J866だけがマントヴァーニと表記されているが、他の3枚はマヌエロ表記。すべてピアノ伴奏付きだが、ピアニストの名前は表示されていない。このなかでも最も詳しく表記されているのはJ866で、シューマンはマントヴァーニの編曲であり、シューベルトはMANTOVANI and HIS HOTEL METROPOLE ORCHESTRAと記されている。
私が初めて聴いたシューマンからふれてみよう。これは、とろけてしまいそうなほど、べたべた、クネクネと弾いている。その甘さは異様なほどで、しかも通常よりも1オクターヴ高く弾いているので、なおさらである。このシューマンだが、ある有名ヴァイオリニストに聴かせたところ、「興味なし!」と一蹴された。シューベルトも、めちゃくちゃ甘い。先ほど記したようにレーベルにはORCHESTRAとあるが、せいぜい3、4人程度だろう(ヴァイオリン2本とチェロ1本?)。ドヴォルザークとラフも同傾向の演奏だが、特にドヴォルザークの中間部にマントヴァーニらしさが出ている。
ブラームスはおっとりと優雅な演奏で、テンポの揺らせ方も実にうまい。もちろん、ポルタメントも多用されている。
ヴェルディの2曲は、このなかではマントヴァーニの個性が最も理想的に発揮されていて、聴く価値は大きいと思う。ここでも彼のソロはトロトロに甘いのだが、編曲(明記はないが、マントヴァーニ自身だろう)の巧さと相まって、楽団を率いたときのような最上のムード音楽が展開されている。
マントヴァーニがソナタや協奏曲などを弾いていたかどうかは、わからない。でも、だからといって彼を単純にB級奏者扱いするのもおかしい。量的には決して十分とはいえないが、以上の作品を聴いてみても彼は決して非力ではない。それどころか、そこらの専門奏者以上に、小品を魅惑的に演奏していたことは間違いないのだ。
宝塚歌劇の評論シリーズの最新号『宝塚イズム34』を12月1日に無事刊行しました。特集は11月20日に宝塚を巣立っていった北翔海莉&妃海風コンビに贈る評論の花束「さよなら北翔海莉&妃海風」。小特集に『アーサー王伝説』(月組、2016年)で月組トップスターとしてのスタートを切った珠城りょうにエールを送る「珠城りょう――若き月組トップへの期待」と、非常にレベルが高い仕上がりとなった『ドン・ジュアン』(雪組、2016年)で主演し、進境著しい雪組2番手スター望海風斗をキーワードに各組2番手を語る「望海風斗の衝撃――各組二番手戦力分析」をそろえました。このほか、2016年4月から11月の大劇場作品公演評、編著者2人で外箱公演を一気に振り返る対談、東西の新人公演評、OG公演評、さらに宝塚OGによる『CHICAGO』ニューヨーク公演観劇報告と、天津乙女さんのありし日をつづった貴重な寄稿文。そして17年の元旦から月組で幕を開けるミュージカル『グランドホテル』の初演主演者である涼風真世さん登場のOGロングインタビューまで、充実のラインアップになっています。北翔&妃海ファンのみなさんからはもちろん、望海ファンの方々からもさっそく熱いメッセージが届いているのに加え、紫の美しい装丁も、北翔海莉&妃海風サヨナラ公演のロマンチック・レビューや、サヨナラショーで再現された『LOVE&DREAM』(星組、2016年)のシンデレラのシーンで妃海が着用したドレスを連想するという声をいただき、大変うれしく思っています。宝塚ファン必携の評論シリーズとして今後もますます内容を充実させていきますので、ぜひ書店でお買い求めください。青弓社サイトからのオーダーももちろん可能です。
さて、宝塚の大きな動きとしては、なんといっても圧倒的な人気を誇る雪組のトップコンビ早霧せいなと咲妃みゆが2017年7月23日、『幕末太陽傳』『Dramatic“S”!』東京宝塚劇場公演千秋楽をもって同時退団するという発表がなされたことでしょう。さまざまな要因から、この公演での退団が予想はされていた2人ですが、宝塚の動員記録を塗り替え、コンビとしても組としても乗りに乗っている時期だっただけに、劇団がこれだけのトップコンビをそう簡単に手放さないのではないか?という思いもどこかではあり、正式な発表にはやはり大きな寂しさが募りました。最近では異例のトップコンビの同時退団発表、しかもその会見日が11月22日「いい夫婦の日」というのは、もちろん狙ったことではなかったそうですが、2人のプレお披露目公演だった『伯爵令嬢』(雪組、2014年)の初日前囲み会見で早霧から「結婚します。そのくらいの覚悟がないとね」という咲妃をちょっとからかった発言が飛び出したこの2人らしいなと、感慨も大きかったものです。退団発表を挟んで東京での上演となった『私立探偵ケイレブ・ハント』(雪組、2016年)は、早霧時代の雪組では初めてとなるオリジナルのスーツ物。2人が初めから恋人同士という設定に新鮮さがあり、コンビとしてキャリアを重ねてきたいまだからこそ出せる雰囲気がきちんとあって、面白い仕上がりになっていました。原作物でヒットを飛ばしてきた印象が強い雪組だけに、適材適所に配置された主要メンバーの活躍に、オリジナル作品なればこそのよさも感じられました(鳳翔大には、何かもう少し別の役を書いてほしかったですが)。さらに、ショー『Greatest HITS!』は、大劇場ではいくら「あわてんぼうのサンタクロース」を組み入れていても、ちょっと早すぎるなぁと感じられたクリスマスメドレーがどんぴしゃり!のシーズンになったことも手伝って、明るい楽しさにはじけていて、癖になるショーとして楽しめます。ここでも圧巻はやはり早霧&咲妃のデュエットダンスで、ベートーヴェンの『運命』を使った望海&彩風咲奈による赤と白の激しい対立の場面が、2人の緑がもたらす安らぎと幸せオーラによって昇華される流れは、いま絶好調の雪組を象徴するシーンとしてなんとも美しいものでした。本当に早霧&咲妃は、2人が並んだときの絵面としての美しさが抜群なだけでなく、芝居をしてもともに踊っても、お互いがそれぞれのよさを引き出し合い、引き立て合う、近年屈指のベスト・カップルです。正直、まだまだこの2人で観たかった作品、夢は多くありますが、残された7カ月、2人ならではのラストランの輝きを見届けたいと思います。もちろん、次代を担うだろう望海の、任せて安心の盤石さと豊かな歌唱力にも、また新たな夢が描けることでしょう。宝塚はこうして続いていくのですね。つくづくすごいシステムだなと感じずにはいられません。
一方で、この雪組公演と同じ時期に、KAAT神奈川芸術劇場で専科の轟悠と宙組トップ娘役の実咲凜音をはじめとした宙組精鋭メンバーによる『双頭の鷲』も上演され、その高い完成度に圧倒されました。脚本・演出の植田景子の美意識が凝縮された舞台で、それに応えた出演者・スタッフすべての力がほとばしるさまは見事なものでした。ジャン・コクトーの『双頭の鷲』(1946年)を宝塚で上演しようというこの企画自体もそうなのですが、ここ数年、轟悠の存在が宝塚の幅を広げ、新たな挑戦を成し遂げている姿には、退団と新トップスター誕生という別れと再生を繰り返す宝塚のスターシステムが紡いできた100年を超える伝統とはまた別の安定を宝塚にもたらしていることを確かに感じずにはいられません。役者には年齢を重ねないとできない役柄が確実にありますし、轟さえいれば今後の宝塚でそうした役柄を脇筋ではなく主役で取り上げることが実現していくと思います。変わり続けることでバトンをつないできた宝塚に変わらない象徴があることは、やはり貴重なものですね。春日野八千代亡きいま、その重みを痛感します。
そんな轟が『For the people――リンカーン 自由を求めた男』(花組)そして『双頭の鷲』という秀作をそろえてきたのをはじめ、2016年の宝塚には見応えある作品が並びました。新たなファンを獲得した『るろうに剣心』(雪組)。実在の人物を宝塚ならではの自由さで描いた作品が、くしくもトップスター退団公演としてそろった『NOBUNAGA〈信長〉――下天の夢』(月組)、『桜華に舞え』(星組)。宝塚の財産演目である海外ミュージカル『ME AND MY GIRL』(花組)、『エリザベート――愛と死の輪舞』(宙組)。オペレッタの『こうもり』(星組)への挑戦や、シェイクスピアの人生を作品でコラージュした意欲作『Shakespeare――空に満つるは、尽きせぬ言の葉』(宙組)。またオリジナル作品ならではの作家の個性が表れた『私立探偵ケイレブ・ハント』(雪組)、『金色の砂漠』(花組)が続きました。さらに数多くのショー作品のきらめきが並び、外箱に目を転じれば『ローマの休日』(雪組)、『ドン・ジュアン』『アーサー王伝説』など、大作も多く登場しています。6月と12月に発行している『宝塚イズム』では、残念ながらこうした1年の作品のベストを語り合うような企画は作りにくいのですが、きっと宝塚ファンの間では、一人ひとりの胸にある独自のベストに話がはずんでいる時期ではないでしょうか。見どころの多い作品がそろった2016年の宝塚。この勢いと盛り上がりが、また17年にも続いていくことを期待しています。
2.5次元舞台とコスプレパフォーマンス(特にコンペティションの場合)の親和性の高さは、キャラクター中心主義的な演出(つまり俳優の個性よりもキャラクターの存在性が前景化すること)と、観客と行為者とのインタラクションによって立ち上がる空間の共有で実現する。エリカ・フィッシャー=リヒテはこれを「ライブ(身体)の共存(1)」と呼んでいる。この点で、コスプレの考察には2.5次元舞台を論じた第2回「事例1 2.5次元ミュージカル/舞台――2次元と3次元での漂流」、第3回「事例2 作り手とファンの交差する視線の先――2.5次元舞台へ/からの欲望」で言及したキャラクター論と、第1回「2.5次元文化とは何か?」で論じたファン研究、パフォーマンス研究からのアプローチが必要になってくる。
「それでは、2.5次元舞台とコスプレは同じようにとらえていいのだろうか?」という疑問がわいてくるだろう。もちろん共通している部分もあるが、コスプレにはもう少し考えなければならない問題群がまとわりついている。特に、観客と行為者の場があらかじめ用意されたコンペティションのような固定された舞台ではない場で、素人がコスプレをパフォーマンスしている際に浮上する問題である。それは、イベント会場(多くは野外)のマクロな空間や、コスプレ撮影のミクロな空間だったりする。
その問題のなかでも注目したいのは、【1】アイデンティティーの問題、【2】セクシュアリティーの問題、【3】空間意識の問題、の3点である。【1】アイデンティティー形成の問題とは、誰がどんなキャラクターを選択しパフォームするか、またパフォーミングを通じて、選択したキャラクターと当事者のアイデンティティーとにはどのような関係があるか、ということである。【1】との関連で、【2】セクシュアリティーの問題とは、特に女性が「見られる客体」になる場合に、「性的対象」として見られることに関する問題である。これは海外の「コスプレは同意ではない(Cosplay is not consent.)運動」との関連で、身体、セクシュアリティー、ジェンダーの点で考察したい。最後に【3】空間意識は、コスプレイヤーの重要な目的の一つが写真を撮ることであることと関係がある。2次元の虚構キャラクターをコスプレによって3次元化したにもかかわらず、いや、かえって3次元化したからこそ、写真という2次元へと回帰する欲望とは何だろうか。そうした“2.5次元遊戯”(2次元と3次元のハイブリッドな浮遊行為)と呼べるような振る舞いに関して、一つの分析を試みる。
コスプレとアイデンティティーの諸問題
アニメキャラクターを演じることの心理学的研究は、特に日本のアニメが子どもだけでなく、思春期の若者の精神にも有益な影響があることがとりざたされた2000年代ごろから盛んである。テレビアニメーション(テレビカートゥーン)が登場し始めた1950年代後半ごろから、アニメーションが視聴者、特に子どもに与える影響は、主に「悪影響」として語られることが多かったが、西村則昭は、アニメキャラクターを演じることを通じたカウンセリングの有効性を論じている(2)。西村のクライアントの少女は、アニメ『スレイヤーズ』(1995―2005年)の強いヒロイン・リナ=インバースを演じ西村とロールプレイをすることで、自分をリナと置き換える作業をしている。また、スーパーヒーローを演じることによるカウンセリングをおこなっているローレンス・C・ルビンは、彼のクライアントであるクラスからいじめを受けているアメリカの男児がアニメ『NARUTO』(2002年―)のナルトを演じることによるセラピー的効果を論じている(3)。
こうした「プレイセラピー」は、メンタルの病気治療の一つとして用いられているが、患者でなくても、コスプレには類似の効果があるのではないかと筆者は仮説を立てている。なぜなら、筆者の(主に海外の非日本人の女性)コスプレイヤーへのインタビュー調査で、自分のジェンダーアイデンティティーやそれにともなうコンフリクトとコスプレには密接な関係性があるケースが頻出しているからである。
一例を挙げておこう。2013年、シンガポールのAFA(Anime Festival Asia)で5人のコスプレ女性に個別インタビューをおこなった。Aさん(当時20代前半、大学生)は、『銀魂』(漫画:空知英秋、〔ジャンプ・コミックス〕、集英社、2004年―、アニメ:テレビ東京系、2006―16年)の柳生九兵衛のコスプレをしていた。九兵衛とは、女性でありながら剣術の名門柳生家の跡取りになるため男性として育てられた剣術の達人である。幼いころ、親友の志村妙を悪人から守った際に右目を痛め、眼帯をしている。男嫌いで、妙に恋心を抱く九兵衞は、女性と男性の両方を兼ね備えたキャラクターである。Aさんによると、九兵衞は「まさに理想」だそうだ。なぜなら、「かっこいいけど、カワイイ」という自分がなりたい(けどなれない)キャラクターだからだという。ここまでなら、普通のワナビー(wanna be)と思われがちだが、Aさんは両親との確執を話してくれた。
「両親はコスプレには、あまり賛成していない。特に日本のアニメの女性キャラクターは肌の露出が多いから。でも、九兵衞はあまりセクシーでないし、肌を見せずにすむから、両親も文句は言わなかった」
Aさんの回答は、両親の期待が子どものジェンダー意識の形成に大きな影響を及ぼすこと、そして、男装のコスプレを選択したのは、コスプレを通じて男性になりたいのではなく、肌の露出を避けたいがためだったことを示唆している。同様のことは、ゲームキャラクターの男装をしていた女性のコスプレイヤーBさんからも聞けた。ジェンダーアイデンティティーとコスプレの問題は、このAさんとBさん以外にも、宗教・慣習や恋愛経験とも関係が深い。今回は字数の関係上すべての事例を紹介できないが、いずれ詳細な結果を発表するつもりである。
Cosplay is Not Consent(コスプレをしている=お触りOKではない)
コスプレとセクシュアリティーも、実は深刻な問題である。いまでこそ「クールジャパン」の代表例として国策の一つに利用されているアニメ(と漫画、ゲーム)だが、日本のアニメが欧米で認知され、揶揄ぎみに「ジャパニメーション」といわれた1980年代、日本製のテレビアニメーション=暴力とセックスの宝庫=子どもには有害、と理解されていた。特に、日本のアニメに子どもたちが熱狂していたフランスでは、『北斗の拳』(フジテレビ、1984―87年)などが、そのあまりにも暴力的な描写のために放送禁止になったこともあった。表面上は表現の過激さを理由にしているが、子どもや若者たちにあまりにも人気が沸騰したために、他国によるフランス文化侵略・侵食への不安もあった。そのトラウマは、コスプレを通じて再顕在化している。それが、Cosplay in Not Consent運動である(図4)。
図4
Cosplay is Not Consent運動とは、特に女性コスプレイヤーが、性的対象として体を触られたり、露出が多いキャラクターに扮しているとセックスアピールだと理解され性的暴力の対象になりやすいことから欧米で始まったムーブメントである。2013年にシアトルで開催されたアニメイベントAki Conで、女性コスプレイヤーが男性DJにレイプされた事件も起きている(4)。事件にならないまでも、身体(胸、尻、脚、背中など)を見知らぬ男性に触られる被害があとをたたないことや、承諾なしで撮影された写真(多くはスカートのなかや胸の盗撮)をインターネットにアップして、コスプレイヤーのプライバシーをさらす事例も多数あり、図4のようなイラスト入り警告や、イベント会場での看板が設置されるようになった(5)。
女性コスプレイヤーのなかには、自発的にわいせつなコスプレ写真をネットにさらしたり、卑猥なポーズをしてカメラ小僧(カメこ)に積極的に写真を撮らせるケースもないわけではない。しかし、純粋に好きなキャラクターになりたい、自分に合ったキャラクターがそれだった、というような、性的欲望の対象になることが目的ではなく参加した女性コスプレイヤーたちにとっては迷惑な話である。日本のアニメ、漫画、ゲームの女性キャラクターのなかには、露出が多い服を着た設定の未成年の少女や、胸を強調した服を着た成人女性も多く、虚構を現実に移し替える際に、セクシュアリティーの問題を回避するのは容易ではない。
注
(1)エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭/平田栄一朗/寺尾格/三輪玲子/四ツ谷亮子/萩原健訳、論創社、2009年、44ページ
(2)西村則昭『アニメと思春期のこころ』創元社、2004年
(3)Lawrence C. Rubin, “Big Heroes on the Small Screen: Naruto and the Struggle Within,” in Lawrence C. Rubin ed., Popular Culture in Counseling, Psychotherapy, and Play-Based Interventions, Springer, 2008, pp. 227-242.
(4)“Aki-Con’s Sexual Assault Case,”(http://cosplayisnotconsent.tumblr.com/)[2016年10月10日アクセス]
(5)Andrea Romano, “Cosplay Is Not Consent: The People Fighting Sexual Harassment at Comic Con,”(http://mashable.com/2014/10/15/new-york-comic-con-harassment/#484vIUNskkqI)[2016年10月19日アクセス]