第5回 久禮書店、初の地方出張へ

久禮亮太(久禮書店〈KUREBOOKS〉店主。あゆみBOOKS小石川店の元・店長)

モノガタリの近況とフリーランス書店員のアレコレ

 こんにちは、久禮書店です。
 ブックカフェの神楽坂モノガタリは、開店から7カ月がたちました。開店から3カ月は、あえて広告や看板を掲げずに、慣らし運転のようなゆっくりとした営業をしていました。それでも地元のお客さんに知られ、徐々に忙しくなるにつれて、まったく未経験からスタートしたスタッフのみなさんたちも、否が応でも鍛えられ、基本業務をマスターしてきました。
 そこで、年明けからは表通りに立て看板を出して、いくつかの雑誌にも取り上げていただくことにしました。ここ数カ月、神楽坂の町自体も観光地として人気が高まっていることと相まって、カフェとしては順調に集客を伸ばすことができています。
 書店としても、カフェ部門の売り上げの上がり方よりは緩やかなものの、伸びています。開店からひと月ほどは、本好き、本屋好きのお客さんや業界の方々が話題の新しい書店をチェックしようとお越しくださった、いわばご祝儀の売り上げに支えられていました。それがひと段落した年末には停滞しましたが、年始からは、カフェ目当てで初めて来店されるお客さんが増えるにつれて、たまたま目にした書棚から選んで買ってくださることが多くなりました。書籍の売り上げ額はまだ目標には届かないものの、雑誌も新刊書籍もない棚で、希少な古書でもない既刊新本がちゃんと売れることに手応えを感じています。
 お店の売り上げ額の部門別構成比を見ると、カフェが55パーセント、書籍が35パーセント、雑貨やイベント収入が10パーセントといった具合です。今後の売り上げ計画では、イベント企画を増やし、そのテーマの連動する書籍の売り場作りや来店者への提案販売の機会を作ろうと考えています。ブックカフェでのイベント運営の実際については、あらためてお話しする機会をもちたいと思います。
 年始からの3カ月は、神楽坂モノガタリのほかにも、いくつか新しい仕事に関わってきました。新刊書店の棚作りや書店チェーンの店長会議といった慣れ親しんだ業務から、出版社経営者や出版関連の中小企業診断士の方々を前に講演、医学雑誌の記事のためのブックリスト作りといったむちゃなチャレンジまで、様々な経験をすることができました。

初の地方出張――熊本県・長崎書店へ

 そのなかでもいちばん印象深い経験になったのは、初めての地方出張です。熊本市で1889年(明治22年)以来、120年以上も続く老舗の長崎書店で、出張書店員として働かせていただいたのです。
 訪問は1月末のことでした。その顛末を思い返しながら本稿に向かっているさなかに、熊本・大分の地震が発生しました。被災された方々、そのご関係の方々に、お見舞い申し上げます。
 長崎書店のみなさんが、連日の地震でお店に被害を受けながらも、1日でも早い店舗の復旧と、その途上であっても地元のお客さんに少しでも役立とうと、できるかぎりの工夫を懸命に模索されていることを、SNSや業界紙報道を通して見ています。社長の長﨑健一さんをはじめスタッフのみなさんお一人お一人が確かな意志をもって行動されている様子に、感銘を受けています。
 ひとまずの復旧を果たした後にも、長崎書店のみなさんは様々な外的条件の変化に対応していくことになるでしょう。その過程で、私もできるかぎり協力していきたいと考えています。
 今回は、長崎書店への出張業務の報告と、そこでの棚作りの考え方をまとめたいと思います。ここに書くことが、今後の長崎書店の棚運営になんらかの役に立てれば幸いです。

 長崎書店には本店ともう1店舗、長崎次郎書店があります。今回のご依頼は、この両店舗のスタッフ一人一人と、日常業務の疑問やこれからの課題について、実際の売り上げスリップと棚を見ながら一緒に考えていくというものです。
 長崎書店のスタッフのみなさんとの勉強会は、実はこれまでに2回東京で開かれていて、この訪問が3回目になります。長﨑社長は、東京へお越しになるたびに何人かのスタッフの方々を伴い、彼らに様々な経験の機会を作っています。私も、そのような機会に何人かの方々とお会いしてきました。今回は、これまでお会いすることがなかったみなさんともお話しすることができました。
 今回の訪問に先立って、長崎次郎書店のなかに新設する特集棚の選書もご依頼がありました。「レトロ・モダン」をキーワードに、文学や芸術、建築や都市、政治や経済、個人の生活など、様々な切り口の書籍を集めたものです。このお店の特徴になるような個性的な棚を作ろうという企画です。
 この選書作業の仕上げとして私自身も現場で棚詰めに参加しながら、この棚の選書プロセス、実際の棚の並べ方、今後の棚運営という一連の流れ自体を教材として、長崎次郎書店スタッフの児玉真也さんと一緒に棚作り全般を勉強することも、訪問の目的でした。

長崎次郎書店の「レトロ・モダン」棚作り

 2日間にわたる出張業務は、1日目は長崎次郎書店の「レトロ・モダン」棚作りと同店のみなさんとの勉強会、2日目は長崎書店本店のみなさんとの勉強会と長﨑社長のご案内による熊本書店見学というメニューです。始発便で熊本に向かい、開店前の店舗で落ち合った児玉さんと私は、さっそく作業を開始しました。
 長崎次郎書店は、長崎書店の開業よりも古く、1874年(明治7年)に創業されました。その存在自体が「レトロ・モダン」という言葉を体現している趣深い建築物で、国の文化財にも登録されています。古くは森鴎外、夏目漱石、小泉八雲が通い、いまは渡辺京二さんや坂口恭平さんも常連だといいます。
 2014年に大規模なリノベーションをおこなった店舗は、歴史を感じさせる外観や店内の梁を生かしながら、シンプルでシックな書棚や壁面が現代的な雰囲気も感じさせます。品揃えの面から見ても、このお店ゆかりの文豪たちが並ぶ棚のクラシカルな印象と、若いスタッフの選書によるアートや社会運動、ライフスタイルなどの棚から発せられる同時代感のバランスが、独特の魅力になっています。

長崎次郎書店の概観

 40坪ほどの売り場は大まかに3つのゾーンに分かれています。正面入り口から見渡すと、中央から左側にかけては生活・実用といったジャンルの書籍と雑誌を組み合わせたコーナーで、低めの什器やテーブルで構成されているため実際の坪数以上に広々としています。それでも左奥の壁面には、天井までいっぱいの棚に様々な料理書籍が網羅されていて、書店としての実用性を兼ね備えています。

長崎次郎書店の棚

 店舗中央から右奥には、ギャラリー・スペースがあります。訪問した際には、絵本画家で文芸書の装画でも知られるミロコマチコさんの個展が催されていました。
 店舗の右半分は、文芸、人文、芸術、文庫といったジャンルが集結した書斎のような部屋になっています。天井まで組まれた木目調の書棚に三方を囲まれ、通りに面した側の窓の外には路面電車の行き来が見えます。この部屋の壁面、7本組みの壁棚のうち、中央の棚2本、10段のスペースに「レトロ・モダン」棚を作りました。
 長﨑社長は、以前からスタッフの児玉さんとこの棚についてのアイデアを出し合っていて、すでにたくさんの書名やキーワードが書き込まれたメモができていました。それは、建築や美術、文学、生活様式といった文化から政治・経済まで、日本の近代化を多面的に捉えようとするものでした。これをたたき台に、私が肉付けの選書をし、棚の文脈を作りながら、新しい視点も盛り込むというように進行しました。

選書と棚編集の違い

 選書のプロセスは、神楽坂モノガタリの基本在庫をそろえたときと同じように進めました。大まかに「モダニズムとは何か」という問いを意識しながら本をどんどんとスリップに書き出していき、途中で何度か仕分けすることで、だんだんと文脈を形作るという流れです。リストから書目を抜粋してみます。

〈モダンニッポンを作った男たち:大文字の「近代化」の流れ〉
『蟠桃の夢――天下は天下の天下なり』木村剛久、トランスビュー、2013年
『幻影の明治――名もなき人びとの肖像』渡辺京二、平凡社、 2014年
『電車道』磯﨑憲一郎、新潮社、2015年
『肥薩線の近代化遺産』熊本産業遺産研究会編、弦書房、2009年
など

〈モダンの先端都市〉 
『上海にて』堀田善衛、(集英社文庫)、集英社、2008年
『五色の虹――満州建国大学卒業生たちの戦後』三浦英之、集英社、2015年
『流転の王妃の昭和史』愛新覚羅浩、(中公文庫)、中央公論新社、2012年
『虹色のトロツキー』安彦良和、(中公文庫コミック版)、中央公論新社、2000年
など

〈「外遊」したモダニストたち。彼らは何を持ち帰ったのか〉
『ふらんす物語』永井荷風、(岩波文庫)、岩波書店、2002年
『「バロン・サツマ」と呼ばれた男――薩摩治郎八とその時代』村上紀史郎、藤原書店、2009年
『日本脱出記』大杉栄、土曜社、2011年
『ホテル百物語』富田昭次、青弓社、2013年
など

〈モダンを描き出した人々〉
『松本竣介線と言葉』コロナ・ブックス編集部編、(コロナ・ブックス)、平凡社、2012年
『池袋モンパルナス――大正デモクラシーの画家たち』宇佐美承、(集英社文庫)、集英社、1995年
『絢爛たる影絵――小津安二郎』高橋治、(岩波現代文庫)、岩波書店、2010年
『恩地孝四郎 装本の業〈新装普及版〉』恩地邦郎編、三省堂、2011年
など

〈神秘とエロティシズムの内奥に迫ったモダニストたち。人間の精神をモダナイズする〉
『瘋癲老人日記』谷崎潤一郎、(中公文庫)、中央公論新社、2001年
『『奇譚クラブ』から『裏窓』へ』飯田豊一、(出版人に聞く)、論創社、2013年
『日本エロ写真史』下川耿史、(写真叢書)、青弓社、1995年
『創造する無意識――ユングの文芸論』カール・グスタフ・ユング、松代洋一訳(平凡社ライブラリー)、平凡社、1996年
など

〈言葉のモダニストたち〉
『田紳有楽・空気頭』藤枝静男、(講談社文芸文庫)、講談社、1990年
『日輪・春は馬車に乗って 他八篇』横光利一、(岩波文庫)、岩波書店、1981年
『ボン書店の幻――モダニズム出版社の光と影』内堀弘、(ちくま文庫)、筑摩書房、2008年
『単調な空間――1949-1978』北園克衛、金澤一志編、思潮社、2014年
など

〈言葉を超えた科学の詩情を掴もうとしたモダニストたち〉
『新星座巡礼』野尻抱影、(中公文庫ワイド版)、中央公論新社、2004年
『雪』中谷宇吉郎、(岩波文庫)、岩波書店、1994年
『賢治と鉱物――文系のための鉱物学入門』加藤碵一/青木正博、工作舎、2011年
『ドミトリーともきんす』高野文子、中央公論新社、2014年
など

〈伝統と革新をつなぐ〉
『陰翳礼讃』谷崎潤一郎、(中公文庫)、中央公論新社、1999年
『図解庭造法』本多錦吉郎、マール社、2007年
『昭和戦後の西洋館――九州・山口・島根の〈現代レトロ建築〉』森下友晴、忘羊社、2015年
『長崎の教会』白井綾、平凡社、2012年
など

〈暮らしのかたちからみるモダニティ〉
『夢見る家具――森谷延雄の世界』森谷延雄、(INAX booklet. INAXギャラリー)、INAX出版、2010年
『理想の暮らしを求めて――濱田庄司スタイル』濱田庄司、美術出版社、2011年
『日本のポスター――明治 大正 昭和』 三好一、(紫紅社文庫)、紫紅社、2003年
『大正時代の身の上相談』カタログハウス編、(ちくま文庫)、 筑摩書房、2002年
など

〈女たちの生き方をめぐる戦いこそがモダンを推し進めた〉
『明治のお嬢さま』黒岩比佐子、(角川選書)、角川学芸出版、2008年
『『青鞜』の冒険――女が集まって雑誌をつくるということ』森まゆみ、平凡社、2013年
『小さいおうち』中島京子、文藝春秋、2010年
『大塚女子アパートメント物語――オールドミスの館にようこそ』川口明子、教育史料出版会、2010年
など

〈美とエレガンスと女性の生き方の模索・・・〉
『武井武雄』イルフ童画館編著、(らんぷの本)、河出書房新社、2014年
『初山滋――永遠のモダニスト』竹迫祐子、(らんぷの本)、河出書房新社、2007年
『美しさをつくる──中原淳一対談集』中原淳一編著、国書刊行会、2009年
『資生堂という文化装置――1872-1945』和田博文、岩波書店、2011年
など

 このようなテーマで、およそ300冊を選びました。書目としては面白いと自分自身が思えるものが並んだと考えていましたが、この棚自体が次郎書店にフィットするものになるかという不安もありました。セレクトの作業では、たとえ想像上のものでも、特定の棚やそのお客さんの存在を前提にします。この作業のときの私は、どうしても神楽坂の棚に影響されていました。
 また、机上の選書と棚編集は性格が違う作業のため、棚に詰めてみないとわからないという心配もありました。リストアップの作業には、棚の容量や仕入れ予算を気にせず自由に連想を膨らませられる興奮があります。しかし、事前に描いた図面どおりに置いてみても、そのとき感じた高揚感が伝わるような面白い棚だとは感じられないことが、たびたびあります。
 棚の文脈としては意図したとおりだけど、同じ色のカバーばかり並んでしまったり文庫が続いて細々としてしまったりと、物として並んだ姿が魅力的に映らない。その特集棚の中身ばかり箱庭的にチマチマ作り込みすぎて、隣接する他の棚とのバランスがとれていない。この本は面陳、あの本は棚挿しとあらかじめ意図していた表現方法が什器の形状に適わない。そんなことがよくあります。リスト作りとは別に、棚編集という手作業がやはり必要なのです。
 机上で選書すると、つい静的なリストとしての完成度を求めてしまいがちです。そのオールスターの書籍たちが棚挿しでカチッと勢揃いしてしまうと、かえってなかなか売れないことがあります。実際の棚で売り上げを取っていくためには、文脈の結び付きを固めすぎずに日々変化させる緩さが必要です。棚のなかには、たとえ売れなくても長く辛抱するべき本やそれほどでもない本といった濃淡が必ずあります。棚の中身を入れ替えたり、挿しを面陳にしたりという日々の試行のなかで何を抜くかを見極めるとき、やはり、その判断はそれぞれのお店や売り場が置かれた個別のコンテクストによります。
 お店の他の売り場と品物の行き来ができるようなら、返品しないで引っ越しさせればいいし、他の売り場が稼いでくれるのなら、それほど売れなくてもしっかり「見せ棚」として作り込んで固めればいいのかもしれない。返品と判断するなら、その根拠になる読者層とその来店頻度はどのくらいだろう。こういった具体的な環境を一緒に考えながら、思考と作業のプロセスを児玉さんと共有することができれば、特集棚選書と業務研修の両方を充実させられるのではないかと考えました。
 そんな思いから、今回は実際に訪問して作業に参加しました。棚をどう見栄えよく並べるかといった静的な課題は、ある程度は現場でパパッとアレンジしてなんとかなりました。難しかったのは、今後の時間の経過に対応すること、動的な要素の捉え方と伝え方でした。

棚作りの実際

 ここからは、この長崎次郎書店での作業過程を追いながら、小さな新刊書店の売り場作りを読者のみなさんと一緒に考える機会にしたいと思います。実際のところ一日で伝えきることができなかったことを含め、児玉さんに向けて書き残す意図もあります。
 そもそも、この書斎スペースの壁面には7本の棚に小説、エッセー、批評、哲学、社会、科学といったジャンルがみっちりと詰まっていました。そこから棚2本分もの書籍を抜いた真ん中に「レトロ・モダン」棚の場所を捻出することから、作業を始めました。
 棚を見渡して売れていないものを抜いて手っ取り早く圧縮することもできますが、そうやって文芸棚と人文棚をギチギチに詰めてしまうと、翌日からの棚回しがしづらくなります。
 こういった場合、私のやり方はこうです。減少する棚段数や並びに合わせて、サブ・ジャンルの配置や分量を割り当て直します。まず文芸棚なら「エンターテインメント小説」「現代文学」「文芸批評」「エッセー」、人文棚なら「哲学」「社会」「歴史」といった塊を作り直したうえで、「レトロ・モダン」棚が入った場合に隣接する部分との接合を考えながら、新しい並び順を決めます。
 意図した並び順に書籍を引っ越す前に、サブ・ジャンルごとの分量を調整します。各サブ・ジャンルの軸になる定番書籍は残し、取り替えて差し支えなさそうなものから抜いていきます。このとき、著者やテーマに関する知識と、スリップに書いておいた入荷日付や奥付の日付、刷り数といった情報を合わせて判断していきます。毎日の新刊チェックや品出し、返品作業、売り上げスリップのチェックが、こうした判断の土台となります。
 こうしてサブ・ジャンルごとのキー・ブックと肉付け本の役割分担と比率を把握しておくと、「より正しく抜く」判断が容易になり、毎日の棚補充がスムーズになります。また、小さな売り場であっても、多様なテーマに目配りした充実した棚作りができます。このようなバランスのとり方について児玉さんと話し合いながら、棚を縮めていきました。
「レトロ・モダン」棚の近くには、以前から「郷土の本」棚が、こちらも棚2本ありました。次郎書店ゆかりの作家たちの作品や、熊本や九州の歴史・民俗に関する研究を集めた棚です。この棚のセレクトは、ただご当地本を集めたものではなく、九州から日本の近代化のあゆみを振り返るという視点が感じられます。つまり、これから作ろうとしている棚とテーマ設定も似ていて、選書も少し重なっていたのです。そのため、この2つの特集棚の文脈を接続して、両方の棚を行き来しながら全体が伸び縮みできるように整理しました。

 このように、長崎次郎書店での今回の棚作り業務は、「レトロ・モダン」棚の設営よりも、一軒の小さな書店の棚をバランスよく運営していく手法を売り場全体に当てはめてみるという作業が多くを占めることになりました。書店の売り場は、規模の大小にかかわらず全体が連想しているものなので、当然の結果ともいえます。
 この翌日におこなった長崎書店本店での勉強会は、大きな売り場をチームで運営するためのコミュニケーションと、それを品揃えに反映させる店舗レイアウトについて再考する機会になりました。規模や性格が大きく異なる2つのお店の書棚を実際に触れ、その対比から感じた事柄を、様々な売り場で汎用性のある方法論として整理し共有できないかと、いま考えています。

〈理想の書店〉と〈多様な手法〉

 今回の訪問では、講師として出向いた私のほうが、長崎書店のみなさんに本当に多くのことを学ばせていただきました。長﨑さんとスタッフのみなさんの仕事に対する誠実さや、人に向き合う素直さに感銘を受けたのです。長﨑さんが若いスタッフをまず人として尊重し、学ぶ機会を惜しみなく提供すること、そこから育まれるスタッフ一人一人の仕事への矜持と、それをもって地元の人々の役に立とうと思う献身。その信頼関係を目の当たりにして、うらやましく思います。多くの新刊書店チェーンの現場でなぜこのように人を育てることを基礎にして仕事を構築できないのかを考えたいとも思います。
 たしかに、長﨑さんの経営者としての相当の覚悟と、商売を通して地元の人々に何ができるかという公共の精神が、長崎書店のチーム作りとホスピタリティーを支えていると感じます。同じように、それぞれの理想をもって書店を続けていこうとする人々に何度も出会いました。ただ、実際の棚作りにおいて十分なノウハウを持ちえていないと感じることもあります。そういった想いに具体的な手法を接続するといった役割を、私もその一部でも担うことができるのではないかと考えています。
 もちろん、私の手法でみんな棚を作れということではなく、元書店員や現役書店員たちそれぞれの仕事論を持ち寄る場を作れないかと考えています。まだ思いにすぎないのですが。

 次回はまた神楽坂モノガタリに戻り、イベントのことなどをご報告したいと思います。

 

Copyright Ryota Kure
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

はじめに 幻の紀元2600年記念万国博覧会

暮沢剛巳(東京工科大学教員・美術評論家)

 日本では現時点までに5回の万国博覧会が開催されている。いうまでもなく、最初は1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)だが、その後も75年の沖縄国際海洋博覧会、85年の国際科学技術博覧会(つくば科学万博)、90年の国際花と緑の博覧会(花博)と続き、そして2005年には2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)が開催されたことはいまだ記憶に新しい。そして近年、大阪府の関係者が25年前後をめどに2度目の万博招致の可能性をほのめかすなど、「万博の時代は終わった」とさんざんいわれている一方で、万博への関心が再帰しつつあることは確かなようだ。

 これら5回の万博のうち、巷間の話題に上る機会が多いのは何といっても大阪万博だろう。大阪万博が開催当時としては史上最高の6,400万人以上もの観客を動員したことはいまなお語り草である。この記録的な成功には、大阪万博が東京オリンピックと並ぶ戦後復興、さらには明治100年という節目を象徴する国家的なイベントとして位置づけられたことが大きくあずかっている。黎明期の万博に参加して先進諸国との国力の差をいやというほど見せつけられた日本にとって、自らがホスト国として万博を開催し、対等の立場で先進諸国を招聘することは積年の悲願だった。しかし、それほどまでに万博が待望されていたということは、長らく万博が開催されてこなかったという歴史的事実の裏返しでもある。実際、明治近代以降の日本では、大阪万博以前に少なくとも3度、万博の開催が計画されながら流産したことがある。この話題については以前拙著『美術館の政治学(1)』でも言及したことがあるのだが、繰り返しをいとわず再度ふれてみよう。
 最初に計画されたのが「亜細亜大博覧会」である。これは、西郷隆盛の弟にして農商務大臣であった西郷従道の発案によって、1889年(明治22年)に準備中だった第3回内国勧業博覧会の規模を拡大し、国際博覧会として実施しようとしたものだが、当時の明治政府に大規模な国際博覧会の開催能力などあるはずもなく、構想はあえなく立ち消えとなった。
 次いで計画されたのが1912年(明治45年)の「日本大博覧会」である。これもまた、内国勧業博覧会の規模を拡大して国際博覧会として実施しようとしたもので、西園寺公望内閣のもと、青山から代々木一帯の会場計画や各国宛招待状の発送準備まで進んでいたものの、計画は無期延期になってしまう。日露戦争にかろうじて勝利した明治政府は、ロシアからの賠償金を万博開催資金として当て込んでいたのだが、ポーツマス条約によって賠償金なしの講和が成立した結果、資金調達のめどが立たなくなってしまったからである。
 そして3度目に計画されたのが、「幻の万博」こと「紀元2600年記念日本万国博覧会」である。これは、関東大震災からの復興と日本の国力誇示を目的に計画されたもので、紀元2600年(1940年/昭和15年)を記念する奉祝行事として京橋区(現中央区)の月島埋立地で開催されることが決定し、会場施設の建設が一部着工し、入場券が発売されるところまで進行したものの、日中戦争の長期化に伴う経済難に加え、国際連盟からの脱退による国際的孤立の結果諸外国の参加が見込めなくなり、延期(事実上の中止)へと追い込まれてしまった。本連載は、この実現を目前にして立ち消えとなった「幻の万博」の実相に迫るべく計画されたものである。
 ここで、なぜ私が紀元2600年万博の研究を思い立ったのか、その理由を簡潔に述べておこう。私と江藤光紀の2名は、2011年から14年の3年にわたって大阪万博を主に前衛芸術という観点から考察する研究をおこない、その成果をまとめた共著『大阪万博が演出した未来(2)』を出版した。大阪万博に関する書物が数多くあるなかで、前衛芸術に焦点を合わせたものはほとんどなく、その意味では同書の問題提起によって万博研究に多少なりとも貢献できたものと自負しているが、研究を進める途中で両者は、大阪万博から30年前に実現の機会を逸した「幻の万博」と多くの点で連続していることを実感したのである(1つだけ例を挙げておくと、紀元2600年万博は、公式には「中止」ではなく「延期」と発表された。そのため、正式名称を同じくする大阪万博は延期された「日本万国博覧会」の30年越しの開催と位置づけられ、かつて大量に売り出された紀元2600年万博の入場券がそのまま使用できることになり、実際に約3,000枚が使用された事実が知られている)。「次は幻の万博を研究しよう」。3年がかりの大阪万博研究が一区切りを迎えたとき、両者が新たな研究計画に合意するのにさして時間はかからなかった。
 もっとも、常識的に考えれば、紀元2600年万博の実相を明らかにすることがひどく困難なのはすぐにわかる。第一に、紀元2600年万博は準備の途中で計画が中止になってしまったため、関連施設が1つとして建設されておらず、当然現存もしていない。強いて挙げるなら計画時に月島地区で架橋された勝鬨橋がそれに相当するが、その後独自の歴史を歩んできたこの橋を万博施設として解釈することにはかなりの無理があるだろう。会場予定地だった月島周辺のフィールドワークをおこなっても、万博の遺構に出合うことはできないのだ。また万博の開催予定時から長い年月が経過した現在、当時のことを知る関係者はすでにほとんど他界しているものと推測される。歴史学の定番であるオーラルヒストリーの可能性も、最初から閉ざされているわけだ。とはいえ、方法がないわけではない。当時の開催予定地にあたる中央区では、いくつかの図書館にまたがって紀元2600年博覧会の開催準備についての資料が多数保管されていて(その資料は学術的にも価値が高いもので、2008年には中央区有形文化財に登録されている)、15年にはそれらの資料が『近代日本博覧会資料集成(3)』として出版されたので、それを参照すれば開催計画についてかなり子細に知ることが可能になる。さしあたりは、『近代日本博覧会資料集成』の読解が研究の端緒となるだろう。
 とはいえ、実際に(会期中か終了後かのいかんを問わず)国内外で複数の万博会場を訪ねて回り、多くの作品や遺構に接した経験をもつ私にしてみれば、もっぱら資料に依拠した研究手法が何とも辛気臭く、また物足りなく感じられてしまうことは事実だ。加えて、大阪万博研究のときと同様、今回も主に芸術面に焦点を合わせる予定であるだけに、当時の美術・デザインや音楽についての調査がどうしても欠かせない。そこで思いついたのが、今回も大阪万博研究のときと同様の手法を活用することだった。『大阪万博が演出した未来』で、私と江藤は協議の末に国際比較という視点を導入し、1970年の大阪万博が直近に海外で開催された万博から大きな影響を受けたのではないかとの仮説を立て、58年のブリュッセル万博と67年のモントリオール万博の現地調査をおこない、比較対象を試みた。詳細は『大阪万博が演出した未来』を参照していただきたいが、この仮説は的中し、大阪万博が直近の万博から受けた影響をいくつかの具体例を挙げて指摘することができた。これと同様の視点の導入は、紀元2600年万博研究に対しても大いに有効なものと思われる。
 いまさらいうまでもないことだが、紀元2600年万博が計画されていた当時、日本は枢軸国の一翼を担い、同じ陣営のドイツ、イタリアと友好関係にあったが、奇しくもこの3カ国はいずれも同時期に万博の開催を計画し、実現の機会を逸したという点で共通している。この共通点は格好の国際比較の対象ではないか。
 まずドイツは、1950年にベルリンにて万博の開催を計画していたことが知られている。開催予定より10年以上も早く第2次世界大戦が本格化してしまったため、開催計画が具体化することはなかったが、その構想は、ナチス政権下で実現された36年のベルリン・オリンピックや37年のパリ万博でのドイツ館の展示などを通じて、断片的に類推することが可能である(そういえば、ベルリンの次回の40年大会をめぐって、東京とローマが招致を争ったことがある。結局ローマが次々回の44年大会招致に目標を切り替え、立候補を辞退したこともあって東京大会の開催が決定したものの、このオリンピックも戦局悪化と国際的孤立が原因で「返上」を余儀なくされ、万博と同様に幻と消えた。このエピソードは、万博とオリンピックの国威発揚イベントとしての類似を如実に物語っているといえよう)。
 一方イタリアでは、1942年にローマ万博の開催が計画され、ローマ近郊の第33クアルティエーレに会場予定地であるE42(現在のEUR新都心)が整備されるなど、かなり具体的に準備が進められていたものの、やはり第2次世界大戦の戦局の悪化が理由で頓挫した。その意味では、2015年に開催にこぎ着けたミラノ万博は、イタリアにとって70年越しの悲願といえなくもない。
 この同時期のドイツとイタリアの万博計画との国際比較を通じて、紀元2600年万博の実相をより複合的に捉えることができるのではないか。また芸術面での相似と相違にもある程度迫ることができるのではないか。大雑把にいえば、それが本連載のもくろみである。とはいえ、この仮説に沿って研究を進めるには、少なくとも五カ国語(日本語・英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語)の文献に目を通す必要があるなど、以前にもまして広範な視野と見識が求められるため、私と江藤の2人だけでは到底実現不可能だった。そこで、パリ万博を中心に近代の日仏交渉史を研究する寺本敬子とファシズム時代のイタリア芸術を専門とする鯖江秀樹の2人を新たなメンバーとして迎え、研究態勢の充実を図ることにした。4人の関心や専門領域はそれぞれ異なっているが、少なくともこの研究を遂行するにあたっては理想的な布陣ではないかと思っている。

 以下、本連載の構成についてごく簡単に述べておこう。
 まず第1回では、紀元2600年記念博覧会の開催計画とその背景について概観する。前述の『近代日本博覧会資料集成』には、内国勧業博覧会や海外での日本の万博参加に関与してきた関係者が組織した「博覧会倶楽部」が1929年に万博開催を求める建議書を当時の内閣に提出してから、38年に博覧会の「延期」が閣議決定されるまでのプロセスが年代順にまとめられている。『近代日本博覧会資料集成』に収録されている資料を当時の社会的背景をふまえながらさまざまな角度から詳しく紹介し、万博の開催計画の青写真を描き出すことが同回の目的である。合わせて、同じく40年に開催が決定しながら同様の理由で「返上」を余儀なくされた東京オリンピックにも注目し、2つの大規模な奉祝行事の開催準備を都市計画やインフラ整備といった観点から考察してみたい。
 第2回では、肇国記念館と美術館の展示計画に焦点を合わせる。紀元2600年万博では、会場である月島埋立地に24の展示館を建設する計画が進められていたが、このなかでも、研究の種子との兼ね合いで特に重要と考えられるのが、国史の展示を目的にした肇国記念館と美術展の開催を目的にした美術館の2つの展示館である。同回では、『近代日本博覧会資料集成』に記録されている展示計画に加え、同時期の歴史展示や美術展などを参考に幻に終わったその展示計画を類推してみようと思う。研究にあたっては、同じく幻に終わった国史館構想や戦後になって大きく装いを改めて開館した国立歴史民俗博物館、あるいは当時開催されたさまざまな奉祝美術展とその展示作品、中山文孝の図案や日名子実三と構造社の活動などが手掛かりになるだろう。
 第3回は、ベルリン・オリンピックと1937年パリ万博について考察する。ナチスは政権奪取後に国内で再軍備から戦時体制に至る準備を着実に進めていく。しかしこの間、国内向けだけでなく対外政策でも、中欧の政治的安定をアピールするために強力なプロパガンダ活動を進めた。その際、大きなアピールの場になったのが、36年のベルリン・オリンピックと、37年のパリ万博である。ここでナチスは、政治的な安定を望むと同時に共産主義の勢力伸長を恐れるフランスから、巧みに宥和策を引き出すことに成功する。同回では、ニュルンベルクのナチ党大会にはじまる一連の巨大イベントによって「政治の芸術化」をおこない、国民を熱狂的なユーフォリアへと巻き込み、また同時に諸外国を欺いて再軍備のための時間を稼いだ文化プロパガンダの方策を概観し、さらに50年のベルリン万博を招来したかもしれない首都改造計画の構想をたどっていく。
 第4回では、1942年の幻のローマ万博での幻の展示空間を考察する。現在のEUR新都心がその痕跡をとどめているが、ローマ万博会場は、偽古典的な建築が立ち並ぶ、ファシズム・イデオロギーの表象の場だった。同回では特に、(あまり研究が進んでいない)建築物の内部空間や個々の装飾モチーフに着目する。ローマ万博は、産業博というよりはむしろ、多数の美術展を擁する美の祭典として準備されつつあった。芸術を通じて権力はどのように行使されるはずだったのか。この問題を、建築家と画家の「装飾論争」、景観や文化財の保護とその活用といった文脈のなかで考察する。2015年のミラノ万博や紀元2600年万博にもふれながら、これまでとはやや違った角度から、万博の相貌を浮かび上がらせてみたい。
 第5回では、1937年に開催された、目下のところ最後のパリ万博について扱う。この万博は44カ国が参加した大規模なもので、ナチスドイツとソ連のパビリオンが向かい合って立ち、スペイン館にピカソの『ゲルニカ』が展示されるなど全般に戦時色が濃かったことに加え、日本では坂倉準三が設計した日本館パビリオンがグランプリを受賞したことによっても知られている。同回では、当時の議事録、報告書、書簡などをもとに、パリ万博を組織したフランス万博高等委員会と日本の博覧会事務局がどのような交渉によって「日本」の展示を作ったのかを明らかにすると同時に、フランス側の評価もより多角的に分析し、当時3年後の開催が計画されていた紀元2600年万博への影響を考察する。
 第6回は、1930年代の奉祝音楽と、その展開を通じて完成されていく音楽界の組織化と動員体制について考察する。音楽の分野でもこの間、イタリアのドーポラボーロやドイツの歓喜力行団などを参考にしながら、翼賛体制は国民の余暇活動にまで及んでいく。紀元2600年についても奉祝行事が数多く企画・開催され、外交ルートで各国の著名作曲家たちに新しい管弦楽曲が委嘱されたほか、国内でも奉祝曲をめぐるコンクールや作品発表演奏会が開催されるなどの興味深い出来事があった。こうした行事を通じて、音楽が体制強化にどのように作用し、万博とどのようにつながっていこうとしたのかを考察する。
 第7回は、満州へと焦点を合わせる。中国やソ連との関係が緊張感を増した1930年代、満州を生命線と見なす日本は、20世紀初頭に滅亡した清朝最後の皇帝溥儀を担いで満州国という傀儡国家を建国し、かの地で大規模な移民政策や都市開発をおこなった。「王道楽土」や「五族協和」という満州国のスローガンは万博の理念とも通底しているし、また万博会場がつかの間の未来都市であるとすれば、当時の満州はそのスケールアップ版とでもいうべき側面を有していた。芸術においても満州国美術展覧会(満展)や満州映画協会(満映)による実験的表現が数多く展開され、その影響は戦後の大阪万博にも及んでいることが知られている。同回では、当時の満州の状況に主に芸術面から注目し、万博計画に対して直接および間接に与えた影響を探っていく。

 以上の各回は、今後順次青弓社のウェブサイト上に発表される予定であるが(第5回をのぞく)、発表は不定期であり、また必ずしも目次順とはかぎらない。また今後の研究の進展によって、当初の計画から内容が変化していくことも十分ありうるだろう。また研究の性格上数回の海外調査が欠かせないが、その一部はすでに実施ずみであり、いまだ実施していないいくつかの調査に関しても、今後順次着手していく予定である。いずれにせよ、その成果は何らかのかたちで各回に織り込んでいく。また、前著からの問題の継起や4人のメンバーの関心の所在もあって、本研究は万博という巨大イベントのなかでも特に「芸術」の問題に照準を合わせたものであることを繰り返し強調しておきたい。4人の共著ということもあって、結論というかたちで統一見解を明らかにすることは想定していないが、紀元2600年万博と同時期の海外の万博計画との関連を明らかにすることができれば、ひとまず本連載の意図は達成されたことになるだろう。

*本連載は、科研費研究プロジェクト「万博に見る芸術の政治性――紀元2600年博の考察と国際比較を中心に」(区分:基盤(C)、研究代表:暮沢剛巳、Research Project Number:26370118)の研究成果報告として発表される。記して関係各位にお礼申し上げる。


(1)暮沢剛巳『美術館の政治学』(青弓社ライブラリー)、青弓社、2007年
(2)暮沢剛巳/江藤光紀『大阪万博が演出した未来――前衛芸術の想像力とその時代』青弓社、2014年
(3)津金澤聰廣/山本武利総監修、加藤哲郎監修・解説、増山一成解説・解題『近代日本博覧会資料集成』(「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」Ⅰ)、国書刊行会、2015年

 

[編集部から]
本連載に加筆・修正して『幻の万博――紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス』を刊行しました。ご興味がある方は、ぜひお読みください。

 

Copyright TAKEMI KURESAWA
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

2016年5月の2ヶ月後は7月です ――『アガンベンの名を借りて』(と『スタシス』)を刊行する理由

高桑和巳

 高桑和巳と申します。フランスとイタリアの現代思想を研究・紹介しています。仕事のなかでは、とくに翻訳に力を入れています。フランスについてはミシェル・フーコーやジャック・デリダを、イタリアはもっぱらジョルジョ・アガンベンを対象としています。アガンベンの翻訳はずいぶん出しました。2016年4月の時点で合計7冊になります(ついでに、英語の入門書も1冊翻訳しています)。
 しかし、翻訳をこれだけ出しているのに、私は単著を出していませんでした。なるほど、アガンベンに関しては折りに触れていろいろなことを話したり書いたりしてはきたのですが、その内容を1冊にまとめるということをしてこなかった。
 そんな私に青弓社さんが声を掛けてくださったのが2015年9月のことです。アガンベンを主題とした単著を出す気はないかという、ありがたいお誘いでした。しかし、正直に申して、書き下ろしは時間的にも能力的にも現実的ではないと思えました。とはいえ、せっかくいただいたお話なので何かできないかと考えました。
 ほどなく思いついたのが、これまでに各所で書き、話してきた玉石混淆の内容を――「玉」が少しでも入っていることを祈りますが――、取捨選択せずそのまま1冊にまとめてしまう、というアイディアでした。アガンベンをめぐる私のおもちゃ箱をひっくりかえしてそのまま提示する、というわけです。
 タイトルも『アガンベンの名を借りて』としました。この本は、もしかすると風変わりなアガンベン入門として活用してもらえるかもしれないけれども、むしろ――身も蓋もない言いかたをしてしまえば――自分が彼の思想を口実やきっかけとして自由に考えてきた結果を提示するものになるだろう。そして、そのことがひるがえって、彼の名を借りて自分なりに哲学をするよう読者のかたがたに促すことになるかもしれない、というわけです。
 このような自己流の提示に躊躇がなかったわけではありませんが、このアイディアを採用することを最終的に後押ししたのは、他ならぬ現在の政治情勢でした。私も遅ればせながら2015年の夏以降、反安保法制の運動に参加してきました。本を出せば、それは、この件に関する自分の発言を――それほど多くはありませんが――公に吟味していただく機会にもなる(それらの発言はアガンベンの思想を下敷きにしていました)。私はそのように考え、本の最後の部分を反安保法制に充てて構成しました。
 さて、この本についての話から少しだけ逸れることをお許しください。
 私がこの本の構成について考え、整序作業をおこなっていたのは2015年10月から年末にかけてです。ちょうどその時期、私はとある大学でイタリア語講読の授業を担当していました。私が講読用に選んでおいたのはアガンベンの『スタシス』という本でした。この選定は、私が反安保法制の運動に参加するよりも前の2015年春に済ませていました。ちょうど刊行されたばかりの原書をざっと斜め読みして「面白そうだ」と思い、テクストに指定しておいたのでした。
 精読を進めるうちに、受講者の皆さんと私は奇妙な感覚に何度も襲われました。作者は古代ギリシアについて、あるいは17世紀のイギリスについて語っているにもかかわらず、そこで語られているのはいまの日本の情勢のことであるとしか見えなかったのです。これはすぐに日本語で読めるようにしなければならない。
 というわけで、急遽、この翻訳の企画も(別の版元さんとですが)同時に進めることにしました。
 では、この2冊をいつまでに刊行しなければならないか? もとより、別々に立った企画ですから、それぞれのスケジュールに沿って、それぞれのペースで刊行までの作業を進めればよいだけのことです。刊行時期を無理に揃える必要もない。しかし私は、遅くとも2016年5月の連休までには両方とも刊行されていてしかるべきだと、デッドラインを勝手に考えていました。
 なぜか? 2ヶ月後にあたる7月に参議院議員選挙がおこなわれるからです。幸か不幸か、いま、ここで重大な意味をもってしまった政治思想の貢献を、選挙の前に余裕をもって提示し、それを使いたいと思う読者のかたがたに役立てていただく。そのためには、これがギリギリの時期だと思えたわけです。
 正直に言って、かなり大変な作業ではありました。しかし、編集サイドのご尽力もあり、スケジュールを遅らせることなく2冊とも刊行までこぎつけることができました。後悔だけはしたくなかったので、ここまで無事にたどりつけてまずはホッとしています。
 とはいえもちろん、これで終わりではありません。
 まずは目前の結果に向けて、そしてその先に続いていくもののためにも、読み、考え、行動していければと思っています。

 

第2回 事例1 2.5次元ミュージカル/舞台――2次元と3次元での漂流

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

アニメといえば日本!……2.5次元ミュージカル/舞台といえば?

“2.5次元”という用語をアニメ・漫画ファン以外にも認知させたのは、やはり2.5次元(以下、2.5Dと略記)ミュージカル/舞台だろう。第1回連載でも言及したとおり、2014年に日本2.5次元ミュージカル協会(以下、2.5D協会と略記)が設立され、漫画、アニメ、ゲームなどの“2次元”を原作にした日本発のミュージカル(とストレートプレイ)を世界へ発信し、世界標準を目指した活動が始まった。ディズニー/ピクサーなどのアメリカのフルアニメーションや3DCGアニメーションと並んで、日本のセルタイプの2D(リミティッド)アニメがいまや「世界標準」となっている(つまり、「アニメといえば、日本」という共通認識)ことを考えると(1)、アメリカのブロードウェー、イギリスのイーストエンドのミュージカルに対し、2.5Dミュージカル/舞台は日本オリジナルのものだと世界で周知されるのもそう遠くはないかもしれない。実際2014年、ヨーロッパ最大の日本に関するオンリーイベント「ジャパン・エキスポ」(パリ郊外)でおこなわれたミュージカル『美少女戦士セーラームーン』のキャンペーンで、セーラー戦士とタキシード仮面が登場すると、その場にいた観客が一斉にカメラを構えた(画像1)。メインナンバーを歌うキャストに、若者だけでなくいい大人たちが大きな声援を送っていたのを、筆者は驚きとともに目撃している(画像2)。コンテンツの力、そして後述する“キャラ”の力は、メディア領域を超えて拡大し続けている。

画像1
画像2

2.5次元ミュージカル/舞台の特徴

「じゃあ、既存のミュージカル(ブロードウェーや劇団四季などのミュージカル)と2.5次元ミュージカルってどう違うの?」
 当然の疑問である。
 はたして、2.5次元ミュージカル/舞台を、既存のミュージカルや演劇と一線を画しているものとは何だろうか。そんな問いに対する答えを探るため、筆者は2015年から「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」を開催し、研究者や学生、関係者、一般の方々と意見を交換している。記念すべき第1回は、15年2月5日(木)の奇しくも2.5次元の日!(注:ねらってその日に設定したわけではありません、念のため)におこなわれた。日本2.5Dミュージカル協会代表理事/ネルケプランニング代表取締役松田誠氏とウェリントン・ヴィクトリア大学(ニュージーランド)のコスプレ研究者エメラルド・キング先生をお迎えし、「2.5次元ミュージカルとコスプレにおける女性の文化実践」をテーマに、お話をうかがった。松田氏は、15年は2.5次元ミュージカル/舞台の紹介の年と位置づけ、2.5Dミュージカル/舞台の詳細、2.5D協会の目的などを紹介された。一方、キング氏は、主に女性のコスプレイヤーが男性から受けるセクハラ問題、女性レイヤーが陥った自己顕示と承認/非承認問題などを話された。コスプレについては、この連載でいずれ詳しく取り上げるつもりなので今回は深く触れないが、コスプレと2.5次元ミュージカル/舞台の関係は非常に親密だということを特記するにとどめておく。これは後述する“キャラ”という要素にも密接に関わってくる。
 第2回は、2016年2月6日(土)「声、キャラ、ダンス」というテーマでおこなわれた。大妻女子大学の田中東子先生は、“キャラ”とファンに関する興味深い指摘をされ、早稲田大学演劇博物館招聘研究員の藤原麻優子先生は、既存のミュージカルと2.5Dミュージカルの違いを細かく解説された。お2人の発表内容にも言及しながら、先に掲げた問い「2.5Dミュージカルの特徴とは」を解明していこう。

“キャラ”、キャスト、コンテンツ

 キャラクターとは、一義的には創作物の登場人物のことである。しばしばキャラクターは「キャラ」と略して使用され、近年ではコンテキストによってその意味は多様化している。キャラとキャラクターに関する議論は非常に複雑である。今年のセンター試験にも出題された土井隆義の『キャラ化する/される子どもたち――排除型社会における新たな人間像』(〔岩波ブックレット〕、岩波書店、2009年)に代表されるように、ある一定の個性を強調した個体(「いじられキャラ」「エロキャラ」などコミュニティーのなかでの役割分担のようなもの)がキャラと呼ばれる場合、コミュニケーション学や社会学の文脈でしばしば語られる。この文脈では「キャラがかぶる」(例えば「メガネキャラ」などメガネをかけているクール系がクラスに2人もいると、都合が悪いわけである。アニメや漫画でもその傾向は顕著だ。)や、「キャラが立つ」(個性の強さがあり、唯一絶対の個体として認識できる)などの言い回しになる。しかし、漫画の“キャラ”とキャラクターの概念の差異を丁寧に考察し定義している伊藤剛や東浩紀などが示すように、“キャラ”は単なるキャラクターの略語ではないことも、いまでは自明となっている(2)。しかし、便宜的に今回は「キャラ」は、キャラクター(登場人物)、その性質や個性という意味で使用し、論を進めていく。
 このキャラ(キャラクター)の議論にはコスプレの回で再訪するとして、2.5Dミュージカルでのキャラに話を戻して考えてみよう。前述したシンポジウムで田中は、小田切博のキャラクターの定義を引用して、「外見、性格、記号的意味(3)」がキャラクターの構成要素であるが、そのうち一つさえあれば、存在がゆらぐことはないという小田切の考え方を、キャラクターの“増幅”としてとらえていた(4)。二次創作によるパロディーはもちろん、地上波で一次作品をもとに世界観や設定を変えて創作する二次的な作品でも、キャラはキャラとしてブレない。『科学忍者隊ガッチャマン』(フジテレビ系、1972―74年)をギャグ短篇アニメにした『おはよう忍者隊ガッチャマン』(日本テレビ系列、2011―13年)や、『おそ松くん』(毎日放送系、1966―67年、フジテレビ系、1988―89年)のキャラたちが成人してニート生活を送っているという設定で、6つ子に強烈な個性を与えたパロディアニメ『おそ松さん』(2015―16年)など、二次創作手法が一つの作品として認知されている。余談だが、『妖狐×僕SS(5)』(MBSテレビ、2012年)など、コメディー風にキャラが突然“チビキャラ”としてデフォルメされたり、ねんどろいどに代表されるようにカワイくデフォルメされたフィギュアが愛好されたりと、キャラの“増幅”は無限である(果ては擬人化ならぬ“(擬)モノ化”〔人間キャラが動物になったり、モノになったり〕しても、キャラとして設定や個性があれば、キャラの自律はゆるがない)。
 2.5Dミュージカル/舞台も、キャラの“増幅”の範疇にあるなら、三次元の身体を借りた“パロディー”としてとらえることが可能だろう。まず、この“キャラ”の問題が、既存の戯曲(テキスト)の翻案ミュージカルとの重要な差異の一つである。

ブロードウェーでも2.5次元?

「いや、ブロードウェーでもアニメーションのミュージカル化があるじゃないか。ディズニーの『ライオン・キング』『リトルマーメイド』『アラジン』、マーベルの『スパイダーマン』……あれって、2.5次元じゃないの?」
 これも当然の疑問である。
 星野太は、2.5次元は、2次元/3次元という次元の位相の差異ではなく、キャラクターと観客をベースとしたときに浮上すると述べている。「二次元/三次元の相克は、厳密にはそのメディウムの次元で生じているのではなく、むしろその「キャラクター」と「俳優の身体」のあいだで生じている(6)」のだ。漫画、アニメ、ゲームなどの虚構の世界のキャラが、あたかも人格をもった存在として観客の認識にあり、目の前で展開されるキャラそっくりの俳優たちの身体に、観客はキャラを「幻視」し「二重写し」にするとき2.5次元空間という位相が生じるという(7)。
 星野の議論は、2.5次元空間を成立させる私たちのキャラに対する認識と劇場内での参加(物理的にも認知的にも)が不可欠要素であることを担保している。しかし、例えば、スパイダーマンなど、パロディーや“増幅”が多いアメコミキャラの舞台は、はたして2.5Dミュージカルといえるのだろうか。
 藤原麻優子は、ディズニーアニメやアメコミのキャラクターたちが、キャラとして成立しているにもかかわらず、なぜ日本の2.5次元舞台と異なるのかを、①再現性、②物語構造、③ミュージカルナンバー(曲)の役割の3点から分析している(8)。

①再現性
 まず藤原は、レーマン・エンゲル(9)を引用して、既存のミュージカルが原作に忠実か否かは問題ではなく、翻案者が自分の方法で表現することが大前提だとしていると強調する。これに対し、2.5Dミュージカル/舞台は、2次元の世界観をそのまま再現することに重きを置いていることを挙げる。もちろん、藤原が指摘する二項対立図式にすべての漫画、アニメ、ゲーム原作のミュージカルが当てはまるとはかぎらないが、最近の2.5Dミュージカル/舞台に、アニメキャスト(声優)の声、ビジュアル、原作のセリフ、世界観をなるべく再現しようという傾向が強いことはまちがいない。したがって、ディズニーアニメの舞台を観て、「あ、アラジンがそこにいる!」「アリエルそっくり!」という感覚はあまり実感できないだろう(『ライオン・キング』はそもそも動物がキャラクターだから忠実な再現性は不可能だ)。

②物語構造
 また、物語構造も異なる。藤原は、起承転結という日本の物語構造の典型に対して西洋には「対立―衝突―解決」という文法があるが、2.5Dには、連続上演という必ずしも一つの上演作品内で完結しないシリーズ化という特徴があることを指摘する(10)。既存のミュージカルには、必ずドラマ(「(一連の)出来事を通して描かれる人物の視点の衝突や変容の起伏(11)」)があるが、2.5Dミュージカルは、ドラマは前景にあまり出てこない。

③ミュージカルナンバー(曲)の機能
 このことは、ミュージカルナンバー(曲)の機能と密接な関係がある。既存のミュージカルでは、「歌とダンスが物語に対して一定の機能を担い、作品のテーマを有機的に描き出していく(12)」ので、ミュージカルナンバーに物語の人物の説明、心情をテーマに沿うように乗せてくる。それに対し、2.5Dミュージカルには状況説明の曲が多いとされ、限りなく非ミュージカル的だという。しかも2.5Dミュージカルは、非ミュージカルだということを自分から告白するかのように、キャラクターが突然歌い出すというミュージカルをミュージカルたらしめている文法に、キャラクター自身がツッコミを入れたり、ちゃかしたりする「自己言及性(13)」が強いという(例として、藤原はミュージカル『テニスの王子様』〔通称『テニミュ』〕で菊丸が試合途中に歌いだし、試合に負けた原因を「なんで歌っちゃったんだろう」と、歌によってスタミナがなくなったと言及している点を指摘している)。確かに、アニメや漫画原作にキャラが物語のなかで歌っている場面はないので、ミュージカルナンバーは、違和感=「キャラに合わない」はずである(余談だが、この2.5Dミュージカルはアニメにも影響を及ぼしている。アニメ『スタミュ(高校星歌劇)』〔2015年〕や、『Dance with Devils』〔通称『ダンデビ』、2015年)などでは物語中キャラが歌いだす。『ダンデビ』に至っては、ミュージカルアニメーションと銘打たれ、2016年に舞台化もされている)。
  
ミュージカル『テニスの王子様』の衝撃

 以上、主要3要素から既存のミュージカルと比較してみると、2.5Dミュージカルは、明らかに独自性をもっている。キャラ中心にドラマ、曲、ダンスさえもキャラの自律化へ従属していく。また、藤原は、既存のミュージカルからみると積極的な余白、つまり“不完全性”があること、そして派手な舞台装置があまり必要とされないことも、キャラ中心主義に寄与する要素だとしている(14)。これはミュージカル『テニスの王子様』を嚆矢とする“『テニミュ』系”2.5Dミュージカルが典型である。『テニミュ』系とは、①無名俳優の起用によるキャラ再現性の優先、②チーム男子の採用、③連載上演を特徴としている作品群と定義しよう。
『テニミュ』は2003年から現在まで続く、2.5Dミュージカルという分野のパイオニアであり、最長寿作品である。したがって、2.5Dミュージカルの原点として取り上げられる作品である(15)。『テニミュ』はアニメ化もされた漫画「テニスの王子様」(許斐剛、「週刊少年ジャンプ」1999―2008年、集英社)が原作である。絶対に無理といわれたスポーツ漫画のミュージカル化を成功させたプロデューサー片岡義朗は、読者がコマとコマの間を補完する漫画と、観客の想像力に依存する演劇との類似性を早くから指摘していたし(16)、松田誠も「脳内補完」という実に妙を得た用語で端的に指摘する(17)。集客力がある有名俳優をキャストするのではなく、一貫してあえて無名俳優を起用し、キャラの再現性を最優先させたことも、他作品と一線を画す点である。「まるで漫画から抜け出たみたい」というキャラを中心とする感覚という意味の“2.5次元”がここに結実する。しかも、2次元キャラでは味わうことができない、息づかい、汗、匂い、筋肉などを、舞台では体験できるのだ(むろん、キャラが汗をかくのは見たくないというファンもいるだろうが、汗はキャストの一生懸命さが伝わってきて、かなり感動する)。
 また、よく指摘されることだが、『テニミュ』では女性キャラクター(物語のなかでは、竜崎スミレ監督と監督の孫・竜崎桜乃は主要女性キャラクター)を排除し、「チーム男子」(イケメンだけの集団)の世界を構築したことも大きな勝因である。これは、男性のスポーツ漫画にはレギュラー以外にも対戦相手に男性キャラが多いため、同人誌でBL的な多様なカップリング創作が多発したチーム男子流行の流れの一つだった。これを逆転したのが、チーム女子化した新作ミュージカル『美少女戦士セーラームーンLa Reconquista』(2013年)と続篇『Petite Etrangere』(2014年)、『Un Nouveau Voyage』(2015年)である。『セーラームーン』のミュージカル版は、実は『テニミュ』以前、アニメ放映の翌年1993年から2005年まで上演されたロングラン作品である。しかしオール女性キャストにしたのは新作からで、男性キャラは、タキシード仮面の大和悠河はじめ、元宝塚出身が多く、ヅカファンを2.5Dのほうへ引き寄せた第一人者的2.5Dミュージカルでもある。
 そして、藤原も指摘しているように、一つの舞台で物語が完結せず、漫画やテレビアニメ連載よろしく、連載上演(ただし一つの舞台で一試合)がなされているのも『テニミュ』や『テニミュ』系作品の特徴である。同じアニメーションや漫画原作でも、ディズニーミュージカルは一つの完成した作品としてのアニメーション映画を、『スパイダーマン』などのアメコミは連載ではあるが一話完結物(一つの事件の発生と解決)をそれぞれもとにしているため、形態の相違が生じるのは必然なのだ。

余白、未完成性の美学

 舞台装置も簡素。ブロードウェーミュージカルなどの派手な演出もない。むしろ、キャラを際立たせる演出が優先されるため、完全に作り込まない「余白」こそが2.5Dミュージカル/舞台を楽しむ重要な要素である。
『テニミュ』の「空耳」がはやったのがその証左だ。「空耳」とは、まったく関係ないが、“そう聞こえる”セリフを映像に字幕としてつけ、「ニコニコ動画」などの動画投稿サイトにアップして楽しむビデオのことだ。キャストの滑舌の悪さ(つまり未完成なミュージカル俳優)にツッコミを入れ、ファンたちが楽しむわけなのだ。また、セリフを噛んだり、間違えたり(「カムヒ」=セリフを噛む日と呼ぶらしい)、ウィッグがずれるなどのアクシデントが起こったりと、一回性の体験は実に「おいしい」。観客たちは、ここぞとばかりに「ツイッター」やブログで情報発信し、楽しむのだ。未完成だからこそ、観客がツッコミを入れる余地があり、そのことによってパフォーマンスに参加できる。
 ストレートプレイでも、楽屋ネタやアドリブを入れたり舞台裏を披露したりといったお笑いショー的な要素があると、観客は一挙に引き込まれていく。キャラとしてキャラの個性や設定を逸脱しない程度に笑いを作っていくのは、二次創作的な演出といえるだろう。
 こうした“未完成”性は、決して既存のミュージカルや舞台に対しての優劣で語るような要素ではない。一つの特徴なのだ。観客参加型の文化が主流になってきている現在、2.5Dミュージカル/舞台の心地よい未完成こそが、人を引き付けてやまないのである。


(1)アニメーションとアニメの差異については、津堅信之『日本のアニメは何がすごいのか――世界が惹かれた理由』(〔祥伝社新書〕、祥伝社、2014年)を参照。
(2)伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版、2005年、東浩紀編著『網状言論F改――ポストモダン、オタク、セクシュアリティ』青土社、2003年
(3)小田切博『キャラクターとは何か』(ちくま新書)、筑摩書房、2010年、120ページ
(4)田中東子「次元を超える愛――ファンたちは2.5次元キャラクターをどう愛好しているのか?」発表原稿、第2回「2.5次元文化に関する公開シンポジウム――声、キャラ、ダンス」横浜国立大学、2016年2月6日
(5)藤原ここあの同名漫画(2009―14年)が原作のアニメ。アニメの場合は声が統一されていることもキャラの自律性を担保する。漫画という視覚情報だけでもキャラの普通バージョンとチビバージョンで、読者の認識に混乱が生じることはほぼない。
(6)星野太「キャラクターの召喚――二・五次元というカーニヴァル」、「特集 2.5次元――2次元から立ちあがる新たなエンターテインメント」「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社、62ページ
(7)同論文65ページ
(8)藤原麻優子「「なんで歌っちゃったんだろう?」――二・五次元ミュージカルとミュージカルの境界」、前掲「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、68―75ページ、藤原麻優子「Does it Work?――2.5次元ミュージカルとアダプテーション」発表原稿、第2回「2.5次元文化に関する公開シンポジウム――声、キャラ、ダンス」横浜国立大学、2016年2月6日
(9)Lehman Engel, The Making of a Musical: Creating Songs for the Stage, Lomelight, 1986, p.98.
(10)前掲「Does it Work?」
(11)前掲「「なんで歌っちゃったんだろう?」」69ページ
(12)同論文70ページ
(13)同論文70ページ
(14)前掲「Does it Work?」
(15)『テニミュ』以前の漫画や、アニメ原作ミュージカル/舞台、2.5Dミュージカル/舞台の系統別リストについては前掲「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号巻末のやまだないと/上田麻由子+PORCh「2.5次元ステージキーワードガイド」(ただし2014年まで)を、キャストを含めた詳細は「特集 2.5次元へようこそ!」「ダ・ヴィンチ」2016年3月号(KADOKAWA、16―61ページ)を参照のこと。
(16)片岡義朗「アニメミュージカルの生みの親&「テニミュ」立役者 片岡義朗インタビューinニコニコミュージカル」「オトメコンティニュー」第3号、太田出版、2010年、81―91ページ
(17)松田誠「日本2.5次元ミュージカル協会代表理事松田誠インタビュー」、前掲「ダ・ヴィンチ」2016年3月号、61ページ

 

Copyright Akiko Sugawa
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第2回 木村拓哉と『さんタク』

太田省一
(社会学者。著書に『紅白歌合戦と日本人』〔筑摩書房〕、
『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版』〔ともに青弓社〕など)

ドラマからバラエティーへ

「星に当たってしまった少年」。前回は、宮崎駿が語ったこの言葉に導かれながら話を進めた。
 木村拓哉が主演したドラマに、「星」という言葉がタイトルに入った作品がひとつだけある。2002年にフジテレビ系で放送された『空から降る一億の星』である。『あすなろ白書』(フジテレビ系、1993年)、『ロングバケーション』(フジテレビ系、1996年)、『ビューティフルライフ』(TBS系、2000年)の北川悦吏子脚本による「月9」枠の恋愛サスペンスだ。
 放送前から大きな話題になっていたのが、木村拓哉と明石家さんまの初共演だった。しかもさんまは「月9」自体、初の出演だった。とはいえ、俳優としての実績はすでにあった。1986年に主演し高視聴率を挙げた『男女7人夏物語』(TBSテレビ系)である。このドラマは、独身男女のもつれる恋愛模様を都会の風俗を交えて軽快に描き、「月9」の代名詞となったトレンディードラマの原点ともされる。その意味ではさんまに「月9」との縁がないわけではなかった。
 そうしたなか始まったドラマでは、木村拓哉がフレンチレストランのコック見習い・片瀬涼、明石家さんまが刑事・堂島完三、深津絵里がその妹・堂島優子にそれぞれ扮し、殺人事件と3人の過去の秘密が絡みながら物語は展開していった。全話の平均視聴率が22.6パーセント、最終話がその年の連続ドラマで最高となる27.0パーセント(いずれも関東地区。ビデオリサーチ調べ)と数字的にも上々の結果を残した。
 そしてこの共演がきっかけで木村拓哉と明石家さんまは交流を深め、2人による番組が企画される。2003年に始まり、いまや毎年正月恒例となっているバラエティー特番『さんタク』(フジテレビ系)である。
 この番組、お互い未体験なことや苦手なことに挑戦するというのが一貫したコンセプトだ。何をするかを決めるトーク部分から始まり、実際に挑戦し、その余韻のなかでのエンディングでは木村拓哉がギターを手に弾き語りを披露するなど、正月番組ということもあって2人のリラックスした表情を見ることができる。
 その際、未体験なものに挑むということから、お互い相手のフィールドへの挑戦が企画になることもある。2015年の放送では、さんまがSMAPのツアーのステージにサプライズ登場し、木村拓哉と「アミダばばあの唄」をデュエットした。
 そして今年2016年の放送では、そのアンサー企画ということで木村拓哉が吉本の本拠地である劇場なんばグランド花月でさんまとともに人生初の舞台コントに挑むことになった。『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)でコント自体は数多くこなしているが、生の観客がいる舞台でのコントには、まったく違う緊張感があるのだろう。さんまと2人でアリクイに扮してのコントだったが、その緊張は終始見ている側にも伝わってきた。だが本番は初めてということを感じさせない出来栄えで、客席も大いに盛り上がるなかで無事終了した。
 SMAPの他のメンバーがそれぞれレギュラーのバラエティー番組があるのに対し、現在木村拓哉個人にはない。しかし、ちょうど20周年を迎えた『SMAP×SMAP』などで見せてくれるコントやトークでの姿も彼を知るうえで忘れてはならないものだろう。そこで今回は、木村拓哉にとってのバラエティーとは何なのか、そしてそこに見て取れる彼ならではの魅力を探ってみたい。

録画再生能力

『空から降る一億の星』で木村拓哉が演じる片瀬涼には、物語のうえでも鍵となる特殊な能力がある。それは、どんなものでも一度見たら正確に記憶する能力である。例えば、ラックに並べられた数十のビデオパッケージのタイトルを一瞬見ただけで覚え、それが崩れてしまっても元の順番どおりに並べ直すことができる。
 実は面白いことに、それと似たようなことを木村拓哉は自分自身についても語っている。それを彼は“録画再生能力”と呼ぶ。つまり、「映像を頭に焼き付けて、再現する」ことができるというわけである(木村拓哉『開放区』集英社、2003年)。
 さんまは今年の『さんタク』のなかで「お前は覚えが早いから1日2時間だけ稽古すればいける」と言っていたが、この“録画再生能力”は、木村拓哉がさまざまな場面で私たちに感じさせてくれる勘のよさの秘密なのかもしれない。一つひとつ順を追って習得していくのではなく、全体を一気に把握することができる。例えば、彼の趣味のひとつであるサーフィンについてもそうだ。「波乗りに行く前は、プロのサーファーのビデオを見てから行く。自分が海に入ったときに、「ああやって、波に対して構えてたな」とか、「こうやってからだを傾けてたな」っていうのを思い出してやってみる」(同書)
 当然それは、ドラマなどでも役に立つ能力だろう。実際、木村拓哉は、セリフを覚えるときには一度頭のなかでストーリーの流れを自分なりにビジュアル化したり、台本のページそのものを頭のなかに入れたりするという(同書)。
 前回、木村拓哉にはプレーヤーとしての矜持があるということを書いた。彼にとって、プレーヤーであることは他のどのポジションにも代えがたい喜びである。この話もまた、そんなプレーヤー・木村拓哉の姿勢を示すものにちがいない。作家なり脚本家なりが作った世界観のなかに入り込み、そのなかで与えられた役柄を全うすること。そのことを楽しみ、また同時に自分に課している姿がうかがえる。
 そしてその能力はおそらく、ドラマや映画だけでなく、バラエティーにも生かされているはずだ。
 それを実感させる場面は、『さんタク』にもあった。コントの事前の打ち合わせのときのことだ。木村拓哉は、明石家さんまから共演する次長課長・河本準一の持ちギャグである『サザエさん』のマスオさんのセリフ「えぇーっ!?」の物真似をやるように言われた。突然言われて驚く木村拓哉。だが彼は、即座にそれを完璧にやってみせた。
 振り返ってみても、『SMAP×SMAP』の初期の名作コントのひとつ「古畑拓三郎」などもそうだった。田村正和扮する古畑任三郎の物真似をする人は少なからずいるが、あそこまで“完コピ”できた例は、そうないだろう。あるいは、ドラマ『探偵物語』(日本テレビ系、1979―80年)の松田優作を真似た「探偵物語ZERO」の工藤や小室哲哉の独特のクネクネした動きを見事に再現したフラワーTKなども同様だ。
 そこには、単なるパロディーというだけにはとどまらない、対象に没入し、同化してしまうような観察眼の鋭さが感じられる。だがそうしたことも、彼の“録画再生能力”のことを知れば十分納得できる。物真似をすることは、その意味では台本を覚えることと同じなのだ。

現場の人・木村拓哉

 しかし、それをただコピー能力が高いというだけで片づけてはならないだろう。それは大前提としてあり、さらにそれ以上のものを見せてくれるところにプレーヤー・木村拓哉の本領はあると思えるからだ。
 なんばグランド花月でのコントのときにも、そんな場面があった。朝5時のカラオケ屋という設定。疲れて寝ているさんまと河本、そして木村拓哉。ふと目覚めて「いま何時?」「女の子たち、もう帰った?」というフリのあとに木村拓哉が「うわっ、さっきの娘たちから、すごいライン来てる」とアドリブを発すると会場は爆笑に包まれた。
 プレーヤーであるとは、現場の人であるということだ。人生初の舞台コントの緊張感のなか、木村拓哉は実際始まってみたら観客の反応をギャグにしたりするなど、ライブでの強さを随所に感じさせた。その象徴が、このアドリブだったといえるだろう。
 ただ木村拓哉にとって現場とは、こうした観客がいるような場だけを指すのではない。
 何度か裏話として語られていることだが、『SMAP×SMAP』のスタジオ収録の際、木村拓哉は待ち時間でも楽屋に戻らず、スタジオ前の控え場所である前室にずっといるという。そこもまた彼にとっては現場だからだ。「基本、出演者の役割は現場にいることだと思ってるから。本番だけが仕事じゃない。セット転換だったりコーナーが変わったりしているスタジオ内の動きを感じていたいし。メークさんや美術さんとちょっとコミュニケーションをとれるところにいたいってのもあるかな」(『SMAP×SMAP COMPLETE BOOK――月刊スマスマ新聞VOL.2~RED~』〔TOKYO NEWS MOOK〕、東京ニュース通信社、2012年)
 ここでも、木村拓哉のプレーヤーとしての意識は一貫している。本番中だけでなく、収録の準備にスタッフが働いている場所もまた、彼にとっては現場である。「何を食うか、何をしゃべるか、何を歌うか。考えてくれるのもスタッフだし。スタッフがいて、初めて成り立っていることだから」(同書)
 スタッフへの感謝の念も当然あるだろう。同時にこの言葉からは、セリフがすべて台本で決まっているわけではないバラエティーで、出演者、つまりプレーヤーとしてどのような立ち位置にあるかを彼が常に自覚していることがわかる。
 そこからひとつ出てくる答えが、視聴者目線に立つということだ。「自分がスマスマの中で発する言葉とかって…なんか全然、業界目線じゃないんだよね(笑)。ホントに、視聴者の人を代表してしゃべってるような感じかな」(同書)
 海外からの有名スターや普段ほとんどテレビに出ないようなアーティストが出演することも多い『SMAP×SMAP』で、木村拓哉が見せる反応は確かに驚くほど素直である。特に「やっべえ」とか「すっげえ」とかいった感嘆詞が発せられる頻度は、他のSMAPのメンバーよりもかなり多い印象だ。それはきっと、彼が「視聴者の人を代表」することをどこかでいつも意識しているからなのだろう。そしてそのことによって、テレビの前の私たちも彼らと同じ現場の人になることができるのだ。

下ネタの意味

 バラエティーでのそうした姿からは、木村拓哉の「素」の部分も垣間見える。それは、「カッコいい」という言葉で括られがちな木村拓哉という存在の、違う人間的魅力を教えてくれる。
 例えば、2014年のフジテレビ『FNS27時間テレビ』がそうだった。SMAPが総合司会を務めたこの年、深夜恒例の「さんま中居の今夜も眠れない」のコーナーに中継で登場した木村拓哉は、セクシー女優相手に“暴走”した。ハニートラップにかかり、痛い目に遭った経験をもつさんまのために安全なセクシー女優を紹介しようというコンセプト。そこで木村拓哉は居並ぶセクシー女優を相手に下ネタお構いなしで仕切り、むしろさんまや中居正広があわてて抑えようとしたくらいだった。
 その中継が終了したCM明けのこと。「さんまさんに楽しんでもらうために身を削って頑張ってくれた」と中居がフォローすると、さんまは「身を削ってないよー、あいつ。あいつ、あんなんやで」と返す一幕もあった。
 このさんまの言葉は、木村拓哉のラジオ番組『木村拓哉のWHAT’S UP SMAP!』(TOKYO FM)を聞いているファンであれば、大きく頷けるものだったかもしれない。
 1995年に始まったこの番組では、彼の飾らない魅力が存分に楽しめる。その象徴が下ネタで、女性の下着の好みについて事細かに語ったり、自分の性の目覚めに絡んでボディコンブームの思い出を語ったりとほとんど定番化しているといってもいい。
 そこから伝わってくるのは、彼の等身大的な少年の部分だ。聞いているのは同性ばかりではなく、むしろ当然女性のほうが多いだろう。しかし、そこには思春期の少年が同年代の友人同士で交わす下ネタのノリが感じられる。『27時間テレビ』の“暴走”も、そうしたかわいげを感じさせる部分があったからこそ笑いに昇華できたのだろう。
 このラジオの仕事で木村拓哉と知り合った放送作家・鈴木おさむは、同じ1972年生まれの同級生、まさに同年代の友人だ。そんな鈴木おさむとの何げない会話のなかから生まれたコントが、『SMAP×SMAP』の人気キャラクター「ペットのPちゃん」である。「移動で飛行機に乗ってる間、おさむとずっと「こういうやつが、こんなことして、こんなこと言ったら、面白くない?」と話していって。(略)ピンクの犬の着ぐるみを着てるやつなんかも、飛行機のなかでずっと話して作ったもののひとつだよね」(「Bananavi!」vol.001、日本工業新聞社、2014年)
 Pちゃんのコントも、ご存じのように下ネタのノリがベースにある。このキャラクター、木村拓哉扮する犬のPちゃんが飼い主である稲垣吾郎扮するパパの目を盗んでママや遊びにきた女性ゲストに突然人間の言葉を話し、誘惑し始める。
 こうした下ネタは『SMAP×SMAP』には珍しく、当初はコーナー前に「大人の方のみご覧頂けます」とのクレジットも出ていたほどだ。最近では主婦の不倫を描いて話題になったドラマ『昼顔――平日午後3時の恋人たち』(フジテレビ系、2014年)のパロディーコント「昼顔」もあるが、「ペットのPちゃん」は番組開始直後の1996年5月から始まっている。となると、下ネタはやはり、年齢に合わせた題材の変化というよりは、木村拓哉の「素」の部分からくるものであることがうかがえる。

色気のありか

 また木村拓哉は、自分でも認めるように「エロい」という表現をよく使う。しかしこの場合は、単なる下ネタとは違って、人がもつ色気を木村拓哉流に表現したものだ。年齢に関係なく、「向こうに何があるのか見たかったら、多少の塀ならよじのぼっちゃうような感じ」(木村拓哉『開放区2』集英社、2011年)と木村拓哉はそれを例える。いかにも冒険心あふれる彼らしい表現だ。
 そしてそういう人に多く出会えるのは、仕事の現場だという。「それぞれのパートで、それぞれ担っている責任を、個性を駆使して果たしている。おもしろいボキャブラリーを持っているし、引き出しも多い。名刺なんて必要なくつき合える」。つまり、「根っこの部分の人間的魅力」があってこその色気なのだ(同書)。
 ではそんな色気はどうすれば醸し出せるのか? 木村拓哉はこう答える。「それは自分の足で動いて、いろんなものを見て、たくさん感じること。たぶんライブの動きひとつにしても、憧れたアーティストのステージングを見たからこそ生まれるものだろうし、被写体になるときも、好きな写真集を見てなかったらできない表情をしてるかもしれない」(同書)
“録画再生能力”は、こんなところにも発揮されているといえるだろう。ライブのステージングやカメラの被写体になるときの表情。当然ドラマや映画でひとつの役柄を演じるときもそうだろう。そしてコントでも。
 そう言われると、木村拓哉のコントキャラクターは一様にどこか「エロい」。パラパラブームに一役買ったバッキー木村や「ホストマンブルース」のホスト・ヒカルのような設定からしてそのようなキャラクターはもちろんだが、「スマスマ高校メガネ部っ!」のキャプテンのような、瓶底メガネに奇妙なカツラという扮装をした、気弱そうなキャラクターでもそうだ。このキャプテンのイメージは、木村拓哉が描いたスケッチがもとになっているという(『SMAP×SMAP COMPLETE BOOK――月刊スマスマ新聞VOL.3~BLUE~』〔TOKYO NEWS MOOK〕、東京ニュース通信社、2012年)。その点、ここでも彼の記憶の蓄積、“録画再生能力”が一役買っているのだろう。
 またあでやかさという意味では、いくつかの女性・女装キャラも思い浮かぶ。「竹の塚歌劇団」の愛ゆうき、「ギャル店員シノブ」のシノブなど、性別を超えて「きれい」という表現がぴたりとはまる。2005年の『さんタク』では、ビヨンセのプロモーションビデオを再現するという企画で自らビヨンセに扮し、さんまやスタッフをざわつかせる場面があったことも思い出す。
 なるほど、こうしたキャラクターが残すインパクトは、彼がもつビジュアルの力があってのものだろう。ただ、コントの基本はキャラクターを演じきることだ。「ちょっと1回タンマ」など若者には意味不明な言葉を使ってしまい、46歳という本当の年齢がばれそうになるが、息子の高校受験の費用が必要なために必死に取り繕うシノブなど、おかしくはあるが「根っこの部分の人間的魅力」にあふれている。だからこそ、木村拓哉が演じるキャラクターはどれも、鮮やかでオリジナルな印象を私たちに残すのではないだろうか。

偶然の一致

 SMAPがデビュー当時、歌番組の減少もあってなかなか軌道に乗れずバラエティーに活路を求めたことは、いまや知る人ぞ知るところだろう。それは、アイドルが本格的バラエティーに取り組むことなど、まだ前例がない時代のことだった。
 当初、木村拓哉のなかでは、バラエティーに出ることは「人に笑われる」という感覚が抜けきれず、抵抗が強かったという。だがお笑い芸人たちとの出会いが、彼を変える。「すごい努力だったり、すごい感覚だったりがないと、人を笑わせることはできない」(前掲「Bananavi!」vol.001)、そう考えるようになったのである。
 それは、「一番最初に密接に知り合ったのが、いきなりさんまさんだったから、なおさら強く感じ」たことでもあった(同誌)。その意味で、「叔父貴」と呼んで慕うさんまとの『さんタク』でのコント共演は、「いままでかいたことのない汗をかいた」とコント後に振り返った木村拓哉にとって、記念すべき一ページになったにちがいない。
 そして木村拓哉は、「“人を泣かせる”ということと、“人を笑わせる”っていうことは同じなんだな」といつしか思うようになった(同誌)。つまり、ドラマとバラエティーは、本質的に変わらない。
『空から降る一億の星』で木村拓哉扮する片瀬涼は、幼いころに父親を失った出来事がきっかけで施設に育ち、人を愛することができないでいる。父親の死の場面も、そのとき受けたショックがもとで思い出せない。だが、明石家さんまと深津絵里扮する兄弟と運命の糸が絡み合うなかで、あるとき彼は“録画再生能力”を取り戻し、父親の死の場面をまざまざと思い出す。しかしそのことによって物語は悲劇的な結末へと向かっていく。
 その結末を迎える直前の場面、木村拓哉が見せる演技が強く印象に残る。深津絵里扮する堂島優子との出会いによって人を愛することを初めて知った片瀬涼は、それまで見せていた冷酷なまでにクールな表情とは一変し、最後の最後に涙ぐみながら優しく彼女にほほ笑む。その泣き笑いの表情が、美しくも哀しい。
 それは、このドラマの主題歌であるエルビス・コステロの「スマイル」が歌う歌詞を思い出させる。「ほほ笑んで 心が痛くても ほほ笑んで 心が折れそうになっても」と歌いだすこの歌もまた、喜びが悲しみや苦しみと背中合わせのものであり、でもだからこそほほ笑もうとささやきかける。ドラマのラスト、一人残された明石家さんま扮する堂島完三が、涼と優子の2人が残していったカセットテープから流れる「見上げてごらん夜の星を」を聞き号泣したあと、何かを吹っ切るようにほほ笑むシーンも、そのことを暗示する。
「スマイル」は、もともと映画音楽として作られた。作曲したのは喜劇王と呼ばれるチャールズ・チャップリン。自らが主演した映画『モダン・タイムズ』(1936年)で使われた曲である。その後歌詞付きのバージョンができ、多くのアーティストによってカバーされてきた。エルビス・コステロもそのひとりだ。
 そしてチャップリンを尊敬する人に挙げるのが、中居正広である。SMAPが結成されてまだ間もないころ、チャップリンの『街の灯』(1931年)を観て感動した中居正広は、チャップリンの伝記のなかで「喜怒哀楽の中でいちばん難しいのは、人を喜ばせること、笑わせることだ」という一文に出合い、バラエティーの道を究めようと決意する(「中居くん日和」「ザテレビジョン」1997年8月29日号、角川書店)。
 バラエティーに真摯に取り組むなかで木村拓哉が得た「“人を泣かせる”ということと、“人を笑わせる”っていうことは同じなんだな」という思い。それは、中居正広が出合い、彼を動かしたチャップリンの言葉と確かに響き合っている。こうして2人は、それぞれ別の道筋をたどりながらも、同じ場所に行き着いたのだ。その偶然の一致に、私はSMAPというグループが作り上げるエンターテインメントの本質、そして深さを垣間見た思いがした。

 

Copyright Shoichi Ota
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

風化させてはならない宝塚の記録――『白井鐵造と宝塚歌劇――「レビューの王様」の人と作品』を書いて

田畑きよ子

 白井鐵造は、いまも歌い継がれる「すみれの花咲く頃」の訳詞者であり、宝塚歌劇一筋にその基礎を築いた人物でもある。そのために白井の研究者は後を絶たず、さらに、白井の自伝『宝塚と私』(中林出版、1967年)、そして、愛弟子の高木史朗『レビューの王様――白井鉄造と宝塚』(河出書房新社、1983年)が刊行されていて、白井論は出尽くした感がある。それなのに、なぜいまさら、白井鐵造なのか? 
 大阪にある阪急文化財団池田文庫を退職後、3年かけて白井と向き合ったのにはいくつかの理由がある。その一つには、胸中に多くの“なぜ”が渦巻いていたからである。例を挙げれば、13歳で故郷を離れて染め物会社に奉公に出た白井が、なぜ音楽の道を志したのか。どのようにして宝塚へとたどり着いて、豪華絢爛の「夢世界」を築き上げたのか、その経緯は明白ではなかった。「すみれの花咲く頃」の元歌は「リラの花咲く頃」、しかし、なぜ、白井は「リラの花」を「すみれの花」に置き換えたのか。その誕生秘話は明かされず、ずっと歌は独り歩きしてきた。いわば肝心要の節目が曖昧なのである。これらを資料に基づいて明らかにしてみよう、白井の業績を一本の線につないでみたいと考えたのが、本書執筆のきっかけである。
 それは取りも直さず、白井が残した約1万3,000点に及ぶ資料群のなかの、パリ留学の際に舞台を観て記録をつづったノートやパリのミュージックホールのプログラム類、洋雑誌などの整理に携わった証しでもある。白井が生前に集めていた資料群をめぐっては、白井が住んでいた伊丹市と阪急電鉄がちょっとした争奪戦を繰り広げて、当時、新聞でも話題になっている。結局、白井の遺言が決め手になってそっくり池田文庫に寄贈された。実際に、1984年(昭和59年)2月23日にダンボール160個分をトラック6往復で搬入したと記録に残っている。
 こんな経緯で受け入れられたにもかかわらず、和図書以外の資料は未整理のまま書架に積まれていたようだ。皮肉にも、私がこれらの資料と出合ったのは、1995年(平成7年)1月17日の未明に起こった阪神・淡路大震災がきっかけだった。書庫内の書架が崩れて本や雑誌や資料は床に飛び散り、余震のたびに本が落ちてくるような状態だった。しばらくして運び出し作業が進められて、それらは閲覧室や展示室に並んだ。白井の資料はそのなかにあった。寄贈を受けてから11年もたっていた。司書としてのノウハウを教えてくれた先輩がシャンソンの楽譜の整理を担当し、それ以外の雑多な資料類は私が受け持った。こうしてみると、白井の原資料にいちばん近いところにいた者として、白井の業績を一本の線につなぐ仕事は、いわば天命というべきものだったのかもしれない。整理作業それ自体が大変な労力を要するものだったが、その作業が白井鐵造研究の何よりの絶好の機会であり、そのチャンスをこのような形で本書に生かせたことは、感謝すべきことだと思っている。

 白井が亡くなったのは、1983年(昭和58年)12月である。没後30年以上もたっているのだから、風評が流れて憶測が乱れ飛び、本来の白井鐵造像は見失われている。真の姿をあぶり出すには、資料をよりどころに論を編むこと以外に方法はない、と私は考えた。もともと司書や学芸員として仕事を重ねてきたので、それは当然のことなのだが、意外に労力を要して困難を極めた。とはいえ『パリゼット』(月組、1930年)や『花詩集』(月組、1933年)、『虞美人』(星組、1951年)などの主立った作品に関するコピーは、「白井鐵造生誕百年展」(2000年)の企画の際にファイリングしていた。もう一つの味方は、「宝塚歌劇90周年展」(2004年)を担当したとき、「歌劇」や脚本集(一時期、小林一三や白井などの論考が載っている)などを創刊号から92年(平成4年)頃まで読み通していたことである。歴史をきっちりととらえたいという思いから試みたのだが、雑誌名と執筆者、発行年月を記して、記事の要点も入力している。今回、これが大いに役立った。しかし、引用したくても発行年を書き忘れていたり、雑誌名があやふやで資料に届かなかったりすることもあった。さらに、「歌劇」の読書投稿欄「高声低声」や小林一三が大菊福左衛門のペンネームで「歌劇」誌上に掲載していた辛口の公演評を中心に、今回改めて調査した。こうして、駆け引きなしの白井の人と作品が浮かび上がったのである。これは、白井鐵造がファンの声に一喜一憂しながら成長していった記録でもあり、同時にタカラヅカの出版物の歴史でもあるのだ。歌劇団当局が、各方面の批評家の意見や読者の声を、その酷評さえも克明につづってきたからこそなしえた仕事である。
 70歳のデビュー作である本書はことのほか難産だったが、いざ産声をあげてみると、驚くほどの好評価で迎えられた。「風化させてはならない貴重な記録」「今後長きにわたって宝塚研究者の進む道を照らすもの」などの葉書が届いた。また、本書には演出家による称揚を所収しているが、その一人の岡田敬二先生からは、「すごい労作! 感動して二回も読みましたよ」というメッセージをいただいた。友達からは「根性と努力に乾杯!」と花が届き、白井の厳しい指導ぶりを語ってくれた宝塚OGからは激励の電話や手紙が相次いだ。まだ身内の範囲ではあるが、小さな波紋が広がりつつある。
 やっと完成した自著を改めて読み返してみると、タカラヅカってすごい! 100年の歴史を築くのに、どれほどの汗と涙と根性と努力があったかを実感できるのである。宝塚の歴史の深さにいちばん感動したのは、実は、こうして白井の足跡をつづった私なのかもしれない。
 
「読売新聞」2016年2月13日付夕刊が「パリを歌う すみれの花」と題して、「花の種類を変えた背景に、「すみれこそがパリを象徴する花」という白井の強い思いがあったこと」を田畑きよ子が突き止めた、と社会面に大きく取り上げてくれた。「白井は、すみれを野に咲く控えめな花ではなく、レビューの本場を代表する花として捉えていた」ことを「宝塚グラフ」(1973年1月号、宝塚歌劇団出版部)の記事から発見したと報じている。この新聞記事と拙書を、毎日放送の浜村淳さん宛てに送ったら、「白井先生とは、宝塚の花の道ですれ違ったことがある。あのときお話をしておけばよかった……」と、ご本人から直接電話をいただいた。翌日のMBSラジオ『ありがとう浜村淳です』では、「よく調査されている。本を読んでから舞台を観るとまた違った観劇が楽しめる」と紹介してくださった。
 タカラヅカは、歌舞伎のように代々芸を引き継いでその芸を極めていくというようなことはないが、個々の、それぞれの個性的な演技が光る。そしてスターもいつかは卒業してトップも次々に変わっていく。だからこそ、宝塚はいつまでもフレッシュさを失わない、という構図が成り立つ。そのぶん宝塚は新陳代謝が激しい、花の短い命を競い合うような集団であり、ここに宝塚の人気の秘訣がある。こうしたアマチュアリズムが根底にある宝塚だからこそ、美しい色彩と甘美な音楽が似合い、歌あり、舞いあり、演技ありの舞台が、新時代の演劇として成り立ったのである。
 白井が育ててきた宝塚レビューは、新たな発展の道を歩み続けている。これが宝塚歌劇100年の歴史に、そして次の100年へとつながる道なのだ。本書は、白井の過去の栄光にスポットを当てて昔を懐かしむものではない。原点に戻って、「宝塚とは何か」と考える機会になれば幸いである。
「文字が小さい」「内容が濃くてなかなか読み進まない」という声が届くが、書くのに3年かかったのだから、3年かけるつもりでじっくりと読んでほしいと思っている。

第1回 木村拓哉と『ハウルの動く城』

太田省一
(社会学者。著書に『紅白歌合戦と日本人』〔筑摩書房〕、
『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版』〔ともに青弓社〕など)

はじめに

 2014年から15年にかけてこの青弓社ウェブサイトで連載された「中居正広という生き方」は書籍にもなり、幸いなことに多くの方に手に取っていただくことができた。当たり前と言われるかもしれないが、私自身改めて中居正広という存在、そしてSMAPというグループへの関心の高さを実感させられた。
 そして今回、「木村拓哉という生き方」と題し、新しい連載を始めることになった。「次は木村くんで」というありがたいリクエストもいただいたと聞いている。この連載でも、中居正広のときと同様、毎回違った角度から木村拓哉その人にスポットを当て、その魅力に迫っていきたいと思う。
 中居正広と木村拓哉。この2人はSMAPでは「ツートップ」と称される。SMAPは個々自立したエンターテイナーの集合体であり、だからこそ芸能史に残る稀有なグループでもある。とはいえ、2人はともに1972年生まれの同い年でグループの最年長ということもあり、グループを長年牽引する立場にあった。またそうして注目される分、SMAPをめぐるさまざまな出来事のなかで、ときには社会やメディアからの声の矢面に立ってきた2人でもある。今年2016年に入って巻き起こった騒動でもそうだったことは、いまさら思い出すまでもないだろう。
 一方、個人としての木村拓哉は、1990年代から時代を象徴する特別な存在であり続けている。「キムタク」という誰もが知る呼び名は、その産物でもある。そのような存在になり始めた頃、彼は「“キムタク”って、どうやら公共物らしい」とエッセーに書いた(木村拓哉『開放区』集英社、2003年)。そこには、自分という存在が自分の手を離れて一つの社会現象になっていることへの戸惑いのようなものがひしひしと感じられる。その気持ちは、私には想像がつかない。だが木村拓哉は、「キムタク」という第2の名前との付き合い方をそのうち身につけ、現在にいたるまでその特別な地位を保ってきた。
 それは取りも直さず、木村拓哉が「スター」だということだ。彼を語るうえで、そのことは外せない。だからここから木村拓哉をめぐる私の話を始めることにしよう。

スターとアイドル

「スター」と呼ぶにふさわしい存在は、今日それほど多くはない。かつて娯楽の王様が映画だった時代には、きらびやかな“銀幕のスター”たちが時代を彩った。その後テレビの登場は、「スター」に代わって「アイドル」という存在を生み出した。遠く手が届かない存在ではなく、すぐ身近にいそうな親しみがある存在。世の中はいま、いたるところアイドルであふれかえっている。
 そんな時代にあって木村拓哉は、数少ないスターの一人だ。
 主演ドラマが放送されるたびに、視聴率のことが注目されるのもその一つの表れだろう。当然彼は、視聴率のために演じているわけではない。そこだけを取り上げられるのは心外なことにちがいない。ただ、これまで彼の主演ドラマがその面で飛び抜けた実績を残してきたのも事実だ。『HERO』(第1期、フジテレビ系、2000―01年)が34.3パーセント、『ビューティフルライフ』(TBS系、2000年)が32.2パーセント、『ラブジェネレーション』(フジテレビ系、1997年)が30.8パーセント(いずれも平均視聴率)など、いまではちょっと考えられない数字である。いわばテレビ時代の「ドル箱スター」的な存在だ。
 そこにはやはり、誰もが認める「カッコよさ」がある。それは、映画時代のスターがそうだったように、無性にまねしたいという気持ちを起こさせる。それもまた、木村拓哉がスターであることの証明だろう。
 1990年代には、トレードマークだったロン毛をまねる若者が続出した。あるいは、ドラマで彼が身に着けたファッションがはやることも、『HERO』のレザーダウンジャケットなどをはじめ、これまで一度だけではない。『ロングバケーション』(フジテレビ系、1996年)の彼の演奏姿を見てピアノ教室に通う男性が増えたという「ロンバケ現象」もあった。
 さらにその影響は、人生の選択にまで及んでいる。木村拓哉がドラマで演じた職業に憧れた人々が、その道を選ぼうとする。『ビューティフルライフ』を見て美容師への道を進み、『GOOD LUCK!!』(TBS系、2003年)に感化されて航空業界への就職を目指す、というようなことが起こる。木村拓哉自身、彼のドラマに影響されてその役柄の職業に実際に就いてしまった人たちと番組で対面し、思わず感極まったこともあった(『HERO THE TV』フジテレビ系、2015年7月18日放送)。
 しかし、木村拓哉はSMAPの一員であり、そのためアイドルでもある。むしろアイドルの代表といってもいいだろう。そんな彼には、ただ「カッコいい」だけではない、ラジオでの飾らない話しぶりやコントで見せる面白い一面などさまざまな顔がある。それは、木村拓哉という存在の親しみやすさ、つまりアイドル性につながっている。
 ただ、それでは先ほど述べたことと矛盾してしまうかもしれない。少なくともスターであることとアイドルであることは、まったくイコールではない。だが実際、木村拓哉は、スターでありながらアイドルでもあるという、芸能史を振り返ってもあまり類を見ない存在としていまも活躍し続けている。そこに私などは強く引き付けられる。そしてまた、そんな2通りの顔をもつ彼をファンや時代がなぜ求め続けてきたのかを知りたい気持ちにもなる。
 私たちにとって木村拓哉とはいったいどのような存在なのか? これから話を進めていくなかで、彼の魅力とともにその答えに少しでも近づければと願っている。

「星に当たってしまった少年」

 このように書いてきて思い出すのは、宮崎駿の「星に当たってしまった少年」という言葉だ。
 それは、2004年公開の宮崎作品『ハウルの動く城』(以下、『ハウル』と略記)にまつわる。この作品、ご存じのように美しい魔法使いの青年ハウルの声優を木村拓哉が担当したことで大きな話題になった。
 宮崎作品の長年の大ファンでもあった彼は、『ハウル』への出演が決まり初めて宮崎駿に会った。その際、宮崎が木村拓哉にかけた言葉が、「彼(ハウルのこと)は「星に当たってしまった少年」なんですよ」というものだった。まだこれから声を入れる前の段階だった木村は戸惑ったものの、その一言を胸に声撮りに臨んだ(『木村拓哉のWhat’s UP SMAP』TOKYO FM、2013年9月27日放送)。
「星に当たってしまった少年」。その意味するところを映画にしたがっていえば、こうなる。
『ハウル』の物語の大きな鍵になるのが、ハウルが火の悪魔カルシファーと交わした契約である。本人たちは、内容もわからないままその謎に縛られている。それを解く役目を担うことになるのが、少女ソフィーである。物語の終盤、彼女はふとしたきっかけでハウルの子ども時代に迷い込み、そこで契約の秘密を知る。少年ハウルは、流れ星になって落ちてきたカルシファーに当たった瞬間、命が尽きかけようとしていたカルシファーを飲み込み、自分の心臓を与えて救ったのだった。もとの世界に戻ったソフィーは心臓をハウルのもとへと戻し、ハウルとカルシファーをともに危機から救い出す。
 私のなかで、そんな「星に当たってしまった」特別な運命をもつハウルは、木村拓哉そのものなのではないかと思えてくる。
 例えば、ハウルはその美しい容姿で街の女性たちの評判になっている。だが魔法使いゆえに「美女の心臓を取って食べてしまう」というよからぬ噂も立っている。そんなある日、ソフィーは男たちにしつこく絡まれているところを見知らぬ美青年に助けられる。それがハウルとの出会いである。まさに少女漫画的ラブロマンスの王道的展開であり、ハウルというキャラクターは、「いい男」の代名詞・木村拓哉を彷彿とさせる。
 とはいえハウルは、ただの美しい王子様的キャラクターとして描かれているわけではない。ソフィーはハウルのことをこう語る。「わがままで臆病で何を考えているかわからないわ。でもあの人は真っすぐよ。自由に生きたいだけ」
「自由に生きたいだけ」の「真っすぐ」な人。これほど木村拓哉という人を形容するのにぴったりと思える表現もないだろう。例えば、『NHK紅白歌合戦』で北島三郎が「まつり」を歌うたびにひときわ目を引く熱さで盛り上げようとする彼は、とても真っすぐで自由だ。どんなときでも全力で手を抜かず、だからときどき熱くなりすぎるほどかもしれないが、そうだからこそ人一倍頼りがいがある。木村拓哉はそんな人なのではないだろうか。
 スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫が語る次のようなエピソードにも、そんな彼の人となりが表れている。『ハウル』の声の収録中、木村拓哉はセリフを事前にすべて頭に入れ、スタジオにはいっさい台本を持ち込まなかった。アニメでは、声優が台本を読みながら収録するという光景が当たり前だった鈴木は、その真剣さに「何という真面目な人か」と感嘆したという(『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』TOKYO FM、2012年11月30日放送)。

アニメ少年・木村拓哉の冒険

 実際、木村拓哉とアニメの関わりには想像以上に深いものがある。
 例えば、鈴木敏夫はこんなエピソードも披露している。
『ハウル』の声優を選ぶにあたって、ハウル役だけがなかなか決まらなかった。そんなとき、ジャニーズ事務所のほうから木村拓哉がジブリ作品に何らかのかたちで参加したい希望をもっているという話があった。そこで鈴木は、木村拓哉にハウル役をオファーする。ただ、それまでのジブリ作品の配役でもそうだったように、木村拓哉のドラマや映画を前もって見るということを鈴木はまったくしなかった。そのため「うまくいくかなあ」と収録初日までドキドキしていた。だが、木村拓哉の第一声を聞いてその不安も消し飛んだ。横にいた宮崎駿も思わず喜んでいたという(同番組)。
 木村拓哉ファンであれば、そんな鈴木の不安は最初から無用だったと思うかもしれない。というのも、自分の側からジブリ作品への参加を望んだように、木村拓哉のアニメ愛は並々ならぬものだからだ。
 それは、『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の企画「ONE PIECE王決定戦」をごらんになったことがある方ならば納得がいくだろう。いままで7回放送されたこの企画、漫画・アニメの『ONE PIECE』(尾田栄一郎)のマニアックな知識を競うクイズだが、基本は木村拓哉とほかのゲストとの対決である。いずれも『ONE PIECE』好きを自任する人たちが登場するが、それでもこれまで木村拓哉が5回優勝と断トツの成績である。バラエティー的には、『ONE PIECE』を読んだことも見たこともない稲垣吾郎と草彅剛が「見届け人」として脇からさめた発言をするところがまた、木村拓哉の熱さを際立たせる。
 そんなアニメへの情熱は、少年の頃から変わっていないようだ。「小さい頃から、いつも何かのアニメ作品がそばにいてくれた。夕方観たいアニメが必ずあって、間に合わせようとして、すごいスピードで帰ってたからね」(木村拓哉『開放区2』集英社、2011年)
 子どもの頃であれば、好きなアニメに夢中になるのも珍しくはないかもしれない。しかし、アニメで見たことをそのまま現実にやってみようというまでになると話は別だ。木村拓哉は、そんな冒険心旺盛な少年だった。「『ルパン3世』を観ていた頃、「チャリンコで遊んでるとき「そういえばルパンは、こういう崖、ヘーキで下りてたよな」って真似した」こともあった。もちろん怪我したけどね」(同書)
 同じような話は、2015年12月に放送された『さんま&SMAP! 美女と野獣のクリスマススペシャル’15』(日本テレビ系)でもあった。明石家さんまとSMAPのメンバーが各自嫉妬するほど憧れの人物を発表するという企画である。そこで木村拓哉がムツゴロウ王国の石川さんと並んで挙げたのが、実在の人物ではなくアニメ『トム・ソーヤーの冒険』(フジテレビ系、1980年)の主人公、トム・ソーヤーだった。
 トム・ソーヤーの世界に憧れた当時小学生の木村少年は、アニメに出てきた冒険を実際に自分でもやってみようと思い立つ。巨大な発砲スチロールを発見すると、それをいかだがわりにして川下りをして沖に流されそうになる。また釣った魚をたき火で丸焼きにして食べる。それが通報されて全校集会で怒られても、アニメの場面に重ね合わせて「すげートム・ソーヤーっぽいな」と木村少年は内心喜んでいたという。
 物語を現実に生きること、あるいは現実を物語のように生きること。それは、少年時代から木村拓哉のなかに一貫して存在する行動軸なのではないだろうか。この番組のなかで彼を主人公にしてオリジナルそっくりに作られたアニメ『キム・タクヤーの冒険』のように彼は生きている。
 だから木村拓哉は、「プレーヤー」であることにこだわるのだろう。あるインタビューで、「つくる側」、演者よりさらにもう一つ上の場所で何かを表現してみたいという気持ちはないか、と問われた彼は、「ぜんっぜん(笑)。僕はもうプレーヤーでいいです」と即答し、さらにその理由については、「やっぱりこの場所が楽しいし、それにプレーヤーっていうものも、どこまで行ってもゴールがないですからね」と語っている(「SPA!」2014年7月22・29日合併号、扶桑社)。
 この「プレーヤー」という表現に、木村拓哉の哲学は凝縮されているように思える。プレーすることにジャンルの垣根はない。ドラマや映画であれ、歌やダンスであれ、はたまたコントであれ、すべてプレーするということでは変わらない。演技する人、歌う人、踊る人、そのすべてを一言で表す言葉が「プレーヤー」なのだ。

恋愛、戦争、そして家族

 そんな木村拓哉が、小さい頃から憧れてきたアニメの世界の「プレーヤー」となった『ハウル』。その世界はどんなものなのか。説明的な描写も排除され、見る側の想像に委ねられた部分が多い作品ではある。だがその中心にあるのが、少女ソフィーとハウルのラブストーリーであることはまちがいないだろう。
 ハウルと少女漫画のような出会いをしたソフィーは、その後荒地の魔女の呪いで老婆の姿にされてしまう。そのため、2人の関係はスムーズには進展しない。だがソフィーは掃除婦としてハウルの城に住み込み、しだいに2人は引かれ合っていく。
 そのなかでソフィーの容貌は、ハウルのために勇気ある行動をとった瞬間には、少女のものに戻ったりする。その意味では、描かれ方は一風変わっているが、古典的なラブストーリーである。それは、木村拓哉が演じてきた『ロングバケーション』や『ラブジェネレーション』といった数々の「月9」恋愛ドラマに重なるところがある。
 しかし、ソフィーがハウルたちとともに共同生活を営んでいくなかで、2人の関係は単なる恋愛を超えたものにもなっていく。
 ソフィーとハウルを大きく変えるきっかけになるもの、それは戦争だ。物語の冒頭からすでに、戦争は始まっている。それはいつ終わるとも知れない。そして戦争は、ハウルたちの生活をも脅かし始める。魔法使いとして戦争に協力するよう王室からの要請がハウルに届く。だがハウルはそれを拒否する。それでも諦めようとしない相手に対し、ハウルはソフィーに自分の母親と名乗って断ってきてくれるように頼む。
 そして王宮に向かったソフィーは、王室付き魔法使いでハウルの師匠でもあるサリマンと対面する。協力しないハウルは悪魔に心を奪われたいかがわしい魔法使いだと非難するサリマンの言葉に対し、ソフィーはそんなことはないと敢然と反論する。そのときソフィーの呪いは一瞬解け、18歳の少女に戻る。それを目にしたサリマンは、「お母様、ハウルに恋してるのね」と語りかける。
 ソフィーはハウルの恋人であると同時に母親である。そして魔力を奪われてすっかり「おばあちゃん」のようになった荒地の魔女やまだ幼いハウルの弟子マルクル、そしてカルシファーといった城の同居人たちの面倒をみる立場でもある。誰一人として血はつながっていない。だがマルクルに「僕ら、家族?」と聞かれたソフィーは力強く「そう家族よ」と答える。
 ハウルもまた、そんなソフィーの気持ちを知り、「家族」を守るため戦地に赴くことを決意する。傷つき、ボロボロになりながらも戦い続けるハウル。そこには、ソフィーが母親でもあるように、ハウルが父性を担う存在でもあることが見て取れる。
 ここで思い出すのは、2015年に木村拓哉が主演し、父親役として新境地を見せたドラマ『アイムホーム』(テレビ朝日系)だ。彼演じる家路久は、事故で記憶を失い、妻や子どもとの関係も希薄な、よそよそしいものになってしまう。だが家路はもう一度家族の絆を取り戻そうと決意し、過去の記憶をたどり直し、やがて自分を追い込んだ大きな敵と戦うことになる。
 思うに、そんなハウルや家路の姿は、木村拓哉本人のものでもあるのではないか。かつて「プロフェッショナルとは?」という質問に対し、木村拓哉は「最前線から逃げない人」と答えた。「風当たりは強いけど」前線にい続けたいと彼は語った(『プロフェッショナル 仕事の流儀 SMAPスペシャル完全版』NHK、2011年12月24日放送)。
 木村拓哉が立つ最前線のすぐそばには、ハウルや家路久と同じように彼にとって「家族」と呼べるような多くの人々がいるはずだ。そのなかにはきっと、ファンもいるだろう。ハウルにとって「家族」が必ずしも血のつながりを意味するものではなかったように。あるいは、いざというときに助けの手を差し伸べてくれるソフィーは、ファンの化身でもあるのかもしれない。

再建された城

『ハウル』のラストシーン。ソフィーによってハウルたちは救われ、戦争も終わりに向かう。そしてハウルたちは、今度は自分たちの意思で集い、改めて「家族」として暮らすことになる。住むのは、再建されたハウルの城だ。以前のいかめしく不気味な外観ではなく、緑の木々が茂り、洗濯物がのどかに干されているような、いかにも平和そうな空飛ぶ城である。少女の姿に戻ったソフィーとハウルも仲睦まじい。
 一見、絵に描いたようなハッピーエンドである。だが、実はまだ戦争は終わっていない。そのことが、再建されたハウルの城が飛んでいくはるか雲の下で爆重船が艦隊となって進んでいく場面でわかる。
 そこに私は日本の戦後の状況を重ねてみたくなる。敗戦後の平和のなかで、復興から高度経済成長によって豊かな暮らしを得た戦後日本社会だが、外側では米ソ対立がもたらした冷戦体制があり、そのもとで起こった朝鮮戦争による特需が高度経済成長を後押しした。それを思い起こさせるようなところが、『ハウル』のラストシーン、再建された城が表す平和と終わらない戦争の対比にはある。
 またソフィーの声が倍賞千恵子、荒地の魔女の声が美輪明宏と、ともに戦後日本と関わりが深い人たちが担当していることも、そんな連想をしてしまう理由だ。
 倍賞を一躍有名にした1963年公開の映画『下町の太陽』(監督:山田洋次)は、高度経済成長期に東京の下町にある工場で働く若者たちの姿を描いた映画だった。同名主題歌も大ヒットし、倍賞は『NHK紅白歌合戦』にも出場した。その後『男はつらいよ』シリーズ(監督:山田洋次、1969―95年)で、渥美清扮する寅さんの妹・さくら役を演じたことはご存じのとおりだ。木村拓哉が、両映画の監督である山田洋次と『武士の一分』で一緒に仕事をすることになるのは、『ハウル』の2年後のことである。
 敗戦の年に長崎で被爆した体験をもつ美輪は、シャンソン歌手として人気を博す一方、自作の曲を通じて戦後のあり方を問い続けてきた。その代表曲が、小さい頃の友人をモデルに、戦中から戦後にかけて苦しい生活のなか頑張り続けた母子を歌った「ヨイトマケの唄」だ。2012年、美輪が初出場した『NHK紅白歌合戦』で、やはり「真っすぐな」まなざしでこの曲を紹介した木村拓哉の姿がいまも鮮やかに思い出される。
 そしてジャニーズ事務所の創設者であるジャニー喜多川も、芸能の仕事を通じて戦後、そして平和の意味を考え続けている一人だといえるかもしれない。アメリカ軍関係の仕事で朝鮮戦争時に韓国を訪れた彼は、そこで戦災孤児に接した経験がきっかけになり、帰国後少年野球チーム「ジャニーズ」を結成する。それがジャニーズの歴史の第一歩だった。とすれば、ジャニーズもまた、ジャニー喜多川によって再建された城だったのではないだろうか。
 そう考えるとき、青空のなかを再建された城に乗って飛んでいく血のつながらない「家族」5人(実は隣国の王子で、いまは5人と離れているカカシのカブを入れれば6人だともいえるだろう)に、アイドルグループSMAPの姿がオーバーラップする。そしてそのグループの一員として出発した木村拓哉は、やがて時代と交わるスターになっていくだろう。木村拓哉がハウルだとすれば、そこにはどのような“魔法”があったのか? 「星に当たってしまった少年」木村拓哉は何を考え、何を追い求め、どのような道のりを歩んできたのか? 次回以降、筆を進めていきたい。

 

Copyright Shoichi Ota
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

予告 新連載「木村拓哉という生き方」が今月からスタート!

太田省一
(社会学者。著書に『紅白歌合戦と日本人』〔筑摩書房〕、
『中居正広という生き方』『社会は笑う・増補版』〔ともに青弓社〕など)

 アイドル、アーティスト、俳優、ファッションリーダー……時代の最前線で常に輝き続け、トップランナーに位置する木村拓哉。男性アイドルの「かっこよさ」のスタンダードを作り出し、芸能史でも異彩を放って圧倒的な存在感を示している。
 アイドルでもありスターでもある木村拓哉の魅力を多角的に検証しながら、彼が背負い、表現してきた社会や時代に迫る新連載。

***

 2015年に刊行した『中居正広という生き方』は、おかげさまでご好評いただき、多くの方に手に取っていただきました。誠にありがとうございます。
『中居正広という生き方』はウェブ連載をまとめた書籍でしたが、その連載時から「木村くんも論じてほしい」という声をいただいており、昨年から著者の太田省一さんと本連載を準備してきました。
 年明け早々にSMAPをめぐる一件が大きく報じられ、太田さんも私たちも驚きましたが、本連載はその話題を論じるものではありません。
 アイドル・スターとしての木村拓哉の魅力を改めて掘り起こし、読者のみなさまが共感して楽しんでいただけたら、と願っています。
 今月半ばからスタートする予定です。楽しみにお待ちください。

青弓社編集部

 

第1回 2.5次元文化とは何か?

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

 いま、2.5次元が熱い。

 2.5次元ミュージカル、コスプレ、声優がキャラとしてパフォーマンスするコンサート、アニメの舞台を旅するコンテンツツーリズム……ファンたちは「現実」と「虚構」が混交している空間を自由に行き来しながら、「2.5次元文化」を楽しんでいる……。
 いつの間にか人口に膾炙しつつある“2.5次元”文化だが、その用語が普及すると同時に、その領域の多様化も急速に進んでいる。そのため、「2.5次元文化とは何か」を定義することがますます困難になってきていて、また、定義したそばから例外が生まれ、書き換えられていく。しかし、学術的に研究するための前提として、ある程度の定義は必要である。今回は、“2.5次元”文化研究への足がかりとして、まず筆者が考える「2.5次元文化」を解説し、その現象と社会文化的背景の相関関係を概観し、最後に研究のための方法論の提案をしてみたい。
 そもそも“2.5次元”とは何だろうか。“2.5次元”という用語は、「まるで2次元(アニメ)から3次元(現実)に抜け出たみたい」という、マンガ・アニメ原作の舞台を観たファンの声がネットを通じて共有される過程で生まれたとされている。2008年に出版された『TEAM!』のミュージカル『テニスの王子様』(通称『テニミュ』)特集(1)では、まだ「アニメミュージカル」と呼称されているので、2.5次元という言葉が明文化されたのは、少なくとも08年以降だと思われる。それは2.5次元ミュージカルの公演数増加の時期とも重なっている。「日本の「漫画アニメミュージカル」を世界共通の若者文化へ」という目標を掲げ、14年に設立された一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会はパンフレットで、2.5次元ミュージカルを「2次元で描かれた漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、舞台コンテンツとしてショー化したものの総称(2)」と定義している。「ミュージカル協会」と銘打っているが、協会員の作品のなかにはミュージカルではないストレートプレイ(通常の演劇)も多い。しかし、すでにミュージカルやストレートプレイというカテゴリーでさえも多様になってきていて、ジャンルを厳密に区切るのも困難になっている。
 2次元の虚構物語の舞台・ミュージカル化という観点では、1974年の宝塚歌劇団による『ベルサイユのばら』にその源泉をたどることができ、91年にはSMAP主演による『聖闘士星矢』、93年には世界的ヒットアニメ『美少女戦士セーラームーン』のミュージカル化もあり、2.5次元ライブシアターの歴史は決して短くない。それが、いまや10年以上のロングランを続けるミュージカル『テニスの王子様』をはじめ、チケット入手が困難な2.5次元ライブシアターが続出するほどの盛況ぶりである(筆者も先行予約抽選会に何度も落選している)。実際、十数本で横ばいだった年間公演数は、2008年から増加し始め、10年には30本超、11年に多少減少するものの、12年には60本弱、翌年には70本弱、それにしたがって13年の観客動員数は160万人を突破するという驚異的な伸びをみせている(3)。協会からの公式発表はまだだが、14年は200万人を超えているらしい(4)。海外(アジア)公演をしたミュージカル『テニスの王子様』、ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』、ライブ・スペクタクル『NARUTO−ナルト−』、ミュージカル『黒執事』などの海外での観客動員数を合わせると、のびしろはまだまだありそうだ。実際、協会のウェブサイトを見るだけでも、かなりの数の2.5次元舞台が次々と上演されているのがわかる。
 しかし、“2.5次元”とは、このようなストレートプレイやミュージカルだけの専売特許ではない。筆者は、「2.5次元文化」を「現代ポピュラー文化(アニメ、マンガ、ゲーム)の虚構世界を現実世界に再現し、虚構と現実のあいまいな境界を享受する文化実践のこと」と広義な意味で定義している。あえて「文化実践」としているのは、ネット環境が発達した今日では、送り手/生産者・演技者と受け手/ファンや観客、という2つのベクトルは完全に分離しておらず、送り手と受け手の相互作用のなかに、2.5次元文化は現象するからだ。つまり、送り手(生産者・演技者)も受け手(ファン・観客)もプレイヤー/アクターとして行動し、参加する(participate)というパフォーマンスすることを通じて、2.5次元文化が生産されるのである(こうした文化創造の実践は、参加型文化〔participatory culture〕と呼ばれる)。こうした意味から、2.5次元ライブシアター(アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベル原作のミュージカルや舞台)だけでなく、コスプレ、声優のキャラコンサート(『ラブライブ!』のμ’s(ミューズ)や『うたの☆プリンスさまっ』の声優によるコンサートなど)、コンテンツツーリズム(アニメ、マンガ、ゲームなどの舞台を訪れる聖地巡礼の旅)、コンセプトカフェ(メイドカフェ、執事カフェ、BLカフェなど)といった、2次元と3次元をたゆたう領域で展開されるパフォーマンスを「2.5次元文化」と呼んでいる。
 では、プレイヤー/アクターたちの相互作用を可能にするのは何だろうか。それは「イマジネーション(想像力)によるファンタジー世界の構築」ではないだろうか。2次元の虚構の世界の住人たちが、あたかも3次元の私たちの「現実」に存在するような妄想、錯覚、認知……。しかし、それは最近急に現象したわけではない。イマジネーションの力によるファンタジー世界の構築は、どの時代の人でもできたはずである。だが、虚構と「現実」を接続するツールとして大きな役割を果たしたのは、インターネットや「Twitter」「Facebook」「LINE」などのソーシャルメディアの急激な発達と普及である。観客を取り巻く社会的環境、特にこうしたメディアの発達によるコミュニケーション形態の変化が大きく影響していると考えられる。マンガ、アニメ、ゲーム、ライトノベルなどの2次元の虚構が3次元の現実に移植されたコンテンツを、楽しむ。この快楽を容易にさせているファクターの一つに、「リアリティー」に対する私たちの認識の変容があげられる。
 テクノロジーの発達によって、虚構世界を現実に近づける仮想現実、バーチャルリアリティー(virtual reality=VR)が社会を騒がせたのも今は昔、すでにわたしたちは拡張現実(augmented reality=AR)を身近にまとっている。スマートフォンなどを建物などにかざすと、過去の都市が重ねられたり、観光名所にかざすと、すぐさま説明が現れる仕組みで、ARは観光案内などにも気軽に使用されている。QRコードを読み取ると、スマートフォンのカメラを通じてキャラが現実の物体に重なって現れるなど、娯楽にも転用されている。それらVRとARが混在した空間は、複合現実(mixed reality=MR)と呼ばれ、私たちの「リアル」感覚を撹乱する。映画を例にとるとよりわかりやすい。たとえば、2010年に公開された映画を比較すると、伝統的なセットで「リアル」に撮影された映画が『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーバー)とするならば、対極にあるのはすべてが虚構の『トイ・ストーリー3』(監督:リー・アンクリッチ)となる。しかし、その中間にはARの『ブラック・スワン』(監督:ダーレン・アロノフスキー)、拡張仮想(augmented virtuality)『トロン:レガシー』(監督:ジョセフ・コシンスキー)、そして複合現実の映画には『インセプション』(監督:クリストファー・ノーラン)が配置される(5)。
 MRよりさらに「リアリティー」と虚構が複雑に絡み合った状況を、デ・ソウザ・エ・シルヴァは、ハイブリッド現実(hybrid reality=HR)と呼んでいる。都市空間では、モバイル電子機器によって、ネットに接続している状態が常態化し、その結果、物理的空間とサイバー空間の差が消滅していく(6)。ゲームやソーシャルネットワークによるコミュニケーションが日常生活の一部(もしくは大部分)になっている若者には、この感覚はもはや自明のことかもしれない。何を「リアル」と感じるか、という「リアリティー」の概念は、こうしたデジタル空間での自我を違和感なく持続させている多くの若者にとって、もはや物理的感覚と直結しないのである。しかし、ここで強調しておきたいのは、技術決定論で2.5次元文化を論じようとしているわけではない、ということだ。前述したとおり、いつの時代にもファンタジーや妄想の世界は成立していて、人々はいまでいう「2.5次元」的な世界を享受していた。それがなぜ「2.5次元文化」が近年に急速に顕在化してきたように見えるのか。その理由の一つは、SNSやインターネットを選択し、日常的に利用するなかで、現実と虚構を自由に行き交うことが容易になったのが、2000年代後半以降だったということにすぎない。つまり、技術が私たちの認識を変化させたという単純な構造ではなく、技術の発達と私たちのコミュニケーション活動の変化が並行し、相互作用するなかで、「リアル」に感じる感覚が変化してきたということなのである。
 そうした「リアリティー」の感覚が、ハイブリッド現実で可能だと仮定すると、2.5次元文化は、“パフォーマンス”を通じて成立する。ここでいうパフォーマンスとは、「参加者たちが、同じ時空間で、ある領域に囲まれた活動に参加している、あらゆる実践(7)」のことである。エリカ・フィッシャー=リヒテは、演劇、サッカーの試合、結婚式、ミサ、政治集会などあらゆるシーンで、行為者と参加者の相互作用のなかでパフォーマンスは生じると述べる。パフォーマンスの主要4要素は、メディアリティー(mediality)、 実質性(materiality)、記号論的意味性(semioticity)、 審美性(aestheticity)である(8)。メディアリティーとは、行為者と鑑賞者が同時空間に存在し、互いに分離不可能な状態のことである。パフォーマンスとは、それ自体が商品であり、あとに物質的に残らない1回性のものであるため、そのはかなさこそがパフォーマンスの実質性となる。記号論的意味性とは、パフォーマンスがどのように意味を生成するか、ということである。そして、審美性とは、パフォーマンスが参加者たちにどんな経験をさせるのか、ということである。同時空間に存在し、1回性のパフォーマンスが、意味を生成することによって、審美的経験を具現化するのである。
 このパフォーマンス論を「2.5次元文化」の研究に援用しながら、デジタル時代のファン研究、コンテンツ産業研究も視野に入れ、2.5次元文化事象を分析するための理論的基盤を考察してみたい。先行研究としてここでは、ヘンリー・ジェンキンスの「テキスト密猟」「収斂文化」や、イアン・コンドリーの「ダークエネルギー」「協働」、マーク・スタインバーグの「メディアミックス」という概念を押さえておきたい。テレビとファンダム(ファン共同体)の研究の第一人者であるジェンキンスは、著書『テキスト密猟者(Textual Poachers)(9)』で、アメリカのテレビ番組のファンが、二次創作(たとえば、日本でいうBL小説のようなスラッシュフィクションやイラスト)を通じて共同体を作り、文化を利用、消費している事例をあげている。典型的なのは1960年代に爆発的な人気を得、現在でもファンが多い『スター・トレック』のキャラを、自分たちの欲望に沿って、新しい物語や関係性を描くことで、キャラを所有し、観察して楽しむような、参加型「2.5次元」的世界が存在していたことだ。ジェンキンスは、ファンがそれぞれに直面する社会との問題の交渉の場としても、こうしたアクティブなファンたちの行動を、肯定的にとらえた。2006年の同著者による『収斂文化(Convergence Culture)(10)』では、デジタルメディアの発達によって、文化はネットやソーシャルネットワークを通じて、送り手と受け手の混交したアクターたちが相互に行動することで収斂した結節点に生産されるとし、送り手/生産者側と受け手/ファン側の相互作用と共犯関係を指摘している。池田太臣が指摘しているように、ファンと生産者、消費と生産などの二項対立的構造自体を脱構築する必要はあるが、ジェンキンスが提示したファン研究の意義は、「2.5次元文化」を考察する際に非常に重要である(11)。
 また、『アニメの魂(12)』で、エスノグラフィックな参与観察を通じてファンと生産者の協働という構図を論じたイアン・コンドリーが指摘したファンの「ダークエネルギー」は、2.5次元文化を成立させるファクターを考える際、興味深い。「ダークエネルギー」とは、天文学で銀河団を引き寄せる目に見えない物質=ダークマターをもじった、目に見えないエネルギー(ファンたちのコンテンツに対する欲望や、コンテンツの生産者がファンとの対話を通じて起こす相乗作用)が相互に影響し合って、現在のような巨大なコンテンツ文化産業に発展していく様子を表した用語である。こうした考え方は、「2.5次元文化」のあらゆるコンテンツ周辺で生じている現象を端的に説明してくれる。しかし、その個々の実態について、またそこで生成される社会文化的意味については、さらなる考察が必要である。
 そして、2.5次元文化の主要基盤である、キャラやコンテンツの共有も重要な論点である。マーク・スタインバーグは『日本はなぜ〈メディアミックス〉する国なのか(13)』で、日本の特徴的なポピュラー文化の消費形態として「メディアミックス」が戦前・戦中以来継続的におこなわれ、1980年代、90年代、現代と、そのモデルが変化してきたことを論じている。キャラをマンガの紙面やテレビ画面だけでなく、お菓子のパッケージや玩具、文房具、衣類にいたるまで、あらゆる媒体に息づくキャラとその世界観を受容することで、身体性をともないながら、キャラやコンテンツを受け入れてきた文化事情は、2.5次元文化現象の可視化と深く関係している。
 紙幅の関係ですべての先行研究のレビューはできないが、上述したフィッシャー=リヒテがいう“パフォーマンス”理論を基礎として、オーディエンス研究の潮流のなかのファン研究、コンテンツ産業研究を視野に入れながら、次回以降は「2.5次元文化」の個々の事例を精査し、そこに現象している事象と社会文化的意味を考えてみたい。

 また余談だが、昨年(2015年)から筆者は、2月5日の“2.5次元の日”に、「2.5次元文化」を考えるシンポジウムを開催している。今年は都合により1日遅い2月6日(土)の開催だが、興味がある方はぜひ参加していただきたい(参加無料、事前登録制)。「第2回「2.5次元文化を考える公開シンポジウム」——声、キャラ、ダンス」

*本稿は、拙論「ファンタジーに遊ぶ——パフォーマンスとしての2.5次元文化領域とイマジネーション」(「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社)と一部、内容が重複している。「ファンタジーに遊ぶ」は姉妹篇にあたるので、ご興味がある方はご一読いただきたい。


(1)片岡義朗「アニメミュージカル 片岡義朗&ミュージカル「DEAR BOYS」」、チームケイティーズ編『TEAM!——チーム男子を語ろう朝まで!』所収、太田出版、2008年
(2)一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会「パンフレット」2ページ
(3)同誌3ページ
(4)「「2.5次元」ファン熱狂 憧れキャラ、現実で会える」「日本経済新聞」2015年4月24日付(http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86045740T20C15A4H11A00/)
(5)Jovanovic, Dalia, “SIRT Conference on Previsualization and Virtual Production Wrap Up,”(http://www.blog.filmarmy.ca/2011/03/sirt-conference-on-previsualization-and-virtual-production-wrap-up/)[2015年1月22日アクセス]
(6)Adriana de Souza e Silva, “From Cyber to Hybrid: Mobile Technology as Interfaces of Hybrid Reality,” Space and Culture, 9, 2006, p. 261.
(7)Erika Fischer-Lichte, The Routledge Introduction to Theatre and Performance Studies, Routledge, 2014, p. 18.
(8)Ibid., p. 18.
(9)Henry Jenkins, Textual Poachers: Television Fans and Participatory Culture, Routledge, 1992.
(10)Henry Jenkins, Convergence Culture: Where Old and New Media Collide, Updated version, New York University Press, 2008/09.
(11)池田太臣「共同体、個人そしてプロデュセイジ——英語圏におけるファン研究の動向について」「甲南女子大学研究紀要 人間科学編」第49号、甲南女子大学、2003年、107—118ページ
(12)Ian Condry, The Soul of Anime: Collaborative Creativity and Japan’s Media Success Story, Duke University Press, 2013.〔イアン・コンドリー『アニメの魂——協働する創造の現場』島内哲朗訳、NTT出版、2014年〕
(13)マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』大塚英志監修、中川譲訳(角川EPUB選書)、KADOKAWA、2015年。原書は、Marc Steinberg, Anime’s Media Mix: Franchising Toys and Characters in Japan, University of Minnesota Press, 2012 だが、邦訳のほうには改訂・増補された章が含まれている。また、監修の大塚英志の『メディアミックス化する日本』(〔イースト新書〕、イースト・プレス、2014年)も、日本のメディアミックス状況をわかりやすく解説している。

 

Copyright Akiko Sugawa
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

散逸した史料を丹念に収集して――『帝国日本の交通網――つながらなかった大東亜共栄圏』を書いて

若林 宣

 書いているときは夢中で気づかなかったが、こうしてできあがってみると、総論的なものではないどころか、マイナーな話ばかりをあれこれと詰め込んだ変わった本になったように思う。一体、どうしてこうなったのだろう。
 本書を著すにあたって意識したのは、まず情報の得がたさである。国内の国鉄であれば、技術者の名前から個々の車輌の性能にいたるまで、調べることは比較的困難ではない。その一方で、日本の支配下にあったにもかかわらず、朝鮮や台湾の鉄道に関しては、沿革でさえ知ることは難しい。本書では、そういう難しい分野を特に選んでみたつもりである。たとえば第4章では南洋群島での航路の開設や伸張について記したが、これは、この地域に関しては基本的な情報そのものが得がたい状況を考えてのことである。ゆくゆくは、サイパンなどの築港事業などについても調べたいと考えている。また第1章では満鉄などの「三線連絡運賃問題」を取り上げたが、門戸開放という原則が徹底されていなかったことにつき、国際問題という観点からの研究の進展を望みたいと考えている。
 次に、意識したのは抵抗と弾圧である。
 たとえば第1章では、植民地の鉄道について、単なる「何年にどこからどこまで敷設」式の記述ではなく、どのような土地になぜ、どのようにして鉄道を敷いたのかについて意識するようにした。とりわけ朝鮮半島では、日本による併合前に、日本の手によって線路が敷かれている。はたしてそこに朝鮮側からの抵抗はなかったのだろうか。もしあったとすれば、それに対する日本側から弾圧はなかったのだろうか。こういった植民地での交通機関に関係してくる抵抗と弾圧については、第2章でも台湾の航空事業の記述で強く意識して書いたつもりである。第6章も、とりわけ日中戦争での中国側の抵抗については意識して書いた。
 だが、どれほど強圧的な政策の下におかれようと、人々は生きていかなければならない。戦前、「東洋のマンチェスター」ともいわれた大阪には、朝鮮半島各地から労働者が多数流れ込んだ。そのうち済州島出身者の来阪と帰郷を支えた阪済航路は、内発的に誕生した朝鮮人主導の組合も参入して激しい競争が発生するなど独特の歴史を有している。そのことにいくばくかのページ数を割いたのは、「生きていかなければならない」人たちの足跡を少しでも多くの人に知ってもらいたかったからである。なおこの件に関しては、当時の新聞記事のほか、杉原達『越境する民――近代大阪の朝鮮人史研究』(新幹社、1998年)を大いに参考にした。拙著で関心をもっていただけたら、ぜひとも同書にも当たっていただきたい。そこには、悲喜こもごもな人々の息吹が収められている。
 内モンゴルは、帝国日本のなかでも特異な地位にあった。日中戦争前は関東軍を中心とする工作の手が秘密裏に進められ、中国の中央政府の手が一時的とはいえ及びにくくなった地域である。内地からは遠隔であり、残された資料も乏しい。そのため一般書に頼ることは難しい状況にある。この地域については、知る人ぞ知る欧亜連絡航空と内蒙工作の関係や、察東事件前後の、これまで知られることがなかったチャハルの自動車交通事業について取り上げた。いずれも内モンゴルを舞台としながら、まったくモンゴル人のためではなく、日本人によって日本のためにおこなわれたところに特徴がある。とりわけ際立っているのは自動車事業で、それまでの中国人による事業を排しながら、建前でさえもモンゴル人を立てることがなく、日本人によって独占してしまったのである。
 第6章での南方占領地の鉄道は、すこぶる情報に乏しい分野である。そこで本書では主として橋梁修理に注目し、これまで陸軍の鉄道聯隊を中心とした記述から離れ、その華々しく描かれてきた成果に疑問を呈し、いままでは顧みられることが少なかった軍属部隊に光を当ててみた。鉄道聯隊の復旧があくまで仮復旧にとどまること、および本格復旧の時期がかなり遅いことを明らかにできたのは収穫だと思う。しかし一方では、収奪の問題などにも触れてはみたものの、こちらは思うようにいかなかったことを認めざるをえない。この問題については、いつかあらためて筆を執りたいと思う。
 1940年(昭和15年)7月、第2次近衛文麿内閣が発足した。このとき外務大臣に就任した松岡洋右は記者会見で、日満支を一環とする大東亜共栄圏の確立を外交方針として述べた。これが「大東亜共栄圏」という言葉が使われた最初の例とされるが、しかしそれより後の南進の結果手中に収めた広大な占領地を一貫経営するための交通手段を確立することは、経済力その他の理由から、最後まで実現させることはできなかった。そのディテールについて、本書を通じて少しでもみなさんに伝えることができればと思っている次第である。