、吉田拓郎の歌に、大政奉還やミトコンドリアが重なっては消えていく……。メランコリーな誰にもじゃまされない深夜の一人遊びである思考体験を、次の日の朝、教室という名のオフ会の場で他者の視点をもって反芻して再度味わう。
 著作とは重ならない話と思われるかもしれないが、今回世に問い直した「コミュニティFM」というラジオ媒体は、私と同じような年代の人には懐かしく、若い人にはいにしえの媒体として「先生、聴いたことないんですけど……」と、平気でゼミの学生にものたまわれる。「コミュニティFM」ラジオを地域活性やコミュニケーションのツールとしてその価値を、特に地域という文脈のなかで、今回真摯な気持ちで書き下ろした。そのことはいまも信念をもって伝えたいことと自負している。ただ、ラジオという音声媒体に対する共感や有意性は言葉では伝えられない。あの時代をともに生きた者たちにとってはセンチメンタルなまでに共有物だったものが、世代を超えてつなげることの難しさをいまは感じている。多様な媒体が生まれたことや、社会環境の大きな変化など、理由を探れば枚挙にいとまはない。だが、メディアは印刷媒体も含めて何か一つのもの(電子媒体など)にすべて収斂されるのは自分はいやだ(およそ研究者らしくない物言いだが)。これらのメディアは、すべて過去の文化遺産にならないでほしい。なぜならどの媒体もまったく違う存在価値をもち、物語を共有し、それにふれた体験をずっと内包し続けられるものだから。とりわけラジオは人間くさいのである。寄り添う媒体なのである。だから子どもたち(ラジオを聴かない若者たち)に過去の遺物としてではなく、今回著した音声媒体を時制の枠を超えて「現時進行形」の媒体として、認めてほしい、使ってほしいなと思っている。そして彼らに新たな価値創造を加えてもらえるなら、時代を超えてすてきな物語を紡ぎ続けられるという期待をもっている。
 ここまで書いて思ったのは、絶対「余白」にしか書けない文章であり、ヘタをすれば「余白の外に」追いやられそうな気配もあるのでこのあたりで締めたいと思う。