第4回 コスプレ――キャラクターとパフォーマンス

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

世界コスプレサミットに見るコスプレ文化

 2016年7月30日から8月7日まで、名古屋で世界コスプレサミットが開催された。今回で14回目を数えるこのイベントの目玉は、「世界コスプレチャンピオンシップ」である。過去最多の30の国と地域が参加したこのチャンピオンシップは、各国の優勝者を日本に招待して、厳しいルールのもとで文字どおり「チャンピオン」を決めるためのコンペティションだ。今年は『トリニティ・ブラッド』(吉田直、全12巻〔角川スニーカー文庫〕、角川書店、2001―04年)のコスプレパフォーマンスをしたインドネシアの2人組が優勝した。年々参加国が増加し、衣装の完成度やパフォーマンスのレベルも上がり、もはやすでに“パフォーミング・アーツ”の域である。特に今年からは背景に映像を使用することが許可され、舞台上の演出と映像演出の面で、素人(しろうと)とは思えない完成度が高いパフォーマンスが繰り広げられていた。

図1 2016年世界コスプレサミットでのコスプレパレードの様子

 2分30秒以内と規定されたパフォーマンスを音楽と演技だけでおこなう組がいる一方、セリフを使用する組もあるのだが、流暢な日本語でおこなえる外国チームは、残念ながらまだ少なかった。母語でセリフを言い、英語・日本語の字幕が出ることが多いのだが、審査委員長で人気声優の古谷徹の総評の際のコメントが興味深かった。せっかく日本のコスプレをやっているのだから、日本語でセリフを言ってほしかった、という趣旨のコメントだったからだ。もちろん、これは「日本製のマンガ、アニメ、ゲーム、特撮のもの」だけという規定があるうえでの発言だが、コスプレとは、衣装、メイクなどのビジュアルや、静止した決めポーズだけでなく、パフォーマンスという要素も重要だということが、彼のコメントによって前景化したのだ。

外国のアニメ、漫画、ゲーム関連イベントでのコスプレパフォーマンス

 世界中で楽しまれているコスプレだが、コスプレイヤーの消費や利用の仕方はさまざまである。世界コスプレサミットが、チャンピオンシップのようなコンペティションで規定しているような「日本の漫画、アニメ、ゲーム、特撮などのキャラクター」を模すコスプレが多い印象だが、どちらかというといまではコスプレとは、「2次元キャラクターを模すること」という広い解釈がなされている。その傾向は特に海外では強い。たとえば、日本アニメーション振興会主催で1992年から続いているアニメエキスポ(ロサンゼルス)は、その主催者によると「日本アニメの振興」がそもそもの目的だった。しかし、回を追うごとにその趣旨を離れ、現在では日本製作品のキャラクター以外にも『スター・ウォーズ』(監督:ジョージ・ルーカス、1977年―)、アメコミヒーロー、ディズニープリンセスなどのコスプレをする訪問者は非常に多い。

図2 2011年アニメエキスポの会場の様子

 また、フランスで最大の日本文化オンリーのイベントであるジャパン・エキスポ(パリ郊外)でさえ、スパイダーマンや『スター・ウォーズ』シリーズのダース・ベイダー、『ハリー・ポッター』シリーズ(J・K・ローリング、1997年―)のキャラクターコスプレに出くわすことが多い。ましてや、日本メインや日本オンリーではない漫画、アニメ、ゲームに関する一般のイベントでは、ありとあらゆるキャラクターのコスプレが跋扈している。たとえば、イタリアのルッカコミックス&ゲームズというイベントは約50年の歴史があるが、ここでは日本製作品のキャラクターのコスプレのほうが圧倒的にマイノリティーである。影響力が大きいアメコミヒーローやシューティングゲームのミリタリーコスプレなどが目を引く。実際にイタリア軍隊が会場でリクルート活動をしているので、筆者などは本職なのかコスプレなのか区別ができなかったほどである。

図3 2015年、ルッカコミックス&ゲームズの会場(街中)の様子

パフォーマンス重視の海外コスプレコンペティション

 コスプレでただ参加する訪問者は、それぞれコスプレを楽しんでいる。コスチュームや道具に凝っているし、カメラを向ければ足を止めてポーズをとってくれるのは、万国共通のサービス精神である。しかし、いざコンペティションとなった場合に、日本と海外でおそらく最も大きな違いは、海外のコンペティションではパフォーマンスを重視する、つまり観客をどれほど楽しませるかを重視したものになっていることだ。似ているというだけでなく、キャラクターをどう解釈し、どんな演技や演出を観客が望んでいるのか、またその期待の上をいくような、または期待をいい意味で裏切るような展開を短い時間にどれほど凝縮するか、が焦点になっているのだ。すると必然的に一瞬で観客を魅了する派手な衣装や大掛かりな演出をするパフォーマンスが選択されやすくなる。会話だけで話が進むような日常系学園ものの女子高生キャラなどは演出上「地味」だから、ファンタジー系で装備や衣装が華々しいゲームの世界観やキャラクターでのパフォーマンスが多くなる、というわけだ。観客の目も肥えているようで、つまらないパフォーマンスには反応が悪いが、すばらしい演出や衣装には、称賛の拍手を送る。この意味で、コスプレパフォーマンスは2.5次元舞台とかなり親和性が高い。

コスプレが提示する問題群

 2.5次元舞台とコスプレパフォーマンス(特にコンペティションの場合)の親和性の高さは、キャラクター中心主義的な演出(つまり俳優の個性よりもキャラクターの存在性が前景化すること)と、観客と行為者とのインタラクションによって立ち上がる空間の共有で実現する。エリカ・フィッシャー=リヒテはこれを「ライブ(身体)の共存(1)」と呼んでいる。この点で、コスプレの考察には2.5次元舞台を論じた第2回「事例1 2.5次元ミュージカル/舞台――2次元と3次元での漂流」、第3回「事例2 作り手とファンの交差する視線の先――2.5次元舞台へ/からの欲望」で言及したキャラクター論と、第1回「2.5次元文化とは何か?」で論じたファン研究、パフォーマンス研究からのアプローチが必要になってくる。
「それでは、2.5次元舞台とコスプレは同じようにとらえていいのだろうか?」という疑問がわいてくるだろう。もちろん共通している部分もあるが、コスプレにはもう少し考えなければならない問題群がまとわりついている。特に、観客と行為者の場があらかじめ用意されたコンペティションのような固定された舞台ではない場で、素人がコスプレをパフォーマンスしている際に浮上する問題である。それは、イベント会場(多くは野外)のマクロな空間や、コスプレ撮影のミクロな空間だったりする。
 その問題のなかでも注目したいのは、【1】アイデンティティーの問題、【2】セクシュアリティーの問題、【3】空間意識の問題、の3点である。【1】アイデンティティー形成の問題とは、誰がどんなキャラクターを選択しパフォームするか、またパフォーミングを通じて、選択したキャラクターと当事者のアイデンティティーとにはどのような関係があるか、ということである。【1】との関連で、【2】セクシュアリティーの問題とは、特に女性が「見られる客体」になる場合に、「性的対象」として見られることに関する問題である。これは海外の「コスプレは同意ではない(Cosplay is not consent.)運動」との関連で、身体、セクシュアリティー、ジェンダーの点で考察したい。最後に【3】空間意識は、コスプレイヤーの重要な目的の一つが写真を撮ることであることと関係がある。2次元の虚構キャラクターをコスプレによって3次元化したにもかかわらず、いや、かえって3次元化したからこそ、写真という2次元へと回帰する欲望とは何だろうか。そうした“2.5次元遊戯”(2次元と3次元のハイブリッドな浮遊行為)と呼べるような振る舞いに関して、一つの分析を試みる。

コスプレとアイデンティティーの諸問題

 アニメキャラクターを演じることの心理学的研究は、特に日本のアニメが子どもだけでなく、思春期の若者の精神にも有益な影響があることがとりざたされた2000年代ごろから盛んである。テレビアニメーション(テレビカートゥーン)が登場し始めた1950年代後半ごろから、アニメーションが視聴者、特に子どもに与える影響は、主に「悪影響」として語られることが多かったが、西村則昭は、アニメキャラクターを演じることを通じたカウンセリングの有効性を論じている(2)。西村のクライアントの少女は、アニメ『スレイヤーズ』(1995―2005年)の強いヒロイン・リナ=インバースを演じ西村とロールプレイをすることで、自分をリナと置き換える作業をしている。また、スーパーヒーローを演じることによるカウンセリングをおこなっているローレンス・C・ルビンは、彼のクライアントであるクラスからいじめを受けているアメリカの男児がアニメ『NARUTO』(2002年―)のナルトを演じることによるセラピー的効果を論じている(3)。
 こうした「プレイセラピー」は、メンタルの病気治療の一つとして用いられているが、患者でなくても、コスプレには類似の効果があるのではないかと筆者は仮説を立てている。なぜなら、筆者の(主に海外の非日本人の女性)コスプレイヤーへのインタビュー調査で、自分のジェンダーアイデンティティーやそれにともなうコンフリクトとコスプレには密接な関係性があるケースが頻出しているからである。
 一例を挙げておこう。2013年、シンガポールのAFA(Anime Festival Asia)で5人のコスプレ女性に個別インタビューをおこなった。Aさん(当時20代前半、大学生)は、『銀魂』(漫画:空知英秋、〔ジャンプ・コミックス〕、集英社、2004年―、アニメ:テレビ東京系、2006―16年)の柳生九兵衛のコスプレをしていた。九兵衛とは、女性でありながら剣術の名門柳生家の跡取りになるため男性として育てられた剣術の達人である。幼いころ、親友の志村妙を悪人から守った際に右目を痛め、眼帯をしている。男嫌いで、妙に恋心を抱く九兵衞は、女性と男性の両方を兼ね備えたキャラクターである。Aさんによると、九兵衞は「まさに理想」だそうだ。なぜなら、「かっこいいけど、カワイイ」という自分がなりたい(けどなれない)キャラクターだからだという。ここまでなら、普通のワナビー(wanna be)と思われがちだが、Aさんは両親との確執を話してくれた。
「両親はコスプレには、あまり賛成していない。特に日本のアニメの女性キャラクターは肌の露出が多いから。でも、九兵衞はあまりセクシーでないし、肌を見せずにすむから、両親も文句は言わなかった」
 Aさんの回答は、両親の期待が子どものジェンダー意識の形成に大きな影響を及ぼすこと、そして、男装のコスプレを選択したのは、コスプレを通じて男性になりたいのではなく、肌の露出を避けたいがためだったことを示唆している。同様のことは、ゲームキャラクターの男装をしていた女性のコスプレイヤーBさんからも聞けた。ジェンダーアイデンティティーとコスプレの問題は、このAさんとBさん以外にも、宗教・慣習や恋愛経験とも関係が深い。今回は字数の関係上すべての事例を紹介できないが、いずれ詳細な結果を発表するつもりである。

Cosplay is Not Consent(コスプレをしている=お触りOKではない)

 コスプレとセクシュアリティーも、実は深刻な問題である。いまでこそ「クールジャパン」の代表例として国策の一つに利用されているアニメ(と漫画、ゲーム)だが、日本のアニメが欧米で認知され、揶揄ぎみに「ジャパニメーション」といわれた1980年代、日本製のテレビアニメーション=暴力とセックスの宝庫=子どもには有害、と理解されていた。特に、日本のアニメに子どもたちが熱狂していたフランスでは、『北斗の拳』(フジテレビ、1984―87年)などが、そのあまりにも暴力的な描写のために放送禁止になったこともあった。表面上は表現の過激さを理由にしているが、子どもや若者たちにあまりにも人気が沸騰したために、他国によるフランス文化侵略・侵食への不安もあった。そのトラウマは、コスプレを通じて再顕在化している。それが、Cosplay in Not Consent運動である(図4)。

図4

 Cosplay is Not Consent運動とは、特に女性コスプレイヤーが、性的対象として体を触られたり、露出が多いキャラクターに扮しているとセックスアピールだと理解され性的暴力の対象になりやすいことから欧米で始まったムーブメントである。2013年にシアトルで開催されたアニメイベントAki Conで、女性コスプレイヤーが男性DJにレイプされた事件も起きている(4)。事件にならないまでも、身体(胸、尻、脚、背中など)を見知らぬ男性に触られる被害があとをたたないことや、承諾なしで撮影された写真(多くはスカートのなかや胸の盗撮)をインターネットにアップして、コスプレイヤーのプライバシーをさらす事例も多数あり、図4のようなイラスト入り警告や、イベント会場での看板が設置されるようになった(5)。
 女性コスプレイヤーのなかには、自発的にわいせつなコスプレ写真をネットにさらしたり、卑猥なポーズをしてカメラ小僧(カメこ)に積極的に写真を撮らせるケースもないわけではない。しかし、純粋に好きなキャラクターになりたい、自分に合ったキャラクターがそれだった、というような、性的欲望の対象になることが目的ではなく参加した女性コスプレイヤーたちにとっては迷惑な話である。日本のアニメ、漫画、ゲームの女性キャラクターのなかには、露出が多い服を着た設定の未成年の少女や、胸を強調した服を着た成人女性も多く、虚構を現実に移し替える際に、セクシュアリティーの問題を回避するのは容易ではない。

身体に対する規範と匿名の他者からの中傷

 好きなキャラクターへの愛を表現したい、自分と似ているあのキャラクターになりたい――コスプレイヤーにとって動機はごく純粋である。しかし、同じコスプレイヤーや、それを関心をもって見るオーディエンスのなかには、非常に厳格な規範をもって中傷する者たちもいる。
「そのキャラクターをやる資格がない」
というものである。具体的には、太っている、胸が小さい、顔が醜い……など、演じる者の内面ではなく、物理的な外面に対する中傷である。「Facebook」で自分のコスプレ写真をアップしていたある女性は、“いいね!”をもらうことに自己顕示の欲求が満たされた半面、いいね!がこない不安にかられて、コスプレができなくなった。ある女性は、「ブス! デブ! お前が○○様(キャラの名前)やるな!」と匿名の中傷を書き込まれ、SNSを閉じざるをえなかった。再現性を重視するあまり他者の娯楽に不寛容な傾向は、どの国でもある。比較的肯定的にとらえられ、新しい潜在性がある共同体と認知される一方、2.5次元文化実践が抱える問題も看過してはならない(【3】空間意識については、第5回に続く)。


(1)エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭/平田栄一朗/寺尾格/三輪玲子/四ツ谷亮子/萩原健訳、論創社、2009年、44ページ
(2)西村則昭『アニメと思春期のこころ』創元社、2004年
(3)Lawrence C. Rubin, “Big Heroes on the Small Screen: Naruto and the Struggle Within,” in Lawrence C. Rubin ed., Popular Culture in Counseling, Psychotherapy, and Play-Based Interventions, Springer, 2008, pp. 227-242.
(4)“Aki-Con’s Sexual Assault Case,”(http://cosplayisnotconsent.tumblr.com/)[2016年10月10日アクセス]
(5)Andrea Romano, “Cosplay Is Not Consent: The People Fighting Sexual Harassment at Comic Con,”(http://mashable.com/2014/10/15/new-york-comic-con-harassment/#484vIUNskkqI)[2016年10月19日アクセス]

 

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第2回 退団から再生へ――宝塚が刻み続ける日々を追って

鶴岡英理子(演劇ライター。著書に『宝塚のシルエット』〔青弓社〕ほか)

『宝塚イズム』が年2回刊行となって1年半以上がたちました。このネット全盛の時代、半年に1冊という刊行ペースで、日々動き続ける宝塚歌劇の何を語っていくか、当初は編著者の一人である私自身が戸惑いを覚えたのが正直なところです。けれども、回を重ねるにつれて、即時性にとらわれずに宝塚の半年間を外部からじっくりと見つめ、「書籍」という形で残すことに、新たな意義を感じています。
 そのような思いで、現在『宝塚イズム34』の準備中ですが、宝塚の大きな動きとしては、『宝塚イズム33』でそのオンリーワンの輝きを特集した月組トップスターの龍真咲が、9月4日の東京宝塚劇場月組公演千秋楽を最後に、宝塚を卒業していきました。
 女性だけの歌劇団である宝塚は、存在そのものが一つの幻想空間ですが、その幻想空間のなかにも確実に時代の波は訪れていて、端的にいえば男装の麗人である男役も、よりナチュラルな方向へと緩やかな変化を遂げ続けているのを感じます。
 そんな時代のなかに、忽然とそそり立ったのが龍真咲でした。独特の台詞回し、歌唱、火の玉のように猪突猛進な演じぶり。すべてが熱く、濃い。かつて『ベルばら』四強の一人に数えられ、「炎の妖精」と称された汀夏子や、野性的でワイルドな男役を得意とした順みつきなどをほうふつとさせるその個性は、どこか時代をタイムスリップしてきたような、新鮮な驚きを常に与えてくれていたものです。さらに興味深いことには、それでいて不思議と龍には、時代に遅れてきたというような昭和の香りはまったくしなかったのです。がむしゃらにわが道を行きながら、憎めないやんちゃな風情のなかに、きちんと現代を背負ってもいる。改めて面白い個性派スターだったと感じます。
 そうした龍ですから、千秋楽でも本人は涙を見せず、むしろ泣いている観客を泣き笑いに持ち込むようなパフォーマンスを繰り出して、会場を大いに沸かせていたのが印象的でした。かと思うと、次代を担う珠城りょう、珠城の相手役を引き続き務めることになったトップ娘役の愛希れいかという、月組の新コンビをこれからもよろしくと、観客にきちんと託すことも忘れず、紋付き袴の正装ですっきりと美しいラストデーを飾っていました。退団後にはすぐに「Instagram」を開始して、やはりおちゃめでやんちゃでファン思いの素顔を生き生きと発揮していますし、宝塚OGが集う『エリザベート TAKARAZUKA20周年 スペシャル・ガラ・コンサート』(2016―17年)では、持ち役のルイジ・ルキーニだけでなく、タイトルロールのエリザベートに挑むというビッグサプライズも発表されました。これからもその活動から目が離せないOGスターがまた一人誕生したのだなと、強く感じています。
 そんな龍が残した月組は、珠城りょう&愛希れいかの大劇場お披露目作品『グランドホテル』『カルーセル輪舞曲(ルビ:ロンド)』(月組、2017年)の制作発表から、早くも再始動しています。会見のパフォーマンスでは、珠城の大人の魅力が炸裂。たばこを吸うシーンの堂に入ったことには、まだ男役10年を数えていないスターなのだということを忘れ去るほどの余裕が感じられました。経験を重ねた愛希とのコンビも、いい効果をあげそうです。この制作発表会見には美弥るりかも参加していて、新生月組の新しい形が見えつつあるかに思えましたが、今回ポスター入りした朝美絢と雪組の月城かなとが、この公演のあとにいわばトレードされるという発表がありました。両者ともにスターぞろいの「花の95期生」ですが、この組替えも月組の未来にとって意味があるものになっていきそうです。そんな珠城体制の新月組への期待は、次号『宝塚イズム34』でも小特集を組みますので、ぜひご期待ください。
 また他組に目を転じますと、来年(2017年)2月での退団を発表した花組トップ娘役の花乃まりあに続いて、宙組トップ娘役の実咲凜音が同年4月での退団を発表しました。このところは、星組の北翔海莉&妃海風のようにトップコンビが同時退団するケースのほうが、むしろ少なくなっているのかな?というほどに、男役トップ、娘役トップがそれぞれの思い、それぞれの「いま」を見定めて退団していくケースが増えているように思います。俗にいう「添い遂げ退団」が美学だった、そういう時代もまた、宝塚から次第に遠くなっているのかもしれません。
 そんななかで、花乃は『ME AND MY GIRL』(花組、2016年)のサリー・スミス役から一転、全国ツアー『仮面のロマネスク』(花組、2016年)のフランソワーズ・メルトゥイユ侯爵夫人役で、明日海りお演じるジャン・ピエール・ヴァルモン子爵に一歩も引かない丁々発止の、火花散る芝居を繰り広げて、大輪の花を咲かせていました。メルトゥイユ侯爵夫人はもともと初演の花總まりに当てて書いてあるので、男役に寄り添うというよりは、男役に正面から並び立つような格が要求される役どころですが、それを堂々と果たしていて見事でした。本来大人びた個性をもつ人でもありましたが、芝居を日々追求して深めていく明日海の相手役として、どれほど努力してきたかがしのばれる成長ぶりで、退団公演となる『金色(ルビ:こんじき)の砂漠』(花組、2016―17年)の成果も楽しみです。
 さらにその花乃の後任には、さまざまな娘役の名前が巷間取り沙汰されていましたが、同じ花組から仙名彩世の昇格が決まりました。こちらは来年の全国ツアーで再び上演される『仮面のロマネスク』で花乃のあとを受けて演じる、メルトゥイユ侯爵夫人がトップ娘役としてのお披露目となります。今回演じていたマリアンヌ・トゥールベル夫人も大役ですが、轟悠の相手役を務めた経験もあり、押し出しがいい仙名には、メルトゥイユ侯爵夫人がより柄に合う予感がします。どちらかというと似たタイプの娘役間でのバトンタッチとなりましたが、とはいえやはりこれによって明日海から醸し出されるものもまた自然に変化していくことでしょう。大人のコンビの誕生といえそうです。
 一方、『エリザベート――愛と死の輪舞(ルビ:ロンド)』(宙組、2016年)のタイトルロールに臨んでいる実咲もまた、次の大劇場公演『王妃の館』『VIVA! FESTA!』(宙組、2017年)で退団です。こちらは前任の凰稀かなめの相手役から現在の朝夏まなとの相手役と、2代続けてトップ娘役を務めてきましたが、作品の巡り合わせから、どちらかといえば辛抱役が続いていた凰稀時代から一転、朝夏時代には『TOP HAT』(宙組、2015年)、『王家に捧ぐ歌』(宙組、2015年)、『エリザベート』など、宝塚のヒロインの枠を超えた、作品の柱ともいえる役柄を次々に演じる機会に恵まれてきました。それだけに、ある意味でトップ娘役としての本懐は遂げたのだろうな……と想像するにかたくない活躍を示してきた人でもありますから、ラストランに向けてますます加速していくだろうこれからの日々にも期待が高まります。
 そして当然の流れとして、朝夏まなとにもまた新しい相手役が登場することになります。今回の異動では、ほかに雪組の有沙瞳と星組の真彩希帆のやはりある意味のトレードが発表されていますが、ここに宙組の娘役が絡んでいないということは、やはり宙組からの昇格なのでは?と予想されます。とはいえ宙組には注目の娘役が複数いますので、朝夏にとって2代目となる相手役が誰になるのかもまた目が離せない人事となりそうです。宝塚を観続けているかぎり、本当にこの種の興味関心が薄れることはありません。
 退団という大いなる寂しさを抱えた一大イベントが、そのまま新たな誕生、リボーンにつながっていく。これこそ宝塚が100年の歴史を刻んでこられた力の源でもあるのだと思います。そんな動向を注視しながらの、編集作業が今日も続いていきます。

 

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第1回 『宝塚イズム34』、順調に制作中!

薮下哲司(映画・演劇評論家。元スポーツニッポン新聞社特別委員、甲南女子大学非常勤講師)

 宝塚歌劇の評論シリーズ『宝塚イズム』の発行を半年に1回に変更して1年半あまりがたちました。
 ネットやブログで瞬時に情報がいきかう現在、しかもトップスターの退団が宿命づけられている宝塚歌劇は新陳代謝も激しく、コンテンツは次から次へと変化の連続なので、年2回刊ではニュースに追いつくことができないのではとの不安もありました。しかし、だからこそじっくりと分析して、作品と生徒の成果を振り返り、新しい人材に目を向けて今後に期待を寄せるというスタンスは貴重だと思います。
 読者からは「隔月刊に」とか「年4回をキープして」という要望もありましたが、日々の出来事や動向はウェブサイトを利用していただくとして、年2回刊のペースでお届けする「宝塚を愛する批評シリーズ」=『宝塚イズム』を引き続きご愛読ください。

 さて、年2回刊にしたために、ネットやブログと差別化を図って、記録としてきちんと残るものをと、毎回、編集会議にも熱がこもります。とはいえ、読者のみなさんにご説明が行き届かなかったこともあって、刊行間隔があいたので「『イズム』は休刊したのか」という誤解もありました。あらためて発売日をお伝えすると、1年の前半が6月1日、後半が12月1日です。この間隔でこれまで『31』『32』『33』の3号を発行しました。
 原稿締め切りはそれぞれ2カ月前ですから、内容のニュース性には限りがあります。そこで、『宝塚イズム』から逆にニュースを作り出すというねらいで先取りの企画を優先、それと対談形式を含めた公演評やOGインタビューの記事を組み合わせることで、評論シリーズとしての方向性を打ち出すことにしました。
 先取りの企画は、『32』号の特集である「『ベルばら』から『るろ剣』へ」で、「マンガと宝塚の幸福な出合い」を検証しました。また、『33』号の、20周年を迎えた『エリザベート』特集もその一例です。これにトップスターの退団特集を加えることでバラエティーに富んだ構成をお届けすることができました。

 とはいえ、半年に1回はやはりスパンが長すぎます。そこで青弓社のウェブサイトで、『宝塚イズム』では伝えられない宝塚歌劇の最新情報や、『宝塚イズム』の編集裏話などをお伝えしていきます。これが次号発売への期待につながって、読者のみなさんとの太いパイプになればこれにまさる喜びはありません。

 さて現在は、12月1日発売の『宝塚イズム34』の構成内容がほぼ固まり、執筆者が原稿の構想を練っているところです。『34』のメインは、11月20日付での退団を発表した星組のトップコンビ北翔海莉と妃海風のサヨナラ特集です。柚希礼音、夢咲ねねのあとに2015年5月にトップに就任した2人は、大劇場3作、たった1年半で退団することになりましたが、人気の実力派コンビとあって、各執筆者はさまざまな視点からアプローチし、充実した特集が組めそうです。サヨナラ公演『桜華に舞え』『ロマンス!!(Romance)』は8月26日から宝塚大劇場で開幕しましたが、評判は上々、チケットも全期間S席はほぼ完売ということで、公演自体も大いに盛り上がりそうです。『34』の発売日は東京公演千秋楽の11日後。北翔・妃海サヨナラの興奮がさめやらないなかで、2人のファンにも格好のスーベニールになることでしょう。

 それとは別に、『34』にはスペシャルな寄稿記事が2つあります。今回はそのひとつを紹介しましょう。元毎日放送事業局長の宮田達夫氏による「天津乙女さんとの想い出」がそれです。宮田氏は、1970年代から90年代までの報道局記者時代に宝塚歌劇の取材を担当しました。トップスターのサヨナラ千秋楽の模様をニュース番組で生中継したり、話題作の稽古場からスターのインタビュー取材をするなど、関西テレビの名物記者・丸山巌氏とともに宝塚歌劇をテレビニュースの素材として積極的に取り上げ、宝塚歌劇の知名度を高めるとともに一般視聴者の理解を深めた功労者の一人です。現在は、宝塚が自前でCS専門チャンネルをもったことから地上波の取材を歓迎せず、テレビ局にも宝塚歌劇に対する理解者がいなくなり、こういう放送は皆無になっています。
 その宮田氏とお会いする機会があり、『33』をお見せしたところ、「今年は天津乙女さんが亡くなって36年。僕は栄子さん〔天津さんの愛称〕を取材したことがあるんだけれど、それを書いてみようか」といううれしいお話。天津さんといえば、宝塚草創期から戦後にかけての大スター。“女六代目”といわれた日舞の名手ですが、その舞台姿を生で見ている人はもう少数になってきました。かくいう私も『朱雀門の鬼』(花組、1977年)を見て、そのピンと張り詰めた台詞の声ときびきびした動きに大いに感動した覚えがあるくらいです。宝塚バウホールで営まれた葬儀の取材をしたのですが、実際に取材したことはありません。
 宝塚も100周年が過ぎ、そろそろ何かの形で歴史をきちんと振り返ったものも必要かなあと思っていたのですが、作品や人と関係がない事象についてのこむずかしいものは『イズム』向きではないし、と思っていた矢先のことだったので、ぜひお願いしたいと思いました。「とりあえず書いてください。それから考えます」みたいな返事をしたところ、数日後にさっそく原稿がメールで送られてきました。原稿は、稽古場での天津さんへのインタビューの様子と芸歴60周年記念パーティーのエピソードなどがつづられています。天津さんの飾らない素顔が生き生きと伝わり、そこに天津さんがいるような錯覚を覚えるほどです。天津さんへのインタビューの様子など、いまや書ける人はそういません。さっそく編集会議でも了解を得て『34』のスペシャルレポートとなった次第。『宝塚イズム』ならではの貴重なインタビュー記事をお楽しみください。天津さんの葬儀は神式だったため仏式で数えることはないのですが、37回忌にふさわしい企画になったと思っています。

 さて、宝塚歌劇ですが、宝塚大劇場では宙組によるミュージカル『エリザベート――愛と死の輪舞』が千秋楽を迎えました。夏休みと重なってチケットは全期間前売りで完売していて、数少ない当日券を手に入れようとゲート前には連日早朝から長蛇の列ができる盛況ぶりです。初演以来20周年を迎えた『エリザベート』の変わらない人気を証明しています。トップスターの朝夏まなとの個性に合わせ、黄泉の帝王トートがウィーンの原典にそった現代的かつクールなつくりとなり、その評価は賛否両論ですが、作品的なレベルの高さは抜きんでていて、いまや宝塚の財産といっていいでしょう。公演評には多くの執筆者の手が挙がっています。どんな切り口の評が集まるかこれも楽しみです。12月の発売までいましばらくお待ちください。

『宝塚イズム』について
『宝塚イズム』は「愛がある在野の宝塚批評本」として、6月1日・12月1日の年2回刊行している書籍です。2007年から刊行を始め、2016年8月現在で『33』まで出版しています。宝塚歌劇団の公演評はもちろん、宝塚OGが出演している舞台の公演評などを所収して、幅広い年代のファンに楽しんでいただいています。
170ページ程度/A5判・並製/定価1600円+税

 

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本書の敵はディズニーマニアとディズニー? ――『ディズニーランドの社会学――脱ディズニー化するTDR』を書いて

新井克弥

 本書の執筆については、2つの「恐れる読者」を想定した。そして、これへの対応にかなりの時間を費やした。

 1つは本書でDヲタと表記したディズニーマニアの一群だ。彼らにとってディズニー世界は自らのアイデンティティーのよりどころ、そしてTDR(東京ディズニーランド+東京ディズニーシー)は、それを確認しに向かう聖地。この部分に、いわば「ツッコミ」を入れているのが本書なので、必然的に彼らのアイデンティティーに抵触することになる。アイデンティティー=自己同一性という言葉が示すように、これらディズニー世界は彼らの人格を反映する、あるいはディズニーのことは自分のことというふうに認識している(ただし、膨大なディズニー情報から自らにとって親和性が高いものを抽出して、自分だけのディズニー=マイディズニーを構築しているのだけど)。そのために、TDRにツッコミを入れることは、筆者の意図の有無にかかわらず、結果として彼らの存在や人格にツッコミを入れることにもなる。
 当然、TDRが批判的に書かれていると受け取ればDヲタは傷つくわけで、そうなると一挙に反撃ののろしが上がることが想定される。その際の典型的な反撃法は内容のトリビアルなところに着目し、そこにツッコミを入れるというものだ。具体的には表記や事実関係の誤りへの指摘という形をとる。細部の誤りを指摘し、「こんなことさえ間違えているから、この筆者が書いていることはデタラメだ」と、細部の誤りを槍玉にあげながら、全体、とりわけ展開そのものを否定するやり方で、このパターンは筆者に対するブログのコメントでさんざん経験している。とにかく、彼らは知識がハンパではないので難敵ではある。
 書き手としては、当たり前だが中身をちゃんと読んでもらいたい。そこで、こうした指摘をできるだけ封じようと、2つの側面についてかなりの時間を割くことにした。1つは「事実関係の確認」。筆者とディズニーの関わりは50年に及んでいて、本書ではこの間の記憶をたどるかたちでの表記をいくつか含んでいるが、自分の記憶のなかで確認がとれていない内容については、最終的にすべて掲載を諦めた。例えば1983年のディズニーランドの開園と同時にプロモーションの一環としてディズニーアニメの短篇がテレビ放映された際、番組のCMのなかに松田聖子が登場するものがあったのだけれど、今回、本書を記すまで、このCMは服部セイコー(現セイコーホールディングス)の時計と思い込んでいたのだ。これは当時、廉価ブランドとして同社がALBAを発表し、このキャラクターに松田(「聖子のセイコー」というわけ)を起用していたからだ。ところがあらためて調べてみると、これがなんと靴の月星(現ムーンスター)だった。人間の記憶などあてにならないものだ。

 もう1つは、ディズニーに関わる名称の表記だ。ディズニー世界には膨大な語彙が広がっている。基本的に横文字のカタカナ化なのでスペースに該当する部分を「・」で結べばいいと考えたいのだが、事はそんなに甘くない。登記されている商標に沿っていなければならない。たとえば東京ディズニーシーのミュージカルが催される建物は「ブロードウェイ・ミュージックシアター」で、ミュージックとシアターの間に「・」がない。また、ここで上映されている「ビッグバンドビート」も、これで一文字という扱い。これらはすべてディズニー(TDR)のオフィシャルサイトに準拠して表記することにした。記載する項目が非常に多い分、このチェックだけでも大変な作業だった。
 とはいうものの、それでも最終的には何らかの間違いを指摘されるのは避けられないだろう(例えば、厳密なことを言えばTDRは2つのパークだけでなく、隣接する商店街イクスピアリなども含むのだけれど、こちらとしては、このへんはいくらなんでも省略してもいいでしょ?とは考えているのだが、こんなところにさえツッコミを入れてくる恐れがある)。

 もう1つの「恐れる読者」はディズニーカンパニー、そしてTDRを運営するオリエンタルランドだ。執筆にあたっては紙面をより視覚的で見やすくするために、当初かなりの量のイラストを挟んでいた。しかしこれに編集のほうから「待った」がかかる。「弁護士に相談したところ、著作権のことで裁判を起こされる可能性が高いので、原則カットでお願いします」。ということで、ディズニーに関わるイラストは本文中にパレードのフロートに関するものがたった1つ、しかも徹底的に単純化したものということで落ち着いた(117ページ参照)。カバーのイラストも○が3つとティアラの組み合わせ。この○3つはミッキーの顔と耳の比率とは微妙に異なっている。つまり、あくまで「○3つ」。そしてその上に描かれているのも、あくまで「ただのティアラ」。とはいうものの2つを並べると、一般読者には何を意味しているのかはわかってしまう寸法。「その手があったか!」と思わせるような巧妙なイラストに仕上げていただき、デザイナーには感謝している。

「恐れる読者」には、とにかく彼らを攻撃しているわけではまったくないこと、そしてディズニーという文化が、結果として現在日本でこのように受容されていること、さらにこの受容形態が今後とも続くことで、よりJapanオリジナルなものになっていくことを理解してもらえればと考えている。

 現在、年間3,000万人強の入場者を誇るTDRだが、その歴史は本家と比べればまだまだ。この先ずっとTDRが続き、ディズニー世界がもっと日常的な存在になったとき、言い換えれば、アメリカのように、夢中にならなくてもそこにあるものになったとき、ディズニー世界は完全に日本の伝統文化に組み入れられたことになるのだろう。そうなるのはまだ数十年先と筆者は考えている。

 

第6回 ストイカ・ミラノヴァ(Stoika Milanova、1945-、ブルガリア)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

ブルガリアの名花

 1945年8月5日、ブルガリア中部のプロヴディフの生まれ。父からヴァイオリンを教わり(母親とする文献もあるが、おそらく間違いだと思われる)、60年(または1961年)、ブルガリアのコンクールで優勝。67年、エリザベート王妃国際コンクールで第2位(このとき、ギドン・クレーメルが第3位、ジャン・ジャック・カントロフが第6位)。64年から69年までモスクワでダヴィッド・オイストラフに師事、その成果を問うために70年のカール・フレッシュ国際コンクールに参加し、見事に優勝を果たす。
 ミラノヴァの顔写真はLP、CDなどに多数見ることができるが、それらはいずれも伏し目がちな、中空を見つめたような、あるいは一抹の憂いを含んでいるようなものばかり。カラッと笑ったものは一枚もない。彼女の演奏から受ける印象も、ある意味これらの写真と共通するものがある。解釈の基本は全くのオーソドックスだ。これみよがしな大げさな身振りや、お涙頂戴式の場面などはどこにも見られない。ほっと心を落ち着けるような親しみやすさ、懐かしさのようなものがあり、決して派手ではないけれど、聴くほどに味わいが増してくる。
 手元にあるミラノヴァの演奏は大半がLPだが、唯一のCDはブルッフの『第1番』とグラズノフ、それぞれのヴァイオリン協奏曲である(日本語帯付きはANF-312、オリジナルはFidelio 1865)。オリジナルのCDには録音データはないが、日本語の帯には1984年10月、ソフィアでの収録とある。
 2曲とも緩急の差はそれほどつけず、おだやかに、ゆったりと歌い込んである。特にブルッフの第3楽章の、決して先を急がず、のびのびと舞っているところは印象的だ。伴奏はヴァジル・ステファノフ指揮、ブルガリア国立放送交響楽団。
 以下は、すべてLPでの試聴。あえて彼女の最高傑作をあげるとすれば、プロコフィエフの『第1番』『第2番』のヴァイオリン協奏曲だろう(Balkanton 1982703、録音:1970年?1972年?)。全体的にはきちんと明瞭に仕上げられているが、切れ味やしなやかさ、テンポのよさ、必要にして十分な気迫など、すべてにおいてバランスが適切だと納得させられる。これはやはり、オイストラフからの伝授が効いたのだろうか。伴奏はブルッフなどと同じくステファノフ指揮、ブルガリア国立放送響。
 個人的に愛着があるのは、ベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』である(Balkanton BCA104533、録音:不明、1970年代?)。この曲の女流演奏は、なぜだか魅惑的なものが多い。ローラ・ボベスコやジョコンダ・デ・ヴィートのように、強烈な個性をもつものもあるが、このミラノヴァのそれは女流らしいなだらかさ、柔らかさをもちながらも、もっと控えめな気品にあふれている。たとえば、第3楽章の最初の部分、アレグロに入った際、ほんの少しブレーキをかけて歌い始めるところなどに、この人の特徴が表れていると思う。指揮者、オーケストラはプロコフィエフと同じ。
 メンデルスゾーンもある。もちろん、超有名な方の協奏曲だ(Balkanton 1982704、録音:不明、1970年代?)。これは多数ある名盤のなかでは、いささか地味な部類に入るだろう。けれども、この化粧っ気のなさがまた彼女の持ち味であり、聴いて決して損はない。なお、このLPは第3楽章が第2面にカットされている。こんなふうにカッティングされたLPは初めてだった(余白はメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』序曲)。伴奏はプロコフィエフ、ベートーヴェンと同じ。
 室内楽では以下のものがある(同じくすべてLP)。1976年3月、ミラノヴァは来日した際に日本コロムビアにスタジオ録音をおこなっているが、これが結果的には彼女の最も音質がいいレコードとなった(日本コロムビア/デンオン OX-7070)。曲目はプロコフィエフの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』、ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』、ラヴェルの『ツィガーヌ』である。ピアノ伴奏はストイカの妹ドラ(Dora Milanova)。 
 ソナタ2曲はともに知情意の配分がとてもいい。驚くような解釈はないものの、しっかりと落ち着いた雰囲気がある。また、『ツィガーヌ』の最初の部分、たいていのヴァイオリニストは、それこそ松ヤニが飛び散るように激しく弾くのだが、ミラノヴァは決してそうしていない。力みを排し、可能なかぎり自然に楽器が鳴るようにしている。また、ぴたりと影のように寄り添っているドラのピアノも見事。これこそが、息の合ったアンサンブルなのだ。2016年8月現在、未CD化。
 フランクとドビュッシーのソナタを組み合わせたものもある(Duchesne DD-6095、録音:不明)。ドビュッシーはデンオン盤とダブっている。このLPは録音年が不明なので何とも言えないが、どうやらこちらのほうが先のような感じがする。もちろん、解釈は同じ(ピアノも同じくドラ・ミラノヴァ)。フランクは言うまでもなく大曲であり、名盤もひしめいている。そのなかにあって、彼女らのように慎ましく、穏やかに歌っている演奏は珍しいと思う。特に後半の第3楽章、第4楽章がそうだ。
 ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ全集』(「第1番」―「第3番」)という、ミラノヴァの唯一のまとまった録音がある(Harmonia mundi HMU-115-6、録音:不明)。これはBalkantonとの共同制作のようだ。これまた姉妹のデュオであり、ミラノヴァの芸風と作品内容がよく合っていて、見逃せない逸品だろう。不思議なのは、「第1番」と「第2番」は明らかにモノーラル(LPボックス。解説書とレーベルにはステレオの文字はない)。「第3番」はかろうじて広がりがあるステレオであり、3曲のなかでは音質に最ものびがある。第4面にはVladislav Grigorovというホルン奏者とのブラームスの「ホルン三重奏曲」が収録されている。音質は「第3番」のソナタと似ていて、演奏もすばらしい。普通なら、「F.A.Eソナタ」とか「ハンガリー舞曲」とかが第4面にきそうだが、「ホルン三重奏曲」が入っているところをみると、これはレコード用の録音ではなく、放送用のそれを転用したものではないか。
 妹ドラではなく、マルコム・フレージャーと録音したブラームスとシューマンの、それぞれ『ヴァイオリン・ソナタ第1番』がある(BASF KBB-21392、録音:不明、1972年頃?)。ブラームスの『第1番』は前出のハルモニア・ムンディ盤とダブっている。音はこちらのほうがいいが(ステレオ)、全体の出来は妹との共演のほうがいいような気がする。単に腕前を比較するならば、フレージャーはドラよりも上だろう。しかし、姉妹の共演は一心同体のような親密さがあり、その点でフレージャーはそこまでいっていない。
 このLPでは聴きものはシューマンだ。このふつふつと沸き上がるようなロマンは、ミラノヴァにぴったりだ。ピアノがドラだったら、さらに味わいが増したと思うが、でも十分に聴き応えがある。
 あと、参考としてヴィヴァルディの『四季』(Balkanton BCA-1250、録音:1970年12月、ブルガリア・コンサート・ホール)をあげておく。このLPは珍しく録音データが記されているが、音がよくない。風呂場のような、あるいはピンぼけの写真のような、実体が捉えづらい劣悪な音質なのだ。全体の解釈はごく普通。ミラノヴァのソロは安定し、巧く歌っていると思うが、参考記録の域を出ない。伴奏はワシリー・カサンディエフ指揮、ソフィア・ソロイスツ。

 

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石井敦先生に捧ぐ ――『人物でたどる日本の図書館の歴史』を書いて

小川 徹/奥泉和久/小黒浩司

 近代日本図書館史研究の先駆者である石井敦は、いまから20年ほど前に『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』(1995年)という本を自費出版した。石井はその「まえがき」で、同書を編んだ目的を次のように述べている。

    個々の図書館でひたすら利用者へのサービスに尽してきた人、資料の重要性を深く認識し、周囲の無理解にもめげず、散逸しそうな資料を発掘し、収集し、組織化してきた人たちなど、100年以上の歴史をもつ日本の図書館界にはたくさんいたのである。こういう先輩たちの仕事をもっと明らかにし、司書の社会的評価を獲得すると共に、これから図書館員を目指す人たちを増やしたい。また図書館にこういう専門的な人が必要なことを証明したい。

 石井はさらに次のようにも述べているが、それは彼の図書館史研究が、図書館とそこで働く人々に対する敬意によって立つものであることを示している。

    もっと積極的に先輩たちの業績を見直し、どれだけ地域の文化発展に寄与してきたか、学生や研究者たちのために役立ってきたか、同業者として評価すべきだろう。自分たちの先輩の仕事を無視することは、まさに天に唾するもの、自らの仕事の無視でもある。自分の仕事に誇りをもつならば、先輩たちの仕事にも同様、目を向けて然るべきだろう。今日からみれば、無意味に見える仕事も、当時の厳しい環境の中では心血を注いで取組んだものもあったこと、そこには利用者への限りないサービス精神の発露していたこと、資料(書物)の社会的価値を洞察し、信念をもって官憲から守ってきたことなどなど、丹念に掘り起こし、再評価すべきだと思う。

 今日、図書館をめぐる環境には厳しいものがある。それだけに、地域社会のなかに図書館を定着させようとした先人の努力の跡を掘り起こし、そこから何かを学び取る作業をゆるがせにしてはいけないと考える。
 私たち3人が『人物でたどる日本の図書館の歴史』をまとめた原点はここにある。その思いを汲み取ってくだされば幸いである。

 

青春の記録は苦悩に満ちている ――『80年代音楽に恋して』を書いて

落合真司

 1980年代は、わたしが高校生・大学生として過ごした貴重な時間。
 ネットもスマホもない時代のきらめいた青春の日々。
 その青春は常に音楽とともにあった。

 いきなり格好をつけて3行書いてみたが、拙著の「あとがき」あるいは「執筆裏話」として書こうとすると、もう苦悩しかないので、格好などつけず正直に苦悩のメイキング・エピソードを綴っていく。

《苦悩1》
 7年ぶりの出版だ。編集に関わる仕事はしていたものの、専門学校の講師やデザインの仕事に専念していたため、完全なブランクと言える。スポーツ選手が引退してから7年後に復帰するのがどれだけ大変か想像してもらいたい。とにかく書けないのだ。「えっと、原稿ってどうやって書いていたんだっけ?」という状態。「もう終わったな、自分」と毎日へこんで病んで自暴自棄になったりもした。
 超人的なスピードで原稿を書きまくって多数のヒット作を生み出している西尾維新先生は絶対に現在の人じゃない、きっと未来人で時間をコントロールするテクノロジーをもっているんだ、とバカなことを考えて自分を無理やり納得させた。10分もしないうちに再び自己嫌悪に陥るのだが。
 それでも少しずつ書かなければ本当に人として終わってしまいそうなので、キーボードをカタカタ叩いてみる。10分原稿を書いて50分休むというダメ人間。無駄に部屋の掃除を始めたりマンガを読んだりするクズ人間。
 気持ちが乗ってすらすら書けるときもあるが、あるアーティストのデビュー・アルバムについて書こうと思うと、当然あらためて聴き直すことになる。じっくり何度も聴く。別のアルバムも聴いてみる。気がつくと何時間もたっている。きょうはこれで終わりにしよう。言うまでもなく翌日もこのループ。

《苦悩2》
 ずっと以前、「神戸新聞」に「愛しの80年代」というタイトルでコラムを書いたことがある。それが思った以上に好評だった。「あ、これはいけるかも」と手応えを感じたが、オヤジの(昔はよかった的な)昔話ほどつまらないものはない。だからそういう書き方は避けて、しっかり時代背景と音楽をリンクさせようとする。
 ところが、どんなに調べて分析して考えても、時代性と音楽性に密接な関係が見えてこない。どうしよう。ますます原稿が進まなくなる。

《苦悩3》
 わが青春の80年代。ネタには困らない。そう思っていたが、本当にたくさんのことがあったのにうまく思い出せない。高校生のギャグマンガを描いているマンガ家が、「高校時代にバカなことをたくさんしたはずなのになかなか思い出せず、ネタがなくて困っている」と語っていたことがあったが、まさにそれ! 原稿は依然として進まず。

《苦悩4》
 レコードのジャケットを掲載することになった。スキャンするために探してみるが見つからない。見つかっても掲載したいアルバムではないものが出てくる。
 多くの音楽ファンはそうだと思うが、愛聴していたレコードがCD化された時点でCDを買うので、それまでのレコードは押し入れの奥のほうにしまい込んでしまったりすると思う。引っ越しを繰り返し、やがてレコードは行方不明になる。わたしも同じである。
 できればCDではなくレコードのジャケットを掲載したい。そこで、中古レコード店やネットオークションを探し回って手に入れることにした。これが意外にも高額なのだ。300円ほどで買えるだろうと思っていたら、定価よりも高い値がついていることもあり、とんだ出費になってしまった。
 これまた多くの人が経験すると思うが、ネットで何かを探していると、あっという間に時間が過ぎてしまう。つまり、そういうことだ。原稿はまったく進まない。

《苦悩5》
 気がつくと3年がたっていた。やっと書き上がった。読み直して愕然。書き始めた頃と最近とで文章のテイストが変わっているではないか。書き直しかぁ、ぞっとするなぁ。
 また、80年代音楽は自分にとって結局何だったのか、クリーンヒットな答えが見つからないまま編集作業が進み、再校の段階でやっと書き直すという危険な行為に出てしまう。
 
《苦悩の果ての感謝》
 原稿もまともに書けないくせに、装丁を自分でやりたいと申し出てしまうバカな自分。
 だが、すでに構想はあった。デザインの専門学校で進級制作を担当したとき、80年代風のすてきなイラストを描く学生がいた。オタク系ネット世界ではそこそこ有名な絵師だったその学生にカバーイラストをお願いしようと思い、久しぶりに連絡を入れてみた。卒業して仕事をしているはずなので、忙しくて描いてくれないかもしれないが、まあダメ元で。すると、絵の活動をしながら、実はまだ卒業せずに学校に残っているとのこと(同じ学校にいて顔を合わせない不思議)。よし、これは描いてくれるかも。
 おかげですてきな装丁になった。
 そして、こんなダメ人間なわたしに付き合ってくれた青弓社の矢野さんや編集者、営業のおかげで、やっと今度こそ本当に完成した。「本を一冊完成させるってこんなに大変なんだ」とあらためて思い知り、同時に多くの人に感謝する本になった。ありがとうございました。

 

第5回 ステファン・ルーハ(Stefan Ruha、1932-、ルーマニア)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

ルーマニアのパガニーニ
 
 ステファン・ルーハについては、詳しいことが全くわからない。1932年生まれだが、どうやらまだ存命であるようだ。具体的な情報としては58年の第1回チャイコフスキー・コンクール(言うまでもなく、クライヴァーン騒動だったとき)でヴァイオリン部門の第3位(上位8位の入賞者のうち6人が旧ソビエト連邦勢)、翌59年のロン=ティボー・コンクールで第2位、ジョルジュ・エネスコ・コンクールでは優勝(年不明)している。60年11月には来日しているらしい。
 ルーハのレコードはルーマニアのエレクト・レコードから出ていて、一部CD化もされているが、新品のCDはほとんど見かけず、中古のLPは1枚1,000円から3,000円程度で購入できる。ヴァイオリニストのLPというと、ときにとんでもない価格のものもあるが、ルーハにはそれがなく、集めやすい。ただし、録音年代は全くわからない。以下に紹介するものはすべてステレオ録音で、1960年代後半から70年代に収録されたと推測されている。
 最初に聴いたのはチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』(ミルチェア・バサラブ指揮、ルーマニア放送交響楽団、Electrecord STM-ECE01088)。第1楽章、序奏のあと独奏が出てくるが、ここをわずかに聴いただけでも、ただ者ではないことが明らかだ。音はピンと張って輝かしく、ヴィブラートは大きめだが、テンポの揺らし方が非常にうまく、和音の弾き方も独特だ。また、カデンツァをこれだけ多彩に弾いた例も珍しい。
 第2楽章は非常に大らかに歌っていて、その独奏は遠くまでもよく響き渡るような、伸びのよさも感じさせる。第3楽章もその安定感と音の粒立ちのよさ、そしてリズムの切れは第一級である。
 次のブラームスは、ちょっと驚きの演奏だ(エミール・シモン指揮、クルジュ=ナポカ・フィルハーモニー、Electrecord ST-ECE01381)。まず、序奏がかなり遅いので、期待感が増してくる。そしてルーハの登場。ものすごい気迫だ。まるで敵陣に乗り込むサムライのよう。こんな厳しい開始を告げたヴァイオリニストは、過去にあっただろうか。むろん、全編にわたり、この雰囲気はずっと持続させられる。また、ちょうど曲の半ばで低い音域で重音を弾く個所があるが、ここはベートーヴェンの『第9交響曲』の第4楽章冒頭の低弦のように、何かをしゃべりかけているかのようだった。さらに、チャイコフスキー同様、カデンツァがとても濃厚である(弾いているのは最も一般的な、ヨアヒム)。
 第2楽章もルーハのソロは実に力強く、輝かしい。実際の彼の音量は録音ではわからないが、きっと大きなホールの隅々まで届いていたのだろう。
 第3楽章は、これまで聴いていたなかでも最も遅い部類だ。全体の構成はがっちりとしていて、気迫、輝かしさ、伸びやかさのバランスが見事にとれている。ルーハを知りたければ、まず、このブラームスを聴くことだ。
 ヴィヴァルディの『四季』(ミルチェア・クリステスク指揮、クルジュ=ナポカ・フィルハーモニー室内管弦楽団、Electrecord ST-ECE0564)も聴いた。全体の解釈は、やや遅めのテンポを基調として、伴奏もたっぷりと鳴らされている。要するに、古楽器奏法とは反対の、昔ながらの演奏である。
 ルーハのソロはここでも冴え渡っていて、堂々として、ヒバリのようにさえずっている。たとえば『秋』の第1楽章のような切れ味の鋭さは、彼が並みの奏者ではない証拠でもある。
 ヴュータンの『ヴァイオリン協奏曲第4番』『第5番』(エルヴィン・アチェル指揮、Electrecord ST-ECE03674)も手元にあるが、これは参考資料だ。というのは、このLP、見た目には全く問題なくきれいなのだが、実際にかけてみると、針と溝がピタッと合わないようなノイズが盛大な音で再生されるからだ。このようなLPにはときどき遭遇するのだが、近々、別のLPを手に入れてみたい。演奏はとてもすばらしいと思う。
 エレクトレコードの音質はお世辞にもいいとはいえないので、その点ではちょっと損をしているが、虚心なく聴く人にはルーハの実力は明らかになるだろう。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
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植民地の図書館事業を再考するために ――『図書館をめぐる日中の近代』を書いて

小黒浩司

 本書の執筆・校正と並行して、戦前期の図書館用品のカタログを復刻する計画を進めてきた。こちらは現在その解題などの校正中だが、ゲラを見ていてあらためて気付いたことがある。
 図書館用品店のカタログには、それぞれの用品類を採用した図書館などの名称が写真入りで多く掲載されているが、その相当部分を植民地の図書館が占めている。植民地では図書館事業の改善に意欲的で、それが新しい用品の導入につながったと考えられる。植民地の図書館事業が内地に比べて「進んでいた」ことの一つの表れなのかもしれない。
 一方、用品店は内地の図書館への売り込みに苦労していた。そこでその打開策として植民地の図書館に積極的な攻勢をかけた結果でもあるのだろう。それでは、内地での販売がなぜ振るわなかったのだろうか。その理由としては次のようなことが考えられる。
 例えば木製の目録カードケースであれば、わざわざ用品店に注文しなくても、近所の木工業者に作らせたほうが手っ取り早いし、何かと融通がきいた。しかも総じて安上がりだった。
 品質の面でも問題はなかった。日本には伝統的な技術、高度な技術を有する木工業者(指物師)が多数存在していた。船箪笥などを見ればその優れた技がわかるだろう。地元業者も、専門店に勝るとも劣らない製品をたやすく作ることができたのである。
 さらには従来からの出入り業者への配慮も必要だろうし、地域の産業の保護・振興も考えなければならなかっただろう。新興のよそ者の用品店への発注は、さまざまな点から異例だったと考えられる。
 これに対して、植民地には「しがらみ」がなかった(もちろん、植民地でも本来は現地企業の育成を図らなければならないはずなのだが)。図書館は購入したいと思う用品を買うことができた。「金に糸目を付けない」経営が可能だったのである。
 図書館用品店は植民地の図書館との取引によって利益を確保し、技術を高めることができた。この国の図書館用品業の黎明期を支え、その後の発展の基礎を築いたのは外地の図書館だった。それは単に図書館用品だけではなく、この国の近代の産業全体の構図だろうし、他の列強諸国にもある程度共通していた事情だろう。
 植民地の図書館事業に対して、日本の植民地経営総体に対して、肯定的な評価をする人たちが少なくない。しかし、そうした見方こそがこの国の「近代」に対する偏向した見方であり、世界史的な視点に欠けた論といえるだろう。

 

第3回 事例2 作り手とファンの交差する視線の先――2.5次元舞台へ/からの欲望

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

双方向性メディアの発達と「2.5次元」舞台

 1950年代の地上波テレビの登場、60年代のカラーテレビの普及、80年代の家庭用ビデオデッキの登場・普及、90年代のパソコン通信による双方向性コミュニケーションメディアの登場から2000年代のインターネットの急速な普及、ソーシャルメディアの発展、と目まぐるしく変化するメディア環境は、私たちの現実認識やコミュニケーション形態に大いなる影響を与えてきた。そして10年代の現在、私たちはスマートフォンなどを通じてモバイルサイバー空間に常時接続状態でいることが可能だ。バーチャルリアリティー技術も向上し、一昔前までは荒く、区別が明確だったCG画面と実写映像の混合も、いまはわからないくらいに「リアル」で、私たちは知らないうちに加工された映像にだまされている。こうしたメディア環境の著しい変化によって、私的領域と公共領域は混合し、いまではそれを自明なものとして私たちは生活している。
 漫画、アニメ、ゲームなど、視覚情報をともなった一次創作物を原作にした舞台という限定的な意味での2.5次元(以下、2.5Dと略記)舞台には、スター重視という側面は否めないものの、独自の様式で視覚的再現性を内包していた宝塚歌劇団の『ベルサイユのばら』(1974年)や、SMAP主演の『聖闘士星矢』(1991年)があった。視覚的再現性に聴覚的再現性が加わった舞台では、アニメ版の主役(両津勘吉)を演じたラサール石井が同じ役で演じたミュージカル『こちら亀有前派出所』(1999―2006年)シリーズ(1)や、アニメ声優たちが担当キャラクターを演じたミュージカル『ハンター×ハンター』(2000―04年)シリーズ(2)など、前ミュージカル『テニスの王子様』(以下、『テニミュ』と略記)期の2.5Dミュージカルは少なくなかった。しかし、2000年代後半からの2.5D舞台の爆発的人気には、上述したメディアの発達が大きく寄与している。

参加型文化とニューメディア

 第1回でも言及したが、こうしたメディアの発達とファンのコミュニケーション形態を研究したヘンリー・ジェンキンスは、1994年の著書で、1960年代からのテレビというメディアの普及にともない見られるようになった、ファン同士が二次創作を通じて横のつながりを形成(ネットワーク化)する様子を、「参加型文化」と呼んだ。しかし現在では、デジタル技術、インターネット、ソーシャルメディアの発達によって、その概念はより拡大した意味を内包し、ファンたちの積極的な参加によって成立する文化としての意味合いが強い。2.5D舞台のまわりでよく見られる光景といえば、鑑賞する側が関連情報をいち早く収集し(たとえば、新作舞台の情報やキャストのつぶやきなど)、SNSなどで不特定多数のファンに拡散し、舞台上のキャスト(役者)の体にキャラクターを幻視した体験を、舞台の休憩中に情報発信し、また多様な読み込みによってファン同士をネットワーク化しているということだ。こうした参加型文化では、参加者(傍観者であるオーディエンスでなく、積極的に参加するプレイヤー)のはたらきかけが舞台パフォーマンスの一部なのである。
 そうしたファンたちと制作者たちの向かう先はどこなのか。交差する視線のなかで、どのような欲望が観察されるのか。今回は、『テニミュ』の熱心な若い女性ファンたちの声と、2.5D舞台に新たな旋風を巻き起こしているハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』の新進気鋭の演出家ウォーリー木下氏のインタビューを紹介し、ファンと制作者の交差する視点について考えてみたい。

ファン座談会から

『テニミュ』の公演では、終劇後、出口でお土産が配られる。シールだったり、生写真だったりと毎回趣向がこらされたお土産は、ファンの楽しみの一つである。リピーター(特に、すべての公演に皆勤することを「全通」という)は、当然同じものを引き当てる確率が高く、公演後の東京ドームシティ出口付近での物品トレードは風物詩になっている(3)。
 筆者は、トレードで知り合ったファンや、スノーボール式に知り合ったファンたちを集め、2016年3月に座談会をおこなった。参加者は5人。日本人4人(あやかさん、えみさん、さやかさん、みふさん)は当時20代前半、北アメリカ出身の外国人(ジルさん)は20代後半だった。特にジルさんは、自国で『テニミュ』のDVDを友人から借りて惚れ込み、ついには『テニミュ』を毎回観たいがために来日を決め、日本で仕事をしているというツワモノである。

座談会の様子

きっかけは「ニコ動」

 まず、5人に『テニミュ』はじめ2.5D舞台/ミュージカルにハマったきっかけを聞いた。すると口をそろえたように、日本人参加者は「ニコニコ動画」(以下、「ニコ動」と略記)と答えた。ジルさんだけはDVD鑑賞がきっかけだったが、『テニミュ』開始当時の2000年代前半にまだ中学生だった参加者にとって、「ニコ動」は身近な情報収集ツールだった。特に初期の『テニミュ』に対しては、「空耳」と呼ばれる「~のように聞こえる」架空のセリフの字幕をつけて楽しむファンの二次創作が盛んだった。滑舌の悪さやオーバーリアクションの面白さから、こうした“ファンが参加する余地”が生まれ、それにほかのユーザーがコメントをつけることで、ますますファン層が広がり、最終的に“本物”を観に劇場に行って、ハマってしまうのだという。えみさんは、「劇団四季(のミュージカル)をよく観にいっていたが、空耳がはやっていて面白かったので、“お笑い”を見にいく感覚で行ってみたら面白くてハマった」と告白している。当然、DVDを勝手にアップするのは違法だが、こうしたストリーミングサイト上の二次創作のシェアが、原作『テニスの王子様』(許斐剛、「週刊少年ジャンプ」1999―2008年、集英社)やアニメのファン以外や、公演に足を運べない人など、『テニミュ』の裾野を広げるのに担った役割は大きい。実際、原作ファンで地方在住の高校生だったみふさんは、公演をなかなか観にいけず、ひたすら「ニコ動」で情報を追いかけていたという。

多メディア展開による複合的快楽

 キャラクターのファンだったり、キャスト(=役者)自体のファンだったりと、5人の快楽のツボはさまざまである。それを可能にしているのが、多メディアによる配信と舞台裏映像である。本公演以外に、バックステージと呼ばれる、舞台裏の様子を収めたDVD特典などで、キャラクターを演じるキャストの素顔を垣間見ることができる。ファンは、キャラクターを彼らに幻視し、AくんとBくんは、物語上は他校だけど、楽屋では仲がいい――つまり、物語と現実のギャップを楽しむことや、「バックステージを見て、Cくんがいじめられているのがカワイイと思った」(さやかさん)など、キャストの若い男性たちがワイワイやっている姿を、外から眺めて楽しむこともできる。ライブビューイングと呼ばれる、公演の生中継を映画館などで映像として観る形式もある。ライブビューイングの楽しみの一つは、自宅でテレビをみんなで観ているような気軽さだという。「飲食をしながら、ツッコミをいれながら、みんなで楽しめる気軽さがいい」(ジルさん)というような、本公演では本番中声を発したり、飲食することができないが、ライブビューイングではそれが可能になり、しかもほかの観客=ファンと一緒に、サイリウムを振って応援する一体感がうれしいという。実際あやかさんは、キングブレードと呼ばれるサイリウムを座談会に持参、応援の様子を再現してくれた。ファンにとって、キャラクターのシンボルカラーを覚え、キャラクターの登場に合わせて色を変えることは、キャラクター/キャストとの一体感も味わえる瞬間なのだ。

同担拒否がない比較的平和なコミュニティー(?)

「同担拒否がないので、1人で劇場に行っても、キャラの人形やグッズを持っている人を見ると話しかけられるし、仲良くなれる」(みふさん)。
 同担拒否とは、同じ推しメンを好きな人同士は仲が悪い(一緒にいるのをいやがる)ということを指す。“同じ担当の人を拒否する”という意味で、同担拒否なわけだ。同担拒否は、たとえばジャニーズファンの間ではすでに自明になっているようだが、2.5D舞台/ミュージカルではキャラクターという偶像が介在していることが幸いして同担拒否が起こりにくい環境になっているのかもしれない。みふさんの言葉からは、同じ嗜好をもった者同士が集まる場所という安心感が読み取れる(ただし、同担拒否がまったくないわけではない。成熟したコミュニティーでは、排除も起こりやすい。この問題は改めて議論していきたい)。

ファンの視線の先に

 紙数の関係からすべてを紹介できないが、再現性の高さに対する賞賛やチーム男子へのまなざしを共有し、多メディアで展開されるコンテンツとして、『テニミュ』や2.5D舞台/ミュージカルを楽しむファンたちの姿が垣間見えることは確かだろう。『テニミュ』はとりわけ10年以上の歴史から、バックステージ、ライブビューイング、『ドリームライブ』(本公演以外に展開されるコンサートショーのようなもの)、運動会など多くの実績があるが、昨今の2.5D舞台/ミュージカルでは、本公演以外にライブビューイングや、DVD・BD(ブルーレイディスク)にバックステージやメーキング(稽古の様子)映像を含めるものが多くなっている。
 最初は再現性やチーム男子へのまなざしを重視するファンだが、目が肥えてくるとキャストの熱がこもった演技、舞台装置、物語の演出方法など、キャラクター以外の細部に目がいくようになる。さらに、「推しキャストができたことで、その人が出演するほかの演劇も観にいくようになり、趣味が広がった」(さやかさん)という意見もあり、演劇自体への興味にもつながっている。
 いままで、オリジナルの演劇に対してどこか劣位に置かれていた2.5D舞台/ミュージカルだが、ファンの2.5Dからいわゆる普通の演劇への流れとほぼ同時に、小劇場出身の演出家が2.5D舞台に参加することで、興味深い化学変化と交流が起こっている。

ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”

 第2回で、2.5Dミュージカルに関して藤原麻優子(4)の議論を紹介し、「未完成の美」という要素に言及したが、第1回でも述べたとおり、2.5D舞台は多様化していて、「ジャンル」として規定することがますます困難になってきている。実際筆者は、『テニミュ』系ミュージカルでの①再現性、②チーム男子、③連載上演、に限りなく近いと思い観劇しにいき、いい意味で期待を見事に裏切られた2.5D舞台を体験した。2015年秋に初演し、その人気ゆえに早くも2016年春に再演したハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”(以下、演劇『ハイキュー!!』と略記)である。
 原作『ハイキュー!!』(〔ジャンプコミックス〕、集英社、2012年―)は、「小さな巨人」に憧れて宮城県立烏野高校バレーボール部に入部した主人公・日向翔陽を中心にした高校バレーボール選手たちの青春を描く、古舘春一の漫画である。テレビアニメ化(2014年―)、ゲーム化(2014、16年)など、広くメディアミックス展開もされている人気作品で、2015年に待望の舞台化となったわけである。演劇『ハイキュー!!』は、日向の中学生時代の体験と影山飛雄との出会いから、高校のバレー部入部を経て、強豪・青葉城西高校との試合などを描いている。
 演出は、エジンバラ演劇祭で5つ星を獲得するなど国内外で活躍する気鋭の演出家ウォーリー木下氏。脚本は、2.5D舞台では演劇『ハイキュー!!』のあと、舞台『黒子のバスケ』の脚本・演出も手がけている中屋敷法仁氏である。今回は、演出を手がけたウォーリー木下氏にお話をうかがうことができた。

2.5次元の地平の先へ――ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”の演出家ウォーリー木下さんに聞く

※文中にはいわゆるネタバレが含まれます。
※文中WKはウォーリー木下氏、ASは筆者の略称。

 まず、演劇『ハイキュー!!』で演出をされたウォーリー氏に、率直に2.5Dのイメージについてうかがうと、コンビニなどで2.5D関係の新聞を目にしたり、大阪の稽古場の近くでコスプレシューティング(撮影)している人々を見かけたりするという程度で、特に意識していなかったという。それならば、漫画『ハイキュー!!』の舞台化の依頼に戸惑いはなかったかうかがうと、「それはなかった」ときっぱり。

ウォーリー木下さん

WK:最初に「2.5Dミュージカル」の枠組みのなかで作りたいわけじゃなくて、(略)もっと画期的な、ウォーリーがやりたいと思っている、演劇のもう一歩先というか、演劇は演劇であるんだけども、現在進行形で進んでいるいろんなテクノロジーであるとか、メディアアートみたいなものと、人力を使ったもの(略)を『ハイキュー!!』でやらないか、っていう話だったんです。

 実際、プロジェクションマッピング、ライブカメラ、漫画のコマを使ったスチール、漫画のコマを画面分割に使って背後のスクリーンに投影……など、舞台上であらゆるテクノロジーが使用されている。「人間の身体=実体」が「漫画のコマ=虚構」と交じり合った映像は、実写映画のスクリーン上ではCG技術を使用すれば不可能ではない。しかし、演劇『ハイキュー!!』の卓越したところは、劇場という観客が内包された3次元の閉鎖空間で、身体性を感じる生身の役者の身体表現と、あらゆる種類の映像との巧妙なハイブリッドが展開し、不思議な異空間が演出されている点である。したがって、観客は3次元感覚(物理的な現実認識)と2次元感覚(想像的な虚構認識)をかろうじて隔てていた境界に対する認識が麻痺し、自分がいつのまにかその異空間に入り込んでいる感覚に陥る。しかも、テクノロジーを使った演出だけでなく、白いベールをかぶった黒子が、音楽に乗って日向のアタックのときの跳躍を支えて持ち上げるという、アナログ的な演出なども多数ちりばめられていて、まさに3次元と2次元を行ったり来たりする感覚に包まれるのだ。こうした漫画のコマを使用する意図や表現したかった思いをうかがってみた。

WK:漫画をテキストにして、舞台化しようって思ったときに、普段僕がやる作業としては、なんというか、手術みたいに1個1個取り出して、横に並列してばーって並べるんですよ。作業としては。(略)それをもとに役者と一緒に共同作業するんですけど、わりと僕、集団創作が多いんですよ。演出家が立って、右行って、左行ってとかってじゃなくて、俳優さんと一緒に、こういうものがあって、これをじゃあ、セリフで読んでみてほしい、もしくは逆にセリフで読まずに体で表現してほしい、っていうのもやったりとかする集団創作っていうのをやって、(略)その作業のなかで、漫画のコマ割りっていうのが、すごく興味が出てきちゃって、(略)いやこれはこのまま使ったほうが面白いって、あるとき思ったんですよ。なんでそう思ったのか記憶はあまりないんですけど、とにかく直感で思って、漫画のコマ割りのなかに、実際の役者のリアルな顔を、今回の再演の場合、生カメラで入れたりしてるんですけども[AS:あれはとても面白かったです]。要するにリズムなんですって、コマって。(略)じゃ、リズムであれば、演劇もリズムが8割くらいだと思っているので、リズムのなかで音が出てくれば、ドンって使い方すれば、何か新しいものにならないかなと思ってやってみました。だから、『ハイキュー!!』を舞台化するうえで、あのコマのリズムみたいなものとかデザインというものが、有効に生きるんじゃないかなという判断で、選択したうちの一つです。

解体作業、ポエトリー化、そして……

 ウォーリー氏はさらに、原作を「ピンセットで1枚1枚剥がすような」という解体作業、そして「いったん抽象化する」=“「ポエトリー」(詩情)化”し、「具体化」=再構築していく、という興味深い創作プロセスを語ってくださった。

WK:漫画を立体化したいわけでなくて、その漫画を演劇化したいわけなんですよ。演劇化するって何かっていうと、1回抽象化することだと思うんですよ。(略)たとえば、わかんないですけど、少年時代のもやもやした葛藤みたいなものがあったとして、この2人[日向と影山]がもしかしたら双子かもしれないと。同じお母さんから生まれてきた2人がいまこうなっているかもしれないと。……わかんないですよ、でもそうやって抽象化していくというか。たとえば、太陽と影。たとえば、彼が太陽で、彼が影だったら、その真ん中に誰かいるんじゃないか、つまり物体がないと影ができないじゃないかとか、そうやって1個1個、あえてポエトリーにしていくというか、ということを1回して、それをさらに具体化することで演劇ってできると僕は思っていて……

 おそらく、それは抽象的世界観を作り上げていく、まさに虚構を具象化していく緻密な作業なのだ。その結果として選ばれたテクノロジーの使用とアナログな身体表現のハイブリッドが絶妙な加減で、再演パンフレットでウォーリー氏が「『ハイキュー!!』の根っこに近づきたかった(5)」と言及しているとおり、“根っこ”というまさに根幹に流れる精神(ルビ:エーソス)を表現しているのだろう。
 また、ウォーリー氏は声についての演出は高低や速度以外は役者におまかせだったとのこと。アニメの声優の声はキャラクターを同定させるひとつの重要な要素だが、たとえ声が声優に似ていなくても、役者がキャラクターとしてすでに現前してしまっているのは、「『ハイキュー!!』の根っこ」を中心とした世界観が忠実に再現されているからだろう。実際、2.5Dものに特有の「○○君そっくり!」というファンの感想が「Twitter」で多く見受けられたので、声や動作をアニメに寄せている演出もされているかもしれない、という筆者の予測は見事に覆された。

1ミリ、1秒という計算された動き

 しかし、だからといって役者が完全に自由に表現しているというわけではないという。やはり、プロジェクションマッピングやライブカメラを成功させるには、非常に高度な技術が要求される。

WK:実は(舞台)『ハイキュー!!』って立ち位置とか、このカウントでここに立つとか、このカウント内でジャンプするとか、1ミリずれたらダメですっていう感じの制限がとても多い舞台で、役者にかかっているストレスは大きくて、まあ、さらに八百屋(6)だし、本物のボールも出てくるし、そういうふうにしたんですね。それは難しい決まりごとで毎回本番をやることで、つまり、手の抜ける本番にしたくないというか、ちょっとでも気が緩んだら事故るっていうのを全員が認識して(やってもらっています)……スポーツってそうじゃないですか。(略)
AS:緻密な計算があるんですね。
WK:そうなんです。(略)だからキャラクターが自由に見えるなかで、本当に100%なりきって演じてたら、絶対できないんですよ。っていうたぶんそれが、見てる側からすると、あの人たちは自由にやってるなあ、と逆に思われるんじゃないかと思うんですよ。本当に自由にやっていると、あんまり自由に見えない……なんか変な言い方ですけど。

 束縛があるからこそ、生き生きとしたキャラクターが現前する。あの不思議な空間は、抽象化(ポエトリー化)を通って具現化した世界観のなかで、緻密に計算された立ち位置やタイミングがすべて組み合わさったところで実現しているのだ。筆者が体験した(おそらく多くの観客も体験しただろう)舞台を観たときの緊張感と感動は、こうしたなかで生まれていた。

つねに予想を超えていく

 2.5D舞台/ミュージカルのファンの行動として、休憩や終演後すぐに感想をツイートするというのも一つの特徴だが、最後に、観客の反応についてうかがってみると、あまり見ないとのことだった。

WK:逆にお客さんが、次に音駒高校が登場したらマッピングでこんなことやるんだろうなとか、仮に書いていたとしたら、絶対それをしたくないと思うんですよ。だって、予想していたものが舞台上に出てきても、お客さんは何の感動もないし、だからたぶんある程度そこは超えていかないといけないと思うから、大変だなと思うんですけどね。

 私たちの予想を越えて進化する演劇『ハイキュー!!』。大千秋楽5月8日のライブビューイングで、新作ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“烏野、復活!”の発表がおこなわれた。今年の秋に、またあの不思議空間に迷い込める。

【謝辞】
ご多忙にもかかわらず、インタビューを快諾してくださったウォーリー木下様に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。また、関係者のみなさまに大変お世話になりました。心から感謝いたします。


(1)2016年には10年ぶりに新作が上演予定。
(2)ただし、担当キャラクター以外でキャストされた声優もいる。
(3)どの2.5D舞台でも、物販で中身がわからない缶バッチや生写真セットが販売されていることが多いが、同じものがかぶると公演前後のロビーや屋外でトレードが自然とおこなわれている。
(4)藤原麻優子「「なんで歌っちゃったんだろう?」――二・五次元ミュージカルとミュージカルの境界」「ユリイカ」2015年4月臨時増刊号、青土社、68―75ページ
(5)ハイパープロジェクション演劇『ハイキュー!!』“頂の景色”再演パンフレット、42ページ
(6)傾斜がついた舞台のこと。八百屋の店先の傾斜がついた台に野菜が並んだ様子から。

 

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