第45回 クリストファ・N・野澤先生をしのぶ

 日本人演奏家、および日本で活躍した海外の演奏家についての研究者・コレクターであったクリストファ・N・野澤先生が、2013年8月13日に亡くなられた。享年89歳。この知らせはなぜか伏せられていて、9月に入って私を含め、多くの音楽関係者に伝えられた。
 まず、野澤先生の略歴は以下のとおりである。1924年4月24日、東京生まれ。小学校時代はロンドンで過ごし、このときにハミルトン・ハーティら多くの演奏家を聴く。暁星を経て名古屋帝国大学に入学、遺伝学を専攻。卒業後は上智大学、清泉女子大学などで生物を講義。コオロギの研究では著作もあり、北杜夫『どくとるマンボウ昆虫記』(〔新潮文庫〕、新潮社、1966年、181ページ。当時の筆名は野澤登)でも触れられている。また、昆虫の鳴き声を録音したレコードの監修もおこなう。
 父親のコレクションを戦火で失うが、戦後から日本人演奏家のものを中心に収集を始める。ラジオ番組『音楽の森』(FM東京、1976―90年)では故・立川澄人らとのトークで人気を博す。1996年から弦楽器専門誌「ストリング」(レッスンの友社)では邦人によるクラシック演奏史の研究「幻の名盤伝説」を70回あまり連載。最近では、ロームミュージックファンデーションのSP復刻シリーズ、諏訪根自子の追悼盤(日本コロムビア)など、野澤先生監修のCDは多数発売されている。
 私が野澤先生に初めてお目にかかったのは2000年か01年だと思う。とある方から「会ってみませんか」と言われたが、何せコレクターのなかには一癖二癖ある人が多く、ちょっと二の足を踏んでしまった。しかし、実際にお目にかかった野澤先生は非常に温和な紳士だった。最初の出会いは先生のご自宅である。狭い部屋にはレコード、資料類がびっしりと並んでいた。コレクターのお宅におじゃますると、「お聴かせしたいが、行方不明なので次回までに探しておきます」ということがときどきある。けれども、野澤先生の主要なコレクションはきちんと整理されていて、そのようなことは全くなかった。ノートがたくさんあって、個々の演奏には番号が付けられていて、その該当の番号のCDR、ミニ・ディスク、カセット・テープなどがすぐに取り出されるのだ。もちろん、SP盤も次から次へと出てくる。とにかく、野澤先生のお宅にうかがうと、あれこれと希少な音源が矢継ぎ早に鳴らされるし、見たこともないような貴重なプログラムや写真などが次々に出されるので、ひたすら「ええ?」とか「おー!」とか、そんな声を出しっぱなしだった。
 野澤先生はご自身の収集方針について、以下のようなことを言われていた。「海外の演奏家は海外の人たちに任せればいいんです。日本人の演奏家のことは、日本人にしかできませんから」「私はとにかく現物主義。雑誌の予告にあった、カタログに載っていた、それをうのみにしてはいけません」「完璧な人間はいません。どんな立派な資料だって間違いはあります。それに単にケチをつけるのではなく、みんなで情報を交換し合って、より精度の高い物を作り上げればいいんです」
 野澤先生とお会いして以来、個人的に最も印象が強いのは1910年に録音されたベートーヴェンの『交響曲第5番』(ドイツ・オデオン)だった。このSP盤は指揮者の記載がなく、しかもシュトライヒ・オルケスター(ストリング・オーケストラ、弦楽合奏団)と記されていることから、長い間「弦楽器だけで演奏された駄盤」と認識されていた。ところが、野澤先生が入手されたSPを聴くと、完全なフル編成であり、カットもない完全全曲だったことが判明したのである。それまではベートーヴェンの『交響曲第5番』といえばアルトゥル・ニキシュ指揮、ベルリン・フィルの1913年録音が史上初の全曲盤とされていたわけだが、この定説が見事に覆されたのである(この演奏はのちに指揮者も判明し、CD化もなされた/ウィング・ディスク WCD-62)。
 8月に入り、ある関係者が野澤先生に何度電話しても出ないことを不審に思い、アパートの管理人や警察官同伴で野澤先生宅に入ったところ、倒れている野澤先生が発見されたという。もう少し発見が早ければ、助かったのではと思った。しかし、ある方から耳にしたのは、野澤先生が「もしかすると、今年の夏は越せないかもしれない」と漏らしておられたとのことだった。
 野澤先生ご自身が自覚されていたのであれば、これは仕方がないことだ。天寿を全うされたとしか言いようがない。けれども、客人が驚き、その姿を見て上品な笑みを浮かべておられた野澤先生の姿が二度と見られないのは、やはり非常に寂しい。
(略歴に関しては富士レコード社、河合修一郎氏から情報を提供していただきました)

(2013年9月11日執筆)

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背中を押してくれたこと――『政岡憲三とその時代――「日本アニメーションの父」の戦前と戦後』を書いて

萩原由加里

 かれこれ10年以上に及んだ研究を1冊の本としてまとめる作業は、思っていたよりも骨が折れる作業だった。特に、本書のベースになった博士論文の提出から6年が過ぎている。博士論文の提出後から現在に至るまで、さまざまな大学で非常勤講師をしてきたが、教壇に立ってからのほうが、大学院に在籍していたころよりも学ぶことが多かった。単に調査を進め、新たな事実が明らかになったことだけではない、自分自身の研究手法の変化が、本書を執筆するにあたって最も苦労した点である。本書の随所に、10年間にわたる著者の成長が反映されていて、各時期の論文がパッチワークのように組み合わされているので、パートによって雰囲気が違うことに気づいた読者もいるかもしれない。
 そして、一度構築した博士論文を、再構築するという作業にも苦戦した。例えば「あとがき」に図版を入れているが、これは本書のために新しく撮影しにいった写真である。苦肉の策として「あとがき」に組み込んでみた。8月の猛暑のなか、君野直樹氏に同行して政岡憲三の墓を訪れ、汗だくになりながら草取りをしたときの写真である。余談ながら、筆者の趣味はガーデニングであり、草取りには自信がある。このようなところで自分の趣味が生かされるとは思いもよらなかった。
 ところで、この数年間でアニメーションに関する研究は急速に進んでいて、どこまで最新の知見を盛り込むかという点でも悩んだ。学術として、より完成度が高いものを求めれば求めるほど、この本は永遠に刊行できないままだと途中で覚悟を決めた。あくまでも博士論文を基礎とし、その後の調査で得た資料を追加するという形に落ち着いた。十分な分析をできなかった資料もあり、また目は通していたものの文中では言及できなかった著作や論文が多い。本書は基礎研究としての位置づけであり、それぞれの学問分野から政岡憲三という人物を研究するきっかけになってくれれば幸いである。
 なお、本書は著者が大学院時代に所属していた研究科から助成金を受けて刊行したものである。2014年の秋、助成金は14年度で最後になるとアナウンスされた。この助成金に採択される条件の一つが、14年度3月末までに刊行されることである。このころ、本書の刊行時期は未定だった。しかし、この知らせを受けて、3月末までに刊行することが決まった。そこからスケジュールを逆算して、怒涛の勢いで作業は進んでいった。そのせいか、完成した見本を手にした後で、うっかり参考文献一覧の類いを掲載し忘れたことに気づいた。読者のみなさまには何かとご不便をかける本である。
 その肝心の助成金だが、2015年度も継続することになった。その知らせが著者の元に届いたのは15年4月1日であり、最初はエイプリルフールのジョークかと疑ったほどだ。しかし、14年度で助成金が最後になるという知らせがなければ、著者は本書を刊行する最後の決心がつかなかったはずである。物事には勢いというか、時の運というものもあるのかもしれない。

第44回 諏訪根自子の新発見音源について

 2013年6月5日、「朝日新聞」の夕刊に諏訪根自子の新発見音源についての記事「天才少女全盛期の調べ」が掲載されていた。曲目はブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』、1949年11月28日の放送で、東宝交響楽団との共演とある。これを見て、私は何やら意図的なものや、釈然としないものを感じた。諏訪は2012年3月に他界していたが、それが公になったのが同年9月だったため、多くの人に衝撃を与えたのは記憶に新しい。とにかく、この「朝日新聞」の記事を読むかぎりでは、新発見の音源は諏訪の死後、思いがけず発見されたかのように読めてしまう。だが、これは厳密に言えば正しくない。そもそもこの音源の存在は、私が知るかぎり、少なくとも数年以上も前に知られていたからだ。なぜなら、私はある関係者から「このような音源があるが、発売する意義はあるだろうか」と相談されたことがあり、しかも、その関係者は私に音源のコピーまで送付してくれたのである。
 こうした音源が世に出ることに関しては歓迎すべきことだが、正しくない事実関係については、やはり異議を唱えたい。なお、私が得た情報では、このブラームスの伴奏指揮は上田仁(うえだ・まさし)とのことである。

(2013年6月5日執筆)

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第1回 書店を辞めて、遍在する本屋を目指す

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

 はじめまして、久禮亮太と申します。今年の1月に、新刊書店のあゆみBOOKS小石川店の店長の職を離れ、「久禮書店」を始めました。
「久禮書店」とは名乗っていますが、まだ店舗はおろか、本の在庫も持ってはいません。ネット古書店や、いわゆるアフィリエイトで稼ごうというものでもありません。書店員の仕事の経験や人脈、技能を携えてあちこちへ出向くという、いわばフリーランス書店員を始めることにしたのです。
 勝手に始めたこのわけのわからない取り組みに対して興味を示してくださる方々がいて、ありがたいことに、報酬がある仕事をくださる方も現れました。
 独立して初めての仕事は、新刊書店でもあるブックカフェで、売り場全体の選書をすることでした。また別の、本と雑貨とカフェの店では、ブックフェアの選書に加えて、書籍担当スタッフに書店実務を指導するというご依頼をいただきました。
 このような選書に絞って関わる、いわゆるブックコーディネートや、書店の現場に即した知恵を共有していく仕事は、本屋の専門的な技能として、いろいろな場所で求められていることがわかりました。
 また今後は、他店に身ひとつで関わる仕事だけではなく、自分自身の売り場を持って、この手で仕入れた本を読者に届けたいと思っています。ただ、それは一軒の自分の店を開業するということではなく、いろいろな場所に棚を持って出かけていく「あちこち書店」をやりたいのです。つまり、棚を乗せて移動する車両書店、様々な業種の店舗やオフィスに間借りする書棚、イベントスペースを貸し切って「ひとり書店」たちが小ブースを並べるブックフェスなど。そのような活動を継続しながら、その後に、自分の店を構えたいと思うのです。
 この連載では、久禮書店の今後の活動をリアルタイムでお伝えしながら、久禮書店の土台となったあゆみBOOKSでの経験を、回を追って次のように振り返りたいと思います。

 棚や平台をどう編集してきたか――書店で本を探すということ自体に楽しさを感じてもらい、長く店のファンでいてもらうためには、いちばん大切な仕事ではないでしょうか。ネットで買ってもいいし、買わなくても生きていける本というものをどうやって面白そうにみせるのか。
 売れた本のスリップを、どう活用してきたのか――売り上げスリップをチェックするのは、単に売れ筋を追いかける作業ではありません。なぜ売れたのかと考えながら、読者の視点を自分の内面に取り込んで、その立場なら、次は何を求めているだろうかと考える作業なのです。
 新刊書籍だけではなく、アウトレット本を扱ってきたのはなぜか――それは、書店にも、よそでは買えない掘り出し物や、その場限りのバーゲンの楽しさがあるべきだと考えたからです。また、新本の仕入れ予算や持てる在庫の制限に対抗して、本にこだわった品揃えで棚を演出するには、うってつけの商材だったからです。
 読者とどのようにコミュニケーションをとるのか――売り上げスリップと平台を介した無言のやりとりや売り場での会話を通して、読者のライフスタイルに寄り添った売り場の編集をできるか。売り場でのイベントに参加してもらうことで、リアル店舗の楽しさを生み出していけるか。

 このような事柄について、これまでの取り組みと、これからどう発展させていくかということをレポートしていきたいと思います。
 そして、この連載をきっかけに、現場の様々な制約のなかで仕事を模索する書店員のみなさんと、会社の垣根を越えて連帯し、教え合い学び合う場を実際に作れたらと期待しています。さらに、書店員がその経験や技術を生かして著者や編集者と協働する場を持つことをも考えていきたいと思います。

 私は、あゆみBOOKSでおよそ18年を過ごしました。学生時代にアルバイトとして早稲田店に入って6年間。その後、よその新刊書店への短い就職を経て、正社員としてあゆみに戻って12年間。最後の4年間は、小石川店の店長を務めました。
 あゆみBOOKSチェーンは、首都圏と宮城に13店舗があり、おもに100坪以下の中規模店で構成されています。どの店も、書籍の品揃えは正社員が担当していて、各人の裁量が大きく認められてきました。どの店も、地域住民の好みや各店長の色が反映されて、独自の雰囲気をつくってきました。
 どの店も比較的、書籍単行本の売り上げ構成比が大きく、とくに私が預かる小石川店は、売り上げ構成比以上に、人文書や文芸書の在庫を潤沢に持っていました。しかし、それは順調に売れていればこそ、可能なことでした。
 私たちの店も、業界全体の流れと同じく、売り上げは漸減していました。私たちが、その売り上げ減少の実情に合わせて在庫を返品し、新たな仕入れを減らすことは、経営上当然のことでした。
 他方、この状況をより複雑にする事情も出てきました。私たちが書籍の大半を仕入れる取次が、ある施策を始めたのです。簡単にまとめると、こうです。店舗の売り上げ額に対する返品額の比率(返品率)を、前年よりも下げればその成績に応じて取次から書店に報奨金を支払い、反対に上回れば書店が罰金を納めるという契約です。あゆみBOOKSも数年前から、この取り組みに参加しました。
 返品を減らし、それによって得る報奨金という、いわば真水の現金を獲得することは、経営を短期的には潤します。本の売り上げ金から純利益を濾過して同額の現金を得ようとすれば、途方もない売り上げが必要だからです。
 仕入れにかかる支払いの軽減と、この契約による報奨金の獲得を両方とも実現するためには、現場の私たちは、ひとまずは在庫を一気に返品し、以後は注文をできるだけ抑えて在庫を少なく維持して、無用の返品を出さないことが必要でした。そうすることで、本を売って得ることよりも大きな現金収入を会社にもたらすという、倒錯した「成果」を生み出すかもしれなかったからです。
 しかし実際には、そううまくはいかない。少ない在庫を回転させて、思惑どおりに低い返品率のなかで安定して売り上げをたてられる店は限られています。例えば駅前の好立地で、競合店がない。不特定多数の幅広い客層に恵まれているために、配本で入荷したもの以外に、意図的に品揃えを差別化する発注が(とりあえずは)少なくてすむ。そのような条件のもとでだけではないでしょうか。
 当然、そんな恵まれた店はそうそうありませんし、その好調な店にしても、標準的な商品構成の店であるかぎりは、業界全体に共通する売り上げの減少には、大筋では同調しています。
 売り上げの縮小に合わせて店舗の在庫量を減らさなければならない。それでいて委託配本は入荷する。たいてい、それらは店に最適なタイトルの本ばかりではないので、より売れそうなものを積極的に注文して入れなければいけません。配本された新刊にも、自分で注文したものにも、やはり当たり外れはあります。売ろうとすれば、どうしても返品は増えます。チャレンジする品目は減らさないで、1点あたりの注文冊数を少しずつ抑えていくしかありません。
 このように在庫をスリムにしながらもできるだけ売ることを目指すには、日々の売り上げや仕入れ、返品の数字を把握する必要があります。予算が許すギリギリの線まで、積極的な仕入れと、売れるものへと取り替える注文が必要ですし、長く積むべきものの在庫を守るためには、より短期のうちに見切りをつけるべきものを探し当てて返品もしなければいけません。
 ここに、返品率を下げれば金を出すという条件が挟まれるとなると、ややこしくなりました。「注文してはいけない」「返品してはいけない」という経営上の要請を、具体的な指標よりも曖昧なムードとして、現場担当者は過剰に忖度するようになりました。
 何かを平積みにして試してみようと自分から注文をすると在庫が増えるし、それが売れるのかはわからない。どうせ返品になるのなら、何もしないことがいちばん儲かるらしい。売れ筋データのベスト20に挙がっている商品くらいは、欠品すると怒られるから、とりあえず入れておこう。なんとなくそういう雰囲気になりがちでした。
 本来なら、その空気に抵抗してでも売るという棚担当者たちの見識があるべきです。新刊・既刊を問わず、できるだけ幅広く目配せをして、これから売れそうな兆しを見せている本を掘り出して積む。手をかけなくても積んでおくだけで売れるヒット商品があるのなら、その隣に何を積めばあわせて買ってもらえるのか、あれこれと探ってみる。それが本来の仕事です。
 売り上げデータの上位には上がってこない中位グループを豊かにすることが、書店の売り上げ全体を下支えするとともに、品揃えを面白くもします。ベスト20ではなく、それ以外の1,000点の平積みそれぞれが月に1冊でも多く売れることや、その組み合わせが読者の衝動買いやまとめ買いを生むことほどに面白いことが重要です。しかし、その試みや成果は、売り上げ順に並べ替えられた結果だけを追ってもわかりにくいものです。
 私たちは、店全体あるいはジャンルごとの売り上げ額やその前年比の下降というような大きな数字にとらわれすぎていました。そういうわかりやすい数字によって、責任を感じたり不安に思ったりしました。一方で、品揃えの一冊一冊への判断の仕方や組み合わせの面白さをどう作り出すか、読者とどのようにコミュニケーションをとるのかといった仕事の細部は、重要なのに自分自身にも成果が見えにくく、現場にいない本部からはなおさら評価もしづらいものです。
 そのために、このような本屋の技能を磨いたり共有することを、疎かにしてしまいました。以前は確かにやっていたはずの訓練を、だんだんとしなくなってしまったのです。
 店の棚担当者全員が集まって、ジャンルにとらわれずに毎日の新刊を1冊ずつ手にして、各自の判断を言い合う。売り上げスリップの束を、全員が全ジャンルのそれを一枚一枚めくって、次の品揃えにつながるヒントを探す。平積みの並べ方を批評し合う。そういう訓練や育成を日課にしていたはずでした。
 確かに、そのようにしていい品揃えをして部分的な成功を得ても、全体の大きな売り上げ減少の流れのなかにいては、成果を自己評価しづらい。私たちも現場で、「どうせなに積んでも売れないしなあ」という思いにとらわれることもありました。現に、売り上げは減少しています。
 しかし、私たちは日々、実際に買ってくださるたくさんの人々と接していたはずです。つまり、本は確実に求められているし売れているが、かつて好調なころの店舗や制度の設計では、おもに家賃などの経費が見合わない、ペイしない。そのために、会社の存続が危ういという自分たちの不安を語っていたのだと思います。
 売り上げの減少に合わせて店舗や組織を縮小するという、避けられない変化に対応するときに、守るべき本屋の仕事の核心は何でしょうか。読者に本にまつわるすばらしい体験を提供するサービスであり、得た報酬を書き手や作り手に還元すること、本をめぐる生態系を維持することだと、私は思います。この循環の技術や労力と、そこに集まる人たちとのコミュニケーションという、書店員の属人的な技能こそが本屋の仕事の中心ではないでしょうか。
 それ以外の要素、つまり店舗の規模やそれに伴う家賃、流通制度の維持やそのコストという枠組みに縛られて、かわりに仕事の本質的な部分を継承していくことが軽んじられていくのはいやだと思ったのです。

 そこで私がまず取り組んだのが、アウトレット本の販売でした。新本のバーゲン品は、すべて買切で仕入れなければいけませんが、適切に仕入れれば粗利がとても大きく、読者にも喜ばれます。つまり、書店員の目利きの力で、本にこだわった品揃えをしながら利益率を高める方法なのです。これは、より多くの新刊書店で取り組むべきことだと考えています。
 利益率と家賃の問題をめぐっては、多くの新刊書店が様々な取り組みを始めています。雑貨や文具、食料品など様々な商材を混ぜ込むことで、書籍の在庫負担を軽減しながら利益率を高め、読者の購買体験を楽しいものにデザインする。または、カフェなど飲食店を併設することで、家賃を分担しながら、人が集まり滞在する場所づくりをする。
 一方で、読者が雑誌を定期的に買いにくるという習慣が全体に減り、入店する人の数も減っているといいます。それに代わって、なんとなく来店するきっかけや何度も立ち寄りたくなる魅力を、様々な方法で模索しているという面もあります。
 それなら、一軒の書店を構えて待っているだけでなくてもかまわないのではないか。家賃という固定費に縛られずにもっと身軽になって、本屋や棚が自由に読者のいるところへあちこち出張していくことも、一つのやり方なのではないか。その仕組みを考えたいと、私は思いました。
 そのような考えから、私は会社を離れて自分が考える取り組みを試してみることにしました。実際には、会社勤めを辞める理由は一つではありませんでした。在職しながら、私が考える「あちこち書店」企画を実行する道もあったかもしれません。私の場合は、働く妻のキャリアと幼い娘の育児を合わせて考えたときに、どんなワークライフ・バランスを実現したいかという問題もありました。

 次回からの連載では、フリーランス書店員あるいは「あちこち書店」など、久禮書店の具体的な取り組みを紹介しながら、今回の問題提起の答えを考えていきたいと思います。

 

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幻の補論――『人工授精の近代――戦後の「家族」と医療・技術』を書いて

由井秀樹

 本書で主に語られているのは、戦後間もなく日本でもはじめられた、提供精子を用いた人工授精(非配偶者間人工授精;AID)の歴史だ。これは私の博士論文がベースになっているのだが、そこには組み込まれなかった幻の補論がある。その内容は、AIDで生まれた方へのインタビュー調査から、彼らが何を思って生きているのか、検討したものだ。なぜこれが組み込まれなかったかといえば、「歴史研究としての性格が不明瞭になるからやめておけ」とのアドバイスを異口同音にいろいろな方からいただいていたからだ。
 たしかにそれはそのとおりだ。こうして、補論になる予定だった原稿はあえなく幻となってしまった(ただし、その一部は単発の論文にはまとめてあり、某学術雑誌に掲載されている)。
 もともと私はAIDで生まれた方へのインタビュー調査をもとにした質的研究をおこなっていた。ここで、少しだけインタビュー調査で明らかになってきたことを書いておきたい。彼らは、大人になってから自身がAIDで生まれたことを知り混乱していた。やがて、生物学上の父を知りたいと思うようになるが、今日に至るまで精子提供者の匿名性は原則的に維持されており、自身の半分を構成する情報が得られないことでアイデンティティーの危機に瀕する。ここまでのことは先行研究でも言われ尽くされているのだが、物語には続きがある。精子提供者を知りたいという思いがある一方で、提供者に対して否定的な感情をもっている方もいた。また、なかには親族の男性からの提供精子で生まれていて、つまり、提供者が特定されているケースもあり、その方は親族男性(の家族)との関係でも悩んでいた。ここから、提供者を知ることができた時点で納得するケースもあれば、そこから先の人間関係の調整が必要になってくるケースも存在するであろうことが示唆される。
 このようなことがわかってきたのだが、研究を進めていくうちに、このAIDなるものがどういった経緯ではじめられ、今日まで続けられているのか、という疑問がわいてきた。それは既存の二次文献をどれだけ調べてもよくわからなかった。AIDの歴史を正面からまともに取り組んでいる研究者などいなかったのだ。こうして私はフィールドワークと並行して、歴史研究をおこなうようになった。
 では、なぜ自らわざわざ歴史をも調べるようになったのか。それにはいろいろと理由がある。とりあえず4つほど書いておくと、第1に、隙間産業だったのでそれなりに需要はあるだろう、という何とも打算的な理由。第2に、手広くいろいろな研究をおこないながらも、科学史を専門にする師匠の影響。第3に、「家族」をキーワードに研究を進めていたのだが、現在のAIDと「家族」の関係を、過去のそれを理解せずして把握することが不可能だったという一応学術的な理由。そして第4に、たぶんこれがいちばん大きな理由だろう。「そもそも、この技術がどういった経緯ではじめられたのかさえ、わからない」、こんなことをAIDで生まれた方が語っていて、それが心のどこかにひっかかっていたのだ。歴史を調べたところで彼らが置かれている状況が変化するわけではないことは重々承知していたが、それでも、何かしらの役には立てるかもしれない。そんな思いがどこかにあった。
 さて、この原稿を書いているのは2015年4月初頭なのだが、周知のように日本にはAIDや卵子提供、代理出産といった、第三者が関わる生殖補助技術を規制する法律はない。ただ、それを作ろうとする動きはある。その際、最も真摯に議論を重ねなければならないのは――補論は幻になってしまったが――、第三者が関わる生殖補助技術で生まれた方のことだろう(実は本書第4章で取り上げた1950年代の法学者たちの議論でも同じようなことが語られていた)。どのような方向に進むにしても、法制化の動向から目は離せない。
 しかし、ここでいったん立ち止まってみたい。立法は概してその後の制度設計を念頭に置いている。もちろん、未来を見据えることは重要だ。だが、未来を見据えるのは現在である。そして、過去があったからこそ、現在があり、現在を理解するには過去を理解しなければいけない。それにもかかわらず、過去のことはよくわかっていない。要するに――私が歴史を調べ始めた第3の理由とも重なるが――、第三者が関わる生殖補助技術をめぐって、私たちはいま、どこに立って未来に目を向けているのかよくわからず、足元さえ定まっていないのだ。本書が過去から現在を経て、未来へと続く道筋――それは決して平坦な一本道ではなく、ぐねぐねと複雑に入り組んでいるのだろうが――に多少なりとも光を照らすことができているのか。手に取ってくださった方々の判断を待ちたい。

広告写真は時代を映し出す投射装置である ――『広告写真のモダニズム――写真家・中山岩太と一九三○年代』を書いて

松實輝彦

 本書は神戸と芦屋を拠点に活躍した写真家・中山岩太が1930年に撮影した一枚の広告写真をめぐって、当時の写真界や商業美術と呼ばれたデザイン界の動向、それらを含めた視覚文化メディアがどのような反応を示し、どのような文化的変容を経験したのかを写真史の観点から考察した、興味深い試みである。と前口上を切ると、たった一枚の写真がはたしてモダニズムの時代を揺さぶり、戦前期のメディアを変容させたのかと、しばしあっけにとられるかもしれない。たしかにこれまでの概説的な写真史の本ではそんな図太い発想のままに記述されることはなかった。あまり前例がない、という点から「冒険する研究書!」といったあおりの惹句を本書のどこかに追加すべきかもしれない。
 では考察の主要な対象となる中山岩太とはどのような写真家なのか。この人物紹介が案外と難しいのである。関西の写真史研究の基盤を築いた故・中島徳博氏は、中山岩太を語る際に、その生き方が似ているとして、アンドレ・ケルテスをよく引き合いに出していた。中山の生年が1895年、ケルテスは94年にハンガリーのブタペストに生まれている。ふたりとも同時期にパリに移り住み、多くの芸術家たちと交流をもつ。ケルテスの写真といえばソファでおどける踊り子や仔犬を懐に抱く少年を思い浮かべるのだが、中島氏はピエト・モンドリアンのアトリエを撮影した作品に注目した。なにげなく写されたようでいて緻密に画面構成された室内風景は長く印象に残り、中山の出世作となった広告写真「福助足袋」ともどこか通じるものがある。しまった、このことは本書ではふれずじまいだった。
 本書を中山の紹介から書きだすにあたって、中島氏に倣いながら、当初はアーウィン・ブルーメンフェルドを引き合いにするつもりだった。ちょうど初稿をまとめている2013年の春に東京都写真美術館で回顧展が開催されていて、「ヴォーグ」などのファッション誌で活躍したブルーメンフェルドの作品群に接して感銘を受けたから。彼も1897年にドイツ・ベルリンに生まれ、1930年代にパリで広告写真の仕事をしている。最晩年、「私のベスト写真100選」で自ら取り上げた最後の作品は、モデルの両足の裏だけを撮影して構成したモノクロームの写真だった。それは中山の「福助足袋」とほとんど同じ構図であり、大いに驚いたものである。もしものたとえではあるが、中山が長命であったならば、ブルーメンフェルドのようなファッション写真を撮っていたかもしれない、と思った。きっと洗練された優美さとシャープな感覚が一体となったすてきな作品だったろう、と。しかし結果的に「はじめに」では、ケルテスでもブルーメンフェルドでもなく、宮崎駿監督作品『風立ちぬ』(スタジオジブリ、2013年)の主役人物のモデルとなった戦闘機の設計技師・堀越二郎に登場してもらった。どうしてそうなったかについては、本書の冒頭にあるので手に取って確かめていただきたい。
 本書ではこれまで紹介される機会がなかった中山自身の言葉を資料の束のなかからできるかぎり拾い出し、モダニズムの写真家の思考に迫ろうとした。と同時に写真家を取り巻く戦前期の時代環境や、海港都市である神戸、保養地の芦屋といった地域環境、生活のため日々働いた百貨店の写真室という職場環境にそれぞれ注目した。そしてそれぞれの環境がどのように構成されていたかを示す資料もできるかぎり収集し、新たな資料の掘り出しにも精いっぱいの力を注いだ。そうすることで、総体的に中山が広告写真といかに関わっていったのかを捉えようと努めた。研究としては、まったくもって当たり前のことではあるが、準備にはたっぷりと時間がかかってしまった。
 ひとわたり書き終えて実感することは、つくづく広告写真はその時代を映し出す投射装置だということ。それがたった一枚の写真であっても、すぐれた写真であるならば、そこには必ず時代のかけらがなにかしら封じ込められ、見る者の心のスクリーンに美しい影を投げかける。中山岩太の広告写真「福助足袋」には、日本のモダニズムに関するとびきり上等ないくつものイメージが内包されている。そこからどんなイメージが読者一人ひとりに投影されることやら。前口上はこのへんにして、つづきはどうぞ本書でご観覧あれ。

ラジオというメディアの魅力――『コミュニティFMの可能性――公共性・地域・コミュニケーション』を書いて

北郷裕美

 この原稿を書いている2月21日は(僭越ながら)私の誕生日である。以前から続いている「Facebook」のタイムラインには、新年の挨拶に匹敵するたくさんのメッセージがいまも入ってきている。年齢を意識する場面は日常のなかで極力減ったが、まあきょうくらいはいいかなと、一人ひとりに一生懸命返信していたところである。
 そのなかに学生時代の友人の名前もちらほらある。「Facebook」で復活した友人たち。今度会おうぜ、が挨拶がわりになってしまっている。そんな彼らと共有していた昭和の時代は、机の横に必ずトランジスターラジオ(のちにラジカセに出世するが)があった。自分も「ながら族」の典型だったが、夜の帳のなかで器用に勉強と両立していたかはかなり疑問である。現在も続く深夜放送のプロトタイプ番組のそのなかで、自分はさまざまなことを思いめぐらせていた。その行為は消費するという感覚ではなく、貪欲にかつ積極的に受容するものだった。「ラジオの前のあなた」とパーソナリティーから一人称で発せられるメッセージも、演歌から歌謡曲、映画音楽、ポップスからロックまで混在するチャートがあった頃の音楽も、さまざまな下世話で役立つ情報も、すべて……。
 ラジオを聴くシチュエーション。そこにたたずむのは自分一人。深夜の孤独な時間をまさに積極的に享受していた。アクセスなどという積極性ではなく、スイッチを入れたらあとは音声に任せてしまう。ただビジュアルが伴わない分、頭のなかのスクリーンにはフル回転で映像が投影され続ける(結局、学業は疎かになる)。落合恵子の声に、吉田拓郎の歌に、大政奉還やミトコンドリアが重なっては消えていく……。メランコリーな誰にもじゃまされない深夜の一人遊びである思考体験を、次の日の朝、教室という名のオフ会の場で他者の視点をもって反芻して再度味わう。
 著作とは重ならない話と思われるかもしれないが、今回世に問い直した「コミュニティFM」というラジオ媒体は、私と同じような年代の人には懐かしく、若い人にはいにしえの媒体として「先生、聴いたことないんですけど……」と、平気でゼミの学生にものたまわれる。「コミュニティFM」ラジオを地域活性やコミュニケーションのツールとしてその価値を、特に地域という文脈のなかで、今回真摯な気持ちで書き下ろした。そのことはいまも信念をもって伝えたいことと自負している。ただ、ラジオという音声媒体に対する共感や有意性は言葉では伝えられない。あの時代をともに生きた者たちにとってはセンチメンタルなまでに共有物だったものが、世代を超えてつなげることの難しさをいまは感じている。多様な媒体が生まれたことや、社会環境の大きな変化など、理由を探れば枚挙にいとまはない。だが、メディアは印刷媒体も含めて何か一つのもの(電子媒体など)にすべて収斂されるのは自分はいやだ(およそ研究者らしくない物言いだが)。これらのメディアは、すべて過去の文化遺産にならないでほしい。なぜならどの媒体もまったく違う存在価値をもち、物語を共有し、それにふれた体験をずっと内包し続けられるものだから。とりわけラジオは人間くさいのである。寄り添う媒体なのである。だから子どもたち(ラジオを聴かない若者たち)に過去の遺物としてではなく、今回著した音声媒体を時制の枠を超えて「現時進行形」の媒体として、認めてほしい、使ってほしいなと思っている。そして彼らに新たな価値創造を加えてもらえるなら、時代を超えてすてきな物語を紡ぎ続けられるという期待をもっている。
 ここまで書いて思ったのは、絶対「余白」にしか書けない文章であり、ヘタをすれば「余白の外に」追いやられそうな気配もあるのでこのあたりで締めたいと思う。

戦争の時代の化粧品広告――『戦時婦人雑誌の広告メディア論』を書いて

石田あゆう

 戦争のさなかにあっては化粧どころではない。私もそう思ってきた。女性が化粧を楽しめるのは、平和な時代であってこそだと某ジャーナリストも言って(書いて)いた。だがそれがそうとも言い切れないのではないか、というのが本書の出発点である。
 女性の化粧に対する情熱と、その欲望を糧に肥大化した化粧品産業は、ちょっとやそっと節約や倹約の時代になったところで姿を消さなかった。もちろん派手な化粧は御法度で、人目はコワイ。だが自然な化粧や素肌美人はどうだろう。女性の化粧は艶やかさやけばけばしさが真骨頂ではない。いまも昔も肌荒れを避け、素肌を美しく保つために化粧品は必須である。戦時期には真っ白な白粉や口紅といった化粧品広告はなりをひそめるようになるが、素肌美人や若々しい女性でいるために化粧をしましょう、と積極的な商品宣伝がなされた。戦時下にあって健康美が奨励され、国産愛用運動が展開されたこともその傾向に拍車をかけた。日本人の肌色に合っていて自然に見えるということで、国産オークル系ファンデーションはこの時期の人気商品になった。
 そんな化粧品広告を戦時下の「主婦之友」(主婦之友社)をはじめとする婦人雑誌に見ることができる。これも私にとって奇妙なことだった。「主婦之友」という雑誌メディアは、戦時期にあって女性の戦争動員/協力を引き出すのに積極的な役割を担ったプロパガンダ・メディアだというのが通説だからだ。1937年の日中事変以後、誌面や出版広告には戦争への意識を高めようとする内容が盛り込まれるようになる。そうした誌面の横では化粧品広告の美人たちがほほ笑んでいた。この矛盾した内容の誌面はどういう方針によるものだったのか。
「主婦之友」という雑誌は、創業者である社長の石川武美の方針で「一社一誌主義」を掲げ、「主婦之友」だけにすべての労力を注ぎ、このただひとつのメディアを選んでくれる読者の信頼を裏切らないことをモットーにした。1926年の「読売新聞」の連載「雑誌界の人物」に登場した石川は、雑誌出版について次のように語っていた。

 私は明治33年17才の時東京に出て本屋に入り、雑誌を中心に仕事をしてゐましたがそれ以後は徹頭徹尾雑誌のためにつくしてゐます。私はいつも雑誌を生命としてゐます。雑誌は私の学校であり教師であって今日まで一度もそれを裏切ったことはありません。
最早、現代に於いては宗教は雑誌に移って来なければなりません。印刷の発明は宗教や政治や実業の上に大革命を与へました。若し今日キリストが生れて来たならば印刷宣伝をやり記者になって神の道を説くでありませう(「雑誌界の人物(15)――石川武美氏」「読売新聞」1926年7月7日付)。

 石川はクリスチャンでもあったが、よりよい情報を雑誌を通じて読者に届けるというメディア・コミュニケーションのありようを宗教とのアナロジーで語っている点がおもしろい。
 しかし「一社一誌主義」はその一誌を失えば数多くの読者とのつながりも信頼もすべてを失ってしまう危険があった。読者のためを思って雑誌は編集されるが、その内容を当局が時局にふさわしいと思うかどうかは別問題である。だからこそあらゆることを想定して、発禁になることだけは「読者のため」に避けなければならなかった。さらに系列雑誌をもたなかったため、「読者のため」に価格を抑えるには広告への依存度が高くなった。
こうして「読者のため」の雑誌「主婦之友」は、倹約の戦時宣伝と消費の商品広告が奇妙に共存する不徹底なプロパガンダ・メディアになっていったのである。付け加えておくならば、敗戦後、戦争責任を認め廃刊することが決定した「主婦之友」だが、やはり「読者のため」に、と一転、続刊になった。ここから戦後をも代表する長寿雑誌として道を歩み、実質廃刊になったのはそれから63年後、2008年のことであった。

複写カウンターでの1人芝居――『〈スキャンダラスな女〉を欲望する――文学・女性週刊誌・ジェンダー』を書いて

井原あや

 1月半ばに、拙著『〈スキャンダラスな女〉を欲望する』の見本が届いた。ようやくできあがったのだという安堵感と、これからこの本が人前に出るのだという緊張感が入り交じった思いでページをめくっていたとき、ふと思い出したことがある。女性週刊誌の記事を集め始めた頃の、自分の姿だ。その自分の姿を、「原稿の余白に」として綴ってみたい。
 例えば国立国会図書館では、女性週刊誌はマイクロフィルムにもなっておらず、データベース化されてもいない。そのため、閲覧室で雑誌そのものを開いて、その内容を1つひとつページをめくりながら確認し、必要であれば複写を申し込むことになる。こう書くと、国立国会図書館に行ったことがある方なら誰しも「そんなことは当然だ。女性週刊誌や週刊誌に限ったことではない。お前1人が大変ではないのだ」と思われるだろう。また、「週刊」ではなく毎日刊行される新聞を研究対象に選べばなおのこと目を通す分量は増えていくので、女性週刊誌などの週刊誌というメディアを読むこと自体の苦労をここで語りたいのではない。こうしたことは、本を出されるような方、あるいは論文を書かれる方であれば誰しもが経験することであって、私などがそれを「苦労」と呼ぶのは申し訳ない。
 では何が「苦労」だったのかといえば、複写申し込みである。いまとなっては、それは苦労でも何でもなく、単なる自意識過剰なので笑い話でしかないが、女性週刊誌などの週刊誌には、必要以上に大きく目を引くように書かれたタイトルや写真がつきものだ。それが戦略なのだし、私もそうしたページが欲しいので、複写を申し込まなくてはならない。先にも述べたように、女性週刊誌はマイクロフィルムにもなっていないし、データベース化されているわけでもないので、当然、複写申し込みの列に並んで、そこでページを複写係の方と確認することになる。列に並んで待っている間、私の前の方が申し込みの部分を確かめておきたいのか、ページを開いていた。見ようと思って見たわけではないが、きちんとした論文の複写を申し込まれるのが、何となく目の端に入った。対して私はといえば、読者の興味関心を引く、いわばかなり「キツめ」のタイトル――例えば、「衝撃!」だとか「情死」といった見出しが躍るページを複写カウンターで開いて複写係の方と確認していくのだ。待っている列とカウンターは離れているので、待ち時間に列でページを開かないかぎり周囲には見えないのだが、もしも何かのはずみで後ろの方にページが見えたらどうしよう、その方が、私には到底理解できない数式が並んだ論文や天下国家を論じたものなどを複写するような方であれば、私のことをどう思うだろうか、あるいは複写係の方が、私の前後の方と私の複写申し込みの部分を比べながら、「今日はバラエティーに富んだ日だった」と1日を振り返ったらどうしよう(当然、図書館の方は仕事なのでそんなことは思わない)、などと悶々としながら、それでも平静を装って、複写ページを確認して申し込んだ――真新しい拙著のページの間から立ち上ったのは、周囲の目を気にして、自意識過剰に複写申し込みの列に並び、複写担当の方におかしく思われないか、ドギマギしていた自分だった。
 もちろん、いまはもう、ふてぶてしくなったのか成長したのか、複写申し込みの列にも堂々と並べるけれど。

「山ガール」現象と「アルプ」の世界――『山の文芸誌「アルプ」と串田孫一』を書いて

中村 誠

 湊かなえの小説に『山女日記』(幻冬舎)というのがある。結婚や離婚、生活・仕事上の悩みなど、人生の節目に直面したアラサーからアラフォー世代の女性たちが、様々な思いを抱きながら登山する物語である。山岳小説というよりは、直面する諸問題にどのように対処しようかとさまよう現代の女性群像を連作として描いたものといったほうがいい。言わば、山は舞台として配されたにすぎない。しかし、そういう舞台として山が設定されたということ自体が、山や登山が身近になったことを示している。数日前には、髙橋陽子『ぐるぐる登山』(中央公論新社)というのも書店で目にした。こちらは読んでいないのでうかつなことは言えないが、これも直接的な登山行為に絡む物語ではなく、状況設定に「山ガール」が一役買っているというもののようだ。いまや、家庭や職場などと同様に、山は女性作家が描く小説の場面として使われ、「山ガール」が登場人物の中心となりうるご時世なのである。
 本書の校正を終えて久しぶりに出かけた鈴鹿山脈の御在所岳でも、センスがいい登山ウエアで身を固めた「山ガール」に何組も出会った。いつまで続くかは別として、現状ではこの現象は確かに定着しているようである。一方、そういう女性たちと共に中高年登山者も依然多い。「山の日」が制定される土壌として、このような登山の一般化・大衆化があったのだろう。山から遠いところにいるのは青年・壮年の男性たちだけのようである。
 しかし、そういった登山隆盛と言える今日にあっても、登山関係の本に親しむ人はそう多くはない。入門書やハウ・ツーものは登山人口に比例して需要があるが、山や登山について考えたり、登山を通して自己を探求したりするような書物が読まれる状況にはない。無論、今日にあっても登山行為をテーマとした山岳小説は存在する。また、登山や山に関する映画や漫画も結構あるが、それらの多くはエンターテイメントとしてある。
 今日では、山に登る意味などについて深く考える作業は敬遠されがちだということであるが、かつての登山者は山に登ることと同等の重みで著名な登山家の著作や遺稿を読み、自分の登山についても考えようとしていた。あるいは、そういった読書と登山体験を媒介として人生観をも深めていった。そういう山の書籍としては、例えば、大島亮吉の登山論や随想、槇有恆の紀行、今西錦司の山岳論、加藤文太郎や松濤明の遺稿……などがあり、これらは登山者共通の読書体験としてあったと言っていい。登山者は自分自身の登山とそれらの著作で描かれた山行の追体験を通して、登山行為と自分という存在について思い巡らせたのである。本書で取り上げた山の文芸誌「アルプ」や串田孫一・辻まことなどの山に関する書物も、そういう時代のなかで多くの読者を得ていた。
「アルプ」は1958年(昭和33年)に創刊され、四半世紀の間に300号を刊行し、1983年(昭和58年)に終刊となった雑誌である。「アルプ」の特色は、登山を単に肉体的な行為として終わらせず、登山が持つ精神性を文芸表現として昇華しようとしたところにある。その「アルプ」の終刊からすでに30年以上が経過したいま、そんな古い時代の山岳文学や山の詩について書いた本は陳腐で、いまさら「アルプ」でも串田孫一でもないと思われる向きがあるかもしれない。
 しかし、たとえその30年の間に、登山がより大衆化し、その装備が機能的かつファッショナブルになり、登山の意味が変容したとしても、自然としての山岳が持つ存在感が薄れたわけではない。先にあげた小説で、様々な岐路に立つ女性たちが自らの思いを整理する場として山が使われたことは、山が日常生活の場とは異なる特殊な空気を有するという点でいまも変わっていないということを示している。そして、現代であっても、登山は精神的な行為に通じる要素が潜んでいるということも示している。したがって、現代の登山者が登山をレジャーととらえ、その行為に重い意味を置かなかったとしても、彼らが先にあげたような書籍や「アルプ」の作品を受け入れ、共感することは十分にありうる。本書で描いたような山岳文学の世界に未知だっただけであり、もしそれにふれる機会があるならば、どっぷりとはまるかもしれない。串田孫一の山に関する〈断想〉や辻まことの〈山の画文〉はいまでも十分“オシャレ”で、格好いい文体であり画風である。きっと、いまの若者も興味と関心を持つことができるものだと思う。
『山の文芸誌「アルプ」と串田孫一』では、串田孫一・尾崎喜八・鳥見迅彦をはじめとする様々な詩人たちの詩作品も扱った。山の本であると同時に詩(文学)についての本でもある。ぜひ、多くの方々がこの本を手にし、登山行為と表現行為を融合させて登山を芸術として結晶させた「アルプ」の豊穣な世界にふれていただきたい。