鈴木智之(法政大学社会学部教授。著書に『顔の剥奪』〔青弓社〕など)
北村薫「円紫さんと私」シリーズにおける郊外の「町」
ミステリー作家・北村薫は、デビュー作『空飛ぶ馬(1)』(1989年)を起点として、博識な落語家・春桜亭円紫を探偵役に、女子大学生の「私」を語り手に配したシリーズ作品――「円紫さんと私」シリーズ――を著している。これらの作品では、殺人事件のような重大な犯罪を契機としてではなく、日常生活のふとしたなりゆきのなかに浮かび上がる小さな「謎」をめぐって物語が展開される。
他方で、一連の作品は語り手である「私」の「成長」の物語でもある。郊外の町に生まれ育ち、地元の女子高を卒業したあと東京の大学の文学部に進んだ「私」は、魅力ある教員や友人たち、そして落語家・円紫との交流のなかで、文学的教養を深めていくだけでなく、とりわけ「事件」との出会いを通じて人間的な成熟を遂げていく。各篇は、19歳から23歳になるまでの日々の緩やかな成長の軌跡を、1コマずつ丹念に追っていく。この間、「私」はずっと両親の家に暮らしていて、謎解きの対象になる「事件」もまたしばしばこの郊外の町に起こる。
断片的にちりばめられた手がかりから、その「町」は埼玉県杉戸町から春日部市にかけてのエリアであることがわかる。杉戸は作者・北村薫が育った町であり、彼は早稲田大学を卒業後、県立春日部高校の教員を長く務めていた。そして、作中の語り手である「私」の家もまた杉戸にあると推察され、彼女は隣の市(春日部)の女子高に通い、大学生になってからもしばしば市立図書館に足を運んでいる。
「国道16号線」の不在
杉戸、春日部は国道16号線(以下、16号と略記)沿道の町である(厳密にいえば、この道が杉戸町内を走ることはないのだが)。ところが、「円紫さんと私」シリーズのなかに、16号は一度も登場しない。「町」を舞台とする場面ではしばしば「国道」が描かれるが、それは常に「国道4号線」――旧日光街道――である。国道4号線(以下、4号と略記)は、「私」の生活圏内にあって、「物語」の展開に関わる場所として登場する。だが、16号は存在さえしないかのように、テクストの外部にうちやられている。しかし、作者である北村も作中の「私」も、この道と無縁の場所に暮らしていたわけではない。16号は、北村が教員を務めていた県立春日部高校のすぐ裏側を走っている。
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また作中でも、「私」の家がある杉戸と、通っていた高校や図書館がある春日部の町のあいだを16号は走っていて、「私」が春日部に行くときには、必ずこれを超えていかなければならない。作中に記されているように、「家」から「古利根川」の岸に沿って自転車を走らせるとすれば、「春日部大橋」の交差点で16号を渡ることになる。
このように、16号は物語の舞台になるエリア(杉戸から春日部)の中央を走っている。ところが、物語の語り手からは完全に無視されてしまう。だが、このような位置づけ(物語空間からの脱落)は、それなりの必然性をもっているようにも思える。この道は徒歩や自転車を移動手段にする町の人々の往来には使われない産業道路であり、車で移動する習慣をもたない「私」にとっては、「不在」であるにも等しい道だからである。生活空間・物語空間としての「杉戸・春日部」と、「無縁の道」としての「16号」。その(没)関係性を考えることも、「町」と「道」のつながりを論じる一つの回路になるのかもしれない。
物語の舞台としての「道」
まったく無視されている16号との対比で、物語の舞台として重要な意味をもつ道も登場する。
1つは4号である。「私」が暮らしている家は、おそらく杉戸町の県道373号線と古利根川のあいだのエリアに位置している。そこから、4号までは歩いて5分もかからない。そして、作中にはしばしば4号沿いの風景が描き出される。例えば「赤頭巾(2)」では、夜遅くに「私」が家を出て深夜営業の本屋にまで足を運んでいる。あるいは、「山眠る(3)」では、子どものころに、雪の日に「父と2人」で行ったことがある思い出の場所として、「国道沿い」の「郵便局」が思い起こされている。
それは、杉戸町清地2丁目に所在するこの郵便局かもしれない。
ただし、その地域にもすでに、確実に「ロードサイド」型の商業施設が進出し始めている。「私」の家の近くの4号沿いには、「ビデオCD」のレンタルショップが「ビリヤード場」と「本屋」を兼ねて開業し、深夜まで営業を続けている。
こんな時間に家の近くで本屋に入れるなどとは、高校時代には想像もしなかった。去年の冬、国道沿いのガソリンスタンドの隣に、ビデオCDレンタル兼ビリヤード兼本屋がオープンして、深夜までの営業を始めたのである。一方の隣は役場の広い駐車場だし、国道を挟んだ向こう側はカステラの工場である。特に今夜のように暗い夜には、派手とはいえないむしろ沈んだ風景の中で、点滅する極彩色のネオンは魔界の城のしるしのようである(4)。
一連の作品が描き出すのは、1970年代から80年代にかけて虫食い的に進行していく「郊外都市化」の流れのなかで、高度経済成長期以前の「町」とこれを侵食していく新しい「町」の要素とが混在する、いわば「過渡の風景」だが、ロードサイドの深夜営業の書店やビリヤード場が物語るように、「国道沿い」の風景もまた「郊外型」の開発にしたがって変容している。しかし、重要なことはおそらく、4号は人々の生活の履歴のなかで蓄積されていくさまざまな「記憶」の痕跡をとどめているということである。
そして、作品世界の構成を考えるうえで重要な、もう一つの道がある。それは、古利根川沿いの道である。「私」が住んでいると思しきエリアから、4号とは逆の方向に進むと、すぐに古利根川の河原に出る。「家」から川に出るルートについては、具体的な記述がある。
工場の塀に沿って回ると、川に出る。風景が大きくなって気持ちがいい。朝の光で、まぶしい。
土手は冬枯れの草の筈だが、一面の雪に覆われている。わずかに、川に接する辺りの、ふんわりとした白い裾から、葉先の黄色くなった緑が顔を覗かせている。遠くの橋に近い辺りでは家鴨が泳いでいることもあるが、今日は見えない。水量が減って大きな中州が出来ている。勿論、そこも白だ。元気に走ったらしい犬の足跡が、そんなところに8の字を描いている(5)。
「町」を舞台にした作品では、この古利根川沿いの道が、重要な出来事が起こる場所になっている。「私」が(春日部の)市立図書館に向かって自転車を走らせるのも、『秋の花(6)』でオートバイに乗ったかつての同級生「伊原君」と再会するのも、「山眠る」で母校の教員「本郷先生」と出会うのもこの河原の道だった。彼女の「成長」の節目になる出来事は、しばしば「古利根川沿い」の土手の道で起こる。物語の要所を占める出来事が生まれる場所、それは、ミハイル・バフチンがいう意味での「クロノトポス」である。
「私」の成長の物語が演じられる舞台としての「町」。4号と古利根川沿いの道は、その物語に「有縁な場所」としてある。それは、日々の有意味な出来事が生起するトポスであり、人々の生活の痕跡をとどめる「記憶の場所」である。そして、杉戸(生家・小中学校)から春日部(高校・図書館)へ、さらには東京(大学・職場)へとつらなるこの「南北の道」は、そのまま「私」の成長の軌跡を方向づけるルートにもなっている。
これに対して16号は「記憶なき道」だといえるだろう。ただ移動するだけの、通過するだけの「道」。そこには、出来事の痕跡が刻印されない。何度通り過ぎても、その場所にかつて営まれていた生活の記憶を呼び起こさない。16号はその意味で、この「町」の生活の履歴に対して「無縁の道」である。そして、この町に暮らし、成長していく「私」は、この不在の場所をただ通り過ぎていくだけなのである。
注
(1)北村薫『空飛ぶ馬』(創元推理文庫)、東京創元社、1994年
(2)北村薫「赤頭巾」、同書
(3)北村薫「山眠る」『朝霧』(創元推理文庫)、東京創元社、2004年
(4)前掲「赤頭巾」246ページ
(5)前掲「山眠る」86ページ
(6)北村薫『秋の花』(創元推理文庫)、東京創元社、1997年
参考文献
北村薫『空飛ぶ馬』(創元推理文庫)、東京創元社、1994年(初出:1989年)
北村薫『夜の蝉』(創元推理文庫)、東京創元社、1996年(初出:1990年)
北村薫『秋の花』(創元推理文庫)、東京創元社、1997年(初出:1991年)
北村薫『六の宮の姫君』(創元推理文庫)、東京創元社、1999年(初出:1992年)
北村薫『朝霧』(創元推理文庫)、東京創元社、2004年(初出:1998年)
『このミステリーがすごい!』編集部編『静かなる謎 北村薫』(「別冊宝島」第1023号)、宝島社、2004年
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