第25回 ミュンシュのライヴ

 この年末にパリ管弦楽団発足ライヴ録音(1967年11月14日)がアルトゥスから発売される(ALT182)。指揮はシャルル・ミュンシュ。当日のプログラムはドビュッシーの『海』、ストラヴィンスキーの『レクイエム・カンティクルス』、ベルリオーズの『幻想交響曲』だったが、このディスクにはストラヴィンスキー以外の2曲が収録されている。
  この演奏について宣伝文を書いてくれと依頼されて、私は以下のように書いた。「これは人間の演奏ではない。神と悪魔が手を組んだ饗宴である。大爆発、驚天動地、未曾有、空前絶後、千載一遇――こうした言葉をいくつ並べてもこの演奏の凄さを言い表すのに十分ではない。トリカブトの百万倍の猛毒を持った極めて危険なライヴ録音」
  私は、このなかから適当に選んでくださいと言ったつもりだったが、レコード会社はそのまま全部使用したようだ。これを読んだある人が、「ものすごいキャッチを書かれていましたねえ」と言っていたが、これは決して大げさではない。さらに言えば、これは過去10年20年に発掘されたライヴのなかでも突出して輝いているのだ。
  私はミュンシュという指揮者にそれほど強い思い入れはない。パリ管弦楽団発足を記念してEMIに録音されたベルリオーズの『幻想交響曲』、ブラームスの『交響曲第1番』も高く評価されるべき演奏だとは思うが、決して自分にとっての最高峰ではない。しかし、今回のライヴを聴き、このミュンシュという指揮者について、もう一度きちんと聴き直したいと思わせられた。とにかく、各パートが生き物のように動き、オーケストラ全体からは信じがたいエネルギーが放射されている。単に燃えているという言葉では言い尽くせず、取り憑かれていると言ってもまだ不十分だ。特にベルリオーズを聴いて思ったのだが、この約1カ月前のEMI録音と、その細部の表情がかなり違っていることである。つまり、この1カ月の間に、ミュンシュはまだ試行錯誤していたのだ。もうひとつは、これだけ荒れ狂っているのに、それほどオーケストラが乱れていないことだ。シェルヘンやアーベントロートのライヴのなかには、オーケストラが崩壊したかのような場面が含まれているものもあるが、それらと比べると、このミュンシュ盤の演奏は本当に個々の団員が棒に食らいついているのがわかる。
  この日は、フランス国内はもとよりヨーロッパ各地から各界の重鎮が列席していたことだろう。そのため、指揮者も楽団員もやる気満々だったことは想像に難くないが、それでも、これだけ空恐ろしい演奏が繰り広げられたというのは奇跡とも言うべきものだ。

 話題はがらりと変わる。けさの新聞を見たら、「ビートルズのモノーラル・ボックス、在庫僅少、お早めに」なんて広告が出ていた。そこには「モノーラルで聴いてこそ本当のビートルズの音がわかる」といったキャッチコピーがあった。これを見て、即座に自分が先日発売した『クナッパーツブッシュ/ウィーンの休日』(GS-2040)を思い出した。すでに買っていただいた方はおわかりだろうが、このCDにはモノーラル録音をあえてボーナス・トラックに加えている。ビートルズの広告にあるように、「モノーラルでなければ本当の良さがわからない」とまでは言わないが、このビートルズの広告が私の仕事をも評価してくれているような気がして、ちょっとうれしかった。あ、宣伝で申し訳ない、このGS-2040も在庫僅少です。

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想像力を刺激する音を求めて――『クラシック名盤名演奏100』を書いて

平林直哉

 今回上梓した『クラシック名盤名演奏100』だが、このなかには自分が制作したCDがいくつか含まれている。なぜ、こうしたCD制作を始めるようになったのか、そのきっかけについては旧著『盤鬼、クラシック100盤勝負!』を読んでいただきたいのだが、もうひとつ私が日頃から気をつけていることがある。それはCDの解説書である。
  LPを買い始めた頃、あの見開きのデラックス・ジャケット盤はあこがれであった。わくわくして、神妙に見つめていた。そこに書いてあることがまだ完全に理解できたわけではないが、読めばなんとなく偉くなったような気がした。写真類もあれこれと掲載されていた。たとえば、ベートーヴェンが生きていた頃の街並みとか、作曲家が作品を仕上げた別荘、あるいは録音セッション風景、アーティストとその家族の写真とかである。それらを見て、あれこれといろいろなことを想像したのであり、こうした行為はいま思い出しても実に楽しい日々だった。
  ところがこの時代、CDも「安ければよし」という風潮に染まっている。CDを作ったことがある人にはわかりきったことだろうが、この解説書(ブックレット)はコストが高い。したがって、制作者が真っ先にこれをカットするのは十分に理解できる。けれども、何も書いていない、あるいはありきたりのことがごく少量書かれているだけとか、そんなCDを手にすると、少なくとも私は聴く意欲がさほど湧いてこないのである。
「文藝春秋」2009年12月号には「ユニクロ栄えて国滅ぶ」という浜矩子氏の一文が掲載されていた。その内容をごくおおまかに言えば、利益がないに等しい商品は賃金を低くし、消費はさらに低迷し、結果として生活を圧迫する悪循環を生むというものである。この文に追従する形で同誌2010年1月号に、作家の塩野七生氏が「価格破壊に追従しない理由」を寄稿していた。塩野氏は「価格破壊は文明の破壊」と位置づけ、その理由を「想像力の欠如」としている。たとえば、塩野氏自身は高価なハンドバッグを買うと、これに合う服は何か、あるいはどういうスタイルで持てばいいのか、と想像力が刺激されるというのである。そして印象的だったのは、塩野氏の「想像力とは筋力に似て、使わないと劣化するという性質を持つ」という言葉だった。さらに自身の創作についても、「損をさせません、と言える作品を書くには、頭脳と時間とおカネは充分に使う必要がある」、だから結果的に高くならざるをえないとも結んでいる。
  私がこれまでに作ったCDのブックレットには、埋もれさせておくには惜しい原稿を再使用したり、海外の文献を訳してもらったり、さらにはCDのために新規に依頼したインタビューを掲載したことも少なくない。要するに時間とお金はそれなりにかけているのである。こうした文章のなかには、たとえば「クナッパーツブッシュの地鳴りのような音」とある。これはいったいどんなものだったのか想像したくなるに違いない。また、「フルトヴェングラーの指揮で同じ曲を何度も演奏しても飽きなかった」というのはなぜなのか、その理由を多少なりとも考えたりするのではないだろうか。
  あしらいに使用したプログラム類にも気を遣った。ときには「なんでこんな薄っぺらい紙切れ1枚にあんなに高額を払ったのだろう」と後悔することもあったが、このプログラムを手にした人はどんな職業だったのかとか、その人はどれほどの感慨を抱いて帰路についたのかといったことに思いをめぐらせていくうちに、そうした苦労は次第に忘れてしまう。
  表紙に使用するアーティスト写真も重要である。いくらPD(公的所有物)音源とはいえ、先人たちの数々の苦労によって生み出された音源を拝借してCDを制作するのである。そこに、ありきたりの写真を使用することなど、とても失礼ではないか。手抜きブックレットにすれば、おそらく現在の倍以上のペースで発売することも可能である。しかし、そうしてしまえば、それこそ自分の想像力が一気に低下してきそうである。
  物書きなのにこんなにCD制作をしていていいのか、とときどき思う。でも、そうした作業を通じて、原稿に生かせるものをたくさん吸収していることも事実である。物書きとCD制作を通じて、最近特に強く思うことがある。それは「世の中には自分の知らないことが多すぎる」である。

ヴァーグナーを(で)笑え?――『ヴァーグナーの「ドイツ」──超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ』を書いて

吉田 寛

 先日、私の勤務先の大学で、フランス人とカナダ人の研究者と一緒にランチをする機会があった。前者はフランスから集中講義のために来ている哲学研究者で、私とは初対面、後者はフランス語圏カナダ人の政治学・経済学者で、私の同僚である。その場にいた私以外の全員がフランス語を話せるが、私はフランス語を話せないので、私が会話に加わると全員が(バイリンガルであるそのカナダ人以外にとって不慣れな)英語にスイッチしてくれる。だから、以下で紹介する会話は英語でおこなわれたものだ。
  最初の自己紹介の折に、その場にいた私の別の同僚(日本人)が、私が最近ヴァーグナーについての本を出版したことをそのフランス人研究者に伝えた。おそらくはそのためだろうが、そのランチの途中で(文脈は忘れてしまったのだが)ヴァーグナーの話題になり、フランス人研究者は私に「ウッディ・アレンのヴァーグナーに関するジョークを知っているか?」と尋ねてきた。彼の口ぶりではかなり有名なジョークらしく、いかにも当然知ってるよね?といった感じで聞かれたのだが、私は本当に知らなかったし、その場の日本人は全員知らなかったようだったので、せっかくなので(話題を流すこともできたのだが単純に知りたかったこともあり)教えてもらうことにした。
「私はそんなに長くワーグナーを聴けない。ポーランドを征服したくなる衝動にかられるから」というのがそのジョークである。後で調べたところ、ウッディ・アレンの『マンハッタン殺人ミステリー』(1993年)という映画に出てくるせりふらしい。フランス人研究者はこれをわれわれに紹介して、隣のカナダ人研究者と一緒に大爆笑。ただ私は(他の日本人もおよそ同様だったが)意味はわかるが、どこが面白いのかわからず、つられて苦笑するのがやっとであった。
  さて、この日のランチ以降、現在まで私が解決できていない問題は、この「笑い」のギャップは何だったのか、ということだ。言うまでもなく、ポーランドを侵攻したヒトラーがヴァーグナーを好んで聴いていた、という歴史的事実(およびそれに関する知識)が、このジョークの「意味」を形成している。だが、そのジョークで「大爆笑」できるかどうかは(すべてのジョークがそうであるように)、そうした「意味」とはまったく別の次元にある。意味がわからなければ(普通は)大爆笑はできないが、意味がわかったからといって(私がそうだったように)大爆笑できるとはかぎらないのだ。そして想像するに、私の周りの人々(分野は様々だが大半は日本人の研究者)はそのジョークの意味は理解できるはずだが、それを聞いて大爆笑はしないはずだ。ちなみにそのカナダ人の同僚は、日頃の笑いのツボはわりあい私と似通っているのだ。
  これは単にジョークや「笑い」に対する国民性の違いなのか(いわゆるフレンチ・ジョーク?)。それともとりわけ日本人が第二次世界大戦の影をまだ引きずっているからなのか。あるいは(その映画を見ていないから何とも言えないのだが)、歴史の大きな暗部をも「大爆笑」に変えてしまうウッディ・アレンの才能が特別なだけなのか。それはわからない。とにかく私はいま、ヴァーグナーなるものの本質は依然としてまったく謎だなあと落胆しており、だがそれと同時に、その日に目にした「大爆笑」が未来に向かうどこか明るい兆しであるような気がしている。
  ところで、私が『ヴァーグナーの「ドイツ」』をお送りした方々のひとりに、同年代の友人で、ドイツに留学してベートーヴェン研究で博士学位を取った新進気鋭の音楽学者がいる。その彼は、本を受け取ると即座に丁寧な御礼のハガキを私に送って寄こし、しかもそのハガキにヴァーグナーをあしらった絵葉書を用いる、という小粋なプレーを演じて私を脱帽させた。その絵葉書には「ヴァーグナーの音楽は聞こえほど悪くはない(Wagner’s music is better than it sounds)」というマーク・トウェインの言葉がドイツ語と英語で併記してある。
  さあ、またしてもヴァーグナー・ジョークだ。要は、何だかんだ言っても結局はひどい音楽だ、というわけである。しかも驚いたことに、後で本人の口から聞けば、この絵葉書はバイロイトのヴァーグナー記念館で買ったものだという。確かにそう聞いたうえでよく見ると、それまでは気付かなかったが、背景の絵は祝祭劇場のバルコニーと思しき場面であるし、隅っこに小さく「バイロイト:リヒャルト・ヴァーグナー祝祭」と印刷されてもいる。だが、バイロイトでこのような絵葉書をこっそり(かどうか知らないが)売ってしまうユーモアの感覚は、先に紹介した「大爆笑」とは違う意味でだが、やはり私には(その友人も同様の感想を述べていたが)理解しづらいものであり、また意外でもあった。一般的には日本人以上に「お堅い」と言われるドイツ人もなかなかやるじゃないかという感じだ。
  こうしたユーモアやジョークの感覚、あるいはその効果としての笑いは、先に述べたように、表面的な知識や解釈の層ではなく、人間の心のより深い部分に根ざしている。したがって、それを分析対象として捉えて、言語化し、議論の俎上に載せることは容易ではない(昨今のいわゆる「お笑い論」のようなものがしばしば失敗しているのはそのためだろう)。だがそうした部分にまであえて踏み込まないと、今日において本当にヴァーグナーについて考えたこと、論じたことにはならないのではないか、と私は、以上で記した体験を踏まえて、いま痛感しているところだ。次にヴァーグナーについての本を書くときには、ぜひこうした「笑い」の心性までをも視野に入れてみたいと意気込む一方、どうせジョークそのものの力には勝てないのだからと諦めてもいる。だったらいっそのこと新しいヴァーグナー・ジョークの1つでも作ってやるか、という野心はかえって身の程知らずだろうか。

現場で会える、きっと。――『スポーツライターになろう!』を書いて

川端康生

 本書のお話をはじめにもらったのは2006年春のことだったから、3年以上前になる。当時はちょうどドイツ・ワールドカップの直前。多忙さを言い訳に頭の隅の、さらに隅の方にうっちゃっているうちに時は流れ、ワールドカップが始まり僕はドイツへと旅立ち、興奮と熱狂の1カ月を過ごすうちに、ついに頭の隅からもこぼれ落ちた。ひどいことに忘れてしまったのである。
  依頼された「スポーツライターになろう」というテーマに、正直に言ってさほど食指が動かなかったせいもある。スポーツ選手になるのではなく、「スポーツライター」になる以上、やるべきトレーニングは決まっている。ライターとしての技術、つまり日本語の文章技術を身につけることである。ライター志望者ならそんなことはわかっているに違いないし、わかっているだけじゃなくそれなりの技術はすでに持っているはず。だとすれば、改めてアドバイスすることなどさほどないのではないかと感じていた。「わざわざ何を書けばいいのだろう?」と首を捻っている面もあった。

 そんな不誠実で懐疑的な僕が、それも3年以上もたったいまごろになって、今度は自分から「もしよかったら書かせてください」と申し出て本書に取り組んだのは、この間にスポーツライター志望者に対する認識を改める経験をしたからだ。
  2007年に、Jリーグの湘南ベルマーレの賛同を得て「スポーツマスコミ塾」を開講した。受講資格は高校生以上の男女。要するに10代や20代の学生から社会人まで、様々な立場や境遇のスポーツライター志望者と向き合うことになったのだ。
  そんななかで実感したのは、スポーツファンとスポーツライターとの一線に無頓着な志望者の多さだった。「スポーツライターになりたい」と言いながらほとんど本を読んでいない者、文章を書こうとしたことがない者、そういう受講者が少なくなかったのだ。
  なんのことはない。スポーツライターという職業の根幹である「書く」ということに対して無自覚なままに「スポーツライターになりたい」と願っているのである。もちろん、そんな願いが叶うことはありえない。
  だからスポーツマスコミ塾では最初の講義で「サッカー選手はボールを足で扱う仕事ですよね。ねらったところにボールを蹴るためにキックの練習をしますよね。その前に90分間走れる体力が必要ですよね。そのためにサッカー選手がトレーニングしているのはご存じのとおり。では、スポーツライターとはどんな仕事でしょう?……ならば、どんなトレーニングが必要でしょう?」と必ず問いかけるのが恒例になっている。
  そして毎講義(自主トレと称して)課題を出して、原稿の提出も求めるようにしている。とにかく「書く」ことに慣れてもらうためである。できるだけ原稿を書く機会を作るようにして、スポーツファンからスポーツライターへと塾生の意識を変え、スキルを身につけてもらおうと腐心しているというわけだ。
 そんな経験を反映して書いたのが本書である。だからスポーツマスコミ塾での講義と同じ流れで構成されている。まずは意識改革。スポーツ選手でもスポーツファンでもなく、スポーツ「ライター」になるのだという自覚を持ってもらうことからスタートし、それから「取材」や「企画」といったスポーツライターとしての専門技術へと進んでいく。
 同時にハウツーめいたことから営業や収入といった下世話なことまで、スポーツライターがどんな世界なのかを知ることができるように具体的なエピソードも挿入しながら紹介した。スポーツライターとして押さえておくべきことはひととおり網羅したつもりである。
 もちろん本気で「スポーツライターになろう」と思えば、まず書かなければならない。書けば書くほど必ず上達していくことは塾生たちを見ていても明らかだ。真面目に自主トレをこなし、原稿を書くことに慣れた者は必ずうまくなっていくのである。
 ちなみにスポーツマスコミ塾の受講生のなかからも、すでにプロのスポーツライターとしてデビューした者も出ている。やっぱり本気で「スポーツライターになろう」とした塾生である。本気で取り組めば、必ず原稿が書けるようになり、実力があればチャンスは意外に巡ってくる、スポーツライターとはそんな世界なのだ。
 本書を読んでスポーツライターを目指した本気のあなたと現場で会える日だってきっとくると僕は信じている。

第24回 盤鬼と“ねこけん”の共演が実現!

 盤鬼・平林と“ねこけん”こと金子建志の共演がこの11月に実現する。……などと書くとちょっと食品偽装風になってしまうが、2人が同じ舞台に立つことには間違いない。
  周知のように、金子さんは明晰な音楽評論を展開する一方で、アマチュア・オーケストラを振る機会も非常に多い。私はかねてから金子さんから「一緒にやりましょうよ」と言われていたが、なにせ金子さんの本拠地は千葉・習志野方面である。臨時団員として本番前の数回の練習に参加するとしても、通うのはちょっと厳しい。そんなことだから、一緒に演奏する機会はなかなか訪れなかった。しかし、それがこの11月14日にようやく実現する。
  金子さんの指揮で私が何か協奏曲を弾く、そうなればいちばん面白いのだろうが、残念ながら私は人前で協奏曲を披露するような技量は持ち合わせていない。単にヴァイオリン奏者のひとりとして参加するだけである。こう言うと、「おっ、コンマスですか?」なんて返す人もあるが、そうではない。
  これまでに何回か金子さんの練習に出たが、あの評論のように非常に的確に、わかりやすく説明してくれるし、全体の流れも非常に円滑だ。雰囲気も明るくて、弾く方としてはたいへんにやりやすい。また、合間にいろいろな指揮者や音楽史的なこぼれ話をはさんでくれるのも興味深い。アマチュア・オーケストラの団員のなかに金子信者が多数存在するというのも十分にうなずける。
  さて、今回のプログラムだが、モーツァルトの『ドイツ舞曲K.571』、ブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』、モーツァルトの『交響曲第40番』というものである。もともとこのオーケストラはトロンボーンがオプションという小編成のオーケストラで、マーラー、ブルックナーはおろかチャイコフスキーの交響曲も過去に一度も取り上げていない。そのため、こうしたこぢんまりとしたプログラムになっているのだが、まず『交響曲第40番』がメインというのはまずめったにお目にかかれないのではないかと思う。それ以上に珍しいのがK.571の『ドイツ舞曲』である。この曲はセットものでもCDでも聴く機会がなかなかないし、プロ・アマを含めても過去に演奏会で取り上げられた回数は極めて少ないと推測される。おおげさに言うと、今回の機会を逃したら次はいつ実演に接することができるかわからない作品でもある。それをプログラムに入れるというところが、いかにも金子さんのマニアック魂である。
  さらに言うならば、アンコールにも隠し球がある。それは某有名曲を金子さん自身が編曲したものだ。それは何か? 答えは会場に足を運んで確かめていただきたいと思う。なお、オーケストラはアマチュアなので、過度には期待しないでほしい。演奏会の詳細は以下のとおり。

 狛江フィルハーモニー管弦楽団第24回定期演奏会
  演目/モーツァルト『ドイツ舞曲K.571』
      ブラームス『ハイドンの主題による変奏曲作品56a』
      モーツァルト『交響曲第40番K.550』
  日時;2009年11月14日(土曜日)13時30分開場、14時開演
  会場;狛江エコルマホール(小田急線・狛江駅前、小田急OX4F)
  入場料;1,000円(中学生以下500円/当日券あり)
  *未就学児童の入場はご遠慮ください。
  団のホームページ;http://www.komaphil.com/

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チームスポーツとしての共著――『幻の東京オリンピックとその時代――戦時期のスポーツ・都市・身体』を刊行して

坂上康博

 12人で取り組んできた共著『幻の東京オリンピックとその時代――戦時期のスポーツ・都市・身体』が出版された。予定よりも1年ほど遅れてしまったが、デッドラインと定めてきた「2016年のオリンピックの開催地が決定する10月のIOC総会」にはギリギリ間に合った。このことがまずうれしい!
  石原慎太郎東京都知事を先頭に展開されてきた東京オリンピックの招致運動も、そこでひとまず決着がつくことになるが、なんとしてもその前に本書を出したかった。そこにこだわったのは、現在進行中の東京オリンピックをめぐる議論に“参戦”したいという強い思いがあったからだが、とはいえ本書は“緊急提言”を携えた際物とは違う。現実の動向をにらみながら、そこからは一定の距離を置き、歴史的な事実を丹念に追究した歴史研究の書である。
  そんな本を12人全員で、最後まで誰一人ドロップアウトせずに書き上げることが、できたことがこれまたうれしい。そこには単著の完成とはひと味もふた味もちがう特別の喜びがある。それは、力を合わせてゴールに向かうという、チームスポーツの醍醐味に似ている。サッカーに例えれば、絶妙なパスやアイコンタクト、チームメイトによる励ましなど、そんなシーンがたくさんあった。そしてスポーツ社会学、スポーツ史、日本近・現代史、デザイン史といった専門領域(ポジション)が異なる個性的なメンバーだからこそできた絶妙なコンビネーション。いまは出版を終えての安堵感とともに、このチームでの活動がこれで終わるという何ともいえないさみしさが同時に込み上げてくる。
  さて、本書は当初、「学生や一般読者がすんなりと読み進められるよう質は落とさず、しかし文章は平明に」を方針として掲げ、つまり研究書と一般書の中間的なもの、文章も価格もそのようなものを目指した。文章については妥協せずにこの方針を最後まで貫いたつもりだが、価格に関しては、残念ながら4,200円(税込み)という一般書とは言いがたいものになってしまった。
  全部で12章、計452ページ、写真が143点、図表が40点というボリュームなので、むしろこの価格で出せたこと自体が奇跡的だと思うが、分量の膨張をコントロールできなかった責任は、やはり編者が負わなければならないだろう。分量オーバーの原稿に対しては何度か削ってもらったが、時間がたつとまた膨れ上がる。新しい史実や史料の発見があって、それらがどんどん付け加わってくるからだが、それらについては「もったいない」という気持ちがはたらいてしまい、なかなか削れない。
  そんな葛藤を伴いながら刈り込み作業を重ねたが、それでも当初予定の2倍近くの分量になってしまった。さてどうするか? 2冊に分けるという案も検討したが、せっかくの一体感が壊れる。悩みに悩んで、最後は「写真と図表を削れるだけ削ってそれで出版」ということになった。
  だから本書は、2冊分の内容をもち、しかも100点を超える写真と多くの図表を掲載した、つまりヴィジュアル的にも資料的にも充実したものとなっていて、このような中味からすれば決して高い価格ではない――そんなふうに読者のみなさんが思ってくれたらうれしいのだが、さて結果はいかに?

突撃隊の消息について――『村上春樹と物語の条件――『ノルウェイの森』から『ねじまき鳥クロニクル』へ』を書いて

鈴木智之

 三人称を基調として書き進められるようになった最近の長篇(例えば『1Q84』)では少し様子が違うのかもしれないが、もっぱら一人称の視点から語られていた頃の村上春樹作品では、語り手であり主人公である人物――「僕」――が、少なくとも見かけ上は特に傑出するところのない「普通」の人として設定されることが多かった。それは、作家が主人公に等身大の自分自身を重ね合わせながら物語世界を造形していたということでもあるだろうし、またそれゆえに、読者の感情移入をしやすくする仕掛けになっていたとも思う。これに対して、主人公の周辺には、あまり「普通」とは言い難い個性あふれる脇役たちが、作品を経るごとに数多く配置されるようになる(その傾向は『羊をめぐる冒険』にはじまり、『ねじまき鳥クロニクル』で最も顕著になる)。おそらく、取り立てて突出するところのない人物を中心に長い物語を書き進めるために、そういう装置が必要になっていったのだろう。
  では、物語世界のなかで脇役たちは何をしているのか。それは読解を進めるうえで1つの焦点となる。もちろん、彼らは主人公が生きていく世界に現れる「他者」であり、物語の共演者である。現実の世界と同じように、人は他者との関わりのなかで何かを求め、何かを妨げられ、そうして何者かになっていく。「僕」の生きる世界に内在し、これを構成する要素としての他者。そういうものとして脇役たちの役割を考えなければならない。しかしそれだけではなく、村上春樹の作品ではしばしば、際立った個性を備えた人物たちが、主人公の抱えている問題――したがってまた作品全体の主題――を極端な形で体現し、論理的に純化された形で提示している。そのことを強く意識するようになったのは、『ノルウェイの森』についての論考(本書の第一部)を書いているときだった。「永沢」や「ハツミさん」や「レイコさん」が直面している問題を考えていくことが、そのままこの作品全体を動かしている「問い」の摘出につながる。同じことは、『ねじまき鳥クロニクル』についてもいえる。「加納クレタ」や「赤坂ナツメグ」のエピソードこそが、作品の構造を明らかにする鍵になっているのだ。このとき、脇役たちは、物語が物語に対してほどこす「解説」の役割を果たしているように見える。テクストによる作品への「注釈」とでもいえばいいだろうか。
  ともあれ、一見したところ物語の本筋にどう関わっているのかわからないような周辺のエピソードをクローズアップして、脇役たちを作品理解の導き手に抜擢する。それが、本書で採用した1つの方法論上の選択である。そして、その作戦は割合にうまく機能したのではないかと、ひそかに自画自賛している。少なくとも、多彩な脇役たちに大切な場所を割り当てることができた、と思う。
  だからこそ、この本のなかでまともに語ることのできなかった周辺的な人物のことが気がかりである。その1人は、『ノルウェイの森』の「突撃隊」。もう1人は、『ねじまき鳥クロニクル』の「牛河」である。どちらも、そのほかの登場人物たちとは明らかに違う雰囲気をもち、その「育ち」からして異質なものを感じさせる。いわば彼らは、「僕」の世界に間違って入り込んでしまった「闖入者」である。だから、こういう人たちの登場にこそ、物語の現実感覚が凝縮されているに違いない。そういう思いが、読んでいるときにも、書いているときにも色濃くあった。にもかかわらず、何も書けなかった。そこに、書き落としたものがあるような気がしている。
「綿谷ノボル」の秘書として「僕」の前に現れた「牛河」は、『1Q84』で相変わらずのいやらしい押しの強さを見せて再登場している。「牛河」は健在だ。いずれは、彼を真ん中に据えて、作品横断的な論考を書くことができるかもしれない。だが、「突撃隊」はどうしているのだろう。『ノルウェイの森』で、「僕」が暮らしている寮の同室者であった彼は、「国土地理院」に入って「地図を作る」ことを目標に「国立大学で地理学を専攻していた」。毎朝、1つの手順も省略せずラジオ体操を繰り返していた「突撃隊」。「直子」が京都の療養所へと移ってしまったあと、孤独を抱える「僕」に「蛍」をくれた「突撃隊」。しかし彼は、夏休みが明けて大学が再開されても、山梨の実家から戻ってこなかった。どんな事情があったのか、説明は一切なし。突然の退場。その後、消息は途絶えている。
「突撃隊」的なるものには居場所がない世界。「僕」や「緑」が生きていかなければならないのは、そういう世界なのだと了解してしまうことはできる。しかしそれはどこか寂しく、空恐ろしい。「突撃隊」はいまどこで何をして生きているのか。いまの僕には、それが気になってならない。

第23回 ピアニスト、久野久のこと

 久野久(くの・ひさ)というピアニストをご存じだろうか。彼女は1886年(1885年とも)に、滋賀県で生まれ、1925年に死去した。私が久野を知ったのは中村紘子『ピアニストという蛮族がいる』(文藝春秋、1992年)だった。そのなかで最もショッキングな記述は、久野はしばしば演奏中に鍵盤が血で染まったということだった。彼女はピアノにうずくまったまま朝を迎えることが珍しくなかったほど猛練習したらしいが、中村は自身の経験をふまえても、鍵盤が血で染まる理由はわからないとしている。もうひとつ鮮明に覚えているのは、久野はウィーンに留学し、現地のピアニストの演奏を聴いてショックを受け、ホテルから身を投げて自らの命を絶ったことだ。
  最近発売された『ロームミュージックファンデーションSPレコード復刻CD集』(Ⅳ)を手にしたとき、私はまずこの久野が弾いたベートーヴェンの「月光」ソナタが入っていることに驚いた。中村の著作でも久野の演奏については具体的に触れていないので、この本を執筆中には中村もまだ久野の録音を聴いていなかったのだろう。実際、このSP盤はウルトラ・レアであり、今回は昭和館所蔵のコレクションから復刻されている。
  中村の著作によると、久野は演奏中に激しく身体を動かすので、頭のかんざしがはずれることがしばしばだったようだ。また、ロームのCD解説によると、レパートリーではベートーヴェンを得意とし、そのベートーヴェンの後期のソナタを弾いたのは久野が初めてと言われている。鍵盤が血で染まり、かんざしがはずれるくらいとなると、よほど激しいベートーヴェンだったと想像される。しかし、今回のSP盤は久野が渡欧する前の1922、23年頃、つまりラッパ(アコースティック)吹き込みによって収録されたため、ダイナミック・レンジが極端に狭く、細部も不明瞭である。そのため、文献上で言われているような激しさはあまり感じ取れないと思う。しかし、私は特に第1、2楽章に感銘を受けた。微妙なテンポの揺れのなかに、えも言われぬ妖しい雰囲気が立ち上ってくるのは印象的だった。いずれにせよ、伝説のピアニストの音が聴けたのは望外の喜びだった。
  このセットの概要について、ごく簡単に触れておこう。日本人の演奏家と来日演奏家とのオムニバスなのは先行の3巻と同様だが、今回も中古市場ではまずお目にかかることができない超貴重なSP盤からの復刻を多数含んでいる。このセットを聴くと、情報が乏しかった時代の日本人の演奏は一般的に思われているほど稚拙ではないし、今日のそれとはまた別の味があることがわかる。また、魅力的であり意外性に富んだ日本人作品も非常に多いし、来日演奏家の演奏(海外作曲家と日本人作曲家の作品)も興味深いものばかりである。解説書も充実しており、聴くほどに読むほどに、かつての日本の音楽界の奥深さを知ることになるのだ。それにしてもこのセット、全4巻の充実ぶりは破格である。これこそがレコード(記録)である。関係者の努力と熱意には心から敬意を表したい。

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レッスンとしての写真――『現代アメリカ写真を読む――デモクラシーの眺望』を書いて

日高 優

 写真の寡黙さの豊かさや深さを、どのようにしたら掬い取ることができるだろう――私が本書を通じてただひたすらに追求しようとしたのは、そうしたことでした。「写真に潜勢するものに応答しなくては」という想いが写真の研究を始めた当初からいまなお私を突き動かしていて、ほとんどそれだけが写真を研究し続けていることの動機だといっても過言ではないぐらいなのです。そして、なかには奇妙と思われる方もいるかもしれませんが、私は写真を研究してはいても写真マニアではなくて(幸か不幸か、ちっとも!)、写真的経験を生きる現代のひとりの凡庸な人間だからこそ、ジャーゴンや学問のトレンドに過度に囚われることなく、それ自体は言葉を持たない寡黙な写真の、しかし私たちの生に穴を穿つほどの力を掴まえることの方へと赴くことができたのかもしれない、などと考えるのです。どうやら私のスタンスは、「社会的風景」展のネイサン・ライアンズの思考、そしてもちろん、彼が参照点としたジョージ・ケペシュの思考と共鳴しているようです。ともあれ、すでに世に船出した一冊の書物にとって、作者や作者の個人的な感慨など、どうでもいいことではないでしょうか。そんなことよりも大切なのは、どんなに拙い言葉たちではあっても、本書のなかの言葉たちが、読者のみなさんの写真的経験、生の経験と結ばれ、生きられるということなのですから。
  本書の終章にも記したように、〈デモクラシーとしての写真〉とは、究極的には、「私たちが自らの感度を上げて写真になる」という企図のことを意味しています。つまり、「写真が世界の潜像を結ぶ場所であるようにわれわれは自らを世界の可能態へと向かう地点とし、自らを潜勢する関係性に普段に開き続ける主体性生の運動の場として生きる」。そして、〈デモクラシーとしての写真〉を生きるということは、混迷状態と見える現代の社会を生きるための、ひとつの不可欠なレッスンになるのではないでしょうか。それは、世界に潜在する他なるものへの感度を上げて、この世界のただなかで生きるというレッスンです。本書は、社会から逃走するのではなく、社会のただなかにいて諸力に拘束されたり痛みを感じたりしながら生きる凡庸な私たちの、パフォーマティヴな〈倫理的主体の生成〉というモメントを探索しています(写真ではこれまでほとんど探索されてこなかったけれども、しかし、私たちがこの世界に希望を持つことがゆるされるのだとすれば、決定的に重要なモメントになるのではないでしょうか)。要するに、写真になる、写真を生きるとは、そうした主体になるためのレッスンなのです。
  本書とともにアメリカの歴史を駆け足で紐解くだけでも、私たちは自己の過剰なる重力圏を解除して、他なるもの、他者を見出すのにどれだけの時間を要してきたかが痛感され、思わず愕然とすることでしょう。そして本書が明らかにするのは、写真が潜在する他者や他者との関係性を可視化しそれらに視線の権利を与えてきた、ということです。さらに、写真は一見寡黙ながらも/寡黙だからこそ、私たちの社会をいまなお浮き足立たせている「世界の中心で愛を叫ぶ」的美学(「エコ」や「コミュニケーション」の「優しい関係」を言祝ぐ美学)に穴を穿ち、その抑圧下に潜勢するものを解き放つ可能性を帯びているのです。
  写真関係の多くの書物のなかでも、本書はとにもかくにもユニークな位置を占めているかもしれません。写真の経験を掬うというスタンスを追求した結果がこの書物です。しかし、写真自体を把捉しようと写真に向かっていく研究、写真に潜勢する力を見出そうとする研究は、残念ながらむしろ意外にも少数派です。ましてや、本書はデモクラシーというもうひとつの系を引くわけですから……。とはいえ、別段、本書は奇をてらったものではありません。本書をお読みいただければ、「写真とデモクラシー」とは、なぜかこれまで書かれてこなかったことが不思議なぐらいの、書かれるべくして書かれたテーマであると感じ取っていただけるのではないでしょうか。

 本書を辿る読者のみなさんの眼差しのうちに、デモクラシーが発火しますように。

スポーツした文学研究者たち――『スポーツする文学』を出版して

疋田雅昭

 言うまでもなく、昨2008年はオリンピックイヤーであった。本来ならば、そのタイミングを狙っていた本書の刊行だったが、諸般の事情でやっと先月刊行に至ることができた。しかし、当然のことながら、われわれが議論の前提としているスポーツをめぐる諸事情が、この1年で変わってしまったなどということはありえない。
  スポーツで起こるプレーの興奮や感動とは、それまでにあったチームや選手たちの「物語」や「意味」の共有を前提にしていることが多い。そうでなければ、同じスポーツには同じプレーが起こる確率は決して低くはないわけだから、過去に起こった同様なプレーとの差異を決定する具体的な要因などあるわけはない。だから、このこと自体は意識するにせよしないにせよ、むしろ常識なのだ。しかしながら、これまでのスポーツ研究は、スポーツが持つこうした「物語」や「意味」の存在をあまりに軽視してこなかっただろうか。または、個別の「物語」や「意味」にこだわりすぎて、それを抽象化するアプローチを忘れてはいないだろうか。
  われわれ「文学」を専門とする人間が、多くは社会学や歴史学的範疇で語られてきたこの言説群に参入しようと思った理由もまさにここにある。「……史」を構築しようとするのならば、具体的な物語に拘泥するような語り方も重要だろう。また、社会学的に考えるのならば、それぞれの時代とスポーツの関係を数値など様々なデータを基に構築していく語り方が必要になるのかもしれない。
  だが、われわれは、スポーツが起こす感動を支える「意味」や「物語」に徹底的にこだわる。それも、それらを支えるメカニズムを眼差す言葉を会得したいと思うのだ。それは、やや大風呂敷を広げれば、社会学や歴史学との「対話」の申し込みでもある。これをスポーツになぞらえて「試合」と言いたいところだが、もちろんこの「対話」に勝ち負けがあるわけではない。そう考えてみれば、われわれが扱うスポーツにも必ず勝ち負けがあるわけではないことに思い至る。あるときは自己探求のため、あるときはストレス解消や健康維持のため、またあるときは無目的にスポーツを楽しもうとすることさえある。
  もちろん、スポーツ研究をめぐる言説のレベル向上のために他流「試合」をしなくてはならないこともあるだろうし、より一層の技術向上のために「練習」を続けていくことも怠ってはならない。だから、われわれ執筆者一同としては、そういった「試合」を楽しみにもしている。ぜひ、お申し込みいただきたい次第である。
  しかし、同時にわれわれは「スポーツ」をしたかったわけでもある。スポーツの目的は様々である。だから、われわれはチームでもあるが、一方でそのチームの選手のスタンスは多種多様でもある。様々な目的を包摂したスポーツ……。その成果がこの書籍である。およそ3年間の合同トレーニング(なかには合宿まで含まれている!)によって、飛躍的に技術が向上した者もいれば、まだまだ向上の余地が望まれる者もいるかもしれない。そして、われわれのスポーツにも、今後様々な「意味」や「物語」が付与されていくだろう。そういった意味でも、われわれは「スポーツ」を「文学」したのである。