第28回 ムターを聴く

  4月19日、サントリーホールでアンネ=ゾフィー・ムターのリサイタルを聴いた。ピアノはCDと同じランバート・オルキス、曲目はブラームスの3つのソナタだった。
  舞台に出てきたムターは気品があり、美しくて凛々しく、豊かな風格が感じられた。楽器を持って構える姿も実にカッコよかった。ヴァイオリンを常に床と平行か、わずかに上の角度で持ち、弾いている最中もどちらかというと動きが少ないほうだ。背筋はピンと伸び、見ただけでもびくともしない安定感を与えてくれた。
  出てくる音も実に多彩だった。強弱、濃淡を大胆に、あるいは繊細に弾き分け、テンポも巧みに変化する。最も見事だと思ったのは休憩後の『第3番』だろうか。息を飲んだのは2番目に弾いた『第1番』のソナタ。冒頭、ふっと息を吹きかけられたような音が中空に舞い、それがスウッと消えていく。そこを聴いただけでも「きょうは来てよかったなあ」と思った。アンコールはブラームスの『ハンガリー舞曲』の『第1番』『第2番』『第7番』、『子守歌』、それとマスネの『タイスの瞑想曲』と、5曲も弾いた。特に『ハンガリー舞曲』はいっそう自在で意欲的だった。オルキスもムターにぴたりとつけていて、有機的なアンサンブルという点でも申し分がなかった。
  どこで読んだか忘れたが、ムターは「チューニングなどはお客に聴かせるものではない」と語っていた。この日も彼女は舞台上では一度もチューニングしていない。これは、何ということもないがすがすがしくて好きだ。2009年秋にエンリコ・オノフリの演奏会に行ったが、そのときはコンサート・マスターがいちいち各パートのトップ奏者のところに歩み寄ってまでチューニングをしていた。しかも、曲の始まる前はもちろん、楽章間も。これを誠実さの現れと捉える人もあるかもしれないが、私にはなんとも見苦しいものとしか思えなかった。
  ムターは、ピアニストが座るやいなや間髪を入れずに弾いていた。楽章間もほとんどアタッカに近い。よけいな思わせぶりを排し、音だけで勝負するような気迫さえ感じた。また、この日はピアニストの横に座る譜めくり係もいなかった。これは単純に、あえて用意する必要がないからそうしたのだろう。しかし、私には音楽をしない人間は舞台には必要ない、といった演奏者の言外のメッセージではないかと感じた次第である。
  印象的だったのは、この日の舞台上には大きな花輪が飾られていたこと。この花はムターの要望なのかどうかはわからないが、当日の演奏の記憶を彩るものとしては実にふさわしいものだと思った。

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