「こんな本があったら」を実現して――『クラシックCD異稿・編曲のたのしみ』を書いて

近藤健児

 こんな本があったらいいな、そう思って書きだしたのはいいが、はっきり言って私の力に余る仕事で大変だった。ここでは校正終了後2006年の11月までに出た新譜や、不覚にも書き落としが判明した音源をまとめて記しておきたい。

モーツァルト 
 はじめに新譜から。『ピアノ協奏曲第18番変ロ長調K.456』のフンメル編曲版、白神典子ほか盤(BIS)は同じくフンメル編曲の『交響曲第40番ト短調K.550』との組み合わせでリリースされた。
『交響曲第30番ニ長調K.202(186b)』『交響曲第32番ト長調K.318』『交響曲第37番ト長調K.444(425a)』および『ピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュノム」』の第2楽章をブゾーニがピアノソロに編曲したものを集めて録音した、ヴィンセンツィ盤(DYNAMIC)もリリースされた。
『歌劇「魔笛」K.620』の抜粋をフルート、ギターとヴィオラで演奏したトリオ・コン・ブリオ盤(ANIMATO)も出た。
 次は遺漏である。『ピアノソナタ第11番イ長調K.331』『第15番ハ長調K.545』『「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618』『グラスハーモニカのためのアダージョ ハ長調K.356』『行進曲ハ長調K.408-1(383e)』『「ああ、ママに言うわ」の主題による12の変奏曲ハ長調K.265(300e)』や『フィガロ』『魔笛』のアリアをマンドリンとギターで演奏したものに、テヴェス/ヴァッガー盤(ANTES)がある。本書ではノーマークだったが、ほかにもマンドリンソロやアンサンブルなどへの編曲は相当数存在すると思われる。ギターやマンドリンへの編曲のCD情報は専門店ムジーク・ゾリスデン(http://www.musik-solisten.com/index.html)が詳しい。
『ファゴットとチェロのためのソナタ変ロ長調K.292(196c)』は調査不足で多くの編曲を書き落とした。クラリネットとバセットホルン版(ライスター/マジストレッリ盤、CAMERATA)、2ファゴット版(ゴーデ/ハード盤、ANTES)、2コントラファゴット版(ニグロ/レーン盤、CRYSTAL)、2バス・ヴィオラ・ダ・ガンバ版(ハーシェイ/ジェッペセン盤、TITANIC)、ファゴットとハープ版(ルーブリ/タリトマン盤、ARCOBALENO)などがある。
『歌劇「魔笛」K.620』『歌劇「フィガロの結婚」K.492』『歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527』の主要曲にはクラリネットおよびバセットホルンによるライスター/L&L・マジストレッリ盤(CAMERATA)がある。
『2台のピアノのための協奏曲変ホ長調K.365』を2台のハープの協奏曲に編曲したものに、ミシェル/メストレ盤(EGAN RECORDS)がある。CDの存在は知っていたが詳細情報がわからず本に記載できなかった。メーカーから取り寄せてみてはじめて原曲が判明。面白い試みだがやや音量不足は否めない。
 読者からのご教示で、『クラリネット五重奏曲イ長調K.581』『イ長調K.581a(断片)』にマジストレッリ/北条純子によるクラリネットとピアノ版(BAYER)があることを知った。また、本書28ページのハイモヴィッツ(Vc)によるセル編曲チェロ協奏曲の第2楽章の原曲が『ディヴェルティメント ニ長調K.131』であることも、同じ方から教えていただいた。

ベートーヴェン
『交響曲第6番ヘ長調Op.68「田園」』の弦楽五重奏版には、プロ・アルテ・アンティクア・プラハ盤(ARTESMON)があることが判明。BONA NOVA盤とは別に『第5番』とこの曲を録音していたようで、旧譜だが国内の各ショップではつい最近はじめて紹介され、早速取り寄せて聴くことができた。これで弦楽五重奏版の未紹介は『第2、4、9番』の3曲である。『チェロとピアノのための「マカベウスのユダ」の主題による12の変奏曲』にはマハラ編曲・演奏のホルンとピアノ版がある(MSR)。

シューベルト
『歌劇「アルフォンソとエストレルラ」D.732』にはハルモニー・ムジーク(木管合奏)版があり、リノスE盤(CPO)がある。
歌曲21曲をホルンとピアノで演奏したキング/テイチャー盤(ALBANY)も出た。

ブラームス
  ピアノ連弾のための『21のハンガリー舞曲集』からはじめの10曲をモシュコフスキがピアノソロに編曲した音盤もあり、ブジャージョ盤(PROPIANO)で聴くことができる。ブラームス自身もピアノソロ用に編曲しており、これにはビレット盤(NAXOS)がある。ブラームス自身の編曲で重厚な和音が登場する個所が、モシュコフスキはアルペジオによって軽くしなやかに編曲している。そのほか、この曲の管弦楽編曲にもいくつかの種類があり、たとえばS=イッセルシュテット/北ドイツSO盤(ACCORD)の『第8、9番』は通常録音されるショルム編曲ではなく、ブロイヤー編曲。
  なお本書では書き落としているが、ブラームス自身の編曲ということなら、ピアノ連弾の『ワルツ集「愛の歌」Op.52a』『ワルツ集「新・愛の歌」Op.65a』の原曲は同名の四重唱曲だし、ピアノ連弾用の『「ワルツ集」Op.39』にはピアノソロ編曲もある(ジョーンズ盤、NIMBUSなど)。
  読者からのご教示で、『クラリネット五重奏曲ロ短調Op.115』にマジストレッリ/北条純子によるP・クレンゲル編曲のクラリネットとピアノ版(BAYER)があることを知った。

チャイコフスキー
『バレエ組曲「くるみ割り人形」Op.71a』および『バレエ音楽「白鳥の湖」Op.20』から5曲をシュトラートナー編曲で8人のチェロ奏者によるアンサンブルに編曲した、アハト・チェリステン盤(CAMERATA)が新しく出た。

ドヴォルザーク
『4つのロマンティックな小品Op.75』『スラヴ舞曲Op.46-3,8』にはマハラ編曲・演奏のホルンとピアノ版がある(MSR)。

ネットでは解決しないものがある。だから、本を書く――『音楽は死なない!――音楽業界の裏側』を書いて

落合真司

 音楽業界の最新事情を分析・解説する授業を音楽系の専門学校でおこなっている。その講義ノートを一冊の本にしたいと思い、2003年に『音楽業界ウラわざ』を出版した。音楽業界への就職を希望す人はもちろん、音楽になんとなく興味がある人まで広く読んでもらえればいいと思った。
  実際に本を出してみると、意外な人たちから反応があった。あるインディーズバンドと話をしているときに、「メンバー全員で回し読みしてますよ。ちなみに、別のバンド仲間から勉強になるよってこの本が回ってきたんですけどね」と言ってくれたり、知り合いになった音楽プロダクション社長にこんな本を書いていますと名刺がわりに本を渡そうとしたら、「それ、もう読みましたよ。この前FM局に行ったら、この本おもしろいから読んでみてと言われて、一気に読ませてもらいました。よく調べてあるなあって感心しましたよ」と言われた。
  音楽業界を目指している人だけでなく、すでに業界で活躍している人たちがわたしの本を手に取ってくれている。しかもコミックのように本がつぎからつぎへと回し読みされている(自分の本が回し読みされるのをいやだとは思わない。自分でいうのもナンだが、いい本ほど旅していくものだと思っている)。
  あれから3年。音楽業界は大きく変動した。音楽配信によって楽曲の扱われ方や業界マップが急速に変化した。CDはなくなるのか……そんな声をよく耳にするようになった。
  そんなとき、教室にいた学生がポータブルCDプレーヤーで音楽を聴いていた。いまどきiPodではなくCD? かさばって持ち運びに不便だろう。そう思って教室を見渡すと、他にも数人の学生がポータブルCDプレーヤーを使っていた。「どうして?」と尋ねると、CDの方がいい音だからという返事だった。
  CDがなくなるとかなくならないという以前に、もっと単純なことをわたしは見失いかけていた。いい音で音楽を楽しみたいという原点だ。
  ユーザーが本当に求める音楽ライフはどんなものなのか。音楽業界は音楽配信をどう展開させようと考えているのか。そういったことを中心に本を書いてみようと思った。
  ちょうどそんなとき、『音楽業界ウラわざ』を読んでくれた人たちから、続篇を読みたいという声が聞こえはじめた。そして偶然にも『音楽業界ウラわざ』の増刷の連絡が青弓社から来た。
「書かなきゃ」。たしかな追い風を感じた。
 
  実は、本を書くうえでいつも悩むことがある。本にする意味は何か、ということだ。
  ネット利用者が6,500万人もいるいま、知りたいことのほとんどはクリックすれば手に入る。より正確でより新鮮な情報にたどりつくことも簡単になった。
  そんな時代に、数カ月もかけてつくる書籍にどれだけ人は期待するのだろう。
  何が何でも本にしなければならない。本にしかできないこと。その答えが見つかるまで、絶対に原稿は書かないでおこうと思っていた。
  でも、そんなに難しく考えることなどなかったのだ。読みたいと言ってくれる人がいるなら書くべきなのだ。
  知りたいだけならみんなパソコンの電源を入れる。だけど、整理して分析し、解釈をつけ、問いかけたり主張するところまで現在のネットは発展していない。
  新聞やCDがなくならないように(そもそもレコードだって消えていない)、本というかたちでしか完結しないものがある。
  ネットでは解決しないものがあるから、わたしは本を書く。ただそれだけだ。

 ちなみに、本屋でバイトをしている学生が、本書の書店用POPを手描きしてくれた。音楽も本も、そういうぬくもりが大切なんだ! 音楽は絶対に死なない!

クラシックが地球を救う……?!――『それでもクラシックは死なない!』を書いて

松本大輔

 やつらは突如やってきた。
 透明な宇宙船でやってきたやつらは、1日目で世界中の各国の軍事基地を殲滅。2日目にアメリカ、イギリス、日本をはじめとする大国の政治的中枢を破壊。
 3日目、緑色の光線が世界中の都会を焼き払っているというニュースを伝えたのを最後に、新聞・テレビ・インターネット・電話などあらゆる通信手段は使用不能となった。もちろん飛行機・鉄道・船などの交通機関はとっくに停止している。
 人類はわずか3日でやつらの前に陥落したのである。

 4日目、かろうじて残っていた自衛隊が、街の生存者をいっせいに避難所に誘導していくことになった。私たちは着の身着のまま、大急ぎで最低限の食料と飲み物だけを用意した。
 ……そして、怒られそうだが、私は書斎にあった膨大なCDのなかから、お守りがわりに3枚のアルバムを探し出し、ジャケットのポケットに突っ込んだ。新刊『それでもクラシックは死なない!』という本に掲載したCDたちである。しかしこの本が出ることはもうないのかもしれない。……それより、この3枚のCDを聴くことさえもうないかもしれない。
 自衛隊のトラックは出発した。
 ところが道路は寸断されていてわずか30分ほどで立ち往生した。おそらく全長数百メートルの車列である。やつらに見つかったら攻撃対象になるのは間違いない。
 そしてその予感はすぐに的中した。突如空中から放たれた緑色の光線が、目の前の装甲車を一瞬にして消滅させた。トラックに乗っていたわれわれは完全にパニック状態に陥り、一片の理性もない哀しい群衆と化した。
 私はあっという間に家族と離れ離れになっていた。急いでもとの場所へ戻ろうとするが、押し寄せる群集に飲み込まれ、戻ることも進むこともできない。
 そのとき、まわりが真っ白になり……意識が途切れた。

 それからどれくらい時間がたったわからない。気づいたら、真っ白な祭壇のようなところに立っていた。
 目の前にやつらがいた。しかし真っ白な光に包まれているやつらの姿を直視することはできない。どうやらあまりいい状況ではない。……が、最悪の状況でもないような気がした。
 ぼーっとしている私の頭に、突如やつらの意識が入り込んできた。
「おまえの持ち物のなかに、3つの媒体が入っていた。これはなんだ?」
 目の前に、先ほどジャケットに入れたCDが3枚置かれていた。
「これは……CDです。音楽が入っています」
「音楽とは何だ? あらゆる原語解釈装置で調べたがどこの星雲の原語とも異なる。暗号でもない。まったく意味のないデータの集まりとしか思えない」
「データじゃないです。音楽ですから」
「音楽とは何だ?」
「楽器や声で、いろんな音色を奏でるんです」
「それに何の意味があるのだ? さまざまな音程の音が入っていることは確認したが、それがどういう意味をもつのだ?」
「意味はありません。それを聴いて、いろいろ感じるのです」
「よくわからん。くわしくこの3枚の媒体を説明してみろ」

 1枚目……。カレル・アンチェルがチェコ・フィルを指揮した1968年5月12日の『わが祖国』ライヴ。
「これはほかの国に占領されそうになったときに、その国の人たちが集まってお互いの勇気を高めあったときの音楽です。憎しみや怒りを、国を守るための勇気に変えてくれるのです」
 2枚目……。ガブリエル・フェルツが指揮したスークの『幻想的スケルツォ』。
「これはとてもとても美しい音楽です。聴く人の心の中にある絶望やおそれを、希望と喜びに変えてくれます」
 3枚目……。ラウテンバッハーがヴァイオリンを弾いた、ビーバーの『ロザリオ・ソナタ』。
「これはとても安らかで慈しみに満ちた音楽です。これを聴けば、どんな生き方をしてきた人でも、神の愛を感じることができると思います」

「おまえは何を言っているのか? おまえの言うことが本当であれば、この媒体を聴くだけで、おまえたち地球人はどのような状況でも希望と勇気をもちえるということになる」
「いえ、まあ必ずというわけではないのですが……」
「そして、われわれのような高次の生命体でもまだいつでもコンタクトできるわけではない神の意思に、おまえたちはいつでも自由に接触できるというのか?」
「そんな。いつでも感じることができるというだけです」
「それは不可能だ。そんなことは許されない」
 やつらは目の前のCDを取り上げた。
「でもこのCDを取り上げても、地球上にはこれと同じくらいすばらしい音楽がまだたくさんあります」
「ではすべての媒体を取り上げる」
「でもCDを取り上げても、楽器さえあれば地球人はいつでも音楽を生み出すことができます」
「ではその楽器というものも取り上げる」
「でも僕たちには歌があります。結局何をしたって地球人は生きている限り音楽とともにあるんです。だから地球人は絶対にあなたたちに降伏しないし、いつも神様がそばにいてくれる」
 やつらは目に見えて動揺し始めた。
「おまえの言ったことが本当かどうか調査する。おまえのDNAには、存在した地球人すべての知識と経験が収まっているのだ。それをチェックすればすぐに結果が出る」
 一瞬脳髄が真っ白になった。永遠のときを1秒間で経験した。
 意識が戻るとやつらはさらに動揺していた。
「この戦いは中止だ。戦略コンピュータによると地球人は地域によって宗教も思想も政治も経済もすべてバラバラだから占領は容易だという結論だったが、その戦略コンピュータに「音楽」という概念はなかった。その意味不明な「音楽」というものに対して共通認識をもつこんな生命体を、これ以上攻撃し続けるのはあまりにもリスクが大きすぎる」
 天井がぐるりと回った。また意識が遠くなった。「学習しないように、時間を4日前に戻す」。なんとなくそんな声が聞こえたような気がした。

 気づいたら自宅の庭だった。服装はやつらといっしょにいたときのまま。家に入って確かめると、やつらが攻め込んでくる前日の夕方。
 時が戻っている。やつらといっしょに母船にいたからか、私は時間を逆行しながらも記憶を失っていなかった。
 呆然としている私に家族が尋ねる。「ねえ、今日の晩ごはん何にする?」。もちろん彼らは何も知らない。
 晩ごはんのとき、まあ理解してはもらえないだろうと思いながらこの4日間の話を家族にした。息子たちは目を丸くして聞いてくれたが、妻は「で、それを私たち以外の人にはまさか話さないわよね」と言いながら風呂を掃除しに行った。
 まあ、息子たち以外は誰も信じないだろう。だが、このくすんだ3枚のCDが人類を救ったことは、まぎれもない事実なのである。

 ちなみに、幸いにも『それでもクラシックは死なない!』はその後無事刊行された。

「ぜいたくな 哀しさ」のこと――『滝田ゆう奇譚』を書いて

深谷 考

  いつも、長篇を何年もかかってようやく書き上げたあとで、書くべきだったのに書ききれなかった事柄が、二つ三つにとどまらないくらい、ある。校正の段階で何度も直してみようとも考えるのだが、いったん書いてしまった文章の勢いや流れを変えることは大変むずかしい。
 『滝田ゆう奇譚』でも、幼少年時代の意味を考えるところで、吉原幸子の「幼年連祷 三」所収「1 喪失ではなく」の詩を引用して、「幼年」の「時代」の意味について、もっと踏み込んで書くべきだった――の悔いが残った。

  大きくなって
  小さかったことのいみを知ったとき
  わたしは〝えうねん〟を
  ふたたび もった
  こんどこそ ほんたうに
  はじめて もった

  誰でも いちど 小さいのだった
  わたしも いちど 小さいのだった
  電車の窓から きょろきょろ見たのだ
  けしきは 新しかったのだ いちど

  それがどんなに まばゆいことだったか
  大きくなったからこそ わたしにわかる

  だいじがることさへ 要らなかった
  子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
  そのなかにゐて 知らなかった 
  雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
  いちどのかなしさを
  いま こんなにも だいじにおもふとき
  わたしは〝えうねん〟を はじめて生きる

  もういちど 電車の窓わくにしがみついて
  青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
  わたしは ほんたうの
  少しかなしい 子供になれた――
                (『吉原幸子詩集』思潮社)

  はじめの一節は、滝田ゆうの『寺島町奇譚』のためにあるような詩句ではないか。拙著のエピグラフとして巻頭にかかげてもよかった。滝田ゆうにとっては、『寺島町奇譚』を描く営為を通して、いうなれば〝本当の喪失〟を獲得したのである。そしてそれこそが「ぜいたくな 哀しみ」と呼ばれるべきものだった。それを見出すのに、長い歳月を必要としたのだ、と思う。
  滝田ゆうが、幼少年期の魂をずっと持続していたからこそ、またそれを〈ふにゃふにゃ〉〈トロトロ〉の、アンチ・ヒーローのキヨシ像として造形しえたからこそ、「ぜいたくな 哀しさ」が、漫画絵を通して見えてくるのである。
  戦時中、敗戦間際の時代であるにもかかわらず、滝田ゆうにとっては、あの寺島町(玉の井を含む)での幼少年時代は、遊びに現をぬかした〝黄金時代〟以外の何物でもなかったのである。
  滝田ゆうが、いつまでも〝少年大人〟の風貌をたたえていたのも、そこに〝魂の根っこ〟があったからに違いない。

  「ぜいたくな 哀しさ」
  「いちどのかなしさを
   いま こんなにも だいじにおもふとき
   わたしは〝えうねん〟を はじめて生きる」
  ここには、なんだか滝田ゆうと同じような魂をもった者同士の共感現象のようなものを感じずにはおれない。
  吉原幸子が、滝田ゆうと同じ一九三二年(昭和七年)東京生まれでもあるからだろうか?

死ぬまでに聴いておくべき厳選曲全14曲――演奏比較その後――『クラシック、これを聴いてから死ね!』を書いて

大嶋逸男

  次に挙げたのは、原稿の執筆を終わったあとに発売されるなどして私の手元にはなかったCDで、本書では紹介されてない演奏たちです。「えー?! そんな録音もあるの?」「どんな演奏なんだろう? 聴いてみたい!」と目をひくものとそうではないものがありますね。本文とは少し違う切り口でコメントを書いてみましょう。

●モーツァルト『ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331「トルコ行進曲」』
○フリードリッヒ・グルダ(ピアノ)、1999年
   本文にあった演奏とは違って、もっともっともっとたくさんの装飾音を散りばめた演奏のようです。
○フリードリッヒ・グルダ(クラビノーバ)、1999年
   ク、クラビノーバって、あのヤマハの? ……そうです! 大変なことになっているようです!
○ミハイル・プレトニョフ(プリュートナー・ピアノ)、2005年
   プ、プリュートナーって、どこのメーカーなの? ……んー、なんだかハンマーがたたく弦のほかにもう一本ハンマーに触れない弦が張ってあって、それが共振するとかしないとか……。よくわかりません!

●モーツァルト『ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467』
○マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ/指揮)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、2005年/ライヴ
   ポリーニの弾き語りって珍しいわね! 指揮はうまいの? ……その心配が的中しているらしく、これも大変な騒ぎになっているようです。

●モーツァルト『交響曲第40番ト短調K.550』
○ジェームズ・レヴァイン指揮シカゴ交響楽団、1981年
   また! レヴァインじゃどうせつまらないんでしょ? ……彼は現在、ディズニーランド・レーベルの専属指揮者ですが、その昔はもっとまっとうな時期もあったようです。……それほんとなの?
○マルク・ミンコフスキー指揮レ・ミュジシャン・デュー・ルーブル、2005年/ライヴ
   あまり聞いたことがない演奏家ね? ……古楽の出身でひじょうに活きがいいって評判です! ……じゃそれ、いただくわ! ……え!? 寿司ネタじゃありません!

●モーツァルト『レクイエム(死者のためのミサ曲)ニ短調K.626』
○ダニエル・バレンボイム指揮パリ管弦楽団・合唱団、キャスリーン・バトル(S)、アン・マーレイ(Ms)、ディビッド・レンタル(T)、マッティ・サルミネン(B)、1984年
   またぁ、パリ管時代のバレンボイムじゃつまらないでしょ! ……おそらく、私もそう思います!
○ミシェル・コルボ指揮ローザンヌ声楽&器楽アンサンブル、カトリーヌ・デュボスク(S)、エヴェ・ポドレシュ(A)、ギイ・ド・メイ(T)、ミシェル・ブロダール(B)、1990年/ライヴ
   コルボの録音はいくつもあるのね! ……ええ、入れ込んでますので! こないだなんか日本でフォーレとモーツァルトの二つの『レクイエム』のコンサートをやりましたよ!

●ベートーヴェン『交響曲第5番ハ短調Op.67「運命」』
○クラウス・テンシュテット指揮キール・フィルハーモニー管弦楽団、1980年/ライヴ
   テンシュテットってなぜあんなに神格化されるの? ……たぶん、旧東ドイツで当局から干され西側に亡命するとガンを患っていることが判明し、闘病生活からカムバックしてまた指揮台に立つなどという波瀾万丈の人生を送ったからでしょう!
○クリスティアン・ティーレマン指揮フィルハーモニア管弦楽団、1996年
   例のハンサムな指揮者ですごい人気のある人でしょ? 私もあこがれちゃう! ……あのぅ、指揮者ですので一応音楽を聴いてみてください!
○岩城宏之指揮オーケストラ・アンサンブル金沢、2002年/ライヴ
   岩城さん今年2006年に亡くなられたけど、どんな演奏家だったの? ……はい、指揮をするより『棒ふり旅ガラス』などという演奏旅行での日記やエッセイなど音楽以外のことを書くほうが楽しかったようです!

3月30日の日曜日のこと――極私的「愛も、闘争も」論序説――『刑法39条はもういらない』を書いて

佐藤直樹

  統合失調症は、思春期に恋愛を契機に発症することが多い。恋愛というのは、人生において一種の「危機」であり、それだけでも立派なビョーキだといっていいが、私にとって恋愛は「闘争」と完全にオーバーラップするものであった。
  それは、1969年3月30日の日曜日の午後のことだった。私はこの年に高校を卒業したものの、受験した大学は全部落ちて、浪人確定のブルーな気分のまま、生まれて初めてのデートで、清水の舞台からバンジー・ジャンプする心境で、そのころ「死ぬほど」好きだったNという女性に、喫茶店の片隅で告白というやつをした。が、「好きとかキライとかそういうんじゃなくって、お友達としてね」とやさしく諭され、あっさりフラれてしまった。要するに、向こうのほうがずっと大人だったのだ。
   彼女と別れて、折しも降ってきた雨に「春雨じゃぬれて帰ろう」などとカッコつけて、傘もささずに2時間ほど歩いてやっと家にたどりついたはいいが、アホなことに、フラれたことに気づくのにそれからしばらく時間がかかった。あまりのことに、ボーゼン自失していたのだ。
   これを世に「69年の3・30事件」という(んなわけ、ないか)。
   なぜこの日付をはっきりと覚えているかといえば、すぐそのあとで新谷のり子の「フランシーヌの場合」という反戦フォークがはやったからである。なんと69年3月30日の日曜日は、ベトナム戦争に抗議して、パリでフランシーヌが焼身自殺した日だったのだ。
   恋愛というのは、自分では制御できない絶対的な他者に出会うという経験のことである。絶対的な他者とは、「話せばわかる」ということがまるで通じないということである。言い換えれば、近代的啓蒙ということがまったく無効となる地平のことである。しかも、そのことを通じて無意識にせよ、フッサールのいう「エポケー」(自然的態度の停止)というやつをやってしまう。
   私の場合は、高校2年から浪人時代をつうじてほとんどこの「エポケー」状態で、Nのこと以外、ホントになーんにも考えられなかった。彼女とは具体的に何かあったわけでもなく、要するに片思いにすぎなかったのだが、大学受験のことなど、どーでもよくなった。高校も赤点ギリギリでやっと卒業できた。それまであたりまえで自明のことだと思っていたことが、まるでそう思えなくなったのだ。
   かなりツラかったので、いま考えれば、当時の文学青年の読書の典型みたいなものだったのだが、吉本隆明や木村敏や中原中也などにのめり込んでいった。そういってはなんだが、いま考えていることの大半は、この頃に思いついたものにすぎない。結局、ここ30年ぐらいさっぱり進歩がないことになる。
   しかも、時あたかも「全国教育学園闘争」が吹き荒れていた時代であった。当時真面目な高校生だった私も、これと無縁ではなかった。というよりも、恋愛の「エポケー」状態があまりにツラかったので、当時東北大にいた大内秀明や樋口陽一を呼んで、校内で「反戦ティーチ・イン」(どうだ、なつかしいだろう)を開催するなど、さまざまな活動にのめり込んだのだが、要するに、ほとんどヤケクソのなせる業であった。
   1969年1月には、例の東京大学「安田講堂」の機動隊との攻防戦があったが、私が住んでいた仙台でも、東北大学の封鎖解除をめぐって民青や機動隊との攻防戦がおこなわれたり、デモ隊が道路いっぱいに広がる(違法な)ジグザグデモやフランスデモをやったり、クルマをひっくり返して火をつけるなどという、いま考えればとんでもない悪事が、まあふつうに横行していた。
   大学の教室はふつう、正常に授業を受けるところであって、ストライキがおこなわれ、バリケードが積み上げられるようなところではない。車道はふつう、クルマが通行するところであって、人が道いっぱいに広がってデモをするところではない。クルマはふつう、平穏に道路を走っているもので、ひっくり返されて放火されるものではない。
  「全国教育学園闘争」は、私の自明で日常的な秩序感覚を完全にぶちこわした。つまり、ブランケンブルクのいう「自然な自明性の喪失」というやつである。私が「愛も、闘争も」といっているのは、この日常的感覚の反転が、恋愛にも闘争にも共通しているからである。つまりこれらに共通するのは、「エポケー」状態である。
   自分の恋愛体験のなかで心底思い知らされたのは、この「自然な自明性の喪失」という感覚であり、あとで木村の書物で、これをブランケンブルクが統合失調症論として展開していることを知ったときに、恋愛も統合失調症もきっと同じことなのだと確信した。つまり狂気は、日常性と関係のない彼岸にあるものではなく、正気、すなわち日常性の延長線上にあるものにすぎない。
  私の『刑法39条はもういらない』を通奏低音のように流れているのは、この30年ほど前に確信した、日常的な秩序感覚が全部ぶっこわれたという「愛も、闘争も」という経験である。それから日常性というものは、いつか何かのきっかけで壊れてしまう危ういものだという感覚が抜けない。
  39条廃止論という私の主張の背景にあるのは、何もメンドーなものではなく、日常は非 – 日常に、正気は狂気に、いつでも反転しうるものであるという、このごく単純な確信である。

「写真」と「芸術」のはざまにいた写真家たち――『写真、「芸術」との界面に――写真史一九一〇年代―七〇年代』を書いて

光田由里

  6月のなかば、はじめてポーランドに行ってきた。夏至が近く、ワールドカップのドイツ戦が始まる9時、夜のオープン・カフェでテレビ前に座っても、目抜き通りを紅白のポーランド国旗があちこち下がっている様子が明るく見渡せた。最後の数分でドイツにゴールを決められたとき、町に響き渡ったシャウトは長く尾をひいた。オオーッと言ったまま、隣のテーブルの人は動かなくなってしまった。
   ナチスに首都ワルシャワを焼き払われたこの国が、もし逆に、最後にゴールを決めた側になっていたとしたらどうだろう。どんなシャウトを聞けただろうか……。
   そのとき思い出したのは、ワルシャワの町なかにスタジオをもっていた、スタニスワフ・イグナツイ・ヴィトケーヴィチ(1885-1939)のことだった。彼のスタジオはドイツ軍のワルシャワ侵攻のときに焼け、絵画・原稿に加えて、万を超えたはずの写真も焼失してしまった。ヴィトケーヴィチは、美学者・画家・劇作家として著名で、多分に分裂的な天才肌の芸術家であり、ポーランド現代美術の父のような存在だという。そして写真愛好の人だった。
   彼が撮影し続けたのはポートレートである。ヴィトケーヴィチの真骨頂は、1930年代、レンズの前でみずから百面相を演じたセルフ・ポートレートのシリーズで、ナポレオンやら大司教やらチンピラやら、さまざまな人物に扮してみせた。文句なくおもしろく、これは現代美術である。何冊ものアルバムに自分の写真を整理し、飽くことなく撮り続けたくせに、ヴィトケーヴィチは「写真は自分の作品ではない、写真は芸術ではないから」などと言う。
   まるでどこかで聞いたようなセリフではないか。
   村山知義から中平卓馬まで、写真にひきつけられた芸術家なのに「芸術写真」を否定してきた人たち。野島康三、中山岩太、安井仲治ら、写真を「芸術」だと言わんとすべく奮闘してきた人たち。「写真」と「芸術」という2つの言葉の乖離が、彼らを束縛した。同時に、「芸術」とは距離があった「写真」だからこそ、彼らには可能だったことがある。それは「芸術」であることを疑わずにすんでいた絵画には、逆に難しかったことなのだ。
   ポーランドで、ヴィトケーヴィチの写真の所蔵家に会った。早死にした彼の友人たちを訪ね歩いて少しずつ写真を集め、30年近くを費やしてコレクションを作ったという。なぜ集めたのかを問うと、「欲しかったからじゃない。見たかったからだ。その頃、ヴィトケーヴィチの写真なんて誰も問題にしてなかった。見たいとしたら、自分で集めるしか方法がなかった」と答える。聞いたような話ではないか。「あなたは私の師匠です、ステファンさん」。私は言ってみた。「あなたを師匠と呼ぶ理由は、今度出る本にまとめました。でもすべて日本語ですけど」。「まあね」。ステファンさんの胴回りは大きい。「たとえ読めなくても、その存在が重要だ」。そうかもしれない。でも、できれば読んでくれる人がいてほしい。

“9・11トラウマ”を超えて、「ジャーナリズムの原像」へ――『国際紛争のメディア学』を書いて

橋本 晃

  本書の出発点となった原稿を書いたのはもう5年近く前のことだ。ペルシャ湾岸戦争取材のころから抱きはじめていた「限定戦争時におけるメディア統制とプロパガンダ」のテーマを1990年代半ば、30代も後半になってのアメリカ留学で集中的に研究し、その後のコソボ戦争での現地取材もふまえて書いた原稿は、ツテを辿って会いに行った某大手出版社の新書編集長からいい感触を得ていた。しかし、その夜、帰りの電車に乗っているときに、海の向こう、アメリカ・ニューヨークではツインタワーにハイジャック機が突っ込んでいた。いわゆる9・11アメリカ同時多発テロである。アメリカの繁栄の象徴である高層ビルの残骸さながらに、唯一の超大国の心臓部を直撃したテロの衝撃の余波で、原稿も粉微塵に砕け散っていった。
   その全7章からなる原稿「ユーゴスラビア空爆におけるメディア統制とプロパガンダ」は、和平交渉から開戦に至る詳細な経緯、ユーゴ当局および北大西洋条約機構(NATO)陣営のメディア統制などの現地で収集した事実の記録から、限定戦争時のメディア統制、メディアに内在する問題、「次の戦争」での諸問題の考察まで、いま読み返してもそれなりに貴重な要素を多々含むものだった。何よりも、9・11の後になって新書中心に、必ずしもこの問題をずっと考えてきたとは思えない筆者たちによって「戦争とメディア」をめぐる本が量産されてきたが、それ以前も以後も、本邦ではこの問題に正面から切り込んだ、その名に値するような論考はほとんどない。その意味での希少性と先駆性は十分に備えていた。
   が、日本から遠く離れたバルカンの、すでに国際政治のアジェンダ(議題)からも、メディアのそれからも「終わった」ものとしてかえりみられることがなくなったユーゴ問題を事例として分析した原稿は、「あの日から世界は変わってしまった」などといったいささか能天気にも見える9・11後の狂騒のなかで埋もれていく運命を余儀なくされた。それから、長い、雌伏のときが続いた。
   もちろん、この場を借りて原稿にまつわるルサンチマンを書き連ねたいわけではない。気を取り直してアタマのなかにあった原稿の注を復活させ、コンパクトな同名の学術論文に仕立て上げ、学会誌に掲載された。ちょうどそのころ、15年続けた新聞記者生活に別れを告げ研究者の道に足を踏み入れたこともあり、論文は本活的な研究活動の出発点となってくれた。研究に関心を寄せるジャーナリストからプラクティス(実践)の経験をもふまえた研究者へと立場が変わると、事実の詳細な記録とそれに基づく若干の理論的考察といった内容ではいかにも不十分に思えてきてならない。量産される新書類は自分に関係のない世界、と自らを厳しく律して、単なる各限定戦争におけるメディア統制、プロパガンダの実際と変遷といった具象的な事象を追いかけるにとどまらず、権力行使過程としての政治コミュニケーション、メディア自体に内在する権力性といったものを、その始原まで遡って、まずは理論的考察の枠組みづくりを試みる作業に専心した。
   こうした作業の、とりあえずの中間報告としてまとめたのが本書である。つまり、5年ほど前の“挫折”は、私にとっていいレッスンとなった。
   9・11とその衝撃をあまり大きくはとらえようとしない姿勢、また本書の全体に流れるトーンから、あるいは読者は“反米的”なるものを感じとるかもしれない。しかし、やや意外かもしれないが、私はアメリカとそこに住む人々がかなり好きなほうである。また独立革命前夜にプレスの自由の理念をプラクティスから体得していったプリンター/ジャーナリストたち、その伝統を正しく受け継ぐスモールタウンの、草の根のアメリカ。吉本隆明の「大衆の原像」になぞらえていえば、私は「ジャーナリズムの原像」とでもいうべきものを、そうしたアメリカのなかに幻視する。
   アメリカおよび国際政治の中心としてのワシントンD.C.や世界経済の中心であるニューヨーク、日本にとって死活的に重要な政治・経済・安全保障上のパートナー、そして冷戦終結後のグローバル化の進む世界で唯一の超大国――。アメリカといえばこうしたものばかり想起してほかの部分に眼を向ける想像力も持ち合わせない、この国の主流派の“大人たち”にこそ、違和感を禁じえないのだ。
   本書を制作している過程で、思いははや次なる作品に向かっていった。「ジャーナリズムの原像」が19世紀、北東部主導の産業化、ナショナルマーケットとユニティの成立、マスメディア化の進行といった流れのなかで、新たなテクノロジー、市場、政治、そしてオーディエンスにもみくちゃにされて、どのように変容していったか。それをかの国の19世紀を代表するプリンター/ジャーナリスト/作家の生涯と旅に仮託させて辿っていきたい。私は私自身の個人的な“9・11トラウマ”から、もはや自由になった。過去に深く沈潜しつつ、また書物の扉を開けて広がってくる世界でお会いできる日を楽しみにしている。

「永遠の反逆者」が目の前に!――『ミック・ジャガーという生き方』を書いて

佐藤明子

 「この本は、ミック・ファンやロックファンでなくても、楽しめると思いますよ」――それ以外とくに付け加えることはないが、今春の来日コンサートについて語ることを許してもらおう。
   曲がりなりにもミック・ジャガーについて一冊の本を書いた著者が、彼らのコンサートはこれで2回目などと大きな声では言えないが、言ってしまうけれど2回目だ。来日前は「今回はなるべくたくさん見たいな、そしてまたミックを待ち伏せでもしようかな」などと危ない夢がふくらむ一方だったが、現実は子どもたちの春休みで身動きがとれずに、夫が半日休暇をとって留守を引き受けてくれての名古屋ドーム参戦が関の山だった。電車を降り、たくさんのストーンズファンの群れにまぎれて会場への長い通路をひたすら歩く。自著を取り出して「わたし、これ書いたんです」と言ってみたい衝動にもかられたが、もちろんこらえた。
   席はアリーナで立ちっぱなし。これなら、3年前の2階席の方が全体が見渡せてスクリーンもしっかり見られたからよかったかも。ただ、Bステージかぶりつきだったのはラッキーで、3曲ではあったが至近距離でじっくりと見ることができた。近くで見る彼らはアカヌケしすぎていて、まるでマネキン人形のようだ。キースなどフィギュアとしか言いようがない。そんな彼らが演奏している。ミックの汗が見える。あのストーンズが目の前にいるんだ、もっと夢中になれ! どうしてわたしは、この期におよんでこんなに冷静なのか。いや、これが夢中というものか。夢中だから感動することさえ忘れてしまっていたのだ。夢が現実になった瞬間って、案外こんなものなのかも。
   ミックは何度もすぐそばまできてくれた。両手を大きく広げ、ひたすら腰を振り続ける、その悩ましげな顔は泣いているようだった。わたしが本書で書いたミックの魅力ここに極まれり!だ。でも、前回と違ってキースをほほえましく見ることができた。まるで父に対するようないたわりの思いがふつふつと湧きあがり、2曲のソロの間、目を細めっぱなしだった。自称どうしようもない人である彼を、それでも人々は愛し続けてきたのだ。
   そんな感慨で1曲目を聴いたが、相変わらず彼は自然体のままで、次の曲ではせっかくのこの熱い思いも薄れがちだ。それでもなお、こうして彼らが続けていることはすばらしいではないか。何十年もたってから立ち寄った店に同じマスターが笑ってそこにいるような安心感がある。
   ミックは最後に「ニッポンはいいなあ、またクルゼ」と言っていた。ステージに貼ったメモを照れくさそうに見ながら。実際に彼はまた来るつもりでいるのだろう。ストーンズがいつまでツアーを続けるのかは、メンバーの事情もあるだろうし、わからない。ただ、ミック本人は、いつかドームがガラガラになったとしても、身体を動かそうにも動かせないミジメな姿をさらすことになったとしても、これを続ける志があるのだろう。なぜなら彼は「永遠の反逆児」なのだから。醜くて美しい悪あがきのパフォーマンス、それは人間の証明だ。そのときが本当にきてしまったら、彼らの栄光を見てきた長年のファンにこそ、何かを感じてほしい。その瞬間こそが、ミックからのプレゼントなのだから。

深遠なるブリティッシュ・ロックの世界への「最初の1歩」――『ブリティッシュ・ロックの黄金時代――ビートルズが生きた激動の十年間』を書いて

舩曳将仁

 「洋楽やロックに興味がない」という人たちとじっくり話をしてみると、実は単なる聴かず嫌いであることが多い。「英語が理解できないから」とか、「ロックってやかましいから」とか、もっともらしい理由をつけるのだが、よくよく聞いてみると、「聴く機会がなかった」か「ハマルだけの音楽との出会いがなかった」という場合がほとんどだ。
   インターネットもない時代に、ラジオのエアチェックをマメにおこない、音楽雑誌の隅から隅まで目を通して情報を得ていたオヤジ世代のベテランのロック・ファンからすれば、なんとも嘆かわしいことだろう。ところが、改めて周りを見渡してみると、確かにロックを聴くようになる「きっかけ」や「出会い」は少ない。
   書店の音楽書籍コーナーには、マニアックなアルバム・ガイド本や、非常に細分化されたジャンルのロック紹介本はあるが、初心者向けの本が少ない。テレビやラジオでは、1970年代のロックが紹介されることなど皆無に等しい。インターネットではロック・ファン同士のコミュニティなどもあるが、なかには厳しく批判的なファンもいたりして、ロック初心者には敷居が高くなっている。実は、インターネットというのは、自分の興味ある話題に深く狭く潜っていくには長けていても、新しい世界を発見する横の広がりへとユーザーを連れていく可能性には乏しかったりする。
   そうすると、やはり活字媒体。気軽にロックの世界にふれられるような、入門書になるような本があれば……と思ったことが、拙著執筆の動機となった。

   1960年代から70年代初頭にかけてのブリティッシュ・ロック・シーンは、個性的なアーティストが次々と登場し、ロック表現の可能性を試行錯誤した激動の時代だった。62年10月にビートルズがデビューを飾り、ローリング・ストーンズやキンクスなど、若いビート・バンドが後に続いた。彼らを筆頭にしたイギリスのバンドの多くが続々とアメリカに進出し、アメリカのヒット・チャートのほとんどをイギリス出身のロック・バンドが占めるなど、ブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)と呼ばれるセンセーションを起こす。
   1967年には、サイケデリック・ムーヴメントの影響を受け、ビートルズが新しい音楽的アイディアを盛り込んだ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表。他のイギリスのロック・グループも、実験精神にあふれた個性的なロック・サウンドの創造に向かう。
   ロックの可能性を切り開いてきたビートルズが1970年に活動停止を迎えるのと入れ代わるように、後続のブリティッシュ・ロック・グループが頭角を現し、ビートルズ以上に斬新なロックを創造。個性的なグループが咲き乱れ、プログレッシヴ・ロックと呼ばれる革命的な音楽ムーヴメントがイギリスの音楽シーンに巻き起こる。

  拙著は、スリリングに展開した、まさに黄金時代と呼ぶにふさわしいブリティッシュ・ロック10年間の歴史を紹介したものである。
   音楽がデータで手軽にやりとりされる時代だから、若い世代にはピンとこないかもしれないが、「ロックとは何か」という命題に対して、アーティスト(作り手)だけでなく、ファン(聴き手)もまたそれぞれに答えを導き出そうとしていた熱い時代があったことに驚くはずだ。
   そして、40代や50代以上のロック・ファンにも拙著を手に取っていただき、かの時代を再発見するとともに、ロックで胸を熱くした青春時代を思い出してもらいたい。そして、ぜひ若い世代に熱くロックを語ってほしい。子供におもねってモーニング娘。やケミストリーを聴いてみるのもいいが、「俺はお前たちぐらいの頃はこんなカッコイイのを聴いていたんだぜ」と、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどのアルバムを教えてあげてほしい。「オヤジの頭は古くせー」などと毒づく息子や、「ママは小言ばっかりよ!」と口答えする娘も、思わず唸ってしまうに違いない。あんまり熱いといやがられるかもしれないけれど……。
   1,000を超えるアーティスト数(索引付き)、150を超えるアルバム・ジャケット写真も掲載しているので、深遠なるブリティッシュ・ロックの世界に飛び込む「最初の1歩」にしてほしい。