第2回 ジョン・ダン(John Dunn、1866-1940、イギリス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

いまだ全貌が明らかでない

 イギリスのハル(Hull)生まれ。ハル劇場管弦楽団のコンサートマスターである兄弟(たぶん兄だろう)からヴァイオリンを習う。ライプツィヒ音楽院でヘンリー・シェラディックに師事、1875年に地元ハルでデビュー。82年にはプロムナード・コンサートに出演、1902年にはロンドンでチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』を弾いた。また、エルガーの『ヴァイオリン協奏曲』を最初に弾いたイギリスのヴァイオリニストとされる。
 このヴァイオリニストは、わずか1曲だが、私に強烈な印象を残してくれた。それは、SP盤のコレクター、研究家で有名だった故クリストファ・N・野澤先生宅でのことだった。野澤先生がかけてくださったのはバッツィーニの『妖精の踊り』である。音質から察すると、明らかにラッパ吹き込みである。だが、とにかくその演奏の奇怪なこと! 恐ろしくゆったりと始まるのにまず驚いたが、中間部ではテンポががくんと落ち、聴いたこともないような不思議な世界が展開されたのだ。ジョン・ダンの名前をそのままもじって、「冗談だろ!」と言いたいくらいだ。そもそも、この『妖精の踊り』とは速く弾いてなんぼのような曲である。それを、その反対をいき、さらに自在にテンポを変化させているのだ。聴かせてもらった盤はEdison Bell 536だと思うが、以後、自分も手に入れたいと思って探したが、いまだに見つからない。
 現在、CDで聴けるダンの演奏は、Symposium 1071に入っているサラサーテの『サパテアード』(録音:1909年)だけだろう。これはスペイン情緒たっぷりの演奏で、これだけでも彼が個性的なヴァイオリニストだというのは理解できるが、バッツィーニほど衝撃的ではない。ダンはほかにバッハの『G線上のアリア』やショパンの『夜想曲』なども録音しているが、ある程度まとまって聴ける日がくるだろうか?

 

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第1回 アーサー・カテラル(Arthur Catterall、1884-1943、イギリス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

イギリスの傑物

 ランカシャー州プレストン生まれ。6歳でソリスト・デビューし、9歳でメンデルスゾーンの協奏曲を弾く。ロイヤル・マンチェスター・オブ・ミュージックではヴィリー・ヘス、アドルフ・ブロツキー(チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』を初演した)にそれぞれ師事。1902年にはワーグナーと交遊があったハンス・リヒターの招きでバイロイト祝祭管弦楽団に参加、コジマ・ワーグナー邸でも演奏している。13年からハレ管弦楽団のコンサートマスターに就任(1925年、首席指揮者ハミルトン・ハーティとの見解の相違で辞任)、BBC交響楽団の同じくコンサートマスターにも招かれ、ヘンリー・ウッドが主宰するプロムナード・コンサートにも参加している。室内楽方面ではカテラル弦楽四重奏団も結成、チェロのウィリアム・H・スクワイアやピアノのウィリアム・マードックらと三重奏もしばしばおこなっていた。
 私がアーサー・カテラルを初めて知ったのは、ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ第3番』(イギリス・コロンビアのSP。録音:1923年、L1535/76)だった。第1楽章冒頭の、ささっと流れるような心地よさと、ポルタメントを多用した上品な甘美さにより、たちまち虜になってしまった。しかし、カテラルの復刻はまったくないし、SPでは特にソナタなどの作品が入手難だった。そこに届いた朗報は、2014年に飛鳥新社から発売された『名ヴァイオリニストと弦楽四重奏団』(新忠篤/大原哲夫編集「モーツァルト・伝説の録音」第1巻、CD12枚+書籍1巻)のなかに、カテラルが弾いたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」』(録音:1924年)が含まれていたことだ。指揮はハミルトン・ハーティ(オーケストラは覆面団体)で、カテラルとハーティが決裂直前の録音である。第1楽章はテンポの変化がすごく多いし、表情のつけ方、音の切り方・伸ばし方も全く彼独特である。ポルタメントも非常に多いが、たとえばブロニスラフ・フーベルマンのようなえぐるようなものとは全く違うし、ジャック・ティボーのような、良く言えば媚びを売ったものとも違うし、カテラルのそれはもっと自然で貴族的な香りさえある。
 第2楽章の甘美な雰囲気も、格別である。こんな演奏はほかにあっただろうか。第3楽章はちょっと不思議。伴奏はゆったりと遅いのだが、カテラルの独奏になると、一気にスピードを上げてくる。その爽快感たるや、見事というほかない。
 ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」』(ピアノはマードック。録音:1923年、L1231/32)も逸品である。カテラルの弾き方は、ウィンタースポーツのカーリングの石のように、ポンと押すとすうっと流れるような滑らかさがある。そこに、ほのかな甘さがそこはかとなく漂う。モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタK.526』(録音:1923年)も流麗で優美な演奏で、ピアノ伴奏はハーティが担当している。フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』(ピアノはマードック。録音:1924年、L1535/37)はラッパ吹き込み(アクースティック録音)ゆえに重要な役割を果たすピアノが平たく響き、全体の立体感が不足するものの、異例のしなやかさをもつ希有の演奏として記憶されるべきものだ。
 室内楽の録音にも個性的なものが多い。たとえば、カテラル弦楽四重奏団によるブラームスの『弦楽四重奏曲第1番』(録音:1923年、HMV D791/4)は、濡れた抒情を描き尽くした傑作である。また、スクワイアのチェロとマードックのピアノによるチャイコフスキー『ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」』(録音:1926年、L1942/47)は、カテラルの数少ない電気録音という点でも注目に値する。チェロのスクワイアも古いスタイルで切々と歌っていて、カテラルの憂愁なヴァイオリンと相まって、かつて耳にしたことのない情緒纏綿たる美演奏が展開されている。
 カテラルは小品もそれなりに録音していて、これらもまとまって聴ける復刻盤が待ち望まれる。また、カテラルは戦前に亡くなったためか、カテラルの奏法を受け継ぐ後継者が完全に途絶えてしまったことも、非常に残念に思う。
 以上、モーツァルトの『トルコ風』以外のすべての曲目はウェブサイト「Historic Recordings」(http://www.historic-recordings.co.uk/EZ/hr/hr/index.php)からCDR、もしくはダウンロードで聴くことができる。CDRはオリジナルのSP盤の番号がなかったり(ただし、録音データは正確)、曲間があまりにも短いなどの不備があるが、音質や編集は水準以上である。
 蛇足だが、たまたまカテラルとハーティとの確執について目についたので記しておこう。それはマイケル・ケネディのThe Halle, 1858-1983:A History of the Orchestra(Manchester University Press, 1983)にあった。それによると、カテラルはある日、ハーティのベートーヴェンの解釈について口を挟んだところ、ハーティはカテラル弦楽四重奏団の演奏会をじゃまする企画を立てたり、カテラルの独奏の際に非協力的な伴奏をしたりしたという。そのため、両者は始終言い争いをし、結果、ケンカ別れしたらしい。
 カテラルの録音の大半はラッパ吹き込みだが、活躍していた期間を考えると、電気録音がもっと残っていてもおかしくない。これは、もしかするとハーティとの決別が影響しているのかもしれない。ラッパ吹き込みは演奏家の力量をはかるのには非常に不利だが、カテラルはそれをはるかに超えるだけの技量の持ち主だったと確信する。

 

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軍隊らしからぬ軍隊の魅力――『軍隊とスポーツの近代』を書いて

高嶋 航

 本書のもとになった論文は「菊と星と五輪――1920年代における日本陸海軍のスポーツ熱」(「京都大学文学部研究紀要」第52号、京都大学大学院文学研究科、2013年)と「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」(「京都大学文学部研究紀要」第53号、京都大学大学院文学研究科、2014年)である。いずれも京都大学の学術情報レポジトリ「KURENAI」(http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/)でダウンロードすることができる。両論文のアクセス数を見ると、「菊と星と五輪」が887件、「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」が1,253件(2015年8月24日現在)で、1年遅れて発表されたにもかかわらず「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」のほうが多い(これだけの人が本書を購入してくれれば、増刷間違いなしだが……)。これは著者にとってはやや意外な結果だった。というのも、著者には「菊と星と五輪」で扱った大正時代の軍隊のほうが興味深かったからである。これまで日本の軍隊にほとんど関心をもたなかった著者のような人間にとって、日本の軍隊といえば戦時中のそれをイメージするが、大正時代の軍隊はそのようなイメージを覆す、まるで軍隊らしくない軍隊だった。しかもその軍隊がスポーツ熱にとらわれていたというのだから、ますますもって軍隊らしからぬ軍隊だった。軍隊とスポーツの取り合わせがあまりに意外で新鮮だったので、著者本来の研究領域からかなり離れたテーマだったにもかかわらず、ずるずると引き寄せられていった。
 自信がない軍隊の姿は、戦後の自衛隊の姿と重なり合う。少なくとも、著者は、現在の自衛隊の姿から大正の軍隊を想像した(もっとも、ここ数年で自衛隊とそれを取り巻く状況には大きな変化があった)。大正の軍人も戦後の自衛隊員も、主流の男らしさから取り残された存在だった。そしてともに社会に門戸を開き(スポーツを通じた交流もその一環である)、社会の認知を得ることで、自信を取り戻そうとしたことも共通している。大正の軍隊と戦後の自衛隊の軟らかいイメージはこうした軍隊の姿勢に由来するのだろう。しかしながら、昭和の軍隊が大正の軍隊から生まれたのは紛れもない事実である。萌えキャラで隊員を募集している自衛隊が、今後硬いイメージに転換することもありえないことではないのである。
 大正の軍隊の軟らかいイメージとして紹介したいのが、『Our Army Life 1922』(編者、出版社、刊行年不明)である。

 これは姫路の歩兵第39連隊の大正11年度1年志願兵が作成した卒業アルバムである。本書171ページにも白黒写真を掲載しているが、ぜひカラーで見てもらいたいので、この場を借りて紹介しておく。この種の卒業アルバムはたくさん作られたが、これほどほのぼのとした表紙はほかに見たことがない。英語のタイトルもきわめて珍しい(ふつうは『陸軍士官学校予科第9期生卒業記念写真帖』とか『大正13年度志願兵4等水兵修業記念』とかである)。卒業アルバムは軍隊生活の実態を知るうえでたいへん有用な資料だが、残念なことにまとまったかたちで保存されていない。ぜひ、公共の図書館で収集・公開してほしい。
 ちなみに著者は『Our Army Life 1922』を2013年9月にオークションで手に入れた。ちょうど「戦時下の日本陸海軍とスポーツ」の原稿を書いているときで、こまめにオークションをチェックしていたところ、「貴重 大正11年 歩兵第39連隊の写真帖 陣中勤務 休息」という商品が出品されたのを知った。陸軍で最初にスポーツを始めた39連隊、しかもちょうどスポーツを始めた時期のアルバム(欲をいえば、もう1年前のものがよかった)、これは手に入れるしかない。祈るような思いで、オークションが終わるのを待った。ほかに入札者はおらず、2,980円で落札した。実際に手にしたアルバムは予想以上にすばらしいもので、スポーツ連隊と呼ばれた39連隊の往時をしのぶことができた。海軍関係のアルバムが多いなか、陸軍、しかも著者が欲しいと思っていた時期・連隊のアルバムが出品されたのは、奇跡に近いように思われた。
『Our Army Life 1922』は著者にとって奇跡に近かったが、研究をやっていると、このような出合いはけっして少なくない。もう一つだけ紹介しておこう。子どもを連れて志摩スペイン村に行ったときのこと、久々に伊勢神宮でも行ってみようかという気を起こし、外宮に立ち寄った。おなかがすいたので、近くのウナギ料理店に入ったところ(いうまでもないが、ウナギが高騰する前のことである)、なんとそこは阪神タイガースの投手で、フィリピンで戦死した西村幸生の実家だった。なぜそれがわかったかといえば、「喜多や 御来店記念」と書かれた短冊が置いてあり、そこに西村のことが書かれていたからだ。ほかにも紹介したいお宝(がらくた?)はたくさんあるが、きりがないのでやめておこう。

 もちろん、最後まで出合いがないこともある。今回もっとも残念だったのは「軍隊のスポーツ化」という新聞記事が探し出せなかったことである。陸軍戸山学校でスポーツをいち早く取り込んだ加藤真一によれば、彼が大学の運動部関係者を集めて軍隊でスポーツを実施する打ち合わせをしたところ、新聞記者がそれをスクープしたため、永田鉄山に呼び出されたという。陸軍戸山学校のスポーツ導入の過程を解明するうえで重要な資料になるはずだが、結局見つけることができなかった。ご存じの方がいたら、ぜひ教えてほしい。

 

ボーイズラブは本当に楽しかった――『BLカルチャー論――ボーイズラブがわかる本』を書いて

西村マリ

 自分なりのBL論を書こう。私がそう決意したのは2007年の夏だった。早い話、「ユリイカ」の腐女子マンガ特集(「総特集 腐女子マンガ大系」「ユリイカ」2007年6月臨時増刊号、青土社)に刺激されたのだ。
 まずは友人たちにBL研究スタート宣言をぶちかました。
 みんな、私に本を貸し、情報を流してくれた。BLゲームをプレイしてくれた友人もいる。この本をまとめることができたのはそんな友人たちあってのことである。まずは感謝を捧げたい。
 実際、私の周りにはBLや二次創作が好きな人が多い。こちらがカミングアウトするとヒットする確率が高いのだ。とはいえ、みんなオタク的情熱という点では同じだが、性格も違えば好みもまったく違う。二次創作に熱中しながら進化系マンガをたくさん読んでいる人もいれば、黎明期から雑誌を読み続け、王道タイプの小説を好む人もいる。ちなみに彼女はハーレクインも大好き! 一方、BLも読むが、男性分野のラノベやアニメ、萌えゲームに詳しい女性もいる。「腐女子とは?」という問いはあまり意味がない。これは実感だった。
 ところが、いざ研究と勢い込んでも、どこから攻略すればいいのかさっぱり見当がつかなかった。そもそもBLは歴史も長いし規模も大きく、その内容も実に様々だ。広い世界のなかにBLを位置づけなければ意味がない。そう思った。そのためには男性サイドの動きもチェックする必要がある。萌えのあり方や戦う女性キャラについては、ヒントをくれるありがたい男性たちもいたのだ。

ブログの時代

 ところで私は2002年に『アニパロとヤオイ』(〔「オタク学叢書」第7巻〕、太田出版)というオタクな本を出している。アニパロ(二次創作)の世界を扱ったディープな本だが、風邪ネタ、記憶喪失ネタ、子供ネタ、女の子ネタといった定番ネタを軸に読み解いた。
 今回も、年下攻め、ヘタレ攻め、オヤジ受け、男前受け、襲い受けといった、BL界で定番化しているキーワードを道標にして語ることにした。
 このように2冊の本のスタンスは共通しているのだが、相違もある。前著を執筆していたころはインターネットの普及はまだまだで、ひたすら同人誌を買い集めるか友人に貸してもらうしかなかった。
 しかし今回は違う。すでにネット通販が主流になっていて、作品を入手しやすかっただけではない。2007年の研究開始当時は、ちょうどブログの全盛期で、充実したコンテンツがあふれていた。作品レビューだけでなく、キーワードでピックアップしたオススメ作品リストから年度ごとの名作ランキングまで、熱気あふれるブログの面白さに魅了され、研究が行方不明になりそうなくらいだった。ブログ主の方々にはおおいに感謝している。
 つねにブラウザを立ち上げ、何かアイデアが浮かんだら、即、検索ボックスにキーワードを投入! 出てきた作品をまとめて読んだ。
 楽しい! ものすごく楽しい!
 新しい視点を発見する研究の楽しさはもちろんだが、どんどんBL脳が発達し、微妙な差異がわかってくる。同時に、これらのキーワードが特集タイトルになっているアンソロジーを年代順に並べて調べた。結果、BLの変遷がクリアになってきた。それはもう、ワックワクの大興奮だった。

最後に心残りについて書いておきたい――海外BLの輸入

 昨年夏に一応脱稿したのだが、その後待ち時間が長かったので、変更個所が増え担当の矢野未知生さんにはお手数をおかけしてしまった。それでもBL界の重要な展開を拾いきれなかった部分もある。海外BLの輸入である。
 新書館のモノクローム・ロマンス文庫をはじめ、このところいくつかの出版社から海外BLの翻訳が出されている。とりわけ驚かされたのはハーレクイン・ラブシックの登場である。本書では、「第3章 BLの王道」で、ハーレクインとの比較もおこなった。ジェイン・オースティンまでさかのぼる伝統的なロマンスの典型を受け継ぐハーレクイン。そのハーレクインがまさかのBL?!
 当初筆者は日本支社独自の動きにちがいないと思ったのだが、2014年末から翻訳ものも出始めた。調べてみると、なんとハーレクイン本社系列のCarina Pressがgay fictionを扱っているではないか。時代は本当に変わったのだ。
 あぁ……残念! この件を本文に入れたかった……。読者のみなさま、ぜひ頭の中で補って読んでくださいね。
 それだけではない。新しい動きはいつも二次創作同人界からやってくる。『オメガバース・プロジェクト』(〔POE BACKS〕、ふゅーじょんぷろだくと、2015年―)が興味深い。ちなみに本書のカバーイラストを担当してくださったyocoさんが美麗なカバーイラストを描いているので、ぜひチェックしていただきたい。
 オメガバースとは、英語圏の二次創作の世界で生まれた特殊設定で、人狼ものに基盤がある。この設定が日本の二次創作に輸入されたのだ。しばらく前から流行していたのだが、ついに商業出版にも登場したわけだ。モノクローム・ロマンス文庫で人気を集めているJ・L・ラングレーの『狼を狩る法則』シリーズ(冬斗亜紀訳〔モノクローム・ロマンス文庫〕、新書館、2013年―)も、オメガバースのバリエーションである。どうやら、BLの未来は輸出/輸入のリバーシブルな関係から展開しそうだ。

 BL作家のみなさまありがとうございました。
 そしてエンディングはやっぱりこの言葉。
 ボーイズラブは楽しい!

ブログ:「やおい/ヤオイ/YAOI 西村マリ」

 

第3回 初めての「あちこち書店」、その顛末

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

 こんにちは、久禮書店です。
 前回は、フリーランス書店員として受託した仕事について書きました。今回は、私自身が書籍を仕入れて出張販売をした企画についてのお話です。これは、私が思いつきで「あちこち書店」と呼んでいる活動で、カフェや美容院といった他業種の店舗や様々な施設など、書店ではない場所に棚を持ち込んで本を売ろうという単純な発想によるものです。

 5月12日の火曜日、平日1日限りの出店をしました。洋書絵本のバーゲン品と和書新本の絵本を中心にしたラインナップで、什器はりんご木箱を手作業で塗装した簡素なものでした。準備した在庫も売り上げもごくわずかでしたが、学ぶところは多くありました。
 場所は、東急目黒線の武蔵小山駅からほど近いキッズ・カフェALL DAY HOMEでした。スキップキッズが首都圏で10店舗運営しているうちの1店舗です。キッズ・カフェというのは、親子連れで来店して、子どもは店内の遊具スペースで遊べるというスタイルのお店です。もちろん親も子どもと一緒に遊んでもかまわないのですが、このお店ではつかの間でも子どもから解放されて1人でお茶をしたり、大人同士会話を楽しんだりする過ごし方を多く見かけます。

 武蔵小山は私の生活圏で、このお店には3歳の娘を連れて日頃からよく通っていました。私自身も娘と一緒にいる時間と仕事のバランスに苦心していたので、本を売る私のそばで娘が勝手に遊んでいてくれるのは好都合だと考え、この場所でやってみたかったのです。

「あちこち書店」の思いつきは、前職の頃からありました。書店に人が来なくなったと言われるが、それなら、こちらから出かけていけばいいのではないか、独立したいけれど店を構える頭金がないから、軒先を借りながらやっていけないだろうか、という考えです。
 勤めていたあゆみBOOKS小石川店は地下鉄後楽園駅の出口からすぐの路面店という好立地でした。それでも、自店の認知度がいまだに十分でないことや、来店の頻度の低さ、書店にふらっと寄るという習慣がない人の多さなどを思い知らされることがたびたびありました。お店のポイントカードに記録されるお客様それぞれのご来店頻度は、数カ月に一度というものがザラにあります。新聞に折り込みチラシを入れて新刊の予約を募ったところ、店から徒歩3分のところにお住まいの方から電話で「おたくの店、どこにあるの?」と問われたこともあります。
 一方でその多くの方々に対して、こちらがお店の外へ出てアピールしたところ、期待以上に買ってくださったという経験もありました。先ほど例にあげた折り込みチラシで告知した書籍は、『文京区の100年――写真が語る激動のふるさと1世紀』(郷土出版社、2014年)という1万円近くする写真集でしたが、予約募集に対して200件近い申し込みをいただきました。また、近くの文京シビックセンターで開催される講座への出張販売や、お店の前の通りに出て声を出しながら販売する機会を定期的に設けるだけでも、書籍の実売はもちろん、その後のご来店につながっていきました。
 このような経験から、興味をもちそうな人が集まる場所へ本を持って出ることが必要なのではないかと感じていたのです。

 ALL DAY HOMEへ娘と2人で客として訪問したある日、私は「ここで本を売らせてくれませんか?」と、かねてからの考えを話してみました。運営会社スキップキッズのマネージャーさんがたまたま店舗に居合わせていて、私の提案を聞いてくださり、実現することになりました。実はスキップキッズも、ちょうど書籍の導入を検討していたところだったのです。
 絵本を中心とした常設の書棚を作って、お店の魅力を高めたい。また、その書籍や関連する雑貨を販売することで、より多面的に売り上げをあげながらお店の利便性を高めたいという考えを、すでにおもちでした。しかし、書籍の選定や書棚の運営についてのノウハウや在庫調達の方法などについて、まだ検討が必要な段階にあると話してくださいました。
 その話をうかがい、私自身がその常設の書籍販売コーナーを担当したいと思いましたが、たとえ小規模でも新刊書店の棚をそこに作るためには、まだ私の準備が不足していました。

 カフェ内に販売用の書棚を設置して、お茶を飲みながらそれを読めるスタイルをとれば、その場で1冊を読み通すこともできます。それでも購入してもらえるようにするためにはどんな工夫ができるか。小さな棚だけに、カフェの常連のお客さんを飽きさせないためには、書目を小まめに入れ替え続けなければいけません。また、子どもが書籍を手に取ることも多く、大人も飲食をしながら読むという環境なので、在庫の汚破損は避けられません。
 つまり、新本の販売在庫を返品できる委託条件で取り引きする取次口座と、返品することがはばかられるような在庫を買い取って古書として再仕入れする流れのようなものがなくては、このような販売形態をとることは難しいと思ったのです。
 このような場合、既存の新刊書店がカフェと協業して新しい販売形態を作ることが自然な流れに思えますし、書店は積極的にそうすべきではないかと思います。いま振り返ると、私は個人規模の出張販売にこだわらず、既存の書店とカフェなど異業種の仲介を仕事にすべきなのかもしれないとも考えられます。しかしひとまずは、「あちこち書店」を自分の手でやってみなければ気がすまなかったのです。
 お店としても、常設棚の前段階として出張販売でお客さんの本に対する大まかな反応を見たいという考えがあり、出店を承知してくれました。売り上げ金の数パーセントを場所代として支払うという出店の条件も合意し、この企画が実現することになりました。
 この場所代は、書籍の粗利から支払うことを考えると大きな負担率になりました。それでも、お店に場所をお借りする一般的な対価としては、ご配慮いただいた料率でした。今回はまだ売り上げ規模が小さく、さほどのコストではありませんが、「あちこち書店」の場所や会期が増え売り上げ規模が大きくなれば、実店舗と同様に家賃の問題は避けられないようです。

 開催が決まり、さっそく書籍の調達を始めました。品揃えの中心は、あゆみBOOKSやマルベリーフィールドに続いて今回も洋書絵本のアウトレット品です。そこに和書新本の絵本と、ママさんたちのライフスタイルに関わる書籍を組み合わせようと考えました。
 この出店を考えた最初の動機は、ごくプライベートなものでもありました。娘が通う幼稚園のクラスメートとそのお母さんたちという、いまの私の交友関係のなかで、本の仕入れ経験を役立てられないかというくらいのものでした。より正直に言うと、私がママ友たちともっと仲良くなりたかったというわけです。
 娘が通う幼稚園は英語教育を軸にしていて、様々な国から来た親子が集まっています。ここに集まる人々との出会いを通じて、英語の絵本や読み物の需要を以前から感じていました。前職で洋書絵本のセールをしようと考えたきっかけも、そこにありました。
 洋書絵本のアウトレット品は、今回も以前からお世話になっている八木書店とfoliosから仕入れました。安価ですので、買い切りとはいえ気軽に仕入れることができました。また、自由に値付けすることができるので、ある程度の売れ残りが出ても大きな損をしないようにできます。
 和書新本の絵本と大人の女性向けの書籍も組み込むことにしたのは、ゆくゆくはこのお店にミニ書店コーナーを常設するという前提で、お客さんの反応を見たかったからです。仕入れ資金が許すならば、できるだけバリエーション豊かな棚在庫を持ち込んで様子を見たいところでした。
 しかし、私の仕入れ資金の準備は十分でなく、仕入れ価格が高い和書新本をさほど多く買い入れることはできませんでした。また、和書新本もやはり買い切りで仕入れたため、今回のように短い販売期間のなかで売り抜けたいという意識のなかでは、多くの在庫をそろえることを躊躇してしまいました。
 和書新本の仕入れ先は、子どもの文化普及協会という取次会社です。絵本の仕入れについて、前職でお世話になっていた出版社クレヨンハウスの営業担当の方に相談したところ、同社の関連事業として運営されているこの取次を紹介してくださったのです。同協会の倉田さんというご担当の方に、お話をうかがいました。
 同協会は、児童書の出版から書店経営までを手がけるクレヨンハウスの取次事業として、新刊書店以外の様々な相手に書籍を卸しています。取り引き先は多様で、飲食店や雑貨店などの店舗をはじめ、生協のような無店舗の販売会社もあります。
 取り扱う書籍は、やはり児童書を中心としてはいますが、実はジャンルを問わず注文することができます。仕入れ先の出版社数は、公表されているリストによると230社あり、その出版社の書籍なら児童書でなくても調達してくれます。
 ベテランの書籍編集者でもある倉田さんは、子どもの文化普及協会の理念についてお話ししてくださいました。すべての町に本屋を作り、子どもたちの日常に本が自然に存在することが理想だが、現実には本屋は減っている。ならば、せめて本棚だけでも町のいたるところにあってほしい。そのために、書店以外の様々な方にも、品揃えのアドバイスも含めて、本を届けていきたい。その言葉は、まさに私と考えを同じくするもので、強く印象に残っています。
 同協会からの仕入れは、基本的にはすべて買い切りですが、保証金のような前払い金は不要でした。仕入れの掛け率を同じ買い切りの条件で比較した場合、最も低い部類ではありませんが、いわゆる神田村小取次のいくつかよりも好条件か同等で、出版社との直取引よりも好条件になる場合もあります。とはいえ、文具や雑貨よりは高正味にならざるをえません。

 このように様々な仕入れ先から準備した書籍は約200冊でした。その内訳は、アウトレットが7割、新本が3割です。1日限りの販売で予想される売り上げ額に対してはずいぶんと多いのですが、書棚の演出のためには冊数も必要だし、出張販売を何度も開催するなかで消化できればいいという考えもありました。
 仕入れと並行して、什器の準備も進めました。寸法や価格、使いやすさを考慮して入手したのは、りんごの運搬に使われる木箱でした。間口が80センチ×30センチで、一般的な書棚の1段が1箱と捉えやすい形状です。これを8箱準備して、持ち込みました。自由に組み合わせて積み上げられるので、今後も様々な場所に合わせて陳列できます。このほか、表紙を見せて陳列するためのスタンドや手提げ袋、つり銭などを手配し、開催に備えました。 
 当日の朝を迎え、書籍と什器、備品類を台車に載せ、娘も台車のハンドルにつかまり立ちさせて、この一式を押してキッズ・カフェへ向かいました。
 カフェ店内での陳列を終え、10時の開店を迎えました。開店早々から14時頃までは、ありがたいことに来客が絶えず、順調に売れていきました。その7割の方々は、私と娘のママ友と、そのお友達でした。裏を返せば、不特定の方々への宣伝活動の不足ともいえますし、その場にたまたま居合わせた方への書棚の訴求力の不足ともいえますが、ママ友のネットワークに貢献できればという当初の趣旨には沿うことができました。

 出張販売会の宣伝活動では、ママ友ネットワークに助けられることばかりでした。お母さんたちはそれぞれ、いくつものコミュニティーに属しています。幼稚園、公園、児童館、マンション、小児科医院、様々な習い事の教室など、子育てにまつわるちょっとした接点から、あちこちに友達の輪をつないでいきます。
 半年前にフルタイムの主夫業に転じたばかりの私は、数少ない男性ということで腰が引けていて、こういった場でいまいち打ち解けられないでいました。しかし、「絵本を仕入れるパパさん」といういわば話のネタとして、何人ものママさんたちに紹介してもらううちに、少しずつ私も娘も地元のあちこちにつながりをもてるようになりました。この日も新しいママ友との出会いに恵まれ、うれしく思いました。
 15時からは、絵本の読み聞かせもしました。妻の友人で劇団員として活動している方と私の2人で、代わる代わる朗読を担当しました。移り気な子どもを相手に、舞台に立つ人ならではの語りかけ方や間の取り方といった、聴く人を引き込む技術を発揮する演劇人。これまでわが子を相手に絵本を読んできたとはいえ、一本調子な私。子どもたちの反応はまるで違っていました。これからの本屋人生でも、大人の読者を相手にこんなふうに本をプレゼンできたらと思わされる場面でした。

 この日、16時を過ぎたあたりからは来客がぱったりと途絶え、店は私と娘の貸し切り状態。それは、春には珍しい台風のせいでした。台風6号の影響で、夕方から天気が急転し、夜には土砂降りになってしまったのです。19時頃には、閉店を待たずに撤収することにしました。
 帰路は、朝と同じく満載の台車にカッパを着せた娘も乗せ、在庫に雨水が染みないかとハラハラしながら自分はずぶ濡れというものになりました。
「あちこち書店」の初出店は、漠然と期待していた売り上げを大きく下回る結果に終わりました。利益のことを脇に置いて、今後どのような形の本屋を目指すにしても、物の売買にとどまらず、本をきっかけにした緩やかな地元コミュニティーを作る役に立ちたいという思いを感じたことは、今回の小さな売り上げとは反対に、大きな成果になりました。
 幸い、状態がいい残り在庫はマルベリーフィールドのアウトレット棚に納品することができ、デッドストックになることは避けられました。和書新本の在庫は、次の機会まで寝かせておくしかありません。仕入れ代金を回収できる日はまだ先のようです。

 この販売手法で利益を出すには、頻繁に開催し続けることと、複数の売り場で在庫を回すことがやはり必要なようです。また、限られた予算のなかで棚在庫をもう少し豊かにすることと、場所代に見合った粗利を得るという課題を考えると、古書を扱う必要もありそうです。
 また、今後は委託条件で取り扱える書籍を増やす方法も探っていきたいと思います。直取引で委託でも低い掛け率を提示してくださる出版社が増えていて、積極的に取り入れていきたいと思います。しかし、取次会社と取り引きできることも諦めずに考えようと思います。多様な書籍を仕入れるためには必要な窓口ですし、出版社各社との個別の事務作業を取りまとめてくれることや、支払いを一本化できることなど、実務の面でも重要なインフラになるものだからです。
 たしかに、新品の書籍を返品可能な委託の条件で卸してもらうには、やはりこちらも小売店としての規模や体制が整っている必要があります。一方で、新本を売る棚はどんどん小さくなっています。既存の新刊書店の売り場がいや応なく縮小しているという面もあれば、他業種とのミックス業態や個人経営のセレクト書店のように意図して小ささを志向している場合もあります。
 そうなると、新本の配送がきめ細かくなっていくことを求められます。少量の荷物をあちこちに納品してほしい。これは配送コストを増大させることで、いま大手取次会社が志向している配送コスト削減にまったく逆行してしまうものかもしれません。
 そのギャップを埋めるアイデアはないものでしょうか。たとえば、独立系小書店が連合して仕入れを取りまとめるNet21のような先行事例に学ぶ。既存の新刊書店を地域ごとの仲卸として、私のような極小書籍販売者を束ねた拠点にできないか。どれも私の空想の域を出ないものですが、業界の様々な立場の方々と一緒に考える機会につながれば、新しい展開をもたらせないかと考えています。

 すぐにでも「あちこち書店」の第2回に取り組みたいところでしたが、現在は棚上げにしています。いま取り組んでいるのは、神楽坂に新しく出店するブックカフェの準備です。
 ある製本会社の新事業として、新刊書籍と雑貨とカフェを組み合わせ、落ち着いて過ごせるサロンのようなお店を目指しています。この企画のなかで、私は3,000冊程度の選書と、書棚のデザインやレイアウトの助言、書店実務の研修、取次や出版社との渉外などを担当しています。
 これは、フリーランス書店員として受託した大きな仕事でもあり、今後「あちこち書店」を再開するための資金を得る機会でもあります。また、このお店を通して新しいアイデアが生まれることも期待しています。しかし、まずはこのお店を立派な書店として作り上げることに注力したいと思っています。

 

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第55回 貧すれば鈍する

 著作隣接権が切れた音源を、LPやテープから復刻しているマイナー・レーベルがいくつかあるのはご存じだと思う。私はそのレーベルの1つであるGRAND SLAMを2000年から継続しているのだが、今年(2014年)半ば頃からだろうか、「レコード芸術」(音楽之友社)はこうしたレーベルの扱いを中止してしまった。その理由は大手のメーカーが「レコード芸術」に対し、「このようなマイナー・レーベルを扱えば、広告を取り下げる」と通告したからである。雑誌の主たる収入は広告である。ことに最近は多くの雑誌が広告収入の減少によって休刊、廃刊に追い込まれているご時世である。こうしたレーベルの扱いを中止したのは、「レコード芸術」にとっても、いわば苦渋の選択だっただろう。
 大手とは具体的に明らかにされていないが、DG、デッカ、EMI、RCAなどの原盤を保有している会社であることは明白だ。しかしながら、今回の措置は負の現象しか生み出さない、まさに誰もが喜ばないものなのだ。
 まず、こうしたマイナー・レーベルが雑誌で取り扱われないとなると、単純に言えば雑誌の情報量が減ることになる。お店にたとえれば在庫数の縮小ということになり、こうなると読者離れがますます加速するだろう。また、こうしたマイナー・レーベルのCDは現行法では全く問題がないのにもかかわらず、大手は主にネット上で大量に売られている違法CDR盤にはなぜか無関心である。違法盤に知らん顔をしておきながら、適法なCDを排斥しようとするやり方は非難されてしかるべきではないか。
 CDが思うように売れないのは誰もが言っていることだ。けれども、自分がやっていることを振り返りもせず、単に不況や他レーベルのせいにする大手の態度には、正直あきれてしまうし、あわれにも思う。たとえば、ユニバーサルミュージックからここ20年くらいに発売されたCDにはとんでもなくひどいものが多い。録音データの間違いなどは朝飯前で、オーケストラの表記は全然違うし、解説書の作りも雑だ。音は言うまでもないだろう。あるときこの会社から発売された廉価盤シリーズは、そのあまりの音のひどさに某販売店の担当者が嘆いていたほどだ。
 そもそも、こうしたマイナー・レーベルが作るものなど、高水準のものができるわけがない。つまり、2トラック、38センチのオープンリール・テープといったところで、オリジナル・マスターのコピーのコピーのコピー、さらにもう一度コピーといった程度のものだ。LP復刻もプチパチ・ノイズは避けられないし、内周の歪みはLPの宿命でもある。一方の大手メーカーは当たり前だが、オリジナルのマスターを保有している。マスタリングに使用する機械だって、私らが使っているものとは比べものにならない、プロ用のものである。だから、大手が普通に作っていれば、こうしたマイナーのCDなど、吹けば飛ぶような存在であるはずだ。
 この一件について、あるファンがこう返信してくれた。「LP復刻などが受け入れられている現状を、大手は冷静に分析すべきではないでしょうか」。まさにこれである。大手は自分たちが発売している商品にどんな問題があって、どう改善すればいいか、あるいはどうすればもっと多くのファンに受け入れられるか、そうしたことを全く考えもせず、暴力によって競争相手を排除しているのである。
 大手のメーカーの担当者は「レコード芸術」からマイナー・レーベルを締め出したことによって、これらのレーベルに打撃を与えたと思っているだろう。しかし、少なくとも私はそうは思っていない。私はむしろ逆宣伝になって「しめた」と感じている。雲の上の存在だと思っていた大手のほうから、こちらの次元にまで降りてきてけんかを売ってくれた、つまり対等と見なしてくれたわけである。そのゲームも、対戦相手の宿舎の空調を切り、食事には下剤を入れ、道具には細工をし、自分たちが勝てるように仕組んだものなのだ。こんなことしても、多くのファンの支持を得られないのは明白だと思うのだが、大手は全くそれをわかっていない。貧すれば鈍する、本当にかわいそうだ。
 あと、キザなことを言うようだが、大手はずいぶんと私のことをなめてくれたな、ということ。私もこの業界で30年近く生きてきた。表も裏も、いろいろなことを知った。こんな理不尽な仕打ちをしてくれるなら、こちらも大手がこれまでどれほどひどいことをやってのけたか、ここらでしたためてみようと思う。それも、こうしたメール・マガジンとかではなく、単行本のように“残る”媒体に。
 さて、話題は変わるが、2015年にはフルトヴェングラーの、ちょっと珍しいシリーズのCDを出すことになった。枚数は5点から7点ほど。残念ながら未発表はないが、でも内々にその内容を知らせると「それは面白い」とみんなが言ってくれた。ただし、このCDの情報だが、以上のような理由で「レコード芸術」では読めません。

(2014年12月30日執筆)

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対抗政治の可能性――『その「民衆」とは誰なのか――ジェンダー・階級・アイデンティティ』を書いて

中谷いずみ

 本書の刊行から約2年が経過した。刊行後すぐにこの文章を書くことになっていたのだが、考えていることをうまく整理できず、ぐずぐずしているうちに時間がたってしまった。この間、さまざまな人から本書の感想をいただいた。島木健作や火野葦平、太宰治、豊田正子など取り上げた作家や作品と戦時との関わり、戦後の生活記録運動や日本教職員組合の平和運動、原水爆禁止署名運動など社会運動へのジェンダーや階級的観点からのアプローチ、生活綴方や教育2法案などに見られる子どもらしさの規範、語りの様式による表象形成と政治的動向の関わりなど、それぞれの立場や関心から多くの意見をいただいた。私が気づいていなかった問題への接続や、意識していなかった方法的広がりを示唆してもらったこともあり、また運動に関わる立場から私の論考の意味自体を問われたこともあった。それらのいただいた意見を踏まえながら、本書の「原稿の余白」に言葉を継ぎ足してみたいと思う。
 タイトルにある「民衆」とは、誤解を恐れずに言うならば、無標のマジョリティを指す言葉として用いている。それは時代や発言者が属する場所によって「大衆」「人民」などと変化しうるものであり、便宜上「民衆」という言葉を当てたにすぎない(もちろん言葉が帯びる政治性や使われる際の文脈、力学などがあるのだが、本書ではむしろそれらの問題よりも、以下に述べるような無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治の考察に主眼を置いた)。この無標のマジョリティの存在は、世論の動向が力をもつ社会では常に意識される。もちろんそれはメディア言説との関わりで考えなければならないのだが、しかし政治家や批評家を含めて多くの人びとが、世論を動かす主体として無標のマジョリティを見ていることは確かである。だからこそ、しばしば、多数派の素朴な声を代理/代表する者として、無標のマジョリティのなかの誰かが発見される。その声が社会の主流的価値観を代表するものと見なされ、メディアで大きく取り上げられる際には、世論の趨勢を必要とする政治的決定や社会制度の構築など、その声の称揚がどこに接続されるのかを注意深く見ていく必要があるだろう。
 だがさらに留意すべきは、無標のマジョリティを代理/代表しうる人物は、決して無標ではないということである。それは望ましいとされる規範を体現する者でなければならない。なぜなら、名もなきマジョリティとしての〈われわれ〉の代理表象は、みなが共感できる望ましさにおいて〈無傷〉でなければならないからである。本書では、こうした規範の体現者がどのような基準でどのような場面で見いだされたかを論じた。1930年代後半の転向者による大衆追随の言説が戦時の国家体制に結び付いていく過程や、50年代前半の社会運動で女性表象が機能していく過程で、誰が無標のマジョリティとして発見されたのか、誰の声が主流の価値観を代理表象するものとして承認されたのかを追った。例えば本書では、政治的イデオロギーへの弾圧が激しくなるにつれて、政治色をもたないと見なされた子どもや女性の訴えが純粋素朴な真実を表すとして称揚され、運動の場やメディアで取り上げられた事例を分析した。政治的主張を忌避する傾向がある社会では、しばしば、子どもや女性の声が真実性を帯びた信用に足るものとして受容される。それらの声の前景化は運動のエンパワーメントという面で効果的に機能するのだが、一方で政治的な強度をもつ主張を潰そうとする動きを補強してしまうような面ももつ。つまり意図せざるかたちで〈われわれ〉を代表しない声を排除する動きに寄与し、結果的に運動の幅を狭めてしまう危険を孕んでいるのである。また、この場合の女性の声の称揚には、知性/感情、理性/本能という二項対立の前者を男性、後者を女性に割り当てるような見方が潜在していて、既存のジェンダー秩序を強化してしまう可能性もある。そしてそれが、既存の女性らしさの規範に即して〈傷〉があるとされる女性をより沈黙させてしまうかもしれないのである。
 このように、過去に見られる無標のマジョリティをめぐる代理/代表の政治は、さまざまなリスクの所在を示唆してくれるものである。もちろん、直近の差し迫った事態に抗する場面ではそんなことを意識していられないかもしれない。この文章を書いているわたし自身も悪化する政治状況に抗することを最優先に考えていて、過去からの知をもって現在進行形の運動での禁止リストを作ってしまうような事態は避けなければならないと思っている。ただ一方で、そのように割り切れない現実のなかであがく際に、リスクのありかを少しでも知っておくことは大切だとも思う。竹村和子氏は「わたしたちの営為は、約束された未来に頼ることができず、あらゆる対抗表象はリスクを背負うものである」がゆえに、一種の「賭け」の継続になると記している(竹村和子「「グローバル・ステイト」をめぐる対話――あとがきにかえて」、ジュディス・バトラー/ガヤトリ・C・スピヴァク『国家を歌うのは誰か?――グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』所収、竹村和子訳、岩波書店、2008年)。割り切れない、約束された未来もない現実のなかで、対抗政治を可能とするための「表象」は常にリスクを伴うのである。さまざまな生のありようが保障されるような、複数性の実現を目指すという点からいえば、受け止めるべき声とそれに該当しない声との選別を許すことで運動の幅を狭めてしまうことも、既存のジェンダー秩序を強化してしまうことも望ましいことではない。強大な力に抗する際に、場面によっては妥協も必要であり、戦略も必要である。しかしその妥協を固定化しないためにも、また戦略による仮の状態を本質化しないためにも、リスクの所在を過去から学んでおくことは有効だろう。
 さらに、わたしが重視したいのは、現実的な対抗政治への志向と同時に理念としてのそれへの志向を持ち続けることである。現状のなかであがきながら、理念的かつ現実的でもある対抗政治の可能性を模索し挫折し再度模索していくこと、また他者や自分と交渉し論争し、ときに和解し、ときにずらし、ときに衝突しながら進むこと、そしてそこに潜む問題や危険にさらされながらそれへの対処を、あるいは回避を試みながら「賭け」を続けていくことで対抗政治を生成し続けることが重要なのだろう。竹村氏は現在進行中の「賭け」を、「未決の課題というよりも、それこそが、実現不可能なものを求める生そのものである」と述べているが、現実と交渉しながらもそれを脱構築して「実現不可能なもの」を求めていく営為によってこそ、現状打破の道が、複数性の実現に向けた道が開けていくのではないだろうか。
 一時の猶予も許さないような現在の政治状況で、本書が、現在進行中の「賭け」の継続という「実現不可能なものを求める生そのもの」の営みに、そして理念的かつ現実的な対抗政治の生成に貢献するものであることを切に願っている。

第54回 追悼、ジョン・マックルーア

 ブルーノ・ワルター、レナード・バーンスタイン、イーゴル・ストラヴィンスキーなどの録音を多数手がけたアメリカ・コロンビアの元プロデューサー、ジョン・マックルーアが6月17日、バーモント州ベルモントの自宅で亡くなった。84歳とのこと。
 マックルーアは1929年6月28日、ニュージャージー州ラーウェイ生まれ。一時ピアノを習っていたが途中で挫折、大学も中退しているらしい。50年から音楽の仕事を始め、その後アメリカ・コロンビアに入社、最初は録音エンジニアとして働き、その後はずっとプロデューサーとして活躍した。
 私がマックルーアと直接連絡がとれたのは2010年の暮れか、11年の初め頃だと思う。連絡をとりたかった理由は、彼がその昔書いた「ブルーノ・ワルターのリハーサル――その教訓と喜びと」というすばらしい文章を、自分が作るCDに転載したかったからである(該当の文章はワルター指揮、コロンビア交響楽団、ブラームスの『交響曲第1番』=GS-2060、同『交響曲第2番』+『第3番』=GS-2061に分けて掲載)。その当時私はマックルーアはてっきり故人だと思い込み、遺族を探すことに躍起になっていたが、本人が元気でいたことに驚いてしまった。マックルーアとは電子メールでのやりとりだけだったが、彼は2度目のメールに返信してくれた際に「我々は友達だ、だからファーストネームだけでOK」と言ってくれ、その後もできるかぎりさまざまな情報を提供してくれた。彼からの情報はワルターのシリーズに適時掲載したのだが、生き字引からの手助けは非常に心強かった。昨年くらいからだろうか、CDを送っても何とも言ってこないので多少は気にしていたが、やはり6月に亡くなっていた。
 短い間ではあったが、伝説のプロデューサーと直接何回かやりとりできたのは、まじめにやってきたご褒美として感謝している。マックルーアと連絡がとれたばかりの頃、知人は「元気でいることがわかったのだから、直接会いに行くべきだ」と言っていた。そうすべきだったかもしれない。しかし、それはいまとなっては、どうすることもできない。
 私が気になっているのは、マックルーアが「回想録の準備をしている」と言っていたことだ。彼がそこまで口にしていたのだから、余命を逆算して、ほぼ完成しているものと期待している。無論現時点では具体的な情報はないが、出版されれば多くのファンには欠かせないものになることは間違いない。

(2014年8月15日執筆)

Copyright NAOYA HIRABAYASHI
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原爆投下から70年、広島の祈りから見えてくるものとは――『8月6日の朝』を出版して

浦田 進

「8月6日、広島。忘れてはいけない日なのに、東京にいるとついつい疎遠になってしまうから、この写真でいろいろな人に伝わるといいなと思う」「戦争はいやだね、夏になるといやなことを思い出す」「線香の匂いがしてくる」「(子供の写真は)生まれ変わって拝んでいるよう」「声が聞こえてくる」「刑務所でこの写真を見たら、みんな自白してしまうよ」。これらの言葉は、『8月6日の朝』に収めた写真をベースに2012年夏に新宿で写真展を開催したとき、来場者が語ってくれた写真の感想です。この写真展では1週間で300人近い方にご来場いただきました。50枚近い写真を展示しましたが、じっくり時間をかけて1枚1枚丁寧に写真を見てくださる方が多く、なかには涙を流しながら見入る方もいらっしゃって、多くの方が心の奥深いところで、写真から何かを感じ取ってくださったように思いました。
 この写真展は私にとって、広島の祈りの力、普遍性、多義性を改めて強く感じさせてくれた機会でしたし、写真でしか表現できないもの、写真独自の秘めた記録性・神秘性にも改めて気づかされた体験でもありました。これは私にとって、その後も広島の撮影を継続する大きな契機の一つになり、祈りの厳かな場所で撮影した責任として、多くの方のご助力をいただいて写真集として「伝える」一つの形として結実することができたことを大変感慨深く思っています。

 本書に収めた77点の銀塩モノクロームの写真は、2009年から14年までの6年間、8月6日の朝、広島平和記念公園・原爆死没者慰霊碑前で撮影したものです。
 8月の広島の強く鋭利な日差しを浴びて、ときには暑さで朦朧とする意識を必死でつなぎ留めながら集中力を高めて撮りました。撮影中、特に心がけたことは、フレーミングを意識しないようにしながらも、1カット1カットを丁寧に謙虚に、祈っている方の想いに少しでも近づく気持ちでシャッターを切るということでした。
 1945年8月6日、この場所で起きたできごとを想い、この場所にいた人々のことを想う。一瞬とそれから長く続く痛みと苦しみを想像する。
 慰霊碑前では、「ありがとうございました。やっと来れたよ」と祈りながら泣いている方もいらっしゃいました。長い時を経ても、決して痛みと苦しみは和らぐことはなく、私自身、カメラを向けることを躊躇した場面も多々ありました。8月6日にこの場所に来ること、そして手を合わせることの意味は、訪れる人の想いの数だけあるのだろうと思います。
 人間が祈る姿は、厳かで尊く美しいと思いますし、手を合わせることは、それぞれが内なる自己と対話しているようにも感じます。人間にとって、祈る行為そのものが、生まれる前から不思議と魂のようなものに刻み込まれているようにも感じます。

 原爆投下から70年。広島の祈りから見えてくるものとは。これらの写真を見る人が自由に何かを感じ取ってくださったら、と思います。そして少しでも8月6日の広島に眼を向けていただけたらとも思います。

 なお、この写真集の解題では、歴史社会学者の福間良明さん、宗教学者の島薗進さん、写真家の新倉孝雄さんの3人に、それぞれの立ち位置から、8月6日広島と祈り、私の写真についてご寄稿いただきました。3人の方の解題は写真集に大きな広がりと奥行きを与えてくださいました。

 私が広島で聞いた、いまも忘れられない被爆者の方の言葉があります。
「あの匂いと青白い光は忘れられない。広島は人骨の上にある。戦争はいいことが何一つない。平和は努力しないと維持できない。憎しみからは憎しみしか生まれない。大河も一滴から始まる、小さな一滴からの活動が大事」
 昨年の8月6日の広島は43年ぶりの雨でした。現在の不穏な社会状況を想うとき、この雨は原爆で犠牲になった方の涙だと直感的に思った人は私だけではないはずです。
 私はいつも不思議に感じます。広島を去るときに感じる、この去りがたさの哀感はいったいどこからくるのだろうかと。

 最後に、写真集発売に合わせて、この夏、東京と広島で写真展も開催します。銀塩モノクロ半切32点を展示します。お時間が許すようでしたら、こちらもぜひごらんください。
■東京展(ギャラリーNP原宿 特別企画展)
  開催場所 ギャラリーNP原宿
  開催期間 2015年7月28日(火)から8月10日(月)まで
       平日 10:00から18:00
       土日 10:00から17:00 最終日14:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒150-0001 渋谷区神宮前6-13-11 NPビル3F
  Tel 03-3486-6984
  http://www.nationalphoto.co.jp/gallery/

■広島展
  開催場所 gallery718
  開催期間 2015年8月12日(水)から8月23日(日)まで
       10:00から19:00 最終日18:00まで
       会期中無休 入場無料
  〒730-0036 広島市中区袋町7-18-2F
  Tel 082-247-1010
  http://www.gallery718.com/

第53回 招待席に巣食う妖怪たち

 たまに「仕事柄、たくさん演奏会に行けていいですね、うらやましい」などと言われることがある。年間を通じて数多くの演奏を、用意された招待席で聴けるのは業界関係者の特権でもあるだろう。でも、これが決していいことだけではない。私はむしろ、最近ではこの席に座ることが非常に苦痛になってきた。行けばまた不快になると思うと、足を運ぶ意欲を極端にそがれる。それは、このなかに巣食う妖怪たちのせいだ。彼らは決してお行儀よく演奏を聴いてくれないからだ。特にいやなのが、メモ魔という妖怪である。自分の前の席で、演奏中にひたすらメモをとられると、常にちょろちょろと動く物が視界のなかに入ってくる。それだけならまだましである。カバンや胸のポケットにあるメモ帳を何かあるごとに頻繁にガサガサと出し入れするし、それに合わせてカチカチというボールペンのノックの音や万年筆のキャップの音など、とてもうるさい。
 彼らはどうやら、演奏会評という仕事のために、ここに巣食っているようだ。だから、注意すると、仕事のためにやっていることだ、仕方がないと開き直ってくる。
『クラシック100バカ』(青弓社、2004年)にも書いたが、あるときあるメモ魔を注意したのだが、そいつは顔をぬーっと突き出して、「あのう、ボク、バカなんです」とのたもうた。
 5月30日(金)、日本フィルの定期演奏会(サントリーホール)で、私はまた新たな妖怪に遭遇した。以前にも何度か見かけたメモ魔である。いい年の男性だ。彼は例によって演奏が始まって1分もしないうちにペンを走らせていた。またか、と思った。すると、カバンの中に赤いランプが見える。途中からこのランプがチラチラと目に入るようになり、ペンを走らせる動きと相まって、実にうっとうしい。言うまでもないが、微弱と思われる光でも本番の最中だとかなり明るく目立つ。私はたまらず休憩時間になって、その人物に文句を言った。そのときの会話は以下のようなものである。
「あの、すみません、その赤いランプは何ですか?」
「あ、これはメモをとっているんです」
「そうじゃなくて、その赤いランプは何ですかと聞いているんです」
「批評の仕事をやってるんで」
「はあ? あんた録音してるんでしょう?」
「これはね、誰にも言ってないんだよ」
「言わなきゃいいってことじゃないでしょ! 違法行為じゃないか!」
(その後、事情を話したところ、事務所の担当者が血相を変えてこの男性の席へ急行、この男性の姿は後半にはなかった。)
 この男性はメモをとると同時に録音もして、完璧な批評に仕上げたかったのだろう。以前にも書いたが、メモをとっている瞬間は耳のほうがおろそかになっている。全く聴いていないとは言えないが、でも、注意力は間違いなく落ちている。つまり、まっとうに聴いていなければ、まともな演奏会評など書けるわけがないのだ。なぜ、ここを理解できないのだろうか。あと、別の理由として考えられるのは、メモをとる行為を堂々とおこなうことによって、自分は他人よりも真剣に聴いているそぶりを見せたがっているのかもしれない。
 スコアを持参してくる連中も困りものだ。特に速いテンポの部分になると、それに応じてページをめくる速度もどんどん速くなっていくので、これまた目障りである。
 このような状況だから、本当に自分で聴きたい演目はチケットを購入して聴くことにしている。そうした際にもときどき困った人に出会うが、彼らはそれとなく注意するとちゃんとわかってくれる。でも、妖怪たちはわかってくれない。
 1980年代、私がこの業界に入った頃には、招待席にはこんな妖怪たちはすんでいなかったように思う。ところが、最近はうようよいるのだ。先ほど触れたメモ&録音妖怪は、いまもなおほかの演奏会ではせっせとメモし、録音をしていることだろう。そして、自宅にたまったメモ帳と録音のコレクションを見て、ほくそ笑んでいるに違いない。この妖怪たち、いったい誰が退治してくれるのだろう?
 とても、私1人の手には負えません。

(2014年7月20日執筆)

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