構想20年……――『競輪文化――「働く者のスポーツ」の社会史』を書いて

古川岳志

 初めての著書『競輪文化――「働く者のスポーツ」の社会史』が出版され約4カ月がたちました。競輪の歴史を、競輪を取り巻く日本社会の変化と結び付けながら読み解く内容です。同じ公営ギャンブルの競馬と比べて、競輪は文化として語られることがきわめて少なく、本書は関係者以外が書いたものとしては初めての「競輪史」本になりました。そんな珍しさも手伝ってメディアで紹介いただく機会にも恵まれました(「日経新聞」2018年2月22日付夕刊「目利きが選ぶ3冊」、「西日本新聞」2018年3月4日付「書評」、「日刊スポーツ」〔西日本版〕2018年3月28日付「コラム」、「スポーツ報知」web2018年3月28日「スポーツを読む」)。読んでくださった方からは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通して多くの好意的な感想をいただきましたし、ブログでとても丁寧な紹介記事を書いてくださった方もいます。また、自転車競技オリンピック元日本代表の長義和さん(本書第5章に登場します)は、ご自身のブログに長文の感想を書いてくださいました。たいへん興味深い内容です。みなさんにもぜひお読みいただきたいです。
 本書の「あとがき」にも書きましたが、本書の原型は社会学の博士論文です。出版形式としては一般書ですが、学術書としての質も一定程度保ったものにしたいと考えました。とはいえ類書がないため、競輪世界への案内書・概説書としても読まれるだろうことも意識しました。現状では残念ながら競輪はマイナーです。「競輪って何だろう」と本書を手に取った読者に、まずは競輪を知って関心をもってもらわなければ、始まりません。競輪を知らない人にも、わかりやすく、かつ、競輪の魅力も伝わるように書きながら、研究書としてのオリジナルな考察も盛り込む、という、欲張りな目標を掲げて執筆しました。あらためて読み直してみて、また、読者のみなさんの感想を聞いて、ある程度は目標に到達できたのではないかと甘めの自己採点をしていますが、いかがでしょうか。

 私が競輪の研究を始めたのは、大阪大学大学院人間科学研究科の修士課程在学時でした。所属していたのは社会学系のコミュニケーション論(当時の名称)研究室で、最初は井上俊先生が、先生が京都大学に転任されて以降は伊藤公雄先生が指導教官になりました。当時、日本スポーツ社会学会ができたばかりの頃でした。井上先生は初代会長でしたし、伊藤先生も会長をされたことがあります。テーマも未定のまま大学院に進学したのですが、先生方の影響もあってスポーツをテーマにするのも面白そうだなと思うようになりました。そこで注目したのが競輪でした。競輪との出合いについては、本書第1章に詳しく書きましたので読んでいただきたいのですが、別の言い方で付け加えておくと、競輪の境界的な性格に研究テーマとしての面白さを感じたのです。競技内容はスポーツなのに、社会的にスポーツ視されていない、という点。戦後以来、大規模におこなわれてきて日本オリジナルな要素があるユニークな競技なのに、そのわりに人々に認知されていない、という点。スポーツとは何か、スポーツと社会の関係は――そんなことを考えるのに格好の競技だと思いました。何と言っても、競技自体、競輪場という場所自体、とても魅力的なものに自分には見えました。
 1990年代中頃のことです。競輪から生まれた「ケイリン」がオリンピック種目として採用され、メディアで取り上げられる機会が増えた時期でもありました。それもあって、自分の目に競輪が入ってきたのだと思います。競輪の歴史を「スポーツの近代化」の過程と重ね合わせて読み解くという修士論文を書き、「スポーツ社会学研究」にも論文を発表しました。おそらく、競輪を真正面から取り上げた初めての学術論文だったはずです。自分としては、それなりに面白く書けたように思いました。しばらくして「「青弓社ライブラリー」の一冊として出版しませんか」と声がかかりました。この「原稿の余白に」で他のみなさんも書いているように「青弓社ライブラリー」は挑戦的なテーマの社会学本を次々に刊行して注目を集めており、若手研究者にとって願ってもないうれしいお話でした。数年で刊行するという約束で、喜んで引き受けました。

 それから、このたびの刊行にこぎ着けるまで、なんと20年という長い時間がかかってしまったわけです。こう書くと、まるでコツコツと積み上げた地道な研究がようやく実を結んだ、というように聞こえるかもしれませんが、実情はそんな格好のいいものではありませんでした。気楽にOKの返事したものの、いざ、取りかかってみると、まったく先に進めることができなかったのです。それでも何とか書こうとする、すぐに壁にぶつかる、手が止まる、逃避する、自己嫌悪に陥る、何とかしようと再開するも、また同じことを繰り返す、さらに自分が嫌になる、という悪循環に陥りました。最初に指定された締め切りはすぐにやってきましたが、ほぼ白紙でした。その後、締め切りを何度も延長してもらいました。そのたびに、あれこれ理由をつけて謝りのメールを送っていましたが、やがて編集部からの問い合わせに返事もできなくなってしまいました。20年間の大半は「書かなきゃ」と思うだけで、何もできないという状況だったのです。
 本当の「あとがき」にも、また本稿でも「書けなかった言い訳」をあれこれ並べてはいますが、何と言っても、私の努力不足、忍耐力不足、怠惰な生活態度がいちばんの原因です。粘り強く、少しずつでも地道に取り組んでいたら、遅くとも10年前くらいには何とか形にできてはいたでしょう。若い頃にいただいたチャンスをすぐに生かせなかったことは、自分の人生にとって大きなつまずきでした。30代という、どんな職業の人にとっても最も充実しているであろう時期を、逃避的に、しかし内面では原稿が書けなかった挫折感を抱えて悶々と過ごすことになってしまいました。お恥ずかしい話です。そんな日々のことを、本が出版された後に、このように振り返って書けていること自体、なかなか感慨深いものがあります。
 この課題にもう一度向き合おうと思い直したのは、いまから3年くらい前でした。比較的待遇がよかった任期付きの仕事が終わり、非常勤講師で食いつなぐフリーター研究者に戻っていました。年齢的に人生の折り返し点はとうに過ぎ、将来の展望も何もないという状態でした。そんな状況でも、なるようになるさと悲壮感は抱かないようにしてはいましたが、現実的な話として数年後には研究と関係がないアルバイトもしなければ食べられないようになることが見えてきました。現状では、非常勤先の大学図書館を利用できたり、夏休みなどに自由時間がある程度確保できてはいます。いまの環境で無理なら、一生、本なんて書き上げられないだろう。ここは一つ、気合いの入れ時ではないか。競輪のほうでも、ガールズケイリンの復活や日韓戦の誕生など、展望がある書き方ができる状況が生まれていました。それも後押しとなり、もう一度出版に挑戦してみようと決意したのです。

 こちらから不義理をした青弓社との10何年も前の約束が、まだ生きているとはさすがに思いませんでしたが、他社にあたるよりもまず、最初に声をかけてくれた同社に、もう一度お願いするのがスジだろうと考えました。とはいえ、一度失敗している以上、企画書を作り直してもちかけたところで信用度ゼロです。やはりある程度原稿をそろえてから、あらためて相談するしかないだろう。ということで、原稿を先に書き上げることにしました。約1年後、400字詰め原稿用紙換算で700枚分くらいの草稿ができあがりました。細かいことは気にしないようにして、もっている材料を、頭のなかにあるアイデアを、全部吐き出してしまうつもりで書き進めました。それまで全然書けなかったことがまるでウソみたい、とまでは言いませんが、自分としてはかなりスムーズに筆が進み、ちょっと不思議なくらいでした。 
 草稿が完成し、いよいよ青弓社に連絡することになりました。大阪大学で実施していた共同研究プロジェクト(GCOE)で知り合った宗教学研究者の永岡崇さん(『新宗教と総力戦』〔名古屋大学出版会、2015年〕の著者)のアドバイスで、宗教学・民俗学の川村邦光先生に仲介のお願いをすることにしました。私は社会学が専門なので、競輪的にいうと「別ライン」なのですが、先生中心の飲み会によく参加させてもらったり、何かとお世話になっていました。先生は、青弓社でデビューし(『幻視する近代空間』1997年)、その後も多くの編著書を青弓社から出しています。事情をお話すると二つ返事で引き受けてくださり、私が渡した草稿、企画書、経緯説明文に、推薦文を添えて編集部に送ってくださいました。
 青弓社から、すぐに好感触の返信がありました。矢野未知生さんとお会いすることになり、晴れて出版に向けて再び動き出すことになりました。矢野さん曰く、内容は面白いが、いかんせん長すぎる、とのことでしたので、200枚分くらい圧縮することになりました。あらためて、約半年後に締め切りが設定され、書き直しにかかりました。若干の遅れはありましたが、だいたい予定どおり脱稿できました。カットした部分には、坂口安吾事件に関することや、旧女子競輪のより詳しい歴史、田中誠『ギャンブルレーサー』(講談社、1988―2006年)以外の競輪マンガ紹介などを書いていましたが、それらについてはまたの機会にふれたいと思います。
 そんなこんなで、なんとか刊行にまでたどり着きました。人生の重い宿題になってしまっていた仕事を、それなりに満足できる形で片づけることができて、心からホッとしています。一時期は、自分にはもう書けないものだと諦めていたものですから、何となく夢のような気もします。そして、こうして本になったものを手に取って見ていると、何でもっと早く書かなかったのか、もっと早く書けていれば人生違ったかもしれないのに、という後悔の念がやはり湧いてきます。その一方で、自分の能力ではこれくらいかかっても仕方なかったのかもなぁ、と感じたりもしています。

 本を書くにあたって、気になっていたことはいろいろありますが、なかでも大きな心理的ストッパーになっていたのは、はたして競輪ファンが納得するようなものが書けるだろうか、という不安でした。競輪は、広い意味でポピュラーカルチャーの一つです。ファンがいます。ファンはもちろん多種多様で、楽しみ方や思い入れも、人それぞれではあるでしょう。ですから、どんなファンにも受け入れられるような書き方など無理に決まっていますが、少なくとも好意的に読んでくれた競輪ファンに、こいつは何もわかっていないな、と思われるような書き方だけはしたくないと思っていました。
 私は、思い入れがあるジャンルに関する本が出るとぜひ読んでみたいなと思う一方で、警戒心のようなものも抱く性分です。「ロクにわかってないやつが、ナニ学だか何だか知らないが、自分の業績にするためのネタ探しにやってきて、ファンなら誰でも知っているようなことを書き並べ、コケオドシの専門用語で分析してみせているだけの本じゃないのか?」――そのような疑念をまずはもってしまうのです。取り立てて関心がない世界についての本なら、へぇ、そうなのね、と素直に読めますが、自分にとって大事なもの、に関しては、どうしてもそうなります。自分には「全然わかってない!」と感じられる記述が、そんなものだと世間に受け入れられ、そんな本の書き手が、その世界を知る代表者のような顔をして語ったりしているのを見るのはたいへん不愉快です。ああ、なんて器の小さな人間なんだろう、とわれながらあきれますが、観察し、分析し、記述するという行為には、書かれる側にとって、少なからず暴力的な側面があるものなのです。
 出版の話をもらったのは、競輪というテーマが珍しいものだったからなのは間違いありません。類書がない以上、一般の方への競輪イメージ形成に、よくも悪くも一定の影響を与えることになるはずです。書くことの暴力性から、完全に逃れることはできません。だとしたら、せめて競輪の魅力について、そして競輪そのものについて、ちゃんとわかったうえで書いている本だな、とファンの多くに感じてもらえるように書きたい、と強く思いました。
 そのうえで、競輪に詳しいファンが読んでも新しい知見が得られるような、自分の好きな文化について違った角度から見る楽しみを与えられるような、そういう本にしなければならない、とも考えました。競輪を知らない一般読者を意識して書いたとしても、実際のところ、最初に手に取ってくれるのは競輪ファンですから。
 このように、いろいろ自分に縛りをかけていました。書きあぐねていた頃の自分には、そんな書き方ができる自信がほとんどありませんでした。若いうちに書くモノなんて未熟なものに決まっているのだから、エイヤッと形にして、批判を受け止める覚悟をもつべきだったな、といまとなっては思います。自分で自分の首をしめて何も書かないより、下手でも何でも書いてみたらいいじゃないか、そのほうがずっとましだよ、と若い頃の自分にアドバイスしてやりたいくらいです。私には、評価にさらされる勇気が不足していました。もっとも、こんなふうな理屈をつけて、手がかかる仕事から逃避する言い訳を探していただけかもしれませんが。

 今回、実際に執筆するにあたって採用した方法・方針は本書の「あとがき」に記述しています。外部からの観察者であり、かつ競輪ファンでもある、という自分自身の視線の偏りを自覚しながら、資料に基づき客観的に競輪と社会の関わりをひもといていくことをめざす、というきわめてオーソドックスなものです。章ごとに、都市文化やスポーツの近代化、ジェンダーやナショナリズムなど、社会学的なテーマ設定をして記述しています。そして、競輪運営団体や選手、スポーツ新聞記者など、利害関係者が書くなら避けて通るかもしれない事象についても、ある程度踏み込んで記述しています。それによって、競輪界の「中の人」からは見えない、競輪の社会性のようなものを浮かび上がらせられるのではないか、と考えてのことです。
 しかし、執筆方針が明確になったのは、書き進んでいくなかでのことでした。「あとがき」は、実際に原稿ができあがった「あと」で書きました。方向性が確定したから書けるようになった、というわけではないのです。では、どうして、以前はまったく書けなかったものが、何とか書けるようになったのか。状況的に追い詰められて、こだわっていられなくなった、とか、いろいろ要因はあるでしょうが、決定的なのは、私が競輪を見始めて20年という時間が経過した、ということだと思います。何とも当たり前の話ですが、20年前より、私は、競輪に詳しくなりました。そして、競輪に対する思いも深まりました。
 最初の締め切りの頃に書き上げていたら、おそらくもっと内容的に薄っぺらいものになっていたと思います。いかにも「研究者が調べて書きました」というような。今回できあがった本も、研究者が調べて書いたものにはちがいないのですが、もう少し地に足がついた感じで書けているように自分では思います。詳しくなった、と言っても、いまでも当然わからないことだらけです。SNSなどを通じて熱心なファンの方々を知るようになると、自分より詳しい人など星の数ほどいるなぁと痛感しています。車券も全然当りませんし(これは別の話ですが……)。それでもしかし、20年たって、自分なりの見方で書いても、ファンの多くの人に納得してもらえるだろう、という、何となくの自信をもてるようになったのです。
 ときどき、無性に競輪場に行きたくなります。楽しいから、面白いからであるのはもちろんですが、競輪場という空間に身を置いていたいという気持ちが、まずあるように思います。競輪場にはいろんな人がいます。自分の力で賞金をもぎ取って生きる選手たちを、自由で飾らないファンたちが取り囲んでいます。競輪場には、どんな人間でも受け入れてくれる寛容さがあり、かつ、お互いの金を取り合う場所らしい、一定の距離感もあります。あくまでも私の場合は、という話ですが、人生があまりうまくいっていないときにこそいきたくなるような場所でもあります。
 私が初めて足を運んだ競輪場は、阪急ブレーブスの本拠地、西宮球場の仮設バンクで開催されていた西宮競輪場でしたが、2002年に廃止されました。同時になくなった甲子園競輪場とともに、私のホームバンクでした。いまではこの世に存在しない、これらの競輪場が懐かしくてたまらなくなることがあります。楽しい思い出がつまった場所、というより、どちらかというと、クサクサした思いを抱いて帰ってくることが多い場所でした。それでも、何とも懐かしいのです。
 競輪は(その他公営ギャンブルとともに)、健全な娯楽ではないかもしれません。それでも、足しげく通っている人には、それぞれの思いがあるはずです。それを踏みにじらないような本を書きたいと思いました。私が、もっと有能な社会学者なら、インタビューやアンケートなど、いろんな手法を使ってそれをあぶり出す、ということができたかもしれませんが、自分には無理でした。そして、あまり積極的になれませんでした。ファンの気持ちを理解したいと思いながら、調査はしたくない、なんて考えていたら、そりゃ書けなくて当然です。しかし、20年という期間、ときに競輪場に足を運び、ファンと同じ空間の空気を吸い、レースを見て、車券を買って損をして、を繰り返していくうちに、自分の感覚で「ファン目線」を描いても、そんなにずれていないだろう、と感じるまでには「調査」が進んだのだと思います。あまり、調査とか、フィールドワークなどという大げさな言葉は使いたくないですが。実際は、車券を買って、レースを見て、遊んでいただけですから(これらの調査はすべて、当然ながら自費でやっています。念のため)。
 最初に西宮競輪場の雑踏に紛れ込んだときの自分は、まわりから見たら「大学で論文を書くためにきた若者」感、丸出しの姿だったでしょう。いまでも、観察してやろうといういやらしい視線を自分がもっていることは否定できないですが、まずまずあの空間になじむようになってきたと思います。つるつるした顔で、きょろきょろまわりを気にしながらレースを見ていた兄ちゃんも、最近では予想紙の小さい文字を読むのにメガネをはずして、遠ざけて見ないとつらいようになりましたし……。競輪ファンの高齢化は進んでいて、競輪場では、自分でもまだまだ若手だったりもするのですが。ともあれ競輪が、私の人生の大きな部分をしめるものになっているのは間違いありません。
 単著「デビュー作」の「あとがきのあとがき」にしては、何ともパッとしない話をしていますが、このような感じで、心を込めて書いた作品です。まだお読みでない方は、ぜひぜひ、ご一読くださいますようお願いいたします。

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 長くなりましたが、あと2点だけ書きます。1つは、本書の「あとがき」には書けなかった選手のみなさんへの感謝です。特に、元選手の後閑信一さんには、お礼を申し上げたい気持ちでいっぱいです。直接取材させてもらったわけではありません。ですが、後閑さんが吉岡稔真さんとの対談(電投会員向け広報誌「Winning Run」2015年12月号)で語られた言葉によって、本書のサブタイトルにした「働く者のスポーツ」というテーマは、より明確になったと感じています。「競輪選手は肉体労働者だ、職人だ、そう思って頑張ってきた」。後閑さんは対談でこう語っていました。ファンのみなさんは、後閑選手らしい言葉だなと受け止めたと思います。私もそうでした。そして、この言葉によって、本書は完成させられるなと感じました。
「働く者のスポーツ」は、競輪創設者の倉茂貞助が、競輪の実現に向けて動いていたときに作った文書内の文言です。そんな競輪誕生に関わるキーワードが、70年の時を超え、現代のトップ選手の言葉とリンクして見えてきました。もともと「プロスポーツとしての競輪」については考えていたのですが、「働く者」「肉体労働」という言葉を使うほうが、よりリアルに「社会のなかの競輪」を捉えられると思いました。「選手には肉体労働の側面がある」と、私のような観察者が他人事として書くのと、選手本人が自分の信念を表す言葉として言うのとでは、重みがまったく違います。お礼を言われてもご本人は困ると思いますが、後閑さん、本当にありがとうございました。
 ファンのみなさんはご存じのとおり、後閑さんがトップクラスの実力を保持したまま現役引退を宣言したのは、2017年の年末でした。本書の原稿完成の後でしたので、校正のときに慌てて「元選手」に修正しました。一部、「後閑選手」という記述が残っているのは、その名残です。ちなみに、後閑さんは1970年生まれで、私と同い年です。自分が原稿を書けずに緩い生活を送っている間にも、厳しいトレーニングを続けトップクラスを維持してこられたのだと思うと、頭が下がります。競輪選手には長く活躍する選手も多く、20年前、私が競輪を見始めた頃に走っていた選手で、いまでも現役の方もかなりいます。なかには、後閑選手のようにずっとS級を維持してきたという方も。
 劇作家の寺山修司は、競馬に関するエッセーで、ファンが馬券を買うのは自分自身を買うことだと表現していました。若い頃から努力して先頭を突っ走ってきた人は先行馬に、大器晩成を期する人は追い込み馬に自分の願いを込めるのだ、というように。競輪の車券購入にも同じような側面はあるでしょう。ただ、馬と違い相手は生身の人間です。競輪選手たちからは、競走馬よりはもっと生々しいメッセージが送られてきているように思います。「こっちは、自分の生き方を、さらして見せているけど、そっちはどうなんだ?」。選手は、客のヤジに言葉で反応することは禁じられていますから、あくまでも無言のメッセージです。同世代の選手がバンクで戦う姿を見て「自分はいったい何をやっているんだろう」と情けない気持ちになったことが、私には何度もありました。そして、ベタな表現で恥ずかしいですが、自分もがんばろう、という気持ちになったことも。
 後閑さんとは面識はありませんが、直接、話を聞かせてもらった選手もいます。ただ本書の「あとがき」の謝辞では、選手の個人名をあげるのを控えました。もしかしたら、ご迷惑をおかけするかもと心配したからです。
 私としては、誠意を込めて、競輪を応援する気持ちをベースに本書を書きました。微力ながら、競輪の認知度を高めることに貢献したいとも願っています(実際に、競輪を知らなかったという読者から、競輪に関心をもつようになったという感想もいただいています)。ですが、本書の記述内容は、運営組織が広報したい競輪像からは若干はずれたものになってはいます。それでなくては社会学者の私が書く意味がありませんから、それは当然だと思いますが、そのため、関係者からするとちょっとさわりにくい本なのかもしれないな、とも感じています。多くの方が仕事として関わる世界ですから、受け取り方は立場によってさまざまなのは当然です。
 一ファンとしての私は、JKAを代表とする運営組織の現状や広報戦術について、いろいろ思うところがあります。こうしたら、ああしたら、と、「twitter」などで「文句」を言うこともあります。しかし、本書は、そのような短期的な問題意識からではなく、もっと広い視点に立って書いたものです。競輪PRにとって一見否定的に映る事例についても、競輪という文化を読み解くために必要だと判断したことしか扱っていません。ジャーナリズム的な視点からは読者を引き付ける要素になりそうなことであっても、本書の目的とは関係ないと判断しふれていない事象も多くあります。読んでいただいた人には蛇足だと思われますが、念のためその点を明確にしておきたいと思います。
 本書の「あとがき」に書いたように、本書はファンの視点、観客席側から得られる情報だけで構成しています。次の本を出すチャンスがあれば、選手の視点にもっと踏み込んで書いてみたいと思います。バンクのなかからはどんな景色が見えるのか。教えてやってもいいという選手(現役、OB含め)がいらっしゃいましたら、ご連絡をいただければうれしいです。くしくも、今年は競輪誕生70周年にあたります。結果的に、アニバーサリーイヤーでの刊行となりました。未来に向けて、競輪の歴史を振り返る機会として、本書は『競輪70年史』が出るまでのつなぎの役割くらいは果たせるのではないかと考えています。関係者のみさんからの感想やご批判も、ぜひお聞かせいただきたいと願っています(編集部をとおしてでも構いませんし、「facebook」には本名で登録していますのでそちらでも大丈夫です。お気軽にご意見をお寄せください)。
 
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 最後に、刊行後に気づいた点、ちょっとした後悔について書いておきます。これから本を出される方の参考までに。
 20年前、最初に出版のお誘いを受けたのは、社会学選書シリーズ「青弓社ライブラリー」の企画だったのは既述のとおりです。このたび、再挑戦となった折にも、「青弓社ライブラリー」として出すかどうかという選択がありました。「青弓社ライブラリー」に入れるには、分量的にもっと削る必要があるとのことでした。カバーデザインも含め、通常単行本形式のほうが自由度が高く、広い読者に届くかもしれない、ということでこのスタイルを選びました。本の完成度を高める意味では正しい選択でした。ただ、読者層は、「青弓社ライブラリー」の一冊だったほうが広がったかもしれないなとも感じています。
 本が出てすぐ、大阪梅田の紀伊國屋書店に足を運びました。いつも立ち寄る社会学関係棚には1冊もなく、あったのは「趣味/実用書」コーナーの「ギャンブル」棚の片隅でした。「競輪」と書いた仕切り板に挟まれていた数冊の予想ハウツー本の間に、ひっそりと(これは主観ですが)置かれていました。『競輪文化』が競輪の棚にあるのは、至極当然なのですが、正直ガッカリしました。これでは、競輪を知らない人に、偶然手に取ってもらう可能性はゼロに近いなと思ったからです。趣味を深めるという意味では「役に立つ」本だと自負していますが、一般的な意味での実用書ではありませんし。
 ネット書店とは違う、リアル本屋さんのメディアとしての魅力は、何げなく立ち読みに来たようなお客さんと、未知の本とをつなげる点にあると思います。「青弓社ライブラリー」で出していたら、社会学の棚にも置かれたでしょう。青弓社から同時期に出た、笹生心太さんの『ボウリングの社会学』や、話題作になっている倉橋耕平さんの『歴史修正主義とサブカルチャー』の近くに置いてもらえていたら、どこかで意外な出合いがあったかもしれません。20年前に話をいただいたときの書名案は『競輪の社会学』でした。何となく、競輪ファンに誤解を与えるんじゃないかという懸念もあって(うまく理由が説明できないのですが)、今回は社会学を書名に入れない方向でいこう、と考えていました。不要なこだわりだったような気もします。内容に照らして、現在のタイトルと副題は、適切なものですし、シンプルでわかりやすくなったと思っていますが、書名に「社会学」が一言入っていれば、そちらにも置かれただろうことを考えると、ちょっともったいない選択だったかもしれません。まぁ、「小手先」の話ではありますが。
 本書は、社会学、スポーツとしての自転車(「乗る自転車」ブームで紀伊國屋書店にもかなりの点数の本が並んでいました)、ノンフィクション、戦後史、サブカルチャー、などの棚と親和性の高い内容だと思います。もし、書店関係者でごらんになっている方がいらっしゃいましたら、いまからでも、ご一考くださいますよう、よろしくお願いいたします。
 
 大学院時代の指導教官の伊藤公雄先生は、本を出すなら10年は読めるものを書くべきだ、と言っておられました。ちなみに、伊藤先生のデビュー作も青弓社でした(『光の帝国/迷宮の革命』1993年)。本書をそこまで長生きさせられる自信はありませんが、東京オリンピックに向けて競輪、自転車、スポーツ界でいろいろ動きがありますし、スポーツをめぐる社会問題が話題になることも続いています。また、カジノをめぐっていろんな議論もなされていますので、まだしばらくは、本書で考察したことの社会的な需要はあると思います。
 さらなる出合いを期待して、長い「言い訳」を終わります。

 

第15回 宙組20周年を祝う――誕生の思い出とともに

薮下哲司(映画・演劇評論家。元スポーツニッポン新聞社特別委員、甲南女子大学非常勤講師)

 新トップスター、真風涼帆、星風まどかが主演する宙組公演、ミュージカル・オリエント『天(そら)は赤い河のほとり』、ロマンチック・レビュー『シトラスの風――Sunrise』が3月16日から宝塚大劇場で開幕しました。新トップ披露とともに1998年に宙組が誕生して以来、今年で丸20年になるのを記念した公演です。
 宝塚歌劇はもともと16人の少女から出発したことはご存じでしょう。104年たった現在、花、月、雪、星、宙の5組に専科、宝塚音楽学校の生徒を加えて常時約500人の団員を抱えるスケールの大きな劇団に成長しました。しかも団員はすべて未婚の女性。公演回数は年間1,500回、動員数は270万人。都心から離れた2,500人収容の宝塚大劇場が平日昼間でも満員の盛況、こんな劇団は世界広しといってもここだけです。
 当初は「少女歌劇」という一つのグループでしたが、劇団が創立されて7年目の1921年に花組と月組が誕生しました。大阪公演に続く東京公演が大成功、本拠地の宝塚も年ごとに動員数が増え、プールを改造して作られたパラダイス劇場だけでは手狭になり、箕面にあった公会堂劇場を宝塚に移設して2館での上演が実現したことがきっかけで、年長メンバーを花組、年少メンバーを月組に分けて2班体制にしたのです。おとぎ歌劇が中心だった公演もバラエティーに富んだ演目が上演できるようになり、さらに人気が高まりました。
 その後、両劇場が火災で焼失し、4,000人収容(補助席、立ち見席を含む)の宝塚大劇場を建設、その開場に合わせて雪組が誕生しました。1924年のことです。
 星組ができたのは1933年。春日野八千代のための組ともいわれていますが、翌年の東京宝塚劇場オープンに合わせて創設されました。戦時色が濃くなり、レビューの公演が禁止され、大劇場閉鎖になった一時期、星組は廃止されますが、戦後、大劇場再開とともに復活しました。
 以後、長い間、4組体制で公演がおこなわれてきましたが、老朽化した東京宝塚劇場を改築することになり、宝塚歌劇の東京での通年公演が実現(それまで東京宝塚劇場での宝塚歌劇の公演は年間8カ月でした)することを前提に1998年、65年ぶりに新しい組、宙組が誕生したのです。組の歴史は宝塚の発展の歴史でもあります。
 その宙組誕生に際しては、因縁浅からぬ思い出があります。東京宝塚劇場の建て替え計画が発表された1997年初頭、宝塚の新しい組の誕生が噂され始めました。しかし、開場は2000年ということで、歌劇団内部でも新組増設には賛否両論があり、まだ懐疑的でした。一方、歌劇団は1998年1月下旬から香港が中国に返還されて1周年になるのを記念した香港公演が決まっていて、各組からメンバー45人が選抜されていました。この公演はスポーツニッポン新聞東京本社が創刊50周年を記念、スポンサーとなって主催した公演でした。スポーツニッポン新聞社は当時、大阪、東京、西部の3本社制をとっていて、それぞれ独立採算制でした。創刊50周年に宝塚歌劇のスポンサーになるというなら、本拠地に近い大阪本社がイニシアチブをとるのが自然ですが、諸事情で東京本社単独の主催となり、結局、記事発信は大阪、事業としては東京本社という形でおこなわれることになり、担当記者だった私は事前のパブや香港公演初日取材などでスタッフ同然に駆け回りました。
 香港公演の準備と並行して東京宝塚劇場の建て替え工事が始まり、歌劇団は建て替え中の代替劇場を模索していました。当初は帝国劇場を代替劇場として使用することになっていて、実際、1997年には雪組公演と星組公演を実施しています。ところがこれには莫大な金額がかかることが判明。あわてて別の劇場を探したのですがどこも一長一短でなかなか決まらず、八方手を尽くした結果、有楽町南側にあった都有地を新劇場オープンまでという条件付きで借りることができ、仮設の「1000days劇場」を建設することになりました。新大劇場オープンの3年前に、思いがけず通年公演も前倒しで実現できることになり、そこでローテーション的に4組では無理が生じ急きょ新組が必要となって、当初は新組として集められたものではなかった香港公演メンバーが、前倒し的に新組メンバーにスライドしたのでした。これが宙組誕生の真実です。
 香港公演の取材をしているこちらとしては、途中でこのメンバーが新組にスライドすることはわかっていたのですが、都有地のクリアに時間がかかっている裏事情もあったので記事化を抑えていたら、都有地の使用許可がまだ下りていないうちに他社が「宝塚新組結成」とスクープ、劇団が激怒して、その社の記者を出入り禁止にしたといういきさつもあります。その後都有地の使用許可が下りて5組化が実現したので、結果的には大スクープになったのですが、内情を知っているこちらにとっては痛しかゆしといったところでした。
 1997年12月12日、大阪市内のホテルで大々的に新組発表の記者会見がおこなわれました。新組の名前は一般公募され、約2万通の応募のなかから選ばれたのが「宙」組でした。書道家の望月美佐さんが屏風に巨大な筆で「宙」と大書したときは一瞬よくわからなかったのですが、それは出席していた初代トップスターの姿月あさとらも同じだったようです。2月19日に宝塚大劇場で開かれた「宙組20周年記念イベント」のときにも、「リハーサルのときにも聞いていなかったので本番で初めて知りました。最初にウ冠を書かれたので噂になっていた“虹”ではないなと思い“空”かと思ったのですが、“寅”に見えて、司会者が“そら”と言われたのも“とら”に聞こえ、一瞬、みんなで顔を見合わせました。すぐに“そら”とわかって、みんなで“寅”でなくてよかったとホッとしました」と話して、満員の会場を沸かせていました。姿月によると「空は空席とかで縁起がよくないので、宙になったとお聞きしました」と言い、「でも普通、“宙”を“そら”とは読まないですよね」と、当時の戸惑いを正直に話して、さらに笑いを誘っていました。とはいえその宙組も20年、その間に姿月あさと、和央ようか、貴城けい、大和悠河、大空ゆうひ(祐飛)、凰稀かなめ、朝夏まなと、そして真風と8人のトップスターを輩出、エネルギッシュでダイナミックな組というイメージが定着してきました。年月が過ぎるのは早いものです。

 6月1日に刊行予定の『宝塚イズム37』は、11月退団を発表した月組トップ娘役・愛希れいかの惜別特集をメインに、宙組20周年を記念して宙組の魅力をさまざまな視点から分析した特集も組みます。宙組愛に満ちた数々のエッセーをお楽しみください。

 

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第7回 コンテンツツーリズム(アニメ聖地巡礼)――イマジネーションとテクノロジーのゆるやかな関係(2)

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

はじめに

 第6回連載で、“伝統的”アニメコンテンツツーリズムの例として、『夏目友人帳』の聖地である人吉市で起きている現象を分析した。妖怪というイマジネーションの産物が出てくるこの物語の聖地では、ニャンコ先生のぬいぐるみやアニメでのキャストボイスを務めた声優たちのサインが観光案内所に置いてあるくらいで、アニメキャラの等身大パネルや、像などは一切建てていない。コラボしたポスターやうちわ、グッズなどは夏祭りやイベントで販売されるものの、知るひとぞ知るというような、アニメ以外の観光客に軋轢を与えない配慮がなされているといっていい(1)。アニメを「売り」として全面的に利用していない態度も、ファンたちが反感を抱かない要因だろうし、アニメ放映が終了している間も、サステイナブルなコンテンツとしてファンを惹きつけることにもつながっていると思われる。ファンは、ひっそりとそれぞれが抱いた情景を思い浮かべ、聖地を旅し、二次元キャラクターたちと同じ空間を共有し、思いを馳せる。
 こうしたイマジネーションとともに旅をする“伝統的な”コンテンツツーリズムに、一つの新風が吹いている。AR(Augmented Reality:拡張現実)アプリを利用したコンテンツツーリズムである。本連載第7回では、ARアプリによって、コンテンツツーリズムのシーンがどう変わってきたか、また「2.5次元的な空間」にどう影響するのかを考察してみよう。

富山県南砺市の『恋旅~True Tours Nanto』の試み

 富山県南砺市には、『花咲くいろは』(2011年)、『SHIROBAKO』(2014-15年)、『さくらクエスト』(2017年)など、元気なワーキングガールたちを描いた傑作オリジナルテレビアニメで有名なアニメ制作会社P.A.WORKSがある。その南砺市が、PR用の短篇アニメをP.A.WORKSに委託して制作、2013年に公開されたのが、『恋旅~True Tours Nanto』(以下、『恋旅』と略記)である。『恋旅』は、P.A.WORKSの08年の作品『true tears』に関わったスタッフを中心に制作され、声優も『true tears』で主要キャラクターを演じた名塚佳織、高垣彩陽、井口裕香、吉野裕行、石井真らが、『恋旅』の主要キャラクターを演じているというつながりが深い作品である。そうした連続性は、モデルとなった舞台に関係がある。『true tears』の舞台の主要なモデルは南砺市城端地区(旧城端町)であり、『恋旅』が同市のPRアニメということであれば、必然的なつながりだった。
『恋旅』は、「富山県南砺市を巡る「3つの恋の物語」(2)」で、南砺市の観光スポットを舞台にしている。また、このアニメは専用アプリ「恋旅アプリ」をダウンロードして、カーナビなどのワンセグによるエリア放送、または南砺市内各庁舎、観光協会で視聴が可能になっている。つまり南砺市を訪れないと視聴できない仕組みになっている(プロモーションビデオは「YouTube」で視聴できるので、興味ある方は見てほしい)。
 地域誘致型のPRアニメという点も斬新だが、南砺市の試みが先駆的なのは、いち早く「恋旅アプリ」にARカメラ「恋旅カメラ」機能を搭載して観光誘致を試みたことである(3)。ARカメラを指定されたスポットで起動すると、アニメ『恋旅』のヒロインが現れ、観光名所と一緒に写真撮影ができる。自撮りや第三者に頼んで、自分がキャラクターと一緒に写真に入ることもできる。キャラクターのポーズのパターンは一つだが、季節ごとに衣替えをして、リピーターにも飽きさせない工夫がされている。また、「恋旅」フォトラリーという企画もあり、その写真を指定の場所で提示するとお土産(ポストカード)がもらえるキャンペーンなど、ファンの「恋旅カメラ」による写真撮影の動機を促している。紙媒体のスタンプラリーはすでに全国各地で採用されているが、「恋旅」は、モバイル機器を使ったデジタル技術によるスタンプラリーならぬ、フォトラリーであり、徐々に流行していた自撮りやのちに大流行する「インスタ映え」を予感させるような仕掛けが施されてあったことは重要である(4)。

イマジネーションとAR+カメラ

 では、コンテンツツーリズムの重要なファクターである物語性や“2.5次元空間”の構築には、ARとARカメラはどのような影響があるのだろうか。アニメ『恋旅』は、各話5分の3話で構成されている短篇である。長期間かけて描かれるテレビアニメやアニメ映画とは異なり、物語性によるファンの没入感は浅薄であろうと予想される。しかし、『true tears』のファンが、舞台の類似や声優の重複を手がかりに、『true tears』を参照しながら『恋旅』を楽しむ、という場合もあるかもしれない。たとえば、「この場所は『true tears』のあの場面にも出てきた」とか、「このシーン、比呂美(CV名塚佳織)っぽいね」とかいった具合である。そこに確かにイマジネーションははたらいていて、可視化されなくともファン一人ひとりの脳裏に、クロスレファレンスをしながら、キャラクターは現前しているはずである。
 そのようなイマジネーションの世界に、ARカメラによるキャラクターの可視化された姿が現れた場合、イマジネーションは阻害されるのだろうか、もしくは別の何かが体験できるのだろうか。
 ARによってスマートフォンのようなモバイルメディアをもつ人々の行動とソーシャリティが劇的に変化したのは、2016年の「Pokémon GO」の登場からだろう。そのベースにはもちろん、ゲームやアニメ『ポケットモンスター』(テレビ東京系)の物語性の共有がある。おそらくほとんどの『Pokémon GO』プレイヤーは、子どものころに『ポケモン』を観たり遊んだりした経験があり、おなじみのキャラクターがよく知る街並みに出てくる感覚は、3次元から2次元世界へ入り込んでしまった、まさに“2.5次元感覚”といっていいだろう。エルキ・フータモによると、「『Pokémon GO』は「拡張現実」の時代、すなわち、私たちが同時に二つの世界ーヴァーチャルとリアルーに住まい、作用を及ぼすことのできるヴィジュアライゼーションシステムの時代の到来を告げている(5)」という。
 こうした状態は、第1回連載で言及したように「ハイブリッドリアリティ(混交現実)」とも呼べる。『Pokémon GO』のプレイヤーたちは、サイバー世界と現実世界が混ざり合ったところで、ゲームを楽しむのである。ゲーム制作者の予想に反して、プレイヤーの間では、ゲームとは異なるコンテキストでのキャラクターとの遊戯も生まれた。ARカメラによる、ポケモンキャラクターを使ったお遊びである。たとえば、部屋のなかにポケモンが現れたら、コーヒーカップのなかに入るようにカップを配置して撮影したり、外でポケモンと自撮りしたりした写真をSNSにアップして楽しむという遊戯である。こうしたSNSへの写真の投稿のためのゲームという位置づけは、『恋旅』のARカメラの仕組みと通底する。しかし、『Pokémon GO』の場合、場所性にプレイヤーの関心があまり向かないため、観光誘致利用にはさほど大きな効果がなかったようである(6)。逆に場所性を意識しない功罪として神域や立ち入り禁止場所に入るプレイヤーに批判が集中したことは周知のとおりだ。

別府地獄めぐりの鬼岩坊主地獄に落ちそうなマリル 筆者撮影

 コンテンツツーリズムとARを考察する際、実はこの「場所性」がキーになっている。「場所性」といっても、必ずしも特定の観光名所を指すわけではない。『Pokémon GO』がゲームという看板を掲げながら、ゲームとは異なる文脈での遊びを誘引したのとは逆に、コンテンツツーリズムのARアプリは、観光アプリの看板を掲げながら、“ゲーム”的な使われ方もされている。次項では、筆者を含めゼミの学生たちがおこなった秩父でのコンテンツツーリズムとARの調査をベースに考えてみたい。

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』と『心が叫びたがってるんだ。』の聖地・秩父

 2017年11月、筆者は横浜国立大学須川亜紀子研究室ポピュラー文化スタジオ・ゼミの学生(以下、ぽぷすたと略記)とともに、埼玉県秩父市でコンテンツツーリズムとARの調査をおこなった。秩父はいうまでもなく、A-1 Picturesのオリジナルテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)(以下、『あの花』と略記)と、『あの花』スタッフが結集して制作されたアニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』(2015年)(以下、『ここさけ』と略記)の聖地である。『あの花』とは、幼なじみの仲間「超平和バスターズ」の一人めんま(本名:本間芽衣子)の事故死をきっかけに疎遠になっていた仲間が高校生になった夏、「超平和バスターズ」のリーダー的存在だったじんたん(本名:宿海仁太)の前に突然めんまが現れ、それをきっかけに仲間が再会し、めんまの願いを叶えるため奮闘するうちに絆や心の傷を回復していく物語である。『ここさけ』は、おしゃべりの好きな主人公成瀬順が、幼いころ父親の不倫を目撃し、結果的に両親の離婚を招いてしまったことを契機に言葉が話せなくなり孤立していたが、高校生になって自分を理解してくれた仲間に出会うことで言葉と自尊心を回復していく物語である。どちらも感動的で、老若男女にかかわらず広い層に多くのファンをもつコンテンツだ。
 この2作品は秩父市と公式にコラボしていて、街中にはキービジュアルやキャラクターのフラッグやパネル、ラッピングバス、自動販売機などが放送・上映終了後の現在(2018年2月現在)でも見ることができる。実際、2017年7月に『ここさけ』が実写映画化されるなど、いまだ人気や話題が衰えない息の長いコンテンツのため、調査日にも“コンテンツツーリスト”に出会うことができた(詳細は後述)。

『あの花』ラッピングバス 学生撮影
旧秩父橋の『あの花』自動販売機 筆者撮影

 この調査で検証したのは、ソニー企業が2015年から運営しているARアプリ『行けるアニメ!舞台めぐり』(以下、『舞台めぐり』と略記)の利用状況とコンテンツツーリズムに関する意識である(7)。このアプリは、アニメ作品の「聖地」をチェックインポイントとして地図上に記しているため、地図ナビとしても使える。また聖地(チェックインエリア)で“写真を撮ってチェックイン”ボタンを押すと、キャラクターがポップアップで現れ、聖地の背景や自分と一緒に写真が撮れる。その写真をすぐアップする機能や、チェックインポイント達成率がパーセンテージで表示される機能もあり、近くで同じアプリを使っているユーザーの存在可否もわかる。作品によっては、キャラクターボイスも聞ける。『あの花』では、チェックインごとにめんまの声を聞くことができた。(聞かない選択もできる。『ここさけ』にはキャラクターボイスはなかった)。ぽぷすたの面々は、このアプリを使ってコンテンツツーリズムを体験しながら、『あの花』『ここさけ』のコンテンツツーリストにインタビュー調査をおこなった。質問内容は事前に作成したが、効率性確保のため2班に分かれ、同じ質問内容だが、半構造化式のインタビューを採用し、自由回答でさらに関連した質問をすることもあった。また、インタビューイーとの取り決めによって詳細な文言は掲載しないため、本連載ではまとめを報告するだけにとどまっている。
 調査では、『あの花』チームと『ここさけ』チームがそれぞれ特定のチェックインポイントとなる場所(聖地)を数カ所選んだ。『あの花』チームは羊山公園、旧秩父橋、定林寺、秩父神社を、『ここさけ』チームは横瀬駅、大慈寺、牧水の滝、デニーズを巡った。両チームとも代表的な聖地を選択したが、『あの花』チームは、羊山公園では『あの花』関係のツーリストには1人しか出会えず苦戦した。『ここさけ』チームも、駅では皆無だった。主にデータが取れたのは、非観光スポット、つまりアニメを知らない人はあまり訪れない旧秩父橋、定林寺、大慈寺であった。実施日時は2017年11月25日(土)の午前10時から午後5時。移動手段は徒歩とバスである。当日は、関連イベントが開催されているわけでもなく、アニメや映画の上映直後というわけでもないため、インタビューイーのサンプル数は限られているが、逆にいえば『あの花』『ここさけ』コンテンツツーリズムが日常的におこなわれている様子を点描できる可能性がある。とはいえ、以下で分析するデータは経年調査ではなく、サンプル数も少ないため、不十分であることを前提に論じていることをあらかじめ断っておく。より精密な調査については、今後の課題として考えたい。
 
物語性とAR

 ARアプリに関して、インタビューした10組20人全員のうち、『舞台めぐり』を実際に使った経験がある人は2組で、ほかは、DLしているが利用していない、利用したことはないが聞いたことがある、など利用率は低かった。ほとんどの人が聖地の場所を雑誌やネットの情報、そして西武秩父駅前にある観光案内所で配布されている「聖地マップ」を頼りに巡っていた。『あの花』に関しては、JTBのムック『るるぶ あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(JTBパブリッシング、2014年)が出版されていて、詳細なガイドブックになっている。また、観光案内所で『あの花』と『ここさけ』の「聖地マップ」が配布されているので、事前情報がなくても容易に「聖地」を巡ることもできる。

『るるぶ あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(JTBのMOOK)、JTBパブリッシング、2014年

(1)旅の目的
 インタビューイーは、『あの花』『ここさけ』の聖地を巡っている人に限ったが、旅の主目的を聞くと、「秋の紅葉や温泉など、秩父観光をするついでに聖地も見てみようと思って来た」、もしくは「近くに住んでいるので来てみた」いうもので、『あの花』『ここさけ』聖地巡礼を主目的に訪れていた人は1人だった。秩父観光をメインに訪れた人々は、ほかの代表的な秩父の観光地も巡りながら、アニメ聖地にも来ていた。近くに住んでいるという人々は秩父訪問は初めてではないので、何か変わったことをしようと聖地を巡ってみたというケースだった。アニメコンテンツツーリズム(またはアニメ聖地巡礼)というと、コアなファンだけがおこなっているイメージが先行しているが、「聖地巡礼」の行為自体の流行やアニメ・漫画自体の受容数の増加や公言度の高まりにより、いわゆるライトな動機(主観光のついで)でおこなう、いわば“副次的コンテンツツーリズム”も増加していると思われる。

(2)情報入手の方法
 こうした副次的コンテンツツーリズムで、聖地巡り関連の情報をどのように入手したかを質問すると、次のようになった(複数回答あり)。

 ネット上の情報 10組
 紙媒体のガイドブック 0組
 観光案内所で配布された聖地マップ 1組
 ARアプリ 3組

 民間企業が運営するデータベース的聖地巡礼マップからファンがアップしているブログ的なサイト、「ツイッター」などのSNSまで、あらゆる情報、写真から聖地を特定した人が多数観察された。ネットからの情報入手は、どのコンテンツツーリズム調査でも利用率が高い。ARアプリは、まだ利用者と非利用者にコンテンツごとのばらつきがあるようだ。特に『舞台めぐり』はサービス開始からまだ間もないので、知名度がさほど高くなく、(増加しているものの)ラインナップタイトルが限定的である(8)。そのためこのアプリを知る機会が、コンテンツによって異なるのは仕方がないだろう。

(3)ARアプリの利用状況
 ARアプリ「舞台めぐり」の利用状況については、次のような結果となった。

 存在を知らなかった。1組
 存在を知っているが、あまり使っていない。5組
 部分的、または補助的に使っている。3組
 ほぼすべての機能を使っている。1組

(4)キャラクターとの写真撮影について
 ARアプリを知っている人すべてが『舞台めぐり』をダウンロードしていた。しかし、使用頻度が少なく、使いこなせていない(またはあえてあまり使っていない)という人が多く、地図だけ、写真だけなど、部分的な使用方法が顕著だった。『舞台めぐり』の写真機能を利用した、キャラクターとの写真撮影の有無を聞くと、意外とキャラクターには固執していない組がほとんどだった。なかには「風景が好き」「キャラクターも含めて物語全体が好き」という、物語性やランドスケープを中心とした消費をしていた人が、調査対象には多かった。
 逆に、ぽぷすたの面々は『舞台めぐり』を使うのが初めてだったので、キャラクターがチェックインエリアで現れたことに感動し、『Pokémon GO』で見られたようなツーショット写真や遊び写真を撮って遊んでいた。

めんまドリンクとめんまのスリーショット 学生撮影
『ここさけ』の順とツーショット写真を撮る学生 学生撮影

作品内容とARキャラクター

『あの花』と『ここさけ』は、心の傷や仲間との絆を描いた青春譚である。好きなキャラクターをインタビューイーに聞くと、それぞれ一人挙げてくれたが、「みんな好き」「全体で一つ」「物語や風景が好き」という意見が多かった。したがって、「舞台めぐり」を利用していても、写真をアップしたり、アップされているほかのツーリストの写真を見たりということまでは興味がない人が大半だった。その温度差は、主目的としてのコンテンツツーリストか副次的なものか、という差異と、作品において前景化しているのがキャラクターなのか物語なのか、という差異によって出てくる。当然ながら、ツーリストの好みもその受容の仕方に大きく起因する。聖地を見つけること自体が好きなツーリストや、ピンポイントで聖地を訪問するよりも、迷いながら街をぶらぶらして物語空間そのものを楽しみたいツーリストも存在する。物語上、そのほうが2.5次元空間をより深く実感できる作品もあるだろう。
 本調査のインタビューイーも、2組はリピーターだったが、残り8組は副次的コンテンツツーリストであるため、足跡を残すこと(ARアプリ上に写真をアップする)にあまり固執していなかった。ぽぷすたの学生も、作品自体は好きだがリピーターになるほどでもなく、チェックインポイントの制覇(パーセンテージで数値化される)や、キャラクターのポップアップをどこから撮るか、などに夢中だった。ARアプリサイトに自分が撮った写真をアップするよりも、誰がいつアップしているのかに興味があるようだった。
 ぽぷすたの学生たちは、キャラクターが出てくることで、想像の幅が少し狭まると感想を述べた。しかし、それはキャラクターの出現自体ではなく、キャラクターのバリエーションの問題もあるかもしれない。『舞台めぐり』でのキャラクターパターンは1キャラクターにつき1種類である。チェックインポイントによって出現するキャラクターは異なるが、一人のキャラクターの変化はない。コンテンツツーリストたちにとって、アニメのシーンと同じ角度で“再現”写真を撮影することは重要な目的であり、『舞台めぐり』もチェックインエリアで、アニメのワンシーンを画面上に薄く重ねて、同じアングルでの写真撮影を可能にさせている機能もある。しかし、そこにキャラクターを入れたい場合、キャラクターのパターンが一つなので、違和感が生じる。
 
ARキャラクターと聖地

 たとえば、この聖地である(写真)。ここは、『あの花』でじんたんがうなだれていたベンチである。筆者の写真の腕が悪いのもあるが、じんたんのキャタクターパターンはこの立ち姿しかないため、興醒めな写真である。したがって、“再現”写真を撮りたくても、うなだれたじんたんは再現できず、ユーザーのイマジネーションと可視化された写真の場面に大きな齟齬が生じる。

ベンチとじんたん 筆者撮影

 しかし、ARキャラクターによって、場所の聖地化が可視化される利点もある。上記の例のベンチも、キャラクターが写っていない場合、物理的にはただのベンチである。そこにじんたんを配置させ、じんたんという意味内容と紐付けされることで、じんたんのベンチが可視化され、聖地として認識されやすくなるのである。こうした例は、非観光地の聖化や意味生成にも通じる。たとえば、駅が聖地となっている場合もアニメ作品には多いが、駅は公共の場所であり、人によって社会文化的意味は異なる。しかし、駅にARキャラクターを配置させて写真を撮ることによって、駅に「色」がつくのである。こうした使われ方のほかに、『Pokémon GO』ユーザーに見られたようなキャラクターの私物化、ネタとしての利用(遊戯)なども『舞台めぐり』でおこなわれていて、アプリの「ゲーム化」とソーシャリティに大きく影響を与えている。

イマジネーションとテクノロジーのゆるやかな関係の未来

 ここまで、AR技術とコンテンツツーリズムについて、イマジネーションとの関係性を中心に論じてきた。聖地にいわゆる「巡礼ノート」が置いてある場合、そこにメッセージやイラストを描くことが、足跡を残すことになる。神社の場合は、絵馬がメッセージボードとして機能している。ほかに、レストランや宿泊施設であれば、グッズやぬいぐるみを置いてもらうことも足跡になるだろう。しかし、野外の小規模な聖地である場合は、ARキャラクターの出現は、聖地の可視化に貢献するのではないだろうか。
「ここで○○も立っていたなあ」とか「あの家が○○の家か」など、イマジネーションをフル稼働して2.5次元空間を楽しむコンテンツツーリズムだが、ライトなツーリスト(副次的コンテンツツーリスト)も含め、ツーリストの目的も多様化している。そうした状況で、今後コンテンツツーリズムにおいて、テクノロジーとイマジネーションのゆるやかな関係はどうなっていくのだろうか。VR(Virtual Reality:仮想現実)も視野に入れながら、今後も考察していきたい。

*こうした問題群から、筆者は2018年2月27日(火)14:00から「第4回「2.5次元文化」を考える公開シンポジウム――コンテンツツーリズム、AR、イマジネーション」を開催する(参加無料。ただし事前登録制)。興味のある方は、ウェブサイトを参照していただきたい(http://www.ynu.ac.jp/hus/urban/18907/detail.html)。


(1)一般社団法人人吉温泉観光協会の事務局アドバイザー中神寿一氏によると、「あえて「何もしないおもてなし」」のスタンスを取っているという(2018年2月9日、筆者によるインタビュー)。
(2)『恋旅~True Tours Nanto』公式ウェブサイトのキャッチコピー(www.koitabi-nanto.jp)[2017年12月1日アクセス]。
(3)「恋旅アプリアップデート!~ヒロイン3人秋服に衣替え♪~」(www.koitabi-nanto.jp/archives/2357)[2017年12月1日アクセス]
(4)Philip Seaton, Takayoshi Yamamura, Akiko Sugawa-Shimada and Kyungjae Jang, Contents Tourism in Japan: Pilgrimages to “Sacred Sites” of Popular Culture, Cambria Press, 2017, p.231.
(5)エルキ・フータモ「『Pokémon GO』とメディア熱の歴史」太田純貴訳、「特集 ソーシャルゲームの現在――「Pokémon GO」のその先」「ユリイカ」2017年2月号、青土社、51―63ページ
(6)中川大地「ふたつの「GO」が照らす〈空間〉と〈時間〉――『Pokémon GO』『Fate/Grand Order』が体現する脱ソーシャルゲームの道筋」同誌92ページ
(7)「行けるアニメ!舞台めぐり」(https://www.butaimeguri.com/)[2017年12月1日アクセス]
(8)2018年2月18日時点で、78タイトルである。

[謝辞]この場をお借りしまして、インタビューに快く応じてくださった一般社団法人人吉温泉観光協会事務局アドバイザー中神寿一様、そして秩父観光されていたみなさまに厚くお礼を申し上げます。また、一緒に調査をおこなった横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程2年(ぽぷすた)のみなさん、3、4年(ぽぷゼミ)のみなさん、OBの有志のみなさんにも感謝いたします。

[青弓社編集部から]
本連載は第7回で終了します。これまでの連載に加筆・修正して、書き下ろしを加えて書籍化する予定です。刊行日などが決まり次第告知しますので、楽しみにお待ちください。

 

Copyright Akiko Sugawa
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博士論文を出版する――『ボウリングの社会学――〈スポーツ〉と〈レジャー〉の狭間で』を書いて

笹生心太

 本書は、自身の博士論文の内容を大幅に加筆・修正したものである。その内容は、本書の第2章、第3章に相当し、1960年代半ばから70年代初頭のボウリングブームを主題としている。
 博士論文を提出したのが2015年3月末のことで、本書の出版が17年12月末のことである。この2年9カ月の間に何があったのかについて、少し話をしたい。本書の「舞台裏」として楽しんでいただくほか、一般書(ないし平易な学術書)の出版を考えておられる若い研究者の方々の参考になれば幸いである。

 2015年7月、博士論文が電子公開された。電子公開とは、博士論文の全文を、PDFでインターネット上に公開するというものである(例えば私の博士論文は、一橋大学機関リポジトリ:https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/27388 で全文を読むことができる)。そして電子公開の直後、大変光栄なことに、ある出版社から、ほぼそのまま学術書として出版するという話をいただいた。
 この提案についてどうすべきか考えている際、たまたまたどり着いたのが、青弓社の編集者である矢野未知生さんが「版元ドットコム」という本の情報サイトに書いていた「博士論文を本にする」という文章だった。興味深かったのは、博士論文の電子公開が進むこれからの時代に「博士論文を本にする」ことの意味やあり方についてだった。矢野さんの結論としては、「学術的議論は電子公開、その要旨をわかりやすく一般に公開する機会として商業出版」として使い分けるべきだとしている。
 この話は非常に参考になった。私自身のことを思い起こしても、大学生時代に「青弓社ライブラリー」シリーズにふれた経験は人生に大きな影響を与えていた。周知のように、このシリーズは「まだ誰も論じていない、面白くて社会的な意義があるテーマ」をコンセプトにしている。吉見俊哉ほかの『運動会と日本近代』や坂上康博『にっぽん野球の系譜学』、野村一夫ほかの『健康ブームを読み解く』など、「ありそうでなかった」テーマについて平易に論じられていて、大学生の私は知的好奇心をくすぐられ、研究の世界に憧れを抱くようになった。
 こうした経緯から、自身の博士論文も、やはり若い人たちの知的好奇心を喚起するような書籍にしたいという思いが強まり、青弓社に企画を持ち込んだ。これが2016年3月のことで、博士論文提出から丸1年後だった。そして打ち合わせ後、「青弓社ライブラリー」シリーズからの刊行を目指すことが決まった。

 だが、50年以上前のボウリングブームの時期だけを取り扱っていても、商業ベースに乗せるのは難しいようだった。そこで、追加で資料を集め、調査をし、ブーム以降のボウリングの動向を書籍に盛り込むことになった。それが、最終的には本書の第4章、第5章になる。
 ここで苦労したのは、資料収集や調査それ自体ではなく、得られた成果をどうまとめるかということだった。ボウリングブーム期を〈スポーツ〉と〈レジャー〉という視角から分析した以上、それ以降の時期も同様の視点で分析しなければ話が分裂してしまう。しかも、初学者にも興味をもってもらうような見方でなければならない。この点については、四六時中、まさに寝ている間にも悩まされた。
 2016年5月ごろ、突然頭のなかに閃光が走った。その際に思い付いたのが、本書の趣旨である「流行期にはボウリング業界全体が〈スポーツ〉と〈レジャー〉を柔軟に使い分けていたが、流行期以降はボウリング場単位で、〈スポーツ〉のボウリング場と〈レジャー〉のボウリング場に分化していった」というストーリーだった。
 正直、確固とした実証的裏付けがあったわけではなかったが、矢野さんも前述の文章で、博士論文を一般書にするならば、「「研究者に対する防御」より「積極的な意見表明」をする」べきだと書いていて、この言葉も大きな後押しとなった。

 このようにして、本書のおおまかなストーリーは固まった。このストーリーをベースにして企画書を作成し直し、青弓社から正式にGOサインが出たのが2016年9月だった。企画書の持ち込みから約半年である。
 そして、こうしたストーリーをより臨場感があるものにするために、ボウリング場の現場に向かった。これまで資料と格闘していた私にとって、現場の葛藤や舞台裏を知る作業は非常に面白く刺激的だった。なお、その成果は本書第5章に反映されている(個人的には、読者にはこの第5章から読んでいただきたいと思っている)。
 こうして、2017年3月にはほぼすべての調査が終了した。そこからはひたすらに書き、読み、直す、を繰り返していった。また、研究者仲間に草稿を読んでもらいアドバイスを受けた。こうして、第1稿を提出したのが、17年8月のことだった。それから校正作業を経て、17年12月に無事に出版できた。

 以上の2年9カ月は、本当にあっという間だった。その間、つらいと感じた瞬間はただの一度もなかった。それはやはり、孤独に打ち込んできた自分の研究成果が日の目を見るという大きな喜びがゴールにあったからだと思う。妻に「この研究に何の意味があるのか」「結論は何なのか」などと問い詰められながらここまできたが、ようやく一言言い返すことができそうである。

「原稿の余白に」の余白に、もう少しだけ付け加えたい。すでに述べたように、私は「青弓社ライブラリー」シリーズが好きで、特にあのシンプルなカバーに憧れていた。そのため、本書の刊行が決まった際には、「やはりボウリングのピンをイメージして、白地に赤線のカバーになるのだろうな……」などと妄想していたので、まったく異なるカバーイメージ案が出てきた際は驚いた。積年の憧憬にも似た思いが叶えられることはなかったが、それにも劣らぬ、いや、それをもしのぐ素晴らしいカバーで装ってあり、大変感謝している。
 また、写真の選択が素晴らしい。カバー画像をごらんになればわかるように、ボールがヘッドピン(先頭のピン)の位置からややずれている。ボウリングでは、ヘッドピンにまっすぐボールが当たってもストライクは出ない。斜めからえぐるように当たることで、ピンがよく飛び散るのだ。
 本書も、この写真のように、ボウリングという誰でも知っている題材について斜めから切り込むことで、大きな反響が生まれてほしい。そして何より、ボウリングのように長く、いろいろな人々に愛されるような本であってほしいと思っている。

 

第14回 2018タカラヅカ、始動!

薮下哲司(映画・演劇評論家。元スポーツニッポン新聞社特別委員、甲南女子大学非常勤講師)

 2018年の宝塚大劇場は、永遠に年を取らないバンパネラ(吸血鬼)の美少年の愛と苦悩を描いた萩尾望都原作による伝説の少女漫画を舞台化した『ポーの一族』(花組)から幕開け。連日、立ち見がでる満員盛況に沸いています。
 脚本・演出は、『エリザベート』(1996年初演)はもちろん『るろうに剣心』(雪組、2016年)や『All for One』(月組、2017年)などここぞというときには必ず登板して、ことごとく期待に応え、劇団はおろかファンからも最も信頼が厚い“宝塚のエース”的存在、小池修一郎です。彼は原作を宝塚歌劇団入団前から愛読し、宝塚入団の折はぜひ舞台化したいと念願していたという逸話が公演解説やプレスリリースにまで紹介され、原作漫画を知らないファンが観る前から特別な感情を抱くように巧みに操作された宣伝文句と、主演がこの原作の舞台化を待っていたかのようなフェアリー系スターの代表格、明日海りおとあって、期待感はいやがうえにも盛り上がりました。チケットは発売と同時に全期間完売、幸先のいいスタートです。
 短いエピソードの連続で、しかも時代を自由に行き来する原作はかなり大胆な構成で、漫画を読みつけていない者にとってはその世界観になかなか入りにくい壁があり、どんな形で舞台化するのだろうかと興味津々だったのですが、少女漫画独特の耽美的な作画の魅力を巧みに再現し、『ポーの一族』の世界を宝塚の舞台によみがえらせました。
 舞台は1964年の西ドイツ、フランクフルトから始め、バンパネラ研究家が「ポーの一族」について解き明かしていくという構成をとったのも、原作の複雑な時制を整理する役割をうまく果たしたようです。ただ、全体の構成としては、主人公のエドガーがバンパネラにならなければいけなかった理由など前半の説明部分がややくどく、エドガーが永遠の時をともに過ごすパートナーとして選ぶ後半のアラン(柚香光)とのくだりが淡白になり、ストーリーとして盛り上がりに欠いたのがやや期待外れ。ここをきっちり描かないと『ポーの一族』を舞台化する意味がないと思うのですが、原作ファンの感想を聞いてみたいもの。とはいえ、ラストのエドガーとアランが永遠の旅立ちに出る場面の2人の美しさは、宝塚でしか観ることができないものでした。
 入団当初『ベルサイユのばら』(1974年初演)の演出家・植田紳爾から「100周年のオスカルが見つかった」と注目され、以来、スター候補として大事に育てられ、花組トップスターに就任した明日海。『エリザベート』のトート、『新源氏物語』(1981年初演)の光源氏、『ME AND MY GIRL』(1987年初演)のビル、『Ernest in Love』(2005年初演)のアーネスト、『仮面のロマネスク』(1997年初演)のバルモンと先輩が演じてきたさまざまな役を演じ、本人の真摯な取り組みもあってどれも役を自分のものにしてきましたが、エドガーは本来の明日海の個性である役に初めて出合ったといえるのではないでしょうか。もう少し前に出合っていたらとも思いますが、多くの個性的な大人の男性を演じた後だからこそ表現できる少年のセクシーさというものもあって、まさにいまだけの輝きを放っています。エドガーは永遠の時を生きますが、それを演じる明日海はいまだけしかエドガーを演じることはできません。その貴重ではかない一瞬をぎりぎりに共有できたことをうれしく思います。
 明日海の次回作は博多座で柴田侑宏の万葉ロマンの名作『あかねさす紫の花』(1976年初演)で、中大兄皇子と大海人皇子の二役を役替わりで挑戦します。一路真輝、春野寿美礼、瀬奈じゅんら多くの先輩が演じてきた作品で、本人も月組時代に小さな役で出演していて、歌劇団スタッフによると、いつかは演じてみたいと憧れていた役なのだそうです。中大兄と大海人を同じ公演で二役で挑戦するのは明日海が初めてで、個性が異なる2人の皇子を両方演じるというのも明日海の幅広い演技力を証明しているようです。
 その後には『MESSIAH(メサイア)――異聞・天草四郎』で、若くして逝った悲劇のキリシタン大名に挑みます。ようやく明日海らしい作品が続きます。トップ就任後5年、充実期にさしかかった2018年の明日海りおの今後の動向に注目したいものです。
 
 元日の拝賀式に続いて9日に小川友次理事長が会見し、昨年(2017年)の実績と2018年の抱負を述べました。それによると、昨年も宝塚歌劇の動員は4年連続で270万人を超えました。本拠地の宝塚大劇場と東京宝塚劇場の両方で動員が100パーセントを超え、特に大劇場の動員の伸びが著しいそうです。100周年の余韻が続くなか、この好調を持続するために、さらなる新たな挑戦を続けていきたいとも。また生田大和や上田久美子、田渕大輔、野口幸作ら若手作家の成長を高く評価しています。デビューまで5年から10年かかる作家の育成に努めるべく今年も新人を採用し、演出部を37人に拡充するといいます。一方、チケットの発売方法を一新、一人でも多くの人に宝塚歌劇を適正な価格で観てもらえるようにするのが狙いだそうです。これと関連して、公演のライブ中継やテレビ放送の拡充も図りたいとのことでした。
 一方、2018年も台湾公演をおこなう予定ですが、将来的にはニューヨークなどの欧米での公演も視野に入れて、本場ブロードウェイで公演をしても遜色のないプロフェッショナルを育てたいという夢も披露していました。昨年『グランドホテル』(月組)で来日したトミー・チューンが愛希れいかを激賞したことも刺激になっている様子で、ニューヨークの舞台から声がかかるようなスターを育てるのが目標だそうです。好調の波に乗った、笑顔が絶えない会見だったようです。経営的な部分への質問が多く、スターの人事的な話題にはふれられませんでしたが、その分安定期ということなのかもしれません。
 4年連続270万人突破は劇団史上初の快挙で、これほどおめでたいことはありません。理事長も、チケットが取れないという苦情に対処するのがいちばん心苦しいと話していました。ただ、チケットに関しては、平日の昼間を埋めるために団体回りをする営業係の血と汗と涙の努力の結晶を忘れてはなりませんし、私設ファンクラブのチケットの大量買い占めに頼っていることなどまだまだ問題はたくさんあります。毎公演観る人も多く270万人のうち何人がリピーターかということを考えると、実質的にはファンの数はその半数にも満たないのではないかという統計の専門家もいます。熱心な宝塚ファンに支えられて、いまの繁栄があるというのも事実でしょう。
 とはいえ東京宝塚劇場の雪組公演も滑り出しは好調で、2018年の宝塚は順風満帆の船出といってよさそうです。わが『宝塚イズム』は12月発売の『36』が朝夏まなとのサヨナラ特集をメインに好評に推移し、6月1日発売予定の『37』に向けて動きだす新春を迎えています。本体の好調の原因を徹底的に解明する特集を組むのも面白いかも。そんなことも考えながら、編集会議に臨む所存です。
 
 では今年も『宝塚イズム』をよろしくお願いいたします。

 

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第8回 ブリジット・ユーグ・ド・ボーフォン(1922-2008、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

 ブリジット・ユーグ・ド・ボーフォン Brigitte Huyghues de Beaufond、彼女の名を知る人は相当なヴァイオリン・コレクター、もしくは、かなりのご高齢の方だろう。ご高齢と言ったのは、実はボーフォンは1960年前後に数回程度、ほぼ毎年、来日していたからである。最初の来日は58年といわれるが、手元にある59年のボーフォンに関する新聞記事には「初来日」の文字がないため、58年は正しいのかもしれない。ただ、60年の記事にも来日回数については何もふれていないので、確かなことは言えないのだが。
 来日時のプログラムからボーフォンの履歴を追ってみると、まず、生まれはパリ。1934年、パリ音楽院でジュール・ブーシュリに師事(マルク・ソリアノ『ヴァイオリニストの奥義――ジュール・ブーシュリ回想録:1877―1962』〔桑原威夫訳、音楽之友社、2010年〕の巻末に、卒業生としてボーフォンの名前が掲載されている)、37年、プルミエ・プリ(第一位)で卒業。その後、個人的にジャック・ティボーに学ぶが、来日した際には「ティボーの愛弟子」と宣伝されていた。47年、ヴァイオリン・プルミエプリ協会から大賞を受賞。共演した指揮者はアンリ・ラボー、ジャック・ティボー、シャルル・ミュンシュ、アンドレ・クリュイタンスなど。また、ボーフォンがエリザベス女王臨席の演奏会に出演した際には、ティボーは自分の愛器を彼女に貸し与えたとされる。
 1960年の来日の際、ボーフォンは置き土産をしてくれた。ひとつは、わざわざスタジオに出向き、月刊誌「ディスク」6月号(ディスク社)の付録のソノシートのためにシューベルト(?)の「アヴェ・マリア」とシューマンの「トロイメライ」を録音している。もうひとつは同じく月刊誌「芸術新潮」4月号(新潮社)に「師ティボーを語る」というインタビューを残してくれた。この二つの出来事からすれば、当時、ボーフォンはそこそこ話題になっていたと推測できる。
 しかしながら、ボーフォンのレコードが国内で発売された形跡はない。というか、地元フランスでさえもまとまった録音はなさそうなのだ。けれども、少なくとも来日に関してはフランス政府が大きく関与していることは間違いないから、ある程度以上の力量のはずである。 
 いろいろ探していたら、非常に珍しい音源をせっせと復刻しているForgotten recordsaというのを見つけた。ただ、ここで扱っているのはCDではなくCD-Rなので、注文するのを一瞬ためらった。だが、実際に届いたのを試したところ、装丁はきれいだし、解説書も充実(ただし、フランス語表記だけ)、音質もよく編集もきっちり、録音データもできるだけ詳しく記されている。このくらいの質であれば紹介する価値はあると判断した(ただし、CD-Rの耐久性については、私自身はまったくわからないので、その点はご了承いただきたい)。
 そのFogottenからは2点発売されている(音はすべてモノーラル)。最初に出たものにはウェーバーの『ヴァイオリン・ソナタ作品10の1、3、5番』(1960年)、サン=サーンスの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』、ガブリエル・ピエルネの『ヴァイオリン・ソナタ作品36』(以上、1957年)が含まれる(fr1055)。ピアニストはHelene Boschi、Varda Nishry、両者の経歴は不明。
 ウェーバーやサン=サーンスにおけるボーフォンは、ピンと張った、抜けるような明るい音が印象的である。それに、いかにも人なつっこいような雰囲気もある。しかし、ピエルネは少し異なる。ティボーのような蠱惑的な音色と、ジネット・ヌヴーのような集中力を足して2で割ったような感じ。
 2枚めはモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第3番』(1960年)、ジャン=フェリ・ルベル(1666-1747)の『ソナタ』(ヴァイオリン独奏と管弦楽編曲版)(1962年)、ヴィラ=ロボスの『黒鳥の歌』(W123)、『雑多な楽章からなる幻想曲』からセレナード(W174)(1957年)、清瀬保二の『ヴァイオリン・ソナタ第3番』(1960年)(fr11279)を収録。このなかで最も個性的なのはモーツァルトの『第3番』(Capdevielle指揮、フランス国立放送室内管)である。ウェーバーなどは意外にすっきりしているが、これはときにテンポを落とし、ティボーに似た甘さや間の取り方が散見される。言うならば、いかにも昔風の情緒が漂ったものであり、彼女のほかのモーツァルトが残っているのなら、ぜひとも聴きたいと思わせる。これを聴くと、「女ティボー」という言葉はミシェル・オークレールではなく、このボーフォンのほうに付けられるべきではないかと思ってしまう。また、ルベルの曲は珍しいし、ボーフォンの独奏もみずみずしい。ヴィラ=ロボスは彼女のしなやかさが存分に出ていて、これも聴き物のひとつだろう。
 驚いたのは清瀬のソナタだ。これはNHKのスタジオでの収録とあるが、Forgottenの主宰者はどのようにしてこの音源を手に入れたのだろうか。ピアノは和田則彦だが、おそらく楽譜は前もってボーフォンのもとに届けてあったのだろう、しっかりと練り込んだ解釈である。
 以上、2枚の曲のなかでは、ときにざらついた音になる箇所もあるが、この時代の放送用録音としては非常に明瞭である。

 

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第13回 朝夏まなと退団、そして2018年の宝塚

薮下哲司(映画・演劇評論家。元スポーツニッポン新聞社特別委員、甲南女子大学非常勤講師)

『宝塚イズム36』発行日の12月1日が迫ってきました。今号も執筆メンバーの宝塚愛に満ちた熱い原稿が多く集まり、すでに校了。印刷そして発売を待つばかりの最終段階になっています。
 最新号のトップを飾るのは、11月19日、東京宝塚劇場公演『神々の土地』『クラシカル ビジュー』千秋楽で退団した宙組トップスター朝夏まなとのさよなら特集です。丸2年という短い就任期間でしたが、作品に恵まれ、濃い2年間だったことが、寄せられた惜別の原稿にもよく表れていました。最後に巡り合った『神々の土地』のロマノフ王朝最後の貴公子ドミトリー・パブロヴィチ・ロマノフは、朝夏本人にとってもファンにとっても、長く記憶に残る当たり役だったと思います。退団が宿命づけられている宝塚のスターにとって、退団後もファンの記憶に残る作品に出演できることは非常に大事なことだと改めて思いました。退団後に女優として活躍しているOGの宝塚時代の代表作を聞かれて、誰も知らない作品のタイトルを言わないといけないことほど寂しいことはありません。大地真央なら『ガイズ&ドールズ』(1984年初演)、一路真輝なら『エリザベート』(1996年初演)、最近では早霧せいなといえば『ルパン3世――王妃の首飾りを追え!』(雪組、2015年)、『るろうに剣心』(雪組、2016年)とすぐに出てくる人はいいのですが、出ない人のほうが多くて悔しい思いをしたことが何度もありました。『神々の土地』が再演されて、初演は朝夏だったといわれるようになってほしいものです。
 一方、過去を振り返るばかりではなく、年明け最初の話題作、1月1日から宝塚大劇場で開幕するミュージカル『ポーの一族』(花組)への期待を込めた「少女マンガと宝塚歌劇」についての小特集も組みました。『ポーの一族』は、11月16日にパレスホテル東京で盛大に制作発表会見がおこなわれて作品の一端がベールを脱ぎ、明日海りお扮する美少年エドガーの妖しい美しさに、会場の出席者は「この世のものとは思えない」と一様に思わずため息が出たようです。
 この作品の原作は、萩尾望都の少女マンガの伝説的な名作。演出の小池修一郎が、宝塚歌劇団に入団する前の1970年代のはじめごろ、萩尾が原作を発表したころからの熱烈な読者で、宝塚歌劇団に入った暁にはこの作品をぜひ舞台化したいと念願していたといういわくつきの作品。作品が発表された当時、私の周囲にも『ポーの一族』の熱狂的な信者がいて、よく話を聞かされていたので、当時の少女マンガファンにとって特別な作品であることは理解していました。その後、劇団Studio Lifeが上演した『トーマの心臓』(1996年初演)や『訪問者』(1998年初演)などで萩尾作品にもふれましたが、瞳がキラキラ輝く少女マンガ独特の絵柄にどうしてもなじめず、『ポーの一族』はずっと読んだことがありませんでした。今回、舞台化が決まったということで、初めて原作に目を通しました。
 永遠に年をとらないバンパネラ(吸血鬼)一族の少年が主人公の話だったんですね。シェークスピアの『真夏の夜の夢』を宝塚で舞台化した小池の初期の秀作『PUCK』(1992年初演)にも通じる内容であることがわかり、小池の胸の中にはずっと『ポーの一族』が渦巻いていたのだなあといまさらながら納得。年をとらないことを周囲の人たちに悟られないように、時空を超えて転々と引っ越しを繰り返すという設定も、宝塚にはふさわしい題材だと思いました。そういえば美人女優ブレイク・ライヴリーが主演した映画『アデライン、100年目の恋』(監督:リー・トランド・クリーガー、2015年)が同じ設定だったことを思い出しましたが、洋の東西、考えつくことはあまり変わらないですね。
 問題は主人公のエドガーの14歳という年齢の設定。しかし、これも姿形は14歳でも、長年生きていることから精神的には成熟しているという解釈でクリアするのだとか。小池氏は会見で「入団時点で宝塚に『ベルサイユのばら』ブームがきていて、少女マンガと宝塚が親和するのはわかっていたし、いつかぜひやりたいと思っていたのが『ポーの一族』だった。主人公が少年なので、宝塚では難しいかなと思った時期もあったが、ポスター撮影での明日海の扮装を見て、明日海でやれるまで運命の神が待ちなさいと言ったんだなと思った」と語って、いま舞台化する意味と作品への熱い思いを語りました。
 エドガーを演じる明日海は、赤いバラをもって主題歌「悲しみのヴァンパイア」を披露したあと、「原作を読めば読むほど魅力的で、すっかり『ポーの一族』の世界にはまっています。エドガーは少年だけれど、何百年も生きていて、周りにいる普通の少年たちとは明らかに違うものをもっているはずですから、彼のオーラや、少年の姿でありながらのセクシーさ、永遠に生きなければならない悲しみを表現したい」と抱負を述べました。
 そんな2人を傍らで見守りながら、原作者の萩尾氏も「長い間待たされたけれど、私のイメージを超えた美しい世界が目の前に広がるのが予感できて、いまからドキドキわくわくしております」と舞台化への期待を込めました。
 宝塚版は、原作の第2巻(〔フラワーコミックス〕、小学館、1974年)所収の「メリーベルと銀のばら」のエピソードがメインになり、問題の年齢設定は明確化されないそう。小池は、「みなさん一人ひとりさまざまなイメージがあると思いますが、私たちで、いまの花組でできるベストの作品を作りたい」と明言していました。いずれにしても、宝塚の2018年最初にしていちばんの話題作であることは確か。『宝塚イズム36』では甲南女子大学メディア表現学科准教授で少女マンガと宝塚歌劇の両方に精通している増田のぞみさんに原稿を依頼、『ポーの一族』の宝塚での舞台化の意味と期待を執筆していただきました。熱心な宝塚ファンでもある増田さんらしい鋭い分析で読み応えがある原稿が送られてきました。ぜひお楽しみください。
『ポーの一族』を筆頭に、宝塚歌劇は2018年も新作に加えて名作の再演と話題作が目白押し。気が早い話ですが、編著者としては気持ちはすでに『宝塚イズム37』に動きかけています。次の発行は6月1日の予定。どんな特集が組めるのか、いまからあれこれ考えるのが楽しみです。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
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ソーシャルメディア時代の「模型」と「本」(「世界」あるいは「人」の媒介性)――『模型のメディア論――時空間を媒介する「モノ」』を書いて

松井広志

 安直な「時代診断」にくみするのは慎重でなければならないが、やはり現代ほど人々の「つながり」が重視される時代はないだろう。こうした傾向は、勤務校で日常的に大学生と接していると顕著であり、まさに「友だち地獄」(土井隆義)的なコミュニケーションの時代だなと思う。また、そうしたつながり自体をビジネスとして活用するインフルエンサー・マーケティングも盛んで、なるほど、単にSNSが普及しているというだけでなく、上記のような意味で現代は「ソーシャル(=人々のつながり)メディアの時代」かもしれない。
 そうしたなか、本書のテーマである「模型」は、一見レトロな対象に映るかもしれない。たしかに、戦前期からメディア考古学的に記述した(特に戦時下の重要性も強調した)本書の「第1部 歴史」については、そうしたイメージは的外れではない。ただ私は、本書を単なる「懐古趣味」の本にしたくないと考えていた。「第2部 現在」「第3部 理論」という他の部も含ませた構成や、特に「理論」の「「モノ」のメディア論」の章ではそのことを理論研究という(ある意味では難解な)かたちで書いたが、ここではエッセーという機会を借りて、別の方向から述べておきたい。
 そもそもメディアについての学術的な捉え方としては、(「こちら側」の主体をとりあえず「人」に限定するとしても)「人と人をつなぐ」場合と「人と世界をつなぐ」場合と、2つのパターンがある。「つながり」を求める時代とは、ある意味では、前者の「人と人をつなぐ」パターンのメディアが中心となった社会だろう。逆に言うと、現代社会では、後者の「世界とつながる」ような体験をもたらすメディアがマイナーになりつつあるのかもしれない。
 私はいまのところ「模型」や「ゲーム」といったメディアとそれをめぐる文化を主たる研究対象にしているが、これらに着目する理由のひとつは、「人と世界をつなぐ」ほうの媒介性を強くもっているからだ。
 もちろんこれらに「人と人をつながる」媒介性、例えばコミュニティーをつくる機能がないわけではない。例えば、ゲームの場合、「マルチプレイ」と呼ばれる多人数によるプレイとそれに伴うコミュニケーションが、魅力の片面を占める。
 しかし、もう片面では「シングルプレイ」の領域も大きい。ロールプレイングゲームやアドベンチャーゲームが形成する虚構世界(イェスパー・ユール)に一人で(ときに寝食を忘れて)没頭するのは、広く見られる振る舞いだ。私はこうしたシングルプレイの体験を、けっしてネガティブに捉えたくはない。それは、「人と人」のつながりを絶対視するメディア観では低い価値しか与えられないかもしれないが、「人と世界」をつなぐという視点から見たとき、メディアの、文化の、そして人間社会の、何か重要な部分領域を示しているように思えるからだ。そうした「別の時空間とつながる」メディア経験こそが、(やや強く言うならば)人間らしさのひとつなのではないだろうか。
 上記の視点に立ったとき、これまで(アカデミックな領域の)研究がほとんどなかった(少なくとも、それを主たるテーマにした単著レベルの研究書は存在していなかった)模型が、とたんにメディア研究の重要な対象として立ち現れてくるのである。
 模型は(もちろん他人と一緒につくる場合もあるが)基本的には「孤独」な作業で、一人で組み立てはじめて、独力で完成される場合が多い。こうした模型は「人と人」をつなぐメディアとしてはマイナーである。しかし、だからこそ逆に、ときに自己の内面と対話しながら「いま・ここ」とは異なる「時空間」を想像し、目の前にある具体的な「モノ」を創造していく模型が、「人と(異なる)世界をつなぐ」性質を帯びる。これこそ、私が模型をテーマとした理由だったのだ。
 *
 続いて後半では、本書の内容から少し離れて、本書自体を「メディア」と捉えた所感を述べておきたい。
 前述したようなメディアの2つの捉え方は、もちろん「本」というメディアでも成り立つ。私は(ここまで読んでいただいた方ならおわかりのとおり)どちらかというと「世界」とつながるほうの媒介性を魅力と感じ、数多くの本を読んできた(これは文学作品でも学術研究書でも同じだ)。
 ただ、本書の出版の後は、図らずも(オーソドックスな)「人と人をつなぐ」ほうの媒介性の大事さを再認識する出来事がいくつもあった。端的には、出版というメディアがつなぐ、こちらが想定していない(あるいは想定を上回る)読み手の応答である。
 まず、驚いたのが、松岡正剛さんによる書評サイト「千夜千冊」で取り上げられたことである(http://1000ya.isis.ne.jp/1648.html)。ここで、編集工学者である松岡さんによって、玩具文化史や大衆文化論ではない「模型の思想」の本と紹介されたことはたいへん光栄だった。さらに、近年のモノ理論(Thing Theory)やオブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology)と呼応する「もの思想」に連なるとの位置づけは、本書の理論的含意を適切に把握してくださっていて、ありがたかった。そこに松岡さんの持ち味である該博的な知識に裏打ちされた具体的な模型体験・模型史の記述が加わり、第一級の書評となっている。まだの方はぜひご一読いただきたい。
 また、「超音速備忘録」(http://wivern.exblog.jp/27063703/)や「徒然日記2~モデラーの戯言」(http://maidomailbox.seesaa.net/article/452814745.html)など、模型製作者(愛好者)のブログでのいくつかのレビューがある。そもそも私は本書を典型的な学術書のフォーマットで書いていて、専門であるメディア論や社会学には限らないとしても、ある程度人文学・社会科学の背景知識が必要な内容になっている。もちろん、さまざまな人々に広く読まれたいという思いも強かったので、記述のしかたは可能なかぎり平易になるよう心がけてはいた。しかし構成・文体などは学術的な専門書であるため、その意味では決して読みやすい本ではないように思う。それにもかかわらず、熱心な模型製作者(モデラー)によるブログで本書が書評されており、しかもそれぞれの視点からしっかり読み解いてくださっている。実作者(それも熱心な方々)にも届いたのは(幼少期から現在まで模型製作をおこなってきたひとりとして)本当にうれしかった。
 さらに、異分野の専門家からのリアクションがあった。例えば、建築設計事務所オンデザインが運営する、新感覚オウンドメディア『BEYOND ARCHITECTURE』(http://beyondarchitecture.jp/magazine/)から本書を読んだという連絡があり、オンデザインの代表である建築家・西田司さんと「模型と人とメディア」というテーマで対談することになった。同事務所は建築模型をとても細かく作ることで知られていて、昨2016年から「模型づくりランチ」という一般向けのワークショップまでスタートさせている。その背景には、建築模型が「施主と建築家を結ぶメディア」だという考えがあると聞いた。西田さんとの対談は、『BEYOND ARCHITECTURE』の「ケンチクウンチク」というコーナーに、11月末くらいから公開されるとのことだ。
 これらはすべて、筆者が属しているメディア論や社会学といった学術的コミュニティーの外からの応答である。ソーシャルメディアによる即時的で断片的な情報(接収)がメジャーになる時代にあって、スローペースではありながらも、さまざまな「人と人」を確実につないでいくのが出版物なのだなと、その重要性を改めて強く実感した。さらにこれは、もうひとつ別の媒介性である「世界をつなぐ」という観点から見ると、ある知的世界(メディア論・社会学)と他の知的世界(編集工学、模型製作、建築の世界)が『模型のメディア論』を介してつながったと、(少しおおげさには)記述できるかもしれない。
 *
 最後に、本書の読書会がいくつか計画されているので、告知させていただきたい。現時点(2017年11月1日)のところ、東京と名古屋の2カ所が決定している。希望される方はどなたでもご参加いただけるので、松井までご連絡ください(hirodongmel@gmail.com)。それぞれの幹事につなぎます。
・2017年12月17日(日)14:00-17:30、東京大学・本郷キャンパス
 (主催・モノ-メディア研究会、幹事・近藤和都さん、評者・谷島貫太さん、永田大輔さん)
・2018年1月27日(土)、愛知淑徳大学・星ヶ丘キャンパス
(幹事・宮田雅子さん、評者・伊藤昌亮さん、村田麻里子さん)
 他に、関西(大阪市立大学)でも2018年春までに計画されているので、決まり次第、筆者の「ツイッター」(https://twitter.com/himalayan16)などで告知します。

 

一生の趣味として楽しもう!――『まるごとアコギの本』を書いて

山田篤志

 本書は、私が運営するサイト「初心者のためのアコースティックギター上達テクニック」(http://ac-guitar.com)にこれまで書いた原稿に加筆してまとめたものです。私にとって書籍の執筆は初めての経験で、右も左もわからない状態で書き始めました。実際のところは既存のサイトをもとに執筆したので、一から企画や構成を考える必要もなく、素人の私でも執筆はそれなりに進み、楽しい作業になりました……と思っていたのですが、それは私だけだったようなのです。

 7月31日に本書が発売されて、すぐにお盆がきました。毎年、お盆には実家に帰省するのが恒例となっていて、今年も妻と2人で戻りました。私の両親も本書のことを気にかけてくれていたようで、当然のように話題になりました。
父:「執筆は大変だったろうね?」
私:「まぁ、そうでもないよ。既存のサイトをまとめ直しただけだからね」
鬼の形相の妻:「そんなことないでしょ。だって、用事を頼んでも執筆中だからって全部断ってきたじゃない。理由を全部締め切りのせいにして、あたかも売れっ子作家になったかのような言い草だったでしょ!!(怒)」
鬼の形相の母:「(私に向かって)そりゃー、アンタが悪いわ!」
私:「えっ、出版おめでとう…じゃなくて!? 俺が悪いの!?」
 まぁ、こんなものです。いまから考えると妻には迷惑をかけていたかもしれませんね。青弓社にも……。この場を借りてお礼を申し上げます。

 さて、本書では「アコギは趣味として楽しいよ、一生の趣味になるよ」ということをわかりやすく解説したかったのですが、本当に読者に伝わっているかどうかが気になるところです。実際には、発売から2カ月がたった現在、「ツイッター」や「アマゾン」のレビューなどで少しずつ反響があり、まあまあ伝わっているなという感じで、ホッとしています。
「基本部分から歴史やコード理論など非常に勉強になりました」
「アコギに興味を持たせる、さらにはアマチュア演奏家として弦楽器に興味を持たせてくれる本としては非常に秀逸」
「リズムを意識したり、耳コピにチャンレジ、さらにはオリジナルの作曲まで視野を広げることが可能になる本だと思う」
 こういうご好評をいただくことは書き手冥利に尽きます。本当にありがとうございます。

 本書の「あとがき」でも書いたように、アコギを趣味としたとき、その可能性は2つあると思っています。
 1つ目は人生を豊かにするということ。豊かな人生といっても人それぞれで、私が押し付けるようなものでないことは十分に承知していますが、趣味を持つと人生が豊かになるといいます。まったくそのとおりだと思います。
 趣味の定義も難しいのですが、私は「自分が没頭できるもの」と考えています。人に認められなくても、お金にならなくてもいい、忙しいときでも時間を作ってまでもやりたい、たとえ上達しなくてもそれをやっていると楽しい、仲間が増えて一緒に盛り上がりたい……そういったものが趣味なのでしょう。
 例えば私の場合、友人の誕生日会で「「ハッピーバースデートゥーユー」を弾いて!」と言われればすぐに、子どもに「「アンパンマンのマーチ」を弾いて!」と言われればその場で、弾いてあげたいのです。うまく弾けなくてもいいのです。その場が盛り上がって、みんながハッピーな気持ちになることが大事だと思っています。
 また、過去に私のサイトを見た人から、こんなメールをいただきました。
「このサイトを見て基本の大切さを切に感じました。C→F→Cのチェンジが2週間でなんとか弾けるようになり、はずみがつきました。これからも貴サイトでレッスンを続けていきます。病院でボランティアをしているので、早く上達して、入院している方を少しでも元気づけられたらと思っています」
 うれしかったですね。とても穏やかな気持ちになりました。

 2つ目は自分の演奏をインターネットで世界中に配信できること。自分の演奏を録音したり動画に撮ったりして発表することも簡単にできます。そのあたりのコツも本書に書きました。もちろん私もSNSを使って楽しんでいます。会ったこともない外国の人と、翻訳ソフトと闘いながらメールでやりとりしています。趣味をきっかけに世界中の人とつながることは本当にすばらしいことです。

 アコギは奥が深いのでプロレベルまで極めようとすれば難しいのですが、趣味での演奏なら弾けるようになるまで時間はそれほどかかりません。このような可能性があるので、「音楽が好き、カラオケが好き」という方はぜひ本書を読んで、アコギを趣味としていただきたいのです。
 さらに、本書で書けなかったことも含め、私が運営するサイト「初心者のためのアコースティックギター上達テクニック」で少しずつですが更新しています。興味がある方は、ぜひのぞいてみてください。
 みなさんのアコギライフがすばらしいものになるよう切に願っています。

 

ロンドンでは本書を片手に巡り歩いてほしい――『ブリティッシュロック巡礼』を書いて

加藤雅之

「いま思えば、行っておけばよかった」――年を経るにつれて、こんな後悔が増えてくるのは自然の成り行きだろう。
 学生時代に熱心に聴いたブリティッシュロックを本場で体験しようと思ったのは、ロンドンに転居してから3年がたち、娘の学校への送り迎えから解放されてからだ。ロンドンに住んでいるのだからいつでも伝説のロッカーたちのコンサートへ行けるだろう、そんな甘い考えを捨てることになったきっかけは、ファンだったクリームのベーシスト、ジャック・ブルースの死(2014年10月25日)だった。
 調べてみると、ジャックはさまざまなフォーマットで6回は来日している。仕事で忙しかったり、ジャズやクラッシック、はたまたイタリアポップスなどロック以外の音楽に関心が移っていたり、と理由はいろいろある。ただ、改めて思い知ったのは、演奏する側にも聴く側にも、時間は迫っているということだ。それから、「冥途の土産ツアー」と勝手に銘打って、すでに70歳前後になっているロック黄金期のアーティストのコンサートに通い詰めることにした。
 これと並行して、いわゆるロック聖地巡りも始めたのだが、ここでも時の流れの残酷さを感じることになる。忘れ去られて正確な所在地が不明だったり、再開発で取り壊されたり。はたまた富裕層向け分譲地にあるジョン・レノンやリンゴ・スターの旧宅はセキュリティー強化で近寄ることさえ不可能になっていた。
 そこで、もしロックファンがロンドンへ行ったり住んだりする機会があれば最後のチャンスを逃さないでほしい、そんな思いに駆られて執筆したのが本書である。
 コンサート通いや家探しを続けるなかで、いろいろわかってきたことも多い。
 音楽的に言えば、世界的に成功したビートルズのようなバンドでもイギリスでは流行歌の一種ととらえられ、その時代の刻印が強く押されていること。言い換えれば、それ以降の世代以外からは古い音楽とみなされて、敬遠されてしまう。日本やアメリカでのように世代を超えてビートルズが聴かれるということはなく、さらに言えば、現在ではロックそのものが時代がかった音楽とみなされている印象を受けた。
 また、アメリカで成功してイギリスに戻ってこない人間に対する冷たさにも驚いた。アメリカに移住してしまったジョン・レノンやスティングに対する扱いは、日本ではちょっと想像できないだろう。ロックだけではない。イギリスが生んだ偉大な映画監督、チャールズ・チャップリンやアルフレッド・ヒッチコックについても、二人が生まれ育ったロンドンには記念館など存在しない。ハリウッドで成功したのが気に入らないのだと思われる。
 そして、イギリス人は英語を母語とする白人であっても、その人間がイギリス人か否か、を日本人が想像する以上に気にする。日本にも通じる島国根性とでも言うのだろうか。
 コンサートに行って衝撃を受けたのは、その飲酒文化。まあ、飲むこと飲むこと。ストイックな音楽性をもつキング・クリムゾンのような例外を除き、ほとんどのロックコンサートは酒が飲めるところで音楽もやっているぐらいに考えたほうがいい。演奏中も周りの観客がビールを買いに行ったり、トイレに行ったりと、ちっとも落ち着かないことも多かった。だが、それが本場、イギリスでのロックの聴き方なのだ。
 ロックの聖地巡りでは、外部の人間がめったに足を踏み入れない郊外の田舎町なども訪れた。そこでしばしば感じたのは、ロンドンの街中ではなかなか味わえない「よそ者」に対する疑わしげな視線だ。帰国直後の2016年6月の国民投票でイギリスは欧州連合(EU)脱退を決めてしまったが、排他的な民族主義の一端を垣間見た気がした。
 執筆のためいろいろ調べているうちに初めて知ったエピソードも多い。そのなかで特に面白いと思ったのは日本との関係だ。黄金期のブリティッシュロックに直接関わった日本人としては、いずれも末期のフリーとフェイセズに参加した山内テツ(b)が有名だが、カーブド・エアのカービー・グレゴリー(g)をたどっていくと加藤ヒロシ(g)という名前に行き当たった。カービーが巻き込まれた偽フリードウッド・マック事件に関連するストレッチというバンドに一時加入していたからだ。この加藤さん、リンド&リンダーズという関西のグループ・サウンズのメンバーで、元キング・クリムゾンのゴードン・ハスケル(b,vo)とジョー(JOE)というバンドも組んでいる。そこで、プロレスラー藤波辰巳のテーマ曲「ドラゴン・スープレックス」を発表したり、山口百恵のロンドン録音のアルバム『GOLDEN FLIGHT』でプロデュース・演奏したりと、なかなかの活躍ぶりなのだ。
 また、加藤さんは元Tレックスのスティーブ・ティックとも一時活動したが、同時期にティックとセッションしていたのが高橋英介(b,g)という人で、グループ・サウンズのZOO NEE VOOの出身。奥深い世界である。
 こういった本書に盛り込めなかったエピソードや写真を、書名と同じ「ブリティッシュロック巡礼」のブログhttps://ameblo.jp/noelredding/で順次公開しているので、興味がある方はぜひのぞいてみてほしい。