第33回 飯守のブラームス

 飯守泰次郎指揮、関西フィルハーモニー管弦楽団による『ブラームス 交響曲全集』(フォンテック、FOCD9476/8)が発売された。特に何も考えずに、まず「第1番」の頭を鳴らしてみた。すると、響きもたっぷりしていて透明感もある。「かなりいい音だ」と思った。ならば、とほかの3曲も同じく頭の部分をかけてみると、同傾向の音がする。録音機材でも入れ替えたのかと思って帯やら中の解説を見たら、これは最近には珍しくライブではなく、完全にセッションで録ったものだという。収録は2009年4月(「第1番」「第2番」)、10年3月(「第3番」「第4番」)で、場所は大阪のいずみホール。
  私はこのホールには一度しか行ったことがないが、響きのいい中ホール(座席は約800席)だったと記憶する。その響きを十分に生かしたのが今回の全集なのだが、私は猛暑にもかかわらず、ある日の午後に「第4番」→「第2番」→「第3番」→「第1番」という順序で、一気に聴き通した。
  出来のよさにあえて順位を付けるならば、「第1番」、「第2番」、「第4番」、「第3番」となるだろうか。たとえば第1番の冒頭部分、ここは数あるCDのなかでもすごく立派な部類に入る。悠然と堂々と鳴り響き、ティンパニもなかなか雄弁。ブラインド・テストをすれば、「ベーム? ザンデルリンク? クレンペラー? コンヴィチュニー?」なんて声が出てくる可能性がある。主部も実に余裕があり、展開部ではシューリヒトのようにテンポを遅くするが、ここも豊かな響きとあいまって、非常に効果的である。続いては第4楽章に感銘を受けた。たとえば、例の有名な主題が出てくるところ、ここも大変に質のいい音で鳴っている。
「第2番」は第1楽章がよかった。全くの正攻法ながら、弦楽器の響きもきれいだし、管楽器のソロもホールの中にきれいにこだましている。また、第2楽章のすっきりと、やや冷たい感触の雰囲気もよかった。この飯守の「第2番」は、演奏・録音ともに最近発売された小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラ盤(『ブラームス:交響曲第2番、ラヴェル:道化師の朝の歌、シェエラザード』ユニバーサルクラシック、UCGD-9011/2)をずっと上回っていると思う。
  第4番では第1楽章が個性的だった。ブラームス晩年の孤独を切々と訴えかけるように繊細に歌っているが、決して過度になっていないところがいい。第3楽章では積極的にティンパニを活躍させているのが特徴的だった。
  今後のためにも、いちおう問題点も指摘しておこう。たとえば「第3番」の第3楽章のように、オーケストラ自体にもう少し練り込んだ音が出ればいっそうよかったと思う個所がいくつかある。また、指揮の方では「第1番」の第2楽章や「第3番」の第1楽章のように、いささか無難すぎると感じるところもあった。
  とはいえ、全体的にはすばらしい瞬間がたくさんあり、今後の展開に期待がもてる。いずれにせよ、あえてセッションで臨んだ結果がきちんと出ている点は大いに評価したい。

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日記に見る雪中行軍の時代――『凍える帝国――八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』を書いて

丸山泰明

 今回博士論文を書籍にまとめるにあたって、いくつかの日記の記述を新たに取り入れている。これは博士論文を読んだ編集者の矢野未知生さんの、あれだけの出来事が社会にどのような衝撃を与えたのかわからず物足りないという批判に応えるものだったことは「あとがき」に書いたとおりだ。日記を資料として活用することにより、同時代の人々が雪中行軍をどのように受け止めたのかを生き生きと描き出せるのではないかと目論んだわけである。
  このような思惑から調査にとりかかったのだが、同時代の日記に雪中行軍の記述を探す作業は当初予想していた以上に苦労するところが多いものだった。雪中行軍隊が遭難した1902年(明治35年)の頃を記述した日記の公刊数が少なく、公刊されている日記があっても記述されておらず、記述があったとしてもごく簡単に書き留めたにすぎず取り上げるに至らないものもあったからだ。とはいえ、この苦労の見返りは大きかった。特に、陸軍大臣の寺内正毅や、陸軍省軍務局軍事課長の井口省吾といった陸軍中枢で関わっていた人物の日記に行き着くことができたのは有益であり、またこれまで存在に気づいていなかったことが強く悔まれた。この2人のほかにも本書では、跡見花蹊、中浜東一郎、近衛篤麿の日記を利用している。
  ところで、こうして調べるなかで行き当たった穂積歌子の日記は、非常に興味が引かれる記述ではあるものの、微小な事柄に入り込みすぎて論旨から離れてしまうので、残念ながら取り上げなかった。穂積歌子は実業家として有名な渋沢栄一の長女であり、法学者の穂積陳重と結婚した人物である。私のような民俗学を専攻している人間には、渋沢敬三の父篤二の姉、石黒忠篤の妻光子の母と表現したほうがなじみ深い人物だ。この穂積歌子の日記の1902年2月3日の個所には、「五時五十七分品川発汽車にて帰」った際に、「新宿より軍人一人乗合せたるが、青森へ今度の事件に付て行きたる人と見え、いろいろと話をなしたり」(穂積重行編『穂積歌子日記――明治一法学者の周辺 1890-1906』みすず書房、1989年、665ページ)と書き記されている。ここに出てくる「今度の事件」とは、八甲田山雪中行軍遭難事件のことを指していると考えて間違いない。このとき、新宿から乗り合わせた軍人とはいったい誰なのか。この日は清水谷実英東宮武官の一行が鉄道で青森へと向かっているが、当時の時刻表では青森行きは上野駅発午後6時なので品川駅発午後5時57分の汽車に乗っていたはずはない。穂積歌子はこの軍人とどのような会話をし、どのように批評したのだろうか。上層階級の女性の受け止め方として、とても興味が引かれるところである。
  穂積歌子の日記にはもう一つ気になる個所がある。それは同年5月28日の記述である。この日、穂積は「おくにさん」をつれて肺炎で熱を出した伯父をお見舞いに行った帰りに浅草に立ち寄っている。おくにさんこと大内くにとは渋沢栄一の妾であり、穂積より10歳年上だった。正妻の長女にとっての父の妾という存在は、横溝正史的大家族の世界ではとんでもない修羅場が巻き起こるはずの相手なのだが、そういうことはなく親しい間柄だったらしい。ともあれ、穂積はおくにさんと浅草で遊んだことを「浅草に立寄り花やしきに入り、次に珍世界に行き、エキス光線を見たり」(同書685ページ)と日記に書いている。この珍世界という見世物小屋で、2月19日から雪中行軍のジオラマが公開されたことは本書で述べたが、日記に書かれているのはX線の見世物だけである。ジオラマはもう撤去されていたのか。あるいは書き残されなかっただけなのか、残っていたのならば見てどのように思ったのか。非常にもどかしい。
  日記を探すために使った方法は、実に地道なものだった。勤務先の国立歴史民俗博物館の図書室と東京都立中央図書館、そして非常勤講師として通っていた学習院大学図書館の書架を歩き、背表紙を眺めて記述がありそうな日記を片っ端から開くというものだ。あらかじめ期待していたのに実際に読んでみると何も書いてなくてがっくりした人物もいる。原敬や森鴎外がそうだ。もしすべての書籍が電子化されれば、インターネットの検索でどの日記にどのような記述があるかはすぐにわかるようになるだろう。1冊1冊を開いて確認する作業は確かに手間がかかるし、なかった場合は資料を探すという目的の限りでは時間と労力を浪費したことになる。
  だが、ないならないなりに、寄り道する楽しさが紙の本にはある。日記を調べる作業は、しばしば当初の目的から離れて、この時代に生きた人々の日常を垣間見るものともなった。たとえば南方熊楠の日記から見えてくるのは、熊野の山中で観察と標本採集に連日没頭する姿だけだ。つい雪中行軍のことばかりに注目してしまいがちになるが、同じ時代に世事に惑わされずただひたすら微小な世界に生命の深奥を探ろうとした異能の博物学者もまた生きていたことにあらためて気づかされた。ある時期に集中して複数の日記を読むことはその時代を「輪切り」にすることでもあったのであり、その断面には様々な人々の多様な生き方が現れ出たのである。この時代の丸ごとの空気にふれることができたことこそが、日記を調べることによって得られた最大の収穫だった。

第32回 セヴラックのヴァイオリン曲

 先日、お店であるCDを発見した。帯の背文字に「プーレ」とあったので、ヴァイオリニストのジェラール・プーレらしいということはすぐにわかった。そのうえにサラサーテ、ファリャと並んでいるので、内容もだいたい想像はついたのだが、「セヴラック」とあったのには一瞬「?」と思った。それで裏を見ると、なんとセヴラックのヴァイオリン小品が3曲含まれているという。アルバムのタイトルは『ピレネーの太陽――セヴラック、サラサーテ作品集』(キングインターナショナル、KKC-28)。
  セヴラックはドビュッシー、ラヴェルと並ぶ天才と称されたのだが、彼自身は都会生活になじめず、終生南フランスにこもりっきりだった。主に知られているのはピアノ小品で、私も舘野泉が弾いたアルバム『ひまわりの海――セヴラック・ピアノ作品集』(ワーナー/フィンランディア、WPCS-11028、11029)は気に入って聴き、あちこちに書いた(ちなみに、この舘野のセヴラックは、目下のところ彼が両手のピアニストだった最後の録音である)。
  さて、その『ピレネーの太陽』のなかにあるセヴラックのヴァイオリン曲「ミニョネッタ」「セレの想い出」「ロマンティックな歌」は、どれも非常に魅惑的である。たった3曲というのはいかにも惜しいが、ほかにも同種の作品があったらぜひとも聴いてみたいものである。また、伴奏している深尾由美子が弾くセヴラックのピアノ小品も3曲含まれている。
  それ以外の曲はファリャの「ホタ」、ラヴェルの「ハバネラ形式の小品」、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」などのおなじみの作品が収録されている。これらの演奏も実に明るくしゃれていて、非常に聴き応えがある。古いヴァイオリニストのように決して形は崩さず、けれども決して薄味な感じがしないのはさすがにべテラン、プーレである。
  なお、知っている人にはくどい話かもしれないが、プーレの父ガストンはドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを初演した人である。初演のとき、ピアノ伴奏を受け持ったのはドビュッシー自身だが、息子ジェラールが父ガストンから聞いた初演にいたるまでの秘話は月刊「ストリング」2008年8月号(レッスンの友社)に掲載されている。興味のある方は一読なさるといい。
  いずれにせよこの『ピレネーの太陽』は、酷暑のなかに吹く涼風のようなアルバムだった。

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第31回 盤鬼が盤鬼でなくなる?

  最近、とある人からこう言われた。「平林さんは最近もっぱらオープンリールテープからの復刻をやっていますが、そうなると、盤鬼ではなくなるんですか?」。確かに、ここ最近発売した復刻盤はすべてオープンリールからのもので、近々発売を予定しているパレーの『フランス管弦楽曲集』(GS-2051)、ワルターのドヴォルザークの『新世界より』(GS-2052)なども同じくテープからの復刻である。
  SPやLPはディスク=盤なわけで、テープはテープである。では、今後は“テープの鬼”ということになるのか。でも、これだと盤鬼に比べるとちょっと迫力に欠ける。また、テープは俗にヒモともいうが、では“ヒモの鬼”にしたらどうか。だが、これだと団鬼六の世界に近づいてしまいそうだ。
  だが、CDの解説にも書いたように、オープンリールのカタログは非常に限られている。そのため、オープンテープからの復刻を出したくても出せないものの方が圧倒的に多いのである。ここ最近、たまたまテープの復刻が続いているだけで、来春にはLPからの復刻もいつくか用意しているので、安心していただきたい。
  このオープンリールを聴いていて気がついたことがある。同一の音源をオープンリールから録ったものと市販のCDで比較すると、後者は明らかに「高域に冴えがない」ということである。つまり、アナログのマスターテープは多かれ少なかれ「シャー」というテープ・ヒスが含まれる。これまでの復刻盤は、まずそうしたノイズを除去することから復刻作業が始められているような気がする。普通に考えれば、オリジナル・マスターからの方が圧倒的に情報量が豊かなはずである。しかし、途中経過で余計な手間をかけると、どうやら逆転現象が起きてしまうようだ。
  これはいつも書くことだが、たとえば高域のきつい音源があったとする。その音を丸くしようとしてある高域を削ると、聴きやすくはなるが、同時に多くの音楽的成分も失われているのである。ちなみに、8月末に発売を予定しているワルター指揮、コロンビア交響楽団のドヴォルザークの『新世界より』を聴いてみてほしい。確かにテープ・ヒスは目立つ。しかし、全体の情報量の多さには改めて驚かされるだろう。このワルターもすごかったが、その次に予定しているトスカニーニ指揮、NBC交響楽団のブラームスの『交響曲第1番』とムソルグスキーの『展覧会の絵』(番号未定)にも仰天してしまった。演奏者の汗が飛び散ってくるような音、これぞまさしくトスカニーニではないか。
  リスナーのなかにはそうしたノイズ成分のない音が好きだという人もいることは知っている。けれど、本当にワルターやトスカニーニを好きな人は、そんな無菌室的な音は望んでいないと思う。

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第30回 新潟へ行くの巻

 先週の7月8日から11日まで新潟を初めて訪れた。最初の予定は2泊だったが、8日木曜日の夜に立川志の輔の公演があったので、それに合わせて1日余計に泊まったわけである。志の輔はたっぷり三席やってくれ、特に最後の「柳田格之進」は絶品だった。このとき、ちょっと面白いことがあった。「携帯電話をお切りください、録音録画はご遠慮ください」という例の開演前のアナウンスである。「座席の上に立ち上がったり、あるいは舞台に駆け寄ったりしますと、公演が中断、もしくは中止になることがあります」と続いて流れた。私は「このアナウンスは落語の前には変ですよね」なんて言っていたのだが、そのアナウンスを舞台に出てきた志の輔が早速ネタに使っていた。「いやあ、私も落語を長くやっておりますが、座席の上に立ち上がった人なんか見たことはないですねえ。舞台に駆け寄ってくる人、これもありませんね。私なんか舞台に人が近づいてきたら、何かくれるんじゃないかと思わず期待しちゃいますけど」なんて言っていた。
  8日午後に新潟駅に到着し、すぐに案内されたのが朱鷺メッセ。ここの展望室で新潟市内を一望した。曇り空だったので佐渡はかすかにぼんやりと見えた程度だったが、次回はその佐渡に行ってみたいと思う。市内の中心を流れる信濃川、それにかかるいくつかの大きな橋。この橋も道路も幅広くゆったりとしているが、これはどうやら田中角栄の遺産のようである。その信濃川の悠然とした流れと幅広い道路、これらが街全体に独特の情緒を醸し出しているような気がする。古町マンガストリートで『ドカベン』(作者の水島新司は新潟出身)に出てくる里中、山田、殿馬、岩鬼の銅像を見て、その予想以上の大きさに驚いたが、心から感動したのは郊外にあった豪農の館(北方文化博物館http://hoppou-bunka.com/)である。もしも新潟へ行く機会があれば、ここはぜひ立ち寄るといい。また、あの横田めぐみさんが拉致されたと言われる個所も通過した。一瞬ではあるが、心が痛んだ。
  その豪農の館と同じく印象的だったのは、初日に志の輔を聞いた新潟県民会館と、その隣にあるりゅーとぴあという施設(コンサートホール、能楽堂、練習室など)とその周辺である。この一帯は人工の丘だが、公園としてきちんと整備されていて、たいへんに心地いい。しかも、すぐそばにはすばらしい洋風建築の県政記念館(重要文化財、現存する最古の県会議事堂)や、まことに風情あふれる燕喜館(重要文化財、豪商の館)などもあり、環境としては理想的だろう。
  10日土曜日の夕方、りゅーとぴあで東京交響楽団の公演を聴いた。指揮はユベール・スダーン、曲目はブルックナーの『交響曲第9番』だが、この日は「テ・デウム」も加えた4楽章版である。「テ・デウム」付きはめったにない機会だし、演奏も非常によく、十分に楽しめた。それ以上に驚いたのはコンサートホールの音響のすばらしさである。ウェブサイトによると、座席数は約1,900。そもそもホールは最初に足を踏み入れた瞬間に、いい音がしそうか否かの第一印象を抱く。そして、これがだいたい当たるのである。ここはむろん、「良さそうだ」と思い浮かんだ。私は3階右の1列めを買ってみたが、音は十分すぎるくらい届く。バランスもいいし、残響も適度であり、透明感も申し分ない。地元の人によると、2階席はもっといいとのことで、次回はぜひそこを試してみようと思う。1度聴いただけで即断は危険ではあるが、東京にあるいくつかのホールよりもずっといいのではないか。それに周囲の環境も考慮すれば、まことにうらやましい限りである。
  今回の滞在中、新潟県民エフエムの番組を収録した。放送は7月17日(土)、24日(土)の2日間で、時間はともに11時45分から12時までだ。聴ける環境にある方は、ぜひ聴いてみてほしい。
  最後に、今回の新潟滞在で以下の方々に特にお世話になりました。佐藤さん(CDショップ・コンチェルト)、K嬢(リッカルド・ムーティ・ファン/彼女はムーティではなく、ムーチーと呼ぶ)、田代さん+遠藤さん(新潟県民エフエム放送)。本当にいろいろとありがとうございました。

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第29回 新旧ヴァイオリニスト

  先日、たまたま店頭で新人らしきヴァイオリニストのCDを見つけた。ハンブルク生まれのザブリナ=ヴィヴィアン・ヘプカー(Sabrina-Vivian Hopcker(oはウムラウト付き))。年齢は不明だが、写真から20代と推測される。曲目はマックス・ブルッフの『スコットランド幻想曲』、フェリックス・メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』、伴奏はエドウィン・アウトウォーター指揮/北西ドイツ・フィル、マルティン・ブラウス指揮/ゲッティンゲン響、レーベルはトゥルー・サウンズTrue Soundsと、初耳が続く(番号はTSC-0209)。
  CDでは後ろの方に収録されているメンデルスゾーンから聴いたのだが、これがなかなかいい。アンネ=ゾフィー・ムターのデビュー時を思わせるような、明るく力強く、伸びがあるヴァイオリンだ。だが、最初のブルッフの方がもっと個性が濃厚に出ている。全体の響きも非常にいい。ディスクの表示によると、このブルッフはスタジオでの収録らしく、それで音がいっそういいのだろう。彼女の音色もたいへんにみずみずしく捉えられている。ブックレットを見ると、R・シュトラウスとセルゲイ・プロコフィエフのソナタが同じレーベルから出ているという。こちらも、なるべく早くに聴かなければ。
  エクストンから韓国生まれのベク・ジュヤン(Ju-Yang Baek)という、これまた若手のブラームス、ブルッフ(第1番)の協奏曲集(OVCL-00422)が出た。彼女は日本のオーケストラと過去に何回か共演しているらしいが、私は初めて聴く。まず気がついたのは音楽の運びがとてもゆっくり。しかも、高音域はキーンと迫るのではなく、どことなく丸みを帯びていて、反対に中低域はややヴィブラートを大きめにして、打ち震えるように歌っている。そこはかとなく妖艶さも漂うが、ちょっと往年のジョコンダ・デ・ヴィートを想起させる。伴奏はヘンリク・シェーファー指揮/新日本フィル。いかにも安全運転のように思えたが、聴き進むうちに、彼女のそのゆったりとした呼吸に極力合わせようとした結果なのだということがわかった。
  往年の奏者といえば、ヨハンナ・マルツィの初出ライヴも発売された(ドレミ DHR-7778)。曲目はベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』(オトマール・ヌッシオ指揮/スイス・イタリア放送、1954年)、モーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ変ロ長調K.454』(ジャン・アントニエッティ、ピアノ)の2曲。前者はおっとりと上品に歌う。テンポも常に微妙に揺れていて、伴奏とピタッと合っていないところがいい。響きが乾いているせいか、伴奏はいかにも素っ気ないが、独奏が明瞭に捉えられているので鑑賞上は全く問題ない。後者は気持ち曇った音質ではあるが、決して悪くない。とにかく、きわめて優雅なその独奏は非常に個性的で、こんな表現は最近にヴァイオリニストからは聴けない。
  6月、サロネン/フィルハーモニアの来日公演でヒラリー・ハーンのチャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲』を聴いた(サントリーホール)。いつものように技巧的には完璧無比ではあったが、全体の表現としては、何か迷いのようなものを感じさせた。仕掛けようとしたが思い切れず、心の中では何かやりたい、やらなければという気持ちがくすぶっていたように思えた。むろん、ハーンはこの先が長い人である。こういうときもあって当然だろう。

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第28回 ムターを聴く

  4月19日、サントリーホールでアンネ=ゾフィー・ムターのリサイタルを聴いた。ピアノはCDと同じランバート・オルキス、曲目はブラームスの3つのソナタだった。
  舞台に出てきたムターは気品があり、美しくて凛々しく、豊かな風格が感じられた。楽器を持って構える姿も実にカッコよかった。ヴァイオリンを常に床と平行か、わずかに上の角度で持ち、弾いている最中もどちらかというと動きが少ないほうだ。背筋はピンと伸び、見ただけでもびくともしない安定感を与えてくれた。
  出てくる音も実に多彩だった。強弱、濃淡を大胆に、あるいは繊細に弾き分け、テンポも巧みに変化する。最も見事だと思ったのは休憩後の『第3番』だろうか。息を飲んだのは2番目に弾いた『第1番』のソナタ。冒頭、ふっと息を吹きかけられたような音が中空に舞い、それがスウッと消えていく。そこを聴いただけでも「きょうは来てよかったなあ」と思った。アンコールはブラームスの『ハンガリー舞曲』の『第1番』『第2番』『第7番』、『子守歌』、それとマスネの『タイスの瞑想曲』と、5曲も弾いた。特に『ハンガリー舞曲』はいっそう自在で意欲的だった。オルキスもムターにぴたりとつけていて、有機的なアンサンブルという点でも申し分がなかった。
  どこで読んだか忘れたが、ムターは「チューニングなどはお客に聴かせるものではない」と語っていた。この日も彼女は舞台上では一度もチューニングしていない。これは、何ということもないがすがすがしくて好きだ。2009年秋にエンリコ・オノフリの演奏会に行ったが、そのときはコンサート・マスターがいちいち各パートのトップ奏者のところに歩み寄ってまでチューニングをしていた。しかも、曲の始まる前はもちろん、楽章間も。これを誠実さの現れと捉える人もあるかもしれないが、私にはなんとも見苦しいものとしか思えなかった。
  ムターは、ピアニストが座るやいなや間髪を入れずに弾いていた。楽章間もほとんどアタッカに近い。よけいな思わせぶりを排し、音だけで勝負するような気迫さえ感じた。また、この日はピアニストの横に座る譜めくり係もいなかった。これは単純に、あえて用意する必要がないからそうしたのだろう。しかし、私には音楽をしない人間は舞台には必要ない、といった演奏者の言外のメッセージではないかと感じた次第である。
  印象的だったのは、この日の舞台上には大きな花輪が飾られていたこと。この花はムターの要望なのかどうかはわからないが、当日の演奏の記憶を彩るものとしては実にふさわしいものだと思った。

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第27回 祝! 『クラシック100バカ』増刷

 このメール・マガジンも、ずいぶんと間があいてしまった。昨日、青弓社から「『クラシック100バカ』を増刷します」と連絡があった。これは2004年秋に出版して、ほどなく増刷されたので、今回は第3刷ということである。といってもそんなに大量部数ではないが、どこの出版社も「売れない」とぼやいているご時世にあっては、まことにおめでたいと言わざるをえない。
  いま読み返してみると、項目によってはちょっと古くなってしまったものもあるが(たとえば、CCCDについて書いてあるものなど)、「よくもこんなにいろいろと書いたなあ」というのが正直なところである。この本を出して、「本当のバカはお前だよ」なんてネットに書かれていたし、一部の人は不快な思いをしたかもしれない。しかし、私の基本的な考えとしては、蔭で裏でブツブツ言ったところで何も生み出さない、始まらない、ということである。それらは単なる愚痴以外の何ものでもないからだ。
『100バカ』もある意味力作だったが、自分ではなんといっても構想から完成まで12年も費やした『クラシック名曲初演&初録音事典』(大和書房)に思い入れがある。ごく最近、出版社に問い合わせたら、この事典もほとんど在庫がなくなっているそうだ。もちろん、増刷したらしたで単純にうれしいが、私としては近い将来大幅に増補改訂したいという気持ちがある。理由は、ある程度内容を掘り下げようとしたために曲を絞り込んだことと、もうひとつは締め切りまでにSP、LPなどの現物(あるいは初版が手に入らず、やむなく再発売のもので代用したものもあった)が手に入らなかったものが多数あったからだ。

 ところで、話題はガラリと変わる。3月25日、スクロヴァチェフスキ指揮、読売交響楽団のブルックナーの『交響曲第8番』(東京オペラ・シティ)を聴いて、たいへんに感銘を受けた。近年聴いた演奏会のなかでも屈指のものだった。かつて客席で耳にしたマタチッチ/NHK交響楽団を上回ったかもしれない。これだけ創意と工夫に満ちていながらも、曲も持ち味を全く崩してないのは驚きだった。この日はどうやら録音が入っていたらしい。発売されるかどうかは不明だが、発売されたときのために、詳細な報告はあえて記さないでおきたい。ただし、これだけは書いておきたい。読響の真剣で真摯な演奏ぶりはすごかった。これだけやってくれれば、正直、そこらの海外オーケストラ公演はあえて行く必要がないと感じた。拍手。

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衣・職・住――サービス・ワークの労働市場と女性たち――『温泉リゾート・スタディーズ――箱根・熱海の癒し空間とサービスワーク』を書いて

文貞實

 1980年代、定時制高校の話――当時、筆者は朝鮮学校を卒業後、都内の都立高校の定時制に編入し大学進学の準備をしていた(当時、朝鮮学校から日本の大学へ進学する場合、「大検」を取るか、「通信」「定時制」などへ編入しなければならなかった)。定時制の同窓生は10代から50代まで幅広い年齢層だったが、理容院や製菓店、和菓子屋などの住み込みから製造業の生産ラインで働いていた。ロッテのガム工場で働いていたAさんは、工場長が15分、時計を遅らすために、毎回、授業に遅刻していた。新宿の花園饅頭で住み込みで働いていた20代後半のBさんは、中卒で入社した新人のCさんと一緒に定時制に再入学したという。当時、都会に出てきて働いていた同窓生たちの環境に正直驚いた。何よりも彼女らがバブル経済前夜の豊かさと全く無縁だったことである。また、彼女らを通して東京に「衣・職・住」がセットの仕事が意外に多く、製造業だけでなく、理容院、手打ちそば屋(飲食店)など寮完備の自営業の裾野が広いことを知る。
    *
  2000年代、公立中学校の教諭から聞いた話――冬休みに家出した生徒が繁華街でキャバクラのティッシュ配りをしているところを見つけた。小柄な中学生が大人に交じって、冬空の下でミニスカートの上にベンチコートを羽織ってティッシュを配る姿にすぐには声をかけられなかったという。当時、生徒はキャバクラの寮に20代の先輩と一緒に暮らしていた。迎えに来た教諭を前に、先輩女性が「捜してくれる人がいるうちに、帰りなさい」と諭したという。当時、15歳の少女の居場所は家庭でも学校でもなく、優しい先輩と一緒に暮らすキャバクラの寮だった。実際、自分の居場所を仕事に求める女子が増えているという。『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?』(三浦展、〔光文社新書〕、光文社、2008年)によれば、近年の格差社会の拡大のなかで、キャバクラ嬢になりたい女子が増えているという。その背景として同書では、低所得・低学歴の女子の仕事がサービスワークの非正規職に多いという現実とそれらのサービスワークが人に承認される仕事だという点をあげている。サービスワークは、もともと、自分のスキルを磨くことで、顧客から直接的に感謝される場面が多い仕事である。同書によれば、家庭環境や学歴など文化資本をもたない女子が自分の能力を磨くことで、他者から承認されるだけでなく、さらにお金を得られる仕事として、近年、キャバクラ嬢に関心が高まっているということらしい。同書ではふれていないが、そのようなキャバクラ(飲食店)の多くは寮完備である。このことも女子たちを引き付ける要因になっているのではないだろうか。
    *
  本書『温泉リゾート・スタディーズ』の話――本書の後半では、温泉リゾート地に観光ではなく、「衣・職・住」を求めてやってくる女性労働者に焦点を当てている。筆者がインタビューしたホテル・旅館の女性従業員(仲居さん)の多くが「衣・職・住」を求めて熱海・箱根にやってきた。彼女たちがハローワークや求人誌で仕事を探すときの第一条件は「住み込み」である。さらに、旅館では賄いの「食事」があり、「制服」の着用のため、着の身着のままで家を出てきた中高年の女性たちが飛び込みやすい仕事だ。しかし、初めての仕事に入るには、誰かの後押しが必要である。ある仲居さんは、テレビで『女は度胸』(NHK、泉ピン子主演)を観たのがこの仕事に入るきっかけになったと話していた。また別の仲居さんは、子連れで社員寮に入り、他の同僚たちが水商売や他の仕事に転職していくのを横目で見ながら、30年近く「辛抱、辛抱」と経文を唱えるうちにいつしか子育てを終え、結婚もさせ、孫まで抱けるようになったという。本書では、そのような仲居さんたちの熟練化(感情労働の主体化)についてふれたが、一方で、長時間労働やサービスワークに付随する感情労働の要請に応じられずに転職していった仲居さんたちの後を追うことはできなかった。自分の居場所を求めて、転職していった女性たちのその後の人生について考えるのは別の機会に譲る。
  最後に、刷り上がったばかりの本は真新しいインクや紙の匂いがする。その匂いのなかに、熱海・箱根で出会った仲居さんたちの人生の匂いが残っていたらと願う。

事後的にわかる研究動機――『植民地朝鮮の宗教と学知――帝国日本の眼差しの構築』を書いて

川瀬貴也

「どうしてそれを研究しているのですか?」「なぜそのテーマを選んだのですか?」
  この質問がいちばん苦手だった。しかし、人文系の研究をしていると、必ずこのような質問に遭うことがある。「面白そうだったから」というのは大前提なので、この質問はそういうことを聞いているのではなく、はたまた「誰もやっていないから(チャンスだと思った)」という功名心をぎらぎらさせた回答も期待していない(誰も手を付けていない、というのも大きなモティベーションの一つではあるが、「資料が少なすぎる」とか「あまり面白くない」からいままで誰も手を付けていなかっただけという危険性もあるので要注意)。
  教員となったいまは、聞かれるよりも聞く側になってこの問いを学生にしているが、この質問は実は、その研究をせざるをえない、その人の「実存的」なあり方を聞いている場合が多い。だから、この質問に簡単に答えることができないのはある意味当たり前。そして、このような質問をされるということは、少なくともその研究の面白さを伝え損ねていることが多いから、ますます聞かれた側はしどろもどろになってしまう。そして何よりも大きな問題は、「なぜその研究をやったのか」ということは、その研究にいったんけりをつけた時点で、事後的に(いくぶんの自己欺瞞をも交えながら)わかることが多いので、「いま答えろ」というのは実は酷なことなのだ。

 本書の「あとがき」に書いたが、僕が韓国研究に手を染めたきっかけは、指導教官の勧めと(指導教官のS先生は「広く東アジアに目を向けよ」と英語が苦手な教え子におっしゃってくださっただけで、韓国を選んだのは僕の選択)、幼少期の韓国体験である。
  もともと何事においても移り気な僕は、なかなか研究対象を絞ることができず、本書の内容もお読みになればおわかりのとおり、その時代のさまざまな事象をいわば「つまみ食い」して、なんとか「鳥瞰図」として仕立て上げようとしたものである。博士課程時代の最大の悩みは、そのテーマ(例えば教団や人物)一つで博士論文を書いてやろうと思える対象がなかなか見つからなかったことなのである(結局、そういうテーマは見つけられなかったので、本書のもととなるような博士論文を書くことになった)。しかし、もっと深い実存的なレベルを掘り起こせば、本書で取り上げたさまざまなテーマは、ある一貫性をもっている(少なくとも、研究動機には一貫性がある)と自分では思っている。それを自己分析すれば、以下のようなものだろう。
  まずは、韓国に幼少期に住んでいたといっても、韓国の歴史や言葉に本当に無知だったことへの反省がある。「あとがき」に書いたが、外国人が集住する地域で、ろくに韓国語を使うこともなく、ぬくぬくと「コロニアル」な生活をしていたことに罪悪感といわないまでも負い目は感じており、いずれもっと本腰を入れて韓国を知らなければ、と心のどこかで思っていたのは確かである。そして、大学院に入ってさまざまな韓国人留学生と交流をもった、ということも大きく影響していると思う。日本に来たばかりの留学生のお手伝いをする「チューター制度」というものがあり、僕は数人の韓国人留学生のチューターをしたが、彼らの話の端々に、1980年代の苦しかった民主化運動(当時留学にきていた人は、80年代後半期に学生運動を経験した人が多かった)の影が差していた。密輸した岩波文庫の『資本論』でマルクス主義と日本語を勉強した、と言う彼らの話から、いつしか僕は「ポストコロニアル」という、いままで抽象的にしか感じていなかった「流行」の用語の「生きた姿」を見るようになった。そして彼らと同じゼミ、自主的な研究会を繰り返し、ますますその思いは強まった。また、ネガティブな形ではあるが、「自由主義史観」やら「嫌韓流」といった流れも、僕の研究の背中を押したと思う。
「ポストコロニアル」というのは、俗で雑なまとめをすると「植民地状況が名目的には終わったにもかかわらず、生活のそこかしこに、いまだに植民地主義の名残が発見できる状態にイライラ・モヤモヤしている状態」ということだと思うが、僕の研究動機そのものがまさにポストコロニアリズムだったのだ、と見本刷りの本書をなでながら、自分で改めて得心したのだった(博士論文の口頭試問では、「なぜこのような対象を取り上げたのか」と質問され、しどろもどろだったのに)。

 なお、見本刷りが届いた日は、奇しくも僕の誕生日だった。僕の周りの人すべてに感謝するにはうってつけの日だった。