日記に見る雪中行軍の時代――『凍える帝国――八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』を書いて

丸山泰明

 今回博士論文を書籍にまとめるにあたって、いくつかの日記の記述を新たに取り入れている。これは博士論文を読んだ編集者の矢野未知生さんの、あれだけの出来事が社会にどのような衝撃を与えたのかわからず物足りないという批判に応えるものだったことは「あとがき」に書いたとおりだ。日記を資料として活用することにより、同時代の人々が雪中行軍をどのように受け止めたのかを生き生きと描き出せるのではないかと目論んだわけである。
  このような思惑から調査にとりかかったのだが、同時代の日記に雪中行軍の記述を探す作業は当初予想していた以上に苦労するところが多いものだった。雪中行軍隊が遭難した1902年(明治35年)の頃を記述した日記の公刊数が少なく、公刊されている日記があっても記述されておらず、記述があったとしてもごく簡単に書き留めたにすぎず取り上げるに至らないものもあったからだ。とはいえ、この苦労の見返りは大きかった。特に、陸軍大臣の寺内正毅や、陸軍省軍務局軍事課長の井口省吾といった陸軍中枢で関わっていた人物の日記に行き着くことができたのは有益であり、またこれまで存在に気づいていなかったことが強く悔まれた。この2人のほかにも本書では、跡見花蹊、中浜東一郎、近衛篤麿の日記を利用している。
  ところで、こうして調べるなかで行き当たった穂積歌子の日記は、非常に興味が引かれる記述ではあるものの、微小な事柄に入り込みすぎて論旨から離れてしまうので、残念ながら取り上げなかった。穂積歌子は実業家として有名な渋沢栄一の長女であり、法学者の穂積陳重と結婚した人物である。私のような民俗学を専攻している人間には、渋沢敬三の父篤二の姉、石黒忠篤の妻光子の母と表現したほうがなじみ深い人物だ。この穂積歌子の日記の1902年2月3日の個所には、「五時五十七分品川発汽車にて帰」った際に、「新宿より軍人一人乗合せたるが、青森へ今度の事件に付て行きたる人と見え、いろいろと話をなしたり」(穂積重行編『穂積歌子日記――明治一法学者の周辺 1890-1906』みすず書房、1989年、665ページ)と書き記されている。ここに出てくる「今度の事件」とは、八甲田山雪中行軍遭難事件のことを指していると考えて間違いない。このとき、新宿から乗り合わせた軍人とはいったい誰なのか。この日は清水谷実英東宮武官の一行が鉄道で青森へと向かっているが、当時の時刻表では青森行きは上野駅発午後6時なので品川駅発午後5時57分の汽車に乗っていたはずはない。穂積歌子はこの軍人とどのような会話をし、どのように批評したのだろうか。上層階級の女性の受け止め方として、とても興味が引かれるところである。
  穂積歌子の日記にはもう一つ気になる個所がある。それは同年5月28日の記述である。この日、穂積は「おくにさん」をつれて肺炎で熱を出した伯父をお見舞いに行った帰りに浅草に立ち寄っている。おくにさんこと大内くにとは渋沢栄一の妾であり、穂積より10歳年上だった。正妻の長女にとっての父の妾という存在は、横溝正史的大家族の世界ではとんでもない修羅場が巻き起こるはずの相手なのだが、そういうことはなく親しい間柄だったらしい。ともあれ、穂積はおくにさんと浅草で遊んだことを「浅草に立寄り花やしきに入り、次に珍世界に行き、エキス光線を見たり」(同書685ページ)と日記に書いている。この珍世界という見世物小屋で、2月19日から雪中行軍のジオラマが公開されたことは本書で述べたが、日記に書かれているのはX線の見世物だけである。ジオラマはもう撤去されていたのか。あるいは書き残されなかっただけなのか、残っていたのならば見てどのように思ったのか。非常にもどかしい。
  日記を探すために使った方法は、実に地道なものだった。勤務先の国立歴史民俗博物館の図書室と東京都立中央図書館、そして非常勤講師として通っていた学習院大学図書館の書架を歩き、背表紙を眺めて記述がありそうな日記を片っ端から開くというものだ。あらかじめ期待していたのに実際に読んでみると何も書いてなくてがっくりした人物もいる。原敬や森鴎外がそうだ。もしすべての書籍が電子化されれば、インターネットの検索でどの日記にどのような記述があるかはすぐにわかるようになるだろう。1冊1冊を開いて確認する作業は確かに手間がかかるし、なかった場合は資料を探すという目的の限りでは時間と労力を浪費したことになる。
  だが、ないならないなりに、寄り道する楽しさが紙の本にはある。日記を調べる作業は、しばしば当初の目的から離れて、この時代に生きた人々の日常を垣間見るものともなった。たとえば南方熊楠の日記から見えてくるのは、熊野の山中で観察と標本採集に連日没頭する姿だけだ。つい雪中行軍のことばかりに注目してしまいがちになるが、同じ時代に世事に惑わされずただひたすら微小な世界に生命の深奥を探ろうとした異能の博物学者もまた生きていたことにあらためて気づかされた。ある時期に集中して複数の日記を読むことはその時代を「輪切り」にすることでもあったのであり、その断面には様々な人々の多様な生き方が現れ出たのである。この時代の丸ごとの空気にふれることができたことこそが、日記を調べることによって得られた最大の収穫だった。