「ホームルーム」後の講師室にて――『アイドル論の教科書』を書いて

塚田修一

 本書では「ホームルーム」で講義を終えたので、ここでは、さしずめ「ホームルーム」後の講師室で、本書にまつわるこぼれ話を、というような雰囲気で書いてみたい。

 実は、本書の著者2人がそろって格闘していたものが2つある。
 まずは「経年変化」である。周知のように、アイドル文化は変化が早い。盛り込んだ最新のネタも、すぐに古くなってしまうのである。アイドル文化界隈の情報を定期的に仕入れながらの、記述のアップデート作業が私たちに付きまとった。
 もう一つが「距離感」だ。よく言われることだが、アイドルファンは、物理的にも、心理的にも、どこかでアイドルとの「距離感」を楽しんでいる。アイドル(文化)を論じる際にも「距離感」、つまり、どのようなスタンスで記述するかに頭を悩ませた。
 高踏的な論じ方は「鼻につく」(「学術論文」としてならば、それでいいのかもしれないが)。オタク的な知識や偏愛の披露では、「ツマラナイ」。さらに、教科書(参考書)というコンセプト上、読者が真似できない「名人芸」になってしまうのも避けなければならない。――アイドル文化を論じる、最適な「距離感」を模索して、私たちはあれこれ悩んだ。
 ぶっちゃけてしまえば、私たちはこれらを解決できたわけではない(いまだに格闘中である)。
 だが、暫定的な解決策として、本書では、「読者に積極的に委ねる」という形にしたつもりである。つまり、読者によって考えられ、埋められる「余白」とした、ということだ。――これが本書の重要な仕掛けである。
「経年変化」については、読者が各々アップデートして、「応用篇」をつむいでいってもらえるようにした。また「距離感」についてもやはり、読者によって書かれるべき「応用篇」を設定することで、読者の思考の参入を呼び込むかたちにして、「鼻につく」「ツマラナイ」「名人芸」――これらは要するに、読者が参入できないことに起因するものだ――をなんとか回避したつもりである。
 これを「読者に丸投げしている」とは捉えないでほしい。
 先述の暫定的解決策は、著者2人の、「余白」の必要性への敏感さから講じられたものだからだ。
 例えば、私たちは大学や予備校での講義の際にしばしば、ある問題の思考方法から正解までをすべて説明してしまうのではなく(その場合、実は教育的効果は低いはずだ)、思考方法を示したうえで、「あとは自分で考えてみなさい」と指導するときがある。私たちは、「すべてを説明すること」が、必ずしも最善手でないことを体得的に理解している。そして、生徒や学生にわざと考えさせる、あるいは判断を委ねることの「効用」を知っているのである。
 このようにして本書は、読者の手によって「余白」が埋められること、つまり読者によって「応用篇」が書かれることを想定した、少々奇妙なスタイルの「学術書」になっている。

 そういえば、先日、知り合いの研究者からこんな連絡をもらった。指導しているゼミの女子学生が、本書を発売日に購入し、「国語」講を参照しながら、「女性が女性アイドルを応援すること」をテーマに、「握手会におけるコミュニケーション」の会話分析をおこなっているという。さっそく、本書の「応用篇」が試みられているのだ。――これほどうれしい知らせはない。

 さて、2016年最大のアイドル関連ニュース(男女を問わず)といえば、SMAPの「解散」――「卒業」ではなく――だろう。私たちもやはり気になっている。
「解散」の時間モデルはどうなっているのだろうか。一応、「卒業」と同様の、〈線分〉の時間の〈終わり〉ということになるのだろうか。だが、それは「卒業」のように美化されたものでも、予期(期待)されたものでもないし、そもそもジャニーズのアイドルに「卒業」制度は存在しない。
 また、SMAPファンはどうなるのだろう? ファンたちは、キャンディーズ「微笑みがえし」のキャンペーンを彷彿とさせるような運動(「世界に一つだけの花」の購買運動など)をおこなっているが、「解散」を翻意させるまでには至らなさそうである。では、ファンたちはうまく「あがる」または「おりる」ことができるのだろうか――。そんなことをあれこれ考えているところである。

 

はじめに 連載を始めるにあたって

塚田修一(東京都市大学、大妻女子大学非常勤講師。共著に『アイドル論の教科書』〔青弓社〕ほか)

 どういう町なのか?何にゾッとしたのか?ってことを考えてみたんですが、16号線のあの場所には物語の発生する余地がないのかもしれないと思ったんですよ。(富田克也)(1)

 国道の研究を始めた。
 本リレーエッセーの執筆者である私たち——執筆順に、塚田修一、西田善行、後藤美緒、松下優一、丸山友美、鈴木智之、近森高明、佐幸信介、加藤宏——は、いま、『国道16号線スタディーズ』という書籍企画を準備している。
 それにしても、いぶかしがられるかもしれない。私たちは、交通や道路の専門家ではないからだ(私たちが専門にしているのは社会学である)。
 もう少し正確に言い直そう。私たちは国道16号線(以下、16号と略記)をめぐる〈社会〉の研究を始めた、と。
 この「16号」とは、神奈川県横須賀市から千葉県富津市を結ぶ、総延長約341キロの環状国道である。いわゆる「郊外」の都市を結びながら、首都圏をぐるりと囲むこの国道は、「東京環状」とも呼ばれている。

国道16号線
16号線、富津の始点=終点(2016年3月7日撮影)

「16号線的なるもの」

「国道16号線的郊外」という言い方がある。それは「ファミレスやジャスコなどの大型ショッピングセンター、ファストフードなどのロードサイドショップが軒を連ねている均質空間としての郊外(2)」を指す。
 事実、16号沿いにはまさにそのような光景が広がっている。大規模ショッピングモール、TSUTAYA、ブックオフ、ファミレス、紳士服のチェーン店……。それは、三浦展が「ファスト風土(3)」と呼んだ風景であり、また近森高明がレム・コールハースにならって「無印都市(4)」と呼んだものでもある。
 そこには、映画監督の富田克也に「物語の発生する余地がない」場所と語られるような空漠感が広がり、森山大道の写真集『ROUTE16』(アイセンシア、2004年)に切り取られているような、無機質な光景がある。
 このような、16号沿いに醸成されている光景および「空気感」のことを、「16号線的なるもの」と呼んでみることにしよう。
 この「16号線的なるもの」への社会学的関心と欲求が、私たちの研究の出発点である。
 だがしかし、この「物語の発生する余地がない」とまでいわれるこの「16号線的なるもの」を、私たちはどのようにして把握し、記述できるのだろうか。

2つのテレビ番組から

 ここで2つのテレビ番組を参照したい(これらの番組は、丸山友美によって詳細に検討されることになる)。
 1つは、NHK『ドキュメント72時間』の「オン・ザ・ロード 国道16号線の“幸福”論」(2014年6月13日放送)である。
 この番組では、72時間かけて16号を横須賀・走水から千葉・富津までたどり、道中、出会った人々にインタビューをおこなっている。「ホームレスの真似事」といって河原で生活をする男性や、一見不良っぽい17歳のカップル……。彼(女)らの話はどれも興味深い。だが、ここで注目しておきたいのは、この番組で映し出される風景や人物に対して、ある種の既視感(「ああ、これこれ!!」といった)を覚えてしまうことである。この既視感の要因は、この番組が、私たちの「16号線的なるもの」のイメージをなぞっていることにあるだろう。
 このような、「(車で)走って」なぞり、確認される「16号線的なるもの」に対置されるもう1つのテレビ番組が、テレビ神奈川『キンシオ』の「キンシオ特別編 16号を行く」(2012年)である。これも、イラストレーターのキン・シオタニが、5日間かけて16号を車で走破するのだが、この番組が『ドキュメント72時間』と大きく異なるのは、キンシオが「歩いて」いることである。すなわち彼は、道中、あちこちで寄り道をして喫茶店に立ち寄ったり、顔なじみの店を訪れたり(だがその店が定休日であったりする)と、16号沿いの街々で、偶発性と軽妙に戯れてみせるのである。それは、「16号線的なるもの」を直接的に描出しているとは言いがたいが、行く先々で16号沿いの街の新たな表情を引き出すことに成功している。

「走ること」と「歩くこと」

「16号線的なるもの」の把握と記述のために私たちが選んだのは、前述の「走ること」と「歩くこと」の両方である。
 実際に、私たちは1泊2日で16号を車で「走って」、「16号線的なるもの」をなぞって、把握している。
 同時に、それぞれが、自動車による移動が前提とされている16号沿いの街を、文字どおり、あるいは比喩的な意味で「歩いて」もいる。すなわち、ある者はインタビュー調査を、また丹念なフィールド調査を、ある者は文学テクストを、またある者はテレビドラマを、そして映画を通して、16号沿いのそれぞれの街に内在的に分け入り、その記述を試みている。
「走り」ながらも、「歩く」こと。あるいは「歩き」ながら「走る」こと。こうした私たちの試みをつなぎ合わせると、物語なき16号の〈物語〉が浮かび上がってくるはずである。
 本リレーエッセーでは、そんな私たちの思考/試行(あるいは嗜好)の断片をつづっていく予定である。


(1)「splash!!」vol.4、双葉社、2012年、148ページ
(2)東浩紀/北田暁大『東京から考える——格差・郊外・ナショナリズム』(NHKブックス)、日本放送出版協会、2007年、95ページ
(3)三浦展『ファスト風土化する日本——郊外化とその病理』(新書y)、洋泉社、2004年
(4)近森高明/工藤保則編『無印都市の社会学——どこにでもある日常空間をフィールドワークする』法律文化社、2013年

 

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代理出産、特別養子縁組、里親、児童養護施設をつなげる視点――『〈ハイブリッドな親子〉の社会学――血縁・家族へのこだわりを解きほぐす』を書いて

土屋 敦/松木洋人

「ふつう」の親子? 「ふつう」の子育て?

 血縁でつながっている実の親と子どもとの関係。これが多くの人がイメージする「ふつう」の親子関係だろう。同様に、我々が「子育て」という言葉を使うとき、それはたいてい実の親が実の子どもを育てる営みのことを意味している。
 しかし、この「ふつう」の親子関係とは異なる関係のもとで、子どもが生まれたり育てられたりする場合がある。たとえば、近年、子どもがいる男女が結婚することで形成されるステップファミリーへの注目が高まっている。ステップファミリーでは、夫と前の妻との間に生まれた子どもは、血のつながりがない「新しいお母さん」と生活をともにして、さまざまなケアを受けることになる。

「ハイブリッドな親子」と血縁・家族へのこだわり

 本書の書名になっている「ハイブリッドな親子」という概念は、ステップファミリーのように、子どもの生育に生みの親以外の大人が関与するさまざまな状況に光を当てるために我々が新たに考案した言葉である。「ハイブリッドな親子」にも多様なかたちがあるだろう。例えば、代理出産における「産む親」と「遺伝的親」の分離をめぐる問題、養親と養子の関係、里親と里子の関係や、児童養護施設で実親と切り離されながら養育される子どものケアなども含まれるだろう。
「ハイブリッドな親子」は、一方では血縁にとらわれていない点がポジティブに捉えられることもある。子どもの親にとって大事なのは子どもへの愛情であり配慮だと考えるならば、血縁がもつ意味は二次的なものになるだろう。たとえば、養親子関係のもとで育てられた子どもが、実際に自分を育ててくれた親こそが「ほんとうのお母さん、お父さん」であって、顔も覚えていない生みの親のことは「親でもなんでもない」と考えるというような場合である。
 他方で、本書も含めて、これまでさまざまな研究が示してきたのは、「ハイブリッドな親子」関係を生きる人々が、血縁へのこだわりと向き合いながら生きているということである。さきほどのステップファミリーの例でいうならば、「新しいお母さん」は、子どもが実の母親と会っていることに複雑な感情を抱いているかもしれないし、子どもも「新しいお母さん」のそんな気持ちに気づいて、実の母親と会っていることを隠そうとするかもしれない。また、養親子関係のもとで育てられた子どもも、自分を育ててくれた養親への感謝の念は大きく、自分はこのお父さんとお母さんの子どもだという思いは強くても、それと同時に、心のどこかで実の親への思いをぬぐい去ることができないような場合もあるだろう。
 このような人々の血縁へのこだわりは、血縁でつながった実の親と子どもの関係、そのような関係のもとでなされる子育てが「ふつう」であり、そうでない関係や子育てと比べて、なにか特別な価値をもつものとする規範に由来している。
 本書では、家族社会学の視座から人々の血縁へのこだわりや実の親と子どもの関係を価値づけている規範を解きほぐす作業に力を注いだ。その結果明らかになるのは、このこだわりや規範の強固さであるかもしれない。しかし、社会学的な分析は血縁へのこだわりを社会的プロセスのなかに置くことで相対化する作業でもある。本書は、子どもが実の親だけではなく、多様な大人との養育関係のなかで「ふつう」に育まれる社会をイメージして、その輪郭を浮き彫りにすることを心がけた。現代の日本社会では、家族に子育ての責任が過度に集中することの問題が指摘され、「育児の社会化」の必要性が主張されているが、本書が示そうとしている新たな社会のイメージは、「育児の社会化」を構想するうえでも新たな視点を提供してくれるはずだ。

■代理出産■
 現代社会のテクノロジーの発展にともない、「ハイブリッドな親子」の血縁・家族へのこだわりが最も顕著に表出しているのが、代理出産や第三者の配偶子(精子・卵子)を用いた体外授精の場だろう。代理出産は、自らの卵子を用いて自分で妊娠出産をおこなえない女性が、第三者の女性に妊娠出産腹を委託する行為をさし、「遺伝的親」と「産む親」の分離がおこなわれる。また、カップルのいずれかの不妊が著しい場合、第三者の精子や卵子を借りて出産がおこなわれる場合もある。
 日本国内で代理出産は2008年4月に日本学術会議から出された提言によって原則禁止されていて、この問題に関する法はいまだに整備されていない。他方で、アメリカで代理出産をし、出生児の戸籍上の扱いをめぐって03年に訴訟を起こした向井亜紀・高田延彦夫妻の事例は有名だが、日本人による代理出産自体は、アメリカへの渡航はもちろん、インドやベトナム、タイなどのアジア諸国で生殖ツーリズムとして展開されている。
 また、精子提供や卵子提供による非配偶者間人工授精(AID)、特に精子提供は1949年に慶應義塾大学病院で開始され、これまでに約1万5,000人あまりの子どもが精子提供で生まれている。他方で卵子提供は、日本国内では原則禁止されているものの、アメリカやインド、タイやベトナムなど、海外で提供を受けることが頻繁におこなわれている。
 本書では、こうした代理出産や卵子提供などの生殖ツーリズムの拠点になっているタイやベトナムなどの経験者に取材して、提供者になっている女性たちの身体観や血縁・家族へのこだわりを浮かび上がらせた。そこから見えてくるのは、出産や生殖をめぐる文化的規範のあり方であり、彼女たちが身体感覚の位相で抱く、出産に対する意味づけの差異である。

■特別養子縁組■
「ハイブリッドな親子」と聞いて最も多くの方が思い浮かべるのが、養子縁組の親子関係かもしれない。そこでは、「遺伝的親」と「育ての親」の分離がある。本書では、養子縁組のなかでも特別養子縁組制度の立法化過程を取り上げた。
 普通養子縁組制度では、養子になった子どもは戸籍上、実親と養親の2組の親をもつことになる。だが、特別養子縁組制度は戸籍上、養親の子どもになり実親との関係がなくなる。特別養子縁組制度が誕生したのは1987年のことだ。長い養子縁組の歴史を振り返れば、近年になって誕生した新たな制度だといえるだろう。
 血縁関係に基づく親子観は、「ごく自然で自明のもの」として想起されやすい。他方で、特別養子縁組制度の立法過程をさかのぼるなかで見えてくるのは、「ごく自然で自明のもの」として意識されがちな親子観が、過去のある時点で偶然生じたものであったり、政治的な交渉のなかで恣意的に選択されたものであったりする、親子観をめぐる血縁のポリティクスとも言うべき事態である。本書で意識的に心がけたのは、「血縁」という一見強固に見える親子観を換骨奪胎しながら、そこで議論される政治的な交渉の背景をつぶさに浮かび上がらせることである。

■里親■
「ハイブリッドな親子」のなかでは、里親制度の親子のあり方もまた大きな主題である。養子制度が戸籍の変更を伴う親子関係構築の場であるのに対し、里親制度は児童福祉法に位置づけられた制度であり、虐待を受けた子どもなど、実親のもとでは養育が困難な子どもを第三者が一時的に養育する社会的養護の一つであるところに特徴がある。
 この社会的養護の実践の場で、乳児院や児童養護施設などの施設養護が望ましいのか、それとも里親委託のほうが望ましいのかという論争は長年にわたり繰り広げられてきた。だが、特に2000年以降の潮流は圧倒的に後者の里親委託への支持に傾斜している。本書で取り組んだのは、この潮流のなかで「里親」の位置づけはどう変化したのかを明らかにすることである。
 里親制度は児童福祉法に基づく福祉制度である。そのため、この制度は、「親」であること、「家族」であることを社会がどう評価・実践するのか、という問題と向き合いながら作り上げられてきた。里親制度で近年生じてる事態は、血縁・家族へのこだわりの今後を読み解いていく際、大きな試金石になるだろう。

■児童養護施設■
 里親制度などの「家庭的養護」と対比して語られるのが、乳児院や児童養護施設などでの子どもの養育であり、それは「施設養護」と呼ばれる。「施設養護」は里親制度と並んで日本の社会的養護を担ってきた代表的な場だが、近年、要保護児童の養育に占める「施設養護」割合の高さが大きな問題になっている。国連子どもの権利条約(1989年)では、実親家庭での生活が困難な子どもに家庭的な場での養育を保障することが盛り込まれ、日本の施設養護の多さに3度の国連勧告がなされてきた。
 子どもの「施設養護」は、家庭的な養護からは最も隔てられた場所でなされる育児である。そうした場所での育児規範は、「ふつうの家族」における育児規範とどのような交錯関係のなかで形成されてきたのだろうか。本書で試みたのは、「施設養護」における育児規範の歴史的な変容を跡付ける作業であり、1960年代から70年代に大きな画期があったことを明らかにしている。

***

「ハイブリッドな親子」における血縁・家族へのこだわりを解きほぐしていく最大の意味は、ある種の息苦しさも含む「家族」から少し距離を置いて現在の親子関係を検証していく視座を確保することであり、血縁や実親子へのこだわりを一度カッコにくくり、多様な親子関係に目を向けていくことを世に喚起することにある。まずは多様な「現実」と向き合い、理解するということ――それが、個々人がもつ「こだわり」を解きほぐすことにつながる第一歩だと、そう信じている。

 

本書が受けるかもしれない誤解についての釈明――『怪獣から読む戦後ポピュラー・カルチャー――特撮映画・SFジャンル形成史』を書いて

森下 達

 エピローグにも書いたとおり、本書は、筆者の博士学位論文がもとになっている。博士論文を母校に提出したのは2014年12月のこと。そのときには、まさか2016年に新しいゴジラ映画が封切られることになろうとは――そして、それにふれた文章を書籍化した拙論に付け加えることになろうとは――夢にも思っていなかった。
 2015年7月、『シン・ゴジラ』(監督:庵野秀明、2016年)の製作発表に胸をときめかせた3カ月ののち、博士(文学)の学位を取得することに成功した筆者は、前後して改稿作業に力を注いでいった。最終的には、400字詰め原稿用紙に換算して150枚ほどの分量を削っている。もともとの論文にあった回り道や脱線を削除していけばいいのだから、これはそれほど大変な作業ではなかったのだが、問題は書名だった。
 すでに読んだ方はわかってくださると思うが、本書はいささか特殊な問題設定をおこなっている。特撮映画やSFを扱った本、というと、まず思い浮かぶのは、そのジャンルに包摂される作品に対する著者自身の熱い思いを紡いでいくことでジャンルの根本精神を深く深く掘り下げる体のものだろう。ファン向けのムックから評論本、学術的な香りをもった著作まで、読みの深さや議論の精度はそれぞれだが、こうしたスタイルを採用した書籍がもっとも広く世の中に流通している。
 そのほかに、著者の関心が作品よりも背後の社会に向けられている本も、学術書を中心にしばしば見ることができる。すなわち、ポピュラー・カルチャー作品を、社会の空気や時代の風潮をなんらかのかたちで反映しているものとして捉え、その変遷から社会の変化の重要な一側面を切り取って叙述する、というスタイルの書籍だ。
 だが困ったことに、本書はそのどちらでもないのだった。本書が焦点を当てるのは、前者の本がしばしば当たり前に存在するものとして議論の前提にする「特撮映画」や「SF」という「ジャンル」が、はたしてどのようにして形作られていったのか、ということだ。検討の過程では、ジャンルに包摂される作品そのものが第一に問題になるわけだから、この点では前者の著作にも通じる要素が本書にはある。しかし、ジャンルの存在を議論の前提とはしないので、これだけにとどまらず、主として同時代の作品評に着目して、当時どういったジャンル認識が通用していたのかも問題にしていく。その際、ジャンル形成の力学を、時代や社会との関係でもって論じることが多い点では、後者の著作にも近いところがある。こうした重層的な分析によって、ポピュラー・カルチャーという領域が「政治」や「社会」から切り離されたものとして形成されていった、その一断面を描き出してみようというのが本書の意図だった(成功しているかどうかについては、読者諸兄の判断を仰ぎたい)。
 しかし、このような執筆意図を、どのような書名でわかりやすくパッケージングすればいいのか。博士論文では、「「特撮映画」・「SF(日本SF)」ジャンルの成立と「核」の想像力――戦後日本におけるポピュラー・カルチャー領域の形成をめぐって」とタイトルを付したが、いかにも論文っぽくてぎこちなく、商業書籍の題名にはふさわしくない。研究者仲間に相談したら、『怪獣と政治』というすてきな書名を提案してくれたものの、なんの本かわからず「Amazon」が分類に困るということでこれもダメ。編集を担当してくださった矢野未知生さんからもさまざまなアイデアをいただき、紆余曲折を経て、『怪獣から読む戦後ポピュラー・カルチャー――特撮映画・SFジャンル形成史』に決定した。
 とはいえ、この書名が、「戦後ポピュラー・カルチャー」という領域の存在を前提にしたうえで、、、、、、、、、、、、、、、「怪獣というキャラクターがそこでどのような活躍をしてきたか」を歴史的に解説した本だという印象を与えかねないものでもあることに、筆者は一抹の不安を抱いてもいる。そのような期待を胸に本書を手に取り、購入するジャンルのファンがいるのではないかという懸念も、いまだにないではない。怪獣対決路線の映画が論じられていないとか、ガメラのほうが好きなんだとか、ウルトラマンを出せとか、「期待していたのと違う!」と、さまざまな不満を抱く方もいらっしゃるかもしれない。本当にすみませんでした、と、まずはこの場を借りて頭を下げておきたい。
 と同時に、「そういう趣味的な解説本ではなくて、あなたが興味をもっているそれらの領域がどのように形成されたかを外側から見る本なんです」ということも、あらためてここで強調しておこう。ポピュラー・カルチャーにはまった経験がある人にこそ、じっくりと読んでほしい。本書の問題設定を理解していただいたうえで、お付き合いいただければ幸いです。

 

第3回 北翔&妃海の退団から思うこと

薮下哲司(映画・演劇評論家。元スポーツニッポン新聞社特別委員、甲南女子大学非常勤講師)

 宝塚歌劇の評論シリーズの最新号『宝塚イズム34』の発売日、12月1日が迫ってきました。すでに原稿はすべてそろい、現在は校正、印刷、製本と出版に向けての最終段階といったところです。
 今号の目玉は、11月20日の星組公演『桜華に舞え』『ロマンス!!(Romance)』東京公演千秋楽で退団するトップコンビ、北翔海莉と妃海風のサヨナラ特集で、2人が宝塚に残した足跡をたどりながら、それぞれのタカラジェンヌとしての資質と魅力を、オフの人柄や舞台姿などさまざまな面から分析・解析していきます。
 北翔海莉という人は、最近のタカラジェンヌには珍しく宝塚歌劇のことを何も知らずに受験、入団。持ち前の負けん気で猛勉強、宝塚音楽学校在学中の2年間で頭角を現しました。まさに努力の人で、それは20年後、退団する現在までずっと変わりませんでした。
 退団公演は、明治維新の立役者・西郷隆盛の右腕として西南戦争で壮絶な戦死をとげた桐野利秋の半生を描いた齋藤吉正の書き下ろしのミュージカル『桜華に舞え』で、北翔はもちろん主人公の桐野を演じました。生粋の薩摩藩士役で齋藤の脚本の台詞は全編ほとんど鹿児島弁。もちろん歌劇団には方言指導のスタッフがいるのですが、それで飽き足らない北翔は、役作りを兼ねて早くから鹿児島へ出向いて実地特訓、現地出身の人が聞いて遜色のない自然な鹿児島弁を舞台で操りました。宝塚での公演が終わり、東京公演までのあわただしい時間の合間にも、再度鹿児島へ。舞台で披露する自顕流の特訓を改めて受けにいくというほどの念の入れ方。退団公演の宝塚と東京の合間に、改めて役作りのための特訓をしたトップスターというのは、長い宝塚取材歴のなかでも初めて聞きました。トップスターは退団を発表すると、雑誌「歌劇」(宝塚クリエイティブアーツ)や「宝塚GRAPH」(宝塚クリエイティブアーツ)のサヨナラ特集の取材、さらにCSチャンネルの特集番組収録、加えてサヨナラ記念写真集の撮影など、そうでなくとも退団の準備や本業の舞台で多忙にもかかわらず、その合間を縫っての殺陣の稽古というのは、まさに完璧主義者・北翔らしいエピソードでした。そのぶれない姿勢には本当に頭が下がります。
 もともと、何事もやり始めたら究めるまでやらないと気がすまないタイプらしく、横笛も運転免許もフラメンコも、役作りのためにやり始めたらとことんやってしまうという性格。宝塚でのトップ就任も、入ったのだからとことん究めるという彼女なりのポリシーの成就だったのかもしれません。
 宝塚での千秋楽は、大劇場全体が彼女らしい温かい雰囲気に終始包まれ、とてもいいサヨナラショーでした。20日の東京での千秋楽はさらに盛り上がることになるでしょう。何も知らないで入った宝塚を愛し、仲間を愛し、ファンを愛した北翔のこれからの活躍を切に願いたいものです。すでに、さまざまなところからのオファーがきていて、水面下では決まっているものもあるようですが、さしあたりは年末のファンクラブ対象のディナーショーから再スタートになるようです。歌に芝居になんでもできる強みで、あわてずじっくりと長いスタンスをもって活躍してほしいと思います。
 さて、北翔・妃海という星組トップコンビが退団すると、さっそく次期の紅ゆずる・綺咲愛里という新コンビが12月の『タカラヅカスペシャル2016――Music Succession to Next』でお披露目、早くも始動します。人が変わればまた組は別のカラーに染まり、新たな星組に生まれ変わります。これこそが宝塚が102年続いてきた原動力の一つでしょう。二番手には成長目覚ましい礼真琴、それをサポートする七海ひろきの人気上昇も見逃せません。麻央侑希や十碧れいやといった中堅に加えて綾凰華や天華えまといった若手の成長も頼もしいかぎり。

 一方、北翔退団で一段落した星組のあとは、次なるトップスター退団の動きに注目が集まっています。この原稿の締め切りまでにはまだ発表がありませんが、先ごろ、星組の実力派娘役・真彩希帆が雪組に、雪組の人気男役スター・月城かなとが月組に異動することが発表されるなど、次期体制作りが着々とおこなわれていて、発表は時間の問題です。こうして次々に新陳代謝が繰り返される宝塚は、旬のスターの魅力を楽しむエンターテインメントなのだなあとつくづく感じ入ります。それがうまくいったときには本人の実力以上の輝きがあふれます。
 それを改めて確認したイベントの発表がありました。12月から来年(2017年)にかけておこなわれる『エリザベート TAKARAZUKA20周年 スペシャル・ガラ・コンサート』制作発表会見です。今年(2016年)は『エリザベート』が宝塚で初演されて以来20年、その掉尾を飾ってこれまでの公演に出演してきたスターたちが一堂に会してのガラコンサートが開催されることになり、にぎやかに制作発表会見がおこなわれたのです。
 壇上に上がったのは、初演の雪組公演に出演、トート役を演じた一路真輝、再演の麻路さき(星組)、姿月あさと(宙組)、彩輝なお(月組)、春野寿美礼(花組)、水夏希(雪組)。エリザベート役の大鳥れい(花組)、白羽ゆり(雪組)、退団したばかりの龍真咲(月組)、そして月組公演に出演した専科・凪七瑠海の10人。
 席上、演出の小池修一郎が「まさか20年続くヒット作になるとは夢にも思わなかったが、いま振り返ると、初演のメンバーはじめ、この作品を演じてくれた生徒たちが青春の情熱のすべてを振り絞って取り組んでくれていたんだなあと思う。それがいまに続いているんだと思う」としみじみと語ったとおり、生徒がそのときそのときのもてる力を最大限に作品にぶつけていて、それぞれの思いがまさに青春なのでした。しかし、この作品を通過して宝塚を卒業、改めてこの作品に向き合ったとき、宝塚時代とはまったく違ったトートなりエリザベートが生まれる。それぞれが人生経験を積んだあとの『エリザベート』は、深みがあり奥行きが出て、宝塚時代とはまた違ったすばらしさがある。しかし、無垢な青春時代の『エリザベート』は帰ってこない。今年、20周年ということで『エリザベート』は東宝版と宝塚版が同時に上演されました。朝夏まなとと実咲凜音が演じた宙組公演は、東宝版に比べるとなんだか幼く見えたようにも思います。でも、それが宝塚の魅力なのだと、会見でのOGたちを見ていて改めて感じ入りました。どちらがいいとはもはやいえない。その違いをぜひ『エリザベート TAKARAZUKA20周年 スペシャル・ガラ・コンサート』でも確かめてほしいと思います。

 さて2016年の宝塚は、100周年人気の余韻を引き継ぎ、年初から好評裏に推移。『るろうに剣心』(雪組)のヒット、月組の龍真咲、星組の北翔海莉の退団公演の間には『エリザベート』再演(宙組)と、ほぼ毎公演満員の盛況が続いています。この好調をどのように持続していくか、それにはスムーズなスター交代人事と新作のヒット作を生み出すことに尽きるでしょう。制作陣の手腕を切に期待したいと思います。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
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第4回 コスプレ――キャラクターとパフォーマンス

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

世界コスプレサミットに見るコスプレ文化

 2016年7月30日から8月7日まで、名古屋で世界コスプレサミットが開催された。今回で14回目を数えるこのイベントの目玉は、「世界コスプレチャンピオンシップ」である。過去最多の30の国と地域が参加したこのチャンピオンシップは、各国の優勝者を日本に招待して、厳しいルールのもとで文字どおり「チャンピオン」を決めるためのコンペティションだ。今年は『トリニティ・ブラッド』(吉田直、全12巻〔角川スニーカー文庫〕、角川書店、2001―04年)のコスプレパフォーマンスをしたインドネシアの2人組が優勝した。年々参加国が増加し、衣装の完成度やパフォーマンスのレベルも上がり、もはやすでに“パフォーミング・アーツ”の域である。特に今年からは背景に映像を使用することが許可され、舞台上の演出と映像演出の面で、素人(しろうと)とは思えない完成度が高いパフォーマンスが繰り広げられていた。

図1 2016年世界コスプレサミットでのコスプレパレードの様子

 2分30秒以内と規定されたパフォーマンスを音楽と演技だけでおこなう組がいる一方、セリフを使用する組もあるのだが、流暢な日本語でおこなえる外国チームは、残念ながらまだ少なかった。母語でセリフを言い、英語・日本語の字幕が出ることが多いのだが、審査委員長で人気声優の古谷徹の総評の際のコメントが興味深かった。せっかく日本のコスプレをやっているのだから、日本語でセリフを言ってほしかった、という趣旨のコメントだったからだ。もちろん、これは「日本製のマンガ、アニメ、ゲーム、特撮のもの」だけという規定があるうえでの発言だが、コスプレとは、衣装、メイクなどのビジュアルや、静止した決めポーズだけでなく、パフォーマンスという要素も重要だということが、彼のコメントによって前景化したのだ。

外国のアニメ、漫画、ゲーム関連イベントでのコスプレパフォーマンス

 世界中で楽しまれているコスプレだが、コスプレイヤーの消費や利用の仕方はさまざまである。世界コスプレサミットが、チャンピオンシップのようなコンペティションで規定しているような「日本の漫画、アニメ、ゲーム、特撮などのキャラクター」を模すコスプレが多い印象だが、どちらかというといまではコスプレとは、「2次元キャラクターを模すること」という広い解釈がなされている。その傾向は特に海外では強い。たとえば、日本アニメーション振興会主催で1992年から続いているアニメエキスポ(ロサンゼルス)は、その主催者によると「日本アニメの振興」がそもそもの目的だった。しかし、回を追うごとにその趣旨を離れ、現在では日本製作品のキャラクター以外にも『スター・ウォーズ』(監督:ジョージ・ルーカス、1977年―)、アメコミヒーロー、ディズニープリンセスなどのコスプレをする訪問者は非常に多い。

図2 2011年アニメエキスポの会場の様子

 また、フランスで最大の日本文化オンリーのイベントであるジャパン・エキスポ(パリ郊外)でさえ、スパイダーマンや『スター・ウォーズ』シリーズのダース・ベイダー、『ハリー・ポッター』シリーズ(J・K・ローリング、1997年―)のキャラクターコスプレに出くわすことが多い。ましてや、日本メインや日本オンリーではない漫画、アニメ、ゲームに関する一般のイベントでは、ありとあらゆるキャラクターのコスプレが跋扈している。たとえば、イタリアのルッカコミックス&ゲームズというイベントは約50年の歴史があるが、ここでは日本製作品のキャラクターのコスプレのほうが圧倒的にマイノリティーである。影響力が大きいアメコミヒーローやシューティングゲームのミリタリーコスプレなどが目を引く。実際にイタリア軍隊が会場でリクルート活動をしているので、筆者などは本職なのかコスプレなのか区別ができなかったほどである。

図3 2015年、ルッカコミックス&ゲームズの会場(街中)の様子

パフォーマンス重視の海外コスプレコンペティション

 コスプレでただ参加する訪問者は、それぞれコスプレを楽しんでいる。コスチュームや道具に凝っているし、カメラを向ければ足を止めてポーズをとってくれるのは、万国共通のサービス精神である。しかし、いざコンペティションとなった場合に、日本と海外でおそらく最も大きな違いは、海外のコンペティションではパフォーマンスを重視する、つまり観客をどれほど楽しませるかを重視したものになっていることだ。似ているというだけでなく、キャラクターをどう解釈し、どんな演技や演出を観客が望んでいるのか、またその期待の上をいくような、または期待をいい意味で裏切るような展開を短い時間にどれほど凝縮するか、が焦点になっているのだ。すると必然的に一瞬で観客を魅了する派手な衣装や大掛かりな演出をするパフォーマンスが選択されやすくなる。会話だけで話が進むような日常系学園ものの女子高生キャラなどは演出上「地味」だから、ファンタジー系で装備や衣装が華々しいゲームの世界観やキャラクターでのパフォーマンスが多くなる、というわけだ。観客の目も肥えているようで、つまらないパフォーマンスには反応が悪いが、すばらしい演出や衣装には、称賛の拍手を送る。この意味で、コスプレパフォーマンスは2.5次元舞台とかなり親和性が高い。

コスプレが提示する問題群

 2.5次元舞台とコスプレパフォーマンス(特にコンペティションの場合)の親和性の高さは、キャラクター中心主義的な演出(つまり俳優の個性よりもキャラクターの存在性が前景化すること)と、観客と行為者とのインタラクションによって立ち上がる空間の共有で実現する。エリカ・フィッシャー=リヒテはこれを「ライブ(身体)の共存(1)」と呼んでいる。この点で、コスプレの考察には2.5次元舞台を論じた第2回「事例1 2.5次元ミュージカル/舞台――2次元と3次元での漂流」、第3回「事例2 作り手とファンの交差する視線の先――2.5次元舞台へ/からの欲望」で言及したキャラクター論と、第1回「2.5次元文化とは何か?」で論じたファン研究、パフォーマンス研究からのアプローチが必要になってくる。
「それでは、2.5次元舞台とコスプレは同じようにとらえていいのだろうか?」という疑問がわいてくるだろう。もちろん共通している部分もあるが、コスプレにはもう少し考えなければならない問題群がまとわりついている。特に、観客と行為者の場があらかじめ用意されたコンペティションのような固定された舞台ではない場で、素人がコスプレをパフォーマンスしている際に浮上する問題である。それは、イベント会場(多くは野外)のマクロな空間や、コスプレ撮影のミクロな空間だったりする。
 その問題のなかでも注目したいのは、【1】アイデンティティーの問題、【2】セクシュアリティーの問題、【3】空間意識の問題、の3点である。【1】アイデンティティー形成の問題とは、誰がどんなキャラクターを選択しパフォームするか、またパフォーミングを通じて、選択したキャラクターと当事者のアイデンティティーとにはどのような関係があるか、ということである。【1】との関連で、【2】セクシュアリティーの問題とは、特に女性が「見られる客体」になる場合に、「性的対象」として見られることに関する問題である。これは海外の「コスプレは同意ではない(Cosplay is not consent.)運動」との関連で、身体、セクシュアリティー、ジェンダーの点で考察したい。最後に【3】空間意識は、コスプレイヤーの重要な目的の一つが写真を撮ることであることと関係がある。2次元の虚構キャラクターをコスプレによって3次元化したにもかかわらず、いや、かえって3次元化したからこそ、写真という2次元へと回帰する欲望とは何だろうか。そうした“2.5次元遊戯”(2次元と3次元のハイブリッドな浮遊行為)と呼べるような振る舞いに関して、一つの分析を試みる。

コスプレとアイデンティティーの諸問題

 アニメキャラクターを演じることの心理学的研究は、特に日本のアニメが子どもだけでなく、思春期の若者の精神にも有益な影響があることがとりざたされた2000年代ごろから盛んである。テレビアニメーション(テレビカートゥーン)が登場し始めた1950年代後半ごろから、アニメーションが視聴者、特に子どもに与える影響は、主に「悪影響」として語られることが多かったが、西村則昭は、アニメキャラクターを演じることを通じたカウンセリングの有効性を論じている(2)。西村のクライアントの少女は、アニメ『スレイヤーズ』(1995―2005年)の強いヒロイン・リナ=インバースを演じ西村とロールプレイをすることで、自分をリナと置き換える作業をしている。また、スーパーヒーローを演じることによるカウンセリングをおこなっているローレンス・C・ルビンは、彼のクライアントであるクラスからいじめを受けているアメリカの男児がアニメ『NARUTO』(2002年―)のナルトを演じることによるセラピー的効果を論じている(3)。
 こうした「プレイセラピー」は、メンタルの病気治療の一つとして用いられているが、患者でなくても、コスプレには類似の効果があるのではないかと筆者は仮説を立てている。なぜなら、筆者の(主に海外の非日本人の女性)コスプレイヤーへのインタビュー調査で、自分のジェンダーアイデンティティーやそれにともなうコンフリクトとコスプレには密接な関係性があるケースが頻出しているからである。
 一例を挙げておこう。2013年、シンガポールのAFA(Anime Festival Asia)で5人のコスプレ女性に個別インタビューをおこなった。Aさん(当時20代前半、大学生)は、『銀魂』(漫画:空知英秋、〔ジャンプ・コミックス〕、集英社、2004年―、アニメ:テレビ東京系、2006―16年)の柳生九兵衛のコスプレをしていた。九兵衛とは、女性でありながら剣術の名門柳生家の跡取りになるため男性として育てられた剣術の達人である。幼いころ、親友の志村妙を悪人から守った際に右目を痛め、眼帯をしている。男嫌いで、妙に恋心を抱く九兵衞は、女性と男性の両方を兼ね備えたキャラクターである。Aさんによると、九兵衞は「まさに理想」だそうだ。なぜなら、「かっこいいけど、カワイイ」という自分がなりたい(けどなれない)キャラクターだからだという。ここまでなら、普通のワナビー(wanna be)と思われがちだが、Aさんは両親との確執を話してくれた。
「両親はコスプレには、あまり賛成していない。特に日本のアニメの女性キャラクターは肌の露出が多いから。でも、九兵衞はあまりセクシーでないし、肌を見せずにすむから、両親も文句は言わなかった」
 Aさんの回答は、両親の期待が子どものジェンダー意識の形成に大きな影響を及ぼすこと、そして、男装のコスプレを選択したのは、コスプレを通じて男性になりたいのではなく、肌の露出を避けたいがためだったことを示唆している。同様のことは、ゲームキャラクターの男装をしていた女性のコスプレイヤーBさんからも聞けた。ジェンダーアイデンティティーとコスプレの問題は、このAさんとBさん以外にも、宗教・慣習や恋愛経験とも関係が深い。今回は字数の関係上すべての事例を紹介できないが、いずれ詳細な結果を発表するつもりである。

Cosplay is Not Consent(コスプレをしている=お触りOKではない)

 コスプレとセクシュアリティーも、実は深刻な問題である。いまでこそ「クールジャパン」の代表例として国策の一つに利用されているアニメ(と漫画、ゲーム)だが、日本のアニメが欧米で認知され、揶揄ぎみに「ジャパニメーション」といわれた1980年代、日本製のテレビアニメーション=暴力とセックスの宝庫=子どもには有害、と理解されていた。特に、日本のアニメに子どもたちが熱狂していたフランスでは、『北斗の拳』(フジテレビ、1984―87年)などが、そのあまりにも暴力的な描写のために放送禁止になったこともあった。表面上は表現の過激さを理由にしているが、子どもや若者たちにあまりにも人気が沸騰したために、他国によるフランス文化侵略・侵食への不安もあった。そのトラウマは、コスプレを通じて再顕在化している。それが、Cosplay in Not Consent運動である(図4)。

図4

 Cosplay is Not Consent運動とは、特に女性コスプレイヤーが、性的対象として体を触られたり、露出が多いキャラクターに扮しているとセックスアピールだと理解され性的暴力の対象になりやすいことから欧米で始まったムーブメントである。2013年にシアトルで開催されたアニメイベントAki Conで、女性コスプレイヤーが男性DJにレイプされた事件も起きている(4)。事件にならないまでも、身体(胸、尻、脚、背中など)を見知らぬ男性に触られる被害があとをたたないことや、承諾なしで撮影された写真(多くはスカートのなかや胸の盗撮)をインターネットにアップして、コスプレイヤーのプライバシーをさらす事例も多数あり、図4のようなイラスト入り警告や、イベント会場での看板が設置されるようになった(5)。
 女性コスプレイヤーのなかには、自発的にわいせつなコスプレ写真をネットにさらしたり、卑猥なポーズをしてカメラ小僧(カメこ)に積極的に写真を撮らせるケースもないわけではない。しかし、純粋に好きなキャラクターになりたい、自分に合ったキャラクターがそれだった、というような、性的欲望の対象になることが目的ではなく参加した女性コスプレイヤーたちにとっては迷惑な話である。日本のアニメ、漫画、ゲームの女性キャラクターのなかには、露出が多い服を着た設定の未成年の少女や、胸を強調した服を着た成人女性も多く、虚構を現実に移し替える際に、セクシュアリティーの問題を回避するのは容易ではない。

身体に対する規範と匿名の他者からの中傷

 好きなキャラクターへの愛を表現したい、自分と似ているあのキャラクターになりたい――コスプレイヤーにとって動機はごく純粋である。しかし、同じコスプレイヤーや、それを関心をもって見るオーディエンスのなかには、非常に厳格な規範をもって中傷する者たちもいる。
「そのキャラクターをやる資格がない」
というものである。具体的には、太っている、胸が小さい、顔が醜い……など、演じる者の内面ではなく、物理的な外面に対する中傷である。「Facebook」で自分のコスプレ写真をアップしていたある女性は、“いいね!”をもらうことに自己顕示の欲求が満たされた半面、いいね!がこない不安にかられて、コスプレができなくなった。ある女性は、「ブス! デブ! お前が○○様(キャラの名前)やるな!」と匿名の中傷を書き込まれ、SNSを閉じざるをえなかった。再現性を重視するあまり他者の娯楽に不寛容な傾向は、どの国でもある。比較的肯定的にとらえられ、新しい潜在性がある共同体と認知される一方、2.5次元文化実践が抱える問題も看過してはならない(【3】空間意識については、第5回に続く)。


(1)エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭/平田栄一朗/寺尾格/三輪玲子/四ツ谷亮子/萩原健訳、論創社、2009年、44ページ
(2)西村則昭『アニメと思春期のこころ』創元社、2004年
(3)Lawrence C. Rubin, “Big Heroes on the Small Screen: Naruto and the Struggle Within,” in Lawrence C. Rubin ed., Popular Culture in Counseling, Psychotherapy, and Play-Based Interventions, Springer, 2008, pp. 227-242.
(4)“Aki-Con’s Sexual Assault Case,”(http://cosplayisnotconsent.tumblr.com/)[2016年10月10日アクセス]
(5)Andrea Romano, “Cosplay Is Not Consent: The People Fighting Sexual Harassment at Comic Con,”(http://mashable.com/2014/10/15/new-york-comic-con-harassment/#484vIUNskkqI)[2016年10月19日アクセス]

 

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第2回 退団から再生へ――宝塚が刻み続ける日々を追って

鶴岡英理子(演劇ライター。著書に『宝塚のシルエット』〔青弓社〕ほか)

『宝塚イズム』が年2回刊行となって1年半以上がたちました。このネット全盛の時代、半年に1冊という刊行ペースで、日々動き続ける宝塚歌劇の何を語っていくか、当初は編著者の一人である私自身が戸惑いを覚えたのが正直なところです。けれども、回を重ねるにつれて、即時性にとらわれずに宝塚の半年間を外部からじっくりと見つめ、「書籍」という形で残すことに、新たな意義を感じています。
 そのような思いで、現在『宝塚イズム34』の準備中ですが、宝塚の大きな動きとしては、『宝塚イズム33』でそのオンリーワンの輝きを特集した月組トップスターの龍真咲が、9月4日の東京宝塚劇場月組公演千秋楽を最後に、宝塚を卒業していきました。
 女性だけの歌劇団である宝塚は、存在そのものが一つの幻想空間ですが、その幻想空間のなかにも確実に時代の波は訪れていて、端的にいえば男装の麗人である男役も、よりナチュラルな方向へと緩やかな変化を遂げ続けているのを感じます。
 そんな時代のなかに、忽然とそそり立ったのが龍真咲でした。独特の台詞回し、歌唱、火の玉のように猪突猛進な演じぶり。すべてが熱く、濃い。かつて『ベルばら』四強の一人に数えられ、「炎の妖精」と称された汀夏子や、野性的でワイルドな男役を得意とした順みつきなどをほうふつとさせるその個性は、どこか時代をタイムスリップしてきたような、新鮮な驚きを常に与えてくれていたものです。さらに興味深いことには、それでいて不思議と龍には、時代に遅れてきたというような昭和の香りはまったくしなかったのです。がむしゃらにわが道を行きながら、憎めないやんちゃな風情のなかに、きちんと現代を背負ってもいる。改めて面白い個性派スターだったと感じます。
 そうした龍ですから、千秋楽でも本人は涙を見せず、むしろ泣いている観客を泣き笑いに持ち込むようなパフォーマンスを繰り出して、会場を大いに沸かせていたのが印象的でした。かと思うと、次代を担う珠城りょう、珠城の相手役を引き続き務めることになったトップ娘役の愛希れいかという、月組の新コンビをこれからもよろしくと、観客にきちんと託すことも忘れず、紋付き袴の正装ですっきりと美しいラストデーを飾っていました。退団後にはすぐに「Instagram」を開始して、やはりおちゃめでやんちゃでファン思いの素顔を生き生きと発揮していますし、宝塚OGが集う『エリザベート TAKARAZUKA20周年 スペシャル・ガラ・コンサート』(2016―17年)では、持ち役のルイジ・ルキーニだけでなく、タイトルロールのエリザベートに挑むというビッグサプライズも発表されました。これからもその活動から目が離せないOGスターがまた一人誕生したのだなと、強く感じています。
 そんな龍が残した月組は、珠城りょう&愛希れいかの大劇場お披露目作品『グランドホテル』『カルーセル輪舞曲(ルビ:ロンド)』(月組、2017年)の制作発表から、早くも再始動しています。会見のパフォーマンスでは、珠城の大人の魅力が炸裂。たばこを吸うシーンの堂に入ったことには、まだ男役10年を数えていないスターなのだということを忘れ去るほどの余裕が感じられました。経験を重ねた愛希とのコンビも、いい効果をあげそうです。この制作発表会見には美弥るりかも参加していて、新生月組の新しい形が見えつつあるかに思えましたが、今回ポスター入りした朝美絢と雪組の月城かなとが、この公演のあとにいわばトレードされるという発表がありました。両者ともにスターぞろいの「花の95期生」ですが、この組替えも月組の未来にとって意味があるものになっていきそうです。そんな珠城体制の新月組への期待は、次号『宝塚イズム34』でも小特集を組みますので、ぜひご期待ください。
 また他組に目を転じますと、来年(2017年)2月での退団を発表した花組トップ娘役の花乃まりあに続いて、宙組トップ娘役の実咲凜音が同年4月での退団を発表しました。このところは、星組の北翔海莉&妃海風のようにトップコンビが同時退団するケースのほうが、むしろ少なくなっているのかな?というほどに、男役トップ、娘役トップがそれぞれの思い、それぞれの「いま」を見定めて退団していくケースが増えているように思います。俗にいう「添い遂げ退団」が美学だった、そういう時代もまた、宝塚から次第に遠くなっているのかもしれません。
 そんななかで、花乃は『ME AND MY GIRL』(花組、2016年)のサリー・スミス役から一転、全国ツアー『仮面のロマネスク』(花組、2016年)のフランソワーズ・メルトゥイユ侯爵夫人役で、明日海りお演じるジャン・ピエール・ヴァルモン子爵に一歩も引かない丁々発止の、火花散る芝居を繰り広げて、大輪の花を咲かせていました。メルトゥイユ侯爵夫人はもともと初演の花總まりに当てて書いてあるので、男役に寄り添うというよりは、男役に正面から並び立つような格が要求される役どころですが、それを堂々と果たしていて見事でした。本来大人びた個性をもつ人でもありましたが、芝居を日々追求して深めていく明日海の相手役として、どれほど努力してきたかがしのばれる成長ぶりで、退団公演となる『金色(ルビ:こんじき)の砂漠』(花組、2016―17年)の成果も楽しみです。
 さらにその花乃の後任には、さまざまな娘役の名前が巷間取り沙汰されていましたが、同じ花組から仙名彩世の昇格が決まりました。こちらは来年の全国ツアーで再び上演される『仮面のロマネスク』で花乃のあとを受けて演じる、メルトゥイユ侯爵夫人がトップ娘役としてのお披露目となります。今回演じていたマリアンヌ・トゥールベル夫人も大役ですが、轟悠の相手役を務めた経験もあり、押し出しがいい仙名には、メルトゥイユ侯爵夫人がより柄に合う予感がします。どちらかというと似たタイプの娘役間でのバトンタッチとなりましたが、とはいえやはりこれによって明日海から醸し出されるものもまた自然に変化していくことでしょう。大人のコンビの誕生といえそうです。
 一方、『エリザベート――愛と死の輪舞(ルビ:ロンド)』(宙組、2016年)のタイトルロールに臨んでいる実咲もまた、次の大劇場公演『王妃の館』『VIVA! FESTA!』(宙組、2017年)で退団です。こちらは前任の凰稀かなめの相手役から現在の朝夏まなとの相手役と、2代続けてトップ娘役を務めてきましたが、作品の巡り合わせから、どちらかといえば辛抱役が続いていた凰稀時代から一転、朝夏時代には『TOP HAT』(宙組、2015年)、『王家に捧ぐ歌』(宙組、2015年)、『エリザベート』など、宝塚のヒロインの枠を超えた、作品の柱ともいえる役柄を次々に演じる機会に恵まれてきました。それだけに、ある意味でトップ娘役としての本懐は遂げたのだろうな……と想像するにかたくない活躍を示してきた人でもありますから、ラストランに向けてますます加速していくだろうこれからの日々にも期待が高まります。
 そして当然の流れとして、朝夏まなとにもまた新しい相手役が登場することになります。今回の異動では、ほかに雪組の有沙瞳と星組の真彩希帆のやはりある意味のトレードが発表されていますが、ここに宙組の娘役が絡んでいないということは、やはり宙組からの昇格なのでは?と予想されます。とはいえ宙組には注目の娘役が複数いますので、朝夏にとって2代目となる相手役が誰になるのかもまた目が離せない人事となりそうです。宝塚を観続けているかぎり、本当にこの種の興味関心が薄れることはありません。
 退団という大いなる寂しさを抱えた一大イベントが、そのまま新たな誕生、リボーンにつながっていく。これこそ宝塚が100年の歴史を刻んでこられた力の源でもあるのだと思います。そんな動向を注視しながらの、編集作業が今日も続いていきます。

 

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第1回 『宝塚イズム34』、順調に制作中!

薮下哲司(映画・演劇評論家。元スポーツニッポン新聞社特別委員、甲南女子大学非常勤講師)

 宝塚歌劇の評論シリーズ『宝塚イズム』の発行を半年に1回に変更して1年半あまりがたちました。
 ネットやブログで瞬時に情報がいきかう現在、しかもトップスターの退団が宿命づけられている宝塚歌劇は新陳代謝も激しく、コンテンツは次から次へと変化の連続なので、年2回刊ではニュースに追いつくことができないのではとの不安もありました。しかし、だからこそじっくりと分析して、作品と生徒の成果を振り返り、新しい人材に目を向けて今後に期待を寄せるというスタンスは貴重だと思います。
 読者からは「隔月刊に」とか「年4回をキープして」という要望もありましたが、日々の出来事や動向はウェブサイトを利用していただくとして、年2回刊のペースでお届けする「宝塚を愛する批評シリーズ」=『宝塚イズム』を引き続きご愛読ください。

 さて、年2回刊にしたために、ネットやブログと差別化を図って、記録としてきちんと残るものをと、毎回、編集会議にも熱がこもります。とはいえ、読者のみなさんにご説明が行き届かなかったこともあって、刊行間隔があいたので「『イズム』は休刊したのか」という誤解もありました。あらためて発売日をお伝えすると、1年の前半が6月1日、後半が12月1日です。この間隔でこれまで『31』『32』『33』の3号を発行しました。
 原稿締め切りはそれぞれ2カ月前ですから、内容のニュース性には限りがあります。そこで、『宝塚イズム』から逆にニュースを作り出すというねらいで先取りの企画を優先、それと対談形式を含めた公演評やOGインタビューの記事を組み合わせることで、評論シリーズとしての方向性を打ち出すことにしました。
 先取りの企画は、『32』号の特集である「『ベルばら』から『るろ剣』へ」で、「マンガと宝塚の幸福な出合い」を検証しました。また、『33』号の、20周年を迎えた『エリザベート』特集もその一例です。これにトップスターの退団特集を加えることでバラエティーに富んだ構成をお届けすることができました。

 とはいえ、半年に1回はやはりスパンが長すぎます。そこで青弓社のウェブサイトで、『宝塚イズム』では伝えられない宝塚歌劇の最新情報や、『宝塚イズム』の編集裏話などをお伝えしていきます。これが次号発売への期待につながって、読者のみなさんとの太いパイプになればこれにまさる喜びはありません。

 さて現在は、12月1日発売の『宝塚イズム34』の構成内容がほぼ固まり、執筆者が原稿の構想を練っているところです。『34』のメインは、11月20日付での退団を発表した星組のトップコンビ北翔海莉と妃海風のサヨナラ特集です。柚希礼音、夢咲ねねのあとに2015年5月にトップに就任した2人は、大劇場3作、たった1年半で退団することになりましたが、人気の実力派コンビとあって、各執筆者はさまざまな視点からアプローチし、充実した特集が組めそうです。サヨナラ公演『桜華に舞え』『ロマンス!!(Romance)』は8月26日から宝塚大劇場で開幕しましたが、評判は上々、チケットも全期間S席はほぼ完売ということで、公演自体も大いに盛り上がりそうです。『34』の発売日は東京公演千秋楽の11日後。北翔・妃海サヨナラの興奮がさめやらないなかで、2人のファンにも格好のスーベニールになることでしょう。

 それとは別に、『34』にはスペシャルな寄稿記事が2つあります。今回はそのひとつを紹介しましょう。元毎日放送事業局長の宮田達夫氏による「天津乙女さんとの想い出」がそれです。宮田氏は、1970年代から90年代までの報道局記者時代に宝塚歌劇の取材を担当しました。トップスターのサヨナラ千秋楽の模様をニュース番組で生中継したり、話題作の稽古場からスターのインタビュー取材をするなど、関西テレビの名物記者・丸山巌氏とともに宝塚歌劇をテレビニュースの素材として積極的に取り上げ、宝塚歌劇の知名度を高めるとともに一般視聴者の理解を深めた功労者の一人です。現在は、宝塚が自前でCS専門チャンネルをもったことから地上波の取材を歓迎せず、テレビ局にも宝塚歌劇に対する理解者がいなくなり、こういう放送は皆無になっています。
 その宮田氏とお会いする機会があり、『33』をお見せしたところ、「今年は天津乙女さんが亡くなって36年。僕は栄子さん〔天津さんの愛称〕を取材したことがあるんだけれど、それを書いてみようか」といううれしいお話。天津さんといえば、宝塚草創期から戦後にかけての大スター。“女六代目”といわれた日舞の名手ですが、その舞台姿を生で見ている人はもう少数になってきました。かくいう私も『朱雀門の鬼』(花組、1977年)を見て、そのピンと張り詰めた台詞の声ときびきびした動きに大いに感動した覚えがあるくらいです。宝塚バウホールで営まれた葬儀の取材をしたのですが、実際に取材したことはありません。
 宝塚も100周年が過ぎ、そろそろ何かの形で歴史をきちんと振り返ったものも必要かなあと思っていたのですが、作品や人と関係がない事象についてのこむずかしいものは『イズム』向きではないし、と思っていた矢先のことだったので、ぜひお願いしたいと思いました。「とりあえず書いてください。それから考えます」みたいな返事をしたところ、数日後にさっそく原稿がメールで送られてきました。原稿は、稽古場での天津さんへのインタビューの様子と芸歴60周年記念パーティーのエピソードなどがつづられています。天津さんの飾らない素顔が生き生きと伝わり、そこに天津さんがいるような錯覚を覚えるほどです。天津さんへのインタビューの様子など、いまや書ける人はそういません。さっそく編集会議でも了解を得て『34』のスペシャルレポートとなった次第。『宝塚イズム』ならではの貴重なインタビュー記事をお楽しみください。天津さんの葬儀は神式だったため仏式で数えることはないのですが、37回忌にふさわしい企画になったと思っています。

 さて、宝塚歌劇ですが、宝塚大劇場では宙組によるミュージカル『エリザベート――愛と死の輪舞』が千秋楽を迎えました。夏休みと重なってチケットは全期間前売りで完売していて、数少ない当日券を手に入れようとゲート前には連日早朝から長蛇の列ができる盛況ぶりです。初演以来20周年を迎えた『エリザベート』の変わらない人気を証明しています。トップスターの朝夏まなとの個性に合わせ、黄泉の帝王トートがウィーンの原典にそった現代的かつクールなつくりとなり、その評価は賛否両論ですが、作品的なレベルの高さは抜きんでていて、いまや宝塚の財産といっていいでしょう。公演評には多くの執筆者の手が挙がっています。どんな切り口の評が集まるかこれも楽しみです。12月の発売までいましばらくお待ちください。

『宝塚イズム』について
『宝塚イズム』は「愛がある在野の宝塚批評本」として、6月1日・12月1日の年2回刊行している書籍です。2007年から刊行を始め、2016年8月現在で『33』まで出版しています。宝塚歌劇団の公演評はもちろん、宝塚OGが出演している舞台の公演評などを所収して、幅広い年代のファンに楽しんでいただいています。
170ページ程度/A5判・並製/定価1600円+税

 

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本書の敵はディズニーマニアとディズニー? ――『ディズニーランドの社会学――脱ディズニー化するTDR』を書いて

新井克弥

 本書の執筆については、2つの「恐れる読者」を想定した。そして、これへの対応にかなりの時間を費やした。

 1つは本書でDヲタと表記したディズニーマニアの一群だ。彼らにとってディズニー世界は自らのアイデンティティーのよりどころ、そしてTDR(東京ディズニーランド+東京ディズニーシー)は、それを確認しに向かう聖地。この部分に、いわば「ツッコミ」を入れているのが本書なので、必然的に彼らのアイデンティティーに抵触することになる。アイデンティティー=自己同一性という言葉が示すように、これらディズニー世界は彼らの人格を反映する、あるいはディズニーのことは自分のことというふうに認識している(ただし、膨大なディズニー情報から自らにとって親和性が高いものを抽出して、自分だけのディズニー=マイディズニーを構築しているのだけど)。そのために、TDRにツッコミを入れることは、筆者の意図の有無にかかわらず、結果として彼らの存在や人格にツッコミを入れることにもなる。
 当然、TDRが批判的に書かれていると受け取ればDヲタは傷つくわけで、そうなると一挙に反撃ののろしが上がることが想定される。その際の典型的な反撃法は内容のトリビアルなところに着目し、そこにツッコミを入れるというものだ。具体的には表記や事実関係の誤りへの指摘という形をとる。細部の誤りを指摘し、「こんなことさえ間違えているから、この筆者が書いていることはデタラメだ」と、細部の誤りを槍玉にあげながら、全体、とりわけ展開そのものを否定するやり方で、このパターンは筆者に対するブログのコメントでさんざん経験している。とにかく、彼らは知識がハンパではないので難敵ではある。
 書き手としては、当たり前だが中身をちゃんと読んでもらいたい。そこで、こうした指摘をできるだけ封じようと、2つの側面についてかなりの時間を割くことにした。1つは「事実関係の確認」。筆者とディズニーの関わりは50年に及んでいて、本書ではこの間の記憶をたどるかたちでの表記をいくつか含んでいるが、自分の記憶のなかで確認がとれていない内容については、最終的にすべて掲載を諦めた。例えば1983年のディズニーランドの開園と同時にプロモーションの一環としてディズニーアニメの短篇がテレビ放映された際、番組のCMのなかに松田聖子が登場するものがあったのだけれど、今回、本書を記すまで、このCMは服部セイコー(現セイコーホールディングス)の時計と思い込んでいたのだ。これは当時、廉価ブランドとして同社がALBAを発表し、このキャラクターに松田(「聖子のセイコー」というわけ)を起用していたからだ。ところがあらためて調べてみると、これがなんと靴の月星(現ムーンスター)だった。人間の記憶などあてにならないものだ。

 もう1つは、ディズニーに関わる名称の表記だ。ディズニー世界には膨大な語彙が広がっている。基本的に横文字のカタカナ化なのでスペースに該当する部分を「・」で結べばいいと考えたいのだが、事はそんなに甘くない。登記されている商標に沿っていなければならない。たとえば東京ディズニーシーのミュージカルが催される建物は「ブロードウェイ・ミュージックシアター」で、ミュージックとシアターの間に「・」がない。また、ここで上映されている「ビッグバンドビート」も、これで一文字という扱い。これらはすべてディズニー(TDR)のオフィシャルサイトに準拠して表記することにした。記載する項目が非常に多い分、このチェックだけでも大変な作業だった。
 とはいうものの、それでも最終的には何らかの間違いを指摘されるのは避けられないだろう(例えば、厳密なことを言えばTDRは2つのパークだけでなく、隣接する商店街イクスピアリなども含むのだけれど、こちらとしては、このへんはいくらなんでも省略してもいいでしょ?とは考えているのだが、こんなところにさえツッコミを入れてくる恐れがある)。

 もう1つの「恐れる読者」はディズニーカンパニー、そしてTDRを運営するオリエンタルランドだ。執筆にあたっては紙面をより視覚的で見やすくするために、当初かなりの量のイラストを挟んでいた。しかしこれに編集のほうから「待った」がかかる。「弁護士に相談したところ、著作権のことで裁判を起こされる可能性が高いので、原則カットでお願いします」。ということで、ディズニーに関わるイラストは本文中にパレードのフロートに関するものがたった1つ、しかも徹底的に単純化したものということで落ち着いた(117ページ参照)。カバーのイラストも○が3つとティアラの組み合わせ。この○3つはミッキーの顔と耳の比率とは微妙に異なっている。つまり、あくまで「○3つ」。そしてその上に描かれているのも、あくまで「ただのティアラ」。とはいうものの2つを並べると、一般読者には何を意味しているのかはわかってしまう寸法。「その手があったか!」と思わせるような巧妙なイラストに仕上げていただき、デザイナーには感謝している。

「恐れる読者」には、とにかく彼らを攻撃しているわけではまったくないこと、そしてディズニーという文化が、結果として現在日本でこのように受容されていること、さらにこの受容形態が今後とも続くことで、よりJapanオリジナルなものになっていくことを理解してもらえればと考えている。

 現在、年間3,000万人強の入場者を誇るTDRだが、その歴史は本家と比べればまだまだ。この先ずっとTDRが続き、ディズニー世界がもっと日常的な存在になったとき、言い換えれば、アメリカのように、夢中にならなくてもそこにあるものになったとき、ディズニー世界は完全に日本の伝統文化に組み入れられたことになるのだろう。そうなるのはまだ数十年先と筆者は考えている。

 

第6回 ストイカ・ミラノヴァ(Stoika Milanova、1945-、ブルガリア)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

ブルガリアの名花

 1945年8月5日、ブルガリア中部のプロヴディフの生まれ。父からヴァイオリンを教わり(母親とする文献もあるが、おそらく間違いだと思われる)、60年(または1961年)、ブルガリアのコンクールで優勝。67年、エリザベート王妃国際コンクールで第2位(このとき、ギドン・クレーメルが第3位、ジャン・ジャック・カントロフが第6位)。64年から69年までモスクワでダヴィッド・オイストラフに師事、その成果を問うために70年のカール・フレッシュ国際コンクールに参加し、見事に優勝を果たす。
 ミラノヴァの顔写真はLP、CDなどに多数見ることができるが、それらはいずれも伏し目がちな、中空を見つめたような、あるいは一抹の憂いを含んでいるようなものばかり。カラッと笑ったものは一枚もない。彼女の演奏から受ける印象も、ある意味これらの写真と共通するものがある。解釈の基本は全くのオーソドックスだ。これみよがしな大げさな身振りや、お涙頂戴式の場面などはどこにも見られない。ほっと心を落ち着けるような親しみやすさ、懐かしさのようなものがあり、決して派手ではないけれど、聴くほどに味わいが増してくる。
 手元にあるミラノヴァの演奏は大半がLPだが、唯一のCDはブルッフの『第1番』とグラズノフ、それぞれのヴァイオリン協奏曲である(日本語帯付きはANF-312、オリジナルはFidelio 1865)。オリジナルのCDには録音データはないが、日本語の帯には1984年10月、ソフィアでの収録とある。
 2曲とも緩急の差はそれほどつけず、おだやかに、ゆったりと歌い込んである。特にブルッフの第3楽章の、決して先を急がず、のびのびと舞っているところは印象的だ。伴奏はヴァジル・ステファノフ指揮、ブルガリア国立放送交響楽団。
 以下は、すべてLPでの試聴。あえて彼女の最高傑作をあげるとすれば、プロコフィエフの『第1番』『第2番』のヴァイオリン協奏曲だろう(Balkanton 1982703、録音:1970年?1972年?)。全体的にはきちんと明瞭に仕上げられているが、切れ味やしなやかさ、テンポのよさ、必要にして十分な気迫など、すべてにおいてバランスが適切だと納得させられる。これはやはり、オイストラフからの伝授が効いたのだろうか。伴奏はブルッフなどと同じくステファノフ指揮、ブルガリア国立放送響。
 個人的に愛着があるのは、ベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』である(Balkanton BCA104533、録音:不明、1970年代?)。この曲の女流演奏は、なぜだか魅惑的なものが多い。ローラ・ボベスコやジョコンダ・デ・ヴィートのように、強烈な個性をもつものもあるが、このミラノヴァのそれは女流らしいなだらかさ、柔らかさをもちながらも、もっと控えめな気品にあふれている。たとえば、第3楽章の最初の部分、アレグロに入った際、ほんの少しブレーキをかけて歌い始めるところなどに、この人の特徴が表れていると思う。指揮者、オーケストラはプロコフィエフと同じ。
 メンデルスゾーンもある。もちろん、超有名な方の協奏曲だ(Balkanton 1982704、録音:不明、1970年代?)。これは多数ある名盤のなかでは、いささか地味な部類に入るだろう。けれども、この化粧っ気のなさがまた彼女の持ち味であり、聴いて決して損はない。なお、このLPは第3楽章が第2面にカットされている。こんなふうにカッティングされたLPは初めてだった(余白はメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』序曲)。伴奏はプロコフィエフ、ベートーヴェンと同じ。
 室内楽では以下のものがある(同じくすべてLP)。1976年3月、ミラノヴァは来日した際に日本コロムビアにスタジオ録音をおこなっているが、これが結果的には彼女の最も音質がいいレコードとなった(日本コロムビア/デンオン OX-7070)。曲目はプロコフィエフの『ヴァイオリン・ソナタ第2番』、ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』、ラヴェルの『ツィガーヌ』である。ピアノ伴奏はストイカの妹ドラ(Dora Milanova)。 
 ソナタ2曲はともに知情意の配分がとてもいい。驚くような解釈はないものの、しっかりと落ち着いた雰囲気がある。また、『ツィガーヌ』の最初の部分、たいていのヴァイオリニストは、それこそ松ヤニが飛び散るように激しく弾くのだが、ミラノヴァは決してそうしていない。力みを排し、可能なかぎり自然に楽器が鳴るようにしている。また、ぴたりと影のように寄り添っているドラのピアノも見事。これこそが、息の合ったアンサンブルなのだ。2016年8月現在、未CD化。
 フランクとドビュッシーのソナタを組み合わせたものもある(Duchesne DD-6095、録音:不明)。ドビュッシーはデンオン盤とダブっている。このLPは録音年が不明なので何とも言えないが、どうやらこちらのほうが先のような感じがする。もちろん、解釈は同じ(ピアノも同じくドラ・ミラノヴァ)。フランクは言うまでもなく大曲であり、名盤もひしめいている。そのなかにあって、彼女らのように慎ましく、穏やかに歌っている演奏は珍しいと思う。特に後半の第3楽章、第4楽章がそうだ。
 ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ全集』(「第1番」―「第3番」)という、ミラノヴァの唯一のまとまった録音がある(Harmonia mundi HMU-115-6、録音:不明)。これはBalkantonとの共同制作のようだ。これまた姉妹のデュオであり、ミラノヴァの芸風と作品内容がよく合っていて、見逃せない逸品だろう。不思議なのは、「第1番」と「第2番」は明らかにモノーラル(LPボックス。解説書とレーベルにはステレオの文字はない)。「第3番」はかろうじて広がりがあるステレオであり、3曲のなかでは音質に最ものびがある。第4面にはVladislav Grigorovというホルン奏者とのブラームスの「ホルン三重奏曲」が収録されている。音質は「第3番」のソナタと似ていて、演奏もすばらしい。普通なら、「F.A.Eソナタ」とか「ハンガリー舞曲」とかが第4面にきそうだが、「ホルン三重奏曲」が入っているところをみると、これはレコード用の録音ではなく、放送用のそれを転用したものではないか。
 妹ドラではなく、マルコム・フレージャーと録音したブラームスとシューマンの、それぞれ『ヴァイオリン・ソナタ第1番』がある(BASF KBB-21392、録音:不明、1972年頃?)。ブラームスの『第1番』は前出のハルモニア・ムンディ盤とダブっている。音はこちらのほうがいいが(ステレオ)、全体の出来は妹との共演のほうがいいような気がする。単に腕前を比較するならば、フレージャーはドラよりも上だろう。しかし、姉妹の共演は一心同体のような親密さがあり、その点でフレージャーはそこまでいっていない。
 このLPでは聴きものはシューマンだ。このふつふつと沸き上がるようなロマンは、ミラノヴァにぴったりだ。ピアノがドラだったら、さらに味わいが増したと思うが、でも十分に聴き応えがある。
 あと、参考としてヴィヴァルディの『四季』(Balkanton BCA-1250、録音:1970年12月、ブルガリア・コンサート・ホール)をあげておく。このLPは珍しく録音データが記されているが、音がよくない。風呂場のような、あるいはピンぼけの写真のような、実体が捉えづらい劣悪な音質なのだ。全体の解釈はごく普通。ミラノヴァのソロは安定し、巧く歌っていると思うが、参考記録の域を出ない。伴奏はワシリー・カサンディエフ指揮、ソフィア・ソロイスツ。

 

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