第2回 本を売る〈場〉を考える

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

 こんにちは、久禮書店です。
 今回は、フリーランスとして初めていただいた仕事についてお話しします。
 東京都の昭島市中神町に、マルベリーフィールドというブックカフェがあります。私はこの店の書棚を作るという仕事をいただき、選書・発注から、棚に並べる作業までを任せてもらいました。また現在も継続して、棚のメンテナンスや品揃えの変更をしています。
 マルベリーフィールドは、サンドイッチやスープ、ケーキなど、手作りの食事にこだわったカフェでありながら、店の半分は新刊書店でもあるという、個性的な店です。JR青梅線の中神駅を出てすぐ、ロータリーに面した便利な立地にあるこの店は、駅前唯一の書店として、近隣のお客様に日常的に利用されています。大手取次会社の取引口座をもっていて、雑誌はもちろん、全ジャンルの新刊配本もあります。つまり今回の仕事は、カフェに似合うおしゃれな書棚を作るというだけでなく、新刊が売れる棚を作り、運営していくことも考える必要がありました。

マルベリーフィールド外観

 書棚は、店の内装に溶け込むシックな茶色に塗装されていますが、新刊書店で多く導入されているのと同型のスチール什器で、一般的な規格と同じ80センチ幅の棚で6段組みのものが10本、店奥の角地にL字の壁面に沿って置かれています。書籍を棚にぎっしり背挿しにするのではなく、表紙・カバーを見せる面陳を多用してゆとりがある置き方をしていますが、1,000冊以上は在庫できます。
 今回はひとまず、この10本の棚のうち5本を「セレクト棚」とすることにしました。いくつか掲げたテーマやキーワードに沿って本を組み合わせメッセージを伝えるような、「文脈棚」とも言われるかたちです。550冊ほどを選び、既存の棚をほぼすべて入れ替えることになりました。
 残りの半分は、おもに文芸書の単行本や文庫、コミックが並んでいる棚です。こちらは、一般的な書店の並び方のままにしておくことにしました。便利な駅前書店というこの店のもう一つの役割からすると、普通の棚を普通のやり方で、ちゃんと手をかけて回すことができれば、それだけでいいという面もあります。
 セレクト棚をどう作るか。まず品揃えの核となる本をリストアップしました。店の大まかなイメージやお客様の雰囲気は踏まえましたが、文脈棚の小テーマのようなものは、先には考えませんでした。これまでの経験のなかで長く売れていた本、これからも売れそうな本、最近の新刊からピックアップしたものなど、1冊1冊が新刊書店でいまでも売れるものであることを優先しました。
 そうしてふくらんできたリストを整理しながら徐々にできたグループにタイトルをつけて、それを棚の小見出しのようにしました。いくつかご紹介します。

セレクト棚

「親子の時間」
酒井駒子『よるくま』(偕成社、1999年)
梨木香歩『西の魔女が死んだ』(新潮社、2001年)
信田さよ子『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』(春秋社、2008年)
アレグザンダー・シアラス/バリー・ワース文、中林正雄監修『こうして生まれる――受胎から誕生まで』(古川奈々子訳、エクスナレッジ、2013年)
など

「私は私の身体を知らない」
山口創『手の治癒力』(草思社、1999年)
谷川俊太郎/加藤俊朗『呼吸の本』(サンガ、2010年)
三木成夫『胎児の世界――人類の生命記憶』(中央公論社、1983年)
バーバラ・コナブル『音楽家ならだれでも知っておきたい「からだ」のこと――アレクサンダー・テクニークとボディ・マッピング』(片桐ユズル/小野ひとみ訳、誠心書房、2000年)
など

「成熟と死について考える」
アリス・マンロー『ディア・ライフ』(小竹由美子訳、新潮社、2013年)
ヨナス・ヨナソン『窓から逃げた100歳老人』(柳瀬尚紀訳、西村書店、2014年)
エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間――死とその過程について』(鈴木晶訳、中央公論新社、2001年)
伊藤比呂美『犬心』(文藝春秋、2013年)
など

「都会暮らしもサバイバル」
ブラッドリー・L・ギャレット『「立入禁止」をゆく――都市の足下・頭上に広がる未開地』(東郷えりか訳、青土社、2014年)
ジェニファー・コックラル=キング『シティ・ファーマー――世界の都市で始まる食料自給革命』(白井和宏訳、白水社、2014年)
ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』(金関寿夫訳、めるくまーる、1996年)
坂口恭平『独立国家のつくりかた』(講談社、2012年)
など

「人生の位置エネルギーと運動エネルギー」
クリストファー・マクドゥーガル『BORN TO RUN 走るために生まれた――ウルトラランナーvs人類最強の“走る民族”』(近藤隆文訳、NHK出版、2010年)
ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』上・下(五十嵐美克訳、早川書房、2008年)
リー・ベンデビット-バル『地球の瞬間――ナショナルジオグラフィック傑作写真集』(日経ナショナルジオグラフィック社、2009年)
吉村和敏『「イタリアの最も美しい村」全踏破の旅』(講談社、2015年)
など

「サイエンスとアートが世界を再魔術化する」
近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ――数理の眼鏡でみえてくる生命の形の神秘』(学研メディカル秀潤社、2013年)
結城千代子/田中幸著、西岡千晶絵『粒でできた世界』(太郎次郎社エディタス、2014年)
ダウド・サットン『イスラム芸術の幾何学』(武井摩利訳、創元社、2011年)
高野文子『ドミトリーともきんす』(中央公論新社、2014年)
など

「世界の仕組みを大掴みにする」
マテオ・モッテルリーニ『経済は感情で動く――はじめての行動経済学』(泉典子訳、紀伊國屋書店、2008年)
ジェームズ・M・ヴァーダマン/村田薫編『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書――EJ対訳』(ジャパンブック、2005年)
小林弘人/柳瀬博一『インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃったわけ』(晶文社、2015年)
「世界の歴史」編集委員会編『もういちど読む山川世界史』(山川出版社、2009年)
など

「お金と時間・人生をドライブする両輪」
國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』(太田出版、2015年)
メイソン・カリー『天才たちの日課――クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』(金原瑞人/石田文子訳、フィルムアート社、2014年)
ロバート・キヨサキ『改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん』(白根美保子訳、筑摩書房、2013年)
マイク・マグレディ『主夫と生活』(伊丹十三訳、アノニマスタジオ、2014年)
など

 前職で日々、書籍の売り上げスリップをチェックしていました。まとめ買いしてくださった際には、そのスリップを束にしておき、あとからその買い方に対してキャプションをつけてためておくという作業を続けていました。今回の文言の多くは、そのときの言葉を使っています。
買い方スリップ1

買い方スリップ3

 これらのグループは、できるだけあいまいな括り方にしておきました。それは、メッセージや文脈のもとに棚が固着してしまうことを避けたいと思ったからです。文脈棚のテーマの数々を更新していくことや、既存のテーマに沿わない本を日々組み込んでいく作業は、日常業務のなかでは滞りやすいものです。それに、買ってもらうための棚は、売れ方の予測や売ろうとする勢いが冊数や置き方で表現されているべきだし、お客様の反応次第で変化していくべきだと思ったからです。
 しかし、そのようにして並べてみた棚は、店から期待されていたほどにカフェの雰囲気を決定づけるような第一印象を演出できていたかというと、そうではなかったと思います。自分が想像したより、少し地味だったという気もしています。大判のビジュアル本ばかり飾るのも安直かと思い、あえて背挿しにしておいた『新・世界でいちばん美しい街、愛らしい村』(MdN、2015年)や『世界で一番美しい村プロヴァンス』(マイケル・ジェイコブズ文、ヒュー・パーマー撮影、一杉由美訳、ガイアブックス、2013年)などの写真集が、早い時期に売れてくれました。
 また、シリーズものの時代小説文庫やビジネス・スキル本の定番が売れて、セレクト棚が動いていない日もありました。そうなると、もっと気取らない実用書や親しみがある作家の小説を選んでおくべきだったかと、逆の方向にも反省してしまいます。

 店のオーナー勝澤さんは、いつも柔軟な姿勢で私の意見を聞いてくださいます。私が店の客層を理解するまでの試行錯誤の期間を、何も言わずに許容してくださっていると勝手に解釈して、ありがたく思っています。それだけに、私自身がこの店にあった品揃えを、今後の継続的な関係のなかで見つけなければいけないと思います。
 カフェのための書棚か、本屋のための書棚か。このバランスのとり方は、選書を始めた当初からいまも、悩み続けています。カフェの雰囲気や居心地、インテリアに貢献するような格好いい選書か、近所の本屋として、格好よくはないし名著でもないけれどつい買ってしまう本がちりばめられた、気のおけない棚を作るか。どちらの要素も大事です。このさじ加減をどうするか。店内の場所を使い分けて表現する必要もありますし、今後の売れ方に対応して変化していく必要もあります。

 このバランスについて考えることは、カフェではありませんが、前職のあゆみBOOKS小石川店でも同じでした。
 店に入ってすぐのメイン平台は、まず書店の顔となるようなインパクトをもった平積みや面陳、店の雰囲気を伝えるような組み合わせを見せる場所だと考えていました。また、お客様よりちょっと先に、これが面白いと思いますよと提案する場所だと思っていました。
 すでに市場で売れた結果が出ている本、いまこれが売れているよという後追いのランキング情報を提供することは、他の棚でもできる。もちろんメイン平台にも旬のベストセラーを置きますが、そこにちょっと意外な本を組み合わせることを考えていました。まだあまり売れていない本でも、ポップをつけたりして持ち上げるのではなく、ベストセラーと同等の扱いで、しれっと隣に置いておく感じです。各ジャンルの棚前に平積みしていては2、3冊売れて止まってしまうかもしれないけど、10冊くらいに伸ばしたいというような中ヒットを量産する試みです。結果的に、お客様にこの店ならではという新しい発見をしてもらう面白さにもなっていたと思います。
 一方で、深夜にジャージ姿で行ってもたいして恥ずかしくなくて、とりあえずなんでもいいからなんかくだらないものが読みたいというときにも、何か買えるような雰囲気のコーナー作りも必要でした。そのバランスを、棚や店全体を使い分けて表現しようと試してきたのが、あゆみ小石川での仕事だったのです。

 マルベリーフィールドでも、これからの売り上げスリップを見ながら、ちょうどいいバランスを求めて提案していきたいと思っています。
 ただ、このバランスを考えたときにとても大事な前提があります。まず気軽にふらっと入店できるということです。カフェでお茶をするつもりがない人も、通りがかりに足を止めて、なんとなく入店してもらえるという本屋らしい開かれた店構えが必要なのです。
 そうはいっても、週刊誌や漫画誌の什器を外に出せばいいというものではありません。マルベリーフィールドでは、店外テラス席のすてきな雰囲気が損なわれてしまいます。普通の新刊書店ではそうすることが一般的ですが、多くの書店にとっても、それが正しいのか考え直す余地があると思います。
 この課題も、前職から考え続けていることです。雑誌の新刊を習慣的にチェックする人がどんどんと減っていることは明白で、雑誌に支えられた店づくりから変化しなければならないことは、どの新刊書店にも言えます。いつも同じ雑誌が店の顔になっていると、興味がない人にとっては、店自体が風景に埋没しているのではないかとさえ考えてしまいます。本屋にふらっと入る習慣をもたない人がうっかり入店してしまうような店構えと、本好きでなくてもつい買ってしまう、それでいて本の世界の入り口になるような商材を考える必要があります。 

 前職で見つけた答えの一つは、アウトレット・ブックスのコーナーを店の外と中に作り、動線をつなげることでした。
 アウトレット・ブックスとは一般的にはバーゲン本(B本)と呼ばれるものですが、もう少し現代的な語感をもたせたくて、そう呼んでいます。古書ではなく、様々な事情で出版社から専門業者へ直接卸す新品です。しかし、ほとんどの新本流通に適用される再販売価格維持契約からは除外されており、書店が自由に値付けして販売できます。
 多くの場合買い切り仕入れのため、書店は返品できないリスクを負いますが、格安で買い付けたうえで粗利を大きく設定することもできるという大きなメリットもあります。新刊書店で、書籍の仕入れ資金の負担を軽減しながらも、文房具や生活雑貨ではなく書籍にこだわった品揃えで利益率を上げるためには、もっと注目されるべき分野だと思います。
 また、買い切る、売り残しが少ないほど儲かる、価格設定のうまさ次第で売れ行きが変わるというのは、商売の原点に回帰するようなシンプルさがあり、すがすがしい気分がします。つまり、本屋として日頃鍛えている選書眼が儲けにつながるというダイナミックな喜びを感じられるのです。
 そのうえ新本のバーゲンセールという催し自体がまだ一般的ではないため、目立つ場所で展開すれば、多くの人の興味を引くことができます。ただ、店の雰囲気に安っぽい印象をもたせない工夫が必要です。肝心の新刊書籍に割高感をもたれて売れなくなることにも注意しなければいけません。

 マルベリーフィールドでも、アウトレット・ブックスを販売しています。店の雰囲気に合うアート・ブックや洋書絵本を中心に、雑貨のような感覚で見て楽しめて、気軽に手に取ってもらえるようなセレクトをしています。まず見栄えのよさがあり、そのうえで、いいものが安いというお楽しみもあるという狙いです。店のオーナーである勝澤光さんにあゆみBOOKSの事例を紹介したところ、すぐに私の意図を読み取ってくださり、テラス席と入店してすぐの棚にコーナーを作ってくれました。

マルベリーアウトレット

 選書と調達は私が担当しました。仕入れ先は、おもに神保町の八木書店です。老舗古書店であり、新刊取次とバーゲン本卸問屋も兼ねる八木書店の本社にはバーゲン本の店売所があり、膨大な在庫から現物を手に取って選ぶことができます。私は、和書バーゲン本はこちらから、洋書は八木書店ともう一社、Foliosという業者から仕入れています。
 一カ月分と見込んで在庫を仕入れて販売し始めましたが、2週間後には最初の追加納品をするほどのいい反応があり、安堵しています。
 ここまでお話ししてきた選書やアウトレット・ブックスの企画は、マルベリーフィールドがこれまでも独自の方法でお店を変化させてきた経緯があったからこそ実現したものです。勝澤さんは、初対面の私が提案したものを、とりあえずやってみようという柔軟な姿勢で全面的に採用してくださいました。また、すぐにお客様の反応を取り入れて、改善点を提案してくれます。

 そこで、この店の成り立ちについて、少しお話しします。このお店が、小さいながらも、というより小規模だからこそ機敏に、商売の形を変化させてこられた経緯はとても興味深く、本屋をやるうえでも参考にしたいと思うからです。また、その柔軟さを模倣しようとしたときに、書籍の流通制度や取引条件の問題を考えざるをえないと気づかされるからです。
 ここからは、直接お聞きしたことと、私が見て推測したことも交えてお話しします。勝澤さんの考えとは違うこともあるかもしれません。
 このお店はもともと勝澤書店という新刊書店として、勝澤光さんのお父様が始められたそうです。現在も、店舗はもちろん、外商部もあり、地元の書店として長く営業しています。その店をブック・カフェに方向転換するきっかけになったのが、「春樹とタケノコ」のエピソードです。
 村上春樹の『1Q84』(新潮社、2009年)の単行本が刊行され、発売直後からあちこちで売れまくっているさなか、勝澤書店への配本は、多くの個人経営書店がそうだったように、ほんの数冊だったそうです。怒り心頭の勝澤さんは、ちょうどそのころ、縁あって地元の竹林の手入れを手伝ったおりに仕入れた大量のタケノコを、いっそ平台で売ってやれと思い立ったそうです。試してみたところ、これが飛ぶように売れました。それをきっかけに、地元昭島の野菜を売り場に置くようになったそうです。それも順調に売れていきました。それでも売れ残る野菜も出てきます。そこで、それを調理して提供しようと思い、キッチンを増設し、客席を配置し、カフェとしての内装を整え、現在の業態になったのだといいます。
 現在の店は、たとえ書棚がなくても、すてきなカフェとして、地元のお客様に愛用されているように見受けられます。それでも、勝澤さんは書店としての役割を大切にされているようです。実際、常連のお客様がふらりと入店しては、カフェの客席ではなくレジへ来て、定期購読の雑誌や注文品の書籍を買い、ちょっとおしゃべりをして帰るというような場面を何度も見ました。
 書店の薄利を補うために、カフェを併設して飲食メニューの高い粗利を得るというモデルがよく話題になりますが、そう簡単ではないと、勝澤さんは言います。
 実際、マルベリーフィールドのカフェ部門は順調に伸びているそうです。しかし、カフェの来客が増えると、それだけ食事の仕込み作業が増えます。書籍のように、仕入れて棚に補充すればいいというふうにはいかない。繁盛してくると、思った以上に忙しく、書店部門にかけられる時間がどんどんなくなってしまうのだそうです。
 それでも、駅前唯一の書店としての役割は重要ですし、売り上げもあります。また、旬の新刊本をじっくり読める、買えるということは、カフェの人気を支える面でも大切な要素なのです。
 一方で、飲食メニューは価格設定のうえで粗利が高いとはいえ、ブックカフェでは、お客様はゆっくりと読書をします。つまり、いわゆる回転率は低い。そこを補う役割を果たしているのが、テイクアウトのサンドイッチ販売だそうです。このサンドイッチは、発売からすぐに人気商品となり、お昼前に完売することも多いといいます。この人気商品をきっかけに、デパートの催事に出店する機会を得たというほどです。また今度は、テイクアウトの盛況に組み合わせて店のテラスで書籍のコーナー作りを企画したりと、様々なアイデアを次々に実行しています。
 書籍販売とはあまり関係がないこの話を持ち出したのは、このような商売の個別の事例にこそ学びたいと思うからです。勝澤さんがどのように日々のやりくりをし、変化に対応してきたかを聞いたり想像したりすることは、とても楽しいことでした。書店が成功するためのビジネスモデルだとか法則ではなく、中神のお客様と勝澤さんがやりあった、この店ならではという物語が、とても興味深かったのです。書籍の販売もまた、それぞれの店ごとが抱える様々な事情によって、多様なあり方があるはずだと気づかされました。
 勝澤さんが店の空間を自在に編集してきた軌跡を垣間見て、では店をもたない私がそこから学んで模倣できることはないかと考えました。そこで、私が本を携えて、新しい店づくりを考えている店に飛び込んでみてはどうかと思ったのです。書店ではないが書籍を扱いたいと考えている店や、本に興味をもってくれそうな人の集まる場所がたくさんあります。
 多種多様なジャンルの本が、それぞれにいちばん求められる場所で面白そうに盛り付けられる方法を考えて、そんなあちこちに出張している本たちを束ねる元締めのような役回りを私がするのはどうだろうかと、夢想するのです。

 実際、カフェや雑貨屋、美容院など、本を扱いたいという声をよく聞きます。しかし、仕入れにかかる煩雑な事務作業や、取引条件、在庫リスクなど、様々な制約があり、なかなか実現できません。私たち書店員は、日常的にそれらと向き合ってきました。では、いろいろな店の条件に合わせて、選書をして調達までする選書家兼仲卸業というやり方もあるのではないかと、最近は考えています。実際、児童書のなかでは、そういう機能を果たしている企業があります。
 児童書を中心とした出版から絵本の専門店までを経営しているクレヨンハウスでは、関連事業として子どもの文化普及協会という取次会社を運営しています。この企業は、新刊書店以外の様々な業種の店舗と取り引きしていて、絵本を卸すだけでなく、選書や陳列、販売方法のコンサルタントもしています。取次業としては、保証金を取らず、買い切りではありますが大手取次よりも低い掛け率の好条件で、私のような小さい取り引き相手に対してもオープンな形で、取り引きされています。

 次回は、久禮書店の出張本屋「あちこち書店」の1回目の模様についてご紹介します。地元、武蔵小山のキッズ・カフェALL DAY HOMEの店内にスペースを借りて、洋書絵本のアウトレット・セールと和書新本の絵本を組み合わせた棚を作りました。今回は1日限定のお試し開催でしたが、今後の継続に向けて、勉強になることがたくさんありました。

 それでは、また来月。

 

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第49回 佐村河内騒動について

 昨日から、佐村河内守が作曲した作品が、実はすべて他人が書いたものだったとのニュースが大きく報道されている。私はこのニュースを聞いたとき、レコード会社はさぞや大変だろうなと思ったが、それ以外のことについて、たとえば憤るとか、そういうふうには感じなかった。ふと思い出したのはフリッツ・クライスラーだ。彼は自作の小品に偽名をつけ、「修道院で発見した」「図書館に埋もれていた」などとウソを発表し、あるときそれらすべてが自作であることを公表、多くの研究者や音楽評論家をカンカンに怒らせた。無論、このクライスラー事件と今回の騒動とは同一視はできないが、でも、似ていると思った。
 私も『交響曲第1番「HIROSHIMA」』や『ピアノ・ソナタ第1番』を聴いたが、どうにも共感できず、それらについても特に何か書くことはなかった。テレビの報道では、「絶望を経て書いた作品」「東日本大震災の被災者への思い」といった情報を頭に入れて聴いて感動した人たちがかわいそうだ、というようなことを言っていた。でも、これはおかしな発言だ。なぜなら、テレビはやらせが当たり前の世界である。ありもしないことを作り上げて受けを狙っているからだ。視聴者だって、そうしたやらせを日々喜んで受け入れているではないか。だから、今回の件も大がかりなやらせがおこなわれ、それによって多くの人が感激したのだから、その点についてだけ言えば、特に大きな問題ではないと思う。
 法的な問題が絡んでくるから、この佐村河内事件はしばらくくすぶるだろうが、でも、書かれた作品は全く変わりようがない。周辺の情報をいったんリセットし、もう一度作品に接すれば、初めてこれらの作品が正当に評価されるだろう。

(2014年2月6日執筆)

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第48回 日本ムラヴィンスキー協会の天羽健三さん逝く

 日本ムラヴィンスキー協会の事務局長だった天羽健三(あもう・けんぞう)さんが2014年1月23日、76歳で永眠された。
 私が天羽さんと初めて会ったのは、2000年の初頭だと記憶する。以後、もっぱらエフゲニー・ムラヴィンスキーを中心に、ヤンソンス親子やレオニード・コーガンなど、主に旧ソ連関係のアーティストについての情報交換を通じてお付き合いがあった。柱となっていたムラヴィンスキー協会は、話題が底をついた状況ゆえに近年は休止状態になっていたが、その代わりにかつてムラヴィンスキーの通訳を務めていた河島みどりさんのトーク・イベントを開催するなど、地道な活動を続けておられた。昨年の夏前だと思うが、河島さんのイベントでお目にかかった際には普段と全く変わりない様子だったが、秋には急遽入院したと聞いた。しかし、11月には退院されたとの知らせを受けたので、私は暖かくなった頃にご連絡を差し上げようと思っていた矢先に訃報が届いた。
 天羽さんの最大の功績は、ムラヴィンスキーのディスコグラフィとコンサート・リスティングを制作したことだ。ディスコグラフィは最初に協会の会員用として配布後、自費出版など何回かの改訂を経ている。その間に録音データの精度は増し、世界各国で出たディスクの情報を限りなく収集するだけではなく、個々のディスクを試聴して多くの誤表示も指摘してあった。一方、コンサート・リスティングは、わざわざロシアにまで足を運び、あまり整理されていない資料のなかから必要な記録だけを抽出するという、非常に困難な作業を経て完成されたものだった。これも、ディスコグラフィ同様、何回か改訂されているが、双方の最終形は天羽さんご自身が訳したグレゴール・タシー『ムラヴィンスキー――高貴なる指揮者』(〔叢書・20世紀の芸術と文学〕、アルファベータ、2009年)の巻末に収められている。この本は本編ともども、ムラヴィンスキーを語るうえでは最も重要な資料だろう。
 私はたまたまムラヴィンスキーの生演奏を2回聴いたということで、ムラヴィンスキーについて書く機会をいくつも与えられてきた。その際、天羽さんのディスコグラフィとコンサート・リスティングがどれほど役に立ったかは語り尽くせないほどだ。これまで偉そうな顔をして書いてきたけれども、この2つの偉大な資料がなければ、ほとんど自分では何もできなかっただろう。改めてこの天羽さんの労作に、心から感謝する次第である。
 最後に、天羽さんのごく大まかな履歴を。生まれは1937年、韓国の釜山。高校まで和歌山で過ごし、京都大学入学後は機械工学を専攻。その後、東芝で原子力発電の設計に30年間従事。聞くところによると、東日本大震災による原発事故は天羽さん自身にとても大きなショックだったようで、ときおり「自分が何かできることはないか」と漏らされていたようだ。
 2月2日、天羽さんの葬儀がおこなわれた夜、そのときは珍しいくらいの濃霧だった。視界が非常に悪かったために電車のダイヤは大幅に乱れ、タクシーもまるで手探りのような運転だった。深夜、そんななかを歩いていると、いつもの風景が全く別物に見えた。それはまるで、異国をさまよっているかのようだった。偶然だったのかもしれないが、私にとっては忘れられない別れの夜となった。

(2014年2月5日執筆)

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外骨の声:もう一つの『映像のアルケオロジー』――『映像のアルケオロジー――視覚理論・光学メディア・映像文化』を書いて

大久保 遼

 本書のもとになった博士論文の、そのまたもとになった論文を書いていた頃の話である。長い学生生活の、そのまた延長戦のような日々を過ごしながら、本郷にある地下の薄暗い書庫に通っていた一時期があった。明治期に発行された写真雑誌や教育雑誌、投稿雑誌などに掲載された幻燈についての記事を探すためである。古めかしい扉を開けたその先には、いつも古い紙とインクの匂いが立ち込めていて、明治か大正で時間が止まったようなその書庫の閲覧室で、100年以上前の雑誌をとにかく一心不乱にめくっていた。その頃私の人生はいろいろあって、これはもう引きこもって研究でもするよりほかにないという状況で、とにかくその書庫に通いながら完成するあてのない論文を書き続けていたのである。と書くと、あまりに時代錯誤で浮世離れしていて投げやりなように思われるかもしれないが(たしかに事実そのとおりだったわけだが)、その書庫と閲覧室で過ごした時間は、振り返ってみると、慌ただしい日々のなかの一時の凪のような、とても静かで心穏やかな時間だったように思う。
 一口に明治時代の雑誌記事を探すといっても、目当てにしていたのは著名な雑誌ばかりではなかったから、もちろん記事がデジタル化されているわけでも全文検索ができるわけでもない。当時は「明探」(「明治新聞雑誌文庫所蔵検索システム」〔http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp〕)などという便利なものもなく、かろうじて冊子体の索引が用意されている雑誌がある程度だった。しかも「幻燈会」の開催報告のようなマイナーな記事が目次レベルで登場することはまれで、あれこれ試したあげく、結局1冊ずつ全文に目を通すことになった。とはいえ教育会雑誌だけでも各府県、場合によっては市単位で月1とか隔週で発行されていて、明治20年代から30年代に限ったとしても、生半可な学生にとっては気が遠くなるような作業だった。途方もない数のボロボロの冊子を前にめまいを起こしながら、しかし無駄に時間と投げやりな心境だけはあったので、「まあ仕方ない、やるか」ととくに前向きとも言えない心持ちで、来る日も来る日もページをめくっては「幻燈」の2文字を追っていた。
 最初は明治期の学校教育のレポートだの熱意ある先生方の議論だのを興味深く拝読する余裕があったのだが、途中からはあまりの量に、「幻」と「燈」の2文字だけを、ほとんど獲物を探すハイエナのように追い回すはめになった。どれだけ読んでも獲物が見つからない日もあれば、一度に大量の収穫があるときもあり、そのうち長い長い空振りと落胆と意気消沈の果てに「幻」と「燈」の2文字を見つけると、アドレナリンがどっと脳内に放出されて、眼前にまさに幻の燈がぼおっと浮かび上がって見えるような気さえするようになったのである――(というか、その前に早く寝るべきである)。そうして半地下の書庫から日常へと帰還する頃には、いつもとっくに日が暮れていた。
 そんなある日のことである。もう時効だと思うのでここに記すが、いつものように19世紀末の古雑誌を読みに地下へ続く階段を下りて重々しい扉を開けると、夏の書庫はいつにもまして静かで、ただひんやりとした空気があたりに漂っている。閲覧室にも人の気配がなく、いつもの司書の方々の姿もない。奥で大事な会議でもしているのだろうか、そう思ってうろうろしてみたものの、人の気配がないばかりか物音さえしない。とりあえず廊下の端から端まで歩いてみたが、手掛かりなし。はて、おかしなこともあるものだ、そう思いながら、ふと廊下の隅に目を向けると、いつもは固く閉ざされているはずの扉の1つが、なぜか半開きになっている。それだけならば、とりたてて気を引くような出来事でもないのだが、どういうわけかその日はその扉の向こう側が気になった。
 いまでもなぜ、そんなことをしようと思ったかわからない。しかしそのとき、なぜか衝動的に、その扉を開けて、見知らぬ部屋のなかに足を踏み入れていた。魔がさした、としか言いようがない。それはそれほど広くはない書斎のような部屋で、書棚とキャビネットが数台、あとは古めかしい机と椅子が置かれていたように思う。なにせなんの心構えもなかったのであいまいな記憶で申し訳ないが、とにかくそこに1枚の写真が掲げられているのが目に留まった。それが、このアーカイブの創設者で初代の主任を務めた宮武外骨の写真だったのである。そこではたと気がついた。ここが、赤瀬川原平さんの本に登場した、宮武外骨の部屋ではないかと。
 そう思って部屋のなかを見回すと、入り口脇のキャビネットに古いアルバムが並べられているのが目に入った。これはもしや……とおそるおそる手に取ってページを開くと、そこにあらわれたのは、外骨によって収集された絵はがきのコレクションだった。『外骨という人がいた!』のなかで紹介されていた、あの絵はがきである。「一二三」だの「笑う女」だの「骨」だのと題されたアルバムには奇怪でナンセンスでどこかユーモラスな絵はがきの数々が並べられている。近代日本の言論空間を形成した膨大な数の新聞と雑誌を収めたアーカイブのなかに、歴史や意味や物語が充満した書庫の真ん中に、とびきり魅力的な無意味を仕掛けておくなんて、さすが宮武外骨! ただ者ではない、などと思いながら一心にページをめくっては、ただただ無数の絵はがきの、訳がわからないイメージの氾濫を眺めていた。そのときふと人の気配がして振り向くと、そこには誰の姿もなくただがらんとした書斎が広がっているばかりであり、しかしどこか遠くから豪快な笑い声だけがかすかに聞こえた気がした。

第47回 『フルトヴェングラーを追って』、発売後2週間で増刷決定!

 拙著『フルトヴェングラーを追って』(青弓社、2014年)が発売後、わずか2週間で増刷が決定した。これは、単純にうれしい。無論、初刷も第2刷も部数は少ないのだが、この出版不況のなかにあっての増刷は、ちょっと胸を張ってもいいかもしれない。フルトヴェングラーにも感謝、である。
 すでに直接感想を寄せてくれた人がいるが、そのなかで最も多かったのは「フルトヴェングラーのSACDについて」だった。私と同じように、「いったいどこがいいのか、さっぱりわからない」と悩んでいたファンが、本書を読んで我が意を得たりと納得してくれたのである。続いて多かったのは、「レコード年表」を喜んでくれた人。「見ていると、次々にいろいろなことを思い出しました」「フルトヴェングラーが他界した時点で終わっているのではなく、現在まで続いているのがよかった」など。あとは「手前味噌」、自分の作ったCDの制作裏話である。私自身はそんなに面白いとは思わないけれど、でも多くの人が楽しんで読んでいるのは間違いないようだ。そうなると、フルトヴェングラー以外のCDについても、〝自作CD裏話〟などとして1冊にまとめたら受けるだろうか。何せ自前レーベルのCDは予定も含め、いまや110タイトルにもなる。そのうちの4割がフルトヴェングラーだが、それ以外はブルーノ・ワルター、カール・シューリヒト、ハンス・クナッパーツブッシュ、ポール・パレー、ピエール・モントゥー、ヘルベルト・フォン・カラヤンなどである。特にワルターは、かつてのコロンビア・レコードのプロデューサーだったジョン・マックルーアとも直接連絡がとれ、実に多くの情報を得ることができた。つらつらと思い出してみると、それなりにネタはあるかもしれない。真剣に考えてみようか。
『フルトヴェングラーを追って』をインターネットで検索していたら、「Amazon」のカスタマーレビューがたまたま引っかかってきた。ふーんと思った。投稿者はたとえば、本書の「メロディア/ユニコーン総ざらい」の項について「特に目新しいものはない」と書いている。この文章の一部はベートーヴェンの『交響曲第9番「合唱」』(GS-2090/2013年1月発売)の解説にも書いていて、内容の一部は重複するが、ユニコーンの創設者ジョン・ゴールドスミスやイギリス・フルトヴェングラー協会会長のポール・ミンチンなどの顔写真は、ゴールドスミスから提供されて初めて確認できたものだ。それ以前、国内の出版物に彼らの写真は使用されたことはないと思うし、日本国内でもこの2人の顔を認識できるフルトヴェングラー・ファンはほとんどいないと思われる。そして、最後のほうには私以外の、わずかに1人か2人の関係者しか知りえない情報も記してある。そもそも、メロディアとユニコーンについて、これだけ系統だって記した文献は過去に日本国内ではもちろんのこと、海外でさえも例はない。にもかかわらず、この「Amazon」の投稿者は「目新しいものはない」と断じている。そうなると、この人物は、それこそ化け物のようにフルトヴェングラーに関する知識と情報をもち、なおかつ内部情報さえも見透かす神通力の持ち主ということになる。近々、この投稿者と連絡がとれることがあれば、こちらから頭を下げて教えを乞うとしよう。さすが、世の中、上には上がいるものである。

(2014年2月4日執筆)

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第46回 書き下ろし、『フルトヴェングラーを追って』が完成

 2014年1月22日に、拙著『フルトヴェングラーを追って』(青弓社、四六判、288ページ、定価2,000円+税。参考〔/wp/books/isbn978-4-7872-7345-1〕)が発売される。これは『クラシック100バカ』(青弓社、2004年)、『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房、2008年)、『クラシック・マニア道入門』(青弓社、2011年)に続く、4冊目の書き下ろしである。詳細は上記の青弓社のウェブサイトで確認していただきたいのだが、とにかくヴィルヘルム・フルトヴェングラーのディスクに焦点を絞り、そこを徹底的に掘り下げたものである。写真は通常のSP、LP、CDのレーベルやジャケットは無論のこと、さまざまな肖像、リハーサル風景、プログラム、チラシなど、200点以上も含まれる。この本のおかげでこの年末年始は1日も休めず、12月に入ってから続けて40日も無休だった。けれども、08年の『クラシック名曲初演&初録音事典』は08年1月2日から約2カ月半、全く無休だったのに比べると、今回はずっと楽だった。
 本書を校正していて、ある一定の速度で書いたのはいいのだが、文章が相当に隙だらけだったことを反省した。速く書いても、もっときちっと書けるようにしなくてはならないのだ。もう1つ感じたのは、精度を上げることの難しさである。章ごとに書いた時期が異なるとはいえ、表記の不統一をはじめ、見落としや思い込みがあちこちに散乱していた。校正は初校、再校、再々校、そして印刷に入る直前にもう一度、合計4回も見直したわけだが、特に3度目の再々校は「それまで何を見ていたの?」と言われても仕方がないほどたくさんの赤字で埋まった。もちろん、この4回の間には編集者のチェックも入るのだが、それでも次々と修正が出てくる。ちなみに、『クラシック名曲初演&初録音事典』は筆者、担当編集者、外部スタッフ4人(全体を4分割して集中的にチェック)が総出で原稿を見ていたのである。『フルトヴェングラーを追って』にも、あってはほしくないが、おそらくいくつかの間違いは含まれているだろう。そう思うと、ほとんどノー・チェックで垂れ流されているインターネットの情報が、いかに精度が低いかがわかるというものだ。
 今回、こうしてフルトヴェングラーの本を1冊出してみて、自分の頭のなかではいろいろなことが整理された。それに、大小さまざまな新規の情報は、まだまだ掘り起こせるのだという手応えも感じた。加えておきたいのは何人かの協力者に対する感謝である。彼らについては「あとがき」に記しているが、その方々のおかげで本書がいっそう読み応え・見応えのあるものになった。
 本書とほぼ並行して、フルトヴェングラーのCDの仕込みを2点分おこなった。その過程でもいくつかの発見はあった。そのような次第なので、自分にとってフルトヴェングラーは、引き続き追い続けなければならない対象のようだ。

(2014年1月14日執筆)

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第45回 クリストファ・N・野澤先生をしのぶ

 日本人演奏家、および日本で活躍した海外の演奏家についての研究者・コレクターであったクリストファ・N・野澤先生が、2013年8月13日に亡くなられた。享年89歳。この知らせはなぜか伏せられていて、9月に入って私を含め、多くの音楽関係者に伝えられた。
 まず、野澤先生の略歴は以下のとおりである。1924年4月24日、東京生まれ。小学校時代はロンドンで過ごし、このときにハミルトン・ハーティら多くの演奏家を聴く。暁星を経て名古屋帝国大学に入学、遺伝学を専攻。卒業後は上智大学、清泉女子大学などで生物を講義。コオロギの研究では著作もあり、北杜夫『どくとるマンボウ昆虫記』(〔新潮文庫〕、新潮社、1966年、181ページ。当時の筆名は野澤登)でも触れられている。また、昆虫の鳴き声を録音したレコードの監修もおこなう。
 父親のコレクションを戦火で失うが、戦後から日本人演奏家のものを中心に収集を始める。ラジオ番組『音楽の森』(FM東京、1976―90年)では故・立川澄人らとのトークで人気を博す。1996年から弦楽器専門誌「ストリング」(レッスンの友社)では邦人によるクラシック演奏史の研究「幻の名盤伝説」を70回あまり連載。最近では、ロームミュージックファンデーションのSP復刻シリーズ、諏訪根自子の追悼盤(日本コロムビア)など、野澤先生監修のCDは多数発売されている。
 私が野澤先生に初めてお目にかかったのは2000年か01年だと思う。とある方から「会ってみませんか」と言われたが、何せコレクターのなかには一癖二癖ある人が多く、ちょっと二の足を踏んでしまった。しかし、実際にお目にかかった野澤先生は非常に温和な紳士だった。最初の出会いは先生のご自宅である。狭い部屋にはレコード、資料類がびっしりと並んでいた。コレクターのお宅におじゃますると、「お聴かせしたいが、行方不明なので次回までに探しておきます」ということがときどきある。けれども、野澤先生の主要なコレクションはきちんと整理されていて、そのようなことは全くなかった。ノートがたくさんあって、個々の演奏には番号が付けられていて、その該当の番号のCDR、ミニ・ディスク、カセット・テープなどがすぐに取り出されるのだ。もちろん、SP盤も次から次へと出てくる。とにかく、野澤先生のお宅にうかがうと、あれこれと希少な音源が矢継ぎ早に鳴らされるし、見たこともないような貴重なプログラムや写真などが次々に出されるので、ひたすら「ええ?」とか「おー!」とか、そんな声を出しっぱなしだった。
 野澤先生はご自身の収集方針について、以下のようなことを言われていた。「海外の演奏家は海外の人たちに任せればいいんです。日本人の演奏家のことは、日本人にしかできませんから」「私はとにかく現物主義。雑誌の予告にあった、カタログに載っていた、それをうのみにしてはいけません」「完璧な人間はいません。どんな立派な資料だって間違いはあります。それに単にケチをつけるのではなく、みんなで情報を交換し合って、より精度の高い物を作り上げればいいんです」
 野澤先生とお会いして以来、個人的に最も印象が強いのは1910年に録音されたベートーヴェンの『交響曲第5番』(ドイツ・オデオン)だった。このSP盤は指揮者の記載がなく、しかもシュトライヒ・オルケスター(ストリング・オーケストラ、弦楽合奏団)と記されていることから、長い間「弦楽器だけで演奏された駄盤」と認識されていた。ところが、野澤先生が入手されたSPを聴くと、完全なフル編成であり、カットもない完全全曲だったことが判明したのである。それまではベートーヴェンの『交響曲第5番』といえばアルトゥル・ニキシュ指揮、ベルリン・フィルの1913年録音が史上初の全曲盤とされていたわけだが、この定説が見事に覆されたのである(この演奏はのちに指揮者も判明し、CD化もなされた/ウィング・ディスク WCD-62)。
 8月に入り、ある関係者が野澤先生に何度電話しても出ないことを不審に思い、アパートの管理人や警察官同伴で野澤先生宅に入ったところ、倒れている野澤先生が発見されたという。もう少し発見が早ければ、助かったのではと思った。しかし、ある方から耳にしたのは、野澤先生が「もしかすると、今年の夏は越せないかもしれない」と漏らしておられたとのことだった。
 野澤先生ご自身が自覚されていたのであれば、これは仕方がないことだ。天寿を全うされたとしか言いようがない。けれども、客人が驚き、その姿を見て上品な笑みを浮かべておられた野澤先生の姿が二度と見られないのは、やはり非常に寂しい。
(略歴に関しては富士レコード社、河合修一郎氏から情報を提供していただきました)

(2013年9月11日執筆)

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背中を押してくれたこと――『政岡憲三とその時代――「日本アニメーションの父」の戦前と戦後』を書いて

萩原由加里

 かれこれ10年以上に及んだ研究を1冊の本としてまとめる作業は、思っていたよりも骨が折れる作業だった。特に、本書のベースになった博士論文の提出から6年が過ぎている。博士論文の提出後から現在に至るまで、さまざまな大学で非常勤講師をしてきたが、教壇に立ってからのほうが、大学院に在籍していたころよりも学ぶことが多かった。単に調査を進め、新たな事実が明らかになったことだけではない、自分自身の研究手法の変化が、本書を執筆するにあたって最も苦労した点である。本書の随所に、10年間にわたる著者の成長が反映されていて、各時期の論文がパッチワークのように組み合わされているので、パートによって雰囲気が違うことに気づいた読者もいるかもしれない。
 そして、一度構築した博士論文を、再構築するという作業にも苦戦した。例えば「あとがき」に図版を入れているが、これは本書のために新しく撮影しにいった写真である。苦肉の策として「あとがき」に組み込んでみた。8月の猛暑のなか、君野直樹氏に同行して政岡憲三の墓を訪れ、汗だくになりながら草取りをしたときの写真である。余談ながら、筆者の趣味はガーデニングであり、草取りには自信がある。このようなところで自分の趣味が生かされるとは思いもよらなかった。
 ところで、この数年間でアニメーションに関する研究は急速に進んでいて、どこまで最新の知見を盛り込むかという点でも悩んだ。学術として、より完成度が高いものを求めれば求めるほど、この本は永遠に刊行できないままだと途中で覚悟を決めた。あくまでも博士論文を基礎とし、その後の調査で得た資料を追加するという形に落ち着いた。十分な分析をできなかった資料もあり、また目は通していたものの文中では言及できなかった著作や論文が多い。本書は基礎研究としての位置づけであり、それぞれの学問分野から政岡憲三という人物を研究するきっかけになってくれれば幸いである。
 なお、本書は著者が大学院時代に所属していた研究科から助成金を受けて刊行したものである。2014年の秋、助成金は14年度で最後になるとアナウンスされた。この助成金に採択される条件の一つが、14年度3月末までに刊行されることである。このころ、本書の刊行時期は未定だった。しかし、この知らせを受けて、3月末までに刊行することが決まった。そこからスケジュールを逆算して、怒涛の勢いで作業は進んでいった。そのせいか、完成した見本を手にした後で、うっかり参考文献一覧の類いを掲載し忘れたことに気づいた。読者のみなさまには何かとご不便をかける本である。
 その肝心の助成金だが、2015年度も継続することになった。その知らせが著者の元に届いたのは15年4月1日であり、最初はエイプリルフールのジョークかと疑ったほどだ。しかし、14年度で助成金が最後になるという知らせがなければ、著者は本書を刊行する最後の決心がつかなかったはずである。物事には勢いというか、時の運というものもあるのかもしれない。

第44回 諏訪根自子の新発見音源について

 2013年6月5日、「朝日新聞」の夕刊に諏訪根自子の新発見音源についての記事「天才少女全盛期の調べ」が掲載されていた。曲目はブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』、1949年11月28日の放送で、東宝交響楽団との共演とある。これを見て、私は何やら意図的なものや、釈然としないものを感じた。諏訪は2012年3月に他界していたが、それが公になったのが同年9月だったため、多くの人に衝撃を与えたのは記憶に新しい。とにかく、この「朝日新聞」の記事を読むかぎりでは、新発見の音源は諏訪の死後、思いがけず発見されたかのように読めてしまう。だが、これは厳密に言えば正しくない。そもそもこの音源の存在は、私が知るかぎり、少なくとも数年以上も前に知られていたからだ。なぜなら、私はある関係者から「このような音源があるが、発売する意義はあるだろうか」と相談されたことがあり、しかも、その関係者は私に音源のコピーまで送付してくれたのである。
 こうした音源が世に出ることに関しては歓迎すべきことだが、正しくない事実関係については、やはり異議を唱えたい。なお、私が得た情報では、このブラームスの伴奏指揮は上田仁(うえだ・まさし)とのことである。

(2013年6月5日執筆)

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第1回 書店を辞めて、遍在する本屋を目指す

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

 はじめまして、久禮亮太と申します。今年の1月に、新刊書店のあゆみBOOKS小石川店の店長の職を離れ、「久禮書店」を始めました。
「久禮書店」とは名乗っていますが、まだ店舗はおろか、本の在庫も持ってはいません。ネット古書店や、いわゆるアフィリエイトで稼ごうというものでもありません。書店員の仕事の経験や人脈、技能を携えてあちこちへ出向くという、いわばフリーランス書店員を始めることにしたのです。
 勝手に始めたこのわけのわからない取り組みに対して興味を示してくださる方々がいて、ありがたいことに、報酬がある仕事をくださる方も現れました。
 独立して初めての仕事は、新刊書店でもあるブックカフェで、売り場全体の選書をすることでした。また別の、本と雑貨とカフェの店では、ブックフェアの選書に加えて、書籍担当スタッフに書店実務を指導するというご依頼をいただきました。
 このような選書に絞って関わる、いわゆるブックコーディネートや、書店の現場に即した知恵を共有していく仕事は、本屋の専門的な技能として、いろいろな場所で求められていることがわかりました。
 また今後は、他店に身ひとつで関わる仕事だけではなく、自分自身の売り場を持って、この手で仕入れた本を読者に届けたいと思っています。ただ、それは一軒の自分の店を開業するということではなく、いろいろな場所に棚を持って出かけていく「あちこち書店」をやりたいのです。つまり、棚を乗せて移動する車両書店、様々な業種の店舗やオフィスに間借りする書棚、イベントスペースを貸し切って「ひとり書店」たちが小ブースを並べるブックフェスなど。そのような活動を継続しながら、その後に、自分の店を構えたいと思うのです。
 この連載では、久禮書店の今後の活動をリアルタイムでお伝えしながら、久禮書店の土台となったあゆみBOOKSでの経験を、回を追って次のように振り返りたいと思います。

 棚や平台をどう編集してきたか――書店で本を探すということ自体に楽しさを感じてもらい、長く店のファンでいてもらうためには、いちばん大切な仕事ではないでしょうか。ネットで買ってもいいし、買わなくても生きていける本というものをどうやって面白そうにみせるのか。
 売れた本のスリップを、どう活用してきたのか――売り上げスリップをチェックするのは、単に売れ筋を追いかける作業ではありません。なぜ売れたのかと考えながら、読者の視点を自分の内面に取り込んで、その立場なら、次は何を求めているだろうかと考える作業なのです。
 新刊書籍だけではなく、アウトレット本を扱ってきたのはなぜか――それは、書店にも、よそでは買えない掘り出し物や、その場限りのバーゲンの楽しさがあるべきだと考えたからです。また、新本の仕入れ予算や持てる在庫の制限に対抗して、本にこだわった品揃えで棚を演出するには、うってつけの商材だったからです。
 読者とどのようにコミュニケーションをとるのか――売り上げスリップと平台を介した無言のやりとりや売り場での会話を通して、読者のライフスタイルに寄り添った売り場の編集をできるか。売り場でのイベントに参加してもらうことで、リアル店舗の楽しさを生み出していけるか。

 このような事柄について、これまでの取り組みと、これからどう発展させていくかということをレポートしていきたいと思います。
 そして、この連載をきっかけに、現場の様々な制約のなかで仕事を模索する書店員のみなさんと、会社の垣根を越えて連帯し、教え合い学び合う場を実際に作れたらと期待しています。さらに、書店員がその経験や技術を生かして著者や編集者と協働する場を持つことをも考えていきたいと思います。

 私は、あゆみBOOKSでおよそ18年を過ごしました。学生時代にアルバイトとして早稲田店に入って6年間。その後、よその新刊書店への短い就職を経て、正社員としてあゆみに戻って12年間。最後の4年間は、小石川店の店長を務めました。
 あゆみBOOKSチェーンは、首都圏と宮城に13店舗があり、おもに100坪以下の中規模店で構成されています。どの店も、書籍の品揃えは正社員が担当していて、各人の裁量が大きく認められてきました。どの店も、地域住民の好みや各店長の色が反映されて、独自の雰囲気をつくってきました。
 どの店も比較的、書籍単行本の売り上げ構成比が大きく、とくに私が預かる小石川店は、売り上げ構成比以上に、人文書や文芸書の在庫を潤沢に持っていました。しかし、それは順調に売れていればこそ、可能なことでした。
 私たちの店も、業界全体の流れと同じく、売り上げは漸減していました。私たちが、その売り上げ減少の実情に合わせて在庫を返品し、新たな仕入れを減らすことは、経営上当然のことでした。
 他方、この状況をより複雑にする事情も出てきました。私たちが書籍の大半を仕入れる取次が、ある施策を始めたのです。簡単にまとめると、こうです。店舗の売り上げ額に対する返品額の比率(返品率)を、前年よりも下げればその成績に応じて取次から書店に報奨金を支払い、反対に上回れば書店が罰金を納めるという契約です。あゆみBOOKSも数年前から、この取り組みに参加しました。
 返品を減らし、それによって得る報奨金という、いわば真水の現金を獲得することは、経営を短期的には潤します。本の売り上げ金から純利益を濾過して同額の現金を得ようとすれば、途方もない売り上げが必要だからです。
 仕入れにかかる支払いの軽減と、この契約による報奨金の獲得を両方とも実現するためには、現場の私たちは、ひとまずは在庫を一気に返品し、以後は注文をできるだけ抑えて在庫を少なく維持して、無用の返品を出さないことが必要でした。そうすることで、本を売って得ることよりも大きな現金収入を会社にもたらすという、倒錯した「成果」を生み出すかもしれなかったからです。
 しかし実際には、そううまくはいかない。少ない在庫を回転させて、思惑どおりに低い返品率のなかで安定して売り上げをたてられる店は限られています。例えば駅前の好立地で、競合店がない。不特定多数の幅広い客層に恵まれているために、配本で入荷したもの以外に、意図的に品揃えを差別化する発注が(とりあえずは)少なくてすむ。そのような条件のもとでだけではないでしょうか。
 当然、そんな恵まれた店はそうそうありませんし、その好調な店にしても、標準的な商品構成の店であるかぎりは、業界全体に共通する売り上げの減少には、大筋では同調しています。
 売り上げの縮小に合わせて店舗の在庫量を減らさなければならない。それでいて委託配本は入荷する。たいてい、それらは店に最適なタイトルの本ばかりではないので、より売れそうなものを積極的に注文して入れなければいけません。配本された新刊にも、自分で注文したものにも、やはり当たり外れはあります。売ろうとすれば、どうしても返品は増えます。チャレンジする品目は減らさないで、1点あたりの注文冊数を少しずつ抑えていくしかありません。
 このように在庫をスリムにしながらもできるだけ売ることを目指すには、日々の売り上げや仕入れ、返品の数字を把握する必要があります。予算が許すギリギリの線まで、積極的な仕入れと、売れるものへと取り替える注文が必要ですし、長く積むべきものの在庫を守るためには、より短期のうちに見切りをつけるべきものを探し当てて返品もしなければいけません。
 ここに、返品率を下げれば金を出すという条件が挟まれるとなると、ややこしくなりました。「注文してはいけない」「返品してはいけない」という経営上の要請を、具体的な指標よりも曖昧なムードとして、現場担当者は過剰に忖度するようになりました。
 何かを平積みにして試してみようと自分から注文をすると在庫が増えるし、それが売れるのかはわからない。どうせ返品になるのなら、何もしないことがいちばん儲かるらしい。売れ筋データのベスト20に挙がっている商品くらいは、欠品すると怒られるから、とりあえず入れておこう。なんとなくそういう雰囲気になりがちでした。
 本来なら、その空気に抵抗してでも売るという棚担当者たちの見識があるべきです。新刊・既刊を問わず、できるだけ幅広く目配せをして、これから売れそうな兆しを見せている本を掘り出して積む。手をかけなくても積んでおくだけで売れるヒット商品があるのなら、その隣に何を積めばあわせて買ってもらえるのか、あれこれと探ってみる。それが本来の仕事です。
 売り上げデータの上位には上がってこない中位グループを豊かにすることが、書店の売り上げ全体を下支えするとともに、品揃えを面白くもします。ベスト20ではなく、それ以外の1,000点の平積みそれぞれが月に1冊でも多く売れることや、その組み合わせが読者の衝動買いやまとめ買いを生むことほどに面白いことが重要です。しかし、その試みや成果は、売り上げ順に並べ替えられた結果だけを追ってもわかりにくいものです。
 私たちは、店全体あるいはジャンルごとの売り上げ額やその前年比の下降というような大きな数字にとらわれすぎていました。そういうわかりやすい数字によって、責任を感じたり不安に思ったりしました。一方で、品揃えの一冊一冊への判断の仕方や組み合わせの面白さをどう作り出すか、読者とどのようにコミュニケーションをとるのかといった仕事の細部は、重要なのに自分自身にも成果が見えにくく、現場にいない本部からはなおさら評価もしづらいものです。
 そのために、このような本屋の技能を磨いたり共有することを、疎かにしてしまいました。以前は確かにやっていたはずの訓練を、だんだんとしなくなってしまったのです。
 店の棚担当者全員が集まって、ジャンルにとらわれずに毎日の新刊を1冊ずつ手にして、各自の判断を言い合う。売り上げスリップの束を、全員が全ジャンルのそれを一枚一枚めくって、次の品揃えにつながるヒントを探す。平積みの並べ方を批評し合う。そういう訓練や育成を日課にしていたはずでした。
 確かに、そのようにしていい品揃えをして部分的な成功を得ても、全体の大きな売り上げ減少の流れのなかにいては、成果を自己評価しづらい。私たちも現場で、「どうせなに積んでも売れないしなあ」という思いにとらわれることもありました。現に、売り上げは減少しています。
 しかし、私たちは日々、実際に買ってくださるたくさんの人々と接していたはずです。つまり、本は確実に求められているし売れているが、かつて好調なころの店舗や制度の設計では、おもに家賃などの経費が見合わない、ペイしない。そのために、会社の存続が危ういという自分たちの不安を語っていたのだと思います。
 売り上げの減少に合わせて店舗や組織を縮小するという、避けられない変化に対応するときに、守るべき本屋の仕事の核心は何でしょうか。読者に本にまつわるすばらしい体験を提供するサービスであり、得た報酬を書き手や作り手に還元すること、本をめぐる生態系を維持することだと、私は思います。この循環の技術や労力と、そこに集まる人たちとのコミュニケーションという、書店員の属人的な技能こそが本屋の仕事の中心ではないでしょうか。
 それ以外の要素、つまり店舗の規模やそれに伴う家賃、流通制度の維持やそのコストという枠組みに縛られて、かわりに仕事の本質的な部分を継承していくことが軽んじられていくのはいやだと思ったのです。

 そこで私がまず取り組んだのが、アウトレット本の販売でした。新本のバーゲン品は、すべて買切で仕入れなければいけませんが、適切に仕入れれば粗利がとても大きく、読者にも喜ばれます。つまり、書店員の目利きの力で、本にこだわった品揃えをしながら利益率を高める方法なのです。これは、より多くの新刊書店で取り組むべきことだと考えています。
 利益率と家賃の問題をめぐっては、多くの新刊書店が様々な取り組みを始めています。雑貨や文具、食料品など様々な商材を混ぜ込むことで、書籍の在庫負担を軽減しながら利益率を高め、読者の購買体験を楽しいものにデザインする。または、カフェなど飲食店を併設することで、家賃を分担しながら、人が集まり滞在する場所づくりをする。
 一方で、読者が雑誌を定期的に買いにくるという習慣が全体に減り、入店する人の数も減っているといいます。それに代わって、なんとなく来店するきっかけや何度も立ち寄りたくなる魅力を、様々な方法で模索しているという面もあります。
 それなら、一軒の書店を構えて待っているだけでなくてもかまわないのではないか。家賃という固定費に縛られずにもっと身軽になって、本屋や棚が自由に読者のいるところへあちこち出張していくことも、一つのやり方なのではないか。その仕組みを考えたいと、私は思いました。
 そのような考えから、私は会社を離れて自分が考える取り組みを試してみることにしました。実際には、会社勤めを辞める理由は一つではありませんでした。在職しながら、私が考える「あちこち書店」企画を実行する道もあったかもしれません。私の場合は、働く妻のキャリアと幼い娘の育児を合わせて考えたときに、どんなワークライフ・バランスを実現したいかという問題もありました。

 次回からの連載では、フリーランス書店員あるいは「あちこち書店」など、久禮書店の具体的な取り組みを紹介しながら、今回の問題提起の答えを考えていきたいと思います。

 

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