第3回 初めての「あちこち書店」、その顛末

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

 こんにちは、久禮書店です。
 前回は、フリーランス書店員として受託した仕事について書きました。今回は、私自身が書籍を仕入れて出張販売をした企画についてのお話です。これは、私が思いつきで「あちこち書店」と呼んでいる活動で、カフェや美容院といった他業種の店舗や様々な施設など、書店ではない場所に棚を持ち込んで本を売ろうという単純な発想によるものです。

 5月12日の火曜日、平日1日限りの出店をしました。洋書絵本のバーゲン品と和書新本の絵本を中心にしたラインナップで、什器はりんご木箱を手作業で塗装した簡素なものでした。準備した在庫も売り上げもごくわずかでしたが、学ぶところは多くありました。
 場所は、東急目黒線の武蔵小山駅からほど近いキッズ・カフェALL DAY HOMEでした。スキップキッズが首都圏で10店舗運営しているうちの1店舗です。キッズ・カフェというのは、親子連れで来店して、子どもは店内の遊具スペースで遊べるというスタイルのお店です。もちろん親も子どもと一緒に遊んでもかまわないのですが、このお店ではつかの間でも子どもから解放されて1人でお茶をしたり、大人同士会話を楽しんだりする過ごし方を多く見かけます。

 武蔵小山は私の生活圏で、このお店には3歳の娘を連れて日頃からよく通っていました。私自身も娘と一緒にいる時間と仕事のバランスに苦心していたので、本を売る私のそばで娘が勝手に遊んでいてくれるのは好都合だと考え、この場所でやってみたかったのです。

「あちこち書店」の思いつきは、前職の頃からありました。書店に人が来なくなったと言われるが、それなら、こちらから出かけていけばいいのではないか、独立したいけれど店を構える頭金がないから、軒先を借りながらやっていけないだろうか、という考えです。
 勤めていたあゆみBOOKS小石川店は地下鉄後楽園駅の出口からすぐの路面店という好立地でした。それでも、自店の認知度がいまだに十分でないことや、来店の頻度の低さ、書店にふらっと寄るという習慣がない人の多さなどを思い知らされることがたびたびありました。お店のポイントカードに記録されるお客様それぞれのご来店頻度は、数カ月に一度というものがザラにあります。新聞に折り込みチラシを入れて新刊の予約を募ったところ、店から徒歩3分のところにお住まいの方から電話で「おたくの店、どこにあるの?」と問われたこともあります。
 一方でその多くの方々に対して、こちらがお店の外へ出てアピールしたところ、期待以上に買ってくださったという経験もありました。先ほど例にあげた折り込みチラシで告知した書籍は、『文京区の100年――写真が語る激動のふるさと1世紀』(郷土出版社、2014年)という1万円近くする写真集でしたが、予約募集に対して200件近い申し込みをいただきました。また、近くの文京シビックセンターで開催される講座への出張販売や、お店の前の通りに出て声を出しながら販売する機会を定期的に設けるだけでも、書籍の実売はもちろん、その後のご来店につながっていきました。
 このような経験から、興味をもちそうな人が集まる場所へ本を持って出ることが必要なのではないかと感じていたのです。

 ALL DAY HOMEへ娘と2人で客として訪問したある日、私は「ここで本を売らせてくれませんか?」と、かねてからの考えを話してみました。運営会社スキップキッズのマネージャーさんがたまたま店舗に居合わせていて、私の提案を聞いてくださり、実現することになりました。実はスキップキッズも、ちょうど書籍の導入を検討していたところだったのです。
 絵本を中心とした常設の書棚を作って、お店の魅力を高めたい。また、その書籍や関連する雑貨を販売することで、より多面的に売り上げをあげながらお店の利便性を高めたいという考えを、すでにおもちでした。しかし、書籍の選定や書棚の運営についてのノウハウや在庫調達の方法などについて、まだ検討が必要な段階にあると話してくださいました。
 その話をうかがい、私自身がその常設の書籍販売コーナーを担当したいと思いましたが、たとえ小規模でも新刊書店の棚をそこに作るためには、まだ私の準備が不足していました。

 カフェ内に販売用の書棚を設置して、お茶を飲みながらそれを読めるスタイルをとれば、その場で1冊を読み通すこともできます。それでも購入してもらえるようにするためにはどんな工夫ができるか。小さな棚だけに、カフェの常連のお客さんを飽きさせないためには、書目を小まめに入れ替え続けなければいけません。また、子どもが書籍を手に取ることも多く、大人も飲食をしながら読むという環境なので、在庫の汚破損は避けられません。
 つまり、新本の販売在庫を返品できる委託条件で取り引きする取次口座と、返品することがはばかられるような在庫を買い取って古書として再仕入れする流れのようなものがなくては、このような販売形態をとることは難しいと思ったのです。
 このような場合、既存の新刊書店がカフェと協業して新しい販売形態を作ることが自然な流れに思えますし、書店は積極的にそうすべきではないかと思います。いま振り返ると、私は個人規模の出張販売にこだわらず、既存の書店とカフェなど異業種の仲介を仕事にすべきなのかもしれないとも考えられます。しかしひとまずは、「あちこち書店」を自分の手でやってみなければ気がすまなかったのです。
 お店としても、常設棚の前段階として出張販売でお客さんの本に対する大まかな反応を見たいという考えがあり、出店を承知してくれました。売り上げ金の数パーセントを場所代として支払うという出店の条件も合意し、この企画が実現することになりました。
 この場所代は、書籍の粗利から支払うことを考えると大きな負担率になりました。それでも、お店に場所をお借りする一般的な対価としては、ご配慮いただいた料率でした。今回はまだ売り上げ規模が小さく、さほどのコストではありませんが、「あちこち書店」の場所や会期が増え売り上げ規模が大きくなれば、実店舗と同様に家賃の問題は避けられないようです。

 開催が決まり、さっそく書籍の調達を始めました。品揃えの中心は、あゆみBOOKSやマルベリーフィールドに続いて今回も洋書絵本のアウトレット品です。そこに和書新本の絵本と、ママさんたちのライフスタイルに関わる書籍を組み合わせようと考えました。
 この出店を考えた最初の動機は、ごくプライベートなものでもありました。娘が通う幼稚園のクラスメートとそのお母さんたちという、いまの私の交友関係のなかで、本の仕入れ経験を役立てられないかというくらいのものでした。より正直に言うと、私がママ友たちともっと仲良くなりたかったというわけです。
 娘が通う幼稚園は英語教育を軸にしていて、様々な国から来た親子が集まっています。ここに集まる人々との出会いを通じて、英語の絵本や読み物の需要を以前から感じていました。前職で洋書絵本のセールをしようと考えたきっかけも、そこにありました。
 洋書絵本のアウトレット品は、今回も以前からお世話になっている八木書店とfoliosから仕入れました。安価ですので、買い切りとはいえ気軽に仕入れることができました。また、自由に値付けすることができるので、ある程度の売れ残りが出ても大きな損をしないようにできます。
 和書新本の絵本と大人の女性向けの書籍も組み込むことにしたのは、ゆくゆくはこのお店にミニ書店コーナーを常設するという前提で、お客さんの反応を見たかったからです。仕入れ資金が許すならば、できるだけバリエーション豊かな棚在庫を持ち込んで様子を見たいところでした。
 しかし、私の仕入れ資金の準備は十分でなく、仕入れ価格が高い和書新本をさほど多く買い入れることはできませんでした。また、和書新本もやはり買い切りで仕入れたため、今回のように短い販売期間のなかで売り抜けたいという意識のなかでは、多くの在庫をそろえることを躊躇してしまいました。
 和書新本の仕入れ先は、子どもの文化普及協会という取次会社です。絵本の仕入れについて、前職でお世話になっていた出版社クレヨンハウスの営業担当の方に相談したところ、同社の関連事業として運営されているこの取次を紹介してくださったのです。同協会の倉田さんというご担当の方に、お話をうかがいました。
 同協会は、児童書の出版から書店経営までを手がけるクレヨンハウスの取次事業として、新刊書店以外の様々な相手に書籍を卸しています。取り引き先は多様で、飲食店や雑貨店などの店舗をはじめ、生協のような無店舗の販売会社もあります。
 取り扱う書籍は、やはり児童書を中心としてはいますが、実はジャンルを問わず注文することができます。仕入れ先の出版社数は、公表されているリストによると230社あり、その出版社の書籍なら児童書でなくても調達してくれます。
 ベテランの書籍編集者でもある倉田さんは、子どもの文化普及協会の理念についてお話ししてくださいました。すべての町に本屋を作り、子どもたちの日常に本が自然に存在することが理想だが、現実には本屋は減っている。ならば、せめて本棚だけでも町のいたるところにあってほしい。そのために、書店以外の様々な方にも、品揃えのアドバイスも含めて、本を届けていきたい。その言葉は、まさに私と考えを同じくするもので、強く印象に残っています。
 同協会からの仕入れは、基本的にはすべて買い切りですが、保証金のような前払い金は不要でした。仕入れの掛け率を同じ買い切りの条件で比較した場合、最も低い部類ではありませんが、いわゆる神田村小取次のいくつかよりも好条件か同等で、出版社との直取引よりも好条件になる場合もあります。とはいえ、文具や雑貨よりは高正味にならざるをえません。

 このように様々な仕入れ先から準備した書籍は約200冊でした。その内訳は、アウトレットが7割、新本が3割です。1日限りの販売で予想される売り上げ額に対してはずいぶんと多いのですが、書棚の演出のためには冊数も必要だし、出張販売を何度も開催するなかで消化できればいいという考えもありました。
 仕入れと並行して、什器の準備も進めました。寸法や価格、使いやすさを考慮して入手したのは、りんごの運搬に使われる木箱でした。間口が80センチ×30センチで、一般的な書棚の1段が1箱と捉えやすい形状です。これを8箱準備して、持ち込みました。自由に組み合わせて積み上げられるので、今後も様々な場所に合わせて陳列できます。このほか、表紙を見せて陳列するためのスタンドや手提げ袋、つり銭などを手配し、開催に備えました。 
 当日の朝を迎え、書籍と什器、備品類を台車に載せ、娘も台車のハンドルにつかまり立ちさせて、この一式を押してキッズ・カフェへ向かいました。
 カフェ店内での陳列を終え、10時の開店を迎えました。開店早々から14時頃までは、ありがたいことに来客が絶えず、順調に売れていきました。その7割の方々は、私と娘のママ友と、そのお友達でした。裏を返せば、不特定の方々への宣伝活動の不足ともいえますし、その場にたまたま居合わせた方への書棚の訴求力の不足ともいえますが、ママ友のネットワークに貢献できればという当初の趣旨には沿うことができました。

 出張販売会の宣伝活動では、ママ友ネットワークに助けられることばかりでした。お母さんたちはそれぞれ、いくつものコミュニティーに属しています。幼稚園、公園、児童館、マンション、小児科医院、様々な習い事の教室など、子育てにまつわるちょっとした接点から、あちこちに友達の輪をつないでいきます。
 半年前にフルタイムの主夫業に転じたばかりの私は、数少ない男性ということで腰が引けていて、こういった場でいまいち打ち解けられないでいました。しかし、「絵本を仕入れるパパさん」といういわば話のネタとして、何人ものママさんたちに紹介してもらううちに、少しずつ私も娘も地元のあちこちにつながりをもてるようになりました。この日も新しいママ友との出会いに恵まれ、うれしく思いました。
 15時からは、絵本の読み聞かせもしました。妻の友人で劇団員として活動している方と私の2人で、代わる代わる朗読を担当しました。移り気な子どもを相手に、舞台に立つ人ならではの語りかけ方や間の取り方といった、聴く人を引き込む技術を発揮する演劇人。これまでわが子を相手に絵本を読んできたとはいえ、一本調子な私。子どもたちの反応はまるで違っていました。これからの本屋人生でも、大人の読者を相手にこんなふうに本をプレゼンできたらと思わされる場面でした。

 この日、16時を過ぎたあたりからは来客がぱったりと途絶え、店は私と娘の貸し切り状態。それは、春には珍しい台風のせいでした。台風6号の影響で、夕方から天気が急転し、夜には土砂降りになってしまったのです。19時頃には、閉店を待たずに撤収することにしました。
 帰路は、朝と同じく満載の台車にカッパを着せた娘も乗せ、在庫に雨水が染みないかとハラハラしながら自分はずぶ濡れというものになりました。
「あちこち書店」の初出店は、漠然と期待していた売り上げを大きく下回る結果に終わりました。利益のことを脇に置いて、今後どのような形の本屋を目指すにしても、物の売買にとどまらず、本をきっかけにした緩やかな地元コミュニティーを作る役に立ちたいという思いを感じたことは、今回の小さな売り上げとは反対に、大きな成果になりました。
 幸い、状態がいい残り在庫はマルベリーフィールドのアウトレット棚に納品することができ、デッドストックになることは避けられました。和書新本の在庫は、次の機会まで寝かせておくしかありません。仕入れ代金を回収できる日はまだ先のようです。

 この販売手法で利益を出すには、頻繁に開催し続けることと、複数の売り場で在庫を回すことがやはり必要なようです。また、限られた予算のなかで棚在庫をもう少し豊かにすることと、場所代に見合った粗利を得るという課題を考えると、古書を扱う必要もありそうです。
 また、今後は委託条件で取り扱える書籍を増やす方法も探っていきたいと思います。直取引で委託でも低い掛け率を提示してくださる出版社が増えていて、積極的に取り入れていきたいと思います。しかし、取次会社と取り引きできることも諦めずに考えようと思います。多様な書籍を仕入れるためには必要な窓口ですし、出版社各社との個別の事務作業を取りまとめてくれることや、支払いを一本化できることなど、実務の面でも重要なインフラになるものだからです。
 たしかに、新品の書籍を返品可能な委託の条件で卸してもらうには、やはりこちらも小売店としての規模や体制が整っている必要があります。一方で、新本を売る棚はどんどん小さくなっています。既存の新刊書店の売り場がいや応なく縮小しているという面もあれば、他業種とのミックス業態や個人経営のセレクト書店のように意図して小ささを志向している場合もあります。
 そうなると、新本の配送がきめ細かくなっていくことを求められます。少量の荷物をあちこちに納品してほしい。これは配送コストを増大させることで、いま大手取次会社が志向している配送コスト削減にまったく逆行してしまうものかもしれません。
 そのギャップを埋めるアイデアはないものでしょうか。たとえば、独立系小書店が連合して仕入れを取りまとめるNet21のような先行事例に学ぶ。既存の新刊書店を地域ごとの仲卸として、私のような極小書籍販売者を束ねた拠点にできないか。どれも私の空想の域を出ないものですが、業界の様々な立場の方々と一緒に考える機会につながれば、新しい展開をもたらせないかと考えています。

 すぐにでも「あちこち書店」の第2回に取り組みたいところでしたが、現在は棚上げにしています。いま取り組んでいるのは、神楽坂に新しく出店するブックカフェの準備です。
 ある製本会社の新事業として、新刊書籍と雑貨とカフェを組み合わせ、落ち着いて過ごせるサロンのようなお店を目指しています。この企画のなかで、私は3,000冊程度の選書と、書棚のデザインやレイアウトの助言、書店実務の研修、取次や出版社との渉外などを担当しています。
 これは、フリーランス書店員として受託した大きな仕事でもあり、今後「あちこち書店」を再開するための資金を得る機会でもあります。また、このお店を通して新しいアイデアが生まれることも期待しています。しかし、まずはこのお店を立派な書店として作り上げることに注力したいと思っています。

 

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第55回 貧すれば鈍する

 著作隣接権が切れた音源を、LPやテープから復刻しているマイナー・レーベルがいくつかあるのはご存じだと思う。私はそのレーベルの1つであるGRAND SLAMを2000年から継続しているのだが、今年(2014年)半ば頃からだろうか、「レコード芸術」(音楽之友社)はこうしたレーベルの扱いを中止してしまった。その理由は大手のメーカーが「レコード芸術」に対し、「このようなマイナー・レーベルを扱えば、広告を取り下げる」と通告したからである。雑誌の主たる収入は広告である。ことに最近は多くの雑誌が広告収入の減少によって休刊、廃刊に追い込まれているご時世である。こうしたレーベルの扱いを中止したのは、「レコード芸術」にとっても、いわば苦渋の選択だっただろう。
 大手とは具体的に明らかにされていないが、DG、デッカ、EMI、RCAなどの原盤を保有している会社であることは明白だ。しかしながら、今回の措置は負の現象しか生み出さない、まさに誰もが喜ばないものなのだ。
 まず、こうしたマイナー・レーベルが雑誌で取り扱われないとなると、単純に言えば雑誌の情報量が減ることになる。お店にたとえれば在庫数の縮小ということになり、こうなると読者離れがますます加速するだろう。また、こうしたマイナー・レーベルのCDは現行法では全く問題がないのにもかかわらず、大手は主にネット上で大量に売られている違法CDR盤にはなぜか無関心である。違法盤に知らん顔をしておきながら、適法なCDを排斥しようとするやり方は非難されてしかるべきではないか。
 CDが思うように売れないのは誰もが言っていることだ。けれども、自分がやっていることを振り返りもせず、単に不況や他レーベルのせいにする大手の態度には、正直あきれてしまうし、あわれにも思う。たとえば、ユニバーサルミュージックからここ20年くらいに発売されたCDにはとんでもなくひどいものが多い。録音データの間違いなどは朝飯前で、オーケストラの表記は全然違うし、解説書の作りも雑だ。音は言うまでもないだろう。あるときこの会社から発売された廉価盤シリーズは、そのあまりの音のひどさに某販売店の担当者が嘆いていたほどだ。
 そもそも、こうしたマイナー・レーベルが作るものなど、高水準のものができるわけがない。つまり、2トラック、38センチのオープンリール・テープといったところで、オリジナル・マスターのコピーのコピーのコピー、さらにもう一度コピーといった程度のものだ。LP復刻もプチパチ・ノイズは避けられないし、内周の歪みはLPの宿命でもある。一方の大手メーカーは当たり前だが、オリジナルのマスターを保有している。マスタリングに使用する機械だって、私らが使っているものとは比べものにならない、プロ用のものである。だから、大手が普通に作っていれば、こうしたマイナーのCDなど、吹けば飛ぶような存在であるはずだ。
 この一件について、あるファンがこう返信してくれた。「LP復刻などが受け入れられている現状を、大手は冷静に分析すべきではないでしょうか」。まさにこれである。大手は自分たちが発売している商品にどんな問題があって、どう改善すればいいか、あるいはどうすればもっと多くのファンに受け入れられるか、そうしたことを全く考えもせず、暴力によって競争相手を排除しているのである。
 大手のメーカーの担当者は「レコード芸術」からマイナー・レーベルを締め出したことによって、これらのレーベルに打撃を与えたと思っているだろう。しかし、少なくとも私はそうは思っていない。私はむしろ逆宣伝になって「しめた」と感じている。雲の上の存在だと思っていた大手のほうから、こちらの次元にまで降りてきてけんかを売ってくれた、つまり対等と見なしてくれたわけである。そのゲームも、対戦相手の宿舎の空調を切り、食事には下剤を入れ、道具には細工をし、自分たちが勝てるように仕組んだものなのだ。こんなことしても、多くのファンの支持を得られないのは明白だと思うのだが、大手は全くそれをわかっていない。貧すれば鈍する、本当にかわいそうだ。
 あと、キザなことを言うようだが、大手はずいぶんと私のことをなめてくれたな、ということ。私もこの業界で30年近く生きてきた。表も裏も、いろいろなことを知った。こんな理不尽な仕打ちをしてくれるなら、こちらも大手がこれまでどれほどひどいことをやってのけたか、ここらでしたためてみようと思う。それも、こうしたメール・マガジンとかではなく、単行本のように“残る”媒体に。
 さて、話題は変わるが、2015年にはフルトヴェングラーの、ちょっと珍しいシリーズのCDを出すことになった。枚数は5点から7点ほど。残念ながら未発表はないが、でも内々にその内容を知らせると「それは面白い」とみんなが言ってくれた。ただし、このCDの情報だが、以上のような理由で「レコード芸術」では読めません。

(2014年12月30日執筆)

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対抗政治の可能性――『その「民衆」とは誰なのか――ジェンダー・階級・アイデンティティ』を書いて

中谷いずみ

 本書の刊行から約2年が経過した。刊行後すぐにこの文章を書くことになっていたのだが、考えていることをうまく整理できず、ぐずぐずしているうちに時間がたってしまった。この間、さまざまな人から本書の感想をいただいた。島木健作や火野葦平、太宰治、豊田正子など取り上げた作家や作品と戦時との関わり、戦後の生活記録運動や日本教職員組合の平和運動、原水爆禁止署名運動など社会運動へのジェンダーや階級的観点からのアプローチ、生活綴方や教育2法案などに見られる子どもらしさの規範、語りの様式による表象形成と政治的動向の関わりなど、それぞれの立場や関心から多くの意見をいただいた。私が気づいていなかった問題への接続や、意識していなかった方法的広がりを示唆してもらったこともあり、また運動に関わる立場から私の論考の意味自体を問われたこともあった。それらのいただいた意見を踏まえながら、本書の「原稿の余白」に言葉を継ぎ足してみたいと思う。
 タイトルにある「民衆」とは、誤解を恐れずに言うならば、無標のマジョリティを指す言葉として用いている。それは時代や発言者が属する場所によって「大衆」「人民」などと変化しうるものであり、便宜上「民衆」という言葉を当てたにすぎない(もちろん言葉が帯びる政治性や使われる際の文脈、力学などがあるのだが、本書ではむしろそれらの問題よりも、以下に述べるような無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治の考察に主眼を置いた)。この無標のマジョリティの存在は、世論の動向が力をもつ社会では常に意識される。もちろんそれはメディア言説との関わりで考えなければならないのだが、しかし政治家や批評家を含めて多くの人びとが、世論を動かす主体として無標のマジョリティを見ていることは確かである。だからこそ、しばしば、多数派の素朴な声を代理/代表する者として、無標のマジョリティのなかの誰かが発見される。その声が社会の主流的価値観を代表するものと見なされ、メディアで大きく取り上げられる際には、世論の趨勢を必要とする政治的決定や社会制度の構築など、その声の称揚がどこに接続されるのかを注意深く見ていく必要があるだろう。
 だがさらに留意すべきは、無標のマジョリティを代理/代表しうる人物は、決して無標ではないということである。それは望ましいとされる規範を体現する者でなければならない。なぜなら、名もなきマジョリティとしての〈われわれ〉の代理表象は、みなが共感できる望ましさにおいて〈無傷〉でなければならないからである。本書では、こうした規範の体現者がどのような基準でどのような場面で見いだされたかを論じた。1930年代後半の転向者による大衆追随の言説が戦時の国家体制に結び付いていく過程や、50年代前半の社会運動で女性表象が機能していく過程で、誰が無標のマジョリティとして発見されたのか、誰の声が主流の価値観を代理表象するものとして承認されたのかを追った。例えば本書では、政治的イデオロギーへの弾圧が激しくなるにつれて、政治色をもたないと見なされた子どもや女性の訴えが純粋素朴な真実を表すとして称揚され、運動の場やメディアで取り上げられた事例を分析した。政治的主張を忌避する傾向がある社会では、しばしば、子どもや女性の声が真実性を帯びた信用に足るものとして受容される。それらの声の前景化は運動のエンパワーメントという面で効果的に機能するのだが、一方で政治的な強度をもつ主張を潰そうとする動きを補強してしまうような面ももつ。つまり意図せざるかたちで〈われわれ〉を代表しない声を排除する動きに寄与し、結果的に運動の幅を狭めてしまう危険を孕んでいるのである。また、この場合の女性の声の称揚には、知性/感情、理性/本能という二項対立の前者を男性、後者を女性に割り当てるような見方が潜在していて、既存のジェンダー秩序を強化してしまう可能性もある。そしてそれが、既存の女性らしさの規範に即して〈傷〉があるとされる女性をより沈黙させてしまうかもしれないのである。
 このように、過去に見られる無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治は、さまざまなリスクの所在を示唆してくれるものである。もちろん、直近の差し迫った事態に抗する場面ではそんなことを意識していられないかもしれない。この文章を書いているわたし自身も悪化する政治状況に抗することを最優先に考えていて、過去からの知をもって現在進行形の運動での禁止リストを作ってしまうような事態は避けなければならないと思っている。ただ一方で、そのように割り切れない現実のなかであがく際に、リスクのありかを少しでも知っておくことは大切だとも思う。竹村和子氏は「わたしたちの営為は、約束された未来に頼ることができず、あらゆる対抗表象はリスクを背負うものである」がゆえに、一種の「賭け」の継続になると記している(竹村和子「「グローバル・ステイト」をめぐる対話――あとがきにかえて」、ジュディス・バトラー/ガヤトリ・C・スピヴァク『国家を歌うのは誰か?――グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』所収、竹村和子訳、岩波書店、2008年)。割り切れない、約束された未来もない現実のなかで、対抗政治を可能とするための「表象」は常にリスクを伴うのである。さまざまな生のありようが保障されるような、複数性の実現を目指すという点からいえば、受け止めるべき声とそれに該当しない声との選別を許すことで運動の幅を狭めてしまうことも、既存のジェンダー秩序を強化してしまうことも望ましいことではない。強大な力に抗する際に、場面によっては妥協も必要であり、戦略も必要である。しかしその妥協を固定化しないためにも、また戦略による仮の状態を本質化しないためにも、リスクの所在を過去から学んでおくことは有効だろう。
 さらに、わたしが重視したいのは、現実的な対抗政治への志向と同時に理念としてのそれへの志向を持ち続けることである。現状のなかであがきながら、理念的かつ現実的でもある対抗政治の可能性を模索し挫折し再度模索していくこと、また他者や自分と交渉し論争し、ときに和解し、ときにずらし、ときに衝突しながら進むこと、そしてそこに潜む問題や危険にさらされながらそれへの対処を、あるいは回避を試みながら「賭け」を続けていくことで対抗政治を生成し続けることが重要なのだろう。竹村氏は現在進行中の「賭け」を、「未決の課題というよりも、それこそが、実現不可能なものを求める生そのものである」と述べているが、現実と交渉しながらもそれを脱構築して「実現不可能なもの」を求めていく営為によってこそ、現状打破の道が、複数性の実現に向けた道が開けていくのではないだろうか。
 一時の猶予も許さないような現在の政治状況で、本書が、現在進行中の「賭け」の継続という「実現不可能なものを求める生そのもの」の営みに、そして理念的かつ現実的な対抗政治の生成に貢献するものであることを切に願っている。

第54回 追悼、ジョン・マックルーア

 ブルーノ・ワルター、レナード・バーンスタイン、イーゴル・ストラヴィンスキーなどの録音を多数手がけたアメリカ・コロンビアの元プロデューサー、ジョン・マックルーアが6月17日、バーモント州ベルモントの自宅で亡くなった。84歳とのこと。
 マックルーアは1929年6月28日、ニュージャージー州ラーウェイ生まれ。一時ピアノを習っていたが途中で挫折、大学も中退しているらしい。50年から音楽の仕事を始め、その後アメリカ・コロンビアに入社、最初は録音エンジニアとして働き、その後はずっとプロデューサーとして活躍した。
 私がマックルーアと直接連絡がとれたのは2010年の暮れか、11年の初め頃だと思う。連絡をとりたかった理由は、彼がその昔書いた「ブルーノ・ワルターのリハーサル――その教訓と喜びと」というすばらしい文章を、自分が作るCDに転載したかったからである(該当の文章はワルター指揮、コロンビア交響楽団、ブラームスの『交響曲第1番』=GS-2060、同『交響曲第2番』+『第3番』=GS-2061に分けて掲載)。その当時私はマックルーアはてっきり故人だと思い込み、遺族を探すことに躍起になっていたが、本人が元気でいたことに驚いてしまった。マックルーアとは電子メールでのやりとりだけだったが、彼は2度目のメールに返信してくれた際に「我々は友達だ、だからファーストネームだけでOK」と言ってくれ、その後もできるかぎりさまざまな情報を提供してくれた。彼からの情報はワルターのシリーズに適時掲載したのだが、生き字引からの手助けは非常に心強かった。昨年くらいからだろうか、CDを送っても何とも言ってこないので多少は気にしていたが、やはり6月に亡くなっていた。
 短い間ではあったが、伝説のプロデューサーと直接何回かやりとりできたのは、まじめにやってきたご褒美として感謝している。マックルーアと連絡がとれたばかりの頃、知人は「元気でいることがわかったのだから、直接会いに行くべきだ」と言っていた。そうすべきだったかもしれない。しかし、それはいまとなっては、どうすることもできない。
 私が気になっているのは、マックルーアが「回想録の準備をしている」と言っていたことだ。彼がそこまで口にしていたのだから、余命を逆算して、ほぼ完成しているものと期待している。無論現時点では具体的な情報はないが、出版されれば多くのファンには欠かせないものになることは間違いない。

(2014年8月15日執筆)

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原爆投下から70年、広島の祈りから見えてくるものとは――『8月6日の朝』を出版して

浦田 進

「8月6日、広島。忘れてはいけない日なのに、東京にいるとついつい疎遠になってしまうから、この写真でいろいろな人に伝わるといいなと思う」「戦争はいやだね、夏になるといやなことを思い出す」「線香の匂いがしてくる」「(子供の写真は)生まれ変わって拝んでいるよう」「声が聞こえてくる」「刑務所でこの写真を見たら、みんな自白してしまうよ」。これらの言葉は、『8月6日の朝』に収めた写真をベースに2012年夏に新宿で写真展を開催したとき、来場者が語ってくれた写真の感想です。この写真展では1週間で300人近い方にご来場いただきました。50枚近い写真を展示しましたが、じっくり時間をかけて1枚1枚丁寧に写真を見てくださる方が多く、なかには涙を流しながら見入る方もいらっしゃって、多くの方が心の奥深いところで、写真から何かを感じ取ってくださったように思いました。
 この写真展は私にとって、広島の祈りの力、普遍性、多義性を改めて強く感じさせてくれた機会でしたし、写真でしか表現できないもの、写真独自の秘めた記録性・神秘性にも改めて気づかされた体験でもありました。これは私にとって、その後も広島の撮影を継続する大きな契機の一つになり、祈りの厳かな場所で撮影した責任として、多くの方のご助力をいただいて写真集として「伝える」一つの形として結実することができたことを大変感慨深く思っています。

 本書に収めた77点の銀塩モノクロームの写真は、2009年から14年までの6年間、8月6日の朝、広島平和記念公園・原爆死没者慰霊碑前で撮影したものです。
 8月の広島の強く鋭利な日差しを浴びて、ときには暑さで朦朧とする意識を必死でつなぎ留めながら集中力を高めて撮りました。撮影中、特に心がけたことは、フレーミングを意識しないようにしながらも、1カット1カットを丁寧に謙虚に、祈っている方の想いに少しでも近づく気持ちでシャッターを切るということでした。
 1945年8月6日、この場所で起きたできごとを想い、この場所にいた人々のことを想う。一瞬とそれから長く続く痛みと苦しみを想像する。
 慰霊碑前では、「ありがとうございました。やっと来れたよ」と祈りながら泣いている方もいらっしゃいました。長い時を経ても、決して痛みと苦しみは和らぐことはなく、私自身、カメラを向けることを躊躇した場面も多々ありました。8月6日にこの場所に来ること、そして手を合わせることの意味は、訪れる人の想いの数だけあるのだろうと思います。
 人間が祈る姿は、厳かで尊く美しいと思いますし、手を合わせることは、それぞれが内なる自己と対話しているようにも感じます。人間にとって、祈る行為そのものが、生まれる前から不思議と魂のようなものに刻み込まれているようにも感じます。

 原爆投下から70年。広島の祈りから見えてくるものとは。これらの写真を見る人が自由に何かを感じ取ってくださったら、と思います。そして少しでも8月6日の広島に眼を向けていただけたらとも思います。

 なお、この写真集の解題では、歴史社会学者の福間良明さん、宗教学者の島薗進さん、写真家の新倉孝雄さんの3人に、それぞれの立ち位置から、8月6日広島と祈り、私の写真についてご寄稿いただきました。3人の方の解題は写真集に大きな広がりと奥行きを与えてくださいました。

 私が広島で聞いた、いまも忘れられない被爆者の方の言葉があります。
「あの匂いと青白い光は忘れられない。広島は人骨の上にある。戦争はいいことが何一つない。平和は努力しないと維持できない。憎しみからは憎しみしか生まれない。大河も一滴から始まる、小さな一滴からの活動が大事」
 昨年の8月6日の広島は43年ぶりの雨でした。現在の不穏な社会状況を想うとき、この雨は原爆で犠牲になった方の涙だと直感的に思った人は私だけではないはずです。
 私はいつも不思議に感じます。広島を去るときに感じる、この去りがたさの哀感はいったいどこからくるのだろうかと。

 最後に、写真集発売に合わせて、この夏、東京と広島で写真展も開催します。銀塩モノクロ半切32点を展示します。お時間が許すようでしたら、こちらもぜひごらんください。
■東京展(ギャラリーNP原宿 特別企画展)
  開催場所 ギャラリーNP原宿
  開催期間 2015年7月28日(火)から8月10日(月)まで
       平日 10:00から18:00
       土日 10:00から17:00 最終日14:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒150-0001 渋谷区神宮前6-13-11 NPビル3F
  Tel 03-3486-6984
  http://www.nationalphoto.co.jp/gallery/

■広島展
  開催場所 gallery718
  開催期間 2015年8月12日(水)から8月23日(日)まで
       10:00から19:00 最終日18:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒730-0036 広島市中区袋町7-18-2F
  Tel 082-247-1010
  http://www.gallery718.com/

第53回 招待席に巣食う妖怪たち

 たまに「仕事柄、たくさん演奏会に行けていいですね、うらやましい」などと言われることがある。年間を通じて数多くの演奏を、用意された招待席で聴けるのは業界関係者の特権でもあるだろう。でも、これが決していいことだけではない。私はむしろ、最近ではこの席に座ることが非常に苦痛になってきた。行けばまた不快になると思うと、足を運ぶ意欲を極端にそがれる。それは、このなかに巣食う妖怪たちのせいだ。彼らは決してお行儀よく演奏を聴いてくれないからだ。特にいやなのが、メモ魔という妖怪である。自分の前の席で、演奏中にひたすらメモをとられると、常にちょろちょろと動く物が視界のなかに入ってくる。それだけならまだましである。カバンや胸のポケットにあるメモ帳を何かあるごとに頻繁にガサガサと出し入れするし、それに合わせてカチカチというボールペンのノックの音や万年筆のキャップの音など、とてもうるさい。
 彼らはどうやら、演奏会評という仕事のために、ここに巣食っているようだ。だから、注意すると、仕事のためにやっていることだ、仕方がないと開き直ってくる。
『クラシック100バカ』(青弓社、2004年)にも書いたが、あるときあるメモ魔を注意したのだが、そいつは顔をぬーっと突き出して、「あのう、ボク、バカなんです」とのたもうた。
 5月30日(金)、日本フィルの定期演奏会(サントリーホール)で、私はまた新たな妖怪に遭遇した。以前にも何度か見かけたメモ魔である。いい年の男性だ。彼は例によって演奏が始まって1分もしないうちにペンを走らせていた。またか、と思った。すると、カバンの中に赤いランプが見える。途中からこのランプがチラチラと目に入るようになり、ペンを走らせる動きと相まって、実にうっとうしい。言うまでもないが、微弱と思われる光でも本番の最中だとかなり明るく目立つ。私はたまらず休憩時間になって、その人物に文句を言った。そのときの会話は以下のようなものである。
「あの、すみません、その赤いランプは何ですか?」
「あ、これはメモをとっているんです」
「そうじゃなくて、その赤いランプは何ですかと聞いているんです」
「批評の仕事をやってるんで」
「はあ? あんた録音してるんでしょう?」
「これはね、誰にも言ってないんだよ」
「言わなきゃいいってことじゃないでしょ! 違法行為じゃないか!」
(その後、事情を話したところ、事務所の担当者が血相を変えてこの男性の席へ急行、この男性の姿は後半にはなかった。)
 この男性はメモをとると同時に録音もして、完璧な批評に仕上げたかったのだろう。以前にも書いたが、メモをとっている瞬間は耳のほうがおろそかになっている。全く聴いていないとは言えないが、でも、注意力は間違いなく落ちている。つまり、まっとうに聴いていなければ、まともな演奏会評など書けるわけがないのだ。なぜ、ここを理解できないのだろうか。あと、別の理由として考えられるのは、メモをとる行為を堂々とおこなうことによって、自分は他人よりも真剣に聴いているそぶりを見せたがっているのかもしれない。
 スコアを持参してくる連中も困りものだ。特に速いテンポの部分になると、それに応じてページをめくる速度もどんどん速くなっていくので、これまた目障りである。
 このような状況だから、本当に自分で聴きたい演目はチケットを購入して聴くことにしている。そうした際にもときどき困った人に出会うが、彼らはそれとなく注意するとちゃんとわかってくれる。でも、妖怪たちはわかってくれない。
 1980年代、私がこの業界に入った頃には、招待席にはこんな妖怪たちはすんでいなかったように思う。ところが、最近はうようよいるのだ。先ほど触れたメモ&録音妖怪は、いまもなおほかの演奏会ではせっせとメモし、録音をしていることだろう。そして、自宅にたまったメモ帳と録音のコレクションを見て、ほくそ笑んでいるに違いない。この妖怪たち、いったい誰が退治してくれるのだろう?
 とても、私1人の手には負えません。

(2014年7月20日執筆)

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第52回 幻のカリンニコフ

 ヴァシリー・カリンニコフ(1866―1901)はロシアの早世の作曲家。残された作品は非常に少ないが、『交響曲第1番』はその魅惑的な旋律によって最近では人気が高い。演奏もしやすいと見えて、アマチュア・オーケストラでもときどき取り上げられるほどである。
 今年の6月、『交響曲第1番』をアレクサンドル・ラザレフが振るという(オーケストラは日本フィル)。ロシアものはもちろん、ドイツものだって個性的な演奏で楽しませてくれるラザレフだが、カリンニコフとなればロシア好きには見逃せない機会である。
 ところが、この『交響曲第1番』が演奏されるのは6月8日(土)・横浜みなとみらいホールと9日(日)・相模原女子大学グリーンホールの2日間だけで、東京で演奏会には含まれていない。そこで私は、都合がいい9日に行こうと思った。ただし、チケットを手にするのがちょっと遅かった。4月の半ばだっただろうか、はっと思い出して9日のチケットを2枚購入したのだが、チケットに同封されていたチラシを見て驚いた。なんと、メインはお目当てのカリンニコフではなく、ブラームスの『交響曲第1番』に変更されていたのだ(8日はカリンニコフで変更なし)。
 2014年3月から7月までの演目を掲載した日本フィルのチラシには、6月9日はずっとカリンニコフのままである。そこで日本フィルの事務局に問い合わせてみると、相模原市民文化財団の主催なので、そちらに問い合わせてほしいとのことだった。ちょうどこの頃、引っ越しのドタバタがあったので、この変更の件について相模原市民文化財団に電子メールで問い合わせをした(合計3回も)。ところが、気づいてみたら、返答は一切なしである。
 変更の理由は容易に推測できる。カリンニコフだから、お客が呼べない、もっと有名な作品をということでブラームスに変わったのだろう(ちなみに8日、9日ともに前半はショパンの『ピアノ協奏曲第1番』、独奏は上原彩子)。言うまでもないが、カリンニコフ目当てでチケットを買った人には大迷惑である。それに、この強引な変更は別の面でも悪影響が予想される。つまり、2日間の公演でメインが全く違う曲となると、オーケストラには負担が大きいし、仕上げが十分ではない演奏となる可能性も大きくなる。けれども、相模原市民文化財団にとっては、ファンがどういう目的でチケットを買うかとか、より上質な演奏を聴いてもらうにはどうしたらいいのか、そんなことはどうでもいいことなのだ。チケットさえ売れれば、問題なしである。
 でも、私自身にも落ち度がある。しょせんは山手線の外側の公演である。素人が切り盛りしている公演なのだから、チケットを購入する前には十分注意を払う必要があった。
 公演当日、会場で全額の払い戻しを要求しようと思ったが、3度メールしても全くなしのつぶての財団を相手にしても無駄だろう。2枚1万円で買ったチケットは知人に半額の5,000円で譲った。会場で不愉快な思いをするよりも、知人に喜んでもらったほうが結果的にすっきり解決したと判断した。ただ、相模原市民文化財団の主催の公演には、未来永劫行かないことを心に誓った。

(2014年5月29日執筆)

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これからのスポーツ〈場〉の動きをどう読むか――『アスリートを育てる〈場〉の社会学――民間クラブがスポーツを変えた』を書いて

松尾哲矢 

 本書では、スポーツ〈場〉の社会学を標榜する一方で、温故知新ではないが、これまでの〈場〉の動きがわからないままにこれからのスポーツ〈場〉の動きは構想できないのではないか、またスポーツ〈場〉がかかえている現在的・実質的課題にどう向き合えばいいのかについて、何らかのヒントが得られないかとの思いを抱きながら取り組んだ。
 そこで本書で得られたインプリケーションとスポーツをめぐる現代的課題や状況との関係についてふれておきたい。
 2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した。その動きに連動して、15年5月13日、日本のスポーツシーンを変える法案が可決・成立した。スポーツ行政を総合的に推進することを目的としたスポーツ庁を設置するための文部科学省設置法改正案が参院本会議で満場一致で可決・成立したのである。これで15年10月1日に文部科学省の外局としてスポーツ庁が発足する。
 これまでスポーツ行政は、その多くが文部科学省スポーツ・青少年局を中心に、健康運動や障害者スポーツは厚生労働省、公園での運動などは国土交通省、スポーツ産業は経済産業省など、その機能に合わせて多省庁が独自に管轄してきた歴史がある。スポーツ庁はこれまで複数の省庁がそれぞれおこなっていたスポーツ行政を一元的に担い、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた選手強化や施設整備、国民の健康づくり、地域スポーツの推進、スポーツを通じた地域振興や国際交流などに取り組むことになる。
 これまでスポーツ関係団体の多くが文部科学省の管轄のもとで活動してきたため、そこで醸成されてきたスポーツのあり方は、一言でいえば「教育としてのスポーツ」観を基盤として形成されてきたといっても過言ではないだろう。スポーツ庁になった場合、どのようなスポーツのあり方を理念として構想すればいいのだろうか。スポーツがもつ外在的な価値(リーダーシップ、協調性、礼儀作法など)を強調するきらいがあった「教育としてのスポーツ」のあり方だけでは、対応することは難しい。これからはスポーツそのものを目的的に楽しむあり方、勝敗にこだわらない楽しみ方、遊び文化としての楽しみ方など、スポーツがもつ内在的な価値を生かしたスポーツのあり方を含め、新しい袋にあった理念と内容の議論が不可欠だろう。
 本書では「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」というスポーツのあり方、スポーツ〈場〉のダイナミズムについて検討したが、これからのスポーツのあり方を議論する契機になれば望外の喜びである。
 また、本書でスポーツ〈場〉での振り子の“振り戻し”のような現象が起こることについて言及したが、例えば、2007年、プロ野球界で発生したアマチュア選手への金銭供与問題を契機として、日本学生野球連盟憲章に違反する授業料免除などの特典を付与された特待生の問題が表面化した。この問題を重くみた日本高等学校野球連盟(以下、高野連と略記)は、調査を実施して7,000人を超える特待生の存在が明らかになった。高野連は有識者会議を設置、本会議に今後のあり方について諮問した。本会議は条件を定めて特待生を認める答申を出したが、そのなかで、「特待生制度運用の現状をみると、一部の学校においては、勝利至上主義に陥り、教育の一環としての部活動の趣旨に反する指導が行なわれている」として、「野球の部活動は、他のスポーツ部活動と同じく、教育的見地から認められる」(高校野球特待生問題有識者会議答申〔座長:堀田力〕、2007年10月11日)ことを改めて明示、強調している。
 この一連の動きのなかで、高等学校運動部のスポーツはあくまでも教育のためにおこなわれるものであり、「教育としてのスポーツ」のあり方が強調されている。高野連はこれまでも教育としてのスポーツを顕示してきているので、高野連内部での“振り戻し”とはいえないが、この動きは、「競技としてのスポーツ」やプロフェッショナルなスポーツのあり方が拡大しつつある青少年期のアスリート養成〈場〉全体に対するアンチテーゼの主張ととらえることも可能であり、アスリート養成〈場〉全体の動きからみれば「教育としてのスポーツ」への“振り戻し”現象の一つとして把捉することもできるだろう。
 青少年期のスポーツのあり方をめぐっては、これからも「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」の間で往還運動を繰り返しながら〈場〉が動いていくことが予想され、その動きに注目していく必要があるだろう。
 最後に、民間クラブ団体のみなさまへの感謝を一言。本書を執筆するにあたって、青少年を対象とした民間スポーツクラブの誕生とその後の動きに関する資料の少なさには正直戸惑った。例えば、日本スイミングクラブ協会に見られるように種目団体によっては誕生からの動きをまとめている団体もあるが、民間クラブの動きを知る手がかりが非常に限定されていて、まとまって残っている資料がほとんど見当たらなかった。それは、各民間クラブが、独自に起業し、クラブの運営・経営と向き合いながら日々取り組んできた歴史があり、全体の動きをつかむことが容易ではなかったことが挙げられる。さらには、本書でもふれたように、学校運動部を中心としたスポーツ〈場〉のなかで後発の民間クラブが承認を得ていくことは容易ではなかった。そのなかで民間クラブ自体が、その存在を積極的に発信していくことにいくらかの躊躇があったのかもしれないし、その動きを積極的に取り上げた雑誌記事や論考はきわめて少なかった。
 そこで今回、各民間クラブ・団体が発行している雑誌や資料、会議の議事録などを可能なかぎり収集し、それらを丹念に読み解くことに力を傾注した。このためかなりの時間を要したし、関係者のみなさまのお力添えなしに上梓することはかなわなかった。ここに改めて感謝を申し上げたい。

第51回 とりあえず、ひと区切りか

 2008年3月に発売された拙著『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房、A5判、368ページ)が品切れとなった。前書きにもあるように、この本は約12年かけて完成させたものだった。校正も、下書きの原稿がかかった時間に準じて、予想をはるかに上回る手間がかかった。著者、担当編集者(非常に優秀)は無論のこと、外部の編集プロダクションにも校正を依頼し、そこでは4人でページを分担して修正が加えられた。言うならば、6人がかりで練り込んだものである。校正が完了するまでの2カ月半、私自身は1日たりとも休日はなかったが、でもおかげで精度は非常に高いと思う。この本は日頃自分でもよく使うが、つらつらながめてみても、よくぞこんな化け物みたいな内容を書いたものだと、自分でも驚いている。
 いま、頭のなかにぼんやり描いているのは、この本の増補改訂版である。幸いにして重要な間違いはなさそうだが、扱えなかった作品、入稿までにSPやLPが手に入らなかったものなど、心残りはいくつかある。それに、つい最近知人から助言を得たこともあった。ただ、具体的にそんな話があるわけではなく、目下のところは自分で勝手に希望しているだけだが。
 あと、内輪の話をしておくと、この本はまず重版はしないと見ていいだろう。まず、この本の企画を推進してくれた責任者、および実際に校正を担当した編集者ともに、すでに大和書房を離れていること。さらに、マニアックな内容であり、3,000円(税抜き)の価格も考慮すると、重版の可能性は限りなくゼロに近い。
 ということで、気にしていながらまだ買ってない人には、流通在庫があるうちにどうぞ、と言っておきたい。中古の値段が上昇した頃になって、「なんとかならないか」というような連絡をくださるのだけは勘弁してもらいたい。いずれにせよ、自分ではとりあえず、ひと区切りついたなと思った。

(2014年4月4日執筆)

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第50回 フランス・ターラの主宰者、ルネ・トレミヌの訃報に驚く

 今日は午前中に、あの、めんどうな確定申告書を提出(まだe-Taxではない)、午後はなかなかエンジンが稼働しない感じで仕事を進めていた。ところが、そこにびっくりするようなニュース、それもとっても悲しい知らせが届いた。近年最も旺盛な活動を続けていたフランスのヒストリカル・レーベル、ターラ(Tahra)の主宰者であるルネ・トレミヌが急死したというのだ。聞くところによると、先週の水曜日に病院に行き、その翌日には天に召されたという。69歳、あまりにも早い。
 2012年の4月、パリで一度だけルネに会った。無論、そのときはルネのパートナーであるミリアム・シェルヘンも一緒だった。その会合のあと食事をすると事前に聞いていたのだが、「次に行かなくてはならないところがある」とのことで、それほど長くはしゃべらなかった。見た目は言ってみれば、普通のオジサンである。「気難しいやつ」と耳にしたような気もするが、私にはそう思えなかった。とても友好的だと感じた。私がルネやミリアムに話かけると、ときどき2人でフランス語で何やら言葉を交わし、こちらには再び英語で答えが返ってきたのを覚えている。ちょうどフルトヴェングラーのボックスLPのジャケットの試作品がテーブルに並べられ、それについてあれこれと言い合っていたのだ。まさか、あれが最後の出会いだとは。前後関係ははっきりしないが、彼ら2人は狭いパリの中心街から、広々とした農家に移り住んだばかりだった。確かルネから届いたメールでも「とてもいいところだから、一度遊びに来てください」と言われたと思う。
 メールの受信トレイを見てみたら、ルネから届いたメールのいくつかが残っていた。私がいくつか質問したことに対して、彼はきちんと答えてくれている。彼もまた、「こんな音源はどうだろうか?」「この企画についての意見を聞かせてほしい」とか言ってきていた。
 面白かったのは「日本でグランドスラムというヒストリカル・レーベルがあるようだが、これはいったい何だ?」とルネが日本のレコード会社に問い合わせてきたことだ。そこで私は彼に自分が作ったフルトヴェングラー関係のCDをほとんど全部送ったのだが、ちゃんとお礼の返事をくれた。
 ターラはルネとミリアムの二人三脚で運営していたレーベルである。ルネが不在となってしまっては、今後このレーベルがどうなるかが心配だ。いずれにせよ、このレーベルから出たものによって、多くのファンが狂喜したことは間違いない。私は、ファンを代表してお礼を言いたい。ありがとう、ルネ!

(2014年2月17日執筆)

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