2016年5月の2ヶ月後は7月です ――『アガンベンの名を借りて』(と『スタシス』)を刊行する理由

高桑和巳

 高桑和巳と申します。フランスとイタリアの現代思想を研究・紹介しています。仕事のなかでは、とくに翻訳に力を入れています。フランスについてはミシェル・フーコーやジャック・デリダを、イタリアはもっぱらジョルジョ・アガンベンを対象としています。アガンベンの翻訳はずいぶん出しました。2016年4月の時点で合計7冊になります(ついでに、英語の入門書も1冊翻訳しています)。
 しかし、翻訳をこれだけ出しているのに、私は単著を出していませんでした。なるほど、アガンベンに関しては折りに触れていろいろなことを話したり書いたりしてはきたのですが、その内容を1冊にまとめるということをしてこなかった。
 そんな私に青弓社さんが声を掛けてくださったのが2015年9月のことです。アガンベンを主題とした単著を出す気はないかという、ありがたいお誘いでした。しかし、正直に申して、書き下ろしは時間的にも能力的にも現実的ではないと思えました。とはいえ、せっかくいただいたお話なので何かできないかと考えました。
 ほどなく思いついたのが、これまでに各所で書き、話してきた玉石混淆の内容を――「玉」が少しでも入っていることを祈りますが――、取捨選択せずそのまま1冊にまとめてしまう、というアイディアでした。アガンベンをめぐる私のおもちゃ箱をひっくりかえしてそのまま提示する、というわけです。
 タイトルも『アガンベンの名を借りて』としました。この本は、もしかすると風変わりなアガンベン入門として活用してもらえるかもしれないけれども、むしろ――身も蓋もない言いかたをしてしまえば――自分が彼の思想を口実やきっかけとして自由に考えてきた結果を提示するものになるだろう。そして、そのことがひるがえって、彼の名を借りて自分なりに哲学をするよう読者のかたがたに促すことになるかもしれない、というわけです。
 このような自己流の提示に躊躇がなかったわけではありませんが、このアイディアを採用することを最終的に後押ししたのは、他ならぬ現在の政治情勢でした。私も遅ればせながら2015年の夏以降、反安保法制の運動に参加してきました。本を出せば、それは、この件に関する自分の発言を――それほど多くはありませんが――公に吟味していただく機会にもなる(それらの発言はアガンベンの思想を下敷きにしていました)。私はそのように考え、本の最後の部分を反安保法制に充てて構成しました。
 さて、この本についての話から少しだけ逸れることをお許しください。
 私がこの本の構成について考え、整序作業をおこなっていたのは2015年10月から年末にかけてです。ちょうどその時期、私はとある大学でイタリア語講読の授業を担当していました。私が講読用に選んでおいたのはアガンベンの『スタシス』という本でした。この選定は、私が反安保法制の運動に参加するよりも前の2015年春に済ませていました。ちょうど刊行されたばかりの原書をざっと斜め読みして「面白そうだ」と思い、テクストに指定しておいたのでした。
 精読を進めるうちに、受講者の皆さんと私は奇妙な感覚に何度も襲われました。作者は古代ギリシアについて、あるいは17世紀のイギリスについて語っているにもかかわらず、そこで語られているのはいまの日本の情勢のことであるとしか見えなかったのです。これはすぐに日本語で読めるようにしなければならない。
 というわけで、急遽、この翻訳の企画も(別の版元さんとですが)同時に進めることにしました。
 では、この2冊をいつまでに刊行しなければならないか? もとより、別々に立った企画ですから、それぞれのスケジュールに沿って、それぞれのペースで刊行までの作業を進めればよいだけのことです。刊行時期を無理に揃える必要もない。しかし私は、遅くとも2016年5月の連休までには両方とも刊行されていてしかるべきだと、デッドラインを勝手に考えていました。
 なぜか? 2ヶ月後にあたる7月に参議院議員選挙がおこなわれるからです。幸か不幸か、いま、ここで重大な意味をもってしまった政治思想の貢献を、選挙の前に余裕をもって提示し、それを使いたいと思う読者のかたがたに役立てていただく。そのためには、これがギリギリの時期だと思えたわけです。
 正直に言って、かなり大変な作業ではありました。しかし、編集サイドのご尽力もあり、スケジュールを遅らせることなく2冊とも刊行までこぎつけることができました。後悔だけはしたくなかったので、ここまで無事にたどりつけてまずはホッとしています。
 とはいえもちろん、これで終わりではありません。
 まずは目前の結果に向けて、そしてその先に続いていくもののためにも、読み、考え、行動していければと思っています。

 

第2回 事例1 2.5次元ミュージカル/舞台――2次元と3次元での漂流

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

アニメといえば日本!……2.5次元ミュージカル/舞台といえば?

“2.5次元”という用語をアニメ・漫画ファン以外にも認知させたのは、やはり2.5次元(以下、2.5Dと略記)ミュージカル/舞台だろう。第1回連載でも言及したとおり、2014年に日本2.5次元ミュージカル協会(以下、2.5D協会と略記)が設立され、漫画、アニメ、ゲームなどの“2次元”を原作にした日本発のミュージカル(とストレートプレイ)を世界へ発信し、世界標準を目指した活動が始まった。ディズニー/ピクサーなどのアメリカのフルアニメーションや3DCGアニメーションと並んで、日本のセルタイプの2D(リミティッド)アニメがいまや「世界標準」となっている(つまり、「アニメといえば、日本」という共通認識)ことを考えると(1)、アメリカのブロードウェー、イギリスのイーストエンドのミュージカルに対し、2.5Dミュージカル/舞台は日本オリジナルのものだと世界で周知されるのもそう遠くはないかもしれない。実際2014年、ヨーロッパ最大の日本に関するオンリーイベント「ジャパン・エキスポ」(パリ郊外)でおこなわれたミュージカル『美少女戦士セーラームーン』のキャンペーンで、セーラー戦士とタキシード仮面が登場すると、その場にいた観客が一斉にカメラを構えた(画像1)。メインナンバーを歌うキャストに、若者だけでなくいい大人たちが大きな声援を送っていたのを、筆者は驚きとともに目撃している(画像2)。コンテンツの力、そして後述する“キャラ”の力は、メディア領域を超えて拡大し続けている。

画像1
画像2

2.5次元ミュージカル/舞台の特徴

「じゃあ、既存のミュージカル(ブロードウェーや劇団四季などのミュージカル)と2.5次元ミュージカルってどう違うの?」
 当然の疑問である。
 はたして、2.5次元ミュージカル/舞台を、既存のミュージカルや演劇と一線を画しているものとは何だろうか。そんな問いに対する答えを探るため、筆者は2015年から「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」を開催し、研究者や学生、関係者、一般の方々と意見を交換している。記念すべき第1回は、15年2月5日(木)の奇しくも2.5次元の日!(注:ねらってその日に設定したわけではありません、念のため)におこなわれた。日本2.5Dミュージカル協会代表理事/ネルケプランニング代表取締役松田誠氏とウェリントン・ヴィクトリア大学(ニュージーランド)のコスプレ研究者エメラルド・キング先生をお迎えし、「2.5次元ミュージカルとコスプレにおける女性の文化実践」をテーマに、お話をうかがった。松田氏は、15年は2.5次元ミュージカル/舞台の紹介の年と位置づけ、2.5Dミュージカル/舞台の詳細、2.5D協会の目的などを紹介された。一方、キング氏は、主に女性のコスプレイヤーが男性から受けるセクハラ問題、女性レイヤーが陥った自己顕示と承認/非承認問題などを話された。コスプレについては、この連載でいずれ詳しく取り上げるつもりなので今回は深く触れないが、コスプレと2.5次元ミュージカル/舞台の関係は非常に親密だということを特記するにとどめておく。これは後述する“キャラ”という要素にも密接に関わってくる。
 第2回は、2016年2月6日(土)「声、キャラ、ダンス」というテーマでおこなわれた。大妻女子大学の田中東子先生は、“キャラ”とファンに関する興味深い指摘をされ、早稲田大学演劇博物館招聘研究員の藤原麻優子先生は、既存のミュージカルと2.5Dミュージカルの違いを細かく解説された。お2人の発表内容にも言及しながら、先に掲げた問い「2.5Dミュージカルの特徴とは」を解明していこう。

“キャラ”、キャスト、コンテンツ

 キャラクターとは、一義的には創作物の登場人物のことである。しばしばキャラクターは「キャラ」と略して使用され、近年ではコンテキストによってその意味は多様化している。キャラとキャラクターに関する議論は非常に複雑である。今年のセンター試験にも出題された土井隆義の『キャラ化する/される子どもたち――排除型社会における新たな人間像』(〔岩波ブックレット〕、岩波書店、2009年)に代表されるように、ある一定の個性を強調した個体(「いじられキャラ」「エロキャラ」などコミュニティーのなかでの役割分担のようなもの)がキャラと呼ばれる場合、コミュニケーション学や社会学の文脈でしばしば語られる。この文脈では「キャラがかぶる」(例えば「メガネキャラ」などメガネをかけているクール系がクラスに2人もいると、都合が悪いわけである。アニメや漫画でもその傾向は顕著だ。)や、「キャラが立つ」(個性の強さがあり、唯一絶対の個体として認識できる)などの言い回しになる。しかし、漫画の“キャラ”とキャラクターの概念の差異を丁寧に考察し定義している伊藤剛や東浩紀などが示すように、“キャラ”は単なるキャラクターの略語ではないことも、いまでは自明となっている(2)。しかし、便宜的に今回は「キャラ」は、キャラクター(登場人物)、その性質や個性という意味で使用し、論を進めていく。
 このキャラ(キャラクター)の議論にはコスプレの回で再訪するとして、2.5Dミュージカルでのキャラに話を戻して考えてみよう。前述したシンポジウムで田中は、小田切博のキャラクターの定義を引用して、「外見、性格、記号的意味(3)」がキャラクターの構成要素であるが、そのうち一つさえあれば、存在がゆらぐことはないという小田切の考え方を、キャラクターの“増幅”としてとらえていた(4)。二次創作によるパロディーはもちろん、地上波で一次作品をもとに世界観や設定を変えて創作する二次的な作品でも、キャラはキャラとしてブレない。『科学忍者隊ガッチャマン』(フジテレビ系、1972―74年)をギャグ短篇アニメにした『おはよう忍者隊ガッチャマン』(日本テレビ系列、2011―13年)や、『おそ松くん』(毎日放送系、1966―67年、フジテレビ系、1988―89年)のキャラたちが成人してニート生活を送っているという設定で、6つ子に強烈な個性を与えたパロディアニメ『おそ松さん』(2015―16年)など、二次創作手法が一つの作品として認知されている。余談だが、『妖狐×僕SS(5)』(MBSテレビ、2012年)など、コメディー風にキャラが突然“チビキャラ”としてデフォルメされたり、ねんどろいどに代表されるようにカワイくデフォルメされたフィギュアが愛好されたりと、キャラの“増幅”は無限である(果ては擬人化ならぬ“(擬)モノ化”〔人間キャラが動物になったり、モノになったり〕しても、キャラとして設定や個性があれば、キャラの自律はゆるがない)。
 2.5Dミュージカル/舞台も、キャラの“増幅”の範疇にあるなら、三次元の身体を借りた“パロディー”としてとらえることが可能だろう。まず、この“キャラ”の問題が、既存の戯曲(テキスト)の翻案ミュージカルとの重要な差異の一つである。

ブロードウェーでも2.5次元?

「いや、ブロードウェーでもアニメーションのミュージカル化があるじゃないか。ディズニーの『ライオン・キング』『リトルマーメイド』『アラジン』、マーベルの『スパイダーマン』……あれって、2.5次元じゃないの?」
 これも当然の疑問である。
 星野太は、2.5次元は、2次元/3次元という次元の位相の差異ではなく、キャラクターと観客をベースとしたときに浮上すると述べている。「二次元/三次元の相克は、厳密にはそのメディウムの次元で生じているのではなく、むしろその「キャラクター」と「俳優の身体」のあいだで生じている(6)」のだ。漫画、アニメ、ゲームなどの虚構の世界のキャラが、あたかも人格をもった存在として観客の認識にあり、目の前で展開されるキャラそっくりの俳優たちの身体に、観客はキャラを「幻視」し「二重写し」にするとき2.5次元空間という位相が生じるという(7)。
 星野の議論は、2.5次元空間を成立させる私たちのキャラに対する認識と劇場内での参加(物理的にも認知的にも)が不可欠要素であることを担保している。しかし、例えば、スパイダーマンなど、パロディーや“増幅”が多いアメコミキャラの舞台は、はたして2.5Dミュージカルといえるのだろうか。
 藤原麻優子は、ディズニーアニメやアメコミのキャラクターたちが、キャラとして成立しているにもかかわらず、なぜ日本の2.5次元舞台と異なるのかを、①再現性、②物語構造、③ミュージカルナンバー(曲)の役割の3点から分析している(8)。

①再現性
 まず藤原は、レーマン・エンゲル(9)を引用して、既存のミュージカルが原作に忠実か否かは問題ではなく、翻案者が自分の方法で表現することが大前提だとしていると強調する。これに対し、2.5Dミュージカル/舞台は、2次元の世界観をそのまま再現することに重きを置いていることを挙げる。もちろん、藤原が指摘する二項対立図式にすべての漫画、アニメ、ゲーム原作のミュージカルが当てはまるとはかぎらないが、最近の2.5Dミュージカル/舞台に、アニメキャスト(声優)の声、ビジュアル、原作のセリフ、世界観をなるべく再現しようという傾向が強いことはまちがいない。したがって、ディズニーアニメの舞台を観て、「あ、アラジンがそこにいる!」「アリエルそっくり!」という感覚はあまり実感できないだろう(『ライオン・キング』はそもそも動物がキャラクターだから忠実な再現性は不可能だ)。

②物語構造
 また、物語構造も異なる。藤原は、起承転結という日本の物語構造の典型に対して西洋には「対立―衝突―解決」という文法があるが、2.5Dには、連続上演という必ずしも一つの上演作品内で完結しないシリーズ化という特徴があることを指摘する(10)。既存のミュージカルには、必ずドラマ(「(一連の)出来事を通して描かれる人物の視点の衝突や変容の起伏(11)」)があるが、2.5Dミュージカルは、ドラマは前景にあまり出てこない。

③ミュージカルナンバー(曲)の機能
 このことは、ミュージカルナンバー(曲)の機能と密接な関係がある。既存のミュージカルでは、「歌とダンスが物語に対して一定の機能を担い、作品のテーマを有機的に描き出していく(12)」ので、ミュージカルナンバーに物語の人物の説明、心情をテーマに沿うように乗せてくる。それに対し、2.5Dミュージカルには状況説明の曲が多いとされ、限りなく非ミュージカル的だという。しかも2.5Dミュージカルは、非ミュージカルだということを自分から告白するかのように、キャラクターが突然歌い出すというミュージカルをミュージカルたらしめている文法に、キャラクター自身がツッコミを入れたり、ちゃかしたりする「自己言及性(13)」が強いという(例として、藤原はミュージカル『テニスの王子様』〔通称『テニミュ』〕で菊丸が試合途中に歌いだし、試合に負けた原因を「なんで歌っちゃったんだろう」と、歌によってスタミナがなくなったと言及している点を指摘している)。確かに、アニメや漫画原作にキャラが物語のなかで歌っている場面はないので、ミュージカルナンバーは、違和感=「キャラに合わない」はずである(余談だが、この2.5Dミュージカルはアニメにも影響を及ぼしている。アニメ『スタミュ(高校星歌劇)』〔2015年〕や、『Dance with Devils』〔通称『ダンデビ』、2015年)などでは物語中キャラが歌いだす。『ダンデビ』に至っては、ミュージカルアニメーションと銘打たれ、2016年に舞台化もされている)。
  
ミュージカル『テニスの王子様』の衝撃

 以上、主要3要素から既存のミュージカルと比較してみると、2.5Dミュージカルは、明らかに独自性をもっている。キャラ中心にドラマ、曲、ダンスさえもキャラの自律化へ従属していく。また、藤原は、既存のミュージカルからみると積極的な余白、つまり“不完全性”があること、そして派手な舞台装置があまり必要とされないことも、キャラ中心主義に寄与する要素だとしている(14)。これはミュージカル『テニスの王子様』を嚆矢とする“『テニミュ』系”2.5Dミュージカルが典型である。『テニミュ』系とは、①無名俳優の起用によるキャラ再現性の優先、②チーム男子の採用、③連載上演を特徴としている作品群と定義しよう。
『テニミュ』は2003年から現在まで続く、2.5Dミュージカルという分野のパイオニアであり、最長寿作品である。したがって、2.5Dミュージカルの原点として取り上げられる作品である(15)。『テニミュ』はアニメ化もされた漫画「テニスの王子様」(許斐剛、「週刊少年ジャンプ」1999―2008年、集英社)が原作である。絶対に無理といわれたスポーツ漫画のミュージカル化を成功させたプロデューサー片岡義朗は、読者がコマとコマの間を補完する漫画と、観客の想像力に依存する演劇との類似性を早くから指摘していたし(16)、松田誠も「脳内補完」という実に妙を得た用語で端的に指摘する(17)。集客力がある有名俳優をキャストするのではなく、一貫してあえて無名俳優を起用し、キャラの再現性を最優先させたことも、他作品と一線を画す点である。「まるで漫画から抜け出たみたい」というキャラを中心とする感覚という意味の“2.5次元”がここに結実する。しかも、2次元キャラでは味わうことができない、息づかい、汗、匂い、筋肉などを、舞台では体験できるのだ(むろん、キャラが汗をかくのは見たくないというファンもいるだろうが、汗はキャストの一生懸命さが伝わってきて、かなり感動する)。
 また、よく指摘されることだが、『テニミュ』では女性キャラクター(物語のなかでは、竜崎スミレ監督と監督の孫・竜崎桜乃は主要女性キャラクター)を排除し、「チーム男子」(イケメンだけの集団)の世界を構築したことも大きな勝因である。これは、男性のスポーツ漫画にはレギュラー以外にも対戦相手に男性キャラが多いため、同人誌でBL的な多様なカップリング創作が多発したチーム男子流行の流れの一つだった。これを逆転したのが、チーム女子化した新作ミュージカル『美少女戦士セーラームーンLa Reconquista』(2013年)と続篇『Petite Etrangere』(2014年)、『Un Nouveau Voyage』(2015年)である。『セーラームーン』のミュージカル版は、実は『テニミュ』以前、アニメ放映の翌年1993年から2005年まで上演されたロングラン作品である。しかしオール女性キャストにしたのは新作からで、男性キャラは、タキシード仮面の大和悠河はじめ、元宝塚出身が多く、ヅカファンを2.5Dのほうへ引き寄せた第一人者的2.5Dミュージカルでもある。
 そして、藤原も指摘しているように、一つの舞台で物語が完結せず、漫画やテレビアニメ連載よろしく、連載上演(ただし一つの舞台で一試合)がなされているのも『テニミュ』や『テニミュ』系作品の特徴である。同じアニメーションや漫画原作でも、ディズニーミュージカルは一つの完成した作品としてのアニメーション映画を、『スパイダーマン』などのアメコミは連載ではあるが一話完結物(一つの事件の発生と解決)をそれぞれもとにしているため、形態の相違が生じるのは必然なのだ。

余白、未完成性の美学

 舞台装置も簡素。ブロードウェーミュージカルなどの派手な演出もない。むしろ、キャラを際立たせる演出が優先されるため、完全に作り込まない「余白」こそが2.5Dミュージカル/舞台を楽しむ重要な要素である。
『テニミュ』の「空耳」がはやったのがその証左だ。「空耳」とは、まったく関係ないが、“そう聞こえる”セリフを映像に字幕としてつけ、「ニコニコ動画」などの動画投稿サイトにアップして楽しむビデオのことだ。キャストの滑舌の悪さ(つまり未完成なミュージカル俳優)にツッコミを入れ、ファンたちが楽しむわけなのだ。また、セリフを噛んだり、間違えたり(「カムヒ」=セリフを噛む日と呼ぶらしい)、ウィッグがずれるなどのアクシデントが起こったりと、一回性の体験は実に「おいしい」。観客たちは、ここぞとばかりに「ツイッター」やブログで情報発信し、楽しむのだ。未完成だからこそ、観客がツッコミを入れる余地があり、そのことによってパフォーマンスに参加できる。
 ストレートプレイでも、楽屋ネタやアドリブを入れたり舞台裏を披露したりといったお笑いショー的な要素があると、観客は一挙に引き込まれていく。キャラとしてキャラの個性や設定を逸脱しない程度に笑いを作っていくのは、二次創作的な演出といえるだろう。
 こうした“未完成”性は、決して既存のミュージカルや舞台に対しての優劣で語るような要素ではない。一つの特徴なのだ。観客参加型の文化が主流になってきている現在、2.5Dミュージカル/舞台の心地よい未完成こそが、人を引き付けてやまないのである。


(1)アニメーションとアニメの差異については、津堅信之『日本のアニメは何がすごいのか――世界が惹かれた理由』(〔祥伝社新書〕、祥伝社、2014年)を参照。
(2)伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005年、東浩紀編著『網状言論F改――ポストモダン、オタク、セクシュアリティ』青土社、2003年
(3)小田切博『キャラクターとは何か』(ちくま新書)、筑摩書房、2010年、120ページ
(4)田中東子「次元を超える愛――ファンたちは2.5次元キャラクターをどう愛好しているのか?」発表原稿、第2回「2.5次元文化に関する公開シンポジウム――声、キャラ、ダンス」横浜国立大学、2016年2月6日
(5)藤原ここあの同名漫画(2009―14年)が原作のアニメ。アニメの場合は声が統一されていることもキャラの自律性を担保する。漫画という視覚情報だけでもキャラの普通バージョンとチビバージョンで、読者の認識に混乱が生じることはほぼない。
(6)星野太「キャラクターの召喚――二・五次元というカーニヴァル」、「特集 2.5次元――2次元から立ちあがる新たなエンターテインメント」「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社、62ページ
(7)同論文65ページ
(8)藤原麻優子「「なんで歌っちゃったんだろう?」――二・五次元ミュージカルとミュージカルの境界」、前掲「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、68―75ページ、藤原麻優子「Does it Work?――2.5次元ミュージカルとアダプテーション」発表原稿、第2回「2.5次元文化に関する公開シンポジウム――声、キャラ、ダンス」横浜国立大学、2016年2月6日
(9)Lehman Engel, The Making of a Musical: Creating Songs for the Stage, Lomelight, 1986, p.98.
(10)前掲「Does it Work?」
(11)前掲「「なんで歌っちゃったんだろう?」」69ページ
(12)同論文70ページ
(13)同論文70ページ
(14)前掲「Does it Work?」
(15)『テニミュ』以前の漫画や、アニメ原作ミュージカル/舞台、2.5Dミュージカル/舞台の系統別リストについては前掲「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号巻末のやまだないと/上田麻由子+PORCh「2.5次元ステージキーワードガイド」(ただし2014年まで)を、キャストを含めた詳細は「特集 2.5次元へようこそ!」「ダ・ヴィンチ」2016年3月号(KADOKAWA、16―61ページ)を参照のこと。
(16)片岡義朗「アニメミュージカルの生みの親&「テニミュ」立役者 片岡義朗インタビューinニコニコミュージカル」「オトメコンティニュー」第3号、太田出版、2010年、81―91ページ
(17)松田誠「日本2.5次元ミュージカル協会代表理事松田誠インタビュー」、前掲「ダ・ヴィンチ」2016年3月号、61ページ

 

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第2回 木村拓哉と『さんタク』

太田省一
(社会学者。著書に『紅白歌合戦と日本人』〔筑摩書房〕、
『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版』〔ともに青弓社〕など)

ドラマからバラエティーへ

「星に当たってしまった少年」。前回は、宮崎駿が語ったこの言葉に導かれながら話を進めた。
 木村拓哉が主演したドラマに、「星」という言葉がタイトルに入った作品がひとつだけある。2002年にフジテレビ系で放送された『空から降る一億の星』である。『あすなろ白書』(フジテレビ系、1993年)、『ロングバケーション』(フジテレビ系、1996年)、『ビューティフルライフ』(TBS系、2000年)の北川悦吏子脚本による「月9」枠の恋愛サスペンスだ。
 放送前から大きな話題になっていたのが、木村拓哉と明石家さんまの初共演だった。しかもさんまは「月9」自体、初の出演だった。とはいえ、俳優としての実績はすでにあった。1986年に主演し高視聴率を挙げた『男女7人夏物語』(TBSテレビ系)である。このドラマは、独身男女のもつれる恋愛模様を都会の風俗を交えて軽快に描き、「月9」の代名詞となったトレンディードラマの原点ともされる。その意味ではさんまに「月9」との縁がないわけではなかった。
 そうしたなか始まったドラマでは、木村拓哉がフレンチレストランのコック見習い・片瀬涼、明石家さんまが刑事・堂島完三、深津絵里がその妹・堂島優子にそれぞれ扮し、殺人事件と3人の過去の秘密が絡みながら物語は展開していった。全話の平均視聴率が22.6パーセント、最終話がその年の連続ドラマで最高となる27.0パーセント(いずれも関東地区。ビデオリサーチ調べ)と数字的にも上々の結果を残した。
 そしてこの共演がきっかけで木村拓哉と明石家さんまは交流を深め、2人による番組が企画される。2003年に始まり、いまや毎年正月恒例となっているバラエティー特番『さんタク』(フジテレビ系)である。
 この番組、お互い未体験なことや苦手なことに挑戦するというのが一貫したコンセプトだ。何をするかを決めるトーク部分から始まり、実際に挑戦し、その余韻のなかでのエンディングでは木村拓哉がギターを手に弾き語りを披露するなど、正月番組ということもあって2人のリラックスした表情を見ることができる。
 その際、未体験なものに挑むということから、お互い相手のフィールドへの挑戦が企画になることもある。2015年の放送では、さんまがSMAPのツアーのステージにサプライズ登場し、木村拓哉と「アミダばばあの唄」をデュエットした。
 そして今年2016年の放送では、そのアンサー企画ということで木村拓哉が吉本の本拠地である劇場なんばグランド花月でさんまとともに人生初の舞台コントに挑むことになった。『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)でコント自体は数多くこなしているが、生の観客がいる舞台でのコントには、まったく違う緊張感があるのだろう。さんまと2人でアリクイに扮してのコントだったが、その緊張は終始見ている側にも伝わってきた。だが本番は初めてということを感じさせない出来栄えで、客席も大いに盛り上がるなかで無事終了した。
 SMAPの他のメンバーがそれぞれレギュラーのバラエティー番組があるのに対し、現在木村拓哉個人にはない。しかし、ちょうど20周年を迎えた『SMAP×SMAP』などで見せてくれるコントやトークでの姿も彼を知るうえで忘れてはならないものだろう。そこで今回は、木村拓哉にとってのバラエティーとは何なのか、そしてそこに見て取れる彼ならではの魅力を探ってみたい。

録画再生能力

『空から降る一億の星』で木村拓哉が演じる片瀬涼には、物語のうえでも鍵となる特殊な能力がある。それは、どんなものでも一度見たら正確に記憶する能力である。例えば、ラックに並べられた数十のビデオパッケージのタイトルを一瞬見ただけで覚え、それが崩れてしまっても元の順番どおりに並べ直すことができる。
 実は面白いことに、それと似たようなことを木村拓哉は自分自身についても語っている。それを彼は“録画再生能力”と呼ぶ。つまり、「映像を頭に焼き付けて、再現する」ことができるというわけである(木村拓哉『開放区』集英社、2003年)。
 さんまは今年の『さんタク』のなかで「お前は覚えが早いから1日2時間だけ稽古すればいける」と言っていたが、この“録画再生能力”は、木村拓哉がさまざまな場面で私たちに感じさせてくれる勘のよさの秘密なのかもしれない。一つひとつ順を追って習得していくのではなく、全体を一気に把握することができる。例えば、彼の趣味のひとつであるサーフィンについてもそうだ。「波乗りに行く前は、プロのサーファーのビデオを見てから行く。自分が海に入ったときに、「ああやって、波に対して構えてたな」とか、「こうやってからだを傾けてたな」っていうのを思い出してやってみる」(同書)
 当然それは、ドラマなどでも役に立つ能力だろう。実際、木村拓哉は、セリフを覚えるときには一度頭のなかでストーリーの流れを自分なりにビジュアル化したり、台本のページそのものを頭のなかに入れたりするという(同書)。
 前回、木村拓哉にはプレーヤーとしての矜持があるということを書いた。彼にとって、プレーヤーであることは他のどのポジションにも代えがたい喜びである。この話もまた、そんなプレーヤー・木村拓哉の姿勢を示すものにちがいない。作家なり脚本家なりが作った世界観のなかに入り込み、そのなかで与えられた役柄を全うすること。そのことを楽しみ、また同時に自分に課している姿がうかがえる。
 そしてその能力はおそらく、ドラマや映画だけでなく、バラエティーにも生かされているはずだ。
 それを実感させる場面は、『さんタク』にもあった。コントの事前の打ち合わせのときのことだ。木村拓哉は、明石家さんまから共演する次長課長・河本準一の持ちギャグである『サザエさん』のマスオさんのセリフ「えぇーっ!?」の物真似をやるように言われた。突然言われて驚く木村拓哉。だが彼は、即座にそれを完璧にやってみせた。
 振り返ってみても、『SMAP×SMAP』の初期の名作コントのひとつ「古畑拓三郎」などもそうだった。田村正和扮する古畑任三郎の物真似をする人は少なからずいるが、あそこまで“完コピ”できた例は、そうないだろう。あるいは、ドラマ『探偵物語』(日本テレビ系、1979―80年)の松田優作を真似た「探偵物語ZERO」の工藤や小室哲哉の独特のクネクネした動きを見事に再現したフラワーTKなども同様だ。
 そこには、単なるパロディーというだけにはとどまらない、対象に没入し、同化してしまうような観察眼の鋭さが感じられる。だがそうしたことも、彼の“録画再生能力”のことを知れば十分納得できる。物真似をすることは、その意味では台本を覚えることと同じなのだ。

現場の人・木村拓哉

 しかし、それをただコピー能力が高いというだけで片づけてはならないだろう。それは大前提としてあり、さらにそれ以上のものを見せてくれるところにプレーヤー・木村拓哉の本領はあると思えるからだ。
 なんばグランド花月でのコントのときにも、そんな場面があった。朝5時のカラオケ屋という設定。疲れて寝ているさんまと河本、そして木村拓哉。ふと目覚めて「いま何時?」「女の子たち、もう帰った?」というフリのあとに木村拓哉が「うわっ、さっきの娘たちから、すごいライン来てる」とアドリブを発すると会場は爆笑に包まれた。
 プレーヤーであるとは、現場の人であるということだ。人生初の舞台コントの緊張感のなか、木村拓哉は実際始まってみたら観客の反応をギャグにしたりするなど、ライブでの強さを随所に感じさせた。その象徴が、このアドリブだったといえるだろう。
 ただ木村拓哉にとって現場とは、こうした観客がいるような場だけを指すのではない。
 何度か裏話として語られていることだが、『SMAP×SMAP』のスタジオ収録の際、木村拓哉は待ち時間でも楽屋に戻らず、スタジオ前の控え場所である前室にずっといるという。そこもまた彼にとっては現場だからだ。「基本、出演者の役割は現場にいることだと思ってるから。本番だけが仕事じゃない。セット転換だったりコーナーが変わったりしているスタジオ内の動きを感じていたいし。メークさんや美術さんとちょっとコミュニケーションをとれるところにいたいってのもあるかな」(『SMAP×SMAP COMPLETE BOOK――月刊スマスマ新聞VOL.2~RED~』〔TOKYO NEWS MOOK〕、東京ニュース通信社、2012年)
 ここでも、木村拓哉のプレーヤーとしての意識は一貫している。本番中だけでなく、収録の準備にスタッフが働いている場所もまた、彼にとっては現場である。「何を食うか、何をしゃべるか、何を歌うか。考えてくれるのもスタッフだし。スタッフがいて、初めて成り立っていることだから」(同書)
 スタッフへの感謝の念も当然あるだろう。同時にこの言葉からは、セリフがすべて台本で決まっているわけではないバラエティーで、出演者、つまりプレーヤーとしてどのような立ち位置にあるかを彼が常に自覚していることがわかる。
 そこからひとつ出てくる答えが、視聴者目線に立つということだ。「自分がスマスマの中で発する言葉とかって…なんか全然、業界目線じゃないんだよね(笑)。ホントに、視聴者の人を代表してしゃべってるような感じかな」(同書)
 海外からの有名スターや普段ほとんどテレビに出ないようなアーティストが出演することも多い『SMAP×SMAP』で、木村拓哉が見せる反応は確かに驚くほど素直である。特に「やっべえ」とか「すっげえ」とかいった感嘆詞が発せられる頻度は、他のSMAPのメンバーよりもかなり多い印象だ。それはきっと、彼が「視聴者の人を代表」することをどこかでいつも意識しているからなのだろう。そしてそのことによって、テレビの前の私たちも彼らと同じ現場の人になることができるのだ。

下ネタの意味

 バラエティーでのそうした姿からは、木村拓哉の「素」の部分も垣間見える。それは、「カッコいい」という言葉で括られがちな木村拓哉という存在の、違う人間的魅力を教えてくれる。
 例えば、2014年のフジテレビ『FNS27時間テレビ』がそうだった。SMAPが総合司会を務めたこの年、深夜恒例の「さんま中居の今夜も眠れない」のコーナーに中継で登場した木村拓哉は、セクシー女優相手に“暴走”した。ハニートラップにかかり、痛い目に遭った経験をもつさんまのために安全なセクシー女優を紹介しようというコンセプト。そこで木村拓哉は居並ぶセクシー女優を相手に下ネタお構いなしで仕切り、むしろさんまや中居正広があわてて抑えようとしたくらいだった。
 その中継が終了したCM明けのこと。「さんまさんに楽しんでもらうために身を削って頑張ってくれた」と中居がフォローすると、さんまは「身を削ってないよー、あいつ。あいつ、あんなんやで」と返す一幕もあった。
 このさんまの言葉は、木村拓哉のラジオ番組『木村拓哉のWHAT’S UP SMAP!』(TOKYO FM)を聞いているファンであれば、大きく頷けるものだったかもしれない。
 1995年に始まったこの番組では、彼の飾らない魅力が存分に楽しめる。その象徴が下ネタで、女性の下着の好みについて事細かに語ったり、自分の性の目覚めに絡んでボディコンブームの思い出を語ったりとほとんど定番化しているといってもいい。
 そこから伝わってくるのは、彼の等身大的な少年の部分だ。聞いているのは同性ばかりではなく、むしろ当然女性のほうが多いだろう。しかし、そこには思春期の少年が同年代の友人同士で交わす下ネタのノリが感じられる。『27時間テレビ』の“暴走”も、そうしたかわいげを感じさせる部分があったからこそ笑いに昇華できたのだろう。
 このラジオの仕事で木村拓哉と知り合った放送作家・鈴木おさむは、同じ1972年生まれの同級生、まさに同年代の友人だ。そんな鈴木おさむとの何げない会話のなかから生まれたコントが、『SMAP×SMAP』の人気キャラクター「ペットのPちゃん」である。「移動で飛行機に乗ってる間、おさむとずっと「こういうやつが、こんなことして、こんなこと言ったら、面白くない?」と話していって。(略)ピンクの犬の着ぐるみを着てるやつなんかも、飛行機のなかでずっと話して作ったもののひとつだよね」(「Bananavi!」vol.001、日本工業新聞社、2014年)
 Pちゃんのコントも、ご存じのように下ネタのノリがベースにある。このキャラクター、木村拓哉扮する犬のPちゃんが飼い主である稲垣吾郎扮するパパの目を盗んでママや遊びにきた女性ゲストに突然人間の言葉を話し、誘惑し始める。
 こうした下ネタは『SMAP×SMAP』には珍しく、当初はコーナー前に「大人の方のみご覧頂けます」とのクレジットも出ていたほどだ。最近では主婦の不倫を描いて話題になったドラマ『昼顔――平日午後3時の恋人たち』(フジテレビ系、2014年)のパロディーコント「昼顔」もあるが、「ペットのPちゃん」は番組開始直後の1996年5月から始まっている。となると、下ネタはやはり、年齢に合わせた題材の変化というよりは、木村拓哉の「素」の部分からくるものであることがうかがえる。

色気のありか

 また木村拓哉は、自分でも認めるように「エロい」という表現をよく使う。しかしこの場合は、単なる下ネタとは違って、人がもつ色気を木村拓哉流に表現したものだ。年齢に関係なく、「向こうに何があるのか見たかったら、多少の塀ならよじのぼっちゃうような感じ」(木村拓哉『開放区2』集英社、2011年)と木村拓哉はそれを例える。いかにも冒険心あふれる彼らしい表現だ。
 そしてそういう人に多く出会えるのは、仕事の現場だという。「それぞれのパートで、それぞれ担っている責任を、個性を駆使して果たしている。おもしろいボキャブラリーを持っているし、引き出しも多い。名刺なんて必要なくつき合える」。つまり、「根っこの部分の人間的魅力」があってこその色気なのだ(同書)。
 ではそんな色気はどうすれば醸し出せるのか? 木村拓哉はこう答える。「それは自分の足で動いて、いろんなものを見て、たくさん感じること。たぶんライブの動きひとつにしても、憧れたアーティストのステージングを見たからこそ生まれるものだろうし、被写体になるときも、好きな写真集を見てなかったらできない表情をしてるかもしれない」(同書)
“録画再生能力”は、こんなところにも発揮されているといえるだろう。ライブのステージングやカメラの被写体になるときの表情。当然ドラマや映画でひとつの役柄を演じるときもそうだろう。そしてコントでも。
 そう言われると、木村拓哉のコントキャラクターは一様にどこか「エロい」。パラパラブームに一役買ったバッキー木村や「ホストマンブルース」のホスト・ヒカルのような設定からしてそのようなキャラクターはもちろんだが、「スマスマ高校メガネ部っ!」のキャプテンのような、瓶底メガネに奇妙なカツラという扮装をした、気弱そうなキャラクターでもそうだ。このキャプテンのイメージは、木村拓哉が描いたスケッチがもとになっているという(『SMAP×SMAP COMPLETE BOOK――月刊スマスマ新聞VOL.3~BLUE~』〔TOKYO NEWS MOOK〕、東京ニュース通信社、2012年)。その点、ここでも彼の記憶の蓄積、“録画再生能力”が一役買っているのだろう。
 またあでやかさという意味では、いくつかの女性・女装キャラも思い浮かぶ。「竹の塚歌劇団」の愛ゆうき、「ギャル店員シノブ」のシノブなど、性別を超えて「きれい」という表現がぴたりとはまる。2005年の『さんタク』では、ビヨンセのプロモーションビデオを再現するという企画で自らビヨンセに扮し、さんまやスタッフをざわつかせる場面があったことも思い出す。
 なるほど、こうしたキャラクターが残すインパクトは、彼がもつビジュアルの力があってのものだろう。ただ、コントの基本はキャラクターを演じきることだ。「ちょっと1回タンマ」など若者には意味不明な言葉を使ってしまい、46歳という本当の年齢がばれそうになるが、息子の高校受験の費用が必要なために必死に取り繕うシノブなど、おかしくはあるが「根っこの部分の人間的魅力」にあふれている。だからこそ、木村拓哉が演じるキャラクターはどれも、鮮やかでオリジナルな印象を私たちに残すのではないだろうか。

偶然の一致

 SMAPがデビュー当時、歌番組の減少もあってなかなか軌道に乗れずバラエティーに活路を求めたことは、いまや知る人ぞ知るところだろう。それは、アイドルが本格的バラエティーに取り組むことなど、まだ前例がない時代のことだった。
 当初、木村拓哉のなかでは、バラエティーに出ることは「人に笑われる」という感覚が抜けきれず、抵抗が強かったという。だがお笑い芸人たちとの出会いが、彼を変える。「すごい努力だったり、すごい感覚だったりがないと、人を笑わせることはできない」(前掲「Bananavi!」vol.001)、そう考えるようになったのである。
 それは、「一番最初に密接に知り合ったのが、いきなりさんまさんだったから、なおさら強く感じ」たことでもあった(同誌)。その意味で、「叔父貴」と呼んで慕うさんまとの『さんタク』でのコント共演は、「いままでかいたことのない汗をかいた」とコント後に振り返った木村拓哉にとって、記念すべき一ページになったにちがいない。
 そして木村拓哉は、「“人を泣かせる”ということと、“人を笑わせる”っていうことは同じなんだな」といつしか思うようになった(同誌)。つまり、ドラマとバラエティーは、本質的に変わらない。
『空から降る一億の星』で木村拓哉扮する片瀬涼は、幼いころに父親を失った出来事がきっかけで施設に育ち、人を愛することができないでいる。父親の死の場面も、そのとき受けたショックがもとで思い出せない。だが、明石家さんまと深津絵里扮する兄弟と運命の糸が絡み合うなかで、あるとき彼は“録画再生能力”を取り戻し、父親の死の場面をまざまざと思い出す。しかしそのことによって物語は悲劇的な結末へと向かっていく。
 その結末を迎える直前の場面、木村拓哉が見せる演技が強く印象に残る。深津絵里扮する堂島優子との出会いによって人を愛することを初めて知った片瀬涼は、それまで見せていた冷酷なまでにクールな表情とは一変し、最後の最後に涙ぐみながら優しく彼女にほほ笑む。その泣き笑いの表情が、美しくも哀しい。
 それは、このドラマの主題歌であるエルビス・コステロの「スマイル」が歌う歌詞を思い出させる。「ほほ笑んで 心が痛くても ほほ笑んで 心が折れそうになっても」と歌いだすこの歌もまた、喜びが悲しみや苦しみと背中合わせのものであり、でもだからこそほほ笑もうとささやきかける。ドラマのラスト、一人残された明石家さんま扮する堂島完三が、涼と優子の2人が残していったカセットテープから流れる「見上げてごらん夜の星を」を聞き号泣したあと、何かを吹っ切るようにほほ笑むシーンも、そのことを暗示する。
「スマイル」は、もともと映画音楽として作られた。作曲したのは喜劇王と呼ばれるチャールズ・チャップリン。自らが主演した映画『モダン・タイムズ』(1936年)で使われた曲である。その後歌詞付きのバージョンができ、多くのアーティストによってカバーされてきた。エルビス・コステロもそのひとりだ。
 そしてチャップリンを尊敬する人に挙げるのが、中居正広である。SMAPが結成されてまだ間もないころ、チャップリンの『街の灯』(1931年)を観て感動した中居正広は、チャップリンの伝記のなかで「喜怒哀楽の中でいちばん難しいのは、人を喜ばせること、笑わせることだ」という一文に出合い、バラエティーの道を究めようと決意する(「中居くん日和」「ザテレビジョン」1997年8月29日号、角川書店)。
 バラエティーに真摯に取り組むなかで木村拓哉が得た「“人を泣かせる”ということと、“人を笑わせる”っていうことは同じなんだな」という思い。それは、中居正広が出合い、彼を動かしたチャップリンの言葉と確かに響き合っている。こうして2人は、それぞれ別の道筋をたどりながらも、同じ場所に行き着いたのだ。その偶然の一致に、私はSMAPというグループが作り上げるエンターテインメントの本質、そして深さを垣間見た思いがした。

 

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風化させてはならない宝塚の記録――『白井鐵造と宝塚歌劇――「レビューの王様」の人と作品』を書いて

田畑きよ子

 白井鐵造は、いまも歌い継がれる「すみれの花咲く頃」の訳詞者であり、宝塚歌劇一筋にその基礎を築いた人物でもある。そのために白井の研究者は後を絶たず、さらに、白井の自伝『宝塚と私』(中林出版、1967年)、そして、愛弟子の高木史朗『レビューの王様――白井鉄造と宝塚』(河出書房新社、1983年)が刊行されていて、白井論は出尽くした感がある。それなのに、なぜいまさら、白井鐵造なのか? 
 大阪にある阪急文化財団池田文庫を退職後、3年かけて白井と向き合ったのにはいくつかの理由がある。その一つには、胸中に多くの“なぜ”が渦巻いていたからである。例を挙げれば、13歳で故郷を離れて染め物会社に奉公に出た白井が、なぜ音楽の道を志したのか。どのようにして宝塚へとたどり着いて、豪華絢爛の「夢世界」を築き上げたのか、その経緯は明白ではなかった。「すみれの花咲く頃」の元歌は「リラの花咲く頃」、しかし、なぜ、白井は「リラの花」を「すみれの花」に置き換えたのか。その誕生秘話は明かされず、ずっと歌は独り歩きしてきた。いわば肝心要の節目が曖昧なのである。これらを資料に基づいて明らかにしてみよう、白井の業績を一本の線につないでみたいと考えたのが、本書執筆のきっかけである。
 それは取りも直さず、白井が残した約1万3,000点に及ぶ資料群のなかの、パリ留学の際に舞台を観て記録をつづったノートやパリのミュージックホールのプログラム類、洋雑誌などの整理に携わった証しでもある。白井が生前に集めていた資料群をめぐっては、白井が住んでいた伊丹市と阪急電鉄がちょっとした争奪戦を繰り広げて、当時、新聞でも話題になっている。結局、白井の遺言が決め手になってそっくり池田文庫に寄贈された。実際に、1984年(昭和59年)2月23日にダンボール160個分をトラック6往復で搬入したと記録に残っている。
 こんな経緯で受け入れられたにもかかわらず、和図書以外の資料は未整理のまま書架に積まれていたようだ。皮肉にも、私がこれらの資料と出合ったのは、1995年(平成7年)1月17日の未明に起こった阪神・淡路大震災がきっかけだった。書庫内の書架が崩れて本や雑誌や資料は床に飛び散り、余震のたびに本が落ちてくるような状態だった。しばらくして運び出し作業が進められて、それらは閲覧室や展示室に並んだ。白井の資料はそのなかにあった。寄贈を受けてから11年もたっていた。司書としてのノウハウを教えてくれた先輩がシャンソンの楽譜の整理を担当し、それ以外の雑多な資料類は私が受け持った。こうしてみると、白井の原資料にいちばん近いところにいた者として、白井の業績を一本の線につなぐ仕事は、いわば天命というべきものだったのかもしれない。整理作業それ自体が大変な労力を要するものだったが、その作業が白井鐵造研究の何よりの絶好の機会であり、そのチャンスをこのような形で本書に生かせたことは、感謝すべきことだと思っている。

 白井が亡くなったのは、1983年(昭和58年)12月である。没後30年以上もたっているのだから、風評が流れて憶測が乱れ飛び、本来の白井鐵造像は見失われている。真の姿をあぶり出すには、資料をよりどころに論を編むこと以外に方法はない、と私は考えた。もともと司書や学芸員として仕事を重ねてきたので、それは当然のことなのだが、意外に労力を要して困難を極めた。とはいえ『パリゼット』(月組、1930年)や『花詩集』(月組、1933年)、『虞美人』(星組、1951年)などの主立った作品に関するコピーは、「白井鐵造生誕百年展」(2000年)の企画の際にファイリングしていた。もう一つの味方は、「宝塚歌劇90周年展」(2004年)を担当したとき、「歌劇」や脚本集(一時期、小林一三や白井などの論考が載っている)などを創刊号から92年(平成4年)頃まで読み通していたことである。歴史をきっちりととらえたいという思いから試みたのだが、雑誌名と執筆者、発行年月を記して、記事の要点も入力している。今回、これが大いに役立った。しかし、引用したくても発行年を書き忘れていたり、雑誌名があやふやで資料に届かなかったりすることもあった。さらに、「歌劇」の読書投稿欄「高声低声」や小林一三が大菊福左衛門のペンネームで「歌劇」誌上に掲載していた辛口の公演評を中心に、今回改めて調査した。こうして、駆け引きなしの白井の人と作品が浮かび上がったのである。これは、白井鐵造がファンの声に一喜一憂しながら成長していった記録でもあり、同時にタカラヅカの出版物の歴史でもあるのだ。歌劇団当局が、各方面の批評家の意見や読者の声を、その酷評さえも克明につづってきたからこそなしえた仕事である。
 70歳のデビュー作である本書はことのほか難産だったが、いざ産声をあげてみると、驚くほどの好評価で迎えられた。「風化させてはならない貴重な記録」「今後長きにわたって宝塚研究者の進む道を照らすもの」などの葉書が届いた。また、本書には演出家による称揚を所収しているが、その一人の岡田敬二先生からは、「すごい労作! 感動して二回も読みましたよ」というメッセージをいただいた。友達からは「根性と努力に乾杯!」と花が届き、白井の厳しい指導ぶりを語ってくれた宝塚OGからは激励の電話や手紙が相次いだ。まだ身内の範囲ではあるが、小さな波紋が広がりつつある。
 やっと完成した自著を改めて読み返してみると、タカラヅカってすごい! 100年の歴史を築くのに、どれほどの汗と涙と根性と努力があったかを実感できるのである。宝塚の歴史の深さにいちばん感動したのは、実は、こうして白井の足跡をつづった私なのかもしれない。
 
「読売新聞」2016年2月13日付夕刊が「パリを歌う すみれの花」と題して、「花の種類を変えた背景に、「すみれこそがパリを象徴する花」という白井の強い思いがあったこと」を田畑きよ子が突き止めた、と社会面に大きく取り上げてくれた。「白井は、すみれを野に咲く控えめな花ではなく、レビューの本場を代表する花として捉えていた」ことを「宝塚グラフ」(1973年1月号、宝塚歌劇団出版部)の記事から発見したと報じている。この新聞記事と拙書を、毎日放送の浜村淳さん宛てに送ったら、「白井先生とは、宝塚の花の道ですれ違ったことがある。あのときお話をしておけばよかった……」と、ご本人から直接電話をいただいた。翌日のMBSラジオ『ありがとう浜村淳です』では、「よく調査されている。本を読んでから舞台を観るとまた違った観劇が楽しめる」と紹介してくださった。
 タカラヅカは、歌舞伎のように代々芸を引き継いでその芸を極めていくというようなことはないが、個々の、それぞれの個性的な演技が光る。そしてスターもいつかは卒業してトップも次々に変わっていく。だからこそ、宝塚はいつまでもフレッシュさを失わない、という構図が成り立つ。そのぶん宝塚は新陳代謝が激しい、花の短い命を競い合うような集団であり、ここに宝塚の人気の秘訣がある。こうしたアマチュアリズムが根底にある宝塚だからこそ、美しい色彩と甘美な音楽が似合い、歌あり、舞いあり、演技ありの舞台が、新時代の演劇として成り立ったのである。
 白井が育ててきた宝塚レビューは、新たな発展の道を歩み続けている。これが宝塚歌劇100年の歴史に、そして次の100年へとつながる道なのだ。本書は、白井の過去の栄光にスポットを当てて昔を懐かしむものではない。原点に戻って、「宝塚とは何か」と考える機会になれば幸いである。
「文字が小さい」「内容が濃くてなかなか読み進まない」という声が届くが、書くのに3年かかったのだから、3年かけるつもりでじっくりと読んでほしいと思っている。

第1回 木村拓哉と『ハウルの動く城』

太田省一
(社会学者。著書に『紅白歌合戦と日本人』〔筑摩書房〕、
『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版』〔ともに青弓社〕など)

はじめに

 2014年から15年にかけてこの青弓社ウェブサイトで連載された「中居正広という生き方」は書籍にもなり、幸いなことに多くの方に手に取っていただくことができた。当たり前と言われるかもしれないが、私自身改めて中居正広という存在、そしてSMAPというグループへの関心の高さを実感させられた。
 そして今回、「木村拓哉という生き方」と題し、新しい連載を始めることになった。「次は木村くんで」というありがたいリクエストもいただいたと聞いている。この連載でも、中居正広のときと同様、毎回違った角度から木村拓哉その人にスポットを当て、その魅力に迫っていきたいと思う。
 中居正広と木村拓哉。この2人はSMAPでは「ツートップ」と称される。SMAPは個々自立したエンターテイナーの集合体であり、だからこそ芸能史に残る稀有なグループでもある。とはいえ、2人はともに1972年生まれの同い年でグループの最年長ということもあり、グループを長年牽引する立場にあった。またそうして注目される分、SMAPをめぐるさまざまな出来事のなかで、ときには社会やメディアからの声の矢面に立ってきた2人でもある。今年2016年に入って巻き起こった騒動でもそうだったことは、いまさら思い出すまでもないだろう。
 一方、個人としての木村拓哉は、1990年代から時代を象徴する特別な存在であり続けている。「キムタク」という誰もが知る呼び名は、その産物でもある。そのような存在になり始めた頃、彼は「“キムタク”って、どうやら公共物らしい」とエッセーに書いた(木村拓哉『開放区』集英社、2003年)。そこには、自分という存在が自分の手を離れて一つの社会現象になっていることへの戸惑いのようなものがひしひしと感じられる。その気持ちは、私には想像がつかない。だが木村拓哉は、「キムタク」という第2の名前との付き合い方をそのうち身につけ、現在にいたるまでその特別な地位を保ってきた。
 それは取りも直さず、木村拓哉が「スター」だということだ。彼を語るうえで、そのことは外せない。だからここから木村拓哉をめぐる私の話を始めることにしよう。

スターとアイドル

「スター」と呼ぶにふさわしい存在は、今日それほど多くはない。かつて娯楽の王様が映画だった時代には、きらびやかな“銀幕のスター”たちが時代を彩った。その後テレビの登場は、「スター」に代わって「アイドル」という存在を生み出した。遠く手が届かない存在ではなく、すぐ身近にいそうな親しみがある存在。世の中はいま、いたるところアイドルであふれかえっている。
 そんな時代にあって木村拓哉は、数少ないスターの一人だ。
 主演ドラマが放送されるたびに、視聴率のことが注目されるのもその一つの表れだろう。当然彼は、視聴率のために演じているわけではない。そこだけを取り上げられるのは心外なことにちがいない。ただ、これまで彼の主演ドラマがその面で飛び抜けた実績を残してきたのも事実だ。『HERO』(第1期、フジテレビ系、2000―01年)が34.3パーセント、『ビューティフルライフ』(TBS系、2000年)が32.2パーセント、『ラブジェネレーション』(フジテレビ系、1997年)が30.8パーセント(いずれも平均視聴率)など、いまではちょっと考えられない数字である。いわばテレビ時代の「ドル箱スター」的な存在だ。
 そこにはやはり、誰もが認める「カッコよさ」がある。それは、映画時代のスターがそうだったように、無性にまねしたいという気持ちを起こさせる。それもまた、木村拓哉がスターであることの証明だろう。
 1990年代には、トレードマークだったロン毛をまねる若者が続出した。あるいは、ドラマで彼が身に着けたファッションがはやることも、『HERO』のレザーダウンジャケットなどをはじめ、これまで一度だけではない。『ロングバケーション』(フジテレビ系、1996年)の彼の演奏姿を見てピアノ教室に通う男性が増えたという「ロンバケ現象」もあった。
 さらにその影響は、人生の選択にまで及んでいる。木村拓哉がドラマで演じた職業に憧れた人々が、その道を選ぼうとする。『ビューティフルライフ』を見て美容師への道を進み、『GOOD LUCK!!』(TBS系、2003年)に感化されて航空業界への就職を目指す、というようなことが起こる。木村拓哉自身、彼のドラマに影響されてその役柄の職業に実際に就いてしまった人たちと番組で対面し、思わず感極まったこともあった(『HERO THE TV』フジテレビ系、2015年7月18日放送)。
 しかし、木村拓哉はSMAPの一員であり、そのためアイドルでもある。むしろアイドルの代表といってもいいだろう。そんな彼には、ただ「カッコいい」だけではない、ラジオでの飾らない話しぶりやコントで見せる面白い一面などさまざまな顔がある。それは、木村拓哉という存在の親しみやすさ、つまりアイドル性につながっている。
 ただ、それでは先ほど述べたことと矛盾してしまうかもしれない。少なくともスターであることとアイドルであることは、まったくイコールではない。だが実際、木村拓哉は、スターでありながらアイドルでもあるという、芸能史を振り返ってもあまり類を見ない存在としていまも活躍し続けている。そこに私などは強く引き付けられる。そしてまた、そんな2通りの顔をもつ彼をファンや時代がなぜ求め続けてきたのかを知りたい気持ちにもなる。
 私たちにとって木村拓哉とはいったいどのような存在なのか? これから話を進めていくなかで、彼の魅力とともにその答えに少しでも近づければと願っている。

「星に当たってしまった少年」

 このように書いてきて思い出すのは、宮崎駿の「星に当たってしまった少年」という言葉だ。
 それは、2004年公開の宮崎作品『ハウルの動く城』(以下、『ハウル』と略記)にまつわる。この作品、ご存じのように美しい魔法使いの青年ハウルの声優を木村拓哉が担当したことで大きな話題になった。
 宮崎作品の長年の大ファンでもあった彼は、『ハウル』への出演が決まり初めて宮崎駿に会った。その際、宮崎が木村拓哉にかけた言葉が、「彼(ハウルのこと)は「星に当たってしまった少年」なんですよ」というものだった。まだこれから声を入れる前の段階だった木村は戸惑ったものの、その一言を胸に声撮りに臨んだ(『木村拓哉のWhat’s UP SMAP』TOKYO FM、2013年9月27日放送)。
「星に当たってしまった少年」。その意味するところを映画にしたがっていえば、こうなる。
『ハウル』の物語の大きな鍵になるのが、ハウルが火の悪魔カルシファーと交わした契約である。本人たちは、内容もわからないままその謎に縛られている。それを解く役目を担うことになるのが、少女ソフィーである。物語の終盤、彼女はふとしたきっかけでハウルの子ども時代に迷い込み、そこで契約の秘密を知る。少年ハウルは、流れ星になって落ちてきたカルシファーに当たった瞬間、命が尽きかけようとしていたカルシファーを飲み込み、自分の心臓を与えて救ったのだった。もとの世界に戻ったソフィーは心臓をハウルのもとへと戻し、ハウルとカルシファーをともに危機から救い出す。
 私のなかで、そんな「星に当たってしまった」特別な運命をもつハウルは、木村拓哉そのものなのではないかと思えてくる。
 例えば、ハウルはその美しい容姿で街の女性たちの評判になっている。だが魔法使いゆえに「美女の心臓を取って食べてしまう」というよからぬ噂も立っている。そんなある日、ソフィーは男たちにしつこく絡まれているところを見知らぬ美青年に助けられる。それがハウルとの出会いである。まさに少女漫画的ラブロマンスの王道的展開であり、ハウルというキャラクターは、「いい男」の代名詞・木村拓哉を彷彿とさせる。
 とはいえハウルは、ただの美しい王子様的キャラクターとして描かれているわけではない。ソフィーはハウルのことをこう語る。「わがままで臆病で何を考えているかわからないわ。でもあの人は真っすぐよ。自由に生きたいだけ」
「自由に生きたいだけ」の「真っすぐ」な人。これほど木村拓哉という人を形容するのにぴったりと思える表現もないだろう。例えば、『NHK紅白歌合戦』で北島三郎が「まつり」を歌うたびにひときわ目を引く熱さで盛り上げようとする彼は、とても真っすぐで自由だ。どんなときでも全力で手を抜かず、だからときどき熱くなりすぎるほどかもしれないが、そうだからこそ人一倍頼りがいがある。木村拓哉はそんな人なのではないだろうか。
 スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫が語る次のようなエピソードにも、そんな彼の人となりが表れている。『ハウル』の声の収録中、木村拓哉はセリフを事前にすべて頭に入れ、スタジオにはいっさい台本を持ち込まなかった。アニメでは、声優が台本を読みながら収録するという光景が当たり前だった鈴木は、その真剣さに「何という真面目な人か」と感嘆したという(『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』TOKYO FM、2012年11月30日放送)。

アニメ少年・木村拓哉の冒険

 実際、木村拓哉とアニメの関わりには想像以上に深いものがある。
 例えば、鈴木敏夫はこんなエピソードも披露している。
『ハウル』の声優を選ぶにあたって、ハウル役だけがなかなか決まらなかった。そんなとき、ジャニーズ事務所のほうから木村拓哉がジブリ作品に何らかのかたちで参加したい希望をもっているという話があった。そこで鈴木は、木村拓哉にハウル役をオファーする。ただ、それまでのジブリ作品の配役でもそうだったように、木村拓哉のドラマや映画を前もって見るということを鈴木はまったくしなかった。そのため「うまくいくかなあ」と収録初日までドキドキしていた。だが、木村拓哉の第一声を聞いてその不安も消し飛んだ。横にいた宮崎駿も思わず喜んでいたという(同番組)。
 木村拓哉ファンであれば、そんな鈴木の不安は最初から無用だったと思うかもしれない。というのも、自分の側からジブリ作品への参加を望んだように、木村拓哉のアニメ愛は並々ならぬものだからだ。
 それは、『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の企画「ONE PIECE王決定戦」をごらんになったことがある方ならば納得がいくだろう。いままで7回放送されたこの企画、漫画・アニメの『ONE PIECE』(尾田栄一郎)のマニアックな知識を競うクイズだが、基本は木村拓哉とほかのゲストとの対決である。いずれも『ONE PIECE』好きを自任する人たちが登場するが、それでもこれまで木村拓哉が5回優勝と断トツの成績である。バラエティー的には、『ONE PIECE』を読んだことも見たこともない稲垣吾郎と草彅剛が「見届け人」として脇からさめた発言をするところがまた、木村拓哉の熱さを際立たせる。
 そんなアニメへの情熱は、少年の頃から変わっていないようだ。「小さい頃から、いつも何かのアニメ作品がそばにいてくれた。夕方観たいアニメが必ずあって、間に合わせようとして、すごいスピードで帰ってたからね」(木村拓哉『開放区2』集英社、2011年)
 子どもの頃であれば、好きなアニメに夢中になるのも珍しくはないかもしれない。しかし、アニメで見たことをそのまま現実にやってみようというまでになると話は別だ。木村拓哉は、そんな冒険心旺盛な少年だった。「『ルパン3世』を観ていた頃、「チャリンコで遊んでるとき「そういえばルパンは、こういう崖、ヘーキで下りてたよな」って真似した」こともあった。もちろん怪我したけどね」(同書)
 同じような話は、2015年12月に放送された『さんま&SMAP! 美女と野獣のクリスマススペシャル’15』(日本テレビ系)でもあった。明石家さんまとSMAPのメンバーが各自嫉妬するほど憧れの人物を発表するという企画である。そこで木村拓哉がムツゴロウ王国の石川さんと並んで挙げたのが、実在の人物ではなくアニメ『トム・ソーヤーの冒険』(フジテレビ系、1980年)の主人公、トム・ソーヤーだった。
 トム・ソーヤーの世界に憧れた当時小学生の木村少年は、アニメに出てきた冒険を実際に自分でもやってみようと思い立つ。巨大な発砲スチロールを発見すると、それをいかだがわりにして川下りをして沖に流されそうになる。また釣った魚をたき火で丸焼きにして食べる。それが通報されて全校集会で怒られても、アニメの場面に重ね合わせて「すげートム・ソーヤーっぽいな」と木村少年は内心喜んでいたという。
 物語を現実に生きること、あるいは現実を物語のように生きること。それは、少年時代から木村拓哉のなかに一貫して存在する行動軸なのではないだろうか。この番組のなかで彼を主人公にしてオリジナルそっくりに作られたアニメ『キム・タクヤーの冒険』のように彼は生きている。
 だから木村拓哉は、「プレーヤー」であることにこだわるのだろう。あるインタビューで、「つくる側」、演者よりさらにもう一つ上の場所で何かを表現してみたいという気持ちはないか、と問われた彼は、「ぜんっぜん(笑)。僕はもうプレーヤーでいいです」と即答し、さらにその理由については、「やっぱりこの場所が楽しいし、それにプレーヤーっていうものも、どこまで行ってもゴールがないですからね」と語っている(「SPA!」2014年7月22・29日合併号、扶桑社)。
 この「プレーヤー」という表現に、木村拓哉の哲学は凝縮されているように思える。プレーすることにジャンルの垣根はない。ドラマや映画であれ、歌やダンスであれ、はたまたコントであれ、すべてプレーするということでは変わらない。演技する人、歌う人、踊る人、そのすべてを一言で表す言葉が「プレーヤー」なのだ。

恋愛、戦争、そして家族

 そんな木村拓哉が、小さい頃から憧れてきたアニメの世界の「プレーヤー」となった『ハウル』。その世界はどんなものなのか。説明的な描写も排除され、見る側の想像に委ねられた部分が多い作品ではある。だがその中心にあるのが、少女ソフィーとハウルのラブストーリーであることはまちがいないだろう。
 ハウルと少女漫画のような出会いをしたソフィーは、その後荒地の魔女の呪いで老婆の姿にされてしまう。そのため、2人の関係はスムーズには進展しない。だがソフィーは掃除婦としてハウルの城に住み込み、しだいに2人は引かれ合っていく。
 そのなかでソフィーの容貌は、ハウルのために勇気ある行動をとった瞬間には、少女のものに戻ったりする。その意味では、描かれ方は一風変わっているが、古典的なラブストーリーである。それは、木村拓哉が演じてきた『ロングバケーション』や『ラブジェネレーション』といった数々の「月9」恋愛ドラマに重なるところがある。
 しかし、ソフィーがハウルたちとともに共同生活を営んでいくなかで、2人の関係は単なる恋愛を超えたものにもなっていく。
 ソフィーとハウルを大きく変えるきっかけになるもの、それは戦争だ。物語の冒頭からすでに、戦争は始まっている。それはいつ終わるとも知れない。そして戦争は、ハウルたちの生活をも脅かし始める。魔法使いとして戦争に協力するよう王室からの要請がハウルに届く。だがハウルはそれを拒否する。それでも諦めようとしない相手に対し、ハウルはソフィーに自分の母親と名乗って断ってきてくれるように頼む。
 そして王宮に向かったソフィーは、王室付き魔法使いでハウルの師匠でもあるサリマンと対面する。協力しないハウルは悪魔に心を奪われたいかがわしい魔法使いだと非難するサリマンの言葉に対し、ソフィーはそんなことはないと敢然と反論する。そのときソフィーの呪いは一瞬解け、18歳の少女に戻る。それを目にしたサリマンは、「お母様、ハウルに恋してるのね」と語りかける。
 ソフィーはハウルの恋人であると同時に母親である。そして魔力を奪われてすっかり「おばあちゃん」のようになった荒地の魔女やまだ幼いハウルの弟子マルクル、そしてカルシファーといった城の同居人たちの面倒をみる立場でもある。誰一人として血はつながっていない。だがマルクルに「僕ら、家族?」と聞かれたソフィーは力強く「そう家族よ」と答える。
 ハウルもまた、そんなソフィーの気持ちを知り、「家族」を守るため戦地に赴くことを決意する。傷つき、ボロボロになりながらも戦い続けるハウル。そこには、ソフィーが母親でもあるように、ハウルが父性を担う存在でもあることが見て取れる。
 ここで思い出すのは、2015年に木村拓哉が主演し、父親役として新境地を見せたドラマ『アイムホーム』(テレビ朝日系)だ。彼演じる家路久は、事故で記憶を失い、妻や子どもとの関係も希薄な、よそよそしいものになってしまう。だが家路はもう一度家族の絆を取り戻そうと決意し、過去の記憶をたどり直し、やがて自分を追い込んだ大きな敵と戦うことになる。
 思うに、そんなハウルや家路の姿は、木村拓哉本人のものでもあるのではないか。かつて「プロフェッショナルとは?」という質問に対し、木村拓哉は「最前線から逃げない人」と答えた。「風当たりは強いけど」前線にい続けたいと彼は語った(『プロフェッショナル 仕事の流儀 SMAPスペシャル完全版』NHK、2011年12月24日放送)。
 木村拓哉が立つ最前線のすぐそばには、ハウルや家路久と同じように彼にとって「家族」と呼べるような多くの人々がいるはずだ。そのなかにはきっと、ファンもいるだろう。ハウルにとって「家族」が必ずしも血のつながりを意味するものではなかったように。あるいは、いざというときに助けの手を差し伸べてくれるソフィーは、ファンの化身でもあるのかもしれない。

再建された城

『ハウル』のラストシーン。ソフィーによってハウルたちは救われ、戦争も終わりに向かう。そしてハウルたちは、今度は自分たちの意思で集い、改めて「家族」として暮らすことになる。住むのは、再建されたハウルの城だ。以前のいかめしく不気味な外観ではなく、緑の木々が茂り、洗濯物がのどかに干されているような、いかにも平和そうな空飛ぶ城である。少女の姿に戻ったソフィーとハウルも仲睦まじい。
 一見、絵に描いたようなハッピーエンドである。だが、実はまだ戦争は終わっていない。そのことが、再建されたハウルの城が飛んでいくはるか雲の下で爆重船が艦隊となって進んでいく場面でわかる。
 そこに私は日本の戦後の状況を重ねてみたくなる。敗戦後の平和のなかで、復興から高度経済成長によって豊かな暮らしを得た戦後日本社会だが、外側では米ソ対立がもたらした冷戦体制があり、そのもとで起こった朝鮮戦争による特需が高度経済成長を後押しした。それを思い起こさせるようなところが、『ハウル』のラストシーン、再建された城が表す平和と終わらない戦争の対比にはある。
 またソフィーの声が倍賞千恵子、荒地の魔女の声が美輪明宏と、ともに戦後日本と関わりが深い人たちが担当していることも、そんな連想をしてしまう理由だ。
 倍賞を一躍有名にした1963年公開の映画『下町の太陽』(監督:山田洋次)は、高度経済成長期に東京の下町にある工場で働く若者たちの姿を描いた映画だった。同名主題歌も大ヒットし、倍賞は『NHK紅白歌合戦』にも出場した。その後『男はつらいよ』シリーズ(監督:山田洋次、1969―95年)で、渥美清扮する寅さんの妹・さくら役を演じたことはご存じのとおりだ。木村拓哉が、両映画の監督である山田洋次と『武士の一分』で一緒に仕事をすることになるのは、『ハウル』の2年後のことである。
 敗戦の年に長崎で被爆した体験をもつ美輪は、シャンソン歌手として人気を博す一方、自作の曲を通じて戦後のあり方を問い続けてきた。その代表曲が、小さい頃の友人をモデルに、戦中から戦後にかけて苦しい生活のなか頑張り続けた母子を歌った「ヨイトマケの唄」だ。2012年、美輪が初出場した『NHK紅白歌合戦』で、やはり「真っすぐな」まなざしでこの曲を紹介した木村拓哉の姿がいまも鮮やかに思い出される。
 そしてジャニーズ事務所の創設者であるジャニー喜多川も、芸能の仕事を通じて戦後、そして平和の意味を考え続けている一人だといえるかもしれない。アメリカ軍関係の仕事で朝鮮戦争時に韓国を訪れた彼は、そこで戦災孤児に接した経験がきっかけになり、帰国後少年野球チーム「ジャニーズ」を結成する。それがジャニーズの歴史の第一歩だった。とすれば、ジャニーズもまた、ジャニー喜多川によって再建された城だったのではないだろうか。
 そう考えるとき、青空のなかを再建された城に乗って飛んでいく血のつながらない「家族」5人(実は隣国の王子で、いまは5人と離れているカカシのカブを入れれば6人だともいえるだろう)に、アイドルグループSMAPの姿がオーバーラップする。そしてそのグループの一員として出発した木村拓哉は、やがて時代と交わるスターになっていくだろう。木村拓哉がハウルだとすれば、そこにはどのような“魔法”があったのか? 「星に当たってしまった少年」木村拓哉は何を考え、何を追い求め、どのような道のりを歩んできたのか? 次回以降、筆を進めていきたい。

 

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予告 新連載「木村拓哉という生き方」が今月からスタート!

太田省一
(社会学者。著書に『紅白歌合戦と日本人』〔筑摩書房〕、
『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版』〔ともに青弓社〕など)

 アイドル、アーティスト、俳優、ファッションリーダー……時代の最前線で常に輝き続け、トップランナーに位置する木村拓哉。男性アイドルの「かっこよさ」のスタンダードを作り出し、芸能史でも異彩を放って圧倒的な存在感を示している。
 アイドルでもありスターでもある木村拓哉の魅力を多角的に検証しながら、彼が背負い、表現してきた社会や時代に迫る新連載。

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 2015年に刊行した『中居正広という生き方』は、おかげさまでご好評いただき、多くの方に手に取っていただきました。誠にありがとうございます。
『中居正広という生き方』はウェブ連載をまとめた書籍でしたが、その連載時から「木村くんも論じてほしい」という声をいただいており、昨年から著者の太田省一さんと本連載を準備してきました。
 年明け早々にSMAPをめぐる一件が大きく報じられ、太田さんも私たちも驚きましたが、本連載はその話題を論じるものではありません。
 アイドル・スターとしての木村拓哉の魅力を改めて掘り起こし、読者のみなさまが共感して楽しんでいただけたら、と願っています。
 今月半ばからスタートする予定です。楽しみにお待ちください。

青弓社編集部

 

第1回 2.5次元文化とは何か?

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

 いま、2.5次元が熱い。

 2.5次元ミュージカル、コスプレ、声優がキャラとしてパフォーマンスするコンサート、アニメの舞台を旅するコンテンツツーリズム……ファンたちは「現実」と「虚構」が混交している空間を自由に行き来しながら、「2.5次元文化」を楽しんでいる……。
 いつの間にか人口に膾炙しつつある“2.5次元”文化だが、その用語が普及すると同時に、その領域の多様化も急速に進んでいる。そのため、「2.5次元文化とは何か」を定義することがますます困難になってきていて、また、定義したそばから例外が生まれ、書き換えられていく。しかし、学術的に研究するための前提として、ある程度の定義は必要である。今回は、“2.5次元”文化研究への足がかりとして、まず筆者が考える「2.5次元文化」を解説し、その現象と社会文化的背景の相関関係を概観し、最後に研究のための方法論の提案をしてみたい。
 そもそも“2.5次元”とは何だろうか。“2.5次元”という用語は、「まるで2次元(アニメ)から3次元(現実)に抜け出たみたい」という、マンガ・アニメ原作の舞台を観たファンの声がネットを通じて共有される過程で生まれたとされている。2008年に出版された『TEAM!』のミュージカル『テニスの王子様』(通称『テニミュ』)特集(1)では、まだ「アニメミュージカル」と呼称されているので、2.5次元という言葉が明文化されたのは、少なくとも08年以降だと思われる。それは2.5次元ミュージカルの公演数増加の時期とも重なっている。「日本の「漫画アニメミュージカル」を世界共通の若者文化へ」という目標を掲げ、14年に設立された一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会はパンフレットで、2.5次元ミュージカルを「2次元で描かれた漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、舞台コンテンツとしてショー化したものの総称(2)」と定義している。「ミュージカル協会」と銘打っているが、協会員の作品のなかにはミュージカルではないストレートプレイ(通常の演劇)も多い。しかし、すでにミュージカルやストレートプレイというカテゴリーでさえも多様になってきていて、ジャンルを厳密に区切るのも困難になっている。
 2次元の虚構物語の舞台・ミュージカル化という観点では、1974年の宝塚歌劇団による『ベルサイユのばら』にその源泉をたどることができ、91年にはSMAP主演による『聖闘士星矢』、93年には世界的ヒットアニメ『美少女戦士セーラームーン』のミュージカル化もあり、2.5次元ライブシアターの歴史は決して短くない。それが、いまや10年以上のロングランを続けるミュージカル『テニスの王子様』をはじめ、チケット入手が困難な2.5次元ライブシアターが続出するほどの盛況ぶりである(筆者も先行予約抽選会に何度も落選している)。実際、十数本で横ばいだった年間公演数は、2008年から増加し始め、10年には30本超、11年に多少減少するものの、12年には60本弱、翌年には70本弱、それにしたがって13年の観客動員数は160万人を突破するという驚異的な伸びをみせている(3)。協会からの公式発表はまだだが、14年は200万人を超えているらしい(4)。海外(アジア)公演をしたミュージカル『テニスの王子様』、ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』、ライブ・スペクタクル『NARUTO−ナルト−』、ミュージカル『黒執事』などの海外での観客動員数を合わせると、のびしろはまだまだありそうだ。実際、協会のウェブサイトを見るだけでも、かなりの数の2.5次元舞台が次々と上演されているのがわかる。
 しかし、“2.5次元”とは、このようなストレートプレイやミュージカルだけの専売特許ではない。筆者は、「2.5次元文化」を「現代ポピュラー文化(アニメ、マンガ、ゲーム)の虚構世界を現実世界に再現し、虚構と現実のあいまいな境界を享受する文化実践のこと」と広義な意味で定義している。あえて「文化実践」としているのは、ネット環境が発達した今日では、送り手/生産者・演技者と受け手/ファンや観客、という2つのベクトルは完全に分離しておらず、送り手と受け手の相互作用のなかに、2.5次元文化は現象するからだ。つまり、送り手(生産者・演技者)も受け手(ファン・観客)もプレイヤー/アクターとして行動し、参加する(participate)というパフォーマンスすることを通じて、2.5次元文化が生産されるのである(こうした文化創造の実践は、参加型文化〔participatory culture〕と呼ばれる)。こうした意味から、2.5次元ライブシアター(アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベル原作のミュージカルや舞台)だけでなく、コスプレ、声優のキャラコンサート(『ラブライブ!』のμ’s(ミューズ)や『うたの☆プリンスさまっ』の声優によるコンサートなど)、コンテンツツーリズム(アニメ、マンガ、ゲームなどの舞台を訪れる聖地巡礼の旅)、コンセプトカフェ(メイドカフェ、執事カフェ、BLカフェなど)といった、2次元と3次元をたゆたう領域で展開されるパフォーマンスを「2.5次元文化」と呼んでいる。
 では、プレイヤー/アクターたちの相互作用を可能にするのは何だろうか。それは「イマジネーション(想像力)によるファンタジー世界の構築」ではないだろうか。2次元の虚構の世界の住人たちが、あたかも3次元の私たちの「現実」に存在するような妄想、錯覚、認知……。しかし、それは最近急に現象したわけではない。イマジネーションの力によるファンタジー世界の構築は、どの時代の人でもできたはずである。だが、虚構と「現実」を接続するツールとして大きな役割を果たしたのは、インターネットや「Twitter」「Facebook」「LINE」などのソーシャルメディアの急激な発達と普及である。観客を取り巻く社会的環境、特にこうしたメディアの発達によるコミュニケーション形態の変化が大きく影響していると考えられる。マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルなどの2次元の虚構が3次元の現実に移植されたコンテンツを、楽しむ。この快楽を容易にさせているファクターの一つに、「リアリティー」に対する私たちの認識の変容があげられる。
 テクノロジーの発達によって、虚構世界を現実に近づける仮想現実、バーチャルリアリティー(virtual reality=VR)が社会を騒がせたのも今は昔、すでにわたしたちは拡張現実(augmented reality=AR)を身近にまとっている。スマートフォンなどを建物などにかざすと、過去の都市が重ねられたり、観光名所にかざすと、すぐさま説明が現れる仕組みで、ARは観光案内などにも気軽に使用されている。QRコードを読み取ると、スマートフォンのカメラを通じてキャラが現実の物体に重なって現れるなど、娯楽にも転用されている。それらVRとARが混在した空間は、複合現実(mixed reality=MR)と呼ばれ、私たちの「リアル」感覚を撹乱する。映画を例にとるとよりわかりやすい。たとえば、2010年に公開された映画を比較すると、伝統的なセットで「リアル」に撮影された映画が『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーバー)とするならば、対極にあるのはすべてが虚構の『トイ・ストーリー3』(監督:リー・アンクリッチ)となる。しかし、その中間にはARの『ブラック・スワン』(監督:ダーレン・アロノフスキー)、拡張仮想(augmented virtuality)『トロン:レガシー』(監督:ジョセフ・コシンスキー)、そして複合現実の映画には『インセプション』(監督:クリストファー・ノーラン)が配置される(5)。
 MRよりさらに「リアリティー」と虚構が複雑に絡み合った状況を、デ・ソウザ・エ・シルヴァは、ハイブリッド現実(hybrid reality=HR)と呼んでいる。都市空間では、モバイル電子機器によって、ネットに接続している状態が常態化し、その結果、物理的空間とサイバー空間の差が消滅していく(6)。ゲームやソーシャルネットワークによるコミュニケーションが日常生活の一部(もしくは大部分)になっている若者には、この感覚はもはや自明のことかもしれない。何を「リアル」と感じるか、という「リアリティー」の概念は、こうしたデジタル空間での自我を違和感なく持続させている多くの若者にとって、もはや物理的感覚と直結しないのである。しかし、ここで強調しておきたいのは、技術決定論で2.5次元文化を論じようとしているわけではない、ということだ。前述したとおり、いつの時代にもファンタジーや妄想の世界は成立していて、人々はいまでいう「2.5次元」的な世界を享受していた。それがなぜ「2.5次元文化」が近年に急速に顕在化してきたように見えるのか。その理由の一つは、SNSやインターネットを選択し、日常的に利用するなかで、現実と虚構を自由に行き交うことが容易になったのが、2000年代後半以降だったということにすぎない。つまり、技術が私たちの認識を変化させたという単純な構造ではなく、技術の発達と私たちのコミュニケーション活動の変化が並行し、相互作用するなかで、「リアル」に感じる感覚が変化してきたということなのである。
 そうした「リアリティー」の感覚が、ハイブリッド現実で可能だと仮定すると、2.5次元文化は、“パフォーマンス”を通じて成立する。ここでいうパフォーマンスとは、「参加者たちが、同じ時空間で、ある領域に囲まれた活動に参加している、あらゆる実践(7)」のことである。エリカ・フィッシャー=リヒテは、演劇、サッカーの試合、結婚式、ミサ、政治集会などあらゆるシーンで、行為者と参加者の相互作用のなかでパフォーマンスは生じると述べる。パフォーマンスの主要4要素は、メディアリティー(mediality)、 実質性(materiality)、記号論的意味性(semioticity)、 審美性(aestheticity)である(8)。メディアリティーとは、行為者と鑑賞者が同時空間に存在し、互いに分離不可能な状態のことである。パフォーマンスとは、それ自体が商品であり、あとに物質的に残らない1回性のものであるため、そのはかなさこそがパフォーマンスの実質性となる。記号論的意味性とは、パフォーマンスがどのように意味を生成するか、ということである。そして、審美性とは、パフォーマンスが参加者たちにどんな経験をさせるのか、ということである。同時空間に存在し、1回性のパフォーマンスが、意味を生成することによって、審美的経験を具現化するのである。
 このパフォーマンス論を「2.5次元文化」の研究に援用しながら、デジタル時代のファン研究、コンテンツ産業研究も視野に入れ、2.5次元文化事象を分析するための理論的基盤を考察してみたい。先行研究としてここでは、ヘンリー・ジェンキンスの「テキスト密猟」「収斂文化」や、イアン・コンドリーの「ダークエネルギー」「協働」、マーク・スタインバーグの「メディアミックス」という概念を押さえておきたい。テレビとファンダム(ファン共同体)の研究の第一人者であるジェンキンスは、著書『テキスト密猟者(Textual Poachers)(9)』で、アメリカのテレビ番組のファンが、二次創作(たとえば、日本でいうBL小説のようなスラッシュフィクションやイラスト)を通じて共同体を作り、文化を利用、消費している事例をあげている。典型的なのは1960年代に爆発的な人気を得、現在でもファンが多い『スター・トレック』のキャラを、自分たちの欲望に沿って、新しい物語や関係性を描くことで、キャラを所有し、観察して楽しむような、参加型「2.5次元」的世界が存在していたことだ。ジェンキンスは、ファンがそれぞれに直面する社会との問題の交渉の場としても、こうしたアクティブなファンたちの行動を、肯定的にとらえた。2006年の同著者による『収斂文化(Convergence Culture)(10)』では、デジタルメディアの発達によって、文化はネットやソーシャルネットワークを通じて、送り手と受け手の混交したアクターたちが相互に行動することで収斂した結節点に生産されるとし、送り手/生産者側と受け手/ファン側の相互作用と共犯関係を指摘している。池田太臣が指摘しているように、ファンと生産者、消費と生産などの二項対立的構造自体を脱構築する必要はあるが、ジェンキンスが提示したファン研究の意義は、「2.5次元文化」を考察する際に非常に重要である(11)。
 また、『アニメの魂(12)』で、エスノグラフィックな参与観察を通じてファンと生産者の協働という構図を論じたイアン・コンドリーが指摘したファンの「ダークエネルギー」は、2.5次元文化を成立させるファクターを考える際、興味深い。「ダークエネルギー」とは、天文学で銀河団を引き寄せる目に見えない物質=ダークマターをもじった、目に見えないエネルギー(ファンたちのコンテンツに対する欲望や、コンテンツの生産者がファンとの対話を通じて起こす相乗作用)が相互に影響し合って、現在のような巨大なコンテンツ文化産業に発展していく様子を表した用語である。こうした考え方は、「2.5次元文化」のあらゆるコンテンツ周辺で生じている現象を端的に説明してくれる。しかし、その個々の実態について、またそこで生成される社会文化的意味については、さらなる考察が必要である。
 そして、2.5次元文化の主要基盤である、キャラやコンテンツの共有も重要な論点である。マーク・スタインバーグは『日本はなぜ〈メディアミックス〉する国なのか(13)』で、日本の特徴的なポピュラー文化の消費形態として「メディアミックス」が戦前・戦中以来継続的におこなわれ、1980年代、90年代、現代と、そのモデルが変化してきたことを論じている。キャラをマンガの紙面やテレビ画面だけでなく、お菓子のパッケージや玩具、文房具、衣類にいたるまで、あらゆる媒体に息づくキャラとその世界観を受容することで、身体性をともないながら、キャラやコンテンツを受け入れてきた文化事情は、2.5次元文化現象の可視化と深く関係している。
 紙幅の関係ですべての先行研究のレビューはできないが、上述したフィッシャー=リヒテがいう“パフォーマンス”理論を基礎として、オーディエンス研究の潮流のなかのファン研究、コンテンツ産業研究を視野に入れながら、次回以降は「2.5次元文化」の個々の事例を精査し、そこに現象している事象と社会文化的意味を考えてみたい。

 また余談だが、昨年(2015年)から筆者は、2月5日の“2.5次元の日”に、「2.5次元文化」を考えるシンポジウムを開催している。今年は都合により1日遅い2月6日(土)の開催だが、興味がある方はぜひ参加していただきたい(参加無料、事前登録制)。「第2回「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」——声、キャラ、ダンス」

*本稿は、拙論「ファンタジーに遊ぶ——パフォーマンスとしての2.5次元文化領域とイマジネーション」(「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社)と一部、内容が重複している。「ファンタジーに遊ぶ」は姉妹篇にあたるので、ご興味がある方はご一読いただきたい。


(1)片岡義朗「アニメミュージカル 片岡義朗&ミュージカル「DEAR BOYS」」、チームケイティーズ編『TEAM!——チーム男子を語ろう朝まで!』所収、太田出版、2008年
(2)一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会「パンフレット」2ページ
(3)同誌3ページ
(4)「「2.5次元」ファン熱狂 憧れキャラ、現実で会える」「日本経済新聞」2015年4月24日付(http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86045740T20C15A4H11A00/)
(5)Jovanovic, Dalia, “SIRT Conference on Previsualization and Virtual Production Wrap Up,”(http://www.blog.filmarmy.ca/2011/03/sirt-conference-on-previsualization-and-virtual-production-wrap-up/)[2015年1月22日アクセス]
(6)Adriana de Souza e Silva, “From Cyber to Hybrid: Mobile Technology as Interfaces of Hybrid Reality,” Space and Culture, 9, 2006, p. 261.
(7)Erika Fischer-Lichte, The Routledge Introduction to Theatre and Performance Studies, Routledge, 2014, p. 18.
(8)Ibid., p. 18.
(9)Henry Jenkins, Textual Poachers: Television Fans and Participatory Culture, Routledge, 1992.
(10)Henry Jenkins, Convergence Culture: Where Old and New Media Collide, Updated version, New York University Press, 2008/09.
(11)池田太臣「共同体、個人そしてプロデュセイジ——英語圏におけるファン研究の動向について」「甲南女子大学研究紀要 人間科学編」第49号、甲南女子大学、2003年、107—118ページ
(12)Ian Condry, The Soul of Anime: Collaborative Creativity and Japan’s Media Success Story, Duke University Press, 2013.〔イアン・コンドリー『アニメの魂——協働する創造の現場』島内哲朗訳、NTT出版、2014年〕
(13)マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』大塚英志監修、中川譲訳(角川EPUB選書)、KADOKAWA、2015年。原書は、Marc Steinberg, Anime’s Media Mix: Franchising Toys and Characters in Japan, University of Minnesota Press, 2012 だが、邦訳のほうには改訂・増補された章が含まれている。また、監修の大塚英志の『メディアミックス化する日本』(〔イースト新書〕、イースト・プレス、2014年)も、日本のメディアミックス状況をわかりやすく解説している。

 

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散逸した史料を丹念に収集して――『帝国日本の交通網――つながらなかった大東亜共栄圏』を書いて

若林 宣

 書いているときは夢中で気づかなかったが、こうしてできあがってみると、総論的なものではないどころか、マイナーな話ばかりをあれこれと詰め込んだ変わった本になったように思う。一体、どうしてこうなったのだろう。
 本書を著すにあたって意識したのは、まず情報の得がたさである。国内の国鉄であれば、技術者の名前から個々の車輌の性能にいたるまで、調べることは比較的困難ではない。その一方で、日本の支配下にあったにもかかわらず、朝鮮や台湾の鉄道に関しては、沿革でさえ知ることは難しい。本書では、そういう難しい分野を特に選んでみたつもりである。たとえば第4章では南洋群島での航路の開設や伸張について記したが、これは、この地域に関しては基本的な情報そのものが得がたい状況を考えてのことである。ゆくゆくは、サイパンなどの築港事業などについても調べたいと考えている。また第1章では満鉄などの「三線連絡運賃問題」を取り上げたが、門戸開放という原則が徹底されていなかったことにつき、国際問題という観点からの研究の進展を望みたいと考えている。
 次に、意識したのは抵抗と弾圧である。
 たとえば第1章では、植民地の鉄道について、単なる「何年にどこからどこまで敷設」式の記述ではなく、どのような土地になぜ、どのようにして鉄道を敷いたのかについて意識するようにした。とりわけ朝鮮半島では、日本による併合前に、日本の手によって線路が敷かれている。はたしてそこに朝鮮側からの抵抗はなかったのだろうか。もしあったとすれば、それに対する日本側から弾圧はなかったのだろうか。こういった植民地での交通機関に関係してくる抵抗と弾圧については、第2章でも台湾の航空事業の記述で強く意識して書いたつもりである。第6章も、とりわけ日中戦争での中国側の抵抗については意識して書いた。
 だが、どれほど強圧的な政策の下におかれようと、人々は生きていかなければならない。戦前、「東洋のマンチェスター」ともいわれた大阪には、朝鮮半島各地から労働者が多数流れ込んだ。そのうち済州島出身者の来阪と帰郷を支えた阪済航路は、内発的に誕生した朝鮮人主導の組合も参入して激しい競争が発生するなど独特の歴史を有している。そのことにいくばくかのページ数を割いたのは、「生きていかなければならない」人たちの足跡を少しでも多くの人に知ってもらいたかったからである。なおこの件に関しては、当時の新聞記事のほか、杉原達『越境する民――近代大阪の朝鮮人史研究』(新幹社、1998年)を大いに参考にした。拙著で関心をもっていただけたら、ぜひとも同書にも当たっていただきたい。そこには、悲喜こもごもな人々の息吹が収められている。
 内モンゴルは、帝国日本のなかでも特異な地位にあった。日中戦争前は関東軍を中心とする工作の手が秘密裏に進められ、中国の中央政府の手が一時的とはいえ及びにくくなった地域である。内地からは遠隔であり、残された資料も乏しい。そのため一般書に頼ることは難しい状況にある。この地域については、知る人ぞ知る欧亜連絡航空と内蒙工作の関係や、察東事件前後の、これまで知られることがなかったチャハルの自動車交通事業について取り上げた。いずれも内モンゴルを舞台としながら、まったくモンゴル人のためではなく、日本人によって日本のためにおこなわれたところに特徴がある。とりわけ際立っているのは自動車事業で、それまでの中国人による事業を排しながら、建前でさえもモンゴル人を立てることがなく、日本人によって独占してしまったのである。
 第6章での南方占領地の鉄道は、すこぶる情報に乏しい分野である。そこで本書では主として橋梁修理に注目し、これまで陸軍の鉄道聯隊を中心とした記述から離れ、その華々しく描かれてきた成果に疑問を呈し、いままでは顧みられることが少なかった軍属部隊に光を当ててみた。鉄道聯隊の復旧があくまで仮復旧にとどまること、および本格復旧の時期がかなり遅いことを明らかにできたのは収穫だと思う。しかし一方では、収奪の問題などにも触れてはみたものの、こちらは思うようにいかなかったことを認めざるをえない。この問題については、いつかあらためて筆を執りたいと思う。
 1940年(昭和15年)7月、第2次近衛文麿内閣が発足した。このとき外務大臣に就任した松岡洋右は記者会見で、日満支を一環とする大東亜共栄圏の確立を外交方針として述べた。これが「大東亜共栄圏」という言葉が使われた最初の例とされるが、しかしそれより後の南進の結果手中に収めた広大な占領地を一貫経営するための交通手段を確立することは、経済力その他の理由から、最後まで実現させることはできなかった。そのディテールについて、本書を通じて少しでもみなさんに伝えることができればと思っている次第である。

 

第3回 アルド・フェラレージ(Aldo Ferraresi、1902-78、イタリア)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

イタリアの怪物

 アルド・フェラレージはイタリア北部のフェッラーラで生まれる。父は軍人だったが、マンドリンをこよなく愛していた。ヴァイオリンを始めたきっかけは明らかにされていないが、母が息子の才能に気づき、5歳のときに地元のフレスコバルディ音楽学校に入学させた。12歳でパルマ音楽院、15歳でローマのサンタ・チェチーリア音楽院で学び、無声映画やカフェで演奏した。ヴァシャ・プシホダとヤン・クーベリックの勧めにより、ベルギーの大家ウジェーヌ・イザイの元で学ぶようになるが、イザイはのちにフェラレージを「最上の生徒」と認めたという。その後、ソリストとしての活躍は華々しく、ヨーロッパはもとより、アメリカにも渡り、注目を浴びた。共演した指揮者はヘルマン・シェルヘン、ハンス・クナッパーツブッシュ、シャルル・ミュンシュ、ジョン・バルビローリ、アルトゥール・ロジンスキ、セルジュ・チェリビダッケなど。戦後は主にイタリアで活躍し、1963年にはアラム・ハチャトゥリアンと共演、65年にはヴァティカンでローマ教皇パウロ6世の前でソロを披露している。アメリカのカーティス音楽院はエフレム・ジンバリストが他界したあと、フェラレージを後任として招こうとしたが、フェラレージは家族と離ればなれになりたくないという理由で、この申し出を断っている。78年6月、サン・レモで死去。
 フェラレージが世界的に知られていないのは、主に戦後、彼の活躍の場がイタリア国内にとどまっていたことによるものだと思われる。SP時代から録音はおこなっているが、戦後でもHMVのLPが1枚程度しか存在せず、公式録音としては協奏曲はひとつもなかった。
 現在、フェラレージのディスクで最も手に入りやすいのはパガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第1番』などを収めたものだろう(ISTITUO DISCOGRAFICO ITALIANO IDIS6366)。これは1965年のスタジオ録音と記されているが、音声はモノーラルのようだ。もちろん、この演奏を聴いても、力強いタッチと濃厚なカンタービレは十分に聴き取ることができる。だが、このCDだけでは、彼の力量の全体像は見えにくい。
 その乾きを癒やしてくれたのが、2006年に発売された9枚組み、Aldo Ferraresi Le grandi registrazioni RAI-The great Italian Radio recordings (Giancluca La Villa、番号なし)である。これは現在ではどこを探しても見つからない、中古市場でもトップ・ランクの稀少品だ。だからといって、決してこれ見よがしにしたいわけではなく、とにかく内容的には抜群にすばらしいため、再プレスや再発売の期待を込めながら触れてみたいのである。
 収録年代は1959年から73年までで、場所はすべてイタリア国内。ほとんどすべてモノーラル(なかにはステレオ?と思われるものもある)で、音揺れがあったりノイズが多いものも非常に少なく、全体的には非常に明瞭な音質である。
 まず、チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』(1965年、グラント・デロング指揮)。ソロが出てきて感じるのは、そのテンポの揺れ方や和音の弾き方など、これまで聴いてきたどのヴァイオリン奏者とも違うことだ。それに、常にたたみかけるような勢いも、ヤッシャ・ハイフェッツに匹敵するほどだ。第2楽章の濃密な歌もたいへんに印象的だが、第3楽章の自在さと素早さも破格。
 エルガーの『ヴァイオリン協奏曲』(1966年、ピエトロ・アルジェント指揮)も、こんなに多弁で、鮮やかな色彩な演奏は初めてだった。同じディスクに収録されたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番』(1960年、カルロ・ゼッキ指揮)はなかでも古典的な演奏だが、たとえば第2楽章の、果汁たっぷりの音色は忘れられない。
 ショスタコーヴィチの『ヴァイオリン協奏曲第1番』(1959年、マリオ・ロッシ指揮)、この作品は1955年の初演だから、これはイタリア初演かもしれない。これもすごい。なにせ、いちばん最初にソロが出てくるときの音がすごすぎる。この、人の心をわしづかみにするような、妖気をはらんだような雰囲気は、ちょっと類例がない。個人的にはあまり好きな作品ではないが、フェラレージの演奏は一気に聴き通させるだけの、強烈なエネルギーがあった。
 ウォルトンの『ヴァイオリン協奏曲』(1961年、フォルシュタート指揮)、これは地味な作風と思われているのだが、フェラレージの演奏は異様なまでに艶めかしく、こんな解釈もあるのだと納得した。ハチャトゥリアンの『ヴァイオリン協奏曲』(1963年)、これは作曲者ハチャトゥリアンの指揮である。これまた、ものすごく生きのいい演奏だ。飛び跳ねるようなリズム、独特の濃い歌い方、自在極まりない表情。ハチャトゥリアン自身がフェラレージをどう思ったかは知りえないが、きっとダヴィッド・オイストラフやレオニード・コーガンらの演奏よりも高く評価したのではないだろうか。
 室内楽ではフォーレの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』(1965年、エルネスト・ガルディエリのピアノ)がある。第1楽章はまず、手探りのような遅めのテンポで始まり、ピアニストの個性的な弾き方も面白いと思った。そこに、何とも悩ましく、涙に濡れたようなヴァイオリンが加わる。楚々と弾くピアニスト、そして万感の思いを込めて弾くヴァイオリニスト、これほど奥ゆかしく、かつ微妙に揺れる心のような演奏は初めてだった。
 ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」』(1970年、ピアニストはフォーレと同じ)は、なかではすっきりしたほうの演奏だった。これが年代によるものなのか、たまたまそうだったのかは不明だが、でも、もともと音に力がある人だから、ことに第2楽章などは感動的だった。
 9枚目のCDの最後にはSP復刻が4曲入っている。このなかで注目されるのはバッヅィーニの『妖精の踊り』だろう。この輝かしさ、そして史上最速と思われるこのスピード感、これだけでもフェラレージは名奏者のひとりとして記憶されてもおかしくない。この弓さばきのすさまじさは、イザイの薫陶によるものだと思う。
 この9枚組みにはグアリーノ、アレグラ、ジャキーノ、マンニーノなど、イタリアの作曲家の作品も多く含まれている。さらにはトゥリーナ、ヘラーなどの珍しい作品も収録されていることから、フェラレージはたいへんに広いレパートリーをもっていたこともわかる。もちろん、そうしたレパートリーも珍重されるべきものだが、たとえば四大協奏曲ではチャイコフスキーしか残されておらず、そのほかのメンデルスゾーン、ベートーヴェン、ブラームスなども、もしも残っていたら、ぜひとも聴いてみたい。シベリウス、プロコフィエフ、バルトークなども演奏していたのだろうか。バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』とか、ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ』なども、きっと魅惑的だったにちがいない。

 

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私たちの出発点――『クラシック音楽と女性たち』を書いて

玉川裕子

『クラシック音楽と女性たち』を上梓してから、1カ月半あまりが過ぎた。「あとがき」にも書いたことだが、この本が誕生したそもそものきっかけは、執筆者全員が会員である、女性と音楽研究フォーラムが2013年に結成20周年を迎えたことだった。
 同フォーラムでは、これまで会員の研究発表や講師を招いての研究会を中心に、女性作曲家の作品による種々のコンサートを開催してきた。詳細についてはフォーラムのウェブサイト(http://www.ac.auone-net.jp/~women/)を参照していただきたいが、ほかの企画への協力なども含めると、20年の間に開いたコンサートは、レクチャーコンサートなども含めて15回前後にのぼる。それに対して出版活動は、アメリカの音楽学分野でのフェミニズム/ジェンダー研究の第一人者であるスーザン・マクレアリの『フェミニン・エンディング――音楽・ジェンダー・セクシュアリティ』の翻訳(新水社、1997年)1点にとどまる。ほかに、フォーラム創立から15年にわたって代表を務めた小林緑編著による『女性作曲家列伝』(〔平凡社選書〕、平凡社、1999年)があるが、同書には多くのフォーラム会員が執筆しているとはいえ、出版自体はフォーラムとしての事業ではなかった。
 こうしたなか、発足20年を機に、これまで私たちが考えてきたことを改めて世に問うような書籍を出版したいという声が起こった。2012年初秋のことである。もちろん、出版事情が厳しい状況にあることは承知していた。それでも怖いもの知らずのメンバーの声に押されて出版社探しを始めると、なんと引き受けてくださる出版社が見つかったのである。それが青弓社だった。対応してくださった編集の矢野未知生氏は、男性大作曲家のミューズとしての女性をテーマとする書籍はちらほら見かけるにしても、クラシック音楽での女性そのものの活動を正面から取り上げた書籍はこれまでにほとんどないのでぜひ作りましょう、とおっしゃってくださった。それから足かけ4年、本書はついに日の目を見たが、辛抱強く私たちの作業を見守ってくださった矢野さんには、この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。
 ところで、女性と音楽研究フォーラムの会員は、なぜ入会したのだろうか。演奏家から教育者、研究者まで、多方面の職業に携わる個々のメンバーの入会の動機はさまざまである。なかでもいちばん多いのは、女性作曲家と彼女たちの作品に引かれたという理由だろう。クラシック音楽というと男性の作曲家しか存在しないようなイメージがあるが、あるきっかけで女性作曲家もあまた存在したことを知って、これまで彼女たちとその作品が知られていなかった理由を考えながら、できるだけ多くの人に、できるだけ多くの女性作曲家とその作品を紹介したいと考えている会員。あるいは、ある特定の女性作曲家の曲と出合って魅了され、その作品を紹介していきたいと考えている会員。また、作曲家や音楽作品とは違うルートで、女性と音楽の関わりに関心を抱いた会員もいる。たとえば、近代日本での自らの体験や、学術テーマとして家庭教育を考えるなかで、音楽が女性の嗜みとされていた事情に関心を抱いた研究者など。
 編著者である私自身についていえば、個人的体験が出発点になっている。1960年代前半のある日、我が家にアップライトピアノがやってきた。「ピアノやる?」と母にきかれた記憶はない。高度経済成長が始まった時期に、典型的な都市中産階級の家庭で育った娘は、ピアノをやるのが当たり前だった。やるからには徹底的にと考える母のもと、優等生の娘は15年後に音楽大学に入学した。しかしこの頃から従順だった娘は考え始める。なぜ、私はピアノをやっているのだろう? しかも、日本という文化圏で筝や三味線ではなく、西洋音楽を。答えを出す前に音大を卒業。私たちを迎えたのはバラ色の未来ではなく、どうやって食べていくかという問題だった。近代社会で女の子がピアノを習うのは自立のためではないらしいということに気づいた私は、そのほかさまざまな偶然の出会いもあって、この問題を胸に抱きながら研究の道に入っていくことになった。
 当時の私を知る友人の一人が、本書の感想をさっそく送ってくれた。そのなかで、私が30年前と同じテーマを相も変わらず扱っていることに半ばあきれながら(たぶん)、状況が大きく変わっていることもあわせて指摘してくれた。ピアノ教師をしている彼女によると、カルチャーセンターでもピアノ教室は閑古鳥が鳴き、わずかな生徒も年配の方が多いとのこと。そのうちの女性は、働いている母親にかわって孫の面倒をみなければならず、練習時間をとるのに苦労しているとも書かれていた。また70代の男性が『乙女の祈り』を弾きたいと、練習してレッスンにもってきたこともあったという。
 状況は変わった。しかし、いったいどういう方向に向かっているのだろう。よりよい方向に向かっているのだろうか。音楽と関わる道はさまざまなのだから、ピアノを習う子どもが少なくなったことを嘆くのはお門違いだろう。昔、私の世代の女の子たち(と少数の男の子たち)が、いやいやながらピアノを弾かされ、(クラシック)音楽嫌いになるケースが続出していたことを思えば、現代の子どもたちがピアノのレッスンを強要されないのは、むしろ歓迎すべきことだろう。年配の方たちも、好きな曲を楽しんで弾く自由がある。巷には音楽があふれ、その気になれば古今東西のさまざまな音楽にアクセスすることができる。なによりも、多くの女性音楽家たちが活躍しているではないか。
 でもはたして、女性たちは、そして男性たちも、過去3世紀に比べて、より自由に音楽と関わっているのだろうか。もし自由だとして、この自由な音楽との関わりは、すべての人に開かれているのだろうか。2015年に世界で起こった出来事を見るにつけ、音楽によって人種や宗教やジェンダーの垣根が揺さぶられて取り払われ、憎悪を乗り越え、誰もがより豊かな生を謳歌する可能性が開ける、と信じるほど私たちは無邪気ではいられない。そうであればこそ、少なくとも音楽との関わりが差別や他者の排除に加担するような結果にならないよう、注意深く考えていく必要はありそうだ。女性と音楽との関わりを切り口に過去の音楽の営みを振り返ることは、その小さな一歩である。私たちは新たな出発点に立っている。

(2015年12月29日執筆)