アルド・フェラレージはイタリア北部のフェッラーラで生まれる。父は軍人だったが、マンドリンをこよなく愛していた。ヴァイオリンを始めたきっかけは明らかにされていないが、母が息子の才能に気づき、5歳のときに地元のフレスコバルディ音楽学校に入学させた。12歳でパルマ音楽院、15歳でローマのサンタ・チェチーリア音楽院で学び、無声映画やカフェで演奏した。ヴァシャ・プシホダとヤン・クーベリックの勧めにより、ベルギーの大家ウジェーヌ・イザイの元で学ぶようになるが、イザイはのちにフェラレージを「最上の生徒」と認めたという。その後、ソリストとしての活躍は華々しく、ヨーロッパはもとより、アメリカにも渡り、注目を浴びた。共演した指揮者はヘルマン・シェルヘン、ハンス・クナッパーツブッシュ、シャルル・ミュンシュ、ジョン・バルビローリ、アルトゥール・ロジンスキ、セルジュ・チェリビダッケなど。戦後は主にイタリアで活躍し、1963年にはアラム・ハチャトゥリアンと共演、65年にはヴァティカンでローマ教皇パウロ6世の前でソロを披露している。アメリカのカーティス音楽院はエフレム・ジンバリストが他界したあと、フェラレージを後任として招こうとしたが、フェラレージは家族と離ればなれになりたくないという理由で、この申し出を断っている。78年6月、サン・レモで死去。
フェラレージが世界的に知られていないのは、主に戦後、彼の活躍の場がイタリア国内にとどまっていたことによるものだと思われる。SP時代から録音はおこなっているが、戦後でもHMVのLPが1枚程度しか存在せず、公式録音としては協奏曲はひとつもなかった。
現在、フェラレージのディスクで最も手に入りやすいのはパガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第1番』などを収めたものだろう(ISTITUO DISCOGRAFICO ITALIANO IDIS6366)。これは1965年のスタジオ録音と記されているが、音声はモノーラルのようだ。もちろん、この演奏を聴いても、力強いタッチと濃厚なカンタービレは十分に聴き取ることができる。だが、このCDだけでは、彼の力量の全体像は見えにくい。
その乾きを癒やしてくれたのが、2006年に発売された9枚組み、Aldo Ferraresi Le grandi registrazioni RAI-The great Italian Radio recordings (Giancluca La Villa、番号なし)である。これは現在ではどこを探しても見つからない、中古市場でもトップ・ランクの稀少品だ。だからといって、決してこれ見よがしにしたいわけではなく、とにかく内容的には抜群にすばらしいため、再プレスや再発売の期待を込めながら触れてみたいのである。
収録年代は1959年から73年までで、場所はすべてイタリア国内。ほとんどすべてモノーラル(なかにはステレオ?と思われるものもある)で、音揺れがあったりノイズが多いものも非常に少なく、全体的には非常に明瞭な音質である。
まず、チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』(1965年、グラント・デロング指揮)。ソロが出てきて感じるのは、そのテンポの揺れ方や和音の弾き方など、これまで聴いてきたどのヴァイオリン奏者とも違うことだ。それに、常にたたみかけるような勢いも、ヤッシャ・ハイフェッツに匹敵するほどだ。第2楽章の濃密な歌もたいへんに印象的だが、第3楽章の自在さと素早さも破格。
エルガーの『ヴァイオリン協奏曲』(1966年、ピエトロ・アルジェント指揮)も、こんなに多弁で、鮮やかな色彩な演奏は初めてだった。同じディスクに収録されたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番』(1960年、カルロ・ゼッキ指揮)はなかでも古典的な演奏だが、たとえば第2楽章の、果汁たっぷりの音色は忘れられない。
ショスタコーヴィチの『ヴァイオリン協奏曲第1番』(1959年、マリオ・ロッシ指揮)、この作品は1955年の初演だから、これはイタリア初演かもしれない。これもすごい。なにせ、いちばん最初にソロが出てくるときの音がすごすぎる。この、人の心をわしづかみにするような、妖気をはらんだような雰囲気は、ちょっと類例がない。個人的にはあまり好きな作品ではないが、フェラレージの演奏は一気に聴き通させるだけの、強烈なエネルギーがあった。
ウォルトンの『ヴァイオリン協奏曲』(1961年、フォルシュタート指揮)、これは地味な作風と思われているのだが、フェラレージの演奏は異様なまでに艶めかしく、こんな解釈もあるのだと納得した。ハチャトゥリアンの『ヴァイオリン協奏曲』(1963年)、これは作曲者ハチャトゥリアンの指揮である。これまた、ものすごく生きのいい演奏だ。飛び跳ねるようなリズム、独特の濃い歌い方、自在極まりない表情。ハチャトゥリアン自身がフェラレージをどう思ったかは知りえないが、きっとダヴィッド・オイストラフやレオニード・コーガンらの演奏よりも高く評価したのではないだろうか。
室内楽ではフォーレの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』(1965年、エルネスト・ガルディエリのピアノ)がある。第1楽章はまず、手探りのような遅めのテンポで始まり、ピアニストの個性的な弾き方も面白いと思った。そこに、何とも悩ましく、涙に濡れたようなヴァイオリンが加わる。楚々と弾くピアニスト、そして万感の思いを込めて弾くヴァイオリニスト、これほど奥ゆかしく、かつ微妙に揺れる心のような演奏は初めてだった。
ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」』(1970年、ピアニストはフォーレと同じ)は、なかではすっきりしたほうの演奏だった。これが年代によるものなのか、たまたまそうだったのかは不明だが、でも、もともと音に力がある人だから、ことに第2楽章などは感動的だった。
9枚目のCDの最後にはSP復刻が4曲入っている。このなかで注目されるのはバッヅィーニの『妖精の踊り』だろう。この輝かしさ、そして史上最速と思われるこのスピード感、これだけでもフェラレージは名奏者のひとりとして記憶されてもおかしくない。この弓さばきのすさまじさは、イザイの薫陶によるものだと思う。
この9枚組みにはグアリーノ、アレグラ、ジャキーノ、マンニーノなど、イタリアの作曲家の作品も多く含まれている。さらにはトゥリーナ、ヘラーなどの珍しい作品も収録されていることから、フェラレージはたいへんに広いレパートリーをもっていたこともわかる。もちろん、そうしたレパートリーも珍重されるべきものだが、たとえば四大協奏曲ではチャイコフスキーしか残されておらず、そのほかのメンデルスゾーン、ベートーヴェン、ブラームスなども、もしも残っていたら、ぜひとも聴いてみたい。シベリウス、プロコフィエフ、バルトークなども演奏していたのだろうか。バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』とか、ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ』なども、きっと魅惑的だったにちがいない。
ランカシャー州プレストン生まれ。6歳でソリスト・デビューし、9歳でメンデルスゾーンの協奏曲を弾く。ロイヤル・マンチェスター・オブ・ミュージックではヴィリー・ヘス、アドルフ・ブロツキー(チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』を初演した)にそれぞれ師事。1902年にはワーグナーと交遊があったハンス・リヒターの招きでバイロイト祝祭管弦楽団に参加、コジマ・ワーグナー邸でも演奏している。13年からハレ管弦楽団のコンサートマスターに就任(1925年、首席指揮者ハミルトン・ハーティとの見解の相違で辞任)、BBC交響楽団の同じくコンサートマスターにも招かれ、ヘンリー・ウッドが主宰するプロムナード・コンサートにも参加している。室内楽方面ではカテラル弦楽四重奏団も結成、チェロのウィリアム・H・スクワイアやピアノのウィリアム・マードックらと三重奏もしばしばおこなっていた。
私がアーサー・カテラルを初めて知ったのは、ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ第3番』(イギリス・コロンビアのSP。録音:1923年、L1535/76)だった。第1楽章冒頭の、ささっと流れるような心地よさと、ポルタメントを多用した上品な甘美さにより、たちまち虜になってしまった。しかし、カテラルの復刻はまったくないし、SPでは特にソナタなどの作品が入手難だった。そこに届いた朗報は、2014年に飛鳥新社から発売された『名ヴァイオリニストと弦楽四重奏団』(新忠篤/大原哲夫編集「モーツァルト・伝説の録音」第1巻、CD12枚+書籍1巻)のなかに、カテラルが弾いたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」』(録音:1924年)が含まれていたことだ。指揮はハミルトン・ハーティ(オーケストラは覆面団体)で、カテラルとハーティが決裂直前の録音である。第1楽章はテンポの変化がすごく多いし、表情のつけ方、音の切り方・伸ばし方も全く彼独特である。ポルタメントも非常に多いが、たとえばブロニスラフ・フーベルマンのようなえぐるようなものとは全く違うし、ジャック・ティボーのような、良く言えば媚びを売ったものとも違うし、カテラルのそれはもっと自然で貴族的な香りさえある。
第2楽章の甘美な雰囲気も、格別である。こんな演奏はほかにあっただろうか。第3楽章はちょっと不思議。伴奏はゆったりと遅いのだが、カテラルの独奏になると、一気にスピードを上げてくる。その爽快感たるや、見事というほかない。
ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」』(ピアノはマードック。録音:1923年、L1231/32)も逸品である。カテラルの弾き方は、ウィンタースポーツのカーリングの石のように、ポンと押すとすうっと流れるような滑らかさがある。そこに、ほのかな甘さがそこはかとなく漂う。モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタK.526』(録音:1923年)も流麗で優美な演奏で、ピアノ伴奏はハーティが担当している。フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』(ピアノはマードック。録音:1924年、L1535/37)はラッパ吹き込み(アクースティック録音)ゆえに重要な役割を果たすピアノが平たく響き、全体の立体感が不足するものの、異例のしなやかさをもつ希有の演奏として記憶されるべきものだ。
室内楽の録音にも個性的なものが多い。たとえば、カテラル弦楽四重奏団によるブラームスの『弦楽四重奏曲第1番』(録音:1923年、HMV D791/4)は、濡れた抒情を描き尽くした傑作である。また、スクワイアのチェロとマードックのピアノによるチャイコフスキー『ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」』(録音:1926年、L1942/47)は、カテラルの数少ない電気録音という点でも注目に値する。チェロのスクワイアも古いスタイルで切々と歌っていて、カテラルの憂愁なヴァイオリンと相まって、かつて耳にしたことのない情緒纏綿たる美演奏が展開されている。
カテラルは小品もそれなりに録音していて、これらもまとまって聴ける復刻盤が待ち望まれる。また、カテラルは戦前に亡くなったためか、カテラルの奏法を受け継ぐ後継者が完全に途絶えてしまったことも、非常に残念に思う。
以上、モーツァルトの『トルコ風』以外のすべての曲目はウェブサイト「Historic Recordings」(http://www.historic-recordings.co.uk/EZ/hr/hr/index.php)からCDR、もしくはダウンロードで聴くことができる。CDRはオリジナルのSP盤の番号がなかったり(ただし、録音データは正確)、曲間があまりにも短いなどの不備があるが、音質や編集は水準以上である。
蛇足だが、たまたまカテラルとハーティとの確執について目についたので記しておこう。それはマイケル・ケネディのThe Halle, 1858-1983:A History of the Orchestra(Manchester University Press, 1983)にあった。それによると、カテラルはある日、ハーティのベートーヴェンの解釈について口を挟んだところ、ハーティはカテラル弦楽四重奏団の演奏会をじゃまする企画を立てたり、カテラルの独奏の際に非協力的な伴奏をしたりしたという。そのため、両者は始終言い争いをし、結果、ケンカ別れしたらしい。
カテラルの録音の大半はラッパ吹き込みだが、活躍していた期間を考えると、電気録音がもっと残っていてもおかしくない。これは、もしかするとハーティとの決別が影響しているのかもしれない。ラッパ吹き込みは演奏家の力量をはかるのには非常に不利だが、カテラルはそれをはるかに超えるだけの技量の持ち主だったと確信する。
本書のもとになった論文は「菊と星と五輪――1920年代における日本陸海軍のスポーツ熱」(「京都大学文学部研究紀要」第52号、京都大学大学院文学研究科、2013年)と「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」(「京都大学文学部研究紀要」第53号、京都大学大学院文学研究科、2014年)である。いずれも京都大学の学術情報レポジトリ「KURENAI」(http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/)でダウンロードすることができる。両論文のアクセス数を見ると、「菊と星と五輪」が887件、「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」が1,253件(2015年8月24日現在)で、1年遅れて発表されたにもかかわらず「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」のほうが多い(これだけの人が本書を購入してくれれば、増刷間違いなしだが……)。これは著者にとってはやや意外な結果だった。というのも、著者には「菊と星と五輪」で扱った大正時代の軍隊のほうが興味深かったからである。これまで日本の軍隊にほとんど関心をもたなかった著者のような人間にとって、日本の軍隊といえば戦時中のそれをイメージするが、大正時代の軍隊はそのようなイメージを覆す、まるで軍隊らしくない軍隊だった。しかもその軍隊がスポーツ熱にとらわれていたというのだから、ますますもって軍隊らしからぬ軍隊だった。軍隊とスポーツの取り合わせがあまりに意外で新鮮だったので、著者本来の研究領域からかなり離れたテーマだったにもかかわらず、ずるずると引き寄せられていった。
自信がない軍隊の姿は、戦後の自衛隊の姿と重なり合う。少なくとも、著者は、現在の自衛隊の姿から大正の軍隊を想像した(もっとも、ここ数年で自衛隊とそれを取り巻く状況には大きな変化があった)。大正の軍人も戦後の自衛隊員も、主流の男らしさから取り残された存在だった。そしてともに社会に門戸を開き(スポーツを通じた交流もその一環である)、社会の認知を得ることで、自信を取り戻そうとしたことも共通している。大正の軍隊と戦後の自衛隊の軟らかいイメージはこうした軍隊の姿勢に由来するのだろう。しかしながら、昭和の軍隊が大正の軍隊から生まれたのは紛れもない事実である。萌えキャラで隊員を募集している自衛隊が、今後硬いイメージに転換することもありえないことではないのである。
大正の軍隊の軟らかいイメージとして紹介したいのが、『Our Army Life 1922』(編者、出版社、刊行年不明)である。
これは姫路の歩兵第39連隊の大正11年度1年志願兵が作成した卒業アルバムである。本書171ページにも白黒写真を掲載しているが、ぜひカラーで見てもらいたいので、この場を借りて紹介しておく。この種の卒業アルバムはたくさん作られたが、これほどほのぼのとした表紙はほかに見たことがない。英語のタイトルもきわめて珍しい(ふつうは『陸軍士官学校予科第9期生卒業記念写真帖』とか『大正13年度志願兵4等水兵修業記念』とかである)。卒業アルバムは軍隊生活の実態を知るうえでたいへん有用な資料だが、残念なことにまとまったかたちで保存されていない。ぜひ、公共の図書館で収集・公開してほしい。
ちなみに著者は『Our Army Life 1922』を2013年9月にオークションで手に入れた。ちょうど「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」の原稿を書いているときで、こまめにオークションをチェックしていたところ、「貴重 大正11年 歩兵第39連隊の写真帖 陣中勤務 休息」という商品が出品されたのを知った。陸軍で最初にスポーツを始めた39連隊、しかもちょうどスポーツを始めた時期のアルバム(欲をいえば、もう1年前のものがよかった)、これは手に入れるしかない。祈るような思いで、オークションが終わるのを待った。ほかに入札者はおらず、2,980円で落札した。実際に手にしたアルバムは予想以上にすばらしいもので、スポーツ連隊と呼ばれた39連隊の往時をしのぶことができた。海軍関係のアルバムが多いなか、陸軍、しかも著者が欲しいと思っていた時期・連隊のアルバムが出品されたのは、奇跡に近いように思われた。
『Our Army Life 1922』は著者にとって奇跡に近かったが、研究をやっていると、このような出合いはけっして少なくない。もう一つだけ紹介しておこう。子どもを連れて志摩スペイン村に行ったときのこと、久々に伊勢神宮でも行ってみようかという気を起こし、外宮に立ち寄った。おなかがすいたので、近くのウナギ料理店に入ったところ(いうまでもないが、ウナギが高騰する前のことである)、なんとそこは阪神タイガースの投手で、フィリピンで戦死した西村幸生の実家だった。なぜそれがわかったかといえば、「喜多や 御来店記念」と書かれた短冊が置いてあり、そこに西村のことが書かれていたからだ。ほかにも紹介したいお宝(がらくた?)はたくさんあるが、きりがないのでやめておこう。
5月12日の火曜日、平日1日限りの出店をしました。洋書絵本のバーゲン品と和書新本の絵本を中心にしたラインナップで、什器はりんご木箱を手作業で塗装した簡素なものでした。準備した在庫も売り上げもごくわずかでしたが、学ぶところは多くありました。
場所は、東急目黒線の武蔵小山駅からほど近いキッズ・カフェALL DAY HOMEでした。スキップキッズが首都圏で10店舗運営しているうちの1店舗です。キッズ・カフェというのは、親子連れで来店して、子どもは店内の遊具スペースで遊べるというスタイルのお店です。もちろん親も子どもと一緒に遊んでもかまわないのですが、このお店ではつかの間でも子どもから解放されて1人でお茶をしたり、大人同士会話を楽しんだりする過ごし方を多く見かけます。
ALL DAY HOMEへ娘と2人で客として訪問したある日、私は「ここで本を売らせてくれませんか?」と、かねてからの考えを話してみました。運営会社スキップキッズのマネージャーさんがたまたま店舗に居合わせていて、私の提案を聞いてくださり、実現することになりました。実はスキップキッズも、ちょうど書籍の導入を検討していたところだったのです。
絵本を中心とした常設の書棚を作って、お店の魅力を高めたい。また、その書籍や関連する雑貨を販売することで、より多面的に売り上げをあげながらお店の利便性を高めたいという考えを、すでにおもちでした。しかし、書籍の選定や書棚の運営についてのノウハウや在庫調達の方法などについて、まだ検討が必要な段階にあると話してくださいました。
その話をうかがい、私自身がその常設の書籍販売コーナーを担当したいと思いましたが、たとえ小規模でも新刊書店の棚をそこに作るためには、まだ私の準備が不足していました。