本書の敵はディズニーマニアとディズニー? ――『ディズニーランドの社会学――脱ディズニー化するTDR』を書いて

新井克弥

 本書の執筆については、2つの「恐れる読者」を想定した。そして、これへの対応にかなりの時間を費やした。

 1つは本書でDヲタと表記したディズニーマニアの一群だ。彼らにとってディズニー世界は自らのアイデンティティーのよりどころ、そしてTDR(東京ディズニーランド+東京ディズニーシー)は、それを確認しに向かう聖地。この部分に、いわば「ツッコミ」を入れているのが本書なので、必然的に彼らのアイデンティティーに抵触することになる。アイデンティティー=自己同一性という言葉が示すように、これらディズニー世界は彼らの人格を反映する、あるいはディズニーのことは自分のことというふうに認識している(ただし、膨大なディズニー情報から自らにとって親和性が高いものを抽出して、自分だけのディズニー=マイディズニーを構築しているのだけど)。そのために、TDRにツッコミを入れることは、筆者の意図の有無にかかわらず、結果として彼らの存在や人格にツッコミを入れることにもなる。
 当然、TDRが批判的に書かれていると受け取ればDヲタは傷つくわけで、そうなると一挙に反撃ののろしが上がることが想定される。その際の典型的な反撃法は内容のトリビアルなところに着目し、そこにツッコミを入れるというものだ。具体的には表記や事実関係の誤りへの指摘という形をとる。細部の誤りを指摘し、「こんなことさえ間違えているから、この筆者が書いていることはデタラメだ」と、細部の誤りを槍玉にあげながら、全体、とりわけ展開そのものを否定するやり方で、このパターンは筆者に対するブログのコメントでさんざん経験している。とにかく、彼らは知識がハンパではないので難敵ではある。
 書き手としては、当たり前だが中身をちゃんと読んでもらいたい。そこで、こうした指摘をできるだけ封じようと、2つの側面についてかなりの時間を割くことにした。1つは「事実関係の確認」。筆者とディズニーの関わりは50年に及んでいて、本書ではこの間の記憶をたどるかたちでの表記をいくつか含んでいるが、自分の記憶のなかで確認がとれていない内容については、最終的にすべて掲載を諦めた。例えば1983年のディズニーランドの開園と同時にプロモーションの一環としてディズニーアニメの短篇がテレビ放映された際、番組のCMのなかに松田聖子が登場するものがあったのだけれど、今回、本書を記すまで、このCMは服部セイコー(現セイコーホールディングス)の時計と思い込んでいたのだ。これは当時、廉価ブランドとして同社がALBAを発表し、このキャラクターに松田(「聖子のセイコー」というわけ)を起用していたからだ。ところがあらためて調べてみると、これがなんと靴の月星(現ムーンスター)だった。人間の記憶などあてにならないものだ。

 もう1つは、ディズニーに関わる名称の表記だ。ディズニー世界には膨大な語彙が広がっている。基本的に横文字のカタカナ化なのでスペースに該当する部分を「・」で結べばいいと考えたいのだが、事はそんなに甘くない。登記されている商標に沿っていなければならない。たとえば東京ディズニーシーのミュージカルが催される建物は「ブロードウェイ・ミュージックシアター」で、ミュージックとシアターの間に「・」がない。また、ここで上映されている「ビッグバンドビート」も、これで一文字という扱い。これらはすべてディズニー(TDR)のオフィシャルサイトに準拠して表記することにした。記載する項目が非常に多い分、このチェックだけでも大変な作業だった。
 とはいうものの、それでも最終的には何らかの間違いを指摘されるのは避けられないだろう(例えば、厳密なことを言えばTDRは2つのパークだけでなく、隣接する商店街イクスピアリなども含むのだけれど、こちらとしては、このへんはいくらなんでも省略してもいいでしょ?とは考えているのだが、こんなところにさえツッコミを入れてくる恐れがある)。

 もう1つの「恐れる読者」はディズニーカンパニー、そしてTDRを運営するオリエンタルランドだ。執筆にあたっては紙面をより視覚的で見やすくするために、当初かなりの量のイラストを挟んでいた。しかしこれに編集のほうから「待った」がかかる。「弁護士に相談したところ、著作権のことで裁判を起こされる可能性が高いので、原則カットでお願いします」。ということで、ディズニーに関わるイラストは本文中にパレードのフロートに関するものがたった1つ、しかも徹底的に単純化したものということで落ち着いた(117ページ参照)。カバーのイラストも○が3つとティアラの組み合わせ。この○3つはミッキーの顔と耳の比率とは微妙に異なっている。つまり、あくまで「○3つ」。そしてその上に描かれているのも、あくまで「ただのティアラ」。とはいうものの2つを並べると、一般読者には何を意味しているのかはわかってしまう寸法。「その手があったか!」と思わせるような巧妙なイラストに仕上げていただき、デザイナーには感謝している。

「恐れる読者」には、とにかく彼らを攻撃しているわけではまったくないこと、そしてディズニーという文化が、結果として現在日本でこのように受容されていること、さらにこの受容形態が今後とも続くことで、よりJapanオリジナルなものになっていくことを理解してもらえればと考えている。

 現在、年間3,000万人強の入場者を誇るTDRだが、その歴史は本家と比べればまだまだ。この先ずっとTDRが続き、ディズニー世界がもっと日常的な存在になったとき、言い換えれば、アメリカのように、夢中にならなくてもそこにあるものになったとき、ディズニー世界は完全に日本の伝統文化に組み入れられたことになるのだろう。そうなるのはまだ数十年先と筆者は考えている。

 

第6回 ストイカ・ミラノヴァ(Stoika Milanova、1945-、ブルガリア)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

ブルガリアの名花

 1945年8月5日、ブルガリア中部のプロヴディフの生まれ。父からヴァイオリンを教わり(母親とする文献もあるが、おそらく間違いだと思われる)、60年(または1961年)、ブルガリアのコンクールで優勝。67年、エリザベート王妃国際コンクールで第2位(このとき、ギドン・クレーメルが第3位、ジャン・ジャック・カントロフが第6位)。64年から69年までモスクワでダヴィッド・オイストラフに師事、その成果を問うために70年のカール・フレッシュ国際コンクールに参加し、見事に優勝を果たす。
 ミラノヴァの顔写真はLP、CDなどに多数見ることができるが、それらはいずれも伏し目がちな、中空を見つめたような、あるいは一抹の憂いを含んでいるようなものばかり。カラッと笑ったものは一枚もない。彼女の演奏から受ける印象も、ある意味これらの写真と共通するものがある。解釈の基本は全くのオーソドックスだ。これみよがしな大げさな身振りや、お涙頂戴式の場面などはどこにも見られない。ほっと心を落ち着けるような親しみやすさ、懐かしさのようなものがあり、決して派手ではないけれど、聴くほどに味わいが増してくる。
 手元にあるミラノヴァの演奏は大半がLPだが、唯一のCDはブルッフの『第1番』とグラズノフ、それぞれのヴァイオリン協奏曲である(日本語帯付きはANF-312、オリジナルはFidelio 1865)。オリジナルのCDには録音データはないが、日本語の帯には1984年10月、ソフィアでの収録とある。
 2曲とも緩急の差はそれほどつけず、おだやかに、ゆったりと歌い込んである。特にブルッフの第3楽章の、決して先を急がず、のびのびと舞っているところは印象的だ。伴奏はヴァジル・ステファノフ指揮、ブルガリア国立放送交響楽団。
 以下は、すべてLPでの試聴。あえて彼女の最高傑作をあげるとすれば、プロコフィエフの『第1番』『第2番』のヴァイオリン協奏曲だろう(Balkanton 1982703、録音:1970年?1972年?)。全体的にはきちんと明瞭に仕上げられているが、切れ味やしなやかさ、テンポのよさ、必要にして十分な気迫など、すべてにおいてバランスが適切だと納得させられる。これはやはり、オイストラフからの伝授が効いたのだろうか。伴奏はブルッフなどと同じくステファノフ指揮、ブルガリア国立放送響。
 個人的に愛着があるのは、ベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』である(Balkanton BCA104533、録音:不明、1970年代?)。この曲の女流演奏は、なぜだか魅惑的なものが多い。ローラ・ボベスコやジョコンダ・デ・ヴィートのように、強烈な個性をもつものもあるが、このミラノヴァのそれは女流らしいなだらかさ、柔らかさをもちながらも、もっと控えめな気品にあふれている。たとえば、第3楽章の最初の部分、アレグロに入った際、ほんの少しブレーキをかけて歌い始めるところなどに、この人の特徴が表れていると思う。指揮者、オーケストラはプロコフィエフと同じ。
 メンデルスゾーンもある。もちろん、超有名な方の協奏曲だ(Balkanton 1982704、録音:不明、1970年代?)。これは多数ある名盤のなかでは、いささか地味な部類に入るだろう。けれども、この化粧っ気のなさがまた彼女の持ち味であり、聴いて決して損はない。なお、このLPは第3楽章が第2面にカットされている。こんなふうにカッティングされたLPは初めてだった(余白はメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』序曲)。伴奏はプロコフィエフ、ベートーヴェンと同じ。
 室内楽では以下のものがある(同じくすべてLP)。1976年3月、ミラノヴァは来日した際に日本コロムビアにスタジオ録音をおこなっているが、これが結果的には彼女の最も音質がいいレコードとなった(日本コロムビア/デンオン OX-7070)。曲目はプロコフィエフの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』、ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』、ラヴェルの『ツィガーヌ』である。ピアノ伴奏はストイカの妹ドラ(Dora Milanova)。 
 ソナタ2曲はともに知情意の配分がとてもいい。驚くような解釈はないものの、しっかりと落ち着いた雰囲気がある。また、『ツィガーヌ』の最初の部分、たいていのヴァイオリニストは、それこそ松ヤニが飛び散るように激しく弾くのだが、ミラノヴァは決してそうしていない。力みを排し、可能なかぎり自然に楽器が鳴るようにしている。また、ぴたりと影のように寄り添っているドラのピアノも見事。これこそが、息の合ったアンサンブルなのだ。2016年8月現在、未CD化。
 フランクとドビュッシーのソナタを組み合わせたものもある(Duchesne DD-6095、録音:不明)。ドビュッシーはデンオン盤とダブっている。このLPは録音年が不明なので何とも言えないが、どうやらこちらのほうが先のような感じがする。もちろん、解釈は同じ(ピアノも同じくドラ・ミラノヴァ)。フランクは言うまでもなく大曲であり、名盤もひしめいている。そのなかにあって、彼女らのように慎ましく、穏やかに歌っている演奏は珍しいと思う。特に後半の第3楽章、第4楽章がそうだ。
 ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ全集』(「第1番」―「第3番」)という、ミラノヴァの唯一のまとまった録音がある(Harmonia mundi HMU-115-6、録音:不明)。これはBalkantonとの共同制作のようだ。これまた姉妹のデュオであり、ミラノヴァの芸風と作品内容がよく合っていて、見逃せない逸品だろう。不思議なのは、「第1番」と「第2番」は明らかにモノーラル(LPボックス。解説書とレーベルにはステレオの文字はない)。「第3番」はかろうじて広がりがあるステレオであり、3曲のなかでは音質に最ものびがある。第4面にはVladislav Grigorovというホルン奏者とのブラームスの「ホルン三重奏曲」が収録されている。音質は「第3番」のソナタと似ていて、演奏もすばらしい。普通なら、「F.A.Eソナタ」とか「ハンガリー舞曲」とかが第4面にきそうだが、「ホルン三重奏曲」が入っているところをみると、これはレコード用の録音ではなく、放送用のそれを転用したものではないか。
 妹ドラではなく、マルコム・フレージャーと録音したブラームスとシューマンの、それぞれ『ヴァイオリン・ソナタ第1番』がある(BASF KBB-21392、録音:不明、1972年頃?)。ブラームスの『第1番』は前出のハルモニア・ムンディ盤とダブっている。音はこちらのほうがいいが(ステレオ)、全体の出来は妹との共演のほうがいいような気がする。単に腕前を比較するならば、フレージャーはドラよりも上だろう。しかし、姉妹の共演は一心同体のような親密さがあり、その点でフレージャーはそこまでいっていない。
 このLPでは聴きものはシューマンだ。このふつふつと沸き上がるようなロマンは、ミラノヴァにぴったりだ。ピアノがドラだったら、さらに味わいが増したと思うが、でも十分に聴き応えがある。
 あと、参考としてヴィヴァルディの『四季』(Balkanton BCA-1250、録音:1970年12月、ブルガリア・コンサート・ホール)をあげておく。このLPは珍しく録音データが記されているが、音がよくない。風呂場のような、あるいはピンぼけの写真のような、実体が捉えづらい劣悪な音質なのだ。全体の解釈はごく普通。ミラノヴァのソロは安定し、巧く歌っていると思うが、参考記録の域を出ない。伴奏はワシリー・カサンディエフ指揮、ソフィア・ソロイスツ。

 

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石井敦先生に捧ぐ ――『人物でたどる日本の図書館の歴史』を書いて

小川 徹/奥泉和久/小黒浩司

 近代日本図書館史研究の先駆者である石井敦は、いまから20年ほど前に『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』(1995年)という本を自費出版した。石井はその「まえがき」で、同書を編んだ目的を次のように述べている。

    個々の図書館でひたすら利用者へのサービスに尽してきた人、資料の重要性を深く認識し、周囲の無理解にもめげず、散逸しそうな資料を発掘し、収集し、組織化してきた人たちなど、100年以上の歴史をもつ日本の図書館界にはたくさんいたのである。こういう先輩たちの仕事をもっと明らかにし、司書の社会的評価を獲得すると共に、これから図書館員を目指す人たちを増やしたい。また図書館にこういう専門的な人が必要なことを証明したい。

 石井はさらに次のようにも述べているが、それは彼の図書館史研究が、図書館とそこで働く人々に対する敬意によって立つものであることを示している。

    もっと積極的に先輩たちの業績を見直し、どれだけ地域の文化発展に寄与してきたか、学生や研究者たちのために役立ってきたか、同業者として評価すべきだろう。自分たちの先輩の仕事を無視することは、まさに天に唾するもの、自らの仕事の無視でもある。自分の仕事に誇りをもつならば、先輩たちの仕事にも同様、目を向けて然るべきだろう。今日からみれば、無意味に見える仕事も、当時の厳しい環境の中では心血を注いで取組んだものもあったこと、そこには利用者への限りないサービス精神の発露していたこと、資料(書物)の社会的価値を洞察し、信念をもって官憲から守ってきたことなどなど、丹念に掘り起こし、再評価すべきだと思う。

 今日、図書館をめぐる環境には厳しいものがある。それだけに、地域社会のなかに図書館を定着させようとした先人の努力の跡を掘り起こし、そこから何かを学び取る作業をゆるがせにしてはいけないと考える。
 私たち3人が『人物でたどる日本の図書館の歴史』をまとめた原点はここにある。その思いを汲み取ってくだされば幸いである。

 

青春の記録は苦悩に満ちている ――『80年代音楽に恋して』を書いて

落合真司

 1980年代は、わたしが高校生・大学生として過ごした貴重な時間。
 ネットもスマホもない時代のきらめいた青春の日々。
 その青春は常に音楽とともにあった。

 いきなり格好をつけて3行書いてみたが、拙著の「あとがき」あるいは「執筆裏話」として書こうとすると、もう苦悩しかないので、格好などつけず正直に苦悩のメイキング・エピソードを綴っていく。

《苦悩1》
 7年ぶりの出版だ。編集に関わる仕事はしていたものの、専門学校の講師やデザインの仕事に専念していたため、完全なブランクと言える。スポーツ選手が引退してから7年後に復帰するのがどれだけ大変か想像してもらいたい。とにかく書けないのだ。「えっと、原稿ってどうやって書いていたんだっけ?」という状態。「もう終わったな、自分」と毎日へこんで病んで自暴自棄になったりもした。
 超人的なスピードで原稿を書きまくって多数のヒット作を生み出している西尾維新先生は絶対に現在の人じゃない、きっと未来人で時間をコントロールするテクノロジーをもっているんだ、とバカなことを考えて自分を無理やり納得させた。10分もしないうちに再び自己嫌悪に陥るのだが。
 それでも少しずつ書かなければ本当に人として終わってしまいそうなので、キーボードをカタカタ叩いてみる。10分原稿を書いて50分休むというダメ人間。無駄に部屋の掃除を始めたりマンガを読んだりするクズ人間。
 気持ちが乗ってすらすら書けるときもあるが、あるアーティストのデビュー・アルバムについて書こうと思うと、当然あらためて聴き直すことになる。じっくり何度も聴く。別のアルバムも聴いてみる。気がつくと何時間もたっている。きょうはこれで終わりにしよう。言うまでもなく翌日もこのループ。

《苦悩2》
 ずっと以前、「神戸新聞」に「愛しの80年代」というタイトルでコラムを書いたことがある。それが思った以上に好評だった。「あ、これはいけるかも」と手応えを感じたが、オヤジの(昔はよかった的な)昔話ほどつまらないものはない。だからそういう書き方は避けて、しっかり時代背景と音楽をリンクさせようとする。
 ところが、どんなに調べて分析して考えても、時代性と音楽性に密接な関係が見えてこない。どうしよう。ますます原稿が進まなくなる。

《苦悩3》
 わが青春の80年代。ネタには困らない。そう思っていたが、本当にたくさんのことがあったのにうまく思い出せない。高校生のギャグマンガを描いているマンガ家が、「高校時代にバカなことをたくさんしたはずなのになかなか思い出せず、ネタがなくて困っている」と語っていたことがあったが、まさにそれ! 原稿は依然として進まず。

《苦悩4》
 レコードのジャケットを掲載することになった。スキャンするために探してみるが見つからない。見つかっても掲載したいアルバムではないものが出てくる。
 多くの音楽ファンはそうだと思うが、愛聴していたレコードがCD化された時点でCDを買うので、それまでのレコードは押し入れの奥のほうにしまい込んでしまったりすると思う。引っ越しを繰り返し、やがてレコードは行方不明になる。わたしも同じである。
 できればCDではなくレコードのジャケットを掲載したい。そこで、中古レコード店やネットオークションを探し回って手に入れることにした。これが意外にも高額なのだ。300円ほどで買えるだろうと思っていたら、定価よりも高い値がついていることもあり、とんだ出費になってしまった。
 これまた多くの人が経験すると思うが、ネットで何かを探していると、あっという間に時間が過ぎてしまう。つまり、そういうことだ。原稿はまったく進まない。

《苦悩5》
 気がつくと3年がたっていた。やっと書き上がった。読み直して愕然。書き始めた頃と最近とで文章のテイストが変わっているではないか。書き直しかぁ、ぞっとするなぁ。
 また、80年代音楽は自分にとって結局何だったのか、クリーンヒットな答えが見つからないまま編集作業が進み、再校の段階でやっと書き直すという危険な行為に出てしまう。
 
《苦悩の果ての感謝》
 原稿もまともに書けないくせに、装丁を自分でやりたいと申し出てしまうバカな自分。
 だが、すでに構想はあった。デザインの専門学校で進級制作を担当したとき、80年代風のすてきなイラストを描く学生がいた。オタク系ネット世界ではそこそこ有名な絵師だったその学生にカバーイラストをお願いしようと思い、久しぶりに連絡を入れてみた。卒業して仕事をしているはずなので、忙しくて描いてくれないかもしれないが、まあダメ元で。すると、絵の活動をしながら、実はまだ卒業せずに学校に残っているとのこと(同じ学校にいて顔を合わせない不思議)。よし、これは描いてくれるかも。
 おかげですてきな装丁になった。
 そして、こんなダメ人間なわたしに付き合ってくれた青弓社の矢野さんや編集者、営業のおかげで、やっと今度こそ本当に完成した。「本を一冊完成させるってこんなに大変なんだ」とあらためて思い知り、同時に多くの人に感謝する本になった。ありがとうございました。

 

第5回 ステファン・ルーハ(Stefan Ruha、1932-、ルーマニア)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

ルーマニアのパガニーニ
 
 ステファン・ルーハについては、詳しいことが全くわからない。1932年生まれだが、どうやらまだ存命であるようだ。具体的な情報としては58年の第1回チャイコフスキー・コンクール(言うまでもなく、クライヴァーン騒動だったとき)でヴァイオリン部門の第3位(上位8位の入賞者のうち6人が旧ソビエト連邦勢)、翌59年のロン=ティボー・コンクールで第2位、ジョルジュ・エネスコ・コンクールでは優勝(年不明)している。60年11月には来日しているらしい。
 ルーハのレコードはルーマニアのエレクト・レコードから出ていて、一部CD化もされているが、新品のCDはほとんど見かけず、中古のLPは1枚1,000円から3,000円程度で購入できる。ヴァイオリニストのLPというと、ときにとんでもない価格のものもあるが、ルーハにはそれがなく、集めやすい。ただし、録音年代は全くわからない。以下に紹介するものはすべてステレオ録音で、1960年代後半から70年代に収録されたと推測されている。
 最初に聴いたのはチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』(ミルチェア・バサラブ指揮、ルーマニア放送交響楽団、Electrecord STM-ECE01088)。第1楽章、序奏のあと独奏が出てくるが、ここをわずかに聴いただけでも、ただ者ではないことが明らかだ。音はピンと張って輝かしく、ヴィブラートは大きめだが、テンポの揺らし方が非常にうまく、和音の弾き方も独特だ。また、カデンツァをこれだけ多彩に弾いた例も珍しい。
 第2楽章は非常に大らかに歌っていて、その独奏は遠くまでもよく響き渡るような、伸びのよさも感じさせる。第3楽章もその安定感と音の粒立ちのよさ、そしてリズムの切れは第一級である。
 次のブラームスは、ちょっと驚きの演奏だ(エミール・シモン指揮、クルジュ=ナポカ・フィルハーモニー、Electrecord ST-ECE01381)。まず、序奏がかなり遅いので、期待感が増してくる。そしてルーハの登場。ものすごい気迫だ。まるで敵陣に乗り込むサムライのよう。こんな厳しい開始を告げたヴァイオリニストは、過去にあっただろうか。むろん、全編にわたり、この雰囲気はずっと持続させられる。また、ちょうど曲の半ばで低い音域で重音を弾く個所があるが、ここはベートーヴェンの『第9交響曲』の第4楽章冒頭の低弦のように、何かをしゃべりかけているかのようだった。さらに、チャイコフスキー同様、カデンツァがとても濃厚である(弾いているのは最も一般的な、ヨアヒム)。
 第2楽章もルーハのソロは実に力強く、輝かしい。実際の彼の音量は録音ではわからないが、きっと大きなホールの隅々まで届いていたのだろう。
 第3楽章は、これまで聴いていたなかでも最も遅い部類だ。全体の構成はがっちりとしていて、気迫、輝かしさ、伸びやかさのバランスが見事にとれている。ルーハを知りたければ、まず、このブラームスを聴くことだ。
 ヴィヴァルディの『四季』(ミルチェア・クリステスク指揮、クルジュ=ナポカ・フィルハーモニー室内管弦楽団、Electrecord ST-ECE0564)も聴いた。全体の解釈は、やや遅めのテンポを基調として、伴奏もたっぷりと鳴らされている。要するに、古楽器奏法とは反対の、昔ながらの演奏である。
 ルーハのソロはここでも冴え渡っていて、堂々として、ヒバリのようにさえずっている。たとえば『秋』の第1楽章のような切れ味の鋭さは、彼が並みの奏者ではない証拠でもある。
 ヴュータンの『ヴァイオリン協奏曲第4番』『第5番』(エルヴィン・アチェル指揮、Electrecord ST-ECE03674)も手元にあるが、これは参考資料だ。というのは、このLP、見た目には全く問題なくきれいなのだが、実際にかけてみると、針と溝がピタッと合わないようなノイズが盛大な音で再生されるからだ。このようなLPにはときどき遭遇するのだが、近々、別のLPを手に入れてみたい。演奏はとてもすばらしいと思う。
 エレクトレコードの音質はお世辞にもいいとはいえないので、その点ではちょっと損をしているが、虚心なく聴く人にはルーハの実力は明らかになるだろう。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
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植民地の図書館事業を再考するために ――『図書館をめぐる日中の近代』を書いて

小黒浩司

 本書の執筆・校正と並行して、戦前期の図書館用品のカタログを復刻する計画を進めてきた。こちらは現在その解題などの校正中だが、ゲラを見ていてあらためて気付いたことがある。
 図書館用品店のカタログには、それぞれの用品類を採用した図書館などの名称が写真入りで多く掲載されているが、その相当部分を植民地の図書館が占めている。植民地では図書館事業の改善に意欲的で、それが新しい用品の導入につながったと考えられる。植民地の図書館事業が内地に比べて「進んでいた」ことの一つの表れなのかもしれない。
 一方、用品店は内地の図書館への売り込みに苦労していた。そこでその打開策として植民地の図書館に積極的な攻勢をかけた結果でもあるのだろう。それでは、内地での販売がなぜ振るわなかったのだろうか。その理由としては次のようなことが考えられる。
 例えば木製の目録カードケースであれば、わざわざ用品店に注文しなくても、近所の木工業者に作らせたほうが手っ取り早いし、何かと融通がきいた。しかも総じて安上がりだった。
 品質の面でも問題はなかった。日本には伝統的な技術、高度な技術を有する木工業者(指物師)が多数存在していた。船箪笥などを見ればその優れた技がわかるだろう。地元業者も、専門店に勝るとも劣らない製品をたやすく作ることができたのである。
 さらには従来からの出入り業者への配慮も必要だろうし、地域の産業の保護・振興も考えなければならなかっただろう。新興のよそ者の用品店への発注は、さまざまな点から異例だったと考えられる。
 これに対して、植民地には「しがらみ」がなかった(もちろん、植民地でも本来は現地企業の育成を図らなければならないはずなのだが)。図書館は購入したいと思う用品を買うことができた。「金に糸目を付けない」経営が可能だったのである。
 図書館用品店は植民地の図書館との取引によって利益を確保し、技術を高めることができた。この国の図書館用品業の黎明期を支え、その後の発展の基礎を築いたのは外地の図書館だった。それは単に図書館用品だけではなく、この国の近代の産業全体の構図だろうし、他の列強諸国にもある程度共通していた事情だろう。
 植民地の図書館事業に対して、日本の植民地経営総体に対して、肯定的な評価をする人たちが少なくない。しかし、そうした見方こそがこの国の「近代」に対する偏向した見方であり、世界史的な視点に欠けた論といえるだろう。

 

第3回 事例2 作り手とファンの交差する視線の先――2.5次元舞台へ/からの欲望

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

双方向性メディアの発達と「2.5次元」舞台

 1950年代の地上波テレビの登場、60年代のカラーテレビの普及、80年代の家庭用ビデオデッキの登場・普及、90年代のパソコン通信による双方向性コミュニケーションメディアの登場から2000年代のインターネットの急速な普及、ソーシャルメディアの発展、と目まぐるしく変化するメディア環境は、私たちの現実認識やコミュニケーション形態に大いなる影響を与えてきた。そして10年代の現在、私たちはスマートフォンなどを通じてモバイルサイバー空間に常時接続状態でいることが可能だ。バーチャルリアリティー技術も向上し、一昔前までは荒く、区別が明確だったCG画面と実写映像の混合も、いまはわからないくらいに「リアル」で、私たちは知らないうちに加工された映像にだまされている。こうしたメディア環境の著しい変化によって、私的領域と公共領域は混合し、いまではそれを自明なものとして私たちは生活している。
 漫画、アニメ、ゲームなど、視覚情報をともなった一次創作物を原作にした舞台という限定的な意味での2.5次元(以下、2.5Dと略記)舞台には、スター重視という側面は否めないものの、独自の様式で視覚的再現性を内包していた宝塚歌劇団の『ベルサイユのばら』(1974年)や、SMAP主演の『聖闘士星矢』(1991年)があった。視覚的再現性に聴覚的再現性が加わった舞台では、アニメ版の主役(両津勘吉)を演じたラサール石井が同じ役で演じたミュージカル『こちら亀有前派出所』(1999―2006年)シリーズ(1)や、アニメ声優たちが担当キャラクターを演じたミュージカル『ハンター×ハンター』(2000―04年)シリーズ(2)など、前ミュージカル『テニスの王子様』(以下、『テニミュ』と略記)期の2.5Dミュージカルは少なくなかった。しかし、2000年代後半からの2.5D舞台の爆発的人気には、上述したメディアの発達が大きく寄与している。

参加型文化とニューメディア

 第1回でも言及したが、こうしたメディアの発達とファンのコミュニケーション形態を研究したヘンリー・ジェンキンスは、1994年の著書で、1960年代からのテレビというメディアの普及にともない見られるようになった、ファン同士が二次創作を通じて横のつながりを形成(ネットワーク化)する様子を、「参加型文化」と呼んだ。しかし現在では、デジタル技術、インターネット、ソーシャルメディアの発達によって、その概念はより拡大した意味を内包し、ファンたちの積極的な参加によって成立する文化としての意味合いが強い。2.5D舞台のまわりでよく見られる光景といえば、鑑賞する側が関連情報をいち早く収集し(たとえば、新作舞台の情報やキャストのつぶやきなど)、SNSなどで不特定多数のファンに拡散し、舞台上のキャスト(役者)の体にキャラクターを幻視した体験を、舞台の休憩中に情報発信し、また多様な読み込みによってファン同士をネットワーク化しているということだ。こうした参加型文化では、参加者(傍観者であるオーディエンスでなく、積極的に参加するプレイヤー)のはたらきかけが舞台パフォーマンスの一部なのである。
 そうしたファンたちと制作者たちの向かう先はどこなのか。交差する視線のなかで、どのような欲望が観察されるのか。今回は、『テニミュ』の熱心な若い女性ファンたちの声と、2.5D舞台に新たな旋風を巻き起こしているハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』の新進気鋭の演出家ウォーリー木下氏のインタビューを紹介し、ファンと制作者の交差する視点について考えてみたい。

ファン座談会から

『テニミュ』の公演では、終劇後、出口でお土産が配られる。シールだったり、生写真だったりと毎回趣向がこらされたお土産は、ファンの楽しみの一つである。リピーター(特に、すべての公演に皆勤することを「全通」という)は、当然同じものを引き当てる確率が高く、公演後の東京ドームシティ出口付近での物品トレードは風物詩になっている(3)。
 筆者は、トレードで知り合ったファンや、スノーボール式に知り合ったファンたちを集め、2016年3月に座談会をおこなった。参加者は5人。日本人4人(あやかさん、えみさん、さやかさん、みふさん)は当時20代前半、北アメリカ出身の外国人(ジルさん)は20代後半だった。特にジルさんは、自国で『テニミュ』のDVDを友人から借りて惚れ込み、ついには『テニミュ』を毎回観たいがために来日を決め、日本で仕事をしているというツワモノである。

座談会の様子

きっかけは「ニコ動」

 まず、5人に『テニミュ』はじめ2.5D舞台/ミュージカルにハマったきっかけを聞いた。すると口をそろえたように、日本人参加者は「ニコニコ動画」(以下、「ニコ動」と略記)と答えた。ジルさんだけはDVD鑑賞がきっかけだったが、『テニミュ』開始当時の2000年代前半にまだ中学生だった参加者にとって、「ニコ動」は身近な情報収集ツールだった。特に初期の『テニミュ』に対しては、「空耳」と呼ばれる「~のように聞こえる」架空のセリフの字幕をつけて楽しむファンの二次創作が盛んだった。滑舌の悪さやオーバーリアクションの面白さから、こうした“ファンが参加する余地”が生まれ、それにほかのユーザーがコメントをつけることで、ますますファン層が広がり、最終的に“本物”を観に劇場に行って、ハマってしまうのだという。えみさんは、「劇団四季(のミュージカル)をよく観にいっていたが、空耳がはやっていて面白かったので、“お笑い”を見にいく感覚で行ってみたら面白くてハマった」と告白している。当然、DVDを勝手にアップするのは違法だが、こうしたストリーミングサイト上の二次創作のシェアが、原作『テニスの王子様』(許斐剛、「週刊少年ジャンプ」1999―2008年、集英社)やアニメのファン以外や、公演に足を運べない人など、『テニミュ』の裾野を広げるのに担った役割は大きい。実際、原作ファンで地方在住の高校生だったみふさんは、公演をなかなか観にいけず、ひたすら「ニコ動」で情報を追いかけていたという。

多メディア展開による複合的快楽

 キャラクターのファンだったり、キャスト(=役者)自体のファンだったりと、5人の快楽のツボはさまざまである。それを可能にしているのが、多メディアによる配信と舞台裏映像である。本公演以外に、バックステージと呼ばれる、舞台裏の様子を収めたDVD特典などで、キャラクターを演じるキャストの素顔を垣間見ることができる。ファンは、キャラクターを彼らに幻視し、AくんとBくんは、物語上は他校だけど、楽屋では仲がいい――つまり、物語と現実のギャップを楽しむことや、「バックステージを見て、Cくんがいじめられているのがカワイイと思った」(さやかさん)など、キャストの若い男性たちがワイワイやっている姿を、外から眺めて楽しむこともできる。ライブビューイングと呼ばれる、公演の生中継を映画館などで映像として観る形式もある。ライブビューイングの楽しみの一つは、自宅でテレビをみんなで観ているような気軽さだという。「飲食をしながら、ツッコミをいれながら、みんなで楽しめる気軽さがいい」(ジルさん)というような、本公演では本番中声を発したり、飲食することができないが、ライブビューイングではそれが可能になり、しかもほかの観客=ファンと一緒に、サイリウムを振って応援する一体感がうれしいという。実際あやかさんは、キングブレードと呼ばれるサイリウムを座談会に持参、応援の様子を再現してくれた。ファンにとって、キャラクターのシンボルカラーを覚え、キャラクターの登場に合わせて色を変えることは、キャラクター/キャストとの一体感も味わえる瞬間なのだ。

同担拒否がない比較的平和なコミュニティー(?)

「同担拒否がないので、1人で劇場に行っても、キャラの人形やグッズを持っている人を見ると話しかけられるし、仲良くなれる」(みふさん)。
 同担拒否とは、同じ推しメンを好きな人同士は仲が悪い(一緒にいるのをいやがる)ということを指す。“同じ担当の人を拒否する”という意味で、同担拒否なわけだ。同担拒否は、たとえばジャニーズファンの間ではすでに自明になっているようだが、2.5D舞台/ミュージカルではキャラクターという偶像が介在していることが幸いして同担拒否が起こりにくい環境になっているのかもしれない。みふさんの言葉からは、同じ嗜好をもった者同士が集まる場所という安心感が読み取れる(ただし、同担拒否がまったくないわけではない。成熟したコミュニティーでは、排除も起こりやすい。この問題は改めて議論していきたい)。

ファンの視線の先に

 紙数の関係からすべてを紹介できないが、再現性の高さに対する賞賛やチーム男子へのまなざしを共有し、多メディアで展開されるコンテンツとして、『テニミュ』や2.5D舞台/ミュージカルを楽しむファンたちの姿が垣間見えることは確かだろう。『テニミュ』はとりわけ10年以上の歴史から、バックステージ、ライブビューイング、『ドリームライブ』(本公演以外に展開されるコンサートショーのようなもの)、運動会など多くの実績があるが、昨今の2.5D舞台/ミュージカルでは、本公演以外にライブビューイングや、DVD・BD(ブルーレイディスク)にバックステージやメーキング(稽古の様子)映像を含めるものが多くなっている。
 最初は再現性やチーム男子へのまなざしを重視するファンだが、目が肥えてくるとキャストの熱がこもった演技、舞台装置、物語の演出方法など、キャラクター以外の細部に目がいくようになる。さらに、「推しキャストができたことで、その人が出演するほかの演劇も観にいくようになり、趣味が広がった」(さやかさん)という意見もあり、演劇自体への興味にもつながっている。
 いままで、オリジナルの演劇に対してどこか劣位に置かれていた2.5D舞台/ミュージカルだが、ファンの2.5Dからいわゆる普通の演劇への流れとほぼ同時に、小劇場出身の演出家が2.5D舞台に参加することで、興味深い化学変化と交流が起こっている。

ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”

 第2回で、2.5Dミュージカルに関して藤原麻優子(4)の議論を紹介し、「未完成の美」という要素に言及したが、第1回でも述べたとおり、2.5D舞台は多様化していて、「ジャンル」として規定することがますます困難になってきている。実際筆者は、『テニミュ』系ミュージカルでの①再現性、②チーム男子、③連載上演、に限りなく近いと思い観劇しにいき、いい意味で期待を見事に裏切られた2.5D舞台を体験した。2015年秋に初演し、その人気ゆえに早くも2016年春に再演したハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”(以下、演劇『ハイキュー!!』と略記)である。
 原作『ハイキュー!!』(〔ジャンプコミックス〕、集英社、2012年―)は、「小さな巨人」に憧れて宮城県立烏野高校バレーボール部に入部した主人公・日向翔陽を中心にした高校バレーボール選手たちの青春を描く、古舘春一の漫画である。テレビアニメ化(2014年―)、ゲーム化(2014、16年)など、広くメディアミックス展開もされている人気作品で、2015年に待望の舞台化となったわけである。演劇『ハイキュー!!』は、日向の中学生時代の体験と影山飛雄との出会いから、高校のバレー部入部を経て、強豪・青葉城西高校との試合などを描いている。
 演出は、エジンバラ演劇祭で5つ星を獲得するなど国内外で活躍する気鋭の演出家ウォーリー木下氏。脚本は、2.5D舞台では演劇『ハイキュー!!』のあと、舞台『黒子のバスケ』の脚本・演出も手がけている中屋敷法仁氏である。今回は、演出を手がけたウォーリー木下氏にお話をうかがうことができた。

2.5次元の地平の先へ――ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”の演出家ウォーリー木下さんに聞く

※文中にはいわゆるネタバレが含まれます。
※文中WKはウォーリー木下氏、ASは筆者の略称。

 まず、演劇『ハイキュー!!』で演出をされたウォーリー氏に、率直に2.5Dのイメージについてうかがうと、コンビニなどで2.5D関係の新聞を目にしたり、大阪の稽古場の近くでコスプレシューティング(撮影)している人々を見かけたりするという程度で、特に意識していなかったという。それならば、漫画『ハイキュー!!』の舞台化の依頼に戸惑いはなかったかうかがうと、「それはなかった」ときっぱり。

ウォーリー木下さん

WK:最初に「2.5Dミュージカル」の枠組みのなかで作りたいわけじゃなくて、(略)もっと画期的な、ウォーリーがやりたいと思っている、演劇のもう一歩先というか、演劇は演劇であるんだけども、現在進行形で進んでいるいろんなテクノロジーであるとか、メディアアートみたいなものと、人力を使ったもの(略)を『ハイキュー!!』でやらないか、っていう話だったんです。

 実際、プロジェクションマッピング、ライブカメラ、漫画のコマを使ったスチール、漫画のコマを画面分割に使って背後のスクリーンに投影……など、舞台上であらゆるテクノロジーが使用されている。「人間の身体=実体」が「漫画のコマ=虚構」と交じり合った映像は、実写映画のスクリーン上ではCG技術を使用すれば不可能ではない。しかし、演劇『ハイキュー!!』の卓越したところは、劇場という観客が内包された3次元の閉鎖空間で、身体性を感じる生身の役者の身体表現と、あらゆる種類の映像との巧妙なハイブリッドが展開し、不思議な異空間が演出されている点である。したがって、観客は3次元感覚(物理的な現実認識)と2次元感覚(想像的な虚構認識)をかろうじて隔てていた境界に対する認識が麻痺し、自分がいつのまにかその異空間に入り込んでいる感覚に陥る。しかも、テクノロジーを使った演出だけでなく、白いベールをかぶった黒子が、音楽に乗って日向のアタックのときの跳躍を支えて持ち上げるという、アナログ的な演出なども多数ちりばめられていて、まさに3次元と2次元を行ったり来たりする感覚に包まれるのだ。こうした漫画のコマを使用する意図や表現したかった思いをうかがってみた。

WK:漫画をテキストにして、舞台化しようって思ったときに、普段僕がやる作業としては、なんというか、手術みたいに1個1個取り出して、横に並列してばーって並べるんですよ。作業としては。(略)それをもとに役者と一緒に共同作業するんですけど、わりと僕、集団創作が多いんですよ。演出家が立って、右行って、左行ってとかってじゃなくて、俳優さんと一緒に、こういうものがあって、これをじゃあ、セリフで読んでみてほしい、もしくは逆にセリフで読まずに体で表現してほしい、っていうのもやったりとかする集団創作っていうのをやって、(略)その作業のなかで、漫画のコマ割りっていうのが、すごく興味が出てきちゃって、(略)いやこれはこのまま使ったほうが面白いって、あるとき思ったんですよ。なんでそう思ったのか記憶はあまりないんですけど、とにかく直感で思って、漫画のコマ割りのなかに、実際の役者のリアルな顔を、今回の再演の場合、生カメラで入れたりしてるんですけども[AS:あれはとても面白かったです]。要するにリズムなんですって、コマって。(略)じゃ、リズムであれば、演劇もリズムが8割くらいだと思っているので、リズムのなかで音が出てくれば、ドンって使い方すれば、何か新しいものにならないかなと思ってやってみました。だから、『ハイキュー!!』を舞台化するうえで、あのコマのリズムみたいなものとかデザインというものが、有効に生きるんじゃないかなという判断で、選択したうちの一つです。

解体作業、ポエトリー化、そして……

 ウォーリー氏はさらに、原作を「ピンセットで1枚1枚剥がすような」という解体作業、そして「いったん抽象化する」=“「ポエトリー」(詩情)化”し、「具体化」=再構築していく、という興味深い創作プロセスを語ってくださった。

WK:漫画を立体化したいわけでなくて、その漫画を演劇化したいわけなんですよ。演劇化するって何かっていうと、1回抽象化することだと思うんですよ。(略)たとえば、わかんないですけど、少年時代のもやもやした葛藤みたいなものがあったとして、この2人[日向と影山]がもしかしたら双子かもしれないと。同じお母さんから生まれてきた2人がいまこうなっているかもしれないと。……わかんないですよ、でもそうやって抽象化していくというか。たとえば、太陽と影。たとえば、彼が太陽で、彼が影だったら、その真ん中に誰かいるんじゃないか、つまり物体がないと影ができないじゃないかとか、そうやって1個1個、あえてポエトリーにしていくというか、ということを1回して、それをさらに具体化することで演劇ってできると僕は思っていて……

 おそらく、それは抽象的世界観を作り上げていく、まさに虚構を具象化していく緻密な作業なのだ。その結果として選ばれたテクノロジーの使用とアナログな身体表現のハイブリッドが絶妙な加減で、再演パンフレットでウォーリー氏が「『ハイキュー!!』の根っこに近づきたかった(5)」と言及しているとおり、“根っこ”というまさに根幹に流れる精神(ルビ:エーソス)を表現しているのだろう。
 また、ウォーリー氏は声についての演出は高低や速度以外は役者におまかせだったとのこと。アニメの声優の声はキャラクターを同定させるひとつの重要な要素だが、たとえ声が声優に似ていなくても、役者がキャラクターとしてすでに現前してしまっているのは、「『ハイキュー!!』の根っこ」を中心とした世界観が忠実に再現されているからだろう。実際、2.5Dものに特有の「○○君そっくり!」というファンの感想が「Twitter」で多く見受けられたので、声や動作をアニメに寄せている演出もされているかもしれない、という筆者の予測は見事に覆された。

1ミリ、1秒という計算された動き

 しかし、だからといって役者が完全に自由に表現しているというわけではないという。やはり、プロジェクションマッピングやライブカメラを成功させるには、非常に高度な技術が要求される。

WK:実は(舞台)『ハイキュー!!』って立ち位置とか、このカウントでここに立つとか、このカウント内でジャンプするとか、1ミリずれたらダメですっていう感じの制限がとても多い舞台で、役者にかかっているストレスは大きくて、まあ、さらに八百屋(6)だし、本物のボールも出てくるし、そういうふうにしたんですね。それは難しい決まりごとで毎回本番をやることで、つまり、手の抜ける本番にしたくないというか、ちょっとでも気が緩んだら事故るっていうのを全員が認識して(やってもらっています)……スポーツってそうじゃないですか。(略)
AS:緻密な計算があるんですね。
WK:そうなんです。(略)だからキャラクターが自由に見えるなかで、本当に100%なりきって演じてたら、絶対できないんですよ。っていうたぶんそれが、見てる側からすると、あの人たちは自由にやってるなあ、と逆に思われるんじゃないかと思うんですよ。本当に自由にやっていると、あんまり自由に見えない……なんか変な言い方ですけど。

 束縛があるからこそ、生き生きとしたキャラクターが現前する。あの不思議な空間は、抽象化(ポエトリー化)を通って具現化した世界観のなかで、緻密に計算された立ち位置やタイミングがすべて組み合わさったところで実現しているのだ。筆者が体験した(おそらく多くの観客も体験しただろう)舞台を観たときの緊張感と感動は、こうしたなかで生まれていた。

つねに予想を超えていく

 2.5D舞台/ミュージカルのファンの行動として、休憩や終演後すぐに感想をツイートするというのも一つの特徴だが、最後に、観客の反応についてうかがってみると、あまり見ないとのことだった。

WK:逆にお客さんが、次に音駒高校が登場したらマッピングでこんなことやるんだろうなとか、仮に書いていたとしたら、絶対それをしたくないと思うんですよ。だって、予想していたものが舞台上に出てきても、お客さんは何の感動もないし、だからたぶんある程度そこは超えていかないといけないと思うから、大変だなと思うんですけどね。

 私たちの予想を越えて進化する演劇『ハイキュー!!』。大千秋楽5月8日のライブビューイングで、新作ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“烏野、復活!”の発表がおこなわれた。今年の秋に、またあの不思議空間に迷い込める。

【謝辞】
ご多忙にもかかわらず、インタビューを快諾してくださったウォーリー木下様に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。また、関係者のみなさまに大変お世話になりました。心から感謝いたします。


(1)2016年には10年ぶりに新作が上演予定。
(2)ただし、担当キャラクター以外でキャストされた声優もいる。
(3)どの2.5D舞台でも、物販で中身がわからない缶バッチや生写真セットが販売されていることが多いが、同じものがかぶると公演前後のロビーや屋外でトレードが自然とおこなわれている。
(4)藤原麻優子「「なんで歌っちゃったんだろう?」――二・五次元ミュージカルとミュージカルの境界」「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社、68―75ページ
(5)ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”再演パンフレット、42ページ
(6)傾斜がついた舞台のこと。八百屋の店先の傾斜がついた台に野菜が並んだ様子から。

 

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第4回 ジャン・フルニエ(Jean Fournier、1911-2003、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

知る人ぞ知る、フランスの逸材

 フルニエと聞いたら、まず百パーセントのクラシック・ファンがチェリストのピエール・フルニエ(1906―86)を思い出すだろう。そのピエールの弟ジャン・フルニエが優れたヴァイオリニストだったことは、残念ながらほとんど一般的には認識されていない。
 ジャン・フルニエはフランス・パリ生まれ。パリ音楽院でブラン、ティボー、カメンスキーに師事し、卒業後はフランス国内はもとより、広く世界中でソリストとして注目された。妻はピアニストのジネット・ドワイアン。2人は1957年に結婚したとされる。58年、2人は来日して全国各地でリサイタルを開いている。
 私がいつジャンの演奏を初めて聴いたのかは覚えていないが、モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第3番』『第5番』(ミラン・ホルヴァート指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウエストミンスター WL-5187、録音:1952年)で、こんなに優雅な演奏があったのかと、腰を抜かさんばかりに驚いたのははっきりと記憶している。
 この演奏に惚れぬいた結果、とうとう自分でLP復刻盤(GRAND SLAM GS-2099)を制作してしまった。2013年のことである。ところが、制作過程で思わぬことを知ってしまったのだ。フルニエらは来日した際、ドビュッシーの『レントよりおそく』と『亜麻色の髪の乙女』、フォーレの『子守歌』、ラヴェルの「一寸法師」(『マ・メール・ロワ』から)の4曲の小品を録音したという。それは日本ウエストミンスターで録音されたが、45回転盤(WF-9001)というフォーマットの宿命なのか、中古市場ではウルトラ・レアなレコードだという。
 そういわれるともう、矢も盾もたまらず、あちこちにメールを送り電話をかけ、知っていそうな人には声をかけまくった。すると、とある人の仲介によってこの貴重な45回転盤を借りることができたのである。さらに、これまた幸運がなせるわざか、この録音手記を古い雑誌で見つけた。手記を書いた人は故人だったが、遺族と連絡がとれて原稿の再使用の許諾も得ることができた。
 GS-2099 の本編の協奏曲はすばらしい演奏であり、ボーナス・トラックの日本録音は、それこそ幻の逸品である。しかも、解説書にはその録音現場をレポートした記事も掲載してある。CDの内容としては、これ以上は望みえない、完璧といえるものだった。
 ところが、あれだけ力を入れて発売したのに、恐ろしいほどに売れない。何人かの知人は「こんなにすばらしい演奏があったのか」と驚いてくれたのだが、売れ行きの悪さは全く変わっていない。
 協奏曲と同じくウエストミンスターには、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ全集』(WL-5275、録音:1954年頃)がある。このなかで私は「第2番」と「第9番「クロイツェル」」を聴くことができた。ピアノはドワイアン。「第2番」は予想どおりの軽やかな演奏だったが、「クロイツェル」はこれほど見事とは思わなかった。第1楽章の序奏は実にゆったりと、存分に歌い、風格も豊かだ。主部に入っても凜々しく品格にあふれ、表情もしなやかに変化する。第2楽章の流麗さも、たいへんに印象的だ。第3楽章も、余裕のある足取りがいい。ピアノ伴奏については、あとでまとめて触れる。
 ベートーヴェン以上に優れていると思われるのはフォーレの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』『第2番』(ウエストミンスター WL-5156、録音:1952年)だろう。なぜか最初に『第2番』を聴き、そのむせかえるような濃い味わいに感心したのだが、『第1番』はいっそうすばらしいと思った。これも、ピアノはドワイアン。
 ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』(ウエストミンスター WL-5207、録音:1953年)。これもきれいな演奏だが、フォーレの翌年の収録なのに、ちょっと音が冴えない。このLPは『チェロ・ソナタ』と『フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ』、この3曲を詰め込んだせいで音がいささか窮屈になったのだろうか。
 ブラームスの『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』(ヘルマン・シェルヘン指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウエストミンスター WL-5117、録音:1951年)も聴くことができた。チェロはアントニオ・ヤニグロ。この曲にはほかに内容的・音質的に優れた名盤があるが、チェロのヤニグロともども、抒情的な美しさが楽しめる個所も多く、聴いて損はないと思う。
 いかにもジャンらしいということで選ぶなら、ヘンデルの『ヴァイオリン・ソナタ』(「第1番」から「第4番」、フランスVega 30MT10.180、録音:不詳)は、最右翼ともいえる。非常におおらかで気品にあふれ、心からゆったりとくつろげるような、本当に趣味のいい音がする。ピアノはドワイアン。
 フロラン・シュミットの『ヴァイオリン・ソナタ』(フランスVega C35A251、録音:1959年)は、曲そのものは地味だが、フルニエの妙技を満喫できる点では、ほかの録音と同等である。この演奏もピアノはドワイアンだ。フルニエとドワイアンは夫婦だからか、きっと心ゆくまで合わせることができたのだろう、見事なアンサンブルといえる。これぞ、真のデュオである。興奮して本能がおもむくまま、食べ物を食い散らかすようなヴァイオリンとピアノは、音楽的な意味合いは低いのだ。
『クライスラーの作品集』(フランスVega C30A38、録音:不詳)、これまた身震いするくらい魅惑的である。ここには『美しきロスマリン』『愛の喜び』『中国の太鼓』など、入っていそうな有名曲は含まれない。こうした選曲の理由はわかりようがないが、おそらくはフルニエが納得できる作品を厳選したと思われる。面白いのは、紹介したなかで唯一ピアニストがドワイアンではない。Andre Collard とある。もちろん、どうしてこの人が起用されたのかも不明。「モーツァルトのロンド」、その前半部分の軽やかさ、そして後半部分の甘い、甘い音! 「序奏のアレグロ」のとても柔軟な音も、ため息が出てきそうだ。さらに「ウィーン奇想曲」のむせかえるようなウィーン情緒。これは、かのクライスラー以上ではあるまいか。「メロディー」「シチリアーナとリゴードン」「コレルリの主題による変奏曲」ほか、14曲を収録。CD化が熱望されるだろう。
 聴いた範囲では、フルニエの録音はすべてモノーラルのようだ。その理由だけで認知度が低いわけではないのだろうが、いずれにせよ、きちっと再評価することが急務のヴァイオリニストだと断言したい。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
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第5回 久禮書店、初の地方出張へ

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

モノガタリの近況とフリーランス書店員のアレコレ

 こんにちは、久禮書店です。
 ブックカフェの神楽坂モノガタリは、開店から7カ月がたちました。開店から3カ月は、あえて広告や看板を掲げずに、慣らし運転のようなゆっくりとした営業をしていました。それでも地元のお客さんに知られ、徐々に忙しくなるにつれて、まったく未経験からスタートしたスタッフのみなさんたちも、否が応でも鍛えられ、基本業務をマスターしてきました。
 そこで、年明けからは表通りに立て看板を出して、いくつかの雑誌にも取り上げていただくことにしました。ここ数カ月、神楽坂の町自体も観光地として人気が高まっていることと相まって、カフェとしては順調に集客を伸ばすことができています。
 書店としても、カフェ部門の売り上げの上がり方よりは緩やかなものの、伸びています。開店からひと月ほどは、本好き、本屋好きのお客さんや業界の方々が話題の新しい書店をチェックしようとお越しくださった、いわばご祝儀の売り上げに支えられていました。それがひと段落した年末には停滞しましたが、年始からは、カフェ目当てで初めて来店されるお客さんが増えるにつれて、たまたま目にした書棚から選んで買ってくださることが多くなりました。書籍の売り上げ額はまだ目標には届かないものの、雑誌も新刊書籍もない棚で、希少な古書でもない既刊新本がちゃんと売れることに手応えを感じています。
 お店の売り上げ額の部門別構成比を見ると、カフェが55パーセント、書籍が35パーセント、雑貨やイベント収入が10パーセントといった具合です。今後の売り上げ計画では、イベント企画を増やし、そのテーマの連動する書籍の売り場作りや来店者への提案販売の機会を作ろうと考えています。ブックカフェでのイベント運営の実際については、あらためてお話しする機会をもちたいと思います。
 年始からの3カ月は、神楽坂モノガタリのほかにも、いくつか新しい仕事に関わってきました。新刊書店の棚作りや書店チェーンの店長会議といった慣れ親しんだ業務から、出版社経営者や出版関連の中小企業診断士の方々を前に講演、医学雑誌の記事のためのブックリスト作りといったむちゃなチャレンジまで、様々な経験をすることができました。

初の地方出張――熊本県・長崎書店へ

 そのなかでもいちばん印象深い経験になったのは、初めての地方出張です。熊本市で1889年(明治22年)以来、120年以上も続く老舗の長崎書店で、出張書店員として働かせていただいたのです。
 訪問は1月末のことでした。その顛末を思い返しながら本稿に向かっているさなかに、熊本・大分の地震が発生しました。被災された方々、そのご関係の方々に、お見舞い申し上げます。
 長崎書店のみなさんが、連日の地震でお店に被害を受けながらも、1日でも早い店舗の復旧と、その途上であっても地元のお客さんに少しでも役立とうと、できるかぎりの工夫を懸命に模索されていることを、SNSや業界紙報道を通して見ています。社長の長﨑健一さんをはじめスタッフのみなさんお一人お一人が確かな意志をもって行動されている様子に、感銘を受けています。
 ひとまずの復旧を果たした後にも、長崎書店のみなさんは様々な外的条件の変化に対応していくことになるでしょう。その過程で、私もできるかぎり協力していきたいと考えています。
 今回は、長崎書店への出張業務の報告と、そこでの棚作りの考え方をまとめたいと思います。ここに書くことが、今後の長崎書店の棚運営になんらかの役に立てれば幸いです。

 長崎書店には本店ともう1店舗、長崎次郎書店があります。今回のご依頼は、この両店舗のスタッフ一人一人と、日常業務の疑問やこれからの課題について、実際の売り上げスリップと棚を見ながら一緒に考えていくというものです。
 長崎書店のスタッフのみなさんとの勉強会は、実はこれまでに2回東京で開かれていて、この訪問が3回目になります。長﨑社長は、東京へお越しになるたびに何人かのスタッフの方々を伴い、彼らに様々な経験の機会を作っています。私も、そのような機会に何人かの方々とお会いしてきました。今回は、これまでお会いすることがなかったみなさんともお話しすることができました。
 今回の訪問に先立って、長崎次郎書店のなかに新設する特集棚の選書もご依頼がありました。「レトロ・モダン」をキーワードに、文学や芸術、建築や都市、政治や経済、個人の生活など、様々な切り口の書籍を集めたものです。このお店の特徴になるような個性的な棚を作ろうという企画です。
 この選書作業の仕上げとして私自身も現場で棚詰めに参加しながら、この棚の選書プロセス、実際の棚の並べ方、今後の棚運営という一連の流れ自体を教材として、長崎次郎書店スタッフの児玉真也さんと一緒に棚作り全般を勉強することも、訪問の目的でした。

長崎次郎書店の「レトロ・モダン」棚作り

 2日間にわたる出張業務は、1日目は長崎次郎書店の「レトロ・モダン」棚作りと同店のみなさんとの勉強会、2日目は長崎書店本店のみなさんとの勉強会と長﨑社長のご案内による熊本書店見学というメニューです。始発便で熊本に向かい、開店前の店舗で落ち合った児玉さんと私は、さっそく作業を開始しました。
 長崎次郎書店は、長崎書店の開業よりも古く、1874年(明治7年)に創業されました。その存在自体が「レトロ・モダン」という言葉を体現している趣深い建築物で、国の文化財にも登録されています。古くは森鴎外、夏目漱石、小泉八雲が通い、いまは渡辺京二さんや坂口恭平さんも常連だといいます。
 2014年に大規模なリノベーションをおこなった店舗は、歴史を感じさせる外観や店内の梁を生かしながら、シンプルでシックな書棚や壁面が現代的な雰囲気も感じさせます。品揃えの面から見ても、このお店ゆかりの文豪たちが並ぶ棚のクラシカルな印象と、若いスタッフの選書によるアートや社会運動、ライフスタイルなどの棚から発せられる同時代感のバランスが、独特の魅力になっています。

長崎次郎書店の概観

 40坪ほどの売り場は大まかに3つのゾーンに分かれています。正面入り口から見渡すと、中央から左側にかけては生活・実用といったジャンルの書籍と雑誌を組み合わせたコーナーで、低めの什器やテーブルで構成されているため実際の坪数以上に広々としています。それでも左奥の壁面には、天井までいっぱいの棚に様々な料理書籍が網羅されていて、書店としての実用性を兼ね備えています。

長崎次郎書店の棚

 店舗中央から右奥には、ギャラリー・スペースがあります。訪問した際には、絵本画家で文芸書の装画でも知られるミロコマチコさんの個展が催されていました。
 店舗の右半分は、文芸、人文、芸術、文庫といったジャンルが集結した書斎のような部屋になっています。天井まで組まれた木目調の書棚に三方を囲まれ、通りに面した側の窓の外には路面電車の行き来が見えます。この部屋の壁面、7本組みの壁棚のうち、中央の棚2本、10段のスペースに「レトロ・モダン」棚を作りました。
 長﨑社長は、以前からスタッフの児玉さんとこの棚についてのアイデアを出し合っていて、すでにたくさんの書名やキーワードが書き込まれたメモができていました。それは、建築や美術、文学、生活様式といった文化から政治・経済まで、日本の近代化を多面的に捉えようとするものでした。これをたたき台に、私が肉付けの選書をし、棚の文脈を作りながら、新しい視点も盛り込むというように進行しました。

選書と棚編集の違い

 選書のプロセスは、神楽坂モノガタリの基本在庫をそろえたときと同じように進めました。大まかに「モダニズムとは何か」という問いを意識しながら本をどんどんとスリップに書き出していき、途中で何度か仕分けすることで、だんだんと文脈を形作るという流れです。リストから書目を抜粋してみます。

〈モダンニッポンを作った男たち:大文字の「近代化」の流れ〉
『蟠桃の夢――天下は天下の天下なり』木村剛久、トランスビュー、2013年
『幻影の明治――名もなき人びとの肖像』渡辺京二、平凡社、 2014年
『電車道』磯﨑憲一郎、新潮社、2015年
『肥薩線の近代化遺産』熊本産業遺産研究会編、弦書房、2009年
など

〈モダンの先端都市〉 
『上海にて』堀田善衛、(集英社文庫)、集英社、2008年
『五色の虹――満州建国大学卒業生たちの戦後』三浦英之、集英社、2015年
『流転の王妃の昭和史』愛新覚羅浩、(中公文庫)、中央公論新社、2012年
『虹色のトロツキー』安彦良和、(中公文庫コミック版)、中央公論新社、2000年
など

〈「外遊」したモダニストたち。彼らは何を持ち帰ったのか〉
『ふらんす物語』永井荷風、(岩波文庫)、岩波書店、2002年
『「バロン・サツマ」と呼ばれた男――薩摩治郎八とその時代』村上紀史郎、藤原書店、2009年
『日本脱出記』大杉栄、土曜社、2011年
『ホテル百物語』富田昭次、青弓社、2013年
など

〈モダンを描き出した人々〉
『松本竣介線と言葉』コロナ・ブックス編集部編、(コロナ・ブックス)、平凡社、2012年
『池袋モンパルナス――大正デモクラシーの画家たち』宇佐美承、(集英社文庫)、集英社、1995年
『絢爛たる影絵――小津安二郎』高橋治、(岩波現代文庫)、岩波書店、2010年
『恩地孝四郎 装本の業〈新装普及版〉』恩地邦郎編、三省堂、2011年
など

〈神秘とエロティシズムの内奥に迫ったモダニストたち。人間の精神をモダナイズする〉
『瘋癲老人日記』谷崎潤一郎、(中公文庫)、中央公論新社、2001年
『『奇譚クラブ』から『裏窓』へ』飯田豊一、(出版人に聞く)、論創社、2013年
『日本エロ写真史』下川耿史、(写真叢書)、青弓社、1995年
『創造する無意識――ユングの文芸論』カール・グスタフ・ユング、松代洋一訳(平凡社ライブラリー)、平凡社、1996年
など

〈言葉のモダニストたち〉
『田紳有楽・空気頭』藤枝静男、(講談社文芸文庫)、講談社、1990年
『日輪・春は馬車に乗って 他八篇』横光利一、(岩波文庫)、岩波書店、1981年
『ボン書店の幻――モダニズム出版社の光と影』内堀弘、(ちくま文庫)、筑摩書房、2008年
『単調な空間――1949-1978』北園克衛、金澤一志編、思潮社、2014年
など

〈言葉を超えた科学の詩情を掴もうとしたモダニストたち〉
『新星座巡礼』野尻抱影、(中公文庫ワイド版)、中央公論新社、2004年
『雪』中谷宇吉郎、(岩波文庫)、岩波書店、1994年
『賢治と鉱物――文系のための鉱物学入門』加藤碵一/青木正博、工作舎、2011年
『ドミトリーともきんす』高野文子、中央公論新社、2014年
など

〈伝統と革新をつなぐ〉
『陰翳礼讃』谷崎潤一郎、(中公文庫)、中央公論新社、1999年
『図解庭造法』本多錦吉郎、マール社、2007年
『昭和戦後の西洋館――九州・山口・島根の〈現代レトロ建築〉』森下友晴、忘羊社、2015年
『長崎の教会』白井綾、平凡社、2012年
など

〈暮らしのかたちからみるモダニティ〉
『夢見る家具――森谷延雄の世界』森谷延雄、(INAX booklet. INAXギャラリー)、INAX出版、2010年
『理想の暮らしを求めて――濱田庄司スタイル』濱田庄司、美術出版社、2011年
『日本のポスター――明治 大正 昭和』 三好一、(紫紅社文庫)、紫紅社、2003年
『大正時代の身の上相談』カタログハウス編、(ちくま文庫)、 筑摩書房、2002年
など

〈女たちの生き方をめぐる戦いこそがモダンを推し進めた〉
『明治のお嬢さま』黒岩比佐子、(角川選書)、角川学芸出版、2008年
『『青鞜』の冒険――女が集まって雑誌をつくるということ』森まゆみ、平凡社、2013年
『小さいおうち』中島京子、文藝春秋、2010年
『大塚女子アパートメント物語――オールドミスの館にようこそ』川口明子、教育史料出版会、2010年
など

〈美とエレガンスと女性の生き方の模索・・・〉
『武井武雄』イルフ童画館編著、(らんぷの本)、河出書房新社、2014年
『初山滋――永遠のモダニスト』竹迫祐子、(らんぷの本)、河出書房新社、2007年
『美しさをつくる──中原淳一対談集』中原淳一編著、国書刊行会、2009年
『資生堂という文化装置――1872-1945』和田博文、岩波書店、2011年
など

 このようなテーマで、およそ300冊を選びました。書目としては面白いと自分自身が思えるものが並んだと考えていましたが、この棚自体が次郎書店にフィットするものになるかという不安もありました。セレクトの作業では、たとえ想像上のものでも、特定の棚やそのお客さんの存在を前提にします。この作業のときの私は、どうしても神楽坂の棚に影響されていました。
 また、机上の選書と棚編集は性格が違う作業のため、棚に詰めてみないとわからないという心配もありました。リストアップの作業には、棚の容量や仕入れ予算を気にせず自由に連想を膨らませられる興奮があります。しかし、事前に描いた図面どおりに置いてみても、そのとき感じた高揚感が伝わるような面白い棚だとは感じられないことが、たびたびあります。
 棚の文脈としては意図したとおりだけど、同じ色のカバーばかり並んでしまったり文庫が続いて細々としてしまったりと、物として並んだ姿が魅力的に映らない。その特集棚の中身ばかり箱庭的にチマチマ作り込みすぎて、隣接する他の棚とのバランスがとれていない。この本は面陳、あの本は棚挿しとあらかじめ意図していた表現方法が什器の形状に適わない。そんなことがよくあります。リスト作りとは別に、棚編集という手作業がやはり必要なのです。
 机上で選書すると、つい静的なリストとしての完成度を求めてしまいがちです。そのオールスターの書籍たちが棚挿しでカチッと勢揃いしてしまうと、かえってなかなか売れないことがあります。実際の棚で売り上げを取っていくためには、文脈の結び付きを固めすぎずに日々変化させる緩さが必要です。棚のなかには、たとえ売れなくても長く辛抱するべき本やそれほどでもない本といった濃淡が必ずあります。棚の中身を入れ替えたり、挿しを面陳にしたりという日々の試行のなかで何を抜くかを見極めるとき、やはり、その判断はそれぞれのお店や売り場が置かれた個別のコンテクストによります。
 お店の他の売り場と品物の行き来ができるようなら、返品しないで引っ越しさせればいいし、他の売り場が稼いでくれるのなら、それほど売れなくてもしっかり「見せ棚」として作り込んで固めればいいのかもしれない。返品と判断するなら、その根拠になる読者層とその来店頻度はどのくらいだろう。こういった具体的な環境を一緒に考えながら、思考と作業のプロセスを児玉さんと共有することができれば、特集棚選書と業務研修の両方を充実させられるのではないかと考えました。
 そんな思いから、今回は実際に訪問して作業に参加しました。棚をどう見栄えよく並べるかといった静的な課題は、ある程度は現場でパパッとアレンジしてなんとかなりました。難しかったのは、今後の時間の経過に対応すること、動的な要素の捉え方と伝え方でした。

棚作りの実際

 ここからは、この長崎次郎書店での作業過程を追いながら、小さな新刊書店の売り場作りを読者のみなさんと一緒に考える機会にしたいと思います。実際のところ一日で伝えきることができなかったことを含め、児玉さんに向けて書き残す意図もあります。
 そもそも、この書斎スペースの壁面には7本の棚に小説、エッセー、批評、哲学、社会、科学といったジャンルがみっちりと詰まっていました。そこから棚2本分もの書籍を抜いた真ん中に「レトロ・モダン」棚の場所を捻出することから、作業を始めました。
 棚を見渡して売れていないものを抜いて手っ取り早く圧縮することもできますが、そうやって文芸棚と人文棚をギチギチに詰めてしまうと、翌日からの棚回しがしづらくなります。
 こういった場合、私のやり方はこうです。減少する棚段数や並びに合わせて、サブ・ジャンルの配置や分量を割り当て直します。まず文芸棚なら「エンターテインメント小説」「現代文学」「文芸批評」「エッセー」、人文棚なら「哲学」「社会」「歴史」といった塊を作り直したうえで、「レトロ・モダン」棚が入った場合に隣接する部分との接合を考えながら、新しい並び順を決めます。
 意図した並び順に書籍を引っ越す前に、サブ・ジャンルごとの分量を調整します。各サブ・ジャンルの軸になる定番書籍は残し、取り替えて差し支えなさそうなものから抜いていきます。このとき、著者やテーマに関する知識と、スリップに書いておいた入荷日付や奥付の日付、刷り数といった情報を合わせて判断していきます。毎日の新刊チェックや品出し、返品作業、売り上げスリップのチェックが、こうした判断の土台となります。
 こうしてサブ・ジャンルごとのキー・ブックと肉付け本の役割分担と比率を把握しておくと、「より正しく抜く」判断が容易になり、毎日の棚補充がスムーズになります。また、小さな売り場であっても、多様なテーマに目配りした充実した棚作りができます。このようなバランスのとり方について児玉さんと話し合いながら、棚を縮めていきました。
「レトロ・モダン」棚の近くには、以前から「郷土の本」棚が、こちらも棚2本ありました。次郎書店ゆかりの作家たちの作品や、熊本や九州の歴史・民俗に関する研究を集めた棚です。この棚のセレクトは、ただご当地本を集めたものではなく、九州から日本の近代化のあゆみを振り返るという視点が感じられます。つまり、これから作ろうとしている棚とテーマ設定も似ていて、選書も少し重なっていたのです。そのため、この2つの特集棚の文脈を接続して、両方の棚を行き来しながら全体が伸び縮みできるように整理しました。

 このように、長崎次郎書店での今回の棚作り業務は、「レトロ・モダン」棚の設営よりも、一軒の小さな書店の棚をバランスよく運営していく手法を売り場全体に当てはめてみるという作業が多くを占めることになりました。書店の売り場は、規模の大小にかかわらず全体が連想しているものなので、当然の結果ともいえます。
 この翌日におこなった長崎書店本店での勉強会は、大きな売り場をチームで運営するためのコミュニケーションと、それを品揃えに反映させる店舗レイアウトについて再考する機会になりました。規模や性格が大きく異なる2つのお店の書棚を実際に触れ、その対比から感じた事柄を、様々な売り場で汎用性のある方法論として整理し共有できないかと、いま考えています。

〈理想の書店〉と〈多様な手法〉

 今回の訪問では、講師として出向いた私のほうが、長崎書店のみなさんに本当に多くのことを学ばせていただきました。長﨑さんとスタッフのみなさんの仕事に対する誠実さや、人に向き合う素直さに感銘を受けたのです。長﨑さんが若いスタッフをまず人として尊重し、学ぶ機会を惜しみなく提供すること、そこから育まれるスタッフ一人一人の仕事への矜持と、それをもって地元の人々の役に立とうと思う献身。その信頼関係を目の当たりにして、うらやましく思います。多くの新刊書店チェーンの現場でなぜこのように人を育てることを基礎にして仕事を構築できないのかを考えたいとも思います。
 たしかに、長﨑さんの経営者としての相当の覚悟と、商売を通して地元の人々に何ができるかという公共の精神が、長崎書店のチーム作りとホスピタリティーを支えていると感じます。同じように、それぞれの理想をもって書店を続けていこうとする人々に何度も出会いました。ただ、実際の棚作りにおいて十分なノウハウを持ちえていないと感じることもあります。そういった想いに具体的な手法を接続するといった役割を、私もその一部でも担うことができるのではないかと考えています。
 もちろん、私の手法でみんな棚を作れということではなく、元書店員や現役書店員たちそれぞれの仕事論を持ち寄る場を作れないかと考えています。まだ思いにすぎないのですが。

 次回はまた神楽坂モノガタリに戻り、イベントのことなどをご報告したいと思います。

 

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はじめに 幻の紀元2600年記念万国博覧会

暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)

 日本では現時点までに5回の万国博覧会が開催されている。いうまでもなく、最初は1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)だが、その後も75年の沖縄国際海洋博覧会、85年の国際科学技術博覧会(つくば科学万博)、90年の国際花と緑の博覧会(花博)と続き、そして2005年には2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)が開催されたことはいまだ記憶に新しい。そして近年、大阪府の関係者が25年前後をめどに2度目の万博招致の可能性をほのめかすなど、「万博の時代は終わった」とさんざんいわれている一方で、万博への関心が再帰しつつあることは確かなようだ。

 これら5回の万博のうち、巷間の話題に上る機会が多いのは何といっても大阪万博だろう。大阪万博が開催当時としては史上最高の6,400万人以上もの観客を動員したことはいまなお語り草である。この記録的な成功には、大阪万博が東京オリンピックと並ぶ戦後復興、さらには明治100年という節目を象徴する国家的なイベントとして位置づけられたことが大きくあずかっている。黎明期の万博に参加して先進諸国との国力の差をいやというほど見せつけられた日本にとって、自らがホスト国として万博を開催し、対等の立場で先進諸国を招聘することは積年の悲願だった。しかし、それほどまでに万博が待望されていたということは、長らく万博が開催されてこなかったという歴史的事実の裏返しでもある。実際、明治近代以降の日本では、大阪万博以前に少なくとも3度、万博の開催が計画されながら流産したことがある。この話題については以前拙著『美術館の政治学(1)』でも言及したことがあるのだが、繰り返しをいとわず再度ふれてみよう。
 最初に計画されたのが「亜細亜大博覧会」である。これは、西郷隆盛の弟にして農商務大臣であった西郷従道の発案によって、1889年(明治22年)に準備中だった第3回内国勧業博覧会の規模を拡大し、国際博覧会として実施しようとしたものだが、当時の明治政府に大規模な国際博覧会の開催能力などあるはずもなく、構想はあえなく立ち消えとなった。
 次いで計画されたのが1912年(明治45年)の「日本大博覧会」である。これもまた、内国勧業博覧会の規模を拡大して国際博覧会として実施しようとしたもので、西園寺公望内閣のもと、青山から代々木一帯の会場計画や各国宛招待状の発送準備まで進んでいたものの、計画は無期延期になってしまう。日露戦争にかろうじて勝利した明治政府は、ロシアからの賠償金を万博開催資金として当て込んでいたのだが、ポーツマス条約によって賠償金なしの講和が成立した結果、資金調達のめどが立たなくなってしまったからである。
 そして3度目に計画されたのが、「幻の万博」こと「紀元2600年記念日本万国博覧会」である。これは、関東大震災からの復興と日本の国力誇示を目的に計画されたもので、紀元2600年(1940年/昭和15年)を記念する奉祝行事として京橋区(現中央区)の月島埋立地で開催されることが決定し、会場施設の建設が一部着工し、入場券が発売されるところまで進行したものの、日中戦争の長期化に伴う経済難に加え、国際連盟からの脱退による国際的孤立の結果諸外国の参加が見込めなくなり、延期(事実上の中止)へと追い込まれてしまった。本連載は、この実現を目前にして立ち消えとなった「幻の万博」の実相に迫るべく計画されたものである。
 ここで、なぜ私が紀元2600年万博の研究を思い立ったのか、その理由を簡潔に述べておこう。私と江藤光紀の2名は、2011年から14年の3年にわたって大阪万博を主に前衛芸術という観点から考察する研究をおこない、その成果をまとめた共著『大阪万博が演出した未来(2)』を出版した。大阪万博に関する書物が数多くあるなかで、前衛芸術に焦点を合わせたものはほとんどなく、その意味では同書の問題提起によって万博研究に多少なりとも貢献できたものと自負しているが、研究を進める途中で両者は、大阪万博から30年前に実現の機会を逸した「幻の万博」と多くの点で連続していることを実感したのである(1つだけ例を挙げておくと、紀元2600年万博は、公式には「中止」ではなく「延期」と発表された。そのため、正式名称を同じくする大阪万博は延期された「日本万国博覧会」の30年越しの開催と位置づけられ、かつて大量に売り出された紀元2600年万博の入場券がそのまま使用できることになり、実際に約3,000枚が使用された事実が知られている)。「次は幻の万博を研究しよう」。3年がかりの大阪万博研究が一区切りを迎えたとき、両者が新たな研究計画に合意するのにさして時間はかからなかった。
 もっとも、常識的に考えれば、紀元2600年万博の実相を明らかにすることがひどく困難なのはすぐにわかる。第一に、紀元2600年万博は準備の途中で計画が中止になってしまったため、関連施設が1つとして建設されておらず、当然現存もしていない。強いて挙げるなら計画時に月島地区で架橋された勝鬨橋がそれに相当するが、その後独自の歴史を歩んできたこの橋を万博施設として解釈することにはかなりの無理があるだろう。会場予定地だった月島周辺のフィールドワークをおこなっても、万博の遺構に出合うことはできないのだ。また万博の開催予定時から長い年月が経過した現在、当時のことを知る関係者はすでにほとんど他界しているものと推測される。歴史学の定番であるオーラルヒストリーの可能性も、最初から閉ざされているわけだ。とはいえ、方法がないわけではない。当時の開催予定地にあたる中央区では、いくつかの図書館にまたがって紀元2600年博覧会の開催準備についての資料が多数保管されていて(その資料は学術的にも価値が高いもので、2008年には中央区有形文化財に登録されている)、15年にはそれらの資料が『近代日本博覧会資料集成(3)』として出版されたので、それを参照すれば開催計画についてかなり子細に知ることが可能になる。さしあたりは、『近代日本博覧会資料集成』の読解が研究の端緒となるだろう。
 とはいえ、実際に(会期中か終了後かのいかんを問わず)国内外で複数の万博会場を訪ねて回り、多くの作品や遺構に接した経験をもつ私にしてみれば、もっぱら資料に依拠した研究手法が何とも辛気臭く、また物足りなく感じられてしまうことは事実だ。加えて、大阪万博研究のときと同様、今回も主に芸術面に焦点を合わせる予定であるだけに、当時の美術・デザインや音楽についての調査がどうしても欠かせない。そこで思いついたのが、今回も大阪万博研究のときと同様の手法を活用することだった。『大阪万博が演出した未来』で、私と江藤は協議の末に国際比較という視点を導入し、1970年の大阪万博が直近に海外で開催された万博から大きな影響を受けたのではないかとの仮説を立て、58年のブリュッセル万博と67年のモントリオール万博の現地調査をおこない、比較対象を試みた。詳細は『大阪万博が演出した未来』を参照していただきたいが、この仮説は的中し、大阪万博が直近の万博から受けた影響をいくつかの具体例を挙げて指摘することができた。これと同様の視点の導入は、紀元2600年万博研究に対しても大いに有効なものと思われる。
 いまさらいうまでもないことだが、紀元2600年万博が計画されていた当時、日本は枢軸国の一翼を担い、同じ陣営のドイツ、イタリアと友好関係にあったが、奇しくもこの3カ国はいずれも同時期に万博の開催を計画し、実現の機会を逸したという点で共通している。この共通点は格好の国際比較の対象ではないか。
 まずドイツは、1950年にベルリンにて万博の開催を計画していたことが知られている。開催予定より10年以上も早く第2次世界大戦が本格化してしまったため、開催計画が具体化することはなかったが、その構想は、ナチス政権下で実現された36年のベルリン・オリンピックや37年のパリ万博でのドイツ館の展示などを通じて、断片的に類推することが可能である(そういえば、ベルリンの次回の40年大会をめぐって、東京とローマが招致を争ったことがある。結局ローマが次々回の44年大会招致に目標を切り替え、立候補を辞退したこともあって東京大会の開催が決定したものの、このオリンピックも戦局悪化と国際的孤立が原因で「返上」を余儀なくされ、万博と同様に幻と消えた。このエピソードは、万博とオリンピックの国威発揚イベントとしての類似を如実に物語っているといえよう)。
 一方イタリアでは、1942年にローマ万博の開催が計画され、ローマ近郊の第33クアルティエーレに会場予定地であるE42(現在のEUR新都心)が整備されるなど、かなり具体的に準備が進められていたものの、やはり第2次世界大戦の戦局の悪化が理由で頓挫した。その意味では、2015年に開催にこぎ着けたミラノ万博は、イタリアにとって70年越しの悲願といえなくもない。
 この同時期のドイツとイタリアの万博計画との国際比較を通じて、紀元2600年万博の実相をより複合的に捉えることができるのではないか。また芸術面での相似と相違にもある程度迫ることができるのではないか。大雑把にいえば、それが本連載のもくろみである。とはいえ、この仮説に沿って研究を進めるには、少なくとも五カ国語(日本語・英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語)の文献に目を通す必要があるなど、以前にもまして広範な視野と見識が求められるため、私と江藤の2人だけでは到底実現不可能だった。そこで、パリ万博を中心に近代の日仏交渉史を研究する寺本敬子とファシズム時代のイタリア芸術を専門とする鯖江秀樹の2人を新たなメンバーとして迎え、研究態勢の充実を図ることにした。4人の関心や専門領域はそれぞれ異なっているが、少なくともこの研究を遂行するにあたっては理想的な布陣ではないかと思っている。

 以下、本連載の構成についてごく簡単に述べておこう。
 まず第1回では、紀元2600年記念博覧会の開催計画とその背景について概観する。前述の『近代日本博覧会資料集成』には、内国勧業博覧会や海外での日本の万博参加に関与してきた関係者が組織した「博覧会倶楽部」が1929年に万博開催を求める建議書を当時の内閣に提出してから、38年に博覧会の「延期」が閣議決定されるまでのプロセスが年代順にまとめられている。『近代日本博覧会資料集成』に収録されている資料を当時の社会的背景をふまえながらさまざまな角度から詳しく紹介し、万博の開催計画の青写真を描き出すことが同回の目的である。合わせて、同じく40年に開催が決定しながら同様の理由で「返上」を余儀なくされた東京オリンピックにも注目し、2つの大規模な奉祝行事の開催準備を都市計画やインフラ整備といった観点から考察してみたい。
 第2回では、肇国記念館と美術館の展示計画に焦点を合わせる。紀元2600年万博では、会場である月島埋立地に24の展示館を建設する計画が進められていたが、このなかでも、研究の種子との兼ね合いで特に重要と考えられるのが、国史の展示を目的にした肇国記念館と美術展の開催を目的にした美術館の2つの展示館である。同回では、『近代日本博覧会資料集成』に記録されている展示計画に加え、同時期の歴史展示や美術展などを参考に幻に終わったその展示計画を類推してみようと思う。研究にあたっては、同じく幻に終わった国史館構想や戦後になって大きく装いを改めて開館した国立歴史民俗博物館、あるいは当時開催されたさまざまな奉祝美術展とその展示作品、中山文孝の図案や日名子実三と構造社の活動などが手掛かりになるだろう。
 第3回は、ベルリン・オリンピックと1937年パリ万博について考察する。ナチスは政権奪取後に国内で再軍備から戦時体制に至る準備を着実に進めていく。しかしこの間、国内向けだけでなく対外政策でも、中欧の政治的安定をアピールするために強力なプロパガンダ活動を進めた。その際、大きなアピールの場になったのが、36年のベルリン・オリンピックと、37年のパリ万博である。ここでナチスは、政治的な安定を望むと同時に共産主義の勢力伸長を恐れるフランスから、巧みに宥和策を引き出すことに成功する。同回では、ニュルンベルクのナチ党大会にはじまる一連の巨大イベントによって「政治の芸術化」をおこない、国民を熱狂的なユーフォリアへと巻き込み、また同時に諸外国を欺いて再軍備のための時間を稼いだ文化プロパガンダの方策を概観し、さらに50年のベルリン万博を招来したかもしれない首都改造計画の構想をたどっていく。
 第4回では、1942年の幻のローマ万博での幻の展示空間を考察する。現在のEUR新都心がその痕跡をとどめているが、ローマ万博会場は、偽古典的な建築が立ち並ぶ、ファシズム・イデオロギーの表象の場だった。同回では特に、(あまり研究が進んでいない)建築物の内部空間や個々の装飾モチーフに着目する。ローマ万博は、産業博というよりはむしろ、多数の美術展を擁する美の祭典として準備されつつあった。芸術を通じて権力はどのように行使されるはずだったのか。この問題を、建築家と画家の「装飾論争」、景観や文化財の保護とその活用といった文脈のなかで考察する。2015年のミラノ万博や紀元2600年万博にもふれながら、これまでとはやや違った角度から、万博の相貌を浮かび上がらせてみたい。
 第5回では、1937年に開催された、目下のところ最後のパリ万博について扱う。この万博は44カ国が参加した大規模なもので、ナチスドイツとソ連のパビリオンが向かい合って立ち、スペイン館にピカソの『ゲルニカ』が展示されるなど全般に戦時色が濃かったことに加え、日本では坂倉準三が設計した日本館パビリオンがグランプリを受賞したことによっても知られている。同回では、当時の議事録、報告書、書簡などをもとに、パリ万博を組織したフランス万博高等委員会と日本の博覧会事務局がどのような交渉によって「日本」の展示を作ったのかを明らかにすると同時に、フランス側の評価もより多角的に分析し、当時3年後の開催が計画されていた紀元2600年万博への影響を考察する。
 第6回は、1930年代の奉祝音楽と、その展開を通じて完成されていく音楽界の組織化と動員体制について考察する。音楽の分野でもこの間、イタリアのドーポラボーロやドイツの歓喜力行団などを参考にしながら、翼賛体制は国民の余暇活動にまで及んでいく。紀元2600年についても奉祝行事が数多く企画・開催され、外交ルートで各国の著名作曲家たちに新しい管弦楽曲が委嘱されたほか、国内でも奉祝曲をめぐるコンクールや作品発表演奏会が開催されるなどの興味深い出来事があった。こうした行事を通じて、音楽が体制強化にどのように作用し、万博とどのようにつながっていこうとしたのかを考察する。
 第7回は、満州へと焦点を合わせる。中国やソ連との関係が緊張感を増した1930年代、満州を生命線と見なす日本は、20世紀初頭に滅亡した清朝最後の皇帝溥儀を担いで満州国という傀儡国家を建国し、かの地で大規模な移民政策や都市開発をおこなった。「王道楽土」や「五族協和」という満州国のスローガンは万博の理念とも通底しているし、また万博会場がつかの間の未来都市であるとすれば、当時の満州はそのスケールアップ版とでもいうべき側面を有していた。芸術においても満州国美術展覧会(満展)や満州映画協会(満映)による実験的表現が数多く展開され、その影響は戦後の大阪万博にも及んでいることが知られている。同回では、当時の満州の状況に主に芸術面から注目し、万博計画に対して直接および間接に与えた影響を探っていく。

 以上の各回は、今後順次青弓社のウェブサイト上に発表される予定であるが(第5回をのぞく)、発表は不定期であり、また必ずしも目次順とはかぎらない。また今後の研究の進展によって、当初の計画から内容が変化していくことも十分ありうるだろう。また研究の性格上数回の海外調査が欠かせないが、その一部はすでに実施ずみであり、いまだ実施していないいくつかの調査に関しても、今後順次着手していく予定である。いずれにせよ、その成果は何らかのかたちで各回に織り込んでいく。また、前著からの問題の継起や4人のメンバーの関心の所在もあって、本研究は万博という巨大イベントのなかでも特に「芸術」の問題に照準を合わせたものであることを繰り返し強調しておきたい。4人の共著ということもあって、結論というかたちで統一見解を明らかにすることは想定していないが、紀元2600年万博と同時期の海外の万博計画との関連を明らかにすることができれば、ひとまず本連載の意図は達成されたことになるだろう。

*本連載は、科研費研究プロジェクト「万博に見る芸術の政治性――紀元2600年博の考察と国際比較を中心に」(区分:基盤(C)、研究代表:暮沢剛巳、Research Project Number:26370118)の研究成果報告として発表される。記して関係各位にお礼申し上げる。


(1)暮沢剛巳『美術館の政治学』(青弓社ライブラリー)、青弓社、2007年
(2)暮沢剛巳/江藤光紀『大阪万博が演出した未来――前衛芸術の想像力とその時代』青弓社、2014年
(3)津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」Ⅰ)、国書刊行会、2015年

 

[編集部から]
本連載に加筆・修正して『幻の万博――紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス』を刊行しました。ご興味がある方は、ぜひお読みください。

 

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