対抗政治の可能性――『その「民衆」とは誰なのか――ジェンダー・階級・アイデンティティ』を書いて

中谷いずみ

 本書の刊行から約2年が経過した。刊行後すぐにこの文章を書くことになっていたのだが、考えていることをうまく整理できず、ぐずぐずしているうちに時間がたってしまった。この間、さまざまな人から本書の感想をいただいた。島木健作や火野葦平、太宰治、豊田正子など取り上げた作家や作品と戦時との関わり、戦後の生活記録運動や日本教職員組合の平和運動、原水爆禁止署名運動など社会運動へのジェンダーや階級的観点からのアプローチ、生活綴方や教育2法案などに見られる子どもらしさの規範、語りの様式による表象形成と政治的動向の関わりなど、それぞれの立場や関心から多くの意見をいただいた。私が気づいていなかった問題への接続や、意識していなかった方法的広がりを示唆してもらったこともあり、また運動に関わる立場から私の論考の意味自体を問われたこともあった。それらのいただいた意見を踏まえながら、本書の「原稿の余白」に言葉を継ぎ足してみたいと思う。
 タイトルにある「民衆」とは、誤解を恐れずに言うならば、無標のマジョリティを指す言葉として用いている。それは時代や発言者が属する場所によって「大衆」「人民」などと変化しうるものであり、便宜上「民衆」という言葉を当てたにすぎない(もちろん言葉が帯びる政治性や使われる際の文脈、力学などがあるのだが、本書ではむしろそれらの問題よりも、以下に述べるような無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治の考察に主眼を置いた)。この無標のマジョリティの存在は、世論の動向が力をもつ社会では常に意識される。もちろんそれはメディア言説との関わりで考えなければならないのだが、しかし政治家や批評家を含めて多くの人びとが、世論を動かす主体として無標のマジョリティを見ていることは確かである。だからこそ、しばしば、多数派の素朴な声を代理/代表する者として、無標のマジョリティのなかの誰かが発見される。その声が社会の主流的価値観を代表するものと見なされ、メディアで大きく取り上げられる際には、世論の趨勢を必要とする政治的決定や社会制度の構築など、その声の称揚がどこに接続されるのかを注意深く見ていく必要があるだろう。
 だがさらに留意すべきは、無標のマジョリティを代理/代表しうる人物は、決して無標ではないということである。それは望ましいとされる規範を体現する者でなければならない。なぜなら、名もなきマジョリティとしての〈われわれ〉の代理表象は、みなが共感できる望ましさにおいて〈無傷〉でなければならないからである。本書では、こうした規範の体現者がどのような基準でどのような場面で見いだされたかを論じた。1930年代後半の転向者による大衆追随の言説が戦時の国家体制に結び付いていく過程や、50年代前半の社会運動で女性表象が機能していく過程で、誰が無標のマジョリティとして発見されたのか、誰の声が主流の価値観を代理表象するものとして承認されたのかを追った。例えば本書では、政治的イデオロギーへの弾圧が激しくなるにつれて、政治色をもたないと見なされた子どもや女性の訴えが純粋素朴な真実を表すとして称揚され、運動の場やメディアで取り上げられた事例を分析した。政治的主張を忌避する傾向がある社会では、しばしば、子どもや女性の声が真実性を帯びた信用に足るものとして受容される。それらの声の前景化は運動のエンパワーメントという面で効果的に機能するのだが、一方で政治的な強度をもつ主張を潰そうとする動きを補強してしまうような面ももつ。つまり意図せざるかたちで〈われわれ〉を代表しない声を排除する動きに寄与し、結果的に運動の幅を狭めてしまう危険を孕んでいるのである。また、この場合の女性の声の称揚には、知性/感情、理性/本能という二項対立の前者を男性、後者を女性に割り当てるような見方が潜在していて、既存のジェンダー秩序を強化してしまう可能性もある。そしてそれが、既存の女性らしさの規範に即して〈傷〉があるとされる女性をより沈黙させてしまうかもしれないのである。
 このように、過去に見られる無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治は、さまざまなリスクの所在を示唆してくれるものである。もちろん、直近の差し迫った事態に抗する場面ではそんなことを意識していられないかもしれない。この文章を書いているわたし自身も悪化する政治状況に抗することを最優先に考えていて、過去からの知をもって現在進行形の運動での禁止リストを作ってしまうような事態は避けなければならないと思っている。ただ一方で、そのように割り切れない現実のなかであがく際に、リスクのありかを少しでも知っておくことは大切だとも思う。竹村和子氏は「わたしたちの営為は、約束された未来に頼ることができず、あらゆる対抗表象はリスクを背負うものである」がゆえに、一種の「賭け」の継続になると記している(竹村和子「「グローバル・ステイト」をめぐる対話――あとがきにかえて」、ジュディス・バトラー/ガヤトリ・C・スピヴァク『国家を歌うのは誰か?――グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』所収、竹村和子訳、岩波書店、2008年)。割り切れない、約束された未来もない現実のなかで、対抗政治を可能とするための「表象」は常にリスクを伴うのである。さまざまな生のありようが保障されるような、複数性の実現を目指すという点からいえば、受け止めるべき声とそれに該当しない声との選別を許すことで運動の幅を狭めてしまうことも、既存のジェンダー秩序を強化してしまうことも望ましいことではない。強大な力に抗する際に、場面によっては妥協も必要であり、戦略も必要である。しかしその妥協を固定化しないためにも、また戦略による仮の状態を本質化しないためにも、リスクの所在を過去から学んでおくことは有効だろう。
 さらに、わたしが重視したいのは、現実的な対抗政治への志向と同時に理念としてのそれへの志向を持ち続けることである。現状のなかであがきながら、理念的かつ現実的でもある対抗政治の可能性を模索し挫折し再度模索していくこと、また他者や自分と交渉し論争し、ときに和解し、ときにずらし、ときに衝突しながら進むこと、そしてそこに潜む問題や危険にさらされながらそれへの対処を、あるいは回避を試みながら「賭け」を続けていくことで対抗政治を生成し続けることが重要なのだろう。竹村氏は現在進行中の「賭け」を、「未決の課題というよりも、それこそが、実現不可能なものを求める生そのものである」と述べているが、現実と交渉しながらもそれを脱構築して「実現不可能なもの」を求めていく営為によってこそ、現状打破の道が、複数性の実現に向けた道が開けていくのではないだろうか。
 一時の猶予も許さないような現在の政治状況で、本書が、現在進行中の「賭け」の継続という「実現不可能なものを求める生そのもの」の営みに、そして理念的かつ現実的な対抗政治の生成に貢献するものであることを切に願っている。

第54回 追悼、ジョン・マックルーア

 ブルーノ・ワルター、レナード・バーンスタイン、イーゴル・ストラヴィンスキーなどの録音を多数手がけたアメリカ・コロンビアの元プロデューサー、ジョン・マックルーアが6月17日、バーモント州ベルモントの自宅で亡くなった。84歳とのこと。
 マックルーアは1929年6月28日、ニュージャージー州ラーウェイ生まれ。一時ピアノを習っていたが途中で挫折、大学も中退しているらしい。50年から音楽の仕事を始め、その後アメリカ・コロンビアに入社、最初は録音エンジニアとして働き、その後はずっとプロデューサーとして活躍した。
 私がマックルーアと直接連絡がとれたのは2010年の暮れか、11年の初め頃だと思う。連絡をとりたかった理由は、彼がその昔書いた「ブルーノ・ワルターのリハーサル――その教訓と喜びと」というすばらしい文章を、自分が作るCDに転載したかったからである(該当の文章はワルター指揮、コロンビア交響楽団、ブラームスの『交響曲第1番』=GS-2060、同『交響曲第2番』+『第3番』=GS-2061に分けて掲載)。その当時私はマックルーアはてっきり故人だと思い込み、遺族を探すことに躍起になっていたが、本人が元気でいたことに驚いてしまった。マックルーアとは電子メールでのやりとりだけだったが、彼は2度目のメールに返信してくれた際に「我々は友達だ、だからファーストネームだけでOK」と言ってくれ、その後もできるかぎりさまざまな情報を提供してくれた。彼からの情報はワルターのシリーズに適時掲載したのだが、生き字引からの手助けは非常に心強かった。昨年くらいからだろうか、CDを送っても何とも言ってこないので多少は気にしていたが、やはり6月に亡くなっていた。
 短い間ではあったが、伝説のプロデューサーと直接何回かやりとりできたのは、まじめにやってきたご褒美として感謝している。マックルーアと連絡がとれたばかりの頃、知人は「元気でいることがわかったのだから、直接会いに行くべきだ」と言っていた。そうすべきだったかもしれない。しかし、それはいまとなっては、どうすることもできない。
 私が気になっているのは、マックルーアが「回想録の準備をしている」と言っていたことだ。彼がそこまで口にしていたのだから、余命を逆算して、ほぼ完成しているものと期待している。無論現時点では具体的な情報はないが、出版されれば多くのファンには欠かせないものになることは間違いない。

(2014年8月15日執筆)

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

原爆投下から70年、広島の祈りから見えてくるものとは――『8月6日の朝』を出版して

浦田 進

「8月6日、広島。忘れてはいけない日なのに、東京にいるとついつい疎遠になってしまうから、この写真でいろいろな人に伝わるといいなと思う」「戦争はいやだね、夏になるといやなことを思い出す」「線香の匂いがしてくる」「(子供の写真は)生まれ変わって拝んでいるよう」「声が聞こえてくる」「刑務所でこの写真を見たら、みんな自白してしまうよ」。これらの言葉は、『8月6日の朝』に収めた写真をベースに2012年夏に新宿で写真展を開催したとき、来場者が語ってくれた写真の感想です。この写真展では1週間で300人近い方にご来場いただきました。50枚近い写真を展示しましたが、じっくり時間をかけて1枚1枚丁寧に写真を見てくださる方が多く、なかには涙を流しながら見入る方もいらっしゃって、多くの方が心の奥深いところで、写真から何かを感じ取ってくださったように思いました。
 この写真展は私にとって、広島の祈りの力、普遍性、多義性を改めて強く感じさせてくれた機会でしたし、写真でしか表現できないもの、写真独自の秘めた記録性・神秘性にも改めて気づかされた体験でもありました。これは私にとって、その後も広島の撮影を継続する大きな契機の一つになり、祈りの厳かな場所で撮影した責任として、多くの方のご助力をいただいて写真集として「伝える」一つの形として結実することができたことを大変感慨深く思っています。

 本書に収めた77点の銀塩モノクロームの写真は、2009年から14年までの6年間、8月6日の朝、広島平和記念公園・原爆死没者慰霊碑前で撮影したものです。
 8月の広島の強く鋭利な日差しを浴びて、ときには暑さで朦朧とする意識を必死でつなぎ留めながら集中力を高めて撮りました。撮影中、特に心がけたことは、フレーミングを意識しないようにしながらも、1カット1カットを丁寧に謙虚に、祈っている方の想いに少しでも近づく気持ちでシャッターを切るということでした。
 1945年8月6日、この場所で起きたできごとを想い、この場所にいた人々のことを想う。一瞬とそれから長く続く痛みと苦しみを想像する。
 慰霊碑前では、「ありがとうございました。やっと来れたよ」と祈りながら泣いている方もいらっしゃいました。長い時を経ても、決して痛みと苦しみは和らぐことはなく、私自身、カメラを向けることを躊躇した場面も多々ありました。8月6日にこの場所に来ること、そして手を合わせることの意味は、訪れる人の想いの数だけあるのだろうと思います。
 人間が祈る姿は、厳かで尊く美しいと思いますし、手を合わせることは、それぞれが内なる自己と対話しているようにも感じます。人間にとって、祈る行為そのものが、生まれる前から不思議と魂のようなものに刻み込まれているようにも感じます。

 原爆投下から70年。広島の祈りから見えてくるものとは。これらの写真を見る人が自由に何かを感じ取ってくださったら、と思います。そして少しでも8月6日の広島に眼を向けていただけたらとも思います。

 なお、この写真集の解題では、歴史社会学者の福間良明さん、宗教学者の島薗進さん、写真家の新倉孝雄さんの3人に、それぞれの立ち位置から、8月6日広島と祈り、私の写真についてご寄稿いただきました。3人の方の解題は写真集に大きな広がりと奥行きを与えてくださいました。

 私が広島で聞いた、いまも忘れられない被爆者の方の言葉があります。
「あの匂いと青白い光は忘れられない。広島は人骨の上にある。戦争はいいことが何一つない。平和は努力しないと維持できない。憎しみからは憎しみしか生まれない。大河も一滴から始まる、小さな一滴からの活動が大事」
 昨年の8月6日の広島は43年ぶりの雨でした。現在の不穏な社会状況を想うとき、この雨は原爆で犠牲になった方の涙だと直感的に思った人は私だけではないはずです。
 私はいつも不思議に感じます。広島を去るときに感じる、この去りがたさの哀感はいったいどこからくるのだろうかと。

 最後に、写真集発売に合わせて、この夏、東京と広島で写真展も開催します。銀塩モノクロ半切32点を展示します。お時間が許すようでしたら、こちらもぜひごらんください。
■東京展(ギャラリーNP原宿 特別企画展)
  開催場所 ギャラリーNP原宿
  開催期間 2015年7月28日(火)から8月10日(月)まで
       平日 10:00から18:00
       土日 10:00から17:00 最終日14:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒150-0001 渋谷区神宮前6-13-11 NPビル3F
  Tel 03-3486-6984
  http://www.nationalphoto.co.jp/gallery/

■広島展
  開催場所 gallery718
  開催期間 2015年8月12日(水)から8月23日(日)まで
       10:00から19:00 最終日18:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒730-0036 広島市中区袋町7-18-2F
  Tel 082-247-1010
  http://www.gallery718.com/

第53回 招待席に巣食う妖怪たち

 たまに「仕事柄、たくさん演奏会に行けていいですね、うらやましい」などと言われることがある。年間を通じて数多くの演奏を、用意された招待席で聴けるのは業界関係者の特権でもあるだろう。でも、これが決していいことだけではない。私はむしろ、最近ではこの席に座ることが非常に苦痛になってきた。行けばまた不快になると思うと、足を運ぶ意欲を極端にそがれる。それは、このなかに巣食う妖怪たちのせいだ。彼らは決してお行儀よく演奏を聴いてくれないからだ。特にいやなのが、メモ魔という妖怪である。自分の前の席で、演奏中にひたすらメモをとられると、常にちょろちょろと動く物が視界のなかに入ってくる。それだけならまだましである。カバンや胸のポケットにあるメモ帳を何かあるごとに頻繁にガサガサと出し入れするし、それに合わせてカチカチというボールペンのノックの音や万年筆のキャップの音など、とてもうるさい。
 彼らはどうやら、演奏会評という仕事のために、ここに巣食っているようだ。だから、注意すると、仕事のためにやっていることだ、仕方がないと開き直ってくる。
『クラシック100バカ』(青弓社、2004年)にも書いたが、あるときあるメモ魔を注意したのだが、そいつは顔をぬーっと突き出して、「あのう、ボク、バカなんです」とのたもうた。
 5月30日(金)、日本フィルの定期演奏会(サントリーホール)で、私はまた新たな妖怪に遭遇した。以前にも何度か見かけたメモ魔である。いい年の男性だ。彼は例によって演奏が始まって1分もしないうちにペンを走らせていた。またか、と思った。すると、カバンの中に赤いランプが見える。途中からこのランプがチラチラと目に入るようになり、ペンを走らせる動きと相まって、実にうっとうしい。言うまでもないが、微弱と思われる光でも本番の最中だとかなり明るく目立つ。私はたまらず休憩時間になって、その人物に文句を言った。そのときの会話は以下のようなものである。
「あの、すみません、その赤いランプは何ですか?」
「あ、これはメモをとっているんです」
「そうじゃなくて、その赤いランプは何ですかと聞いているんです」
「批評の仕事をやってるんで」
「はあ? あんた録音してるんでしょう?」
「これはね、誰にも言ってないんだよ」
「言わなきゃいいってことじゃないでしょ! 違法行為じゃないか!」
(その後、事情を話したところ、事務所の担当者が血相を変えてこの男性の席へ急行、この男性の姿は後半にはなかった。)
 この男性はメモをとると同時に録音もして、完璧な批評に仕上げたかったのだろう。以前にも書いたが、メモをとっている瞬間は耳のほうがおろそかになっている。全く聴いていないとは言えないが、でも、注意力は間違いなく落ちている。つまり、まっとうに聴いていなければ、まともな演奏会評など書けるわけがないのだ。なぜ、ここを理解できないのだろうか。あと、別の理由として考えられるのは、メモをとる行為を堂々とおこなうことによって、自分は他人よりも真剣に聴いているそぶりを見せたがっているのかもしれない。
 スコアを持参してくる連中も困りものだ。特に速いテンポの部分になると、それに応じてページをめくる速度もどんどん速くなっていくので、これまた目障りである。
 このような状況だから、本当に自分で聴きたい演目はチケットを購入して聴くことにしている。そうした際にもときどき困った人に出会うが、彼らはそれとなく注意するとちゃんとわかってくれる。でも、妖怪たちはわかってくれない。
 1980年代、私がこの業界に入った頃には、招待席にはこんな妖怪たちはすんでいなかったように思う。ところが、最近はうようよいるのだ。先ほど触れたメモ&録音妖怪は、いまもなおほかの演奏会ではせっせとメモし、録音をしていることだろう。そして、自宅にたまったメモ帳と録音のコレクションを見て、ほくそ笑んでいるに違いない。この妖怪たち、いったい誰が退治してくれるのだろう?
 とても、私1人の手には負えません。

(2014年7月20日執筆)

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第52回 幻のカリンニコフ

 ヴァシリー・カリンニコフ(1866―1901)はロシアの早世の作曲家。残された作品は非常に少ないが、『交響曲第1番』はその魅惑的な旋律によって最近では人気が高い。演奏もしやすいと見えて、アマチュア・オーケストラでもときどき取り上げられるほどである。
 今年の6月、『交響曲第1番』をアレクサンドル・ラザレフが振るという(オーケストラは日本フィル)。ロシアものはもちろん、ドイツものだって個性的な演奏で楽しませてくれるラザレフだが、カリンニコフとなればロシア好きには見逃せない機会である。
 ところが、この『交響曲第1番』が演奏されるのは6月8日(土)・横浜みなとみらいホールと9日(日)・相模原女子大学グリーンホールの2日間だけで、東京で演奏会には含まれていない。そこで私は、都合がいい9日に行こうと思った。ただし、チケットを手にするのがちょっと遅かった。4月の半ばだっただろうか、はっと思い出して9日のチケットを2枚購入したのだが、チケットに同封されていたチラシを見て驚いた。なんと、メインはお目当てのカリンニコフではなく、ブラームスの『交響曲第1番』に変更されていたのだ(8日はカリンニコフで変更なし)。
 2014年3月から7月までの演目を掲載した日本フィルのチラシには、6月9日はずっとカリンニコフのままである。そこで日本フィルの事務局に問い合わせてみると、相模原市民文化財団の主催なので、そちらに問い合わせてほしいとのことだった。ちょうどこの頃、引っ越しのドタバタがあったので、この変更の件について相模原市民文化財団に電子メールで問い合わせをした(合計3回も)。ところが、気づいてみたら、返答は一切なしである。
 変更の理由は容易に推測できる。カリンニコフだから、お客が呼べない、もっと有名な作品をということでブラームスに変わったのだろう(ちなみに8日、9日ともに前半はショパンの『ピアノ協奏曲第1番』、独奏は上原彩子)。言うまでもないが、カリンニコフ目当てでチケットを買った人には大迷惑である。それに、この強引な変更は別の面でも悪影響が予想される。つまり、2日間の公演でメインが全く違う曲となると、オーケストラには負担が大きいし、仕上げが十分ではない演奏となる可能性も大きくなる。けれども、相模原市民文化財団にとっては、ファンがどういう目的でチケットを買うかとか、より上質な演奏を聴いてもらうにはどうしたらいいのか、そんなことはどうでもいいことなのだ。チケットさえ売れれば、問題なしである。
 でも、私自身にも落ち度がある。しょせんは山手線の外側の公演である。素人が切り盛りしている公演なのだから、チケットを購入する前には十分注意を払う必要があった。
 公演当日、会場で全額の払い戻しを要求しようと思ったが、3度メールしても全くなしのつぶての財団を相手にしても無駄だろう。2枚1万円で買ったチケットは知人に半額の5,000円で譲った。会場で不愉快な思いをするよりも、知人に喜んでもらったほうが結果的にすっきり解決したと判断した。ただ、相模原市民文化財団の主催の公演には、未来永劫行かないことを心に誓った。

(2014年5月29日執筆)

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

これからのスポーツ〈場〉の動きをどう読むか――『アスリートを育てる〈場〉の社会学――民間クラブがスポーツを変えた』を書いて

松尾哲矢 

 本書では、スポーツ〈場〉の社会学を標榜する一方で、温故知新ではないが、これまでの〈場〉の動きがわからないままにこれからのスポーツ〈場〉の動きは構想できないのではないか、またスポーツ〈場〉がかかえている現在的・実質的課題にどう向き合えばいいのかについて、何らかのヒントが得られないかとの思いを抱きながら取り組んだ。
 そこで本書で得られたインプリケーションとスポーツをめぐる現代的課題や状況との関係についてふれておきたい。
 2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した。その動きに連動して、15年5月13日、日本のスポーツシーンを変える法案が可決・成立した。スポーツ行政を総合的に推進することを目的としたスポーツ庁を設置するための文部科学省設置法改正案が参院本会議で満場一致で可決・成立したのである。これで15年10月1日に文部科学省の外局としてスポーツ庁が発足する。
 これまでスポーツ行政は、その多くが文部科学省スポーツ・青少年局を中心に、健康運動や障害者スポーツは厚生労働省、公園での運動などは国土交通省、スポーツ産業は経済産業省など、その機能に合わせて多省庁が独自に管轄してきた歴史がある。スポーツ庁はこれまで複数の省庁がそれぞれおこなっていたスポーツ行政を一元的に担い、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた選手強化や施設整備、国民の健康づくり、地域スポーツの推進、スポーツを通じた地域振興や国際交流などに取り組むことになる。
 これまでスポーツ関係団体の多くが文部科学省の管轄のもとで活動してきたため、そこで醸成されてきたスポーツのあり方は、一言でいえば「教育としてのスポーツ」観を基盤として形成されてきたといっても過言ではないだろう。スポーツ庁になった場合、どのようなスポーツのあり方を理念として構想すればいいのだろうか。スポーツがもつ外在的な価値(リーダーシップ、協調性、礼儀作法など)を強調するきらいがあった「教育としてのスポーツ」のあり方だけでは、対応することは難しい。これからはスポーツそのものを目的的に楽しむあり方、勝敗にこだわらない楽しみ方、遊び文化としての楽しみ方など、スポーツがもつ内在的な価値を生かしたスポーツのあり方を含め、新しい袋にあった理念と内容の議論が不可欠だろう。
 本書では「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」というスポーツのあり方、スポーツ〈場〉のダイナミズムについて検討したが、これからのスポーツのあり方を議論する契機になれば望外の喜びである。
 また、本書でスポーツ〈場〉での振り子の“振り戻し”のような現象が起こることについて言及したが、例えば、2007年、プロ野球界で発生したアマチュア選手への金銭供与問題を契機として、日本学生野球連盟憲章に違反する授業料免除などの特典を付与された特待生の問題が表面化した。この問題を重くみた日本高等学校野球連盟(以下、高野連と略記)は、調査を実施して7,000人を超える特待生の存在が明らかになった。高野連は有識者会議を設置、本会議に今後のあり方について諮問した。本会議は条件を定めて特待生を認める答申を出したが、そのなかで、「特待生制度運用の現状をみると、一部の学校においては、勝利至上主義に陥り、教育の一環としての部活動の趣旨に反する指導が行なわれている」として、「野球の部活動は、他のスポーツ部活動と同じく、教育的見地から認められる」(高校野球特待生問題有識者会議答申〔座長:堀田力〕、2007年10月11日)ことを改めて明示、強調している。
 この一連の動きのなかで、高等学校運動部のスポーツはあくまでも教育のためにおこなわれるものであり、「教育としてのスポーツ」のあり方が強調されている。高野連はこれまでも教育としてのスポーツを顕示してきているので、高野連内部での“振り戻し”とはいえないが、この動きは、「競技としてのスポーツ」やプロフェッショナルなスポーツのあり方が拡大しつつある青少年期のアスリート養成〈場〉全体に対するアンチテーゼの主張ととらえることも可能であり、アスリート養成〈場〉全体の動きからみれば「教育としてのスポーツ」への“振り戻し”現象の一つとして把捉することもできるだろう。
 青少年期のスポーツのあり方をめぐっては、これからも「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」の間で往還運動を繰り返しながら〈場〉が動いていくことが予想され、その動きに注目していく必要があるだろう。
 最後に、民間クラブ団体のみなさまへの感謝を一言。本書を執筆するにあたって、青少年を対象とした民間スポーツクラブの誕生とその後の動きに関する資料の少なさには正直戸惑った。例えば、日本スイミングクラブ協会に見られるように種目団体によっては誕生からの動きをまとめている団体もあるが、民間クラブの動きを知る手がかりが非常に限定されていて、まとまって残っている資料がほとんど見当たらなかった。それは、各民間クラブが、独自に起業し、クラブの運営・経営と向き合いながら日々取り組んできた歴史があり、全体の動きをつかむことが容易ではなかったことが挙げられる。さらには、本書でもふれたように、学校運動部を中心としたスポーツ〈場〉のなかで後発の民間クラブが承認を得ていくことは容易ではなかった。そのなかで民間クラブ自体が、その存在を積極的に発信していくことにいくらかの躊躇があったのかもしれないし、その動きを積極的に取り上げた雑誌記事や論考はきわめて少なかった。
 そこで今回、各民間クラブ・団体が発行している雑誌や資料、会議の議事録などを可能なかぎり収集し、それらを丹念に読み解くことに力を傾注した。このためかなりの時間を要したし、関係者のみなさまのお力添えなしに上梓することはかなわなかった。ここに改めて感謝を申し上げたい。

第51回 とりあえず、ひと区切りか

 2008年3月に発売された拙著『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房、A5判、368ページ)が品切れとなった。前書きにもあるように、この本は約12年かけて完成させたものだった。校正も、下書きの原稿がかかった時間に準じて、予想をはるかに上回る手間がかかった。著者、担当編集者(非常に優秀)は無論のこと、外部の編集プロダクションにも校正を依頼し、そこでは4人でページを分担して修正が加えられた。言うならば、6人がかりで練り込んだものである。校正が完了するまでの2カ月半、私自身は1日たりとも休日はなかったが、でもおかげで精度は非常に高いと思う。この本は日頃自分でもよく使うが、つらつらながめてみても、よくぞこんな化け物みたいな内容を書いたものだと、自分でも驚いている。
 いま、頭のなかにぼんやり描いているのは、この本の増補改訂版である。幸いにして重要な間違いはなさそうだが、扱えなかった作品、入稿までにSPやLPが手に入らなかったものなど、心残りはいくつかある。それに、つい最近知人から助言を得たこともあった。ただ、具体的にそんな話があるわけではなく、目下のところは自分で勝手に希望しているだけだが。
 あと、内輪の話をしておくと、この本はまず重版はしないと見ていいだろう。まず、この本の企画を推進してくれた責任者、および実際に校正を担当した編集者ともに、すでに大和書房を離れていること。さらに、マニアックな内容であり、3,000円(税抜き)の価格も考慮すると、重版の可能性は限りなくゼロに近い。
 ということで、気にしていながらまだ買ってない人には、流通在庫があるうちにどうぞ、と言っておきたい。中古の値段が上昇した頃になって、「なんとかならないか」というような連絡をくださるのだけは勘弁してもらいたい。いずれにせよ、自分ではとりあえず、ひと区切りついたなと思った。

(2014年4月4日執筆)

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第50回 フランス・ターラの主宰者、ルネ・トレミヌの訃報に驚く

 今日は午前中に、あの、めんどうな確定申告書を提出(まだe-Taxではない)、午後はなかなかエンジンが稼働しない感じで仕事を進めていた。ところが、そこにびっくりするようなニュース、それもとっても悲しい知らせが届いた。近年最も旺盛な活動を続けていたフランスのヒストリカル・レーベル、ターラ(Tahra)の主宰者であるルネ・トレミヌが急死したというのだ。聞くところによると、先週の水曜日に病院に行き、その翌日には天に召されたという。69歳、あまりにも早い。
 2012年の4月、パリで一度だけルネに会った。無論、そのときはルネのパートナーであるミリアム・シェルヘンも一緒だった。その会合のあと食事をすると事前に聞いていたのだが、「次に行かなくてはならないところがある」とのことで、それほど長くはしゃべらなかった。見た目は言ってみれば、普通のオジサンである。「気難しいやつ」と耳にしたような気もするが、私にはそう思えなかった。とても友好的だと感じた。私がルネやミリアムに話かけると、ときどき2人でフランス語で何やら言葉を交わし、こちらには再び英語で答えが返ってきたのを覚えている。ちょうどフルトヴェングラーのボックスLPのジャケットの試作品がテーブルに並べられ、それについてあれこれと言い合っていたのだ。まさか、あれが最後の出会いだとは。前後関係ははっきりしないが、彼ら2人は狭いパリの中心街から、広々とした農家に移り住んだばかりだった。確かルネから届いたメールでも「とてもいいところだから、一度遊びに来てください」と言われたと思う。
 メールの受信トレイを見てみたら、ルネから届いたメールのいくつかが残っていた。私がいくつか質問したことに対して、彼はきちんと答えてくれている。彼もまた、「こんな音源はどうだろうか?」「この企画についての意見を聞かせてほしい」とか言ってきていた。
 面白かったのは「日本でグランドスラムというヒストリカル・レーベルがあるようだが、これはいったい何だ?」とルネが日本のレコード会社に問い合わせてきたことだ。そこで私は彼に自分が作ったフルトヴェングラー関係のCDをほとんど全部送ったのだが、ちゃんとお礼の返事をくれた。
 ターラはルネとミリアムの二人三脚で運営していたレーベルである。ルネが不在となってしまっては、今後このレーベルがどうなるかが心配だ。いずれにせよ、このレーベルから出たものによって、多くのファンが狂喜したことは間違いない。私は、ファンを代表してお礼を言いたい。ありがとう、ルネ!

(2014年2月17日執筆)

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第2回 本を売る〈場〉を考える

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

 こんにちは、久禮書店です。
 今回は、フリーランスとして初めていただいた仕事についてお話しします。
 東京都の昭島市中神町に、マルベリーフィールドというブックカフェがあります。私はこの店の書棚を作るという仕事をいただき、選書・発注から、棚に並べる作業までを任せてもらいました。また現在も継続して、棚のメンテナンスや品揃えの変更をしています。
 マルベリーフィールドは、サンドイッチやスープ、ケーキなど、手作りの食事にこだわったカフェでありながら、店の半分は新刊書店でもあるという、個性的な店です。JR青梅線の中神駅を出てすぐ、ロータリーに面した便利な立地にあるこの店は、駅前唯一の書店として、近隣のお客様に日常的に利用されています。大手取次会社の取引口座をもっていて、雑誌はもちろん、全ジャンルの新刊配本もあります。つまり今回の仕事は、カフェに似合うおしゃれな書棚を作るというだけでなく、新刊が売れる棚を作り、運営していくことも考える必要がありました。

マルベリーフィールド外観

 書棚は、店の内装に溶け込むシックな茶色に塗装されていますが、新刊書店で多く導入されているのと同型のスチール什器で、一般的な規格と同じ80センチ幅の棚で6段組みのものが10本、店奥の角地にL字の壁面に沿って置かれています。書籍を棚にぎっしり背挿しにするのではなく、表紙・カバーを見せる面陳を多用してゆとりがある置き方をしていますが、1,000冊以上は在庫できます。
 今回はひとまず、この10本の棚のうち5本を「セレクト棚」とすることにしました。いくつか掲げたテーマやキーワードに沿って本を組み合わせメッセージを伝えるような、「文脈棚」とも言われるかたちです。550冊ほどを選び、既存の棚をほぼすべて入れ替えることになりました。
 残りの半分は、おもに文芸書の単行本や文庫、コミックが並んでいる棚です。こちらは、一般的な書店の並び方のままにしておくことにしました。便利な駅前書店というこの店のもう一つの役割からすると、普通の棚を普通のやり方で、ちゃんと手をかけて回すことができれば、それだけでいいという面もあります。
 セレクト棚をどう作るか。まず品揃えの核となる本をリストアップしました。店の大まかなイメージやお客様の雰囲気は踏まえましたが、文脈棚の小テーマのようなものは、先には考えませんでした。これまでの経験のなかで長く売れていた本、これからも売れそうな本、最近の新刊からピックアップしたものなど、1冊1冊が新刊書店でいまでも売れるものであることを優先しました。
 そうしてふくらんできたリストを整理しながら徐々にできたグループにタイトルをつけて、それを棚の小見出しのようにしました。いくつかご紹介します。

セレクト棚

「親子の時間」
酒井駒子『よるくま』(偕成社、1999年)
梨木香歩『西の魔女が死んだ』(新潮社、2001年)
信田さよ子『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』(春秋社、2008年)
アレグザンダー・シアラス/バリー・ワース文、中林正雄監修『こうして生まれる――受胎から誕生まで』(古川奈々子訳、エクスナレッジ、2013年)
など

「私は私の身体を知らない」
山口創『手の治癒力』(草思社、1999年)
谷川俊太郎/加藤俊朗『呼吸の本』(サンガ、2010年)
三木成夫『胎児の世界――人類の生命記憶』(中央公論社、1983年)
バーバラ・コナブル『音楽家ならだれでも知っておきたい「からだ」のこと――アレクサンダー・テクニークとボディ・マッピング』(片桐ユズル/小野ひとみ訳、誠心書房、2000年)
など

「成熟と死について考える」
アリス・マンロー『ディア・ライフ』(小竹由美子訳、新潮社、2013年)
ヨナス・ヨナソン『窓から逃げた100歳老人』(柳瀬尚紀訳、西村書店、2014年)
エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間――死とその過程について』(鈴木晶訳、中央公論新社、2001年)
伊藤比呂美『犬心』(文藝春秋、2013年)
など

「都会暮らしもサバイバル」
ブラッドリー・L・ギャレット『「立入禁止」をゆく――都市の足下・頭上に広がる未開地』(東郷えりか訳、青土社、2014年)
ジェニファー・コックラル=キング『シティ・ファーマー――世界の都市で始まる食料自給革命』(白井和宏訳、白水社、2014年)
ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』(金関寿夫訳、めるくまーる、1996年)
坂口恭平『独立国家のつくりかた』(講談社、2012年)
など

「人生の位置エネルギーと運動エネルギー」
クリストファー・マクドゥーガル『BORN TO RUN 走るために生まれた――ウルトラランナーvs人類最強の“走る民族”』(近藤隆文訳、NHK出版、2010年)
ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』上・下(五十嵐美克訳、早川書房、2008年)
リー・ベンデビット-バル『地球の瞬間――ナショナルジオグラフィック傑作写真集』(日経ナショナルジオグラフィック社、2009年)
吉村和敏『「イタリアの最も美しい村」全踏破の旅』(講談社、2015年)
など

「サイエンスとアートが世界を再魔術化する」
近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ――数理の眼鏡でみえてくる生命の形の神秘』(学研メディカル秀潤社、2013年)
結城千代子/田中幸著、西岡千晶絵『粒でできた世界』(太郎次郎社エディタス、2014年)
ダウド・サットン『イスラム芸術の幾何学』(武井摩利訳、創元社、2011年)
高野文子『ドミトリーともきんす』(中央公論新社、2014年)
など

「世界の仕組みを大掴みにする」
マテオ・モッテルリーニ『経済は感情で動く――はじめての行動経済学』(泉典子訳、紀伊國屋書店、2008年)
ジェームズ・M・ヴァーダマン/村田薫編『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書――EJ対訳』(ジャパンブック、2005年)
小林弘人/柳瀬博一『インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃったわけ』(晶文社、2015年)
「世界の歴史」編集委員会編『もういちど読む山川世界史』(山川出版社、2009年)
など

「お金と時間・人生をドライブする両輪」
國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』(太田出版、2015年)
メイソン・カリー『天才たちの日課――クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』(金原瑞人/石田文子訳、フィルムアート社、2014年)
ロバート・キヨサキ『改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん』(白根美保子訳、筑摩書房、2013年)
マイク・マグレディ『主夫と生活』(伊丹十三訳、アノニマスタジオ、2014年)
など

 前職で日々、書籍の売り上げスリップをチェックしていました。まとめ買いしてくださった際には、そのスリップを束にしておき、あとからその買い方に対してキャプションをつけてためておくという作業を続けていました。今回の文言の多くは、そのときの言葉を使っています。
買い方スリップ1

買い方スリップ3

 これらのグループは、できるだけあいまいな括り方にしておきました。それは、メッセージや文脈のもとに棚が固着してしまうことを避けたいと思ったからです。文脈棚のテーマの数々を更新していくことや、既存のテーマに沿わない本を日々組み込んでいく作業は、日常業務のなかでは滞りやすいものです。それに、買ってもらうための棚は、売れ方の予測や売ろうとする勢いが冊数や置き方で表現されているべきだし、お客様の反応次第で変化していくべきだと思ったからです。
 しかし、そのようにして並べてみた棚は、店から期待されていたほどにカフェの雰囲気を決定づけるような第一印象を演出できていたかというと、そうではなかったと思います。自分が想像したより、少し地味だったという気もしています。大判のビジュアル本ばかり飾るのも安直かと思い、あえて背挿しにしておいた『新・世界でいちばん美しい街、愛らしい村』(MdN、2015年)や『世界で一番美しい村プロヴァンス』(マイケル・ジェイコブズ文、ヒュー・パーマー撮影、一杉由美訳、ガイアブックス、2013年)などの写真集が、早い時期に売れてくれました。
 また、シリーズものの時代小説文庫やビジネス・スキル本の定番が売れて、セレクト棚が動いていない日もありました。そうなると、もっと気取らない実用書や親しみがある作家の小説を選んでおくべきだったかと、逆の方向にも反省してしまいます。

 店のオーナー勝澤さんは、いつも柔軟な姿勢で私の意見を聞いてくださいます。私が店の客層を理解するまでの試行錯誤の期間を、何も言わずに許容してくださっていると勝手に解釈して、ありがたく思っています。それだけに、私自身がこの店にあった品揃えを、今後の継続的な関係のなかで見つけなければいけないと思います。
 カフェのための書棚か、本屋のための書棚か。このバランスのとり方は、選書を始めた当初からいまも、悩み続けています。カフェの雰囲気や居心地、インテリアに貢献するような格好いい選書か、近所の本屋として、格好よくはないし名著でもないけれどつい買ってしまう本がちりばめられた、気のおけない棚を作るか。どちらの要素も大事です。このさじ加減をどうするか。店内の場所を使い分けて表現する必要もありますし、今後の売れ方に対応して変化していく必要もあります。

 このバランスについて考えることは、カフェではありませんが、前職のあゆみBOOKS小石川店でも同じでした。
 店に入ってすぐのメイン平台は、まず書店の顔となるようなインパクトをもった平積みや面陳、店の雰囲気を伝えるような組み合わせを見せる場所だと考えていました。また、お客様よりちょっと先に、これが面白いと思いますよと提案する場所だと思っていました。
 すでに市場で売れた結果が出ている本、いまこれが売れているよという後追いのランキング情報を提供することは、他の棚でもできる。もちろんメイン平台にも旬のベストセラーを置きますが、そこにちょっと意外な本を組み合わせることを考えていました。まだあまり売れていない本でも、ポップをつけたりして持ち上げるのではなく、ベストセラーと同等の扱いで、しれっと隣に置いておく感じです。各ジャンルの棚前に平積みしていては2、3冊売れて止まってしまうかもしれないけど、10冊くらいに伸ばしたいというような中ヒットを量産する試みです。結果的に、お客様にこの店ならではという新しい発見をしてもらう面白さにもなっていたと思います。
 一方で、深夜にジャージ姿で行ってもたいして恥ずかしくなくて、とりあえずなんでもいいからなんかくだらないものが読みたいというときにも、何か買えるような雰囲気のコーナー作りも必要でした。そのバランスを、棚や店全体を使い分けて表現しようと試してきたのが、あゆみ小石川での仕事だったのです。

 マルベリーフィールドでも、これからの売り上げスリップを見ながら、ちょうどいいバランスを求めて提案していきたいと思っています。
 ただ、このバランスを考えたときにとても大事な前提があります。まず気軽にふらっと入店できるということです。カフェでお茶をするつもりがない人も、通りがかりに足を止めて、なんとなく入店してもらえるという本屋らしい開かれた店構えが必要なのです。
 そうはいっても、週刊誌や漫画誌の什器を外に出せばいいというものではありません。マルベリーフィールドでは、店外テラス席のすてきな雰囲気が損なわれてしまいます。普通の新刊書店ではそうすることが一般的ですが、多くの書店にとっても、それが正しいのか考え直す余地があると思います。
 この課題も、前職から考え続けていることです。雑誌の新刊を習慣的にチェックする人がどんどんと減っていることは明白で、雑誌に支えられた店づくりから変化しなければならないことは、どの新刊書店にも言えます。いつも同じ雑誌が店の顔になっていると、興味がない人にとっては、店自体が風景に埋没しているのではないかとさえ考えてしまいます。本屋にふらっと入る習慣をもたない人がうっかり入店してしまうような店構えと、本好きでなくてもつい買ってしまう、それでいて本の世界の入り口になるような商材を考える必要があります。 

 前職で見つけた答えの一つは、アウトレット・ブックスのコーナーを店の外と中に作り、動線をつなげることでした。
 アウトレット・ブックスとは一般的にはバーゲン本(B本)と呼ばれるものですが、もう少し現代的な語感をもたせたくて、そう呼んでいます。古書ではなく、様々な事情で出版社から専門業者へ直接卸す新品です。しかし、ほとんどの新本流通に適用される再販売価格維持契約からは除外されており、書店が自由に値付けして販売できます。
 多くの場合買い切り仕入れのため、書店は返品できないリスクを負いますが、格安で買い付けたうえで粗利を大きく設定することもできるという大きなメリットもあります。新刊書店で、書籍の仕入れ資金の負担を軽減しながらも、文房具や生活雑貨ではなく書籍にこだわった品揃えで利益率を上げるためには、もっと注目されるべき分野だと思います。
 また、買い切る、売り残しが少ないほど儲かる、価格設定のうまさ次第で売れ行きが変わるというのは、商売の原点に回帰するようなシンプルさがあり、すがすがしい気分がします。つまり、本屋として日頃鍛えている選書眼が儲けにつながるというダイナミックな喜びを感じられるのです。
 そのうえ新本のバーゲンセールという催し自体がまだ一般的ではないため、目立つ場所で展開すれば、多くの人の興味を引くことができます。ただ、店の雰囲気に安っぽい印象をもたせない工夫が必要です。肝心の新刊書籍に割高感をもたれて売れなくなることにも注意しなければいけません。

 マルベリーフィールドでも、アウトレット・ブックスを販売しています。店の雰囲気に合うアート・ブックや洋書絵本を中心に、雑貨のような感覚で見て楽しめて、気軽に手に取ってもらえるようなセレクトをしています。まず見栄えのよさがあり、そのうえで、いいものが安いというお楽しみもあるという狙いです。店のオーナーである勝澤光さんにあゆみBOOKSの事例を紹介したところ、すぐに私の意図を読み取ってくださり、テラス席と入店してすぐの棚にコーナーを作ってくれました。

マルベリーアウトレット

 選書と調達は私が担当しました。仕入れ先は、おもに神保町の八木書店です。老舗古書店であり、新刊取次とバーゲン本卸問屋も兼ねる八木書店の本社にはバーゲン本の店売所があり、膨大な在庫から現物を手に取って選ぶことができます。私は、和書バーゲン本はこちらから、洋書は八木書店ともう一社、Foliosという業者から仕入れています。
 一カ月分と見込んで在庫を仕入れて販売し始めましたが、2週間後には最初の追加納品をするほどのいい反応があり、安堵しています。
 ここまでお話ししてきた選書やアウトレット・ブックスの企画は、マルベリーフィールドがこれまでも独自の方法でお店を変化させてきた経緯があったからこそ実現したものです。勝澤さんは、初対面の私が提案したものを、とりあえずやってみようという柔軟な姿勢で全面的に採用してくださいました。また、すぐにお客様の反応を取り入れて、改善点を提案してくれます。

 そこで、この店の成り立ちについて、少しお話しします。このお店が、小さいながらも、というより小規模だからこそ機敏に、商売の形を変化させてこられた経緯はとても興味深く、本屋をやるうえでも参考にしたいと思うからです。また、その柔軟さを模倣しようとしたときに、書籍の流通制度や取引条件の問題を考えざるをえないと気づかされるからです。
 ここからは、直接お聞きしたことと、私が見て推測したことも交えてお話しします。勝澤さんの考えとは違うこともあるかもしれません。
 このお店はもともと勝澤書店という新刊書店として、勝澤光さんのお父様が始められたそうです。現在も、店舗はもちろん、外商部もあり、地元の書店として長く営業しています。その店をブック・カフェに方向転換するきっかけになったのが、「春樹とタケノコ」のエピソードです。
 村上春樹の『1Q84』(新潮社、2009年)の単行本が刊行され、発売直後からあちこちで売れまくっているさなか、勝澤書店への配本は、多くの個人経営書店がそうだったように、ほんの数冊だったそうです。怒り心頭の勝澤さんは、ちょうどそのころ、縁あって地元の竹林の手入れを手伝ったおりに仕入れた大量のタケノコを、いっそ平台で売ってやれと思い立ったそうです。試してみたところ、これが飛ぶように売れました。それをきっかけに、地元昭島の野菜を売り場に置くようになったそうです。それも順調に売れていきました。それでも売れ残る野菜も出てきます。そこで、それを調理して提供しようと思い、キッチンを増設し、客席を配置し、カフェとしての内装を整え、現在の業態になったのだといいます。
 現在の店は、たとえ書棚がなくても、すてきなカフェとして、地元のお客様に愛用されているように見受けられます。それでも、勝澤さんは書店としての役割を大切にされているようです。実際、常連のお客様がふらりと入店しては、カフェの客席ではなくレジへ来て、定期購読の雑誌や注文品の書籍を買い、ちょっとおしゃべりをして帰るというような場面を何度も見ました。
 書店の薄利を補うために、カフェを併設して飲食メニューの高い粗利を得るというモデルがよく話題になりますが、そう簡単ではないと、勝澤さんは言います。
 実際、マルベリーフィールドのカフェ部門は順調に伸びているそうです。しかし、カフェの来客が増えると、それだけ食事の仕込み作業が増えます。書籍のように、仕入れて棚に補充すればいいというふうにはいかない。繁盛してくると、思った以上に忙しく、書店部門にかけられる時間がどんどんなくなってしまうのだそうです。
 それでも、駅前唯一の書店としての役割は重要ですし、売り上げもあります。また、旬の新刊本をじっくり読める、買えるということは、カフェの人気を支える面でも大切な要素なのです。
 一方で、飲食メニューは価格設定のうえで粗利が高いとはいえ、ブックカフェでは、お客様はゆっくりと読書をします。つまり、いわゆる回転率は低い。そこを補う役割を果たしているのが、テイクアウトのサンドイッチ販売だそうです。このサンドイッチは、発売からすぐに人気商品となり、お昼前に完売することも多いといいます。この人気商品をきっかけに、デパートの催事に出店する機会を得たというほどです。また今度は、テイクアウトの盛況に組み合わせて店のテラスで書籍のコーナー作りを企画したりと、様々なアイデアを次々に実行しています。
 書籍販売とはあまり関係がないこの話を持ち出したのは、このような商売の個別の事例にこそ学びたいと思うからです。勝澤さんがどのように日々のやりくりをし、変化に対応してきたかを聞いたり想像したりすることは、とても楽しいことでした。書店が成功するためのビジネスモデルだとか法則ではなく、中神のお客様と勝澤さんがやりあった、この店ならではという物語が、とても興味深かったのです。書籍の販売もまた、それぞれの店ごとが抱える様々な事情によって、多様なあり方があるはずだと気づかされました。
 勝澤さんが店の空間を自在に編集してきた軌跡を垣間見て、では店をもたない私がそこから学んで模倣できることはないかと考えました。そこで、私が本を携えて、新しい店づくりを考えている店に飛び込んでみてはどうかと思ったのです。書店ではないが書籍を扱いたいと考えている店や、本に興味をもってくれそうな人の集まる場所がたくさんあります。
 多種多様なジャンルの本が、それぞれにいちばん求められる場所で面白そうに盛り付けられる方法を考えて、そんなあちこちに出張している本たちを束ねる元締めのような役回りを私がするのはどうだろうかと、夢想するのです。

 実際、カフェや雑貨屋、美容院など、本を扱いたいという声をよく聞きます。しかし、仕入れにかかる煩雑な事務作業や、取引条件、在庫リスクなど、様々な制約があり、なかなか実現できません。私たち書店員は、日常的にそれらと向き合ってきました。では、いろいろな店の条件に合わせて、選書をして調達までする選書家兼仲卸業というやり方もあるのではないかと、最近は考えています。実際、児童書のなかでは、そういう機能を果たしている企業があります。
 児童書を中心とした出版から絵本の専門店までを経営しているクレヨンハウスでは、関連事業として子どもの文化普及協会という取次会社を運営しています。この企業は、新刊書店以外の様々な業種の店舗と取り引きしていて、絵本を卸すだけでなく、選書や陳列、販売方法のコンサルタントもしています。取次業としては、保証金を取らず、買い切りではありますが大手取次よりも低い掛け率の好条件で、私のような小さい取り引き相手に対してもオープンな形で、取り引きされています。

 次回は、久禮書店の出張本屋「あちこち書店」の1回目の模様についてご紹介します。地元、武蔵小山のキッズ・カフェALL DAY HOMEの店内にスペースを借りて、洋書絵本のアウトレット・セールと和書新本の絵本を組み合わせた棚を作りました。今回は1日限定のお試し開催でしたが、今後の継続に向けて、勉強になることがたくさんありました。

 それでは、また来月。

 

Copyright Ryota Kure
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第49回 佐村河内騒動について

 昨日から、佐村河内守が作曲した作品が、実はすべて他人が書いたものだったとのニュースが大きく報道されている。私はこのニュースを聞いたとき、レコード会社はさぞや大変だろうなと思ったが、それ以外のことについて、たとえば憤るとか、そういうふうには感じなかった。ふと思い出したのはフリッツ・クライスラーだ。彼は自作の小品に偽名をつけ、「修道院で発見した」「図書館に埋もれていた」などとウソを発表し、あるときそれらすべてが自作であることを公表、多くの研究者や音楽評論家をカンカンに怒らせた。無論、このクライスラー事件と今回の騒動とは同一視はできないが、でも、似ていると思った。
 私も『交響曲第1番「HIROSHIMA」』や『ピアノ・ソナタ第1番』を聴いたが、どうにも共感できず、それらについても特に何か書くことはなかった。テレビの報道では、「絶望を経て書いた作品」「東日本大震災の被災者への思い」といった情報を頭に入れて聴いて感動した人たちがかわいそうだ、というようなことを言っていた。でも、これはおかしな発言だ。なぜなら、テレビはやらせが当たり前の世界である。ありもしないことを作り上げて受けを狙っているからだ。視聴者だって、そうしたやらせを日々喜んで受け入れているではないか。だから、今回の件も大がかりなやらせがおこなわれ、それによって多くの人が感激したのだから、その点についてだけ言えば、特に大きな問題ではないと思う。
 法的な問題が絡んでくるから、この佐村河内事件はしばらくくすぶるだろうが、でも、書かれた作品は全く変わりようがない。周辺の情報をいったんリセットし、もう一度作品に接すれば、初めてこれらの作品が正当に評価されるだろう。

(2014年2月6日執筆)

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。