第2回 木村拓哉と『さんタク』

太田省一
(社会学者。著書に『紅白歌合戦と日本人』〔筑摩書房〕、
『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版』〔ともに青弓社〕など)

ドラマからバラエティーへ

「星に当たってしまった少年」。前回は、宮崎駿が語ったこの言葉に導かれながら話を進めた。
 木村拓哉が主演したドラマに、「星」という言葉がタイトルに入った作品がひとつだけある。2002年にフジテレビ系で放送された『空から降る一億の星』である。『あすなろ白書』(フジテレビ系、1993年)、『ロングバケーション』(フジテレビ系、1996年)、『ビューティフルライフ』(TBS系、2000年)の北川悦吏子脚本による「月9」枠の恋愛サスペンスだ。
 放送前から大きな話題になっていたのが、木村拓哉と明石家さんまの初共演だった。しかもさんまは「月9」自体、初の出演だった。とはいえ、俳優としての実績はすでにあった。1986年に主演し高視聴率を挙げた『男女7人夏物語』(TBSテレビ系)である。このドラマは、独身男女のもつれる恋愛模様を都会の風俗を交えて軽快に描き、「月9」の代名詞となったトレンディードラマの原点ともされる。その意味ではさんまに「月9」との縁がないわけではなかった。
 そうしたなか始まったドラマでは、木村拓哉がフレンチレストランのコック見習い・片瀬涼、明石家さんまが刑事・堂島完三、深津絵里がその妹・堂島優子にそれぞれ扮し、殺人事件と3人の過去の秘密が絡みながら物語は展開していった。全話の平均視聴率が22.6パーセント、最終話がその年の連続ドラマで最高となる27.0パーセント(いずれも関東地区。ビデオリサーチ調べ)と数字的にも上々の結果を残した。
 そしてこの共演がきっかけで木村拓哉と明石家さんまは交流を深め、2人による番組が企画される。2003年に始まり、いまや毎年正月恒例となっているバラエティー特番『さんタク』(フジテレビ系)である。
 この番組、お互い未体験なことや苦手なことに挑戦するというのが一貫したコンセプトだ。何をするかを決めるトーク部分から始まり、実際に挑戦し、その余韻のなかでのエンディングでは木村拓哉がギターを手に弾き語りを披露するなど、正月番組ということもあって2人のリラックスした表情を見ることができる。
 その際、未体験なものに挑むということから、お互い相手のフィールドへの挑戦が企画になることもある。2015年の放送では、さんまがSMAPのツアーのステージにサプライズ登場し、木村拓哉と「アミダばばあの唄」をデュエットした。
 そして今年2016年の放送では、そのアンサー企画ということで木村拓哉が吉本の本拠地である劇場なんばグランド花月でさんまとともに人生初の舞台コントに挑むことになった。『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)でコント自体は数多くこなしているが、生の観客がいる舞台でのコントには、まったく違う緊張感があるのだろう。さんまと2人でアリクイに扮してのコントだったが、その緊張は終始見ている側にも伝わってきた。だが本番は初めてということを感じさせない出来栄えで、客席も大いに盛り上がるなかで無事終了した。
 SMAPの他のメンバーがそれぞれレギュラーのバラエティー番組があるのに対し、現在木村拓哉個人にはない。しかし、ちょうど20周年を迎えた『SMAP×SMAP』などで見せてくれるコントやトークでの姿も彼を知るうえで忘れてはならないものだろう。そこで今回は、木村拓哉にとってのバラエティーとは何なのか、そしてそこに見て取れる彼ならではの魅力を探ってみたい。

録画再生能力

『空から降る一億の星』で木村拓哉が演じる片瀬涼には、物語のうえでも鍵となる特殊な能力がある。それは、どんなものでも一度見たら正確に記憶する能力である。例えば、ラックに並べられた数十のビデオパッケージのタイトルを一瞬見ただけで覚え、それが崩れてしまっても元の順番どおりに並べ直すことができる。
 実は面白いことに、それと似たようなことを木村拓哉は自分自身についても語っている。それを彼は“録画再生能力”と呼ぶ。つまり、「映像を頭に焼き付けて、再現する」ことができるというわけである(木村拓哉『開放区』集英社、2003年)。
 さんまは今年の『さんタク』のなかで「お前は覚えが早いから1日2時間だけ稽古すればいける」と言っていたが、この“録画再生能力”は、木村拓哉がさまざまな場面で私たちに感じさせてくれる勘のよさの秘密なのかもしれない。一つひとつ順を追って習得していくのではなく、全体を一気に把握することができる。例えば、彼の趣味のひとつであるサーフィンについてもそうだ。「波乗りに行く前は、プロのサーファーのビデオを見てから行く。自分が海に入ったときに、「ああやって、波に対して構えてたな」とか、「こうやってからだを傾けてたな」っていうのを思い出してやってみる」(同書)
 当然それは、ドラマなどでも役に立つ能力だろう。実際、木村拓哉は、セリフを覚えるときには一度頭のなかでストーリーの流れを自分なりにビジュアル化したり、台本のページそのものを頭のなかに入れたりするという(同書)。
 前回、木村拓哉にはプレーヤーとしての矜持があるということを書いた。彼にとって、プレーヤーであることは他のどのポジションにも代えがたい喜びである。この話もまた、そんなプレーヤー・木村拓哉の姿勢を示すものにちがいない。作家なり脚本家なりが作った世界観のなかに入り込み、そのなかで与えられた役柄を全うすること。そのことを楽しみ、また同時に自分に課している姿がうかがえる。
 そしてその能力はおそらく、ドラマや映画だけでなく、バラエティーにも生かされているはずだ。
 それを実感させる場面は、『さんタク』にもあった。コントの事前の打ち合わせのときのことだ。木村拓哉は、明石家さんまから共演する次長課長・河本準一の持ちギャグである『サザエさん』のマスオさんのセリフ「えぇーっ!?」の物真似をやるように言われた。突然言われて驚く木村拓哉。だが彼は、即座にそれを完璧にやってみせた。
 振り返ってみても、『SMAP×SMAP』の初期の名作コントのひとつ「古畑拓三郎」などもそうだった。田村正和扮する古畑任三郎の物真似をする人は少なからずいるが、あそこまで“完コピ”できた例は、そうないだろう。あるいは、ドラマ『探偵物語』(日本テレビ系、1979―80年)の松田優作を真似た「探偵物語ZERO」の工藤や小室哲哉の独特のクネクネした動きを見事に再現したフラワーTKなども同様だ。
 そこには、単なるパロディーというだけにはとどまらない、対象に没入し、同化してしまうような観察眼の鋭さが感じられる。だがそうしたことも、彼の“録画再生能力”のことを知れば十分納得できる。物真似をすることは、その意味では台本を覚えることと同じなのだ。

現場の人・木村拓哉

 しかし、それをただコピー能力が高いというだけで片づけてはならないだろう。それは大前提としてあり、さらにそれ以上のものを見せてくれるところにプレーヤー・木村拓哉の本領はあると思えるからだ。
 なんばグランド花月でのコントのときにも、そんな場面があった。朝5時のカラオケ屋という設定。疲れて寝ているさんまと河本、そして木村拓哉。ふと目覚めて「いま何時?」「女の子たち、もう帰った?」というフリのあとに木村拓哉が「うわっ、さっきの娘たちから、すごいライン来てる」とアドリブを発すると会場は爆笑に包まれた。
 プレーヤーであるとは、現場の人であるということだ。人生初の舞台コントの緊張感のなか、木村拓哉は実際始まってみたら観客の反応をギャグにしたりするなど、ライブでの強さを随所に感じさせた。その象徴が、このアドリブだったといえるだろう。
 ただ木村拓哉にとって現場とは、こうした観客がいるような場だけを指すのではない。
 何度か裏話として語られていることだが、『SMAP×SMAP』のスタジオ収録の際、木村拓哉は待ち時間でも楽屋に戻らず、スタジオ前の控え場所である前室にずっといるという。そこもまた彼にとっては現場だからだ。「基本、出演者の役割は現場にいることだと思ってるから。本番だけが仕事じゃない。セット転換だったりコーナーが変わったりしているスタジオ内の動きを感じていたいし。メークさんや美術さんとちょっとコミュニケーションをとれるところにいたいってのもあるかな」(『SMAP×SMAP COMPLETE BOOK――月刊スマスマ新聞VOL.2~RED~』〔TOKYO NEWS MOOK〕、東京ニュース通信社、2012年)
 ここでも、木村拓哉のプレーヤーとしての意識は一貫している。本番中だけでなく、収録の準備にスタッフが働いている場所もまた、彼にとっては現場である。「何を食うか、何をしゃべるか、何を歌うか。考えてくれるのもスタッフだし。スタッフがいて、初めて成り立っていることだから」(同書)
 スタッフへの感謝の念も当然あるだろう。同時にこの言葉からは、セリフがすべて台本で決まっているわけではないバラエティーで、出演者、つまりプレーヤーとしてどのような立ち位置にあるかを彼が常に自覚していることがわかる。
 そこからひとつ出てくる答えが、視聴者目線に立つということだ。「自分がスマスマの中で発する言葉とかって…なんか全然、業界目線じゃないんだよね(笑)。ホントに、視聴者の人を代表してしゃべってるような感じかな」(同書)
 海外からの有名スターや普段ほとんどテレビに出ないようなアーティストが出演することも多い『SMAP×SMAP』で、木村拓哉が見せる反応は確かに驚くほど素直である。特に「やっべえ」とか「すっげえ」とかいった感嘆詞が発せられる頻度は、他のSMAPのメンバーよりもかなり多い印象だ。それはきっと、彼が「視聴者の人を代表」することをどこかでいつも意識しているからなのだろう。そしてそのことによって、テレビの前の私たちも彼らと同じ現場の人になることができるのだ。

下ネタの意味

 バラエティーでのそうした姿からは、木村拓哉の「素」の部分も垣間見える。それは、「カッコいい」という言葉で括られがちな木村拓哉という存在の、違う人間的魅力を教えてくれる。
 例えば、2014年のフジテレビ『FNS27時間テレビ』がそうだった。SMAPが総合司会を務めたこの年、深夜恒例の「さんま中居の今夜も眠れない」のコーナーに中継で登場した木村拓哉は、セクシー女優相手に“暴走”した。ハニートラップにかかり、痛い目に遭った経験をもつさんまのために安全なセクシー女優を紹介しようというコンセプト。そこで木村拓哉は居並ぶセクシー女優を相手に下ネタお構いなしで仕切り、むしろさんまや中居正広があわてて抑えようとしたくらいだった。
 その中継が終了したCM明けのこと。「さんまさんに楽しんでもらうために身を削って頑張ってくれた」と中居がフォローすると、さんまは「身を削ってないよー、あいつ。あいつ、あんなんやで」と返す一幕もあった。
 このさんまの言葉は、木村拓哉のラジオ番組『木村拓哉のWHAT’S UP SMAP!』(TOKYO FM)を聞いているファンであれば、大きく頷けるものだったかもしれない。
 1995年に始まったこの番組では、彼の飾らない魅力が存分に楽しめる。その象徴が下ネタで、女性の下着の好みについて事細かに語ったり、自分の性の目覚めに絡んでボディコンブームの思い出を語ったりとほとんど定番化しているといってもいい。
 そこから伝わってくるのは、彼の等身大的な少年の部分だ。聞いているのは同性ばかりではなく、むしろ当然女性のほうが多いだろう。しかし、そこには思春期の少年が同年代の友人同士で交わす下ネタのノリが感じられる。『27時間テレビ』の“暴走”も、そうしたかわいげを感じさせる部分があったからこそ笑いに昇華できたのだろう。
 このラジオの仕事で木村拓哉と知り合った放送作家・鈴木おさむは、同じ1972年生まれの同級生、まさに同年代の友人だ。そんな鈴木おさむとの何げない会話のなかから生まれたコントが、『SMAP×SMAP』の人気キャラクター「ペットのPちゃん」である。「移動で飛行機に乗ってる間、おさむとずっと「こういうやつが、こんなことして、こんなこと言ったら、面白くない?」と話していって。(略)ピンクの犬の着ぐるみを着てるやつなんかも、飛行機のなかでずっと話して作ったもののひとつだよね」(「Bananavi!」vol.001、日本工業新聞社、2014年)
 Pちゃんのコントも、ご存じのように下ネタのノリがベースにある。このキャラクター、木村拓哉扮する犬のPちゃんが飼い主である稲垣吾郎扮するパパの目を盗んでママや遊びにきた女性ゲストに突然人間の言葉を話し、誘惑し始める。
 こうした下ネタは『SMAP×SMAP』には珍しく、当初はコーナー前に「大人の方のみご覧頂けます」とのクレジットも出ていたほどだ。最近では主婦の不倫を描いて話題になったドラマ『昼顔――平日午後3時の恋人たち』(フジテレビ系、2014年)のパロディーコント「昼顔」もあるが、「ペットのPちゃん」は番組開始直後の1996年5月から始まっている。となると、下ネタはやはり、年齢に合わせた題材の変化というよりは、木村拓哉の「素」の部分からくるものであることがうかがえる。

色気のありか

 また木村拓哉は、自分でも認めるように「エロい」という表現をよく使う。しかしこの場合は、単なる下ネタとは違って、人がもつ色気を木村拓哉流に表現したものだ。年齢に関係なく、「向こうに何があるのか見たかったら、多少の塀ならよじのぼっちゃうような感じ」(木村拓哉『開放区2』集英社、2011年)と木村拓哉はそれを例える。いかにも冒険心あふれる彼らしい表現だ。
 そしてそういう人に多く出会えるのは、仕事の現場だという。「それぞれのパートで、それぞれ担っている責任を、個性を駆使して果たしている。おもしろいボキャブラリーを持っているし、引き出しも多い。名刺なんて必要なくつき合える」。つまり、「根っこの部分の人間的魅力」があってこその色気なのだ(同書)。
 ではそんな色気はどうすれば醸し出せるのか? 木村拓哉はこう答える。「それは自分の足で動いて、いろんなものを見て、たくさん感じること。たぶんライブの動きひとつにしても、憧れたアーティストのステージングを見たからこそ生まれるものだろうし、被写体になるときも、好きな写真集を見てなかったらできない表情をしてるかもしれない」(同書)
“録画再生能力”は、こんなところにも発揮されているといえるだろう。ライブのステージングやカメラの被写体になるときの表情。当然ドラマや映画でひとつの役柄を演じるときもそうだろう。そしてコントでも。
 そう言われると、木村拓哉のコントキャラクターは一様にどこか「エロい」。パラパラブームに一役買ったバッキー木村や「ホストマンブルース」のホスト・ヒカルのような設定からしてそのようなキャラクターはもちろんだが、「スマスマ高校メガネ部っ!」のキャプテンのような、瓶底メガネに奇妙なカツラという扮装をした、気弱そうなキャラクターでもそうだ。このキャプテンのイメージは、木村拓哉が描いたスケッチがもとになっているという(『SMAP×SMAP COMPLETE BOOK――月刊スマスマ新聞VOL.3~BLUE~』〔TOKYO NEWS MOOK〕、東京ニュース通信社、2012年)。その点、ここでも彼の記憶の蓄積、“録画再生能力”が一役買っているのだろう。
 またあでやかさという意味では、いくつかの女性・女装キャラも思い浮かぶ。「竹の塚歌劇団」の愛ゆうき、「ギャル店員シノブ」のシノブなど、性別を超えて「きれい」という表現がぴたりとはまる。2005年の『さんタク』では、ビヨンセのプロモーションビデオを再現するという企画で自らビヨンセに扮し、さんまやスタッフをざわつかせる場面があったことも思い出す。
 なるほど、こうしたキャラクターが残すインパクトは、彼がもつビジュアルの力があってのものだろう。ただ、コントの基本はキャラクターを演じきることだ。「ちょっと1回タンマ」など若者には意味不明な言葉を使ってしまい、46歳という本当の年齢がばれそうになるが、息子の高校受験の費用が必要なために必死に取り繕うシノブなど、おかしくはあるが「根っこの部分の人間的魅力」にあふれている。だからこそ、木村拓哉が演じるキャラクターはどれも、鮮やかでオリジナルな印象を私たちに残すのではないだろうか。

偶然の一致

 SMAPがデビュー当時、歌番組の減少もあってなかなか軌道に乗れずバラエティーに活路を求めたことは、いまや知る人ぞ知るところだろう。それは、アイドルが本格的バラエティーに取り組むことなど、まだ前例がない時代のことだった。
 当初、木村拓哉のなかでは、バラエティーに出ることは「人に笑われる」という感覚が抜けきれず、抵抗が強かったという。だがお笑い芸人たちとの出会いが、彼を変える。「すごい努力だったり、すごい感覚だったりがないと、人を笑わせることはできない」(前掲「Bananavi!」vol.001)、そう考えるようになったのである。
 それは、「一番最初に密接に知り合ったのが、いきなりさんまさんだったから、なおさら強く感じ」たことでもあった(同誌)。その意味で、「叔父貴」と呼んで慕うさんまとの『さんタク』でのコント共演は、「いままでかいたことのない汗をかいた」とコント後に振り返った木村拓哉にとって、記念すべき一ページになったにちがいない。
 そして木村拓哉は、「“人を泣かせる”ということと、“人を笑わせる”っていうことは同じなんだな」といつしか思うようになった(同誌)。つまり、ドラマとバラエティーは、本質的に変わらない。
『空から降る一億の星』で木村拓哉扮する片瀬涼は、幼いころに父親を失った出来事がきっかけで施設に育ち、人を愛することができないでいる。父親の死の場面も、そのとき受けたショックがもとで思い出せない。だが、明石家さんまと深津絵里扮する兄弟と運命の糸が絡み合うなかで、あるとき彼は“録画再生能力”を取り戻し、父親の死の場面をまざまざと思い出す。しかしそのことによって物語は悲劇的な結末へと向かっていく。
 その結末を迎える直前の場面、木村拓哉が見せる演技が強く印象に残る。深津絵里扮する堂島優子との出会いによって人を愛することを初めて知った片瀬涼は、それまで見せていた冷酷なまでにクールな表情とは一変し、最後の最後に涙ぐみながら優しく彼女にほほ笑む。その泣き笑いの表情が、美しくも哀しい。
 それは、このドラマの主題歌であるエルビス・コステロの「スマイル」が歌う歌詞を思い出させる。「ほほ笑んで 心が痛くても ほほ笑んで 心が折れそうになっても」と歌いだすこの歌もまた、喜びが悲しみや苦しみと背中合わせのものであり、でもだからこそほほ笑もうとささやきかける。ドラマのラスト、一人残された明石家さんま扮する堂島完三が、涼と優子の2人が残していったカセットテープから流れる「見上げてごらん夜の星を」を聞き号泣したあと、何かを吹っ切るようにほほ笑むシーンも、そのことを暗示する。
「スマイル」は、もともと映画音楽として作られた。作曲したのは喜劇王と呼ばれるチャールズ・チャップリン。自らが主演した映画『モダン・タイムズ』(1936年)で使われた曲である。その後歌詞付きのバージョンができ、多くのアーティストによってカバーされてきた。エルビス・コステロもそのひとりだ。
 そしてチャップリンを尊敬する人に挙げるのが、中居正広である。SMAPが結成されてまだ間もないころ、チャップリンの『街の灯』(1931年)を観て感動した中居正広は、チャップリンの伝記のなかで「喜怒哀楽の中でいちばん難しいのは、人を喜ばせること、笑わせることだ」という一文に出合い、バラエティーの道を究めようと決意する(「中居くん日和」「ザテレビジョン」1997年8月29日号、角川書店)。
 バラエティーに真摯に取り組むなかで木村拓哉が得た「“人を泣かせる”ということと、“人を笑わせる”っていうことは同じなんだな」という思い。それは、中居正広が出合い、彼を動かしたチャップリンの言葉と確かに響き合っている。こうして2人は、それぞれ別の道筋をたどりながらも、同じ場所に行き着いたのだ。その偶然の一致に、私はSMAPというグループが作り上げるエンターテインメントの本質、そして深さを垣間見た思いがした。

 

Copyright Shoichi Ota
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風化させてはならない宝塚の記録――『白井鐵造と宝塚歌劇――「レビューの王様」の人と作品』を書いて

田畑きよ子

 白井鐵造は、いまも歌い継がれる「すみれの花咲く頃」の訳詞者であり、宝塚歌劇一筋にその基礎を築いた人物でもある。そのために白井の研究者は後を絶たず、さらに、白井の自伝『宝塚と私』(中林出版、1967年)、そして、愛弟子の高木史朗『レビューの王様――白井鉄造と宝塚』(河出書房新社、1983年)が刊行されていて、白井論は出尽くした感がある。それなのに、なぜいまさら、白井鐵造なのか? 
 大阪にある阪急文化財団池田文庫を退職後、3年かけて白井と向き合ったのにはいくつかの理由がある。その一つには、胸中に多くの“なぜ”が渦巻いていたからである。例を挙げれば、13歳で故郷を離れて染め物会社に奉公に出た白井が、なぜ音楽の道を志したのか。どのようにして宝塚へとたどり着いて、豪華絢爛の「夢世界」を築き上げたのか、その経緯は明白ではなかった。「すみれの花咲く頃」の元歌は「リラの花咲く頃」、しかし、なぜ、白井は「リラの花」を「すみれの花」に置き換えたのか。その誕生秘話は明かされず、ずっと歌は独り歩きしてきた。いわば肝心要の節目が曖昧なのである。これらを資料に基づいて明らかにしてみよう、白井の業績を一本の線につないでみたいと考えたのが、本書執筆のきっかけである。
 それは取りも直さず、白井が残した約1万3,000点に及ぶ資料群のなかの、パリ留学の際に舞台を観て記録をつづったノートやパリのミュージックホールのプログラム類、洋雑誌などの整理に携わった証しでもある。白井が生前に集めていた資料群をめぐっては、白井が住んでいた伊丹市と阪急電鉄がちょっとした争奪戦を繰り広げて、当時、新聞でも話題になっている。結局、白井の遺言が決め手になってそっくり池田文庫に寄贈された。実際に、1984年(昭和59年)2月23日にダンボール160個分をトラック6往復で搬入したと記録に残っている。
 こんな経緯で受け入れられたにもかかわらず、和図書以外の資料は未整理のまま書架に積まれていたようだ。皮肉にも、私がこれらの資料と出合ったのは、1995年(平成7年)1月17日の未明に起こった阪神・淡路大震災がきっかけだった。書庫内の書架が崩れて本や雑誌や資料は床に飛び散り、余震のたびに本が落ちてくるような状態だった。しばらくして運び出し作業が進められて、それらは閲覧室や展示室に並んだ。白井の資料はそのなかにあった。寄贈を受けてから11年もたっていた。司書としてのノウハウを教えてくれた先輩がシャンソンの楽譜の整理を担当し、それ以外の雑多な資料類は私が受け持った。こうしてみると、白井の原資料にいちばん近いところにいた者として、白井の業績を一本の線につなぐ仕事は、いわば天命というべきものだったのかもしれない。整理作業それ自体が大変な労力を要するものだったが、その作業が白井鐵造研究の何よりの絶好の機会であり、そのチャンスをこのような形で本書に生かせたことは、感謝すべきことだと思っている。

 白井が亡くなったのは、1983年(昭和58年)12月である。没後30年以上もたっているのだから、風評が流れて憶測が乱れ飛び、本来の白井鐵造像は見失われている。真の姿をあぶり出すには、資料をよりどころに論を編むこと以外に方法はない、と私は考えた。もともと司書や学芸員として仕事を重ねてきたので、それは当然のことなのだが、意外に労力を要して困難を極めた。とはいえ『パリゼット』(月組、1930年)や『花詩集』(月組、1933年)、『虞美人』(星組、1951年)などの主立った作品に関するコピーは、「白井鐵造生誕百年展」(2000年)の企画の際にファイリングしていた。もう一つの味方は、「宝塚歌劇90周年展」(2004年)を担当したとき、「歌劇」や脚本集(一時期、小林一三や白井などの論考が載っている)などを創刊号から92年(平成4年)頃まで読み通していたことである。歴史をきっちりととらえたいという思いから試みたのだが、雑誌名と執筆者、発行年月を記して、記事の要点も入力している。今回、これが大いに役立った。しかし、引用したくても発行年を書き忘れていたり、雑誌名があやふやで資料に届かなかったりすることもあった。さらに、「歌劇」の読書投稿欄「高声低声」や小林一三が大菊福左衛門のペンネームで「歌劇」誌上に掲載していた辛口の公演評を中心に、今回改めて調査した。こうして、駆け引きなしの白井の人と作品が浮かび上がったのである。これは、白井鐵造がファンの声に一喜一憂しながら成長していった記録でもあり、同時にタカラヅカの出版物の歴史でもあるのだ。歌劇団当局が、各方面の批評家の意見や読者の声を、その酷評さえも克明につづってきたからこそなしえた仕事である。
 70歳のデビュー作である本書はことのほか難産だったが、いざ産声をあげてみると、驚くほどの好評価で迎えられた。「風化させてはならない貴重な記録」「今後長きにわたって宝塚研究者の進む道を照らすもの」などの葉書が届いた。また、本書には演出家による称揚を所収しているが、その一人の岡田敬二先生からは、「すごい労作! 感動して二回も読みましたよ」というメッセージをいただいた。友達からは「根性と努力に乾杯!」と花が届き、白井の厳しい指導ぶりを語ってくれた宝塚OGからは激励の電話や手紙が相次いだ。まだ身内の範囲ではあるが、小さな波紋が広がりつつある。
 やっと完成した自著を改めて読み返してみると、タカラヅカってすごい! 100年の歴史を築くのに、どれほどの汗と涙と根性と努力があったかを実感できるのである。宝塚の歴史の深さにいちばん感動したのは、実は、こうして白井の足跡をつづった私なのかもしれない。
 
「読売新聞」2016年2月13日付夕刊が「パリを歌う すみれの花」と題して、「花の種類を変えた背景に、「すみれこそがパリを象徴する花」という白井の強い思いがあったこと」を田畑きよ子が突き止めた、と社会面に大きく取り上げてくれた。「白井は、すみれを野に咲く控えめな花ではなく、レビューの本場を代表する花として捉えていた」ことを「宝塚グラフ」(1973年1月号、宝塚歌劇団出版部)の記事から発見したと報じている。この新聞記事と拙書を、毎日放送の浜村淳さん宛てに送ったら、「白井先生とは、宝塚の花の道ですれ違ったことがある。あのときお話をしておけばよかった……」と、ご本人から直接電話をいただいた。翌日のMBSラジオ『ありがとう浜村淳です』では、「よく調査されている。本を読んでから舞台を観るとまた違った観劇が楽しめる」と紹介してくださった。
 タカラヅカは、歌舞伎のように代々芸を引き継いでその芸を極めていくというようなことはないが、個々の、それぞれの個性的な演技が光る。そしてスターもいつかは卒業してトップも次々に変わっていく。だからこそ、宝塚はいつまでもフレッシュさを失わない、という構図が成り立つ。そのぶん宝塚は新陳代謝が激しい、花の短い命を競い合うような集団であり、ここに宝塚の人気の秘訣がある。こうしたアマチュアリズムが根底にある宝塚だからこそ、美しい色彩と甘美な音楽が似合い、歌あり、舞いあり、演技ありの舞台が、新時代の演劇として成り立ったのである。
 白井が育ててきた宝塚レビューは、新たな発展の道を歩み続けている。これが宝塚歌劇100年の歴史に、そして次の100年へとつながる道なのだ。本書は、白井の過去の栄光にスポットを当てて昔を懐かしむものではない。原点に戻って、「宝塚とは何か」と考える機会になれば幸いである。
「文字が小さい」「内容が濃くてなかなか読み進まない」という声が届くが、書くのに3年かかったのだから、3年かけるつもりでじっくりと読んでほしいと思っている。

第1回 木村拓哉と『ハウルの動く城』

太田省一
(社会学者。著書に『紅白歌合戦と日本人』〔筑摩書房〕、
『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版』〔ともに青弓社〕など)

はじめに

 2014年から15年にかけてこの青弓社ウェブサイトで連載された「中居正広という生き方」は書籍にもなり、幸いなことに多くの方に手に取っていただくことができた。当たり前と言われるかもしれないが、私自身改めて中居正広という存在、そしてSMAPというグループへの関心の高さを実感させられた。
 そして今回、「木村拓哉という生き方」と題し、新しい連載を始めることになった。「次は木村くんで」というありがたいリクエストもいただいたと聞いている。この連載でも、中居正広のときと同様、毎回違った角度から木村拓哉その人にスポットを当て、その魅力に迫っていきたいと思う。
 中居正広と木村拓哉。この2人はSMAPでは「ツートップ」と称される。SMAPは個々自立したエンターテイナーの集合体であり、だからこそ芸能史に残る稀有なグループでもある。とはいえ、2人はともに1972年生まれの同い年でグループの最年長ということもあり、グループを長年牽引する立場にあった。またそうして注目される分、SMAPをめぐるさまざまな出来事のなかで、ときには社会やメディアからの声の矢面に立ってきた2人でもある。今年2016年に入って巻き起こった騒動でもそうだったことは、いまさら思い出すまでもないだろう。
 一方、個人としての木村拓哉は、1990年代から時代を象徴する特別な存在であり続けている。「キムタク」という誰もが知る呼び名は、その産物でもある。そのような存在になり始めた頃、彼は「“キムタク”って、どうやら公共物らしい」とエッセーに書いた(木村拓哉『開放区』集英社、2003年)。そこには、自分という存在が自分の手を離れて一つの社会現象になっていることへの戸惑いのようなものがひしひしと感じられる。その気持ちは、私には想像がつかない。だが木村拓哉は、「キムタク」という第2の名前との付き合い方をそのうち身につけ、現在にいたるまでその特別な地位を保ってきた。
 それは取りも直さず、木村拓哉が「スター」だということだ。彼を語るうえで、そのことは外せない。だからここから木村拓哉をめぐる私の話を始めることにしよう。

スターとアイドル

「スター」と呼ぶにふさわしい存在は、今日それほど多くはない。かつて娯楽の王様が映画だった時代には、きらびやかな“銀幕のスター”たちが時代を彩った。その後テレビの登場は、「スター」に代わって「アイドル」という存在を生み出した。遠く手が届かない存在ではなく、すぐ身近にいそうな親しみがある存在。世の中はいま、いたるところアイドルであふれかえっている。
 そんな時代にあって木村拓哉は、数少ないスターの一人だ。
 主演ドラマが放送されるたびに、視聴率のことが注目されるのもその一つの表れだろう。当然彼は、視聴率のために演じているわけではない。そこだけを取り上げられるのは心外なことにちがいない。ただ、これまで彼の主演ドラマがその面で飛び抜けた実績を残してきたのも事実だ。『HERO』(第1期、フジテレビ系、2000―01年)が34.3パーセント、『ビューティフルライフ』(TBS系、2000年)が32.2パーセント、『ラブジェネレーション』(フジテレビ系、1997年)が30.8パーセント(いずれも平均視聴率)など、いまではちょっと考えられない数字である。いわばテレビ時代の「ドル箱スター」的な存在だ。
 そこにはやはり、誰もが認める「カッコよさ」がある。それは、映画時代のスターがそうだったように、無性にまねしたいという気持ちを起こさせる。それもまた、木村拓哉がスターであることの証明だろう。
 1990年代には、トレードマークだったロン毛をまねる若者が続出した。あるいは、ドラマで彼が身に着けたファッションがはやることも、『HERO』のレザーダウンジャケットなどをはじめ、これまで一度だけではない。『ロングバケーション』(フジテレビ系、1996年)の彼の演奏姿を見てピアノ教室に通う男性が増えたという「ロンバケ現象」もあった。
 さらにその影響は、人生の選択にまで及んでいる。木村拓哉がドラマで演じた職業に憧れた人々が、その道を選ぼうとする。『ビューティフルライフ』を見て美容師への道を進み、『GOOD LUCK!!』(TBS系、2003年)に感化されて航空業界への就職を目指す、というようなことが起こる。木村拓哉自身、彼のドラマに影響されてその役柄の職業に実際に就いてしまった人たちと番組で対面し、思わず感極まったこともあった(『HERO THE TV』フジテレビ系、2015年7月18日放送)。
 しかし、木村拓哉はSMAPの一員であり、そのためアイドルでもある。むしろアイドルの代表といってもいいだろう。そんな彼には、ただ「カッコいい」だけではない、ラジオでの飾らない話しぶりやコントで見せる面白い一面などさまざまな顔がある。それは、木村拓哉という存在の親しみやすさ、つまりアイドル性につながっている。
 ただ、それでは先ほど述べたことと矛盾してしまうかもしれない。少なくともスターであることとアイドルであることは、まったくイコールではない。だが実際、木村拓哉は、スターでありながらアイドルでもあるという、芸能史を振り返ってもあまり類を見ない存在としていまも活躍し続けている。そこに私などは強く引き付けられる。そしてまた、そんな2通りの顔をもつ彼をファンや時代がなぜ求め続けてきたのかを知りたい気持ちにもなる。
 私たちにとって木村拓哉とはいったいどのような存在なのか? これから話を進めていくなかで、彼の魅力とともにその答えに少しでも近づければと願っている。

「星に当たってしまった少年」

 このように書いてきて思い出すのは、宮崎駿の「星に当たってしまった少年」という言葉だ。
 それは、2004年公開の宮崎作品『ハウルの動く城』(以下、『ハウル』と略記)にまつわる。この作品、ご存じのように美しい魔法使いの青年ハウルの声優を木村拓哉が担当したことで大きな話題になった。
 宮崎作品の長年の大ファンでもあった彼は、『ハウル』への出演が決まり初めて宮崎駿に会った。その際、宮崎が木村拓哉にかけた言葉が、「彼(ハウルのこと)は「星に当たってしまった少年」なんですよ」というものだった。まだこれから声を入れる前の段階だった木村は戸惑ったものの、その一言を胸に声撮りに臨んだ(『木村拓哉のWhat’s UP SMAP』TOKYO FM、2013年9月27日放送)。
「星に当たってしまった少年」。その意味するところを映画にしたがっていえば、こうなる。
『ハウル』の物語の大きな鍵になるのが、ハウルが火の悪魔カルシファーと交わした契約である。本人たちは、内容もわからないままその謎に縛られている。それを解く役目を担うことになるのが、少女ソフィーである。物語の終盤、彼女はふとしたきっかけでハウルの子ども時代に迷い込み、そこで契約の秘密を知る。少年ハウルは、流れ星になって落ちてきたカルシファーに当たった瞬間、命が尽きかけようとしていたカルシファーを飲み込み、自分の心臓を与えて救ったのだった。もとの世界に戻ったソフィーは心臓をハウルのもとへと戻し、ハウルとカルシファーをともに危機から救い出す。
 私のなかで、そんな「星に当たってしまった」特別な運命をもつハウルは、木村拓哉そのものなのではないかと思えてくる。
 例えば、ハウルはその美しい容姿で街の女性たちの評判になっている。だが魔法使いゆえに「美女の心臓を取って食べてしまう」というよからぬ噂も立っている。そんなある日、ソフィーは男たちにしつこく絡まれているところを見知らぬ美青年に助けられる。それがハウルとの出会いである。まさに少女漫画的ラブロマンスの王道的展開であり、ハウルというキャラクターは、「いい男」の代名詞・木村拓哉を彷彿とさせる。
 とはいえハウルは、ただの美しい王子様的キャラクターとして描かれているわけではない。ソフィーはハウルのことをこう語る。「わがままで臆病で何を考えているかわからないわ。でもあの人は真っすぐよ。自由に生きたいだけ」
「自由に生きたいだけ」の「真っすぐ」な人。これほど木村拓哉という人を形容するのにぴったりと思える表現もないだろう。例えば、『NHK紅白歌合戦』で北島三郎が「まつり」を歌うたびにひときわ目を引く熱さで盛り上げようとする彼は、とても真っすぐで自由だ。どんなときでも全力で手を抜かず、だからときどき熱くなりすぎるほどかもしれないが、そうだからこそ人一倍頼りがいがある。木村拓哉はそんな人なのではないだろうか。
 スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫が語る次のようなエピソードにも、そんな彼の人となりが表れている。『ハウル』の声の収録中、木村拓哉はセリフを事前にすべて頭に入れ、スタジオにはいっさい台本を持ち込まなかった。アニメでは、声優が台本を読みながら収録するという光景が当たり前だった鈴木は、その真剣さに「何という真面目な人か」と感嘆したという(『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』TOKYO FM、2012年11月30日放送)。

アニメ少年・木村拓哉の冒険

 実際、木村拓哉とアニメの関わりには想像以上に深いものがある。
 例えば、鈴木敏夫はこんなエピソードも披露している。
『ハウル』の声優を選ぶにあたって、ハウル役だけがなかなか決まらなかった。そんなとき、ジャニーズ事務所のほうから木村拓哉がジブリ作品に何らかのかたちで参加したい希望をもっているという話があった。そこで鈴木は、木村拓哉にハウル役をオファーする。ただ、それまでのジブリ作品の配役でもそうだったように、木村拓哉のドラマや映画を前もって見るということを鈴木はまったくしなかった。そのため「うまくいくかなあ」と収録初日までドキドキしていた。だが、木村拓哉の第一声を聞いてその不安も消し飛んだ。横にいた宮崎駿も思わず喜んでいたという(同番組)。
 木村拓哉ファンであれば、そんな鈴木の不安は最初から無用だったと思うかもしれない。というのも、自分の側からジブリ作品への参加を望んだように、木村拓哉のアニメ愛は並々ならぬものだからだ。
 それは、『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の企画「ONE PIECE王決定戦」をごらんになったことがある方ならば納得がいくだろう。いままで7回放送されたこの企画、漫画・アニメの『ONE PIECE』(尾田栄一郎)のマニアックな知識を競うクイズだが、基本は木村拓哉とほかのゲストとの対決である。いずれも『ONE PIECE』好きを自任する人たちが登場するが、それでもこれまで木村拓哉が5回優勝と断トツの成績である。バラエティー的には、『ONE PIECE』を読んだことも見たこともない稲垣吾郎と草彅剛が「見届け人」として脇からさめた発言をするところがまた、木村拓哉の熱さを際立たせる。
 そんなアニメへの情熱は、少年の頃から変わっていないようだ。「小さい頃から、いつも何かのアニメ作品がそばにいてくれた。夕方観たいアニメが必ずあって、間に合わせようとして、すごいスピードで帰ってたからね」(木村拓哉『開放区2』集英社、2011年)
 子どもの頃であれば、好きなアニメに夢中になるのも珍しくはないかもしれない。しかし、アニメで見たことをそのまま現実にやってみようというまでになると話は別だ。木村拓哉は、そんな冒険心旺盛な少年だった。「『ルパン3世』を観ていた頃、「チャリンコで遊んでるとき「そういえばルパンは、こういう崖、ヘーキで下りてたよな」って真似した」こともあった。もちろん怪我したけどね」(同書)
 同じような話は、2015年12月に放送された『さんま&SMAP! 美女と野獣のクリスマススペシャル’15』(日本テレビ系)でもあった。明石家さんまとSMAPのメンバーが各自嫉妬するほど憧れの人物を発表するという企画である。そこで木村拓哉がムツゴロウ王国の石川さんと並んで挙げたのが、実在の人物ではなくアニメ『トム・ソーヤーの冒険』(フジテレビ系、1980年)の主人公、トム・ソーヤーだった。
 トム・ソーヤーの世界に憧れた当時小学生の木村少年は、アニメに出てきた冒険を実際に自分でもやってみようと思い立つ。巨大な発砲スチロールを発見すると、それをいかだがわりにして川下りをして沖に流されそうになる。また釣った魚をたき火で丸焼きにして食べる。それが通報されて全校集会で怒られても、アニメの場面に重ね合わせて「すげートム・ソーヤーっぽいな」と木村少年は内心喜んでいたという。
 物語を現実に生きること、あるいは現実を物語のように生きること。それは、少年時代から木村拓哉のなかに一貫して存在する行動軸なのではないだろうか。この番組のなかで彼を主人公にしてオリジナルそっくりに作られたアニメ『キム・タクヤーの冒険』のように彼は生きている。
 だから木村拓哉は、「プレーヤー」であることにこだわるのだろう。あるインタビューで、「つくる側」、演者よりさらにもう一つ上の場所で何かを表現してみたいという気持ちはないか、と問われた彼は、「ぜんっぜん(笑)。僕はもうプレーヤーでいいです」と即答し、さらにその理由については、「やっぱりこの場所が楽しいし、それにプレーヤーっていうものも、どこまで行ってもゴールがないですからね」と語っている(「SPA!」2014年7月22・29日合併号、扶桑社)。
 この「プレーヤー」という表現に、木村拓哉の哲学は凝縮されているように思える。プレーすることにジャンルの垣根はない。ドラマや映画であれ、歌やダンスであれ、はたまたコントであれ、すべてプレーするということでは変わらない。演技する人、歌う人、踊る人、そのすべてを一言で表す言葉が「プレーヤー」なのだ。

恋愛、戦争、そして家族

 そんな木村拓哉が、小さい頃から憧れてきたアニメの世界の「プレーヤー」となった『ハウル』。その世界はどんなものなのか。説明的な描写も排除され、見る側の想像に委ねられた部分が多い作品ではある。だがその中心にあるのが、少女ソフィーとハウルのラブストーリーであることはまちがいないだろう。
 ハウルと少女漫画のような出会いをしたソフィーは、その後荒地の魔女の呪いで老婆の姿にされてしまう。そのため、2人の関係はスムーズには進展しない。だがソフィーは掃除婦としてハウルの城に住み込み、しだいに2人は引かれ合っていく。
 そのなかでソフィーの容貌は、ハウルのために勇気ある行動をとった瞬間には、少女のものに戻ったりする。その意味では、描かれ方は一風変わっているが、古典的なラブストーリーである。それは、木村拓哉が演じてきた『ロングバケーション』や『ラブジェネレーション』といった数々の「月9」恋愛ドラマに重なるところがある。
 しかし、ソフィーがハウルたちとともに共同生活を営んでいくなかで、2人の関係は単なる恋愛を超えたものにもなっていく。
 ソフィーとハウルを大きく変えるきっかけになるもの、それは戦争だ。物語の冒頭からすでに、戦争は始まっている。それはいつ終わるとも知れない。そして戦争は、ハウルたちの生活をも脅かし始める。魔法使いとして戦争に協力するよう王室からの要請がハウルに届く。だがハウルはそれを拒否する。それでも諦めようとしない相手に対し、ハウルはソフィーに自分の母親と名乗って断ってきてくれるように頼む。
 そして王宮に向かったソフィーは、王室付き魔法使いでハウルの師匠でもあるサリマンと対面する。協力しないハウルは悪魔に心を奪われたいかがわしい魔法使いだと非難するサリマンの言葉に対し、ソフィーはそんなことはないと敢然と反論する。そのときソフィーの呪いは一瞬解け、18歳の少女に戻る。それを目にしたサリマンは、「お母様、ハウルに恋してるのね」と語りかける。
 ソフィーはハウルの恋人であると同時に母親である。そして魔力を奪われてすっかり「おばあちゃん」のようになった荒地の魔女やまだ幼いハウルの弟子マルクル、そしてカルシファーといった城の同居人たちの面倒をみる立場でもある。誰一人として血はつながっていない。だがマルクルに「僕ら、家族?」と聞かれたソフィーは力強く「そう家族よ」と答える。
 ハウルもまた、そんなソフィーの気持ちを知り、「家族」を守るため戦地に赴くことを決意する。傷つき、ボロボロになりながらも戦い続けるハウル。そこには、ソフィーが母親でもあるように、ハウルが父性を担う存在でもあることが見て取れる。
 ここで思い出すのは、2015年に木村拓哉が主演し、父親役として新境地を見せたドラマ『アイムホーム』(テレビ朝日系)だ。彼演じる家路久は、事故で記憶を失い、妻や子どもとの関係も希薄な、よそよそしいものになってしまう。だが家路はもう一度家族の絆を取り戻そうと決意し、過去の記憶をたどり直し、やがて自分を追い込んだ大きな敵と戦うことになる。
 思うに、そんなハウルや家路の姿は、木村拓哉本人のものでもあるのではないか。かつて「プロフェッショナルとは?」という質問に対し、木村拓哉は「最前線から逃げない人」と答えた。「風当たりは強いけど」前線にい続けたいと彼は語った(『プロフェッショナル 仕事の流儀 SMAPスペシャル完全版』NHK、2011年12月24日放送)。
 木村拓哉が立つ最前線のすぐそばには、ハウルや家路久と同じように彼にとって「家族」と呼べるような多くの人々がいるはずだ。そのなかにはきっと、ファンもいるだろう。ハウルにとって「家族」が必ずしも血のつながりを意味するものではなかったように。あるいは、いざというときに助けの手を差し伸べてくれるソフィーは、ファンの化身でもあるのかもしれない。

再建された城

『ハウル』のラストシーン。ソフィーによってハウルたちは救われ、戦争も終わりに向かう。そしてハウルたちは、今度は自分たちの意思で集い、改めて「家族」として暮らすことになる。住むのは、再建されたハウルの城だ。以前のいかめしく不気味な外観ではなく、緑の木々が茂り、洗濯物がのどかに干されているような、いかにも平和そうな空飛ぶ城である。少女の姿に戻ったソフィーとハウルも仲睦まじい。
 一見、絵に描いたようなハッピーエンドである。だが、実はまだ戦争は終わっていない。そのことが、再建されたハウルの城が飛んでいくはるか雲の下で爆重船が艦隊となって進んでいく場面でわかる。
 そこに私は日本の戦後の状況を重ねてみたくなる。敗戦後の平和のなかで、復興から高度経済成長によって豊かな暮らしを得た戦後日本社会だが、外側では米ソ対立がもたらした冷戦体制があり、そのもとで起こった朝鮮戦争による特需が高度経済成長を後押しした。それを思い起こさせるようなところが、『ハウル』のラストシーン、再建された城が表す平和と終わらない戦争の対比にはある。
 またソフィーの声が倍賞千恵子、荒地の魔女の声が美輪明宏と、ともに戦後日本と関わりが深い人たちが担当していることも、そんな連想をしてしまう理由だ。
 倍賞を一躍有名にした1963年公開の映画『下町の太陽』(監督:山田洋次)は、高度経済成長期に東京の下町にある工場で働く若者たちの姿を描いた映画だった。同名主題歌も大ヒットし、倍賞は『NHK紅白歌合戦』にも出場した。その後『男はつらいよ』シリーズ(監督:山田洋次、1969―95年)で、渥美清扮する寅さんの妹・さくら役を演じたことはご存じのとおりだ。木村拓哉が、両映画の監督である山田洋次と『武士の一分』で一緒に仕事をすることになるのは、『ハウル』の2年後のことである。
 敗戦の年に長崎で被爆した体験をもつ美輪は、シャンソン歌手として人気を博す一方、自作の曲を通じて戦後のあり方を問い続けてきた。その代表曲が、小さい頃の友人をモデルに、戦中から戦後にかけて苦しい生活のなか頑張り続けた母子を歌った「ヨイトマケの唄」だ。2012年、美輪が初出場した『NHK紅白歌合戦』で、やはり「真っすぐな」まなざしでこの曲を紹介した木村拓哉の姿がいまも鮮やかに思い出される。
 そしてジャニーズ事務所の創設者であるジャニー喜多川も、芸能の仕事を通じて戦後、そして平和の意味を考え続けている一人だといえるかもしれない。アメリカ軍関係の仕事で朝鮮戦争時に韓国を訪れた彼は、そこで戦災孤児に接した経験がきっかけになり、帰国後少年野球チーム「ジャニーズ」を結成する。それがジャニーズの歴史の第一歩だった。とすれば、ジャニーズもまた、ジャニー喜多川によって再建された城だったのではないだろうか。
 そう考えるとき、青空のなかを再建された城に乗って飛んでいく血のつながらない「家族」5人(実は隣国の王子で、いまは5人と離れているカカシのカブを入れれば6人だともいえるだろう)に、アイドルグループSMAPの姿がオーバーラップする。そしてそのグループの一員として出発した木村拓哉は、やがて時代と交わるスターになっていくだろう。木村拓哉がハウルだとすれば、そこにはどのような“魔法”があったのか? 「星に当たってしまった少年」木村拓哉は何を考え、何を追い求め、どのような道のりを歩んできたのか? 次回以降、筆を進めていきたい。

 

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予告 新連載「木村拓哉という生き方」が今月からスタート!

太田省一
(社会学者。著書に『紅白歌合戦と日本人』〔筑摩書房〕、
『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版』〔ともに青弓社〕など)

 アイドル、アーティスト、俳優、ファッションリーダー……時代の最前線で常に輝き続け、トップランナーに位置する木村拓哉。男性アイドルの「かっこよさ」のスタンダードを作り出し、芸能史でも異彩を放って圧倒的な存在感を示している。
 アイドルでもありスターでもある木村拓哉の魅力を多角的に検証しながら、彼が背負い、表現してきた社会や時代に迫る新連載。

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 2015年に刊行した『中居正広という生き方』は、おかげさまでご好評いただき、多くの方に手に取っていただきました。誠にありがとうございます。
『中居正広という生き方』はウェブ連載をまとめた書籍でしたが、その連載時から「木村くんも論じてほしい」という声をいただいており、昨年から著者の太田省一さんと本連載を準備してきました。
 年明け早々にSMAPをめぐる一件が大きく報じられ、太田さんも私たちも驚きましたが、本連載はその話題を論じるものではありません。
 アイドル・スターとしての木村拓哉の魅力を改めて掘り起こし、読者のみなさまが共感して楽しんでいただけたら、と願っています。
 今月半ばからスタートする予定です。楽しみにお待ちください。

青弓社編集部

 

第1回 2.5次元文化とは何か?

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

 いま、2.5次元が熱い。

 2.5次元ミュージカル、コスプレ、声優がキャラとしてパフォーマンスするコンサート、アニメの舞台を旅するコンテンツツーリズム……ファンたちは「現実」と「虚構」が混交している空間を自由に行き来しながら、「2.5次元文化」を楽しんでいる……。
 いつの間にか人口に膾炙しつつある“2.5次元”文化だが、その用語が普及すると同時に、その領域の多様化も急速に進んでいる。そのため、「2.5次元文化とは何か」を定義することがますます困難になってきていて、また、定義したそばから例外が生まれ、書き換えられていく。しかし、学術的に研究するための前提として、ある程度の定義は必要である。今回は、“2.5次元”文化研究への足がかりとして、まず筆者が考える「2.5次元文化」を解説し、その現象と社会文化的背景の相関関係を概観し、最後に研究のための方法論の提案をしてみたい。
 そもそも“2.5次元”とは何だろうか。“2.5次元”という用語は、「まるで2次元(アニメ)から3次元(現実)に抜け出たみたい」という、マンガ・アニメ原作の舞台を観たファンの声がネットを通じて共有される過程で生まれたとされている。2008年に出版された『TEAM!』のミュージカル『テニスの王子様』(通称『テニミュ』)特集(1)では、まだ「アニメミュージカル」と呼称されているので、2.5次元という言葉が明文化されたのは、少なくとも08年以降だと思われる。それは2.5次元ミュージカルの公演数増加の時期とも重なっている。「日本の「漫画アニメミュージカル」を世界共通の若者文化へ」という目標を掲げ、14年に設立された一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会はパンフレットで、2.5次元ミュージカルを「2次元で描かれた漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、舞台コンテンツとしてショー化したものの総称(2)」と定義している。「ミュージカル協会」と銘打っているが、協会員の作品のなかにはミュージカルではないストレートプレイ(通常の演劇)も多い。しかし、すでにミュージカルやストレートプレイというカテゴリーでさえも多様になってきていて、ジャンルを厳密に区切るのも困難になっている。
 2次元の虚構物語の舞台・ミュージカル化という観点では、1974年の宝塚歌劇団による『ベルサイユのばら』にその源泉をたどることができ、91年にはSMAP主演による『聖闘士星矢』、93年には世界的ヒットアニメ『美少女戦士セーラームーン』のミュージカル化もあり、2.5次元ライブシアターの歴史は決して短くない。それが、いまや10年以上のロングランを続けるミュージカル『テニスの王子様』をはじめ、チケット入手が困難な2.5次元ライブシアターが続出するほどの盛況ぶりである(筆者も先行予約抽選会に何度も落選している)。実際、十数本で横ばいだった年間公演数は、2008年から増加し始め、10年には30本超、11年に多少減少するものの、12年には60本弱、翌年には70本弱、それにしたがって13年の観客動員数は160万人を突破するという驚異的な伸びをみせている(3)。協会からの公式発表はまだだが、14年は200万人を超えているらしい(4)。海外(アジア)公演をしたミュージカル『テニスの王子様』、ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』、ライブ・スペクタクル『NARUTO−ナルト−』、ミュージカル『黒執事』などの海外での観客動員数を合わせると、のびしろはまだまだありそうだ。実際、協会のウェブサイトを見るだけでも、かなりの数の2.5次元舞台が次々と上演されているのがわかる。
 しかし、“2.5次元”とは、このようなストレートプレイやミュージカルだけの専売特許ではない。筆者は、「2.5次元文化」を「現代ポピュラー文化(アニメ、マンガ、ゲーム)の虚構世界を現実世界に再現し、虚構と現実のあいまいな境界を享受する文化実践のこと」と広義な意味で定義している。あえて「文化実践」としているのは、ネット環境が発達した今日では、送り手/生産者・演技者と受け手/ファンや観客、という2つのベクトルは完全に分離しておらず、送り手と受け手の相互作用のなかに、2.5次元文化は現象するからだ。つまり、送り手(生産者・演技者)も受け手(ファン・観客)もプレイヤー/アクターとして行動し、参加する(participate)というパフォーマンスすることを通じて、2.5次元文化が生産されるのである(こうした文化創造の実践は、参加型文化〔participatory culture〕と呼ばれる)。こうした意味から、2.5次元ライブシアター(アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベル原作のミュージカルや舞台)だけでなく、コスプレ、声優のキャラコンサート(『ラブライブ!』のμ’s(ミューズ)や『うたの☆プリンスさまっ』の声優によるコンサートなど)、コンテンツツーリズム(アニメ、マンガ、ゲームなどの舞台を訪れる聖地巡礼の旅)、コンセプトカフェ(メイドカフェ、執事カフェ、BLカフェなど)といった、2次元と3次元をたゆたう領域で展開されるパフォーマンスを「2.5次元文化」と呼んでいる。
 では、プレイヤー/アクターたちの相互作用を可能にするのは何だろうか。それは「イマジネーション(想像力)によるファンタジー世界の構築」ではないだろうか。2次元の虚構の世界の住人たちが、あたかも3次元の私たちの「現実」に存在するような妄想、錯覚、認知……。しかし、それは最近急に現象したわけではない。イマジネーションの力によるファンタジー世界の構築は、どの時代の人でもできたはずである。だが、虚構と「現実」を接続するツールとして大きな役割を果たしたのは、インターネットや「Twitter」「Facebook」「LINE」などのソーシャルメディアの急激な発達と普及である。観客を取り巻く社会的環境、特にこうしたメディアの発達によるコミュニケーション形態の変化が大きく影響していると考えられる。マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルなどの2次元の虚構が3次元の現実に移植されたコンテンツを、楽しむ。この快楽を容易にさせているファクターの一つに、「リアリティー」に対する私たちの認識の変容があげられる。
 テクノロジーの発達によって、虚構世界を現実に近づける仮想現実、バーチャルリアリティー(virtual reality=VR)が社会を騒がせたのも今は昔、すでにわたしたちは拡張現実(augmented reality=AR)を身近にまとっている。スマートフォンなどを建物などにかざすと、過去の都市が重ねられたり、観光名所にかざすと、すぐさま説明が現れる仕組みで、ARは観光案内などにも気軽に使用されている。QRコードを読み取ると、スマートフォンのカメラを通じてキャラが現実の物体に重なって現れるなど、娯楽にも転用されている。それらVRとARが混在した空間は、複合現実(mixed reality=MR)と呼ばれ、私たちの「リアル」感覚を撹乱する。映画を例にとるとよりわかりやすい。たとえば、2010年に公開された映画を比較すると、伝統的なセットで「リアル」に撮影された映画が『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーバー)とするならば、対極にあるのはすべてが虚構の『トイ・ストーリー3』(監督:リー・アンクリッチ)となる。しかし、その中間にはARの『ブラック・スワン』(監督:ダーレン・アロノフスキー)、拡張仮想(augmented virtuality)『トロン:レガシー』(監督:ジョセフ・コシンスキー)、そして複合現実の映画には『インセプション』(監督:クリストファー・ノーラン)が配置される(5)。
 MRよりさらに「リアリティー」と虚構が複雑に絡み合った状況を、デ・ソウザ・エ・シルヴァは、ハイブリッド現実(hybrid reality=HR)と呼んでいる。都市空間では、モバイル電子機器によって、ネットに接続している状態が常態化し、その結果、物理的空間とサイバー空間の差が消滅していく(6)。ゲームやソーシャルネットワークによるコミュニケーションが日常生活の一部(もしくは大部分)になっている若者には、この感覚はもはや自明のことかもしれない。何を「リアル」と感じるか、という「リアリティー」の概念は、こうしたデジタル空間での自我を違和感なく持続させている多くの若者にとって、もはや物理的感覚と直結しないのである。しかし、ここで強調しておきたいのは、技術決定論で2.5次元文化を論じようとしているわけではない、ということだ。前述したとおり、いつの時代にもファンタジーや妄想の世界は成立していて、人々はいまでいう「2.5次元」的な世界を享受していた。それがなぜ「2.5次元文化」が近年に急速に顕在化してきたように見えるのか。その理由の一つは、SNSやインターネットを選択し、日常的に利用するなかで、現実と虚構を自由に行き交うことが容易になったのが、2000年代後半以降だったということにすぎない。つまり、技術が私たちの認識を変化させたという単純な構造ではなく、技術の発達と私たちのコミュニケーション活動の変化が並行し、相互作用するなかで、「リアル」に感じる感覚が変化してきたということなのである。
 そうした「リアリティー」の感覚が、ハイブリッド現実で可能だと仮定すると、2.5次元文化は、“パフォーマンス”を通じて成立する。ここでいうパフォーマンスとは、「参加者たちが、同じ時空間で、ある領域に囲まれた活動に参加している、あらゆる実践(7)」のことである。エリカ・フィッシャー=リヒテは、演劇、サッカーの試合、結婚式、ミサ、政治集会などあらゆるシーンで、行為者と参加者の相互作用のなかでパフォーマンスは生じると述べる。パフォーマンスの主要4要素は、メディアリティー(mediality)、 実質性(materiality)、記号論的意味性(semioticity)、 審美性(aestheticity)である(8)。メディアリティーとは、行為者と鑑賞者が同時空間に存在し、互いに分離不可能な状態のことである。パフォーマンスとは、それ自体が商品であり、あとに物質的に残らない1回性のものであるため、そのはかなさこそがパフォーマンスの実質性となる。記号論的意味性とは、パフォーマンスがどのように意味を生成するか、ということである。そして、審美性とは、パフォーマンスが参加者たちにどんな経験をさせるのか、ということである。同時空間に存在し、1回性のパフォーマンスが、意味を生成することによって、審美的経験を具現化するのである。
 このパフォーマンス論を「2.5次元文化」の研究に援用しながら、デジタル時代のファン研究、コンテンツ産業研究も視野に入れ、2.5次元文化事象を分析するための理論的基盤を考察してみたい。先行研究としてここでは、ヘンリー・ジェンキンスの「テキスト密猟」「収斂文化」や、イアン・コンドリーの「ダークエネルギー」「協働」、マーク・スタインバーグの「メディアミックス」という概念を押さえておきたい。テレビとファンダム(ファン共同体)の研究の第一人者であるジェンキンスは、著書『テキスト密猟者(Textual Poachers)(9)』で、アメリカのテレビ番組のファンが、二次創作(たとえば、日本でいうBL小説のようなスラッシュフィクションやイラスト)を通じて共同体を作り、文化を利用、消費している事例をあげている。典型的なのは1960年代に爆発的な人気を得、現在でもファンが多い『スター・トレック』のキャラを、自分たちの欲望に沿って、新しい物語や関係性を描くことで、キャラを所有し、観察して楽しむような、参加型「2.5次元」的世界が存在していたことだ。ジェンキンスは、ファンがそれぞれに直面する社会との問題の交渉の場としても、こうしたアクティブなファンたちの行動を、肯定的にとらえた。2006年の同著者による『収斂文化(Convergence Culture)(10)』では、デジタルメディアの発達によって、文化はネットやソーシャルネットワークを通じて、送り手と受け手の混交したアクターたちが相互に行動することで収斂した結節点に生産されるとし、送り手/生産者側と受け手/ファン側の相互作用と共犯関係を指摘している。池田太臣が指摘しているように、ファンと生産者、消費と生産などの二項対立的構造自体を脱構築する必要はあるが、ジェンキンスが提示したファン研究の意義は、「2.5次元文化」を考察する際に非常に重要である(11)。
 また、『アニメの魂(12)』で、エスノグラフィックな参与観察を通じてファンと生産者の協働という構図を論じたイアン・コンドリーが指摘したファンの「ダークエネルギー」は、2.5次元文化を成立させるファクターを考える際、興味深い。「ダークエネルギー」とは、天文学で銀河団を引き寄せる目に見えない物質=ダークマターをもじった、目に見えないエネルギー(ファンたちのコンテンツに対する欲望や、コンテンツの生産者がファンとの対話を通じて起こす相乗作用)が相互に影響し合って、現在のような巨大なコンテンツ文化産業に発展していく様子を表した用語である。こうした考え方は、「2.5次元文化」のあらゆるコンテンツ周辺で生じている現象を端的に説明してくれる。しかし、その個々の実態について、またそこで生成される社会文化的意味については、さらなる考察が必要である。
 そして、2.5次元文化の主要基盤である、キャラやコンテンツの共有も重要な論点である。マーク・スタインバーグは『日本はなぜ〈メディアミックス〉する国なのか(13)』で、日本の特徴的なポピュラー文化の消費形態として「メディアミックス」が戦前・戦中以来継続的におこなわれ、1980年代、90年代、現代と、そのモデルが変化してきたことを論じている。キャラをマンガの紙面やテレビ画面だけでなく、お菓子のパッケージや玩具、文房具、衣類にいたるまで、あらゆる媒体に息づくキャラとその世界観を受容することで、身体性をともないながら、キャラやコンテンツを受け入れてきた文化事情は、2.5次元文化現象の可視化と深く関係している。
 紙幅の関係ですべての先行研究のレビューはできないが、上述したフィッシャー=リヒテがいう“パフォーマンス”理論を基礎として、オーディエンス研究の潮流のなかのファン研究、コンテンツ産業研究を視野に入れながら、次回以降は「2.5次元文化」の個々の事例を精査し、そこに現象している事象と社会文化的意味を考えてみたい。

 また余談だが、昨年(2015年)から筆者は、2月5日の“2.5次元の日”に、「2.5次元文化」を考えるシンポジウムを開催している。今年は都合により1日遅い2月6日(土)の開催だが、興味がある方はぜひ参加していただきたい(参加無料、事前登録制)。「第2回「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」——声、キャラ、ダンス」

*本稿は、拙論「ファンタジーに遊ぶ——パフォーマンスとしての2.5次元文化領域とイマジネーション」(「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社)と一部、内容が重複している。「ファンタジーに遊ぶ」は姉妹篇にあたるので、ご興味がある方はご一読いただきたい。


(1)片岡義朗「アニメミュージカル 片岡義朗&ミュージカル「DEAR BOYS」」、チームケイティーズ編『TEAM!——チーム男子を語ろう朝まで!』所収、太田出版、2008年
(2)一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会「パンフレット」2ページ
(3)同誌3ページ
(4)「「2.5次元」ファン熱狂 憧れキャラ、現実で会える」「日本経済新聞」2015年4月24日付(http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86045740T20C15A4H11A00/)
(5)Jovanovic, Dalia, “SIRT Conference on Previsualization and Virtual Production Wrap Up,”(http://www.blog.filmarmy.ca/2011/03/sirt-conference-on-previsualization-and-virtual-production-wrap-up/)[2015年1月22日アクセス]
(6)Adriana de Souza e Silva, “From Cyber to Hybrid: Mobile Technology as Interfaces of Hybrid Reality,” Space and Culture, 9, 2006, p. 261.
(7)Erika Fischer-Lichte, The Routledge Introduction to Theatre and Performance Studies, Routledge, 2014, p. 18.
(8)Ibid., p. 18.
(9)Henry Jenkins, Textual Poachers: Television Fans and Participatory Culture, Routledge, 1992.
(10)Henry Jenkins, Convergence Culture: Where Old and New Media Collide, Updated version, New York University Press, 2008/09.
(11)池田太臣「共同体、個人そしてプロデュセイジ——英語圏におけるファン研究の動向について」「甲南女子大学研究紀要 人間科学編」第49号、甲南女子大学、2003年、107—118ページ
(12)Ian Condry, The Soul of Anime: Collaborative Creativity and Japan’s Media Success Story, Duke University Press, 2013.〔イアン・コンドリー『アニメの魂——協働する創造の現場』島内哲朗訳、NTT出版、2014年〕
(13)マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』大塚英志監修、中川譲訳(角川EPUB選書)、KADOKAWA、2015年。原書は、Marc Steinberg, Anime’s Media Mix: Franchising Toys and Characters in Japan, University of Minnesota Press, 2012 だが、邦訳のほうには改訂・増補された章が含まれている。また、監修の大塚英志の『メディアミックス化する日本』(〔イースト新書〕、イースト・プレス、2014年)も、日本のメディアミックス状況をわかりやすく解説している。

 

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散逸した史料を丹念に収集して――『帝国日本の交通網――つながらなかった大東亜共栄圏』を書いて

若林 宣

 書いているときは夢中で気づかなかったが、こうしてできあがってみると、総論的なものではないどころか、マイナーな話ばかりをあれこれと詰め込んだ変わった本になったように思う。一体、どうしてこうなったのだろう。
 本書を著すにあたって意識したのは、まず情報の得がたさである。国内の国鉄であれば、技術者の名前から個々の車輌の性能にいたるまで、調べることは比較的困難ではない。その一方で、日本の支配下にあったにもかかわらず、朝鮮や台湾の鉄道に関しては、沿革でさえ知ることは難しい。本書では、そういう難しい分野を特に選んでみたつもりである。たとえば第4章では南洋群島での航路の開設や伸張について記したが、これは、この地域に関しては基本的な情報そのものが得がたい状況を考えてのことである。ゆくゆくは、サイパンなどの築港事業などについても調べたいと考えている。また第1章では満鉄などの「三線連絡運賃問題」を取り上げたが、門戸開放という原則が徹底されていなかったことにつき、国際問題という観点からの研究の進展を望みたいと考えている。
 次に、意識したのは抵抗と弾圧である。
 たとえば第1章では、植民地の鉄道について、単なる「何年にどこからどこまで敷設」式の記述ではなく、どのような土地になぜ、どのようにして鉄道を敷いたのかについて意識するようにした。とりわけ朝鮮半島では、日本による併合前に、日本の手によって線路が敷かれている。はたしてそこに朝鮮側からの抵抗はなかったのだろうか。もしあったとすれば、それに対する日本側から弾圧はなかったのだろうか。こういった植民地での交通機関に関係してくる抵抗と弾圧については、第2章でも台湾の航空事業の記述で強く意識して書いたつもりである。第6章も、とりわけ日中戦争での中国側の抵抗については意識して書いた。
 だが、どれほど強圧的な政策の下におかれようと、人々は生きていかなければならない。戦前、「東洋のマンチェスター」ともいわれた大阪には、朝鮮半島各地から労働者が多数流れ込んだ。そのうち済州島出身者の来阪と帰郷を支えた阪済航路は、内発的に誕生した朝鮮人主導の組合も参入して激しい競争が発生するなど独特の歴史を有している。そのことにいくばくかのページ数を割いたのは、「生きていかなければならない」人たちの足跡を少しでも多くの人に知ってもらいたかったからである。なおこの件に関しては、当時の新聞記事のほか、杉原達『越境する民――近代大阪の朝鮮人史研究』(新幹社、1998年)を大いに参考にした。拙著で関心をもっていただけたら、ぜひとも同書にも当たっていただきたい。そこには、悲喜こもごもな人々の息吹が収められている。
 内モンゴルは、帝国日本のなかでも特異な地位にあった。日中戦争前は関東軍を中心とする工作の手が秘密裏に進められ、中国の中央政府の手が一時的とはいえ及びにくくなった地域である。内地からは遠隔であり、残された資料も乏しい。そのため一般書に頼ることは難しい状況にある。この地域については、知る人ぞ知る欧亜連絡航空と内蒙工作の関係や、察東事件前後の、これまで知られることがなかったチャハルの自動車交通事業について取り上げた。いずれも内モンゴルを舞台としながら、まったくモンゴル人のためではなく、日本人によって日本のためにおこなわれたところに特徴がある。とりわけ際立っているのは自動車事業で、それまでの中国人による事業を排しながら、建前でさえもモンゴル人を立てることがなく、日本人によって独占してしまったのである。
 第6章での南方占領地の鉄道は、すこぶる情報に乏しい分野である。そこで本書では主として橋梁修理に注目し、これまで陸軍の鉄道聯隊を中心とした記述から離れ、その華々しく描かれてきた成果に疑問を呈し、いままでは顧みられることが少なかった軍属部隊に光を当ててみた。鉄道聯隊の復旧があくまで仮復旧にとどまること、および本格復旧の時期がかなり遅いことを明らかにできたのは収穫だと思う。しかし一方では、収奪の問題などにも触れてはみたものの、こちらは思うようにいかなかったことを認めざるをえない。この問題については、いつかあらためて筆を執りたいと思う。
 1940年(昭和15年)7月、第2次近衛文麿内閣が発足した。このとき外務大臣に就任した松岡洋右は記者会見で、日満支を一環とする大東亜共栄圏の確立を外交方針として述べた。これが「大東亜共栄圏」という言葉が使われた最初の例とされるが、しかしそれより後の南進の結果手中に収めた広大な占領地を一貫経営するための交通手段を確立することは、経済力その他の理由から、最後まで実現させることはできなかった。そのディテールについて、本書を通じて少しでもみなさんに伝えることができればと思っている次第である。

 

第3回 アルド・フェラレージ(Aldo Ferraresi、1902-78、イタリア)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

イタリアの怪物

 アルド・フェラレージはイタリア北部のフェッラーラで生まれる。父は軍人だったが、マンドリンをこよなく愛していた。ヴァイオリンを始めたきっかけは明らかにされていないが、母が息子の才能に気づき、5歳のときに地元のフレスコバルディ音楽学校に入学させた。12歳でパルマ音楽院、15歳でローマのサンタ・チェチーリア音楽院で学び、無声映画やカフェで演奏した。ヴァシャ・プシホダとヤン・クーベリックの勧めにより、ベルギーの大家ウジェーヌ・イザイの元で学ぶようになるが、イザイはのちにフェラレージを「最上の生徒」と認めたという。その後、ソリストとしての活躍は華々しく、ヨーロッパはもとより、アメリカにも渡り、注目を浴びた。共演した指揮者はヘルマン・シェルヘン、ハンス・クナッパーツブッシュ、シャルル・ミュンシュ、ジョン・バルビローリ、アルトゥール・ロジンスキ、セルジュ・チェリビダッケなど。戦後は主にイタリアで活躍し、1963年にはアラム・ハチャトゥリアンと共演、65年にはヴァティカンでローマ教皇パウロ6世の前でソロを披露している。アメリカのカーティス音楽院はエフレム・ジンバリストが他界したあと、フェラレージを後任として招こうとしたが、フェラレージは家族と離ればなれになりたくないという理由で、この申し出を断っている。78年6月、サン・レモで死去。
 フェラレージが世界的に知られていないのは、主に戦後、彼の活躍の場がイタリア国内にとどまっていたことによるものだと思われる。SP時代から録音はおこなっているが、戦後でもHMVのLPが1枚程度しか存在せず、公式録音としては協奏曲はひとつもなかった。
 現在、フェラレージのディスクで最も手に入りやすいのはパガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第1番』などを収めたものだろう(ISTITUO DISCOGRAFICO ITALIANO IDIS6366)。これは1965年のスタジオ録音と記されているが、音声はモノーラルのようだ。もちろん、この演奏を聴いても、力強いタッチと濃厚なカンタービレは十分に聴き取ることができる。だが、このCDだけでは、彼の力量の全体像は見えにくい。
 その乾きを癒やしてくれたのが、2006年に発売された9枚組み、Aldo Ferraresi Le grandi registrazioni RAI-The great Italian Radio recordings (Giancluca La Villa、番号なし)である。これは現在ではどこを探しても見つからない、中古市場でもトップ・ランクの稀少品だ。だからといって、決してこれ見よがしにしたいわけではなく、とにかく内容的には抜群にすばらしいため、再プレスや再発売の期待を込めながら触れてみたいのである。
 収録年代は1959年から73年までで、場所はすべてイタリア国内。ほとんどすべてモノーラル(なかにはステレオ?と思われるものもある)で、音揺れがあったりノイズが多いものも非常に少なく、全体的には非常に明瞭な音質である。
 まず、チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』(1965年、グラント・デロング指揮)。ソロが出てきて感じるのは、そのテンポの揺れ方や和音の弾き方など、これまで聴いてきたどのヴァイオリン奏者とも違うことだ。それに、常にたたみかけるような勢いも、ヤッシャ・ハイフェッツに匹敵するほどだ。第2楽章の濃密な歌もたいへんに印象的だが、第3楽章の自在さと素早さも破格。
 エルガーの『ヴァイオリン協奏曲』(1966年、ピエトロ・アルジェント指揮)も、こんなに多弁で、鮮やかな色彩な演奏は初めてだった。同じディスクに収録されたモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第5番』(1960年、カルロ・ゼッキ指揮)はなかでも古典的な演奏だが、たとえば第2楽章の、果汁たっぷりの音色は忘れられない。
 ショスタコーヴィチの『ヴァイオリン協奏曲第1番』(1959年、マリオ・ロッシ指揮)、この作品は1955年の初演だから、これはイタリア初演かもしれない。これもすごい。なにせ、いちばん最初にソロが出てくるときの音がすごすぎる。この、人の心をわしづかみにするような、妖気をはらんだような雰囲気は、ちょっと類例がない。個人的にはあまり好きな作品ではないが、フェラレージの演奏は一気に聴き通させるだけの、強烈なエネルギーがあった。
 ウォルトンの『ヴァイオリン協奏曲』(1961年、フォルシュタート指揮)、これは地味な作風と思われているのだが、フェラレージの演奏は異様なまでに艶めかしく、こんな解釈もあるのだと納得した。ハチャトゥリアンの『ヴァイオリン協奏曲』(1963年)、これは作曲者ハチャトゥリアンの指揮である。これまた、ものすごく生きのいい演奏だ。飛び跳ねるようなリズム、独特の濃い歌い方、自在極まりない表情。ハチャトゥリアン自身がフェラレージをどう思ったかは知りえないが、きっとダヴィッド・オイストラフやレオニード・コーガンらの演奏よりも高く評価したのではないだろうか。
 室内楽ではフォーレの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』(1965年、エルネスト・ガルディエリのピアノ)がある。第1楽章はまず、手探りのような遅めのテンポで始まり、ピアニストの個性的な弾き方も面白いと思った。そこに、何とも悩ましく、涙に濡れたようなヴァイオリンが加わる。楚々と弾くピアニスト、そして万感の思いを込めて弾くヴァイオリニスト、これほど奥ゆかしく、かつ微妙に揺れる心のような演奏は初めてだった。
 ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」』(1970年、ピアニストはフォーレと同じ)は、なかではすっきりしたほうの演奏だった。これが年代によるものなのか、たまたまそうだったのかは不明だが、でも、もともと音に力がある人だから、ことに第2楽章などは感動的だった。
 9枚目のCDの最後にはSP復刻が4曲入っている。このなかで注目されるのはバッヅィーニの『妖精の踊り』だろう。この輝かしさ、そして史上最速と思われるこのスピード感、これだけでもフェラレージは名奏者のひとりとして記憶されてもおかしくない。この弓さばきのすさまじさは、イザイの薫陶によるものだと思う。
 この9枚組みにはグアリーノ、アレグラ、ジャキーノ、マンニーノなど、イタリアの作曲家の作品も多く含まれている。さらにはトゥリーナ、ヘラーなどの珍しい作品も収録されていることから、フェラレージはたいへんに広いレパートリーをもっていたこともわかる。もちろん、そうしたレパートリーも珍重されるべきものだが、たとえば四大協奏曲ではチャイコフスキーしか残されておらず、そのほかのメンデルスゾーン、ベートーヴェン、ブラームスなども、もしも残っていたら、ぜひとも聴いてみたい。シベリウス、プロコフィエフ、バルトークなども演奏していたのだろうか。バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』とか、ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ』なども、きっと魅惑的だったにちがいない。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
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私たちの出発点――『クラシック音楽と女性たち』を書いて

玉川裕子

『クラシック音楽と女性たち』を上梓してから、1カ月半あまりが過ぎた。「あとがき」にも書いたことだが、この本が誕生したそもそものきっかけは、執筆者全員が会員である、女性と音楽研究フォーラムが2013年に結成20周年を迎えたことだった。
 同フォーラムでは、これまで会員の研究発表や講師を招いての研究会を中心に、女性作曲家の作品による種々のコンサートを開催してきた。詳細についてはフォーラムのウェブサイト(http://www.ac.auone-net.jp/~women/)を参照していただきたいが、ほかの企画への協力なども含めると、20年の間に開いたコンサートは、レクチャーコンサートなども含めて15回前後にのぼる。それに対して出版活動は、アメリカの音楽学分野でのフェミニズム/ジェンダー研究の第一人者であるスーザン・マクレアリの『フェミニン・エンディング――音楽・ジェンダー・セクシュアリティ』の翻訳(新水社、1997年)1点にとどまる。ほかに、フォーラム創立から15年にわたって代表を務めた小林緑編著による『女性作曲家列伝』(〔平凡社選書〕、平凡社、1999年)があるが、同書には多くのフォーラム会員が執筆しているとはいえ、出版自体はフォーラムとしての事業ではなかった。
 こうしたなか、発足20年を機に、これまで私たちが考えてきたことを改めて世に問うような書籍を出版したいという声が起こった。2012年初秋のことである。もちろん、出版事情が厳しい状況にあることは承知していた。それでも怖いもの知らずのメンバーの声に押されて出版社探しを始めると、なんと引き受けてくださる出版社が見つかったのである。それが青弓社だった。対応してくださった編集の矢野未知生氏は、男性大作曲家のミューズとしての女性をテーマとする書籍はちらほら見かけるにしても、クラシック音楽での女性そのものの活動を正面から取り上げた書籍はこれまでにほとんどないのでぜひ作りましょう、とおっしゃってくださった。それから足かけ4年、本書はついに日の目を見たが、辛抱強く私たちの作業を見守ってくださった矢野さんには、この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。
 ところで、女性と音楽研究フォーラムの会員は、なぜ入会したのだろうか。演奏家から教育者、研究者まで、多方面の職業に携わる個々のメンバーの入会の動機はさまざまである。なかでもいちばん多いのは、女性作曲家と彼女たちの作品に引かれたという理由だろう。クラシック音楽というと男性の作曲家しか存在しないようなイメージがあるが、あるきっかけで女性作曲家もあまた存在したことを知って、これまで彼女たちとその作品が知られていなかった理由を考えながら、できるだけ多くの人に、できるだけ多くの女性作曲家とその作品を紹介したいと考えている会員。あるいは、ある特定の女性作曲家の曲と出合って魅了され、その作品を紹介していきたいと考えている会員。また、作曲家や音楽作品とは違うルートで、女性と音楽の関わりに関心を抱いた会員もいる。たとえば、近代日本での自らの体験や、学術テーマとして家庭教育を考えるなかで、音楽が女性の嗜みとされていた事情に関心を抱いた研究者など。
 編著者である私自身についていえば、個人的体験が出発点になっている。1960年代前半のある日、我が家にアップライトピアノがやってきた。「ピアノやる?」と母にきかれた記憶はない。高度経済成長が始まった時期に、典型的な都市中産階級の家庭で育った娘は、ピアノをやるのが当たり前だった。やるからには徹底的にと考える母のもと、優等生の娘は15年後に音楽大学に入学した。しかしこの頃から従順だった娘は考え始める。なぜ、私はピアノをやっているのだろう? しかも、日本という文化圏で筝や三味線ではなく、西洋音楽を。答えを出す前に音大を卒業。私たちを迎えたのはバラ色の未来ではなく、どうやって食べていくかという問題だった。近代社会で女の子がピアノを習うのは自立のためではないらしいということに気づいた私は、そのほかさまざまな偶然の出会いもあって、この問題を胸に抱きながら研究の道に入っていくことになった。
 当時の私を知る友人の一人が、本書の感想をさっそく送ってくれた。そのなかで、私が30年前と同じテーマを相も変わらず扱っていることに半ばあきれながら(たぶん)、状況が大きく変わっていることもあわせて指摘してくれた。ピアノ教師をしている彼女によると、カルチャーセンターでもピアノ教室は閑古鳥が鳴き、わずかな生徒も年配の方が多いとのこと。そのうちの女性は、働いている母親にかわって孫の面倒をみなければならず、練習時間をとるのに苦労しているとも書かれていた。また70代の男性が『乙女の祈り』を弾きたいと、練習してレッスンにもってきたこともあったという。
 状況は変わった。しかし、いったいどういう方向に向かっているのだろう。よりよい方向に向かっているのだろうか。音楽と関わる道はさまざまなのだから、ピアノを習う子どもが少なくなったことを嘆くのはお門違いだろう。昔、私の世代の女の子たち(と少数の男の子たち)が、いやいやながらピアノを弾かされ、(クラシック)音楽嫌いになるケースが続出していたことを思えば、現代の子どもたちがピアノのレッスンを強要されないのは、むしろ歓迎すべきことだろう。年配の方たちも、好きな曲を楽しんで弾く自由がある。巷には音楽があふれ、その気になれば古今東西のさまざまな音楽にアクセスすることができる。なによりも、多くの女性音楽家たちが活躍しているではないか。
 でもはたして、女性たちは、そして男性たちも、過去3世紀に比べて、より自由に音楽と関わっているのだろうか。もし自由だとして、この自由な音楽との関わりは、すべての人に開かれているのだろうか。2015年に世界で起こった出来事を見るにつけ、音楽によって人種や宗教やジェンダーの垣根が揺さぶられて取り払われ、憎悪を乗り越え、誰もがより豊かな生を謳歌する可能性が開ける、と信じるほど私たちは無邪気ではいられない。そうであればこそ、少なくとも音楽との関わりが差別や他者の排除に加担するような結果にならないよう、注意深く考えていく必要はありそうだ。女性と音楽との関わりを切り口に過去の音楽の営みを振り返ることは、その小さな一歩である。私たちは新たな出発点に立っている。

(2015年12月29日執筆)

 

赤い楳図、黒い楳図、白い楳図――『楳図かずお論――マンガ表現と想像力の恐怖』を書いて

高橋明彦

 2015年が終わろうとしている。今年は全般的にろくでもない年だったように思うが、私にとっては楳図かずおデビュー60周年に間に合って、デビュー作『森の兄妹』刊行日の6月25日に合わせて本書を発表できたという意味でだけ、いい年だった。難産だったこの本は、私も一時期は、出てくれるだけでもう十分、誰も読んでくれなくたっていいよとさえ思っていたのだが、そうした悲しい予感に反して、それなりに好評をもって迎えられ、たいへんありがたいことだと感じている。まず、楳図先生からは拙宅宛てにお花を贈っていただいた。また、書評としては、松田有泉(「サンデー毎日」〔毎日新聞出版〕)、トミヤマユキコ(「図書新聞」)、武田徹(「朝日新聞」)、飯倉洋一(「西日本新聞」)、栗原裕一郎(「週刊読書人」)、風間誠史(「北陸古典研究」〔北陸古典研究会〕)の各氏に書いていただくことができて、望外の幸せとはこのことである。ネットで評してくださった方々も含めて、あらためてお礼を申し上げたい。なお、これらの文章は私の個人サイト(「半魚文庫」〔http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/〕)からリンクを張ってあって、すべて読めるようにした。拙著がどれほどすばらしい本なのかは、これらの書評を読んでくれると、それはもう非常によくわかるようになっているのだ。
 冗談はおくとしても、そうすると今度は私自身が自著を評する番かな、とも思う。という次第で、いろいろ書きたい気もするが、いまは次の3点を記しておこう。
 1つ目は、楳図理解に関する私のもくろみについてである。もくろみとはもちろん、これまでの楳図観の更新にある。神田昇和さんによる(感謝!)特徴的 Characteristic(キャラの立った)な装丁の配色になぞらえるなら、楳図には、赤・黒・白の3つの様相がある。赤い楳図とは、テレビやイベントで見せる楽しく愉快な姿であり、「グワシ!」の楳図かずおである(なお、グワシは物をつかむときの擬音を旧仮名遣いで表記したもので、楳図氏本人は「ガシ!」と発音している。楳図マメ知識)。ふだんの氏はハイテンションなわけではなく、あれはあくまでサービス精神旺盛ゆえの一様相なのだ。黒い楳図とは、残酷で陰惨な猟奇趣味の楳図かずおである。『赤んぼ少女』のタマミは、差別され怖がられ憎まれ、そして死んでいった。しかしそこに感じられる憐憫には、甘美な陶酔への誘惑がないだろうか。美にこだわり醜さを恐れ、その間に停滞し沈殿し、汚辱にまみれたわが憐れさに自己陶酔するような、倒錯的な世界である。自分は理想を捨てた下劣で汚れたケモノにすぎないのだ(ちょうどいま日本が罹患している悪性感冒の闇・病みのように)。この黒い楳図を一言で表している楳図自身による言葉が「人など好きになったから、おまえ今日からへび少女」である。知は絶望するためにはたらいている。
 白い楳図とは、理知的かつ倫理的で、知的洞察ゆえに絶望を抱きつつも、その果てに希望を見いだそうとする、求道者であり預言者としての楳図かずおである。
 赤・黒・白の3つの様相は、互いに混じり合い中和されることなく、対立しつつ共存している。さて、私の『楳図かずお論』は、この白い楳図を強調したものである。つまり本書の楳図理解には多少の偏りがある。それは、これまで赤い楳図がデフォルトで、それは決して間違いではないが、あまりに浅い表面的な理解であったし、それに対して楳図に黒さを見いだすことこそが楳図理解だったような面があった、と私は感じてきたからだ。本書はそうした傾向に対する抵抗であり、状況に応じた戦略をとるものであり、実際私は本書で『洗礼』も『赤んぼ少女』も『神の左手悪魔の右手』も、黒ではなく、白い物語として読解したのである。
 なお、白い楳図の具体像は、認識論から存在論へと遷移した恐怖として、一般化することができる。認識論的恐怖を一言で表している楳図の言葉が「追っかければギャグ、追っかけられれば恐怖」であり、存在論的なそれを表す言葉が「宇宙ではどんな想像も許される」であるが、これらの詳細については本書でるる述べている。念のため簡単に繰り返すなら、前者は立ち位置によって対象の意味が変化する遠近法主義 perspectivism である。後者は、この世界が存在する必然性はどこにもなかったかもしれないという、偶然的な可能性がもつ恐怖である。ただしこの恐怖は、「可能性が可能性のままでいられるありかた」(九鬼周造)をいうものであり、人間の自由の源泉でもあるのだ。
 2つ目に移ろう。本書において私は自身の文学論(芸術論)を再編成した。楳図論を書きつづってきたこの10年は、私が若い頃から信奉してきた記号学・テクスト理論・脱構築を捨て去るプロセスだった、ともいえる。サバラ!わが青春よ。
 たしかに記号学とテクスト理論が主張したように、超越論的シニフィエ(作品の絶対的意味)は不在であり、意味は未決定である。しかし、いつもどんなときも作品の意味は未決定なのか。私がかくかくしかじかのものとしてこの作品を読むということは、まったくなんらの根拠をもたない空疎で偶然的な暗闇の飛躍でしかないのか。そうではない、と言いたい様々な理論がありうるだろうが、私は本書において、アンリ・ベルクソンの身体論やジル・ドゥルーズのイデア論を利用してこれを述べている。まず、ベルクソンに依拠した、機械論と目的論とをともに超える「ゆるやかな目的論」については、索引を頼りに本書で探してお読みいただければ幸いである。読解は、ああも読めるこうも読めるという単なる知的ゲーム(脱構築)ではなく、それなくしては私が私として生きていけないような、一つの行動性である。それはある種の反知性主義であり(2015年に流行したそれとは違う意味です)、認識(テオリア)に対して行動(プラクティス)を駆動させるものである。
 ドゥルーズについては、本書では個体化の問題(虚構と現実の関係の再編成として)、シーニュの習得論(ベルクソンの知覚との比定において)、モナド解釈(可能世界論批判として)などではふれたが、イデア論については書ききれなかったので、備忘のために記しておこう。元祖たるプラトンのイデア論は本質分有説と呼ぶべきもので、まずイデアの何たるかはあらかじめ決まっている。その本質=正解たるイデアに対して、個々の実在はそれぞれの出来不出来が分有率のごとくに点数化され、序列づけられた存在である。反哲学や脱構築はイデアの完全なる否定を目指したものであろうが、ドゥルーズのイデア論は完全な否定ではなく、問題解決説と呼ぶべき、転倒的なある種の肯定である。イデアとは純然たる問題であって、個々の実在は問いに対する解として、自らを自らが置かれた状況に応じて解として、肯定しうる存在である。出来不出来はさておき、自分はこの状況に応じたあり方で生きているのだ。例えば、美というイデアを体現しているような完璧な美術作品がこの世にすでに存在していたとしても、それでも私にもまだ新たな作品を作る権利があるのは、このドゥルーズ的なイデア論を認めているからである。
 さて、ドゥルーズは、プラトンに加えてイマヌエル・カントも批判しているが、実はカントもまた反プラトン的であって、ドゥルーズに近いらしい。柄谷行人は、カントのイデア(理念)論が構成的理念と統整的理念とに区別されていることを重視している(柄谷行人『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』〔〔岩波新書〕、岩波書店、2006年〕など)。構成的(constitutive)が本質分有的であるのに対して、統整的(regulative)とは、正解は決まっていないが、解を引き出すための目標のようなものだという。言い方を換えればそれは問題解決的である。少し話は飛ぶが、丸山真男に「「である」ことと「する」こと」という有名な論文がある(丸山真男『日本の思想』〔岩波新書〕、岩波書店、1961年)。これもおそらく系譜的にはカントの子孫であり、ドゥルーズや柄谷の兄であろう。デアルは構成的であり、スルが統整的なのだ。丸山には「憲法第9条をめぐる若干の考察」(丸山真男『後衛の位置から――『現代政治の思想と行動』追補』未来社、1982年)という論文があって、今年読んでみて感銘を受けたが、ここでも同じ構えが生かされている。9条は戦争を放棄したデアルの状態を宣言するものでなく、また平和の柵を設置して権力を制限させるものでもなく(それは静的消極的だとしてさほど評価していない)、政策決定を平和へと方向づけスルのだといっている(ただし、丸山は実効的 operative という言葉を使っている)。9条第2項と現実の自衛隊や国家間紛争の存在とは決して矛盾せず、9条が有する動的積極的な実効性は現実の矛盾を超えてなしうる平和運動としてはたらく、というのである。
 いい思想には、モダンもポストモダンもないのだろう。丸山には「現代における態度決定」(『新装版 現代政治の思想と行動』未来社、2006年)というエッセーもある。真理を求める無限プロセスであるところのテオリア(認識)をあきらめ断ち切るときにはじめて行動が可能になるといっているのだが、読解もまた、ああも読めるこうも読めるという知的ゲームではなく、その作品が私の状況にとって、あなたの状況にとって、どんな有効性をもつかということにだけ意味があるのだ。
 3つ目である。本書では『14歳』を具体的に論じることがなかった。いま、私は自分の授業で『14歳』を4年かけて講義している。来年は3年目だが、そう遠くないうちに、私の楳図研究第2弾として『14歳』論を完成させ、出版しようと考えている。分量は手軽な新書程度がいいなあ。タイトルはもう決まっている。「楳図かずおの生命思想――『14歳』を読む」。『14歳』は楳図の現在最後のマンガ作品でSF超大作である。日本の首相や世界の首脳会議を描いて、そしてバイオテクノロジーやメディア戦略、暴力とテロル、貧困と奴隷制、エネルギーと環境問題を描いて、きわめて今日的であり、今年的な作品である。人間的尺度を超えて、そこには生命全体への、愚直なまでの愛がある。それは、恐怖と背中合わせの自由と希望である。
 甘美な絶望をとりあえず拒否して、白い楳図を見習いたいと思う。とはいえ、年内にこの原稿を矢野未知生氏(本書を刊行にまで導いてくれた)に送ることが、いまの私がなしうるせめてもの誠意でしかない。2016年はもっとひどいことが起きるかもしれないが、未来に希望をつかむとき、元気な赤い楳図が再び復活するだろう。グワシ!

(2015年12月25日執筆)

 

第4回 神楽坂モノガタリ、いよいよ開店

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

はじめに

 こんにちは、久禮書店です。
 前回の記事からご無沙汰していたこの4カ月の間にも、多くの出来事がありました。新刊書店カフェのマルベリーフィールドでの朗読食事会、新しいブックカフェの立ち上げ、書店員勉強会の講師、異業種の社内研修講師など、初めて体験することばかりでした。やってみてわかったのは、どの仕事も、これまで取り組んできた書店業務が発展したもの、あるいは本当はやらなければいけなかったのにできていなかった本屋の仕事そのものだったということです。新刊書店の現場にいるみなさんにも、参考にしていただけることがきっとあると思います。

ブックカフェを立ち上げる

 今回はまず、新しいブックカフェの立ち上げについてお話しします。
 このブックカフェは、名前を「本のにほひのしない本屋 神楽坂モノガタリ」といって、今年(2015年)の9月22日にオープンしました。カフェ事業を中心に、新刊書籍や輸入服飾雑貨などの販売とイベントを組み合わせたお店で、40坪の店舗のなかに40席ほどの客席、3,000冊の販売在庫を持っています。
 地下鉄東西線の神楽坂駅の神楽坂口を地上に出ると、すぐ正面に見えるビルの2階にお店があります。早稲田通りに面した側には、総ガラス張りのサンルームのテーブル席と屋外テラス席があります。店の奥は書棚で仕切られた静かなカフェスペースになっていて、ソファやバーカウンター、暖炉も備えています。

外観

 カフェのメニューには、ハンド・ドリップのコーヒー、季節のケーキ、生ビール、ウイスキーやワインなどもあります。暖かい日にはテラスでパラソルの下、寒い日には暖炉の前で、本を読みながらお酒も飲めるというすばらしい環境です。もちろん、フラッと立ち寄って棚を見る、1冊買うだけという、本屋として気軽な日常使いもしていただきたいと思います。
 このお店は、製本業を核として出版やウェブシステム制作など関連事業を持つフォーネット社の一部門として運営されています。製本事業を通して出版に関わってきた同社の会長は、「読者と著者、業界に恩返しをしたい、読者のみなさんが本と出合うために、ゆったりとした空間を演出したい」と、以前からブックカフェ事業を考えていたそうです。
 私は久禮書店として、選書だけではなく書籍販売実務全般をフォーネット社から受託しています。つまり、初期在庫の棚作りだけで終わりではなく、日々カバーを折り、注文書籍の段ボールを開け、伝票の計算をし、返品を出して、レジ締めや日報作成をするといった書店業務を、あゆみBOOKS時代と同じようにやっているのです。いわば「ひとり書店」を、カフェの支援のもと店内に間借りして運営しているような形です。
 しかし、ひとつの空間に同居している以上、書店とカフェは密接に関係しています。状況によっては、私もカフェのホール係としてドリンクを出したり、キッチンのコーヒー・ミルを掃除したりということもあります。また運営チームの一員として、カフェのメニュー決めに意見することもあれば、ビールの利益率について一緒に検討することもあります。
 書籍を売るためにカフェの集客力を上げる、カフェの魅力を高めるために書棚を充実させるというように、お店全体のつながりのなかで考える場面がこの2カ月で増えてきました。これまで経験してきた本屋の経験や考え方を、新しい業態に合わせて応用していくことになるとは思っていませんでしたが、これはこれで面白いと感じています。

課題の整理からスタート

 この仕事の依頼をいただいたのは、6月初旬でした。お店のプロジェクト自体は昨年から始まっていて、店舗物件の賃貸契約もできていました。内装の設計図もいくつかの案ができていて、カフェのスタッフは都内の有名喫茶店でコーヒー修行に出ていました。しかし、書棚の担当者だけはまだ決まっておらず、書店経験がある人材を探していたのです。そんな事情を知っていたある出版社の営業担当者にご紹介いただいたことが、きっかけでした。
 神楽坂モノガタリの立ち上げプロジェクトには、製本会社会長ご夫妻を中心に、建築家やインテリア・デザイナー、施工業者、製本会社役員・社員の方々が結集していて、私は途中からその一員になりました。当初の計画では7月末の開店を目指していたため、6月の残りの3週間ほどで3,000冊の選書をとにかく仕上げることが、私の第一の仕事でした。すぐにリストアップの作業に取りかかりましたが、同時にやらなければいけない仕事が次々に出てきました。
 お店の運営チームに参加しているフォーネット社のメンバーは、多様なバックグラウンドを持っています。同社のグループ会社である児童書出版社の社長を兼任している方、前職ではマンガ雑誌の編集長だった方、親の代から製本業という方など、本に関わる様々な経験を持った人々です。ただ、書店の現場を経験しているのは私だけでした。
 そのため、選書作業よりも重要な売るための環境づくりが、まだできていなかったのです。オーダーする書棚のデザインや寸法、細部の仕様を決めることに始まり、レジスターの操作方法や売上金の取り扱い方の指導、取次の担当者との打ち合わせや出版社への出品のお願い、仕入れ・販売・返品による在庫管理の枠組みづくりまで、書店のインフラを整えることが先決でした。

まず書棚を決める

 まず取りかかったのは、書棚の仕様決めです。棚の位置や寸法の大枠は決まっていましたが、その中身はまだ白紙でした。一緒にデザインするのは、飲食店や病院などの店舗デザイナーと、企業オフィスや個人宅を多く手がけるインテリア・デザイナーの方々です。初めのうちは書店什器に必要な仕様を私から要求していたのですが、それは取り下げてみることにしました。
 せっかくの機会なので、アパレルショップやホテルのようなしつらえに本を置いたらどうなるのかと思ったからです。また、書店での実用性を忖度せずに、デザイナーの視点から見た本が映える置き方を採用してみたいと思ったからです。ただ壁面棚だけは私の好みを主張して、ロンドンのドーント・ブックスやニューヨークのリッツォーリのような重厚な木製棚をオーダーしました。

オーダー書棚組み立て中

 木製の棚にこだわったのは、このお店を落ち着いた書斎のような空間にしたいと思ったからです。お酒や暖炉といったアイテムや、神楽坂の土地柄から連想したのは、大人のための書斎といったイメージでした。お店の半分がガラス張りで開放的なぶん、奥の壁面は違う雰囲気にしてみたいと考えました。また、誰かの書斎という舞台設定なら、様々なジャンルをまぜこぜにしても、なんらかのまとまりを感じる演出にできるのではないかと考えたのです。

次に書籍を仕入れる

 この棚に詰める書籍のほとんどは、トーハンから仕入れています。とてもありがたいことに、私が参加する前に取り引き口座の開設はできていたのです。ただ、実際の日常業務をどうするかは未定でした。そこで、次にトーハンの担当の方と打ち合わせをしました。
 雑誌、書籍とも新刊配本はせず、注文品だけのやりとりにする。仕入れ条件は一般的な書店と同じ掛け率で、返品もできる。注文品だけでも毎日配送してもらう。ウェブ発注システムを導入する。このように、書店として不自由なく棚作りができる条件が揃いました。
 一般的に、書店が大手取次に口座を開くためには、予想される月間売り上げの2、3倍の金額を信認金(保証金)として納入するか、店舗が自社所有物件ならそれを担保に入れるなど、高額な初期費用が必要です。このお店も、店全体の月間売り上げ数カ月分を納めています。書店を独立開業するのは、やはり相当に高いハードルがあるといわざるをえません。
 ただ、まったく不可能ではないとわかりましたし、自分自身が開業することをより具体的に想像できるようになったと感じています。また、大手取次の現場の方々と、チェーン店の画一的な業務連絡ではないことを話し合える機会を得たことは、よかったと思います。一口に取次といっても、実は一枚岩のものではなく、内部では様々な考えを持って動いている人がいる、なかには独立志向の新業態の人々とごく近い考えを持った人がいると知りました。

初荷が到着したときの様子

ここで書籍流通の可能性を(少し)考えてみる

 トーハンはこれまでにも、下北沢のB&Bをはじめ、池袋や表参道、福岡に出店している天狼院書店など、いくつかの小規模新業態の書店と取り引きがあり、新しい書店の試みを積極的に支援してくれているように思います。また、現在のところ直接の取り引きはありませんが、日販にも同じように新しい書店の業態を支援、あるいは独自に企画する部署があり、私もそこの人々とお話しすることがあります。
「ひとり出版社」や書店の独立開業、複合業態での書籍販売というような話題で業界のみなさんと語り合う機会は、ここ最近増えました。しかし、そのような場で取次のなかの人の声を聞く機会は、なかなかありませんでした。たしかに、書店も出版社も、大手取次と新規に直接取り引きを始めるには高いハードルがあります。取り引き関係があっても、官僚的な制度やデータ主義にうんざりすることも、書店の現場ではたびたびありました。そのため、取次流通を迂回して書店と出版社の小規模な直取り引き関係を模索する議論が中心になりがちなこともうなずけます。私自身も、チェーン書店を退社した直後は、「独立開業するなら直仕入れかな」と、漠然と思っていました。
 もちろん、志があり独立心旺盛なプレイヤー同士で意志が通ったタッグを組むような関係は必要だと思います。また、商売の原点に立ち返るような、シンプルで利益率が高い仕入れスキームを中抜きで組み上げることも必要だと思います。
 ただ本屋には、品揃えの多様さと流動性を実現するための問屋機能が不可欠です。たとえ小さなお店でも品揃えの網を十分に広げて、できるだけ多くのお客様のあいまいな期待や潜在的な願望を受け止めて形にしてみせること。小さな出版社のささやかな試みにも目を配って、彼らが本を世に問う機会を差し出すこと。そういった、新刊書店というメディアの面白さを最大限に引き出すには、相応の規模を持った問屋機能と商品の最終出口が確保されている必要があると思います。
 物流と決済をある程度まとめなければ、少人数で運営する書店は荷物の受け渡しや支払い手続きだけでパンクしてしまいます。また、情報を集約して、まとめて流してくれる役割も大切です。つまり、シンプルに本と情報を卸してくれる問屋さんです。
 金融機能と書籍流通機能が複雑に絡み合った現在の取次は、これまでのチェーン書店の拡大や大出版社の成長には不可欠なものだったかもしれません。しかし、その金融機能のために大きな信用保証が必要とされ、小規模書店の参入が難しくなっています。既存の取次から問屋機能を切り出して、より利用しやすく開かれたものにしていくべきだと思います。
 また、いくつかの取り引き条件のオプションを選択できることも必要だと思います。委託条件で仕入れたなら返品許容枠、買い切りで仕入れたなら価格決定権など、売れ残るものを最終的に排出する方法が確保されていなければ、お店は回っていきません。
 取次の契約条件や再販価格維持契約の見直しなど、このような大きなテーマを扱うには、私の見識も足りませんし、多くの人を巻き込む議論が必要です。こういった問題を考えるにあたって、取次の人々とも語り合えるつながりを持てたことは、このお店に関わることで得られた大きな収穫のひとつです。

「本」先行型の選書とは?

 この新規店のために3,000冊をリストアップする仕事は、作業量としてはなかなかの大仕事で、結果的には1カ月半かかりましたが、作業の工程としては道に迷わずに進むことができました。マルベリーフィールドで500冊を選書したとき、それ以前のあゆみBOOKSの平台を作っていたときと基本的な考え方は同じでした。
 選書の段取りで大切にしようと思っていたことは、本をバラバラに考えることです。いわゆる文脈棚に組み上げることを避けて、売りたい本を思いつくかぎりどんどん挙げていきました。セレクトの切り口やテーマが先に決まっていると、その文脈を成立させるためには有効だけど単品として買わせる力が弱いと感じる本を、ついつい増やしてしまうと思ったのです。
 買わせる力がある本には、そもそもその1冊1冊に多面的な魅力が備わっていて、見る人によってグッとくるツボのありかは違うと、いつも感じています。そのため、特定の文脈に沿うよう1本の鎖のように本をつなげていくと、それぞれ個性的で売れるはずの本がかえって目立たなくなってしまうことがあります。
 そのため、少ない在庫でも充実した品揃えを演出するには、1冊1冊のキャラクターが立っていて、ジャンルの振れ幅が大きく、その間のつながりはお客様の想像に任せることがいいのではないかと考えています。
 正直に言うと、気が利いた文脈のアイデアもなく、セレクトショップの棚作りに合ったスマートな方法を知らなかっただけという面もあります。本来なら、文脈棚の小見出しにあたる言葉やテーマを先に設定して、大まかに冊数の配分や収納する棚の番地を割り当ててから始めるというのが、セレクト書棚作りの定石だと思います。
 実際、有楽町のMUJI BOOKSや、マルノウチ・リーディングスタイルなどは、そのように準備されたと聞きます。リーディングスタイル各店舗のディレクションをほぼ1人で担っているという北田博充さんは、そのような手法を使って、とても新鮮な切り口で定番書を面白く再定義して売り伸ばす棚や、特別な本好きでなくても気軽に買える棚を次々に作っています。
 いつだったか、彼と語り合ったときには、私があまりに不器用にドカドカと本を列挙していくやり方が彼のそれとはまったく正反対なことを、2人で笑い合ったこともありました。
 つまり、選書の手法自体に優劣があるのではなく、選書をどんな方法で始めるのかは、そのあとに店舗全体を運営する方法の一部として、おのずと規定されるものなのだと思います。

久禮書店流の選書術

 私のやり方は、こうです。まず、漠然とお店の雰囲気やそこに来てくれそうな人のイメージを作っておきます。次に、とにかくいいと思う本をどんどん書き留めていきます。どんなお店でも売れるド定番、実は何度も重版しているロングセラーだけどよそで見かけないもの、神楽坂なら売れるんじゃないか、私の好みにすぎないけどお薦めしたい、などなど。
 このような本たちを、リストではなくスリップに書き起こしていきました。白紙のスリップに1冊ずつタイトルや著者などを記入しては、束にして溜めていくということをひたすら続けていきます。スリップが数百枚の束になってくると、持ち歩いて外出先で作業することが難しくなってきたため、ちょっと工夫する必要が出てきました。
 そこで、白紙スリップのテンプレートをPDF形式でipadに入れておいて、その画面にタブレット用ペンでどんどん書いていくことにしました。この方法なら、たとえ紙のスリップを捨ててしまってもバックアップも取れています。ある程度書き溜めたところで印字しては1本の短冊に切り離していきます。

タブレットで手書きスリップ

 こうして溜まってきた束をシャッフルして、見返していきました。ちょうど、前日の売り上げスリップの束をチェックするような要領で、気づいたことや連想されるキーワード、その本につながる別の本のことなどをスリップの余白にメモしていきます。そうしながら、スリップを大まかに仕分けしていきます。おおよそ一般的なジャンル分類やテーマに沿いながら分けているのですが、まだ適当に集めているくらいにしておきます。もっと面白い組み合わせを思いついたら、トランプのカードを繰るようにスリップをまとめ直して、輪ゴムで留めておきます。面陳にしたい本、候補に挙げたけれどやはり売れないと思うものなども、こうした作業のなかでピックアップしていきます。
 この手書きスリップを1,500枚ほど作り、自宅の作業机の上いっぱいに広げていたところ、妻や同業の友人たちからは、「頭おかしいんじゃないの」とか「ちょっと偏執的で気持ち悪い」といったありがたい言葉をもらいました。大変な手間のかかる作業と思われたのかもしれません。しかし、私にとっては慣れ親しんだ手法であり、エクセルのリストを何百行も目で追ったり行を切り張りしたりするよりは、自然なやり方なのです。何より、リストアップの流れ作業のなかに、1冊1冊を売れるようにどう扱うかと立ち止まって考える時間を挟み込んでいくためには、手間がかかるほうがいいのです。

机いっぱいのスリップ

 スリップの束を持って、工事中の店舗に行くこともありました。未完成の棚とスリップを交互に眺めながら、どの場所に何が並ぶと売れそうだろうか、この棚に面陳を多用しても目立たないから背挿しで売る並びで使おうなど、選書の合間に確認するためです。私は、どうしてもスリップや棚といった物の形や作業の型に助けられながらでないと発想できないようです。
 この1,500冊で棚の並びに基本の骨組みができたあとは、エクセルのリストに入力し直しながら肉付けをしていき、発注リストを完成させました。正確に言うと、気になる本を見つけるたびにリストを編集してしまっていては終わりがなくなるため、発注期限ギリギリでトーハンに投げたという感じです。

在庫と売り上げのバランス――オープンしてふと思うこと

 内装工事が完了する予定日から逆算して決めた発注期限だったのですが、リストを手放したあとにも様々な事情で工事は長期化していきました。そのため、この期間に出た新刊が、開店時の品揃えにはまったく入らないということになってしまいました。新刊書店の感覚からすると、それはとても困ったことだと思っていたのですが、お店を2カ月やってみたいまでは、さほどのことではなかったと感じています。

できあがった書棚
無事オープン! 初日の様

 現在でも、トーハンから新刊配本は受けていません。新刊の刊行リストや他店の店頭をチェックして、こちらから注文しています。神楽坂にも置きたいと思う新刊はやはりたくさんありますが、棚の容量や売れ方に合わせて、いまのところはかなり絞り込んで注文しています。開店前に選書した棚全体を見ても、ここ1年ほどの新しい既刊もあまり多くはありません。かといって、古い本や珍しい本をマニアックに揃えているのでもありません。
 このお店は、私なりにオーソドックスな新刊書店を目指しています。もちろんブックカフェなので、パッと見た陳列の印象は、一般の新刊書店とは全然違います。ですが、棚の使い方や回し方も、選書にスリップを使ったのと同様に、実はあゆみBOOKS小石川店のころとほぼ同じ考え方です。新刊でも既刊でも、普通に「ちょっといいね」と思える本を、あまり凝らずに並べていきたいと思っています。面白いと感じる新刊書店はどこも、その店らしい隠れたロングセラーをいくつも置いています。数字の面から見ても、高いレベルで売り上げが安定するのは、新刊に出物があったりなかったりという事情に関係なく、既刊が多く売れているときです。
 あゆみBOOKS小石川店で、書籍単行本の月間売り上げを何が構成しているのか、その内訳を毎月調べていました。売り上げ冊数のランキングを、月1冊売れ、月2―4冊売れ、月5―7冊売れ、月8―10冊売れ、11―15、16―20など、いくつかの帯域に分けてみるのです。売り上げ前年同月比の推移を追いながら、前年比が上がったとき、下がったとき、それぞれの帯域がどのように変動したのかを調べます。
 その結果を大まかに言うと、前年比が上がっているときはたいてい、3―4冊売れ程度の棚前平積み、それも既刊が目立って多く売れることで、全体の売り上げに貢献していました。新刊台一等地に山積みの売れ行き最上位の帯域の前年比が下がっていても、中位グループが売れているおかげで全体の前年比はプラスになることもありました。
 一方で、1冊売れの帯域はいつも大して変動しません。これは主に棚挿しで売れたか、平積みだけど1冊しか売れずに見切ったものたちです。点数としてはいちばん多いこの部分が変動していないということは、入店客数の分母はあまり変わっていないということだと思います。
 つまり、新刊や話題書によるアップダウンにめげずに、地味な棚前平積みをいかに面白くして、お客様1人ひとりのまとめ買いを増やすか、新刊に頼らず既刊の面白さを引き出してみせるかという地道な作業こそが全体の売り上げに影響するということを、あらためて確認したのです。
 棚前平台を隅々まで売れている状態に保つためには、やはり取っ替え引っ替えするため、返品も生じます。自分なりに根拠がある返品なら、積極的にするべきです。この連載の1回目にお話ししたことにつながりますが、漠然と返品を恐れて、売れないものを積みっぱなしにすることは、売り上げを落とす大きな要因になります。
 このような手法を使えるという点で、神楽坂モノガタリが取次口座を持っていることは、大きな助けになります。ただ、このように品揃えを新鮮に保つことは、多くの入店客があることと対になってはじめて意味があることです。そのために、私が神楽坂モノガタリでいま取り組んでいることは、飲食店として利便性を高めることや、イベントを企画して初めてのご来店の機会を増やすことなのです。
 私が考えるこのような変動していく品揃えの書店とは反対に、お店の在庫をすべて買い切りで揃える書店の試みもあります。双子のライオン堂というお店です。白山の小さな倉庫で開業され、現在は赤坂に移転・増床して営業しています。このお店では、おもに神田村小取次から新本を買い切りで仕入れています。
 店主の竹田信弥さんは、100年読み継がれる本を揃えて売ることをお店のミッションとしていると言います。作家や批評家、同業の個人書店主など、専門家に選書を依頼して、1人の選書では到達できない棚の面白さを目指しています。また、ただ品揃えをするだけではなく、頻繁に読書会を開催しています。長く読み継がれるべき本を、実際に読んでもらう機会やどう読むといいのかと伝える機会も含めて提案しています。
 このような取り組みを知ると、新刊書店として書籍をどんどん流していく仕事を大いに反省させられます。書店の品揃えのなかで、何をストックして何をフローさせるのか仕分けすること。ストックすべきものを、売れるまでお客様に提案すること。こういった仕事を、いま残っている新刊書店の1軒でも多くで見直すことができれば、また、そのような取り組みをしていることを、書店に来ない人に伝えられれば、状況は変わるのではないかと思わずに入られません。

出張書店という経験

 書店に来ない人に本と本屋について知ってもらうという試みを、神楽坂モノガタリの仕事とは別に機会をいただいて、実際にやってみることができました。
 それは、ある企業での社員向け研修会の講師というお仕事でした。
 田町にオフィスがある外資系の医療機器メーカー、アボット・バスキュラー・ジャパンでは連続企画として、様々な業種の現場で働く人々の話を聞くという研修会を実施されていたそうです。そのひとつに、書店代表としてお招きいただきました。
 研修会の準備のために先方の担当者とお話しするなかで、書店員の仕事の話をどう医療機器メーカーの方々に役立ててもらえるかと考えました。そこで思いついたのは、本屋の仕事から本質的なことを抜き出して汎用性のあるものとして言葉にすることと、ご要望に合わせてカスタマイズした出張書店をやることでした。そうお話ししたところ、大いに興味を持ってくださり、20冊ほどの選書を任せてもらいました。
 研修会はランチタイムの1時間で、食事をしながらお話しできるカジュアルな雰囲気のなか、おこなわれました。まずお話ししたのは、出版・書店業界の基礎知識的なことや書店の日常業務などです。そういった具体的な事柄から入り、本屋という仕事自体がコミュニケーションを本質とするものだということをお伝えしました。
 著者や編集者の思いや社会的な関心事、お店に集う多くのお客様やそのご興味など、多くの要素を本とその並べ方にどう結び付けて見せるか、またその結果引き出されたお客様のご要望をどう汲み取るのかと、お話ししました。
 次に、書店員流の本の選び方をお話ししました。大量の新刊から光るものを見つける視点、見かけに惑わされずに中身を大づかみにする目次の読み方、ロングセラーを見つける奥付チェックなど、本屋をうまく使う助けになりそうな事柄です。
 そして、書店員はそうやって選んだ本で棚や平台をどう構成するかという実例も兼ねて、選書して持参した本の1冊1冊を並べながら、お薦めの口上を披露していきました。
 今回いただいたお題は、「コミュニケーションを考える」でした。小説や実用書、人文書まで、できるだけ幅広く網羅して、意外性を感じてもらおうと考えました。ビジネスの専門領域では、参加者のほうが圧倒的に詳しいと考え、あまり選びませんでした。
 持ち込んだ書籍には統一したデザインの帯を巻き、そこに売り文句を書いておきました。これらの書籍がオフィスのミニ・ライブラリーとして、社員のみなさんにあとで閲覧されるときにも、手に取るきっかけになればと考えました。また、今回持ち込んだもの以外にもたくさんの書籍をリストアップしてあったため、その一覧とお薦めコメントを全員に配りました。こういった作業は、店頭でおこなうテーマ・フェアと同じ要領です。
 幸いにも、持ち込んだ書籍はみなさんに面白がっていただき、会社としてすべてご購入くださいました。また、社内で回覧していただいたうえで個人用にもご購入くださるきっかけになればと期待しています。

おわりに

 この試みは、書店の日常業務をただ外部に持ち出したものなので、特殊な商売ではありません。きっかけをつかめば、多くの新刊書店でも、ある種の外商として展開していけるものだと思います。
 神楽坂モノガタリでも、この外商を持ち込んで、大きくしていきたいと考えています。この店のように棚が小さく、カフェの性格によって品揃えの傾向を制限せざるをえない場合でも、お店を仕入れ拠点やお客様との窓口として活用して、幅広くお薦めして買っていただく機会になりえます。
 このように、現在は神楽坂モノガタリの書棚運営を中心にしながらも、カフェとしての基礎を固めて利用客を増やすことや、お店の外にいる近隣の方々のお役に立てる販売企画などに取り組んでいるところです。
 次回は、マルベリーフィールドで開催した朗読食事会のことや、新刊書店の現場の方々との勉強会の様子についてお話ししたいと思います。神楽坂の続報もお伝えします。それでは、また。

 

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