第52回 幻のカリンニコフ

 ヴァシリー・カリンニコフ(1866―1901)はロシアの早世の作曲家。残された作品は非常に少ないが、『交響曲第1番』はその魅惑的な旋律によって最近では人気が高い。演奏もしやすいと見えて、アマチュア・オーケストラでもときどき取り上げられるほどである。
 今年の6月、『交響曲第1番』をアレクサンドル・ラザレフが振るという(オーケストラは日本フィル)。ロシアものはもちろん、ドイツものだって個性的な演奏で楽しませてくれるラザレフだが、カリンニコフとなればロシア好きには見逃せない機会である。
 ところが、この『交響曲第1番』が演奏されるのは6月8日(土)・横浜みなとみらいホールと9日(日)・相模原女子大学グリーンホールの2日間だけで、東京で演奏会には含まれていない。そこで私は、都合がいい9日に行こうと思った。ただし、チケットを手にするのがちょっと遅かった。4月の半ばだっただろうか、はっと思い出して9日のチケットを2枚購入したのだが、チケットに同封されていたチラシを見て驚いた。なんと、メインはお目当てのカリンニコフではなく、ブラームスの『交響曲第1番』に変更されていたのだ(8日はカリンニコフで変更なし)。
 2014年3月から7月までの演目を掲載した日本フィルのチラシには、6月9日はずっとカリンニコフのままである。そこで日本フィルの事務局に問い合わせてみると、相模原市民文化財団の主催なので、そちらに問い合わせてほしいとのことだった。ちょうどこの頃、引っ越しのドタバタがあったので、この変更の件について相模原市民文化財団に電子メールで問い合わせをした(合計3回も)。ところが、気づいてみたら、返答は一切なしである。
 変更の理由は容易に推測できる。カリンニコフだから、お客が呼べない、もっと有名な作品をということでブラームスに変わったのだろう(ちなみに8日、9日ともに前半はショパンの『ピアノ協奏曲第1番』、独奏は上原彩子)。言うまでもないが、カリンニコフ目当てでチケットを買った人には大迷惑である。それに、この強引な変更は別の面でも悪影響が予想される。つまり、2日間の公演でメインが全く違う曲となると、オーケストラには負担が大きいし、仕上げが十分ではない演奏となる可能性も大きくなる。けれども、相模原市民文化財団にとっては、ファンがどういう目的でチケットを買うかとか、より上質な演奏を聴いてもらうにはどうしたらいいのか、そんなことはどうでもいいことなのだ。チケットさえ売れれば、問題なしである。
 でも、私自身にも落ち度がある。しょせんは山手線の外側の公演である。素人が切り盛りしている公演なのだから、チケットを購入する前には十分注意を払う必要があった。
 公演当日、会場で全額の払い戻しを要求しようと思ったが、3度メールしても全くなしのつぶての財団を相手にしても無駄だろう。2枚1万円で買ったチケットは知人に半額の5,000円で譲った。会場で不愉快な思いをするよりも、知人に喜んでもらったほうが結果的にすっきり解決したと判断した。ただ、相模原市民文化財団の主催の公演には、未来永劫行かないことを心に誓った。

(2014年5月29日執筆)

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これからのスポーツ〈場〉の動きをどう読むか――『アスリートを育てる〈場〉の社会学――民間クラブがスポーツを変えた』を書いて

松尾哲矢 

 本書では、スポーツ〈場〉の社会学を標榜する一方で、温故知新ではないが、これまでの〈場〉の動きがわからないままにこれからのスポーツ〈場〉の動きは構想できないのではないか、またスポーツ〈場〉がかかえている現在的・実質的課題にどう向き合えばいいのかについて、何らかのヒントが得られないかとの思いを抱きながら取り組んだ。
 そこで本書で得られたインプリケーションとスポーツをめぐる現代的課題や状況との関係についてふれておきたい。
 2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した。その動きに連動して、15年5月13日、日本のスポーツシーンを変える法案が可決・成立した。スポーツ行政を総合的に推進することを目的としたスポーツ庁を設置するための文部科学省設置法改正案が参院本会議で満場一致で可決・成立したのである。これで15年10月1日に文部科学省の外局としてスポーツ庁が発足する。
 これまでスポーツ行政は、その多くが文部科学省スポーツ・青少年局を中心に、健康運動や障害者スポーツは厚生労働省、公園での運動などは国土交通省、スポーツ産業は経済産業省など、その機能に合わせて多省庁が独自に管轄してきた歴史がある。スポーツ庁はこれまで複数の省庁がそれぞれおこなっていたスポーツ行政を一元的に担い、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた選手強化や施設整備、国民の健康づくり、地域スポーツの推進、スポーツを通じた地域振興や国際交流などに取り組むことになる。
 これまでスポーツ関係団体の多くが文部科学省の管轄のもとで活動してきたため、そこで醸成されてきたスポーツのあり方は、一言でいえば「教育としてのスポーツ」観を基盤として形成されてきたといっても過言ではないだろう。スポーツ庁になった場合、どのようなスポーツのあり方を理念として構想すればいいのだろうか。スポーツがもつ外在的な価値(リーダーシップ、協調性、礼儀作法など)を強調するきらいがあった「教育としてのスポーツ」のあり方だけでは、対応することは難しい。これからはスポーツそのものを目的的に楽しむあり方、勝敗にこだわらない楽しみ方、遊び文化としての楽しみ方など、スポーツがもつ内在的な価値を生かしたスポーツのあり方を含め、新しい袋にあった理念と内容の議論が不可欠だろう。
 本書では「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」というスポーツのあり方、スポーツ〈場〉のダイナミズムについて検討したが、これからのスポーツのあり方を議論する契機になれば望外の喜びである。
 また、本書でスポーツ〈場〉での振り子の“振り戻し”のような現象が起こることについて言及したが、例えば、2007年、プロ野球界で発生したアマチュア選手への金銭供与問題を契機として、日本学生野球連盟憲章に違反する授業料免除などの特典を付与された特待生の問題が表面化した。この問題を重くみた日本高等学校野球連盟(以下、高野連と略記)は、調査を実施して7,000人を超える特待生の存在が明らかになった。高野連は有識者会議を設置、本会議に今後のあり方について諮問した。本会議は条件を定めて特待生を認める答申を出したが、そのなかで、「特待生制度運用の現状をみると、一部の学校においては、勝利至上主義に陥り、教育の一環としての部活動の趣旨に反する指導が行なわれている」として、「野球の部活動は、他のスポーツ部活動と同じく、教育的見地から認められる」(高校野球特待生問題有識者会議答申〔座長:堀田力〕、2007年10月11日)ことを改めて明示、強調している。
 この一連の動きのなかで、高等学校運動部のスポーツはあくまでも教育のためにおこなわれるものであり、「教育としてのスポーツ」のあり方が強調されている。高野連はこれまでも教育としてのスポーツを顕示してきているので、高野連内部での“振り戻し”とはいえないが、この動きは、「競技としてのスポーツ」やプロフェッショナルなスポーツのあり方が拡大しつつある青少年期のアスリート養成〈場〉全体に対するアンチテーゼの主張ととらえることも可能であり、アスリート養成〈場〉全体の動きからみれば「教育としてのスポーツ」への“振り戻し”現象の一つとして把捉することもできるだろう。
 青少年期のスポーツのあり方をめぐっては、これからも「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」の間で往還運動を繰り返しながら〈場〉が動いていくことが予想され、その動きに注目していく必要があるだろう。
 最後に、民間クラブ団体のみなさまへの感謝を一言。本書を執筆するにあたって、青少年を対象とした民間スポーツクラブの誕生とその後の動きに関する資料の少なさには正直戸惑った。例えば、日本スイミングクラブ協会に見られるように種目団体によっては誕生からの動きをまとめている団体もあるが、民間クラブの動きを知る手がかりが非常に限定されていて、まとまって残っている資料がほとんど見当たらなかった。それは、各民間クラブが、独自に起業し、クラブの運営・経営と向き合いながら日々取り組んできた歴史があり、全体の動きをつかむことが容易ではなかったことが挙げられる。さらには、本書でもふれたように、学校運動部を中心としたスポーツ〈場〉のなかで後発の民間クラブが承認を得ていくことは容易ではなかった。そのなかで民間クラブ自体が、その存在を積極的に発信していくことにいくらかの躊躇があったのかもしれないし、その動きを積極的に取り上げた雑誌記事や論考はきわめて少なかった。
 そこで今回、各民間クラブ・団体が発行している雑誌や資料、会議の議事録などを可能なかぎり収集し、それらを丹念に読み解くことに力を傾注した。このためかなりの時間を要したし、関係者のみなさまのお力添えなしに上梓することはかなわなかった。ここに改めて感謝を申し上げたい。

第51回 とりあえず、ひと区切りか

 2008年3月に発売された拙著『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房、A5判、368ページ)が品切れとなった。前書きにもあるように、この本は約12年かけて完成させたものだった。校正も、下書きの原稿がかかった時間に準じて、予想をはるかに上回る手間がかかった。著者、担当編集者(非常に優秀)は無論のこと、外部の編集プロダクションにも校正を依頼し、そこでは4人でページを分担して修正が加えられた。言うならば、6人がかりで練り込んだものである。校正が完了するまでの2カ月半、私自身は1日たりとも休日はなかったが、でもおかげで精度は非常に高いと思う。この本は日頃自分でもよく使うが、つらつらながめてみても、よくぞこんな化け物みたいな内容を書いたものだと、自分でも驚いている。
 いま、頭のなかにぼんやり描いているのは、この本の増補改訂版である。幸いにして重要な間違いはなさそうだが、扱えなかった作品、入稿までにSPやLPが手に入らなかったものなど、心残りはいくつかある。それに、つい最近知人から助言を得たこともあった。ただ、具体的にそんな話があるわけではなく、目下のところは自分で勝手に希望しているだけだが。
 あと、内輪の話をしておくと、この本はまず重版はしないと見ていいだろう。まず、この本の企画を推進してくれた責任者、および実際に校正を担当した編集者ともに、すでに大和書房を離れていること。さらに、マニアックな内容であり、3,000円(税抜き)の価格も考慮すると、重版の可能性は限りなくゼロに近い。
 ということで、気にしていながらまだ買ってない人には、流通在庫があるうちにどうぞ、と言っておきたい。中古の値段が上昇した頃になって、「なんとかならないか」というような連絡をくださるのだけは勘弁してもらいたい。いずれにせよ、自分ではとりあえず、ひと区切りついたなと思った。

(2014年4月4日執筆)

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第50回 フランス・ターラの主宰者、ルネ・トレミヌの訃報に驚く

 今日は午前中に、あの、めんどうな確定申告書を提出(まだe-Taxではない)、午後はなかなかエンジンが稼働しない感じで仕事を進めていた。ところが、そこにびっくりするようなニュース、それもとっても悲しい知らせが届いた。近年最も旺盛な活動を続けていたフランスのヒストリカル・レーベル、ターラ(Tahra)の主宰者であるルネ・トレミヌが急死したというのだ。聞くところによると、先週の水曜日に病院に行き、その翌日には天に召されたという。69歳、あまりにも早い。
 2012年の4月、パリで一度だけルネに会った。無論、そのときはルネのパートナーであるミリアム・シェルヘンも一緒だった。その会合のあと食事をすると事前に聞いていたのだが、「次に行かなくてはならないところがある」とのことで、それほど長くはしゃべらなかった。見た目は言ってみれば、普通のオジサンである。「気難しいやつ」と耳にしたような気もするが、私にはそう思えなかった。とても友好的だと感じた。私がルネやミリアムに話かけると、ときどき2人でフランス語で何やら言葉を交わし、こちらには再び英語で答えが返ってきたのを覚えている。ちょうどフルトヴェングラーのボックスLPのジャケットの試作品がテーブルに並べられ、それについてあれこれと言い合っていたのだ。まさか、あれが最後の出会いだとは。前後関係ははっきりしないが、彼ら2人は狭いパリの中心街から、広々とした農家に移り住んだばかりだった。確かルネから届いたメールでも「とてもいいところだから、一度遊びに来てください」と言われたと思う。
 メールの受信トレイを見てみたら、ルネから届いたメールのいくつかが残っていた。私がいくつか質問したことに対して、彼はきちんと答えてくれている。彼もまた、「こんな音源はどうだろうか?」「この企画についての意見を聞かせてほしい」とか言ってきていた。
 面白かったのは「日本でグランドスラムというヒストリカル・レーベルがあるようだが、これはいったい何だ?」とルネが日本のレコード会社に問い合わせてきたことだ。そこで私は彼に自分が作ったフルトヴェングラー関係のCDをほとんど全部送ったのだが、ちゃんとお礼の返事をくれた。
 ターラはルネとミリアムの二人三脚で運営していたレーベルである。ルネが不在となってしまっては、今後このレーベルがどうなるかが心配だ。いずれにせよ、このレーベルから出たものによって、多くのファンが狂喜したことは間違いない。私は、ファンを代表してお礼を言いたい。ありがとう、ルネ!

(2014年2月17日執筆)

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第2回 本を売る〈場〉を考える

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

 こんにちは、久禮書店です。
 今回は、フリーランスとして初めていただいた仕事についてお話しします。
 東京都の昭島市中神町に、マルベリーフィールドというブックカフェがあります。私はこの店の書棚を作るという仕事をいただき、選書・発注から、棚に並べる作業までを任せてもらいました。また現在も継続して、棚のメンテナンスや品揃えの変更をしています。
 マルベリーフィールドは、サンドイッチやスープ、ケーキなど、手作りの食事にこだわったカフェでありながら、店の半分は新刊書店でもあるという、個性的な店です。JR青梅線の中神駅を出てすぐ、ロータリーに面した便利な立地にあるこの店は、駅前唯一の書店として、近隣のお客様に日常的に利用されています。大手取次会社の取引口座をもっていて、雑誌はもちろん、全ジャンルの新刊配本もあります。つまり今回の仕事は、カフェに似合うおしゃれな書棚を作るというだけでなく、新刊が売れる棚を作り、運営していくことも考える必要がありました。

マルベリーフィールド外観

 書棚は、店の内装に溶け込むシックな茶色に塗装されていますが、新刊書店で多く導入されているのと同型のスチール什器で、一般的な規格と同じ80センチ幅の棚で6段組みのものが10本、店奥の角地にL字の壁面に沿って置かれています。書籍を棚にぎっしり背挿しにするのではなく、表紙・カバーを見せる面陳を多用してゆとりがある置き方をしていますが、1,000冊以上は在庫できます。
 今回はひとまず、この10本の棚のうち5本を「セレクト棚」とすることにしました。いくつか掲げたテーマやキーワードに沿って本を組み合わせメッセージを伝えるような、「文脈棚」とも言われるかたちです。550冊ほどを選び、既存の棚をほぼすべて入れ替えることになりました。
 残りの半分は、おもに文芸書の単行本や文庫、コミックが並んでいる棚です。こちらは、一般的な書店の並び方のままにしておくことにしました。便利な駅前書店というこの店のもう一つの役割からすると、普通の棚を普通のやり方で、ちゃんと手をかけて回すことができれば、それだけでいいという面もあります。
 セレクト棚をどう作るか。まず品揃えの核となる本をリストアップしました。店の大まかなイメージやお客様の雰囲気は踏まえましたが、文脈棚の小テーマのようなものは、先には考えませんでした。これまでの経験のなかで長く売れていた本、これからも売れそうな本、最近の新刊からピックアップしたものなど、1冊1冊が新刊書店でいまでも売れるものであることを優先しました。
 そうしてふくらんできたリストを整理しながら徐々にできたグループにタイトルをつけて、それを棚の小見出しのようにしました。いくつかご紹介します。

セレクト棚

「親子の時間」
酒井駒子『よるくま』(偕成社、1999年)
梨木香歩『西の魔女が死んだ』(新潮社、2001年)
信田さよ子『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』(春秋社、2008年)
アレグザンダー・シアラス/バリー・ワース文、中林正雄監修『こうして生まれる――受胎から誕生まで』(古川奈々子訳、エクスナレッジ、2013年)
など

「私は私の身体を知らない」
山口創『手の治癒力』(草思社、1999年)
谷川俊太郎/加藤俊朗『呼吸の本』(サンガ、2010年)
三木成夫『胎児の世界――人類の生命記憶』(中央公論社、1983年)
バーバラ・コナブル『音楽家ならだれでも知っておきたい「からだ」のこと――アレクサンダー・テクニークとボディ・マッピング』(片桐ユズル/小野ひとみ訳、誠心書房、2000年)
など

「成熟と死について考える」
アリス・マンロー『ディア・ライフ』(小竹由美子訳、新潮社、2013年)
ヨナス・ヨナソン『窓から逃げた100歳老人』(柳瀬尚紀訳、西村書店、2014年)
エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間――死とその過程について』(鈴木晶訳、中央公論新社、2001年)
伊藤比呂美『犬心』(文藝春秋、2013年)
など

「都会暮らしもサバイバル」
ブラッドリー・L・ギャレット『「立入禁止」をゆく――都市の足下・頭上に広がる未開地』(東郷えりか訳、青土社、2014年)
ジェニファー・コックラル=キング『シティ・ファーマー――世界の都市で始まる食料自給革命』(白井和宏訳、白水社、2014年)
ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』(金関寿夫訳、めるくまーる、1996年)
坂口恭平『独立国家のつくりかた』(講談社、2012年)
など

「人生の位置エネルギーと運動エネルギー」
クリストファー・マクドゥーガル『BORN TO RUN 走るために生まれた――ウルトラランナーvs人類最強の“走る民族”』(近藤隆文訳、NHK出版、2010年)
ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』上・下(五十嵐美克訳、早川書房、2008年)
リー・ベンデビット-バル『地球の瞬間――ナショナルジオグラフィック傑作写真集』(日経ナショナルジオグラフィック社、2009年)
吉村和敏『「イタリアの最も美しい村」全踏破の旅』(講談社、2015年)
など

「サイエンスとアートが世界を再魔術化する」
近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ――数理の眼鏡でみえてくる生命の形の神秘』(学研メディカル秀潤社、2013年)
結城千代子/田中幸著、西岡千晶絵『粒でできた世界』(太郎次郎社エディタス、2014年)
ダウド・サットン『イスラム芸術の幾何学』(武井摩利訳、創元社、2011年)
高野文子『ドミトリーともきんす』(中央公論新社、2014年)
など

「世界の仕組みを大掴みにする」
マテオ・モッテルリーニ『経済は感情で動く――はじめての行動経済学』(泉典子訳、紀伊國屋書店、2008年)
ジェームズ・M・ヴァーダマン/村田薫編『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書――EJ対訳』(ジャパンブック、2005年)
小林弘人/柳瀬博一『インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃったわけ』(晶文社、2015年)
「世界の歴史」編集委員会編『もういちど読む山川世界史』(山川出版社、2009年)
など

「お金と時間・人生をドライブする両輪」
國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』(太田出版、2015年)
メイソン・カリー『天才たちの日課――クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』(金原瑞人/石田文子訳、フィルムアート社、2014年)
ロバート・キヨサキ『改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん』(白根美保子訳、筑摩書房、2013年)
マイク・マグレディ『主夫と生活』(伊丹十三訳、アノニマスタジオ、2014年)
など

 前職で日々、書籍の売り上げスリップをチェックしていました。まとめ買いしてくださった際には、そのスリップを束にしておき、あとからその買い方に対してキャプションをつけてためておくという作業を続けていました。今回の文言の多くは、そのときの言葉を使っています。
買い方スリップ1

買い方スリップ3

 これらのグループは、できるだけあいまいな括り方にしておきました。それは、メッセージや文脈のもとに棚が固着してしまうことを避けたいと思ったからです。文脈棚のテーマの数々を更新していくことや、既存のテーマに沿わない本を日々組み込んでいく作業は、日常業務のなかでは滞りやすいものです。それに、買ってもらうための棚は、売れ方の予測や売ろうとする勢いが冊数や置き方で表現されているべきだし、お客様の反応次第で変化していくべきだと思ったからです。
 しかし、そのようにして並べてみた棚は、店から期待されていたほどにカフェの雰囲気を決定づけるような第一印象を演出できていたかというと、そうではなかったと思います。自分が想像したより、少し地味だったという気もしています。大判のビジュアル本ばかり飾るのも安直かと思い、あえて背挿しにしておいた『新・世界でいちばん美しい街、愛らしい村』(MdN、2015年)や『世界で一番美しい村プロヴァンス』(マイケル・ジェイコブズ文、ヒュー・パーマー撮影、一杉由美訳、ガイアブックス、2013年)などの写真集が、早い時期に売れてくれました。
 また、シリーズものの時代小説文庫やビジネス・スキル本の定番が売れて、セレクト棚が動いていない日もありました。そうなると、もっと気取らない実用書や親しみがある作家の小説を選んでおくべきだったかと、逆の方向にも反省してしまいます。

 店のオーナー勝澤さんは、いつも柔軟な姿勢で私の意見を聞いてくださいます。私が店の客層を理解するまでの試行錯誤の期間を、何も言わずに許容してくださっていると勝手に解釈して、ありがたく思っています。それだけに、私自身がこの店にあった品揃えを、今後の継続的な関係のなかで見つけなければいけないと思います。
 カフェのための書棚か、本屋のための書棚か。このバランスのとり方は、選書を始めた当初からいまも、悩み続けています。カフェの雰囲気や居心地、インテリアに貢献するような格好いい選書か、近所の本屋として、格好よくはないし名著でもないけれどつい買ってしまう本がちりばめられた、気のおけない棚を作るか。どちらの要素も大事です。このさじ加減をどうするか。店内の場所を使い分けて表現する必要もありますし、今後の売れ方に対応して変化していく必要もあります。

 このバランスについて考えることは、カフェではありませんが、前職のあゆみBOOKS小石川店でも同じでした。
 店に入ってすぐのメイン平台は、まず書店の顔となるようなインパクトをもった平積みや面陳、店の雰囲気を伝えるような組み合わせを見せる場所だと考えていました。また、お客様よりちょっと先に、これが面白いと思いますよと提案する場所だと思っていました。
 すでに市場で売れた結果が出ている本、いまこれが売れているよという後追いのランキング情報を提供することは、他の棚でもできる。もちろんメイン平台にも旬のベストセラーを置きますが、そこにちょっと意外な本を組み合わせることを考えていました。まだあまり売れていない本でも、ポップをつけたりして持ち上げるのではなく、ベストセラーと同等の扱いで、しれっと隣に置いておく感じです。各ジャンルの棚前に平積みしていては2、3冊売れて止まってしまうかもしれないけど、10冊くらいに伸ばしたいというような中ヒットを量産する試みです。結果的に、お客様にこの店ならではという新しい発見をしてもらう面白さにもなっていたと思います。
 一方で、深夜にジャージ姿で行ってもたいして恥ずかしくなくて、とりあえずなんでもいいからなんかくだらないものが読みたいというときにも、何か買えるような雰囲気のコーナー作りも必要でした。そのバランスを、棚や店全体を使い分けて表現しようと試してきたのが、あゆみ小石川での仕事だったのです。

 マルベリーフィールドでも、これからの売り上げスリップを見ながら、ちょうどいいバランスを求めて提案していきたいと思っています。
 ただ、このバランスを考えたときにとても大事な前提があります。まず気軽にふらっと入店できるということです。カフェでお茶をするつもりがない人も、通りがかりに足を止めて、なんとなく入店してもらえるという本屋らしい開かれた店構えが必要なのです。
 そうはいっても、週刊誌や漫画誌の什器を外に出せばいいというものではありません。マルベリーフィールドでは、店外テラス席のすてきな雰囲気が損なわれてしまいます。普通の新刊書店ではそうすることが一般的ですが、多くの書店にとっても、それが正しいのか考え直す余地があると思います。
 この課題も、前職から考え続けていることです。雑誌の新刊を習慣的にチェックする人がどんどんと減っていることは明白で、雑誌に支えられた店づくりから変化しなければならないことは、どの新刊書店にも言えます。いつも同じ雑誌が店の顔になっていると、興味がない人にとっては、店自体が風景に埋没しているのではないかとさえ考えてしまいます。本屋にふらっと入る習慣をもたない人がうっかり入店してしまうような店構えと、本好きでなくてもつい買ってしまう、それでいて本の世界の入り口になるような商材を考える必要があります。 

 前職で見つけた答えの一つは、アウトレット・ブックスのコーナーを店の外と中に作り、動線をつなげることでした。
 アウトレット・ブックスとは一般的にはバーゲン本(B本)と呼ばれるものですが、もう少し現代的な語感をもたせたくて、そう呼んでいます。古書ではなく、様々な事情で出版社から専門業者へ直接卸す新品です。しかし、ほとんどの新本流通に適用される再販売価格維持契約からは除外されており、書店が自由に値付けして販売できます。
 多くの場合買い切り仕入れのため、書店は返品できないリスクを負いますが、格安で買い付けたうえで粗利を大きく設定することもできるという大きなメリットもあります。新刊書店で、書籍の仕入れ資金の負担を軽減しながらも、文房具や生活雑貨ではなく書籍にこだわった品揃えで利益率を上げるためには、もっと注目されるべき分野だと思います。
 また、買い切る、売り残しが少ないほど儲かる、価格設定のうまさ次第で売れ行きが変わるというのは、商売の原点に回帰するようなシンプルさがあり、すがすがしい気分がします。つまり、本屋として日頃鍛えている選書眼が儲けにつながるというダイナミックな喜びを感じられるのです。
 そのうえ新本のバーゲンセールという催し自体がまだ一般的ではないため、目立つ場所で展開すれば、多くの人の興味を引くことができます。ただ、店の雰囲気に安っぽい印象をもたせない工夫が必要です。肝心の新刊書籍に割高感をもたれて売れなくなることにも注意しなければいけません。

 マルベリーフィールドでも、アウトレット・ブックスを販売しています。店の雰囲気に合うアート・ブックや洋書絵本を中心に、雑貨のような感覚で見て楽しめて、気軽に手に取ってもらえるようなセレクトをしています。まず見栄えのよさがあり、そのうえで、いいものが安いというお楽しみもあるという狙いです。店のオーナーである勝澤光さんにあゆみBOOKSの事例を紹介したところ、すぐに私の意図を読み取ってくださり、テラス席と入店してすぐの棚にコーナーを作ってくれました。

マルベリーアウトレット

 選書と調達は私が担当しました。仕入れ先は、おもに神保町の八木書店です。老舗古書店であり、新刊取次とバーゲン本卸問屋も兼ねる八木書店の本社にはバーゲン本の店売所があり、膨大な在庫から現物を手に取って選ぶことができます。私は、和書バーゲン本はこちらから、洋書は八木書店ともう一社、Foliosという業者から仕入れています。
 一カ月分と見込んで在庫を仕入れて販売し始めましたが、2週間後には最初の追加納品をするほどのいい反応があり、安堵しています。
 ここまでお話ししてきた選書やアウトレット・ブックスの企画は、マルベリーフィールドがこれまでも独自の方法でお店を変化させてきた経緯があったからこそ実現したものです。勝澤さんは、初対面の私が提案したものを、とりあえずやってみようという柔軟な姿勢で全面的に採用してくださいました。また、すぐにお客様の反応を取り入れて、改善点を提案してくれます。

 そこで、この店の成り立ちについて、少しお話しします。このお店が、小さいながらも、というより小規模だからこそ機敏に、商売の形を変化させてこられた経緯はとても興味深く、本屋をやるうえでも参考にしたいと思うからです。また、その柔軟さを模倣しようとしたときに、書籍の流通制度や取引条件の問題を考えざるをえないと気づかされるからです。
 ここからは、直接お聞きしたことと、私が見て推測したことも交えてお話しします。勝澤さんの考えとは違うこともあるかもしれません。
 このお店はもともと勝澤書店という新刊書店として、勝澤光さんのお父様が始められたそうです。現在も、店舗はもちろん、外商部もあり、地元の書店として長く営業しています。その店をブック・カフェに方向転換するきっかけになったのが、「春樹とタケノコ」のエピソードです。
 村上春樹の『1Q84』(新潮社、2009年)の単行本が刊行され、発売直後からあちこちで売れまくっているさなか、勝澤書店への配本は、多くの個人経営書店がそうだったように、ほんの数冊だったそうです。怒り心頭の勝澤さんは、ちょうどそのころ、縁あって地元の竹林の手入れを手伝ったおりに仕入れた大量のタケノコを、いっそ平台で売ってやれと思い立ったそうです。試してみたところ、これが飛ぶように売れました。それをきっかけに、地元昭島の野菜を売り場に置くようになったそうです。それも順調に売れていきました。それでも売れ残る野菜も出てきます。そこで、それを調理して提供しようと思い、キッチンを増設し、客席を配置し、カフェとしての内装を整え、現在の業態になったのだといいます。
 現在の店は、たとえ書棚がなくても、すてきなカフェとして、地元のお客様に愛用されているように見受けられます。それでも、勝澤さんは書店としての役割を大切にされているようです。実際、常連のお客様がふらりと入店しては、カフェの客席ではなくレジへ来て、定期購読の雑誌や注文品の書籍を買い、ちょっとおしゃべりをして帰るというような場面を何度も見ました。
 書店の薄利を補うために、カフェを併設して飲食メニューの高い粗利を得るというモデルがよく話題になりますが、そう簡単ではないと、勝澤さんは言います。
 実際、マルベリーフィールドのカフェ部門は順調に伸びているそうです。しかし、カフェの来客が増えると、それだけ食事の仕込み作業が増えます。書籍のように、仕入れて棚に補充すればいいというふうにはいかない。繁盛してくると、思った以上に忙しく、書店部門にかけられる時間がどんどんなくなってしまうのだそうです。
 それでも、駅前唯一の書店としての役割は重要ですし、売り上げもあります。また、旬の新刊本をじっくり読める、買えるということは、カフェの人気を支える面でも大切な要素なのです。
 一方で、飲食メニューは価格設定のうえで粗利が高いとはいえ、ブックカフェでは、お客様はゆっくりと読書をします。つまり、いわゆる回転率は低い。そこを補う役割を果たしているのが、テイクアウトのサンドイッチ販売だそうです。このサンドイッチは、発売からすぐに人気商品となり、お昼前に完売することも多いといいます。この人気商品をきっかけに、デパートの催事に出店する機会を得たというほどです。また今度は、テイクアウトの盛況に組み合わせて店のテラスで書籍のコーナー作りを企画したりと、様々なアイデアを次々に実行しています。
 書籍販売とはあまり関係がないこの話を持ち出したのは、このような商売の個別の事例にこそ学びたいと思うからです。勝澤さんがどのように日々のやりくりをし、変化に対応してきたかを聞いたり想像したりすることは、とても楽しいことでした。書店が成功するためのビジネスモデルだとか法則ではなく、中神のお客様と勝澤さんがやりあった、この店ならではという物語が、とても興味深かったのです。書籍の販売もまた、それぞれの店ごとが抱える様々な事情によって、多様なあり方があるはずだと気づかされました。
 勝澤さんが店の空間を自在に編集してきた軌跡を垣間見て、では店をもたない私がそこから学んで模倣できることはないかと考えました。そこで、私が本を携えて、新しい店づくりを考えている店に飛び込んでみてはどうかと思ったのです。書店ではないが書籍を扱いたいと考えている店や、本に興味をもってくれそうな人の集まる場所がたくさんあります。
 多種多様なジャンルの本が、それぞれにいちばん求められる場所で面白そうに盛り付けられる方法を考えて、そんなあちこちに出張している本たちを束ねる元締めのような役回りを私がするのはどうだろうかと、夢想するのです。

 実際、カフェや雑貨屋、美容院など、本を扱いたいという声をよく聞きます。しかし、仕入れにかかる煩雑な事務作業や、取引条件、在庫リスクなど、様々な制約があり、なかなか実現できません。私たち書店員は、日常的にそれらと向き合ってきました。では、いろいろな店の条件に合わせて、選書をして調達までする選書家兼仲卸業というやり方もあるのではないかと、最近は考えています。実際、児童書のなかでは、そういう機能を果たしている企業があります。
 児童書を中心とした出版から絵本の専門店までを経営しているクレヨンハウスでは、関連事業として子どもの文化普及協会という取次会社を運営しています。この企業は、新刊書店以外の様々な業種の店舗と取り引きしていて、絵本を卸すだけでなく、選書や陳列、販売方法のコンサルタントもしています。取次業としては、保証金を取らず、買い切りではありますが大手取次よりも低い掛け率の好条件で、私のような小さい取り引き相手に対してもオープンな形で、取り引きされています。

 次回は、久禮書店の出張本屋「あちこち書店」の1回目の模様についてご紹介します。地元、武蔵小山のキッズ・カフェALL DAY HOMEの店内にスペースを借りて、洋書絵本のアウトレット・セールと和書新本の絵本を組み合わせた棚を作りました。今回は1日限定のお試し開催でしたが、今後の継続に向けて、勉強になることがたくさんありました。

 それでは、また来月。

 

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第49回 佐村河内騒動について

 昨日から、佐村河内守が作曲した作品が、実はすべて他人が書いたものだったとのニュースが大きく報道されている。私はこのニュースを聞いたとき、レコード会社はさぞや大変だろうなと思ったが、それ以外のことについて、たとえば憤るとか、そういうふうには感じなかった。ふと思い出したのはフリッツ・クライスラーだ。彼は自作の小品に偽名をつけ、「修道院で発見した」「図書館に埋もれていた」などとウソを発表し、あるときそれらすべてが自作であることを公表、多くの研究者や音楽評論家をカンカンに怒らせた。無論、このクライスラー事件と今回の騒動とは同一視はできないが、でも、似ていると思った。
 私も『交響曲第1番「HIROSHIMA」』や『ピアノ・ソナタ第1番』を聴いたが、どうにも共感できず、それらについても特に何か書くことはなかった。テレビの報道では、「絶望を経て書いた作品」「東日本大震災の被災者への思い」といった情報を頭に入れて聴いて感動した人たちがかわいそうだ、というようなことを言っていた。でも、これはおかしな発言だ。なぜなら、テレビはやらせが当たり前の世界である。ありもしないことを作り上げて受けを狙っているからだ。視聴者だって、そうしたやらせを日々喜んで受け入れているではないか。だから、今回の件も大がかりなやらせがおこなわれ、それによって多くの人が感激したのだから、その点についてだけ言えば、特に大きな問題ではないと思う。
 法的な問題が絡んでくるから、この佐村河内事件はしばらくくすぶるだろうが、でも、書かれた作品は全く変わりようがない。周辺の情報をいったんリセットし、もう一度作品に接すれば、初めてこれらの作品が正当に評価されるだろう。

(2014年2月6日執筆)

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第48回 日本ムラヴィンスキー協会の天羽健三さん逝く

 日本ムラヴィンスキー協会の事務局長だった天羽健三(あもう・けんぞう)さんが2014年1月23日、76歳で永眠された。
 私が天羽さんと初めて会ったのは、2000年の初頭だと記憶する。以後、もっぱらエフゲニー・ムラヴィンスキーを中心に、ヤンソンス親子やレオニード・コーガンなど、主に旧ソ連関係のアーティストについての情報交換を通じてお付き合いがあった。柱となっていたムラヴィンスキー協会は、話題が底をついた状況ゆえに近年は休止状態になっていたが、その代わりにかつてムラヴィンスキーの通訳を務めていた河島みどりさんのトーク・イベントを開催するなど、地道な活動を続けておられた。昨年の夏前だと思うが、河島さんのイベントでお目にかかった際には普段と全く変わりない様子だったが、秋には急遽入院したと聞いた。しかし、11月には退院されたとの知らせを受けたので、私は暖かくなった頃にご連絡を差し上げようと思っていた矢先に訃報が届いた。
 天羽さんの最大の功績は、ムラヴィンスキーのディスコグラフィとコンサート・リスティングを制作したことだ。ディスコグラフィは最初に協会の会員用として配布後、自費出版など何回かの改訂を経ている。その間に録音データの精度は増し、世界各国で出たディスクの情報を限りなく収集するだけではなく、個々のディスクを試聴して多くの誤表示も指摘してあった。一方、コンサート・リスティングは、わざわざロシアにまで足を運び、あまり整理されていない資料のなかから必要な記録だけを抽出するという、非常に困難な作業を経て完成されたものだった。これも、ディスコグラフィ同様、何回か改訂されているが、双方の最終形は天羽さんご自身が訳したグレゴール・タシー『ムラヴィンスキー――高貴なる指揮者』(〔叢書・20世紀の芸術と文学〕、アルファベータ、2009年)の巻末に収められている。この本は本編ともども、ムラヴィンスキーを語るうえでは最も重要な資料だろう。
 私はたまたまムラヴィンスキーの生演奏を2回聴いたということで、ムラヴィンスキーについて書く機会をいくつも与えられてきた。その際、天羽さんのディスコグラフィとコンサート・リスティングがどれほど役に立ったかは語り尽くせないほどだ。これまで偉そうな顔をして書いてきたけれども、この2つの偉大な資料がなければ、ほとんど自分では何もできなかっただろう。改めてこの天羽さんの労作に、心から感謝する次第である。
 最後に、天羽さんのごく大まかな履歴を。生まれは1937年、韓国の釜山。高校まで和歌山で過ごし、京都大学入学後は機械工学を専攻。その後、東芝で原子力発電の設計に30年間従事。聞くところによると、東日本大震災による原発事故は天羽さん自身にとても大きなショックだったようで、ときおり「自分が何かできることはないか」と漏らされていたようだ。
 2月2日、天羽さんの葬儀がおこなわれた夜、そのときは珍しいくらいの濃霧だった。視界が非常に悪かったために電車のダイヤは大幅に乱れ、タクシーもまるで手探りのような運転だった。深夜、そんななかを歩いていると、いつもの風景が全く別物に見えた。それはまるで、異国をさまよっているかのようだった。偶然だったのかもしれないが、私にとっては忘れられない別れの夜となった。

(2014年2月5日執筆)

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外骨の声:もう一つの『映像のアルケオロジー』――『映像のアルケオロジー――視覚理論・光学メディア・映像文化』を書いて

大久保 遼

 本書のもとになった博士論文の、そのまたもとになった論文を書いていた頃の話である。長い学生生活の、そのまた延長戦のような日々を過ごしながら、本郷にある地下の薄暗い書庫に通っていた一時期があった。明治期に発行された写真雑誌や教育雑誌、投稿雑誌などに掲載された幻燈についての記事を探すためである。古めかしい扉を開けたその先には、いつも古い紙とインクの匂いが立ち込めていて、明治か大正で時間が止まったようなその書庫の閲覧室で、100年以上前の雑誌をとにかく一心不乱にめくっていた。その頃私の人生はいろいろあって、これはもう引きこもって研究でもするよりほかにないという状況で、とにかくその書庫に通いながら完成するあてのない論文を書き続けていたのである。と書くと、あまりに時代錯誤で浮世離れしていて投げやりなように思われるかもしれないが(たしかに事実そのとおりだったわけだが)、その書庫と閲覧室で過ごした時間は、振り返ってみると、慌ただしい日々のなかの一時の凪のような、とても静かで心穏やかな時間だったように思う。
 一口に明治時代の雑誌記事を探すといっても、目当てにしていたのは著名な雑誌ばかりではなかったから、もちろん記事がデジタル化されているわけでも全文検索ができるわけでもない。当時は「明探」(「明治新聞雑誌文庫所蔵検索システム」〔http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp〕)などという便利なものもなく、かろうじて冊子体の索引が用意されている雑誌がある程度だった。しかも「幻燈会」の開催報告のようなマイナーな記事が目次レベルで登場することはまれで、あれこれ試したあげく、結局1冊ずつ全文に目を通すことになった。とはいえ教育会雑誌だけでも各府県、場合によっては市単位で月1とか隔週で発行されていて、明治20年代から30年代に限ったとしても、生半可な学生にとっては気が遠くなるような作業だった。途方もない数のボロボロの冊子を前にめまいを起こしながら、しかし無駄に時間と投げやりな心境だけはあったので、「まあ仕方ない、やるか」ととくに前向きとも言えない心持ちで、来る日も来る日もページをめくっては「幻燈」の2文字を追っていた。
 最初は明治期の学校教育のレポートだの熱意ある先生方の議論だのを興味深く拝読する余裕があったのだが、途中からはあまりの量に、「幻」と「燈」の2文字だけを、ほとんど獲物を探すハイエナのように追い回すはめになった。どれだけ読んでも獲物が見つからない日もあれば、一度に大量の収穫があるときもあり、そのうち長い長い空振りと落胆と意気消沈の果てに「幻」と「燈」の2文字を見つけると、アドレナリンがどっと脳内に放出されて、眼前にまさに幻の燈がぼおっと浮かび上がって見えるような気さえするようになったのである――(というか、その前に早く寝るべきである)。そうして半地下の書庫から日常へと帰還する頃には、いつもとっくに日が暮れていた。
 そんなある日のことである。もう時効だと思うのでここに記すが、いつものように19世紀末の古雑誌を読みに地下へ続く階段を下りて重々しい扉を開けると、夏の書庫はいつにもまして静かで、ただひんやりとした空気があたりに漂っている。閲覧室にも人の気配がなく、いつもの司書の方々の姿もない。奥で大事な会議でもしているのだろうか、そう思ってうろうろしてみたものの、人の気配がないばかりか物音さえしない。とりあえず廊下の端から端まで歩いてみたが、手掛かりなし。はて、おかしなこともあるものだ、そう思いながら、ふと廊下の隅に目を向けると、いつもは固く閉ざされているはずの扉の1つが、なぜか半開きになっている。それだけならば、とりたてて気を引くような出来事でもないのだが、どういうわけかその日はその扉の向こう側が気になった。
 いまでもなぜ、そんなことをしようと思ったかわからない。しかしそのとき、なぜか衝動的に、その扉を開けて、見知らぬ部屋のなかに足を踏み入れていた。魔がさした、としか言いようがない。それはそれほど広くはない書斎のような部屋で、書棚とキャビネットが数台、あとは古めかしい机と椅子が置かれていたように思う。なにせなんの心構えもなかったのであいまいな記憶で申し訳ないが、とにかくそこに1枚の写真が掲げられているのが目に留まった。それが、このアーカイブの創設者で初代の主任を務めた宮武外骨の写真だったのである。そこではたと気がついた。ここが、赤瀬川原平さんの本に登場した、宮武外骨の部屋ではないかと。
 そう思って部屋のなかを見回すと、入り口脇のキャビネットに古いアルバムが並べられているのが目に入った。これはもしや……とおそるおそる手に取ってページを開くと、そこにあらわれたのは、外骨によって収集された絵はがきのコレクションだった。『外骨という人がいた!』のなかで紹介されていた、あの絵はがきである。「一二三」だの「笑う女」だの「骨」だのと題されたアルバムには奇怪でナンセンスでどこかユーモラスな絵はがきの数々が並べられている。近代日本の言論空間を形成した膨大な数の新聞と雑誌を収めたアーカイブのなかに、歴史や意味や物語が充満した書庫の真ん中に、とびきり魅力的な無意味を仕掛けておくなんて、さすが宮武外骨! ただ者ではない、などと思いながら一心にページをめくっては、ただただ無数の絵はがきの、訳がわからないイメージの氾濫を眺めていた。そのときふと人の気配がして振り向くと、そこには誰の姿もなくただがらんとした書斎が広がっているばかりであり、しかしどこか遠くから豪快な笑い声だけがかすかに聞こえた気がした。

第47回 『フルトヴェングラーを追って』、発売後2週間で増刷決定!

 拙著『フルトヴェングラーを追って』(青弓社、2014年)が発売後、わずか2週間で増刷が決定した。これは、単純にうれしい。無論、初刷も第2刷も部数は少ないのだが、この出版不況のなかにあっての増刷は、ちょっと胸を張ってもいいかもしれない。フルトヴェングラーにも感謝、である。
 すでに直接感想を寄せてくれた人がいるが、そのなかで最も多かったのは「フルトヴェングラーのSACDについて」だった。私と同じように、「いったいどこがいいのか、さっぱりわからない」と悩んでいたファンが、本書を読んで我が意を得たりと納得してくれたのである。続いて多かったのは、「レコード年表」を喜んでくれた人。「見ていると、次々にいろいろなことを思い出しました」「フルトヴェングラーが他界した時点で終わっているのではなく、現在まで続いているのがよかった」など。あとは「手前味噌」、自分の作ったCDの制作裏話である。私自身はそんなに面白いとは思わないけれど、でも多くの人が楽しんで読んでいるのは間違いないようだ。そうなると、フルトヴェングラー以外のCDについても、〝自作CD裏話〟などとして1冊にまとめたら受けるだろうか。何せ自前レーベルのCDは予定も含め、いまや110タイトルにもなる。そのうちの4割がフルトヴェングラーだが、それ以外はブルーノ・ワルター、カール・シューリヒト、ハンス・クナッパーツブッシュ、ポール・パレー、ピエール・モントゥー、ヘルベルト・フォン・カラヤンなどである。特にワルターは、かつてのコロンビア・レコードのプロデューサーだったジョン・マックルーアとも直接連絡がとれ、実に多くの情報を得ることができた。つらつらと思い出してみると、それなりにネタはあるかもしれない。真剣に考えてみようか。
『フルトヴェングラーを追って』をインターネットで検索していたら、「Amazon」のカスタマーレビューがたまたま引っかかってきた。ふーんと思った。投稿者はたとえば、本書の「メロディア/ユニコーン総ざらい」の項について「特に目新しいものはない」と書いている。この文章の一部はベートーヴェンの『交響曲第9番「合唱」』(GS-2090/2013年1月発売)の解説にも書いていて、内容の一部は重複するが、ユニコーンの創設者ジョン・ゴールドスミスやイギリス・フルトヴェングラー協会会長のポール・ミンチンなどの顔写真は、ゴールドスミスから提供されて初めて確認できたものだ。それ以前、国内の出版物に彼らの写真は使用されたことはないと思うし、日本国内でもこの2人の顔を認識できるフルトヴェングラー・ファンはほとんどいないと思われる。そして、最後のほうには私以外の、わずかに1人か2人の関係者しか知りえない情報も記してある。そもそも、メロディアとユニコーンについて、これだけ系統だって記した文献は過去に日本国内ではもちろんのこと、海外でさえも例はない。にもかかわらず、この「Amazon」の投稿者は「目新しいものはない」と断じている。そうなると、この人物は、それこそ化け物のようにフルトヴェングラーに関する知識と情報をもち、なおかつ内部情報さえも見透かす神通力の持ち主ということになる。近々、この投稿者と連絡がとれることがあれば、こちらから頭を下げて教えを乞うとしよう。さすが、世の中、上には上がいるものである。

(2014年2月4日執筆)

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第46回 書き下ろし、『フルトヴェングラーを追って』が完成

 2014年1月22日に、拙著『フルトヴェングラーを追って』(青弓社、四六判、288ページ、定価2,000円+税。参考〔/wp/books/isbn978-4-7872-7345-1〕)が発売される。これは『クラシック100バカ』(青弓社、2004年)、『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房、2008年)、『クラシック・マニア道入門』(青弓社、2011年)に続く、4冊目の書き下ろしである。詳細は上記の青弓社のウェブサイトで確認していただきたいのだが、とにかくヴィルヘルム・フルトヴェングラーのディスクに焦点を絞り、そこを徹底的に掘り下げたものである。写真は通常のSP、LP、CDのレーベルやジャケットは無論のこと、さまざまな肖像、リハーサル風景、プログラム、チラシなど、200点以上も含まれる。この本のおかげでこの年末年始は1日も休めず、12月に入ってから続けて40日も無休だった。けれども、08年の『クラシック名曲初演&初録音事典』は08年1月2日から約2カ月半、全く無休だったのに比べると、今回はずっと楽だった。
 本書を校正していて、ある一定の速度で書いたのはいいのだが、文章が相当に隙だらけだったことを反省した。速く書いても、もっときちっと書けるようにしなくてはならないのだ。もう1つ感じたのは、精度を上げることの難しさである。章ごとに書いた時期が異なるとはいえ、表記の不統一をはじめ、見落としや思い込みがあちこちに散乱していた。校正は初校、再校、再々校、そして印刷に入る直前にもう一度、合計4回も見直したわけだが、特に3度目の再々校は「それまで何を見ていたの?」と言われても仕方がないほどたくさんの赤字で埋まった。もちろん、この4回の間には編集者のチェックも入るのだが、それでも次々と修正が出てくる。ちなみに、『クラシック名曲初演&初録音事典』は筆者、担当編集者、外部スタッフ4人(全体を4分割して集中的にチェック)が総出で原稿を見ていたのである。『フルトヴェングラーを追って』にも、あってはほしくないが、おそらくいくつかの間違いは含まれているだろう。そう思うと、ほとんどノー・チェックで垂れ流されているインターネットの情報が、いかに精度が低いかがわかるというものだ。
 今回、こうしてフルトヴェングラーの本を1冊出してみて、自分の頭のなかではいろいろなことが整理された。それに、大小さまざまな新規の情報は、まだまだ掘り起こせるのだという手応えも感じた。加えておきたいのは何人かの協力者に対する感謝である。彼らについては「あとがき」に記しているが、その方々のおかげで本書がいっそう読み応え・見応えのあるものになった。
 本書とほぼ並行して、フルトヴェングラーのCDの仕込みを2点分おこなった。その過程でもいくつかの発見はあった。そのような次第なので、自分にとってフルトヴェングラーは、引き続き追い続けなければならない対象のようだ。

(2014年1月14日執筆)

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