第37回 サイトウキネンに行く

 5月頃だろうか、ある人から「サイトウキネン、行ったことないんですか? 一度くらい行ってもいいんじゃないですか?」と言われ、ふとその気になった。だが、チケットを手配し終えた頃には別の人からこう言われた。「行って面白いのかなあ?」。私はそれに対しこう返答した。「動けば何かが生まれる」
  今回、私は2回松本を訪れた。1回めは8月19日(金)におこなわれた「ふれあいコンサートⅠ」である。曲目はモーツァルトの『ピアノ四重奏曲第2番』、プロコフィエフの『五重奏曲作品39』、バルトークの『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』。演奏は小菅優、伊藤恵のピアノほか、ほかのメンバーはサイトウキネンのオーケストラに名前が入っている人たちである。特にプロコフィエフとバルトークは日頃めったにやらないので、こういったプログラムが聴けるのがまさに音楽祭ならではだ。この2曲、初めて生で聴いたせいか、非常に面白かった。地震の影響で予定していたザ・ハーモニーホールが使用不能となり、松本文化会館の中ホールに急遽変更になったのは演奏者側にも不運ではあったが、お客さんの反応は非常によかった(バルトークではピアノの弦が演奏途中で切れるという事故にも初めて遭遇。小菅さん、怪力ですな)。
  2回めは8月26日・松本文化会館(大)のオーケストラコンサート、指揮はヴェネズエラの新鋭ディエゴ・マテウス、曲目はチャイコフスキーの『「ロメオとジュリエット」序曲』と『交響曲第4番』、中プロはバルトークの『ピアノ協奏曲第3番』(独奏:ピーター・ゼルキン)、そして27日・まつもと市民芸術館主ホールでのバルトークの『バレエ「中国の不思議な役人」』(指揮:沼尻竜典)と歌劇『青ひげ公の城』(指揮:小澤征爾)である。
  日程順に触れていくと、マテウスの演奏は若くてバリバリである。「エネルギッシュでよかった」という人もあれば、「オーケストラを鳴らしすぎ」と感じた人もいた。私も確かにちょっと騒々しいとは思ったが、オーケストラの献身的な熱演はそれなりに気持ちがよかった。ゼルキンのソロはマテウスとは正反対の渋く正統的なものだった。
  27日は何と言っても『青ひげ』で小澤が出るかどうかで話題が持ちきりだった。初日の21日だけ振って、23日、25日は降板である。前日の26日、私は関係者からその周辺の話を聞いたけれど、感触としては絶望的のように思えた。
  27日はまず『中国の不思議な役人』を見る。私はバレエについては全く詳しくはないが、この新潟を本拠地とするバレエ団ノイズムはなかなかやるな、と思った。存分に楽しませてもらった。
  そこでいよいよ後半の『青ひげ』。会場には「本当に小澤は出てくるのか?」という雰囲気が漂っていたが、小澤の姿が見えたとたんにどっと湧いた。ブラヴォーも出ていたような気がする。オーケストラのメンバーもみんな、「あ、来た!」と満面の笑みを浮かべていた。私が聴いた感じでは、始まって5分程度は指揮者とオーケストラの一体感がいささか希薄に思えた。でもそれはしようがない。オーケストラにとっては6日ぶりの小澤の棒である。しかし間もなく本調子となり、私も音楽に集中できた。総合的に言えば、一部にバレエの扱い方に違和感を感じたことを除けば、上々の公演だったと思う。
  終演後、何度もカーテンコールに応えていた小澤の姿を見ると、2度も降板したほど体調が悪いようには思えなかった。「小澤は今日も無理でしょう」と言っていた知人に「出た! お化け、じゃない小澤、本当に出たぞ」とメールしたら、即座に「それはラッキーでしたね」と返ってきた。
  サイトウキネンというオーケストラだが、確かに寄せ集めの欠点があると言えばある。まとまりという点では直前の8月24日に聴いた読売日本交響楽団(指揮は小林研一郎)の方が上だった。しかし、このオーケストラのメンバーによって先ほど触れた珍しい室内楽やオペラなど、短期間に多彩なプログラムを楽しめるのはありがたいことである。それに、フェスティバルの存在自体も、日本のクラシック界の発展に大きく寄与していることは間違いない。
  私は今回初めて松本を訪れたが、遅まきながらこの街並みのすばらしさにたちまちファンになってしまった。特に感激したのは縄手通り、中町などの古い建物や石垣が残っている付近である。小さなお店や資料館もあって、身も心も、そして財布も軽くなった。また、ほとんどのお店にはサイトウキネンのミニTシャツが飾ってあって、街全体がこのフェスティバルを盛り上げようとしているのにも感心した(ただひとつ気になったのは、主に松本駅周辺にある街頭のスピーカーから流れ出るBGM。これはない方がいい。ちょっと無粋)。
  今回は昼間ちょこっと観光し、夕方、夜が仕事(演奏会)というわけだったが、次回はできるならば完全にフリーな日を1、2日程度付け加えてサイトウキネンに行きたいと思った。
  松本訪問、予想をはるかに上回る収穫だった。「動けば何かが生まれる」、これはやはり正解だったのである。

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風景の呪縛――『トポグラフィの日本近代――江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』を書いて

佐藤守弘

 本書で考察した対象は、題にあるとおり近代における〈トポグラフィ〉、すなわち場所/環境の表象だが、そのなかで重要な役割を果たすキーワードが〈旅行/観光〉である。にもかかわらず、私自身はとにかく生来の出不精で、観光旅行というものを好まない。京都に生まれ育ち、東京とニューヨークに遊んだ10年ほどを除いては、35年もこの偏狭な盆地に暮らしていることとなるが、京都市内でさえ知らないところが多い。普段の行動範囲は相当に限られていて、物を買うのもネットでの通信販売が多い。もちろん学会や校務出張などの目的があれば遠出もするが、基本的に旅行そのものには楽しみを見いだせないのである。だから、「気ままなぶらり旅」などは考えられない。ニューヨークに6年ほど住んでいたが、アメリカのその他の場所に旅行した経験は片手で足りる。いまでも、京都から大阪に行くことさえ、気分としては〈小旅行〉なのである。
  とはいえ、それでも家族というものがあると、観光旅行のようなこともおこなわなければいけないわけだが、そうなるともう大騒動となる。なんとか旅行に目的を見いだそうと、ウェブを検索し目的地の情報を収集する。その場所の歴史を調べる。そこを描いた絵画や写真を捜し出す。現地のガイドに負けないくらいの予備知識を詰め込んで旅に出るのである。同行者こそいい迷惑で、延々と私の講釈を聞かされるはめに陥る。さらに、あれも見よう、ここにも行こうと分刻みのスケジュールを立ててしまって、同行者を疲れさせて、迷惑をかけることになる。もちろん私自身もそれ以上に疲れ果てる。あげくの果て、旅行なんて大嫌いということになるのである。
  そんな人間が、旅と抜きがたく関わるトポグラフィックなイメージをなぜ扱うことになったのだろうか。考えてみたら、これは、京都という観光都市で生まれ育ったことと無関係ではないのかもしれない。幼少期から日常のなかに観光者の存在があり、私はそのまなざしに晒され続けていた。もちろん観光者にとって、私がとくに注目するべき存在であったと言いたいわけではない(べつに祇園祭のお稚児さんの格好をして歩いていたわけではないし)。むしろ彼ら/彼女らの視野の端に気づかれることもなくたたずむネイティヴだったのだろう。いわば、私自身も風景だったのだ。
  ところで、以前、京都芸術センターが発行していた「diatxt.」という雑誌の第二期に「ピクチャリング・キョウト」という、視覚文化のなかでの京都をさまざまな角度から検証するエッセイを連載していたことがある(第9号〔2003年4月〕―第16号〔2005年9月〕)。連載のタイトルを「ピクチャリング・キョウト」としたのには理由があった。英語のto pictureという動詞には、「描く」という意味だけではなく、「想像する」という意味がある(本書でもたびたび引いたジェームズ・ライアンの“Picturing Empire”という本のタイトルから借用した)。私のような生活者にとって京都という都市は、さほど特殊な街ではない。居酒屋があって、パチンコ屋があって、コンビニがあって……。普通の日本の地方都市と一切変わりはない。それがメディアに登場した途端、「宮廷文化の香りの漂う古都」になったり、「はんなりとしたもてなしのある街」になったり、「和とモダンの溶け合う街」になったり、ときには「実は革新的な街」にまでなったりしてしまうのである。すなわち、イメージ、あるいはテクストによって表象された時点で、京都という都市は、想像された〈キョウト〉となるのである。
  この連載エッセイの一部は、『トポグラフィの日本近代』の第3章「伝統の地政学」へと引き継いだのだが、それだけではなく、江戸泥絵における江戸(第1章「トポグラフィとしての名所絵」)、横浜写真における日本(第2章「観光・写真・ピクチャレスク」)、芸術写真における無名の山村(第4章「郷愁のトポグラフィ」)の、それぞれが表象する場合も同様である。そうした表象による場所性の構築を解きほぐすことで、トポグラフィに反乱を起こさせてみようというのが本書の試みであったことは、中平卓馬や辺見庸の言葉を借りて、「あとがき」に記したとおりである。
  私自身、京都の風景の一部だったのだろうし、メディアの表象による「京都性」の言説に翻弄されてきた。私がトポグラフィの研究に携わってきたもともとの理由は、もしかすると京都の呪縛から逃れたい、それを除霊したいという、そんなごくごく私的な理由からであったのかもしれない、と初の単著を上梓したいま、思う。

 そういえば、旅が嫌いな理由は、もうひとつあった。乗り物が嫌いなのである。たとえば電車に乗っている時間が楽しめない。じゃあ、眠ればいいのだが、これが眠れない。出張などのとき、なんとか時間をつぶそうと本を数冊――研究書、小説、エッセイなどをバランスよく――、それに駅で雑誌を買い、仕事もできるようにラップトップ・コンピュータ。以前はそれに携帯音楽プレイヤーと携帯ゲーム機を持っていっていたが、iPhoneを手に入れてからは、少しは荷物が少なくなった。でも荷物が重いのには変わりない。これが海外旅行となるとえらいことになってしまう。というわけで、現在取り組んでいるテーマのひとつが、〈鉄道の視覚文化〉なのだが、これもまたこじつければ、前例のとおり除霊作業なのかもしれない。

殺人と〈殺人〉――『死刑執行人の日本史――歴史社会学からの接近』を書いて

櫻井悟史

死刑執行人の日本史』は、わたしの初の単著である。高校生のころ作家志望だった身としては、自分の書いたものが1冊の本になることほどうれしいことはない。ただ、当時は、締め切りに追われるという言葉の響きにさえ憧れを抱いていたが、実際に経験してみると、ただただ大変なものでしかないことが、今回よくわかった。締め切りに間に合うように送ったゲラが、宛名と依頼人の名を間違えて書いてしまったために戻ってきたときなど、血の気が引く思いだった。このような間の抜けたミスもする、まだ右も左もわからぬような一大学院生が本を出版することができたのも、ひとえに編集者の矢野未知生さんをはじめとする関係各位のおかげである。あらためて感謝したい。
  さて、本書の執筆にあたって最も心を砕いたのは、死刑の存置か廃止かといった議論からいかに距離を置くかということだった。
  どのような研究をしているのかと問われ、死刑執行人についての研究ですと答えると、必ずといっていいほど、あなたは死刑存置派かそれとも廃止派かといった問いが返ってくる。それが重要な問いであることは重々承知しているが、わたしの関心は、犯罪ではない殺人=〈殺人〉にある。そのために、死刑存廃について個人的に考えていることもあるが、そこはあえて明確にしなかった。
  刑法199条に規定されている殺人事件が発生したとき、多くの人は憤る。その一方で、多くの人が〈殺人〉としての死刑執行を赦すばかりか、むしろ積極的に勧めさえする。〈殺人〉を拒否すると、非難されることさえある。だが、実際にアメリカ合衆国で起こった事件として、死刑が執行された後に、死刑執行を停止する命令が届いたことがあった。また、イギリスでは死刑執行後に冤罪が発覚する事件があった。そうした事件に直面したとき、犯罪としての殺人と、犯罪ではない〈殺人〉との境界線はきわめて曖昧なものでしかないことに気づかされる。わたしの関心は、その殺人と〈殺人〉の区分の曖昧さから生じる問題にこそあった。その問題を最も肌で感じているのが死刑執行人であり、そのために彼らはつねに殺人と〈殺人〉の類似性に悩んできたのではないだろうか。それが、死刑執行人の苦悩なのではないか。
  死刑執行人の苦悩を持ち出すと、必ず指摘されるのは、職務なのだから仕方がない、いやならば辞めればいい、死刑が廃止されれば問題は解決する、といったことである。しかし、それほど単純な話ではない。極論すれば、それを述べるためだけに本一冊分の歴史記述が必要だったのである。だから、もしもこの点がうまく記述できているとすれば、まだまだ未熟な本書であっても、多少の意義はあったのではないかと思うが、そこは読者のみなさまのご判断に委ねたい。
  ここでも繰り返しておけば、本書から「したがって死刑を廃止すべきである/存置すべきである」といった答えを導き出すことはできない。なにか提言できるとすれば、明治から現在にいたるまで、誰が死刑執行を担うべきか、死刑執行を担うとはどういうことか、といったことがほとんど議論されないまま、なしくずし的に刑務官の職務の一部とされてしまっている現状があるため、死刑執行を一時停止し――死刑判決の停止までは提言できない――、そのことについてきちんと議論したほうがいい、というぐらいのことである。そこでの議論の争点は、「なぜ人は人を殺してもいいのか」になるのではないだろうか。
  人を殺すことについて多くの示唆を与えてくれる映画として、本書でも取り上げた『ダークナイト』(監督クリストファー・ノーラン、2008年、アメリカ映画)を挙げておきたい。この映画は、バットマンに人を殺させようとするジョーカーと、殺させられることを拒みながらジョーカーと戦うバットマンのストーリーである。バットマンがジョーカーの罠に落ちて、人――ジョーカー自身も含む――を殺してしまったなら、それはジョーカーの勝利となる。ジョーカーと戦って勝利するためには、ジョーカーを殺さずに戦い続けるしかない。だが、バットマンは、どうやってジョーカーに勝利すればいいのだろうか。かくして、ジョーカーはいう。「どうやら永遠に戦い続ける運命だぜ」
  しかし、本当にそうなのだろうか。もし、そうだとすれば、それはいったい何を意味するのか。そして、殺させようとする力にどう抗すればいいのか。わたしがいちばん気になるのはこの点であり、今後も考えていきたいと思っている。
  最後に、『ダークナイト』に限らず、わたしは自分の関心についての多くの示唆を、映画、小説、漫画などの創作作品から得た。本書では、そのことに少ししかふれられなかったが、この場を借りて、すばらしき作品たちに感謝の意を表したい。

第36回 フルトヴェングラーのSACD

 EMIミュージックから発売されたフルトヴェングラーのSACD、ベートーヴェンの『交響曲第5番+第7番』(TOGE-11003)と同じく『交響曲第9番「合唱」』(TOGE-11005)を購入した。音は予想どおり、ノイズを大幅にカットし、聴きやすく丸めたものだった。
  チラシやCDのブックレットにはマスタリングに際して使用した機器のことがいろいろと書いてあったが、これだけさまざな回路を通してしまえば、原音から遠くなるのは当然だろう。なかでも問題なのはCEDAR(シーダー)かもしれない。このシーダーは作業がしやすいということでノー・ノイズと同様に世界中で使用されているノイズ・リダクションだが、これらを通すだけでも音はかなり変質してしまう。かつてBMGがメロディア音源を発売した際、ノー・ノイズを使用した輸入盤が入ってきて、ファンから総スカンを喰ったことがある。そのため、国内盤はノー・ノイズを使用する前のマスターを使用してプレスしたこともあった。ただ、ノイズレスは最近の傾向でもあり、これに慣れている人には、今回のような音の方が心地い良いのかもしれない。
  音とは別の問題もある。先に『第9』から述べるが、これには指揮者が登場して盛大な拍手が起こり、そのあと指揮者が何事かをしゃべっているという、いわゆる“足音入り”の版である。しかし、少し前に日本フルトヴェングラー・センターの関係者がフルトヴェングラー夫人のもとを訪れ、この個所を夫人に聴いてもらったところ、彼女は「夫が演奏前に話しかけることはありえない。当日もこのようなことはなかったはず」と述べたという。当日の模様については、夫人の記憶違いということもありうるだろう。けれども、私個人の経験の範囲でも演奏会で演奏前に指揮者が何かを言ったような場面に遭遇したことはない。ましてやこれは『第9』である。あのような開始の音楽である。フルトヴェングラーの人間性やその音楽、さらには戦後初のバイロイト音楽祭の開幕曲という状況も考慮すれば、確かにこのささやきは不自然である。けれども、帯にはあえて「足音、喝采入り」と、これを売りにしている。
  また、この『第9』にはEMIと同じ日の演奏だが、全くの別テイクというものが発売されている。これは最初に日本フルトヴェングラー・センターが世界で初めてCD化し、現在ではオルフェオから一般発売されている。一時は「EMIはリハーサルであり、オルフェオこそが本物のライヴ」と言われたほどだったが、その後は逆に「オルフェオの方がリハーサルで、EMIこそがライヴのテイク」という意見も出され、その謎はいまだに解明されていない。その点についてはCD解説で金子建志氏による的確な推察が記されているが、今回のSACD化に際し、制作者もしくは研究者などによるさらに一歩突っ込んだ調査報告がほしかった。
  今回のSACDシリーズで最も注目されると思われるのは『第7番』の新発見マスターかもしれない。これまでの言われてきたことを整理すると、以下のようになる。この『第7番』(1950年1月録音)は最初磁気テープに収録されたが、当時はまだSP時代末期だったためにこのテープからSP用の金属原盤が作製された。この時点で最初のマスターは廃棄。しかし、LPの普及が加速化したため、SPの金属原盤から再度磁気テープ用のマスターが作製された。この作業が終わった時点で金属原盤も廃棄。ところが、再度作製された磁気テープには第4楽章に女声のノイズが混入していたことが判明した。最初のマスターと、その次に作られた金属原盤ともに廃棄してしまったので、このノイズは除去できず、そのままの状態のマスターがその後世界中で使用されていたのである。
  以上のような事情を知っている人ならば、今回の新発見マスターこそ廃棄されたと信じられていたいちばん最初のものだと思うに違いない。だが、私の試聴結果は現在使用されているマスターの双生児と考えている。まず、聴いた感じでは低域のゴロゴロ、ボソボソというノイズが共通している。さらには旧マスターほどではないが、かすかに女声の混入ノイズも聴き取れる。今回はおそらくそのノイズは可能な限り除去したのだろう。それに、オリジナル・マスターは万が一のために複数存在する場合があるからだ。たとえば、EMIの本社から日本をはじめドイツ、フランスなどの支社に原盤を提供するときにはコピー・マスターからさらにコピーしたものを送ったりする。この点についてはCD解説には特に触れていないが、EMI側の説明を読んでも、単に新発見という事実はわかるのだが、これがファンが期待する最初のものかどうかは判然としない。
  ここで一度冷静に考えてみると、先ほど触れた磁気テープ作製→金属原盤作製→再度磁気テープ作製、この流れは本当の話なのかとも思う。つまり、最初にマスターを作製した時点ですでにノイズが混入し、その言い訳のためにこうした話が作られたとか……。
  来月に予定されているブルックナーの『交響曲第8番』(TOGE-11012)も、ちょっと気になる。この録音は1949年3月だが、EMIの原盤はこれまで14日と15日の演奏が混合されたものが使用されていた。この2日間の演奏は現在では分別されて発売されているが、これについてSACDの発売予告では何も触れられていない。もしもその混合原盤のままSACD化されるのだとしたら、ちょっと時代錯誤という感じがする。

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自然体の軽やかさ 追悼・熊谷元一先生―― 『写真家・熊谷元一とメディアの時代――昭和の記録/記憶』 を書いて

矢野敬一

 手元からいつの間にか小型のカメラを取り出し、シャッターを切る。その所作がいかにも自然で軽やかだ。だからこそ被写体も構えることなく、写真に収まる。10年ほど前のことだろうか、筆者が見た熊谷元一先生の撮影場面での印象だ。熊谷元一写真賞授賞式の後、かつて先生が勤務したこともある長野県阿智村の小学校でのことだった。自然体が身についたその姿は熊谷先生の生き方そのものだ、と改めて思ったことがいまも印象に残っている。
  大型のカメラとたくさんの機材を使って、構図一つ決めるのにも時間をかける撮影方法もある。しかし熊谷先生のやり方は、およそその対極といってよい。先生自身、その仕事を三足のわらじ、と言っていた。小学校教師、童画家、そして写真家の三つだ。だが写真家については、絶えず自分はアマチュアだ、ということを強調されておられた。そしてアマチュアでしかできない仕事を自分はするのだ、ということも。先生の写真家としての仕事の軌跡を見ていると、アマチュアに徹したことのすごみ、さえ感じる。
  代表作の岩波写真文庫『一年生』は、小型のキヤノンⅡDで主に撮影した。フラッシュは用いない。撮影という点では、かなり制限があったことになる。だが受け持ちの新入生を被写体とする一年に及ぶ撮影の日々は、いきいきとした子供たちの姿をカメラに収めることに成功した。一発勝負、ではなく時間をかけて関係性を築き上げ、その可能性をフルに活かすというのが、熊谷先生の撮影手法といってよい。根気強い撮影ができるアマチュアならではのやり方だ。
  それは自分の生まれ育った村を被写体とし続けたことにも通じる。戦前、若き小学校教師時代に朝日新聞社から刊行された写真集『会地村 一農村の記録』から、その写真家としてのキャリアは始まった。当時、郷土という問題が注目されていたこともあり、この本は一躍脚光を浴びる。戦後になると、今度は農村婦人の問題がたまたま社会問題となっていたこともあり、岩波写真文庫から『農村の婦人』を刊行する。だがその後社会問題となった過疎や出稼ぎといったジャーナリスティックな被写体は、ことさら追い求めることはなかった。そういったこともあって、絶えず日常の生活を記録し続けても写真集として刊行する機会を得ない年月がその後続く。普通なら、そこで撮影を中断なり断念してしまうだろう。それをしなかったところが、熊谷先生のアマチュアとしての足腰の強さだ。昭和50年代以降になると昭和を回顧する機運の高まりとともに、熊谷先生の写真は時代の証言者として再び注目される。そして『ふるさとの昭和史』での日本写真協会賞功労賞、『熊谷元一写真全集』全四巻での毎日出版文化賞特別賞他、多くの受賞につながっていく。
  なぜ熊谷先生にだけは、こうした仕事ができたのか。先生の口からよく出たのは「~をするとおもしろいんではないか」という言葉だ。そんな軽やかな自然体で「おもしろさを見つける達人」だからこそ、ありきたりの暮らしのなかからもおもしろさを見逃さず、被写体にし続けることができたのではないか。そうした姿勢は童画家としての仕事、教師としての仕事にも一貫していた。童画家としての代表作『二ほんのかきの木』は、カキの木を中心として、村の一年の生活を風情豊かに描いた作品だ。あたりまえすぎる題材におもしろさという生命を吹き込むという姿勢は、ここにも息づいている。教え子との関係も、そうだ。自然体で接するなかから、その後教え子とのコラボレーション『五十歳になった一年生』や『一年生の時戦争が始まった』が生み出されていった。
  そうした日常の暮らしの現場からおもしろさを見出し、70年以上にわたってカメラや絵筆でつぶさに写しつづけてきたまなざしが、閉じられた。熊谷元一、享年百一歳。最後にお目にかかったのは、今年七月。誕生日のお祝いにご挨拶に行った折だ。もうその温顔に触れることができない寂しさを胸に、先生のご冥福をお祈りする。

ライトノベルの歴史に向き合って――スタンスをめぐるあれこれ

――『ライトノベルよ、どこへいく――一九八〇年代からゼロ年代まで』を書いて

山中智省

 言説資料を手がかりにライトノベルの歴史と動向を捉え直す。そんな本書の試みをいま一度振り返ってみると、あらためて実感するのは歴史認識と資料選定の重要性、あるいはその難しさである。
  例えばライトノベルの歴史をめぐる議論のなかで、「歴史のスタート地点をどこに見出すのか?」という問題は避けて通れないものだろう。これに対して「それは○○年/年代からだ!」と即答できる方もいるかもしれない。しかし「答えに迷うなぁ…」という方もけっこう多いのではないだろうか。当然「ライトノベルの歴史」と言っても、いつ、どこから、どのように捉えるかによって、浮き彫りになる歴史は様々に形を変えうる。場合によっては数百年前、それこそ『源氏物語』の時代にまでさかのぼってみることも不可能ではないのだ。したがってライトノベルの歴史に向き合おうとすれば、まずはそのスタンスを明確にすることから始めなければなるまい。
  私も学生時代、本書のもとになった修士論文執筆時にこうした作業をおこなったものの、いざ考え始めるとこれがなかなか難しい。スタート地点ひとつとっても、朝日ソノラマ文庫や集英社コバルト文庫の創刊、新井素子や氷室冴子といった作家がデビューした1970年代か、はたまた角川スニーカー文庫や富士見ファンタジア文庫の創刊、神坂一『スレイヤーズ!』(富士見ファンタジア文庫)が登場した1980年代末頃か………これまでの指摘を踏まえると様々な候補が思い浮かぶ。さて、どうしたものか。すでに収集済みだった資料と向き合いながら悩んだ末、今回は冒頭で述べたテーマとカルチュラル・スタディーズの応用である文化研究のスタンスを軸に、ライトノベルという名称が誕生したとされる時期に絞り込むことで落ち着いた。
  しかし安心したのも束の間、続いては資料の選定作業が待ち構えていて、こちらも一筋縄ではいかなかった。どのような資料をそろえるか次第で歴史の見え方も変わってくる以上、選定作業は万全を期したいと考えていた。とはいえ、掲げたテーマに沿う資料は非常に膨大で、ある時は市立図書館で「活字倶楽部」や「SFマガジン」を、県立図書館で「出版月報」や「出版指標年報」を10年から20年分閲覧請求し、またあるときは国会図書館で「電撃hp」や「ザ・スニーカー」のバックナンバーを読み漁り………気がつけば図書館めぐりに明け暮れる日々。かさむ交通費とコピー代。新たに収集する資料も次から次へと増えていき、果てしない宇宙をさまようごとく途方に暮れたこともしばしばだった。
  そんなときは恩師・一柳廣孝先生やゼミメンバーから「ちゃんと絞り込もうね~」とのあたたかい(?)助言をいただきつつ、先の歴史認識を考慮したうえで「特定の小説群が「ライトノベルとして」語られた言説資料」という枠組みで収集するよう努めた(とは言うものの、興味深い資料を見つけるとついつい集めてしまったのだが)。そういえば、かつてゼミの先輩からこうした作業について「それが決まれば研究の6割から7割は終わったも同然」と言われたのを憶えている。誇張もあると思うが、要するに「研究の6割から7割」を占めるほど重要性が高いというわけで、いま思えば苦労して当然のことだったわけだ。そうした苦労の果てに本書があることを思うと、いまさらながら感慨深い。
  さて、以上の過程を経て紡ぎ出されたのが、本書で示したライトノベルの歴史と動向である。今回浮き彫りになった事柄によって、これまでのライトノベルを捉え直す、あるいはこれからのライトノベルの行く先を考えるきっかけにしていただければ幸いである。また今後のライトノベル研究のなかで、ジャンル認識や文学/文芸観の変遷をめぐる議論の叩き台として本書をご活用いただけたなら、著者としてこれ以上の喜びはない。

 最後にもうひとつ。本書のために素敵なイラストを描いてくださったゼミの大先輩・佐藤ちひろさんに、あらためて深く感謝申し上げます。内容と見事にシンクロしたイラストの魅力を、読者の方々もぜひご堪能ください!

第35回 スクロヴァチェフスキのブルックナー『第7』

 10月15日、東京芸術劇場でおこなわれたスタニスワフ・スクロヴァチェフスキ指揮、読売日本交響楽団の演奏会に行った。曲目はシューベルトの『交響曲第7番「未完成」』とブルックナーの『交響曲第7番』である。
  席は2階RBD席の前の方。ベストだと思って買ったのだが、実際に座ってみるとちょっと前すぎた。中低弦がやや弱く、金管ではホルンが若干強い。同じような失敗は10月8日、紀尾井ホールでのペーター・レーゼルでもやってしまった。まあ、両日の席とも極端に悪くはないが、思っていたのとはちょっと違う。これは、日頃招待券に依存して、買うことをあまりしていないので、感覚が鈍っていたのだと反省した。
『未完成』は辛口ですっきりした、とてもきれいな演奏だった。弦楽器の人数がかなり減らされていたのは自分の好みではないが(確か第1ヴァイオリンが10人だったか)、でも特に不満というわけでもなかった。
  休憩後のブルックナーはフル編成。第1楽章はいかにも壮大である。席の位置の関係もあるかもしれないが、今年(2010年)の3月に聴いた同じコンビによる『交響曲第8番』よりも音の厚みがいっそう増しているように思えた。オーケストラの細かなミスは散見されたが、ブルックナーらしい深い響きに浸れる喜びをかみしめることができたのである。
  第2楽章も非常に充実した、濃い音で始まった。ところが、4、5分経過したころだっただろうか、突然、自分の目の前に女子高生の顔が浮かんだ。そう、この2、3日前に解体工事現場の壁が崩れ、その下敷きになってわずか17歳の命を散らしてしまった女の子である。なぜこんなときにこの子の顔が、と一瞬たじろいだが、その理由がわかった。それは、開演前に読んだプログラムに掲載されていた宇野功芳のエッセイ「いいたい芳題」である。今回のテーマは「死という宿命、永遠への恐怖」である。このなかでは台本作者・中嶋敬彦氏の文章が引用されている。生まれ出たそのときから死に向かって歩むという宿命を負わされている人間に幸せなどないのではないか、人間は死があるからこそ救いがあり、世の無常から解き放たれるのだ、といった内容である。この女子高生の突然の死は家族や友人にとっては言いようもない悲劇だろう。でもこのエッセイのテーマに沿うならば、この子はほかの人よりも早く、この世の苦しみから解放されたのである。
  わずか1秒にも満たない時間にそんな思いがよぎったが、その瞬間から私にはオーケストラの音色ががらりと変わったように感じられた。とてつもなく崇高だが、限りなく悲痛な音のように。むろん、実際の舞台では特に大きな変化はなかったはずだ。ただ、自分のなかで何かが起こっただけなのだ。
  このことが何を意味するのかは、私にはわからない。もしもこの日の演奏会評を依頼されていたら、自分には的確なことが書けないと思う。ただ、こうした現象が起こったのは、何よりも演奏が優れていたからだと、これだけははっきりと言える。
  後半の2つの楽章も立派だった。第4楽章ではあれこれと細かい操作をおこなっていた個所もあったが、いかにも不自然と受け取れるようなところはなかった。
  この15日と翌16日の両日、発売を前提に録音がなされたという。自分勝手なことを言わせてもらえば、私が聴いた15日の方が製品化されることを希望したい。特にその第2楽章がどうだったのか、改めて聴いてみたい。

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第34回 上岡敏之――ヴッパータール響の“意外な”アンコール

 10月12日、東京オペラシティの「ウィークデイ・ティータイム・コンサート11」に行った。内容は上岡敏之指揮、ヴッパータール交響楽団で、オール・ワーグナー・プロ。まず、『ジークフリート牧歌』に始まり、後半は『ニーベルングの指環』のハイライト。平日の昼間だからチケットなんかいくらでもあるだろうと思ったが、念のために当日の朝チケットセンターに電話した。すると、これがけっこう売れていたが、かろうじてそこそこの席を1枚確保する。
  開演前に指揮者の短い話があったのち、まず最初の『ジークフリート牧歌』である。弦の人数は全く減らさないフル編成。第1ヴァイオリンは14人か16人いたと思う。コントラバスは8人、これは客席からきちんと数えることができた。やはり、これだけの大きなホールであれば、この程度の人数でもぜんぜんおかしくない。以前、同じくフル編成でウラジミール・フェドセーエフがモスクワ放送交響楽団を指揮したチャイコフスキーの『弦楽セレナード』を聴いたことがあるが、厚ぼったいとか、重苦しいとか、そんなふうには全く思わなかった。むしろ、大編成のメリットの方を感じた。その点では今回の上岡の演奏も同じである。ただ、彼の解釈はあれこれと実にさまざまな工夫を盛り込んだものだ。作為的に思えた個所もないとはいえなかったが、全体としては個性豊かな美演奏という印象である。
  後半は「ワルキューレの騎行」とか「ジークフリートのラインへの旅」とか、おなじみの曲が演奏された。ただし、曲と曲との接続部分は耳にしたことがないものだった。これらの曲でも上岡は独自の解釈をみせ、オーケストラもそれによく応えていた。私がいちばんいいと思ったのは「森のささやき」で、次点は「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」だろうか。最後は「ジークフリートの死と葬送行進曲」。地味に終わるので、きっとアンコールは派手にやるだろうと予想した。『ローエングリン』第3幕前奏曲とか、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲あたりだろうと。やがて、予想どおりにアンコールが始まる。ところが、頭の中がすっかりワーグナー・モードに切り替わっていたため、何の曲かがわかるまで時間がかかってしまった。「??? これはワーグナーの……何だっけ? えーと、えーと、違う……あっ!、これは『英雄』の第2楽章じゃないか!」。気づくまでに12小節以上も経過していた。
  ベートーヴェンの『交響曲第3番「英雄」』の第2楽章をアンコール演奏した意外性にも驚いたが、もっと度肝を抜かれたのはその演奏内容である。テンポは恐ろしく速い。しかも、そのえぐり取るようなすさまじいエネルギーと狂気は晩年のヘルマン・シェルヘンのライブを思い起こさせた。十分にびっくりさせてもらったが、ふと頭によぎったこともある。
  それはふたつ。ひとつは前回来日したときに上岡が振ったベートーヴェンの『交響曲第5番』と解釈が違いすぎることだ。むろん、『英雄』とは曲も違うし、前回の来日から3年も経過しているので、違っても当たり前とも思えるが、私は一貫性のなさも少なからず感じた。
  もうひとつは、これだけ意表を突くアンコールというのは、メインの印象を希薄にするのではという危惧。それと、お客の側に芽生えてきそうなアンコールへの過度の期待である。もちろん、こうしたことを今後絶対にやってくれるなと言っているわけではない。自分も楽しませてもらったけれど、やはり気になることは気になると、ちゃんと書くべきだと思った次第である。
  いずれにせよ、このように書けるのも、上岡が注目すべき逸材だからだ。このあとの10月18日、ヴッパータール響とのマーラーも楽しみだし、今後予定されている日本のオーケストラとの共演も興味津々である。

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最新の名探偵ホームズがわかる本――『ホームズなんでも事典』を書いて

平賀三郎

 ホームズ100周年(1987年)のころには各社からたくさんのホームズ本が出版されたが、その後は繰り返しになったのか、出版業界の不況の影響を受けたのか、ホームズ研究本の新刊はやや滞った感がある。
 一方、日本シャーロック・ホームズ・クラブ(JSHC)が設立されて30年、その活動のなかで発表された国産研究も多い。欧米の先行研究や各種の解説についての再チェックが進んだのである。2000年ごろまでに活字になった本は、半世紀、四半世紀前に発表された欧米での研究レベルを出ないものが多いが、その後クラブのフォーラム、セミナーや支部例会で発表されたものにはなかなか充実した新しい研究がある。
 たとえば、作家のコナン=ドイルは、2人の夫人と5人の子ども全員に「コナン」の名を与えている。ミドルネーム・洗礼名としては、これはおかしい。家族全員がコナンを名乗っている事実は、ドイルに関する本を読んだほとんどのシャーロキアンは知っている。しかし、これが姓なのか名なのかは、欧米の研究では取り上げられているものがあるが、わが国ではJSHCの年次大会でもクラブの会誌でも公然と発表されてはいなかった。作家研究も、本人の自伝や子息の友人が書いた好意的な伝記が翻訳されているが、これだけを読んで、それを無批判に信用するのでは研究にはならない。どうやら自分の代から複合姓にしたようである。
 ホームズの愛好者シャーロキアンの特徴は、すなわちアイドルのファンクラブとの違いは、この「研究」にある。架空の人物が、あたかも18世紀から19世紀のロンドンで活躍した歴史上の人物のようにとらえ、事件簿全60編を読み解き、当時の地理・歴史・文化・社会上の事実に照らした作品研究をおこなうのである。もちろん、会員相互の親睦を忘れてはならないが、この「ホームズ学」こそ、事件簿が出版されて130年を経た今日まで読み継がれ、世界各国にシャーロキアン団体が結成されている最大の理由だろう。
 クラブも30年たった時点での国産研究の成果をとりまとめ、2009年に、平賀を編著者として会員13人の共著で『ホームズまるわかり事典』(青弓社)を上梓した。ホームズを読む人、これから研究する人を対象にして、JSHC内の発表のなかから出版にふさわしいものを選択し、 101項目を「読む事典」として編集した。約30年前に出版された『シャーロック・ホームズ雑学百科』(小林司/東山あかね編、東京図書、1983年)や、約10年前に編集された『シャーロック・ホームズ大事典』(小林司/東山あかね編、東京堂出版、2001年)などの会員による労作からは30年なり10年なり進んだ、新しい研究を反映させたものを目指している。
 代表的な辞典の『広辞苑』(新村出編、岩波書店、1955年)も版を重ねるたびに項目が入れ替わり、記述も補正される。そもそも事典は、最終不動のものではなく、学問や社会の進歩によって内容は次々と更新されるべきもので、その時点で最新のものであっても翌日から古くなっていく宿命にある。
 ホームズに関するその時点で最新の解説や研究の項目は、とても前著の101項目にとどまるものではない。今回は第2弾を『ホームズなんでも事典』として刊行した。大学教授や単著で出版している作家なども加わったシャーロキアン19人の共著で、103項目を所収している。
 冒頭は「青いガーネット」である。クリスマスの宝石盗難事件だが、わが国の「義理堅い」シャーロキアンのなかには「ガーネットは赤い宝石で、青いガーネットなどありえない、荒唐無稽な事件である」と批判する人がいたり、「本来は赤い宝石が青いからこそ珍しいのである」と擁護する人がいたが、鉱物学的に結論が得られた。宝石の色は微量の成分の差によるので、青いガーネットもありうるし、自然科学の発展途上であった当時、ほかの青い鉱物をガーネットと思い込んだ可能性もあるという研究書が発表された。「青いガーネット」はこの最新の研究に基づく項目である。
 次は「アビ・ハウス」。ロンドンを訪れたシャーロキアンが必ず立ち寄ったベーカー街221番地に立ち、1951年の英国フェスティバルで地元の区役所がホームズの部屋を復元して展示した建物である。しかし、最近再開発され、入り口に掲げられていたホームズの横顔のデザインのプレートも姿を消した。シャーロキアンにとって、ロンドンで必ず訪れる場所が失われ哀愁をさそう項目である。
 以下「ワトスンの結婚」まで、興味をもった項目から自由に読んでいただけるものとして編集している。

〈孤独〉という創造力――『写真の孤独――「死」と「記憶」のはざまに』を書いて

伊勢功治

『写真の孤独』という本書の書名は、書き下ろしの「写真の孤独――ジャコメッリと須賀敦子の出会いから」からとった。通常、原稿を書いた後に書名を付けるものだが、まず、最初にこの書名が頭に浮かんだ。これは私にとって、はじめての経験だった。自然に生まれたものだったが、〈孤独〉という言葉に格別の思い入れがあったわけではない。
  私にとって写真は〈死〉の表象として常にそばにあり、写真はいつも〈孤独〉とともにあった。これまで人の死や病、そして別れが写真についての文章を書かせたような気がする。写真は遺影のように〈記憶〉をよみがえらせ、立ち止まって書くことによって追悼してきたともいえる。本書に書いたもののほとんどがそうだった。そして、この書き下ろしの原稿を書くにあたり、誰をその中心軸にするかが最大の課題となった。
  あるとき、イタリアの写真家マリオ・ジャコメッリの神父たちを捉えた写真が目に飛び込んできたときに、はじめてこのテーマで書けるという確信のようなものを得た。
  また、須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』(文藝春秋、1992年)のなかのジャコメッリの写真との出会いに関する記述が筆を進める後押しになった。この2人の作家の根底には、詩から多くのインスピレーションを得て、世界を広げ、自らの作品に浸透させて生まれた結晶がある。
  私にとって須賀の最初のエッセイ『ミラノ 霧の風景』(白水社、1990年)は、私がブックデザインの仕事を始めた頃の記念碑的な本でもあったので、運命的な再会のようなものを感じた。出会いはいつも深層の〈記憶〉のなかから生まれる、そんな気がした。
  写真作家について知りたいという気持ちが、ひとつひとつの川を渡るように筆を進める力になったのは事実だ。写真評論を生業としていないため、興味のある写真家や写真だけを取り上げることができたことは、幸いだったといえるかもしれない。
  本書に収めた10年ほどの間の写真家についての文章を振り返ると、作家の写真に直接入り込むことを避けるかのように、詩や音楽、映画などを経由しながら、写真に近づいていったことがわかる。ときには筆を止め、思考が道草することもあった。迂回し、遠回りしながらいちばん落ち着く場所を見つける、これまでの自分の歩み方にどこか似ているような気がする。
  ジャコメッリに関する資料を集める段になって、日本では多木浩二と辺見庸の著作以外にないことがわかり、洋書を集めることになった。そのために多くの時間を費やしたが、ジャコメッリという写真家について知れば知るほど、一筋縄ではいかないその奥行きの深さに興味が湧いた。
  特に彼が、詩や美術といった他分野の芸術から敏感に、かつ深く感応する芸術家でありながら、一方で現実に真摯に向き合う姿勢に強く惹かれた。従来の写真の様式にとらわれることなく、最前線の流行からも自由だった。彼は孤独を愛し、〈写真の孤独〉こそが創造の源泉であった。
 
  洋書のなかで、Enzo Carliの Giacomelli, CHARTA, 1995 の冒頭でJean Claud Lemagnyが書いたIntroductionの日本語訳は、早稲田大学院生の今中菜々さんにお願いした。この場を借りてお礼を言いたい。

(本書のオノデラユキに関する文章のなかで書いた私の詩が「小見さゆりが書いた」と間違えて表記されてしまった。小見さゆりさんには深くおわびを申し上げます)