長いあいだ魅せられ続けて、一冊に――『風俗絵師・光琳――国宝「松浦屏風」の作者像を探る』を書いて

小田茂一

 制作時期も作者も不詳の六曲一双の作品『松浦屏風(婦女遊楽図屏風)』(国宝。大和文華館蔵)の画面には、遊女や禿など18人が、何人かずつのグループを構成しながら描かれています。筆者はこの『松浦屏風』に半世紀近くにわたって関心をもち続けてきました。『松浦屏風』が展示される季節には、時折、奈良の大和文華館へと足を運びました。そしてこれとあわせて、尾形光琳作品を鑑賞することを通じて、今回の著作の枠組みを形成している仮説の一つずつが時間をかけて積み重なってきたと言えます。一双の屏風に展開されている多様な意匠を、光琳との関連で解き明かせるのではと考察したのが、本書のベースとなる内容です。
『松浦屏風』の遊女たちの面立ちや手指の表情などは、同じ大和文華館所蔵の光琳作品『中村内蔵助像』(1704年)の、内蔵助の顔貌や指先の繊細な表現法に似通った描き方になっているように感じられました。そしてまた、一双の画面に何株ずつかの燕子花が組み合わされ、繰り広げられている光琳作品『燕子花図屏風』(根津美術館蔵)とも、『松浦屏風』は近似的な画面構成であるように見えていました。『燕子花図屏風』に描かれる燕子花の配列パターンは、金箔地に人物群を並置した『松浦屏風』の画面では、華やかな小袖をまとった遊女たちへと姿を変え、画面に強いメリハリをもたらしているように思われます。『松浦屏風』もまた、『燕子花図屏風』と一対になる作品として尾形光琳によって構想され、18世紀初頭前後の元禄期に相次いで描かれたのではないかと推察するに至りました。本書に記したそれぞれの仮説は、何かの拍子にふと感じ取った一つずつのイメージの積み重ねがベースになっています。
 晩年の光琳が画房を兼ねて京の街なかに建造した大きくゆったりとした住まいが、熱海のMOA美術館の敷地内に復元されています。これを見るとき、光琳がひとりの「風俗絵師」として、かなりの成功を収めていたことが感じ取れます。この住居の2階には、広い画室が設えられています。
『松浦屏風』と光琳の連関をたどっていく過程で最もヒントがほしかったのは、作品の制作時期についての絞り込みでした。作品が描かれたのは18世紀初頭前後の元禄期ではないかという推定の根拠は、『松浦屏風』の画面のなかにありました。作者はカルタをめぐって、粋な趣向を凝らしていたのです。本書では、このことが最後に気づいた事柄でした。画面に描かれているカルタは「天正カルタ」ですが、この「天正カルタ」に「三つ巴」マークが追加されることで「うんすんカルタ」へと変遷しました。そして作者は、「うんすんカルタ」に新たに加えられたのと同じ「三つ巴」を、カルタに興じる遊女がまとう打掛図柄に反復文様として描出しているのです。このことは『松浦屏風』の作者が、カルタのこの大きな変化に着目しながら、カルタに興じている人物の衣裳図柄として適用するアイデアを構想したものと推察しました。この事実は、作品が描かれたであろう時期を限定してくれると考えます。
 本書では、カルタをはじめ、江戸時代の「風俗」的事象についての把握が、論を進めるうえでの大きな要素になっています。しかし筆者にとっては、十分な理解を持ち合わせていない分野です。また「風俗」は、いわば生活文化を具現化したものといえ、大衆の営為でもあるがために、各時期のキーとなる情報や記録は、それほど多くは残されていません。しかし、風俗を反映させながら描かれているこの『松浦屏風』を解明していくにあたって、たとえば衣服や髪形の流行とその変遷、遊里の日常のありようなどへの知見は、描かれた時期と作者像をイメージするうえで多いに越したことはないと考えます。このような事情もまた、これまで『松浦屏風』について十分な議論がおこなわれてこなかったことにもつながっていると感じています。
『松浦屏風』の描写内容と光琳芸術とのつながりを積み重ねていく取り組みを続けているあいだに、世のなかのデジタル化は急速な進歩をとげました。一枚の画面に面差しが似た人物が繰り返し登場する『松浦屏風』の「異時同図」としてのありようや、尾形光琳作品との顔貌などの近似性といった事項の検証は、たとえば「顔認識システム」を援用しながら、より精緻にできるかもしれないとも感じています。IT利用による比較方法などについては意識しながらも、今回は触れることがありませんでした。本書での検証内容は、あくまで肉眼での見え方による評価に基づいたものなのですが、デジタル技術を用いた図像解析なども、今後の研究を進めるうえでの課題のひとつかもしれないと考えています。

 

棚田にも犬像にもその土地と切り離せない物語がある――『犬像をたずね歩く――あんな犬、こんな犬32話』を出版して

青柳健二

「青柳さんには、棚田の写真も犬像の写真も同じようなものなんですかねぇ?」
 ある新聞社から犬像の取材を受けたとき、記者からそう聞かれて、私はハッとしました。
 実は数年前、犬像の写真を撮るようになったとき、私の写真を見てくれていた人からは「犬像?」とけげんな顔をされたのです。それまで撮っていた棚田の風景写真と犬像の写真では、被写体として大きく違っていたからでした。
 ある雑誌に企画を持ち込んだとき、担当者が「犬像」の意味がわからないようだったので、「渋谷駅前にありますよね、忠犬ハチ公の像が。あんな感じの犬の像なんですが、全国にたくさんあるんです」と説明してようやくわかってもらえたのですが、しかし今度は、あからさまに、犬の像なんか写真に撮る価値があるのか?、それのどこがおもしろいんだ?というふうに感じているようでした。なので、企画は当然ながら没でした。
 それまで普通にあったもののなかに新しい価値を見いだすのが写真家の仕事だと思っていますが、その端くれでもある私は、他人にその新しい価値を知ってもらうのは難しいこともわかっています。
 実際、棚田を撮り始めたときも同じだったのです。いまでこそ、棚田という言葉も市民権を得てすぐわかってもらえますが、1995年頃は、棚田なんて10年もすれば全部なくなってしまう過去の遺物くらいに思われていたし、「棚田って何ですか?」と同じように聞き返されていた時代もあったのです。
 でも私のなかでは、棚田にも犬像にも、何か共通するものがあるとうすうすは気がついてはいました。それが言葉にならなかったのですが、他人に指摘されて、その思いは確信に変わりました。
 棚田にも犬像にもその土地と切り離せない物語がある、ということなのです。棚田の場合、その土地の歴史や地形が、雲形定規のような棚田の形を決めているといってもいいでしょう。犬像も、その土地と切り離せない物語をもっています。犬像が「そこ」にある意味が私には大切なのです。
 私は、その土地がもつ物語を探して歩くのが好きなようです。全国各地に点在する物語を探して、それをまとめるという作業は、棚田も犬像も同じかなと。
 ある犬像は、街のキャラクターになったところもあります。たとえば、静岡県磐田市のしっぺい太郎の物語から、ゆるキャラ・しっぺいが、奈良県王寺町の聖徳太子の愛犬・雪丸の物語からは、ゆるキャラ・雪丸が誕生しています。その土地独特の犬たちが、現代にゆるキャラとしてよみがえっているのです。何もないところから作り出されたフィクションの犬ではありません。もちろん誕生当時はフィクションの犬もあったかもしれませんが、それが何百年もの歳月をかけて、その土地の歴史に組み込まれています。
 だから、どこにあってもいい犬像(土地とのつながりがない犬像)には、あまり興味がわきません。今回の書籍での私なりの「犬像」の定義からは外れるからです。例えば、あの携帯電話会社の白い「お父さん犬」の像ですね。その土地に根差した物語がないからです(そもそも、これはコマーシャルなのですが。もちろん、「お父さん犬」も何百年かたてば歴史になるかもしれませんが)。
 だから犬像は棚田と同じように、町おこしに結び付きます。土地独特の魅力を、棚田や犬像が代表していると言ってもいいかもしれません。実際、「しっぺい」も「雪丸」も、町おこしに一役買っています。
 ところで、人の顔の判別には「平均顔」説というのがあります。例えば、日本人なら日本人の顔の平均を知っているので、そこからどれだけ外れているかの「差」で判別しているということです。外国人が日本人の顔がみな同じに見えるというのは、日本人の「平均顔」を知らないからで、反対に、日本人は外国人の「平均顔」を知らないので、みな同じに見えます。
 海外旅行すると、その国の滞在が長くなるにしたがって、その国の人の顔の区別がつきやすくなるという体験は私にもあるので、この説は説得力があります。
 多くの犬像を見て回ることで、その犬像の「平均顔」がわかってきます。そのとき、個々の犬像の全体における位置というのが客観的に見えてきます。今回の著書で、13章のカテゴリーに分けたのも、それが理由です。平均値がわかれば、個々の犬像の意味というか、性格もわかるということなのです。
 読者のみなさんには、本書を持って犬(忠犬・名犬)にゆかりがある場所をたずねる「聖地巡礼」をしてみてはいかが?、と提案します。
 多くを回ることで、先に言ったように、犬像の平均値がわかり、個々の犬像についてもより客観視できるようになるだろうし、こんなにもいろんな意味をもっている犬像があるのか、こんなにもバリエーション豊かな犬像の物語があるのかと、驚くことがたくさんあると思います。そこから、犬と人間の関係、もっと言えば、動物や自然との関係なども見えてくるのではないでしょうか。

 

最終回 ユーミンの生まれた街で――八王子と国道20号線/国道16号線

塚田修一(東京都市大学・大妻女子大学非常勤講師。共著に『アイドル論の教科書』『失われざる十年の記憶』(ともに青弓社)、『戦争社会学ブックガイド』(創元社)など)

八王子と国道20号線

 先頃上梓した『国道16号線スタディーズ』(青弓社、2018年)で扱いきれなかった国道16号線(以下、16号と略記)沿いの地域について気になる読者がいるかもしれない。そんな地域の一つ、東京都八王子市について、この場を借りて考察してみよう。
 八王子の性格にとってまずもって重要なのは、甲州街道、すなわち国道20号線(以下、20号と略記)である。
 甲州街道の宿場町として栄えた八王子は、交通の要衝でもあり、特に江戸時代後期から明治にかけては、上州や甲州からの生糸が、甲州街道を通って八王子に集まった。また、明治期の八王子は、西陣や桐生、福井などと並ぶほどの、国内でも有数の絹織物産地となる。その商品は「八王子織物」として全国に流通した(1)。

ユーミンと20号線

 この八王子で呉服商として財をなしたのが「荒井呉服店」だった(1912年創業)。アーティスト・松任谷由実の実家である。だから、ユーミンを規定しているのもやはり20号なのだ。彼女の楽曲がもつ「中産階級」性、大月隆寛の指摘を借りれば、「ただ単にカネを持っている、というのでなく、ある程度の「趣味」を支えうるだけのある程度のカネを持てる生活基盤を持ち、またそのカネを正しく「趣味」の分際を守ってゆく程度に使ってゆく、そんな生活上の価値観がぶれることのないある階級(2)」性は、この甲州街道=20号を通ってもたらされたものにほかならない。
「子供の時は自宅とお店がうなぎの寝床みたいに通りを二つ、表通りが甲州街道っていう国道20号線と、裏通りと、間が100メートル以上あるかしら。そこに細長くあって(3)」と語る、20号に面したこの家で、彼女の感受性は養われたという。
「家がイマジネーションかきたてられる場所でもあったっていうか。空想するのが好きな子だった。私のね、全国区の感じっていうのは、その頃の影響かもしれない。すごくたくさん大阪や京都の人の出入りがあったんで、関西弁とか関西ノリっていうのに慣れてたから(4)」
 また、デビュー後のユーミンは、都心からの帰り道にもやはり、都心と八王子を結ぶこの20号を通ることになる。ただし、彼女は20号の高速道路版である中央自動車道を使うことのほうが多かったのかもしれない。よく知られているように、都心から八王子に向かう中央自動車道の風景を歌ったのが「中央フリーウェイ」(『14番目の月』〔1976年〕収録)である。
 松任谷正隆からプロポーズを受けたのもやはり、20号の近くを走るクルマのなかだったようだ。
「〔松任谷正隆からの〕プロポーズも、クルマの中だった。送ってくれる途中でね。中央フリーウェイを八王子で出ちゃうとわりとすぐなんだけど、府中で出て、高幡不動のほうを通って帰ることがあったわけ。気にいってる景色があって、あちらに友達が住んでるということもあったしね。府中で出て、造成地みたいなところ通るときに彼がいったような覚えがあるなあ(5)」

八王子と16号

 だが、それでも気になるのは、八王子、そしてユーミンにおける16号の存在である。ユーミンの実家の「荒井呉服店」は、ちょうど20号と16号とが重なっている(だから、20号でもあり16号でもある)区間に面しているのである(写真1・2)。

写真1 八王子駅近くの国道20号線。この先から20号と16号が重なる(2018年4月26日撮影)
写真2 国道20号線/16号線に面した荒井呉服店(2018年4月26日撮影)

 明治期までの八王子で、現在の16号は産業道路だった。八王子に集まった生糸は、ここから現在の16号を通り、横浜へと運ばれ、諸外国へ輸出された。だからそこは「絹の道」や「日本のシルクロード」と呼ばれた。八王子市内の16号の近くには「絹の道資料館」がある。
 しかし、16号についてのユーミンの認識はそれとは異なるようだ。

ユーミンと16号線

 ユーミンが16号を歌った曲に、「哀しみのルート16」(『A GIRL IN SUMMER』〔2006年〕収録)がある。この曲について、ユーミン自身がこうコメントしている。
「ルート16、国道16号線というのは、横浜や横須賀と厚木、座間の基地を結ぶ米軍の物資を輸送する軍用道路でした。八王子の生まれで、基地も近かったし、私があの頃感じた独特のキッチュ感を、歌に織り込んで……。(略)思い浮かんだのは、国道を疾走する車。フロントガラスを叩きつける激しい雨、土砂降りの雨。昼間なのか、夜なのか、土砂降りの雨でわからない。時刻がわからない。それに前も、先も見えない。募る不安、焦燥感。今日限り、これっきり、という最後の別れのドライブ…………(6)」
 まず、「16号は軍用道路だった」という彼女の認識を確認しておきたい。『国道16号線スタディーズ』の第5章「「軍都」から「商業集積地」へ――国道十六号線と相模原」(塚田修一/後藤美緒/松下優一)でも記述したが、ベトナム戦争中は、アメリカ軍相模原補給廠で修理された戦車がこの道を通って横浜ノースドックへ運ばれた。「わりと湘南方面に友達がいろいろできて、海とか見に行ってたわけ。クルマ持ってる子とじゃないと付き合わなかったから(7)」というユーミンが、友達の車で送り迎えしてもらっていたとすれば、この「軍用道路」としての性格が濃かった時期の16号を通っていたはずである(9)。
 それにしても、「キッチュ」という評価が気になる。確認しておくが、ユーミンはアメリカ軍基地に対しては好意的である。少女時代に立川基地や横田基地に入り浸っていた思い出を語っているし(9)、立川基地を歌った楽曲として、「雨のステイション」(『COBALT HOUR』〔1975年〕収録)や「LOUNDRY――GATEの想い出」(『紅雀』〔1978年〕収録)があることもよく知られている。
 しかしユーミンは、それなりに身近であったはずの16号沿いの神奈川のアメリカ軍基地については歌わないのだ(10)。そしてそれらの基地を結ぶ16号を「キッチュ」と感じていたのである。実際、そんな16号を、ユーミンは「中央フリーウェイ」の実に30年後まで歌わなかった。
 ユーミンにとっての「アメリカ軍基地」とは、あくまで立川や横田のことなのだ。神奈川のアメリカ軍基地、そしてそれを結ぶ16号は、ユーミンにとっては、特別意識することなく、「素通り」するものとしてあったのだ。
 ――いや、こうしたユーミンの振る舞いは、多分、正しいのだ。この「意識されない」「素通りされる」というあり方こそ、本書で描き出した16号のあり方の一つ――本書第7章「不在の場所――春日部にみる「町」と「道」のつながり/つながらなさ」の鈴木智之の言葉を借り受ければ、「不在の場所」――にほかならないのだから。
 そして、「2000年代」以降に浮上する、16号のロードサイドのどこか殺伐とした空気感を「16号線的なるもの」と呼んでその背景を考察し、さらにはそこを生きるトラックドライバーについても考察した(第3章「幹線移動者たち――国道十六号線上のトラックドライバーと文化〔後藤美緒〕)にとってみれば、ユーミンが、2000年代になって「最後の別れのドライブ」の舞台として16号を歌ったこと、しかもその歌詞には「長距離便(トラック)」が歌い込まれていることに、ちょっとした必然性を感じてしまうのである。


(1)八王子市市史編集委員会編『新八王子市史 通史編5 近現代』上、八王子市、2016年、136―138ページ
(2)大月隆寛「みんな〈ユーミン〉になってしまった」『80年代の正体!――それはどんな時代だったのか ハッキリ言って「スカ」だっだ!』(別冊宝島)、JICC出版局、1990年、46ページ
(3)「永遠の不良少女と呼ばれたい」、角川書店編「月刊カドカワ」1993年1月号、角川書店、24ページ
(4)同記事23―24ページ
(5)松任谷由実『ルージュの伝言』(角川文庫)、角川書店、1984年、118―119ページ
(6)BARKS「最新作『A GIRL IN SUMMER』を松任谷由実本人が全曲解説!」(https://www.barks.jp/news/?id=1000023346)
(7)前掲『ルージュの伝言』55ページ
(8)多くの人は意識しないだろうが、「海を見ていた午後」(『MISSLIM』〔1974年〕収録)で歌われ、お洒落なデートスポットとなった横浜・山手(正確には根岸)のレストラン「ドルフィン」の近くには16号線が走っているのだ――八王子と「ドルフィン」を結ぶ道はこの16号線である。
(9)「八王子の家から、20分ぐらいで立川とか横田のベースへ行けたわけ。(略)だいたいはハーフの友達とか、みんな16ぐらいでもうクルマ持ってたから、そういう友達に迎えにきてもらうのよ。ベースに行くとPXでレコードも買えるのね。彼女たちはおしゃれとか男の子に夢中で、どうしてそんなにレコード買いあさるのよ、って変な眼で見てたけど、私はもうレコードに夢中。輸入盤は840円ぐらいだったんじゃないかな」(前掲『ルージュの伝言』42―43ページ)。
(10)岡崎武志は、「天気雨」(『14番目の月』〔1976年〕収録)に歌われる「白いハウス」は、米軍座間キャンプ内の米兵住宅のことではないかと推測している(岡崎武志『ここが私の東京』扶桑社、2016年)。ただし、それは16号線ではなく、「相模線にゆられて」ながめているものである。

 

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第16回 キリシタンと宝塚歌劇の相性――『MESSIAH』を中心に

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 月組のトップ娘役、愛希れいかのサヨナラ特集をメインにした『宝塚イズム37』が書店に並んではや1カ月、そろそろ年末(12月1日刊行予定)の『38』に向けて始動する季節になってきました。とはいえ、例年にない酷暑の夏、なかなか頭の切り替えができません。
 宝塚大劇場では現在、花組のトップスター、明日海りおが天草四郎時貞に扮したミュージカル『MESSIAH(メサイア)――異聞・天草四郎』(作・演出:原田諒、7月13日初日)を上演中です。
 天草四郎時貞は江戸時代初期、幕府による禁教令が敷かれたあとも隠れキリシタンの人々が多くいた九州・天草の地に流れ着き、島原藩主のキリシタン弾圧と過酷な年貢の取り立てに天草そして島原の人々のために立ち上がり、救世主(メサイア)といわれたカリスマ的存在の少年です。2018年6月30日に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に決まり、天草四郎時貞が総大将として立てこもった原城跡も指定されるという絶好のタイミングで初日を迎え、明日海の渾身の熱演もあって公演は大いに盛り上がっています。
 とはいえ2017年末、明日海率いる花組が『ポーの一族』を上演する直前にこの公演が発表され、『ポーの一族』の主人公エドガーが14歳、天草四郎時貞も16歳前後、トップスターの明日海に少年役が続くということと、いまなぜ天草四郎なのかと上演に疑問を投げかける人も多かったのですが、世界遺産が発表されたいまとなっては原田の慧眼と歌劇団の先見の明に納得せざるをえなくなったことでしょう。原田は、倭寇の頭目・夜叉王丸が天草に漂着して天草四郎時貞と名乗り、隠れキリシタンの人々の熱い信仰に感動して、弾圧する島原藩主に対して立ち上がる決意をするという新解釈でストーリーを展開、天草四郎時貞の年齢を実際よりもかなり上の20歳前後に設定しました。これなら明日海ファンもすんなりと受け入れられる設定です。そのおかげでこれまでに知られた伝説とはかなり趣が異なった作品に仕上がっているともいえますが、無神論者の少年がなぜ人々のために立ち上がり、人々はそれに従ったのかという説明には納得できるものがあり、信仰とは何かを改めて考えさせられました。
 一方、天草四郎時貞はこれまでにも何度か宝塚歌劇で取り上げられています。1972年の花組公演『炎の天草灘』(作・演出:阿古健)では甲にしき、83年の月組公演『春の踊り――南蛮花更紗』(作・演出:酒井澄夫)ではショーの一場面ですが大地真央が演じています。阿古版は、天草四郎時貞が立ち上がるまでを描いていました。それに対して原田版は、原城陥落シーンのあとエピローグも含めた完全版。1時間35分でここまでまとめた手腕はさすがでした。とはいえ、甲も大地もいずれもその時代を代表する宝塚のカリスマスター。宝塚歌劇には悲劇の美少年がことのほか似合います。
 ついでにキリシタン大名と宝塚という観点で上演歴を調べてみると、キリスト教を日本に伝えたといわれるポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルの日本渡来400年記念と銘打った歌劇『高山右近』(作・演出:香村菊雄)を1949年に上演していました。神代錦がキリシタン大名の右近を演じ、星組で初演、雪組で続演しています。それに関連して63年にはローマ遣欧少年使節の悲哀を描いた大作、ミュージカル・ロマンス『不死鳥のつばさ燃ゆとも』(作:平岩弓枝、演出:春日野八千代)を上演しています。春日野が自ら中浦ジュリアンに扮して主演した話題作で、これも雪組と月組で2カ月連続上演されています。
 迫害のなか、長年にわたって生き続けた隠れキリシタンのピュアで強い信仰心は、どことなく宝塚歌劇自体の特殊性と通じるところがあり、宝塚でもたびたび取り上げられてきたようです。そのあたりを考えても、いま天草四郎時貞は宝塚歌劇で上演する絶好のタイミングなのかもしれません。「清く、正しく、美しく」は創始者・小林一三が提唱した宝塚のモットーですが、これも隠れキリシタンの精神に共通するところがあり、謎多き天草四郎の真実が、宝塚というフィルターを通して透けて見えてくるのも面白いところです。
 天草四郎時貞と隠れキリシタンからとんでもないところに飛び火してしまいましたが、宝塚歌劇はそれくらい様々なジャンルの作品を平気で羅列して上演するところです。エリッヒ・マリア・レマルクの『凱旋門』があるかと思えば、萩尾望都の『ポーの一族』があり、モンキー・パンチの『ルパン三世』まで。そこに、いかに宝塚らしさを見いだすかが作者の腕のみせどころなのです。
 2018年後半は、いまや『ベルサイユのばら』以上の切り札となった空前のヒットミュージカル『エリザベート――愛と死の輪舞(ロンド)』の再演、レオナルド・ダ・ビンチの愛憎を描いた新作『異人たちのルネサンス』、そして人気ミュージカル『ファントム』再演と続きます。安定路線のあいだに少しばかりの冒険を加えて、新鮮さを保持していくというやり方は、ここ数年のパターンです。19年以降も当分はこの方針が続いていくようです。
 トップスターの布陣は、2017年の宙組・朝夏まなと退団以降はまだ動きはありませんが、次期トップスター候補が出そろってきた19年には一気に各組の新陳代謝がありそうです。『宝塚イズム38』も、新しい動きを見据えながら準備をしていきます。ご期待ください。

 

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第8回 国道16号線の団地とニュータウンをめぐる――八千代市周辺を学生とドライブする

佐幸信介(日本大学教授。共著に『失われざる十年の記憶』〔青弓社〕、『触発する社会学』〔法政大学出版局〕など)

はじめに

 国道16号線(以下、16号と略記)を白井市や船橋市、八千代市、千葉市のあたりを車で走っていると、様々な「団地」や「ニュータウン」に出合うことができる。古いものも新しいものもある。
 郊外を論じる際に多摩ニュータウンが取り上げられることが多い。『失われざる十年の記憶――一九九〇年代の社会学』(青弓社、2012年)のなかで「郊外空間の反転した世界」を論じたときも、私自身が想定していたのは多摩センター周辺の郊外だった。しかし、16号を補助線にしてみると、あらためて東京以外の神奈川、埼玉、千葉にある多様な郊外型の集合住宅群の空間的なボリュームの大きさに気づかされる。16号は、団地やニュータンの歴史をたどり直すことができる格好のフィールド・ロードである。
「住宅55年体制」という言葉がある。戦後政治の55年体制に意味を重ねた言い方で、住宅の分野でも「戦後体制」が1955年に始まったことを指している。住宅金融公庫(1950年)、公営住宅法(1951年)に加えた住宅公団の設立(1955年)の3本によって戦後の住宅政策の整備が進められてきた。この戦後体制は、持ち家政策と住み替え(ハウジング・チェーン)によって、住宅階層を形成した。そして、「持ち家-ハウジング・チェーン-住宅階層」の垂直的な構造は、住むための空間を郊外へと水平的に拡張した。
 しかし、住宅公団は1981年に解散して、その後、住宅・都市整備公団(1981年)、都市基盤整備公団(1999年)、さらに都市再生機構――UR都市機構(2004年―)へと制度再編を経ることになる。現在では、ポスト戦後とか、ポスト・バブルといった言い方がなされ、90年代の後半以降、住宅55年体制のシステムは変容して、住宅の供給と需要のほとんどが市場の論理のなかで進められる。その結果、都市空間の新たなジェントリフィケーションの進行や社会的格差を生み出した。住宅も空き家問題をはじめシステム内が虫食い状態の空洞化が生じている。また、団地やニュータウンの高齢化も問題となっているが、それは人口的な高齢化だけでなく、住空間もまたエイジングするのだということをあらためて思い知る。

ドライブ1――八千代台団地に向かう

『国道16号線スタディーズ』の拙論「死者が住まう風景」を書くために、八千代市や佐倉市に在住している学生にも同行してもらい、八千代市周辺を車で2回ほどドライブした。1回目の取材は主に霊園をまわり、2回目は団地やニュータウンにまで範囲を広げることにした。霊園については、「死者が住まう風景」で検討しているので、このリレーエッセイでは団地やニュータウンに触れてみようと思う。
 まずは、公団住宅で最も古いものの1つである「八千代台団地」。1957年に入居が始まった。京成電鉄・八千代中央駅には石碑がある。テラスハウス型で、2階建ての住戸が連なる住棟がおよそ30棟。こじんまりとした集住空間である。八千代中央駅から5分ほどのところにあり、住宅街のなかにたたずんで建っているという印象。ここを見つけるのに多少迷ったが、八千代台団地を目にしたとき、ある種の感慨を覚える。確かに古くなっているが、同時期の阿佐ヶ谷住宅と同様に、50年代の住宅公団は高層の団地とは別のプランに挑んでいたことがうかがえる。

写真1 八千代中央駅前にある石碑(筆者撮影)
写真2 八千代台団地(筆者撮影)

 住棟の配置はシンプルだが、集住することが集落の形へと空間的に拡張していきそうな可能性があったのでないかと感じる。阿佐ヶ谷テラスハウスもそうだが、この団地もモダニズム的で、もしこの方向性が集合住宅の1つの軸になって試みがおこなわれていたら、私たちの戦後の住む経験も違うものになっていたのではないか。
 以前、仙台市の市営住宅をプランニングした小野田泰明さんに案内してもらったことがあるが、その集合住宅も集落的だった。八千代台団地を前にして、仙台の市営住宅のことを思い出すと、途絶えてしまった可能性の重要性を感じる。積層型の団地が★戦後的:傍点★な形式として量産されてきたのに対して、仙台の市営住宅のような集合住宅の公的な試みは、熊本の県営保田窪団地や、岐阜のハイタウン北方など限られたものしかない。

ドライブ2――高津団地・村上団地・米本団地

 次は、高津団地、村上団地、米本団地。ある意味で典型的な団地である。
 高津団地は1972年に入居開始。16号から成田街道を習志野方面に向かった、左側のエリアに造成されている。陸上自衛隊習志野演習場がすぐ近くにある。村上団地は、76年に入居開始。16号と東葉高速鉄道・村上駅が交叉するエリアに立っている。この団地は、長期にわたって建設されていて、92年まで新しい住棟が建設されていたようだ。米本団地は、70年に入居開始。16号沿いに立ち、村上駅や勝田台駅との間をバスが運行している。駅が徒歩圏内になく、16号とともに造成された団地である。
 米本団地、高津団地、村上団地の順に新しいが、立地は米本団地が異質である。丘陵地に林立する住棟群である。また、比較的新しい村上団地の住棟は、高層で立てられているものもあり、高層へと向かった住戸プランをみることができる。
 同行した学生たちの感想は、直接的で辛辣でさえある。「マンションだと直接外とつながっている感覚があるが、3つの団地はどこも敷地内には入っていけないような感じがあり、ここに住むにはフィルターが1つあるような印象」とか、「住んでもいいなあと思えるのは、○○団地だけ。町っぽい雰囲気があって、団地の外ともなじんでいる感じがする」「団地に住んだことなく、イメージがいままでもっていなかったけれど、古くなるというのにもいろいろなタイプがあるということがわかった」など。

写真3 高津団地(筆者撮影)
写真4 村上団地(筆者撮影)
写真5 米本団地(16号から、筆者撮影)

 少なくとも現時点では、千葉県の郊外にある団地は、学生にとっては住む対象からは除外されている。かといって集住のスタイルそのものを拒絶しているわけでもないようだ。東京都内の団地をリノベーションしたアートスペースに顔を出す者や、中央区のまだ残っている長屋形式の集合住宅や近くにある銭湯を気に入り、近所付き合いを楽しんでいる者もいたりして、その意味では住むことから派生する経験的な意味の幅を重視している。

ドライブ3――千葉ニュータウン

 印西市から北総線沿いに16号に向かって車を走らせると、これまでみてきた団地とはまったく異質な千葉ニュータウンの風景のなかに入り込んでいく。千葉ニュータウンは、印西市、白井市、船橋市の3つの市にまたがる広域かつ大規模なニュータウンである。駅は、北総線の西白井、白井、小室、千葉ニュータウン中央、印西牧の原、印旛日本医大と6つの駅の範囲におよぶ。計画は1966年に始まり、入居の開始は79年。未造成の更地のエリアがあり、その規模は現在でも拡張し続けている。

写真6 千葉ニュータウン(筆者撮影)

 荒涼感がある平地に突如として現われた千葉ニュータウンの姿に、「千葉ニュータウンだ!」と車内で声が上がる。北総線沿いの道路には、ファミリーレストラン、ラーメン屋、家電量販店、ホームセンターなどが乱立して、ロードサイドの典型的な風景だ。観覧車も見える。「ビッグホップガーデンって、ちょっと元気ないんだよね」「あの観覧車は、小さい頃1回だけ乗ったことがあるけど、あまりいかなくなった」「イオンモールができたことが影響しているんだろうか?」「ここのファミレスは、日本で一番くらいの売り上げらしい」「ここのスパもけっこうはやっていると思う」――団地では言葉少なだった学生たちが、千葉ニュータウンとロードサイドでは、会話が闊達になったことが印象的である。
「千葉ニュータウンといえば、神聖かまってちゃんのこの曲でしょ」と、車のカーステレオにスマートフォンからBluetoothでつなぎ、「26才の夏休み」という曲が流れ始める。
「26才の夏休み」は、千葉ニュータウンを歌った曲だ。ボーカルの「の子」は、千葉ニュータウンで育った。メンバー4人のうち、3人が幼なじみ。神聖かまってちゃんは、ライブのバンドである。そして、「YouTube」と「ニコニコ動画」とSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でつながる。
「神聖かまってちゃんは、映画の『ロックンロールは鳴り止まないっ』(監督:入江悠、2011年)が、最初だった」「高校1年か2年のときだよね。あのときは、何か触れてはいけないバンドだと思っちゃってた。でも、高校のときは、ついつい聞いていた」「またライブにいきたくなった。単なるノリじゃなくて、自分もハラハラする感じってほかにないし」「非リア充とか言われたりするけど、そう言われることに、の子は嫌がっているって聞いたことがある」「激ヤバなバンドだよね」(ちなみに、激ヤバは肯定的表現)
 千葉ニュータウンから生まれたロックは、自動車のドライブにはふさわしくない。車から見える整った風景と、車内の音楽、会話とがねじれだす。それは、私自身が神聖かまってちゃんをめぐる学生の会話から、完全に孤立してしまったからかもしれない。スピーカーから流れる、の子の声は、千葉ニュータウンの「僕」の世界を叫んでいる。

 

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構想20年……――『競輪文化――「働く者のスポーツ」の社会史』を書いて

古川岳志

 初めての著書『競輪文化――「働く者のスポーツ」の社会史』が出版され約4カ月がたちました。競輪の歴史を、競輪を取り巻く日本社会の変化と結び付けながら読み解く内容です。同じ公営ギャンブルの競馬と比べて、競輪は文化として語られることがきわめて少なく、本書は関係者以外が書いたものとしては初めての「競輪史」本になりました。そんな珍しさも手伝ってメディアで紹介いただく機会にも恵まれました(「日経新聞」2018年2月22日付夕刊「目利きが選ぶ3冊」、「西日本新聞」2018年3月4日付「書評」、「日刊スポーツ」〔西日本版〕2018年3月28日付「コラム」、「スポーツ報知」web2018年3月28日「スポーツを読む」)。読んでくださった方からは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通して多くの好意的な感想をいただきましたし、ブログでとても丁寧な紹介記事を書いてくださった方もいます。また、自転車競技オリンピック元日本代表の長義和さん(本書第5章に登場します)は、ご自身のブログに長文の感想を書いてくださいました。たいへん興味深い内容です。みなさんにもぜひお読みいただきたいです。
 本書の「あとがき」にも書きましたが、本書の原型は社会学の博士論文です。出版形式としては一般書ですが、学術書としての質も一定程度保ったものにしたいと考えました。とはいえ類書がないため、競輪世界への案内書・概説書としても読まれるだろうことも意識しました。現状では残念ながら競輪はマイナーです。「競輪って何だろう」と本書を手に取った読者に、まずは競輪を知って関心をもってもらわなければ、始まりません。競輪を知らない人にも、わかりやすく、かつ、競輪の魅力も伝わるように書きながら、研究書としてのオリジナルな考察も盛り込む、という、欲張りな目標を掲げて執筆しました。あらためて読み直してみて、また、読者のみなさんの感想を聞いて、ある程度は目標に到達できたのではないかと甘めの自己採点をしていますが、いかがでしょうか。

 私が競輪の研究を始めたのは、大阪大学大学院人間科学研究科の修士課程在学時でした。所属していたのは社会学系のコミュニケーション論(当時の名称)研究室で、最初は井上俊先生が、先生が京都大学に転任されて以降は伊藤公雄先生が指導教官になりました。当時、日本スポーツ社会学会ができたばかりの頃でした。井上先生は初代会長でしたし、伊藤先生も会長をされたことがあります。テーマも未定のまま大学院に進学したのですが、先生方の影響もあってスポーツをテーマにするのも面白そうだなと思うようになりました。そこで注目したのが競輪でした。競輪との出合いについては、本書第1章に詳しく書きましたので読んでいただきたいのですが、別の言い方で付け加えておくと、競輪の境界的な性格に研究テーマとしての面白さを感じたのです。競技内容はスポーツなのに、社会的にスポーツ視されていない、という点。戦後以来、大規模におこなわれてきて日本オリジナルな要素があるユニークな競技なのに、そのわりに人々に認知されていない、という点。スポーツとは何か、スポーツと社会の関係は――そんなことを考えるのに格好の競技だと思いました。何と言っても、競技自体、競輪場という場所自体、とても魅力的なものに自分には見えました。
 1990年代中頃のことです。競輪から生まれた「ケイリン」がオリンピック種目として採用され、メディアで取り上げられる機会が増えた時期でもありました。それもあって、自分の目に競輪が入ってきたのだと思います。競輪の歴史を「スポーツの近代化」の過程と重ね合わせて読み解くという修士論文を書き、「スポーツ社会学研究」にも論文を発表しました。おそらく、競輪を真正面から取り上げた初めての学術論文だったはずです。自分としては、それなりに面白く書けたように思いました。しばらくして「「青弓社ライブラリー」の一冊として出版しませんか」と声がかかりました。この「原稿の余白に」で他のみなさんも書いているように「青弓社ライブラリー」は挑戦的なテーマの社会学本を次々に刊行して注目を集めており、若手研究者にとって願ってもないうれしいお話でした。数年で刊行するという約束で、喜んで引き受けました。

 それから、このたびの刊行にこぎ着けるまで、なんと20年という長い時間がかかってしまったわけです。こう書くと、まるでコツコツと積み上げた地道な研究がようやく実を結んだ、というように聞こえるかもしれませんが、実情はそんな格好のいいものではありませんでした。気楽にOKの返事したものの、いざ、取りかかってみると、まったく先に進めることができなかったのです。それでも何とか書こうとする、すぐに壁にぶつかる、手が止まる、逃避する、自己嫌悪に陥る、何とかしようと再開するも、また同じことを繰り返す、さらに自分が嫌になる、という悪循環に陥りました。最初に指定された締め切りはすぐにやってきましたが、ほぼ白紙でした。その後、締め切りを何度も延長してもらいました。そのたびに、あれこれ理由をつけて謝りのメールを送っていましたが、やがて編集部からの問い合わせに返事もできなくなってしまいました。20年間の大半は「書かなきゃ」と思うだけで、何もできないという状況だったのです。
 本当の「あとがき」にも、また本稿でも「書けなかった言い訳」をあれこれ並べてはいますが、何と言っても、私の努力不足、忍耐力不足、怠惰な生活態度がいちばんの原因です。粘り強く、少しずつでも地道に取り組んでいたら、遅くとも10年前くらいには何とか形にできてはいたでしょう。若い頃にいただいたチャンスをすぐに生かせなかったことは、自分の人生にとって大きなつまずきでした。30代という、どんな職業の人にとっても最も充実しているであろう時期を、逃避的に、しかし内面では原稿が書けなかった挫折感を抱えて悶々と過ごすことになってしまいました。お恥ずかしい話です。そんな日々のことを、本が出版された後に、このように振り返って書けていること自体、なかなか感慨深いものがあります。
 この課題にもう一度向き合おうと思い直したのは、いまから3年くらい前でした。比較的待遇がよかった任期付きの仕事が終わり、非常勤講師で食いつなぐフリーター研究者に戻っていました。年齢的に人生の折り返し点はとうに過ぎ、将来の展望も何もないという状態でした。そんな状況でも、なるようになるさと悲壮感は抱かないようにしてはいましたが、現実的な話として数年後には研究と関係がないアルバイトもしなければ食べられないようになることが見えてきました。現状では、非常勤先の大学図書館を利用できたり、夏休みなどに自由時間がある程度確保できてはいます。いまの環境で無理なら、一生、本なんて書き上げられないだろう。ここは一つ、気合いの入れ時ではないか。競輪のほうでも、ガールズケイリンの復活や日韓戦の誕生など、展望がある書き方ができる状況が生まれていました。それも後押しとなり、もう一度出版に挑戦してみようと決意したのです。

 こちらから不義理をした青弓社との10何年も前の約束が、まだ生きているとはさすがに思いませんでしたが、他社にあたるよりもまず、最初に声をかけてくれた同社に、もう一度お願いするのがスジだろうと考えました。とはいえ、一度失敗している以上、企画書を作り直してもちかけたところで信用度ゼロです。やはりある程度原稿をそろえてから、あらためて相談するしかないだろう。ということで、原稿を先に書き上げることにしました。約1年後、400字詰め原稿用紙換算で700枚分くらいの草稿ができあがりました。細かいことは気にしないようにして、もっている材料を、頭のなかにあるアイデアを、全部吐き出してしまうつもりで書き進めました。それまで全然書けなかったことがまるでウソみたい、とまでは言いませんが、自分としてはかなりスムーズに筆が進み、ちょっと不思議なくらいでした。 
 草稿が完成し、いよいよ青弓社に連絡することになりました。大阪大学で実施していた共同研究プロジェクト(GCOE)で知り合った宗教学研究者の永岡崇さん(『新宗教と総力戦』〔名古屋大学出版会、2015年〕の著者)のアドバイスで、宗教学・民俗学の川村邦光先生に仲介のお願いをすることにしました。私は社会学が専門なので、競輪的にいうと「別ライン」なのですが、先生中心の飲み会によく参加させてもらったり、何かとお世話になっていました。先生は、青弓社でデビューし(『幻視する近代空間』1997年)、その後も多くの編著書を青弓社から出しています。事情をお話すると二つ返事で引き受けてくださり、私が渡した草稿、企画書、経緯説明文に、推薦文を添えて編集部に送ってくださいました。
 青弓社から、すぐに好感触の返信がありました。矢野未知生さんとお会いすることになり、晴れて出版に向けて再び動き出すことになりました。矢野さん曰く、内容は面白いが、いかんせん長すぎる、とのことでしたので、200枚分くらい圧縮することになりました。あらためて、約半年後に締め切りが設定され、書き直しにかかりました。若干の遅れはありましたが、だいたい予定どおり脱稿できました。カットした部分には、坂口安吾事件に関することや、旧女子競輪のより詳しい歴史、田中誠『ギャンブルレーサー』(講談社、1988―2006年)以外の競輪マンガ紹介などを書いていましたが、それらについてはまたの機会にふれたいと思います。
 そんなこんなで、なんとか刊行にまでたどり着きました。人生の重い宿題になってしまっていた仕事を、それなりに満足できる形で片づけることができて、心からホッとしています。一時期は、自分にはもう書けないものだと諦めていたものですから、何となく夢のような気もします。そして、こうして本になったものを手に取って見ていると、何でもっと早く書かなかったのか、もっと早く書けていれば人生違ったかもしれないのに、という後悔の念がやはり湧いてきます。その一方で、自分の能力ではこれくらいかかっても仕方なかったのかもなぁ、と感じたりもしています。

 本を書くにあたって、気になっていたことはいろいろありますが、なかでも大きな心理的ストッパーになっていたのは、はたして競輪ファンが納得するようなものが書けるだろうか、という不安でした。競輪は、広い意味でポピュラーカルチャーの一つです。ファンがいます。ファンはもちろん多種多様で、楽しみ方や思い入れも、人それぞれではあるでしょう。ですから、どんなファンにも受け入れられるような書き方など無理に決まっていますが、少なくとも好意的に読んでくれた競輪ファンに、こいつは何もわかっていないな、と思われるような書き方だけはしたくないと思っていました。
 私は、思い入れがあるジャンルに関する本が出るとぜひ読んでみたいなと思う一方で、警戒心のようなものも抱く性分です。「ロクにわかってないやつが、ナニ学だか何だか知らないが、自分の業績にするためのネタ探しにやってきて、ファンなら誰でも知っているようなことを書き並べ、コケオドシの専門用語で分析してみせているだけの本じゃないのか?」――そのような疑念をまずはもってしまうのです。取り立てて関心がない世界についての本なら、へぇ、そうなのね、と素直に読めますが、自分にとって大事なもの、に関しては、どうしてもそうなります。自分には「全然わかってない!」と感じられる記述が、そんなものだと世間に受け入れられ、そんな本の書き手が、その世界を知る代表者のような顔をして語ったりしているのを見るのはたいへん不愉快です。ああ、なんて器の小さな人間なんだろう、とわれながらあきれますが、観察し、分析し、記述するという行為には、書かれる側にとって、少なからず暴力的な側面があるものなのです。
 出版の話をもらったのは、競輪というテーマが珍しいものだったからなのは間違いありません。類書がない以上、一般の方への競輪イメージ形成に、よくも悪くも一定の影響を与えることになるはずです。書くことの暴力性から、完全に逃れることはできません。だとしたら、せめて競輪の魅力について、そして競輪そのものについて、ちゃんとわかったうえで書いている本だな、とファンの多くに感じてもらえるように書きたい、と強く思いました。
 そのうえで、競輪に詳しいファンが読んでも新しい知見が得られるような、自分の好きな文化について違った角度から見る楽しみを与えられるような、そういう本にしなければならない、とも考えました。競輪を知らない一般読者を意識して書いたとしても、実際のところ、最初に手に取ってくれるのは競輪ファンですから。
 このように、いろいろ自分に縛りをかけていました。書きあぐねていた頃の自分には、そんな書き方ができる自信がほとんどありませんでした。若いうちに書くモノなんて未熟なものに決まっているのだから、エイヤッと形にして、批判を受け止める覚悟をもつべきだったな、といまとなっては思います。自分で自分の首をしめて何も書かないより、下手でも何でも書いてみたらいいじゃないか、そのほうがずっとましだよ、と若い頃の自分にアドバイスしてやりたいくらいです。私には、評価にさらされる勇気が不足していました。もっとも、こんなふうな理屈をつけて、手がかかる仕事から逃避する言い訳を探していただけかもしれませんが。

 今回、実際に執筆するにあたって採用した方法・方針は本書の「あとがき」に記述しています。外部からの観察者であり、かつ競輪ファンでもある、という自分自身の視線の偏りを自覚しながら、資料に基づき客観的に競輪と社会の関わりをひもといていくことをめざす、というきわめてオーソドックスなものです。章ごとに、都市文化やスポーツの近代化、ジェンダーやナショナリズムなど、社会学的なテーマ設定をして記述しています。そして、競輪運営団体や選手、スポーツ新聞記者など、利害関係者が書くなら避けて通るかもしれない事象についても、ある程度踏み込んで記述しています。それによって、競輪界の「中の人」からは見えない、競輪の社会性のようなものを浮かび上がらせられるのではないか、と考えてのことです。
 しかし、執筆方針が明確になったのは、書き進んでいくなかでのことでした。「あとがき」は、実際に原稿ができあがった「あと」で書きました。方向性が確定したから書けるようになった、というわけではないのです。では、どうして、以前はまったく書けなかったものが、何とか書けるようになったのか。状況的に追い詰められて、こだわっていられなくなった、とか、いろいろ要因はあるでしょうが、決定的なのは、私が競輪を見始めて20年という時間が経過した、ということだと思います。何とも当たり前の話ですが、20年前より、私は、競輪に詳しくなりました。そして、競輪に対する思いも深まりました。
 最初の締め切りの頃に書き上げていたら、おそらくもっと内容的に薄っぺらいものになっていたと思います。いかにも「研究者が調べて書きました」というような。今回できあがった本も、研究者が調べて書いたものにはちがいないのですが、もう少し地に足がついた感じで書けているように自分では思います。詳しくなった、と言っても、いまでも当然わからないことだらけです。SNSなどを通じて熱心なファンの方々を知るようになると、自分より詳しい人など星の数ほどいるなぁと痛感しています。車券も全然当りませんし(これは別の話ですが……)。それでもしかし、20年たって、自分なりの見方で書いても、ファンの多くの人に納得してもらえるだろう、という、何となくの自信をもてるようになったのです。
 ときどき、無性に競輪場に行きたくなります。楽しいから、面白いからであるのはもちろんですが、競輪場という空間に身を置いていたいという気持ちが、まずあるように思います。競輪場にはいろんな人がいます。自分の力で賞金をもぎ取って生きる選手たちを、自由で飾らないファンたちが取り囲んでいます。競輪場には、どんな人間でも受け入れてくれる寛容さがあり、かつ、お互いの金を取り合う場所らしい、一定の距離感もあります。あくまでも私の場合は、という話ですが、人生があまりうまくいっていないときにこそいきたくなるような場所でもあります。
 私が初めて足を運んだ競輪場は、阪急ブレーブスの本拠地、西宮球場の仮設バンクで開催されていた西宮競輪場でしたが、2002年に廃止されました。同時になくなった甲子園競輪場とともに、私のホームバンクでした。いまではこの世に存在しない、これらの競輪場が懐かしくてたまらなくなることがあります。楽しい思い出がつまった場所、というより、どちらかというと、クサクサした思いを抱いて帰ってくることが多い場所でした。それでも、何とも懐かしいのです。
 競輪は(その他公営ギャンブルとともに)、健全な娯楽ではないかもしれません。それでも、足しげく通っている人には、それぞれの思いがあるはずです。それを踏みにじらないような本を書きたいと思いました。私が、もっと有能な社会学者なら、インタビューやアンケートなど、いろんな手法を使ってそれをあぶり出す、ということができたかもしれませんが、自分には無理でした。そして、あまり積極的になれませんでした。ファンの気持ちを理解したいと思いながら、調査はしたくない、なんて考えていたら、そりゃ書けなくて当然です。しかし、20年という期間、ときに競輪場に足を運び、ファンと同じ空間の空気を吸い、レースを見て、車券を買って損をして、を繰り返していくうちに、自分の感覚で「ファン目線」を描いても、そんなにずれていないだろう、と感じるまでには「調査」が進んだのだと思います。あまり、調査とか、フィールドワークなどという大げさな言葉は使いたくないですが。実際は、車券を買って、レースを見て、遊んでいただけですから(これらの調査はすべて、当然ながら自費でやっています。念のため)。
 最初に西宮競輪場の雑踏に紛れ込んだときの自分は、まわりから見たら「大学で論文を書くためにきた若者」感、丸出しの姿だったでしょう。いまでも、観察してやろうといういやらしい視線を自分がもっていることは否定できないですが、まずまずあの空間になじむようになってきたと思います。つるつるした顔で、きょろきょろまわりを気にしながらレースを見ていた兄ちゃんも、最近では予想紙の小さい文字を読むのにメガネをはずして、遠ざけて見ないとつらいようになりましたし……。競輪ファンの高齢化は進んでいて、競輪場では、自分でもまだまだ若手だったりもするのですが。ともあれ競輪が、私の人生の大きな部分をしめるものになっているのは間違いありません。
 単著「デビュー作」の「あとがきのあとがき」にしては、何ともパッとしない話をしていますが、このような感じで、心を込めて書いた作品です。まだお読みでない方は、ぜひぜひ、ご一読くださいますようお願いいたします。

***

 長くなりましたが、あと2点だけ書きます。1つは、本書の「あとがき」には書けなかった選手のみなさんへの感謝です。特に、元選手の後閑信一さんには、お礼を申し上げたい気持ちでいっぱいです。直接取材させてもらったわけではありません。ですが、後閑さんが吉岡稔真さんとの対談(電投会員向け広報誌「Winning Run」2015年12月号)で語られた言葉によって、本書のサブタイトルにした「働く者のスポーツ」というテーマは、より明確になったと感じています。「競輪選手は肉体労働者だ、職人だ、そう思って頑張ってきた」。後閑さんは対談でこう語っていました。ファンのみなさんは、後閑選手らしい言葉だなと受け止めたと思います。私もそうでした。そして、この言葉によって、本書は完成させられるなと感じました。
「働く者のスポーツ」は、競輪創設者の倉茂貞助が、競輪の実現に向けて動いていたときに作った文書内の文言です。そんな競輪誕生に関わるキーワードが、70年の時を超え、現代のトップ選手の言葉とリンクして見えてきました。もともと「プロスポーツとしての競輪」については考えていたのですが、「働く者」「肉体労働」という言葉を使うほうが、よりリアルに「社会のなかの競輪」を捉えられると思いました。「選手には肉体労働の側面がある」と、私のような観察者が他人事として書くのと、選手本人が自分の信念を表す言葉として言うのとでは、重みがまったく違います。お礼を言われてもご本人は困ると思いますが、後閑さん、本当にありがとうございました。
 ファンのみなさんはご存じのとおり、後閑さんがトップクラスの実力を保持したまま現役引退を宣言したのは、2017年の年末でした。本書の原稿完成の後でしたので、校正のときに慌てて「元選手」に修正しました。一部、「後閑選手」という記述が残っているのは、その名残です。ちなみに、後閑さんは1970年生まれで、私と同い年です。自分が原稿を書けずに緩い生活を送っている間にも、厳しいトレーニングを続けトップクラスを維持してこられたのだと思うと、頭が下がります。競輪選手には長く活躍する選手も多く、20年前、私が競輪を見始めた頃に走っていた選手で、いまでも現役の方もかなりいます。なかには、後閑選手のようにずっとS級を維持してきたという方も。
 劇作家の寺山修司は、競馬に関するエッセーで、ファンが馬券を買うのは自分自身を買うことだと表現していました。若い頃から努力して先頭を突っ走ってきた人は先行馬に、大器晩成を期する人は追い込み馬に自分の願いを込めるのだ、というように。競輪の車券購入にも同じような側面はあるでしょう。ただ、馬と違い相手は生身の人間です。競輪選手たちからは、競走馬よりはもっと生々しいメッセージが送られてきているように思います。「こっちは、自分の生き方を、さらして見せているけど、そっちはどうなんだ?」。選手は、客のヤジに言葉で反応することは禁じられていますから、あくまでも無言のメッセージです。同世代の選手がバンクで戦う姿を見て「自分はいったい何をやっているんだろう」と情けない気持ちになったことが、私には何度もありました。そして、ベタな表現で恥ずかしいですが、自分もがんばろう、という気持ちになったことも。
 後閑さんとは面識はありませんが、直接、話を聞かせてもらった選手もいます。ただ本書の「あとがき」の謝辞では、選手の個人名をあげるのを控えました。もしかしたら、ご迷惑をおかけするかもと心配したからです。
 私としては、誠意を込めて、競輪を応援する気持ちをベースに本書を書きました。微力ながら、競輪の認知度を高めることに貢献したいとも願っています(実際に、競輪を知らなかったという読者から、競輪に関心をもつようになったという感想もいただいています)。ですが、本書の記述内容は、運営組織が広報したい競輪像からは若干はずれたものになってはいます。それでなくては社会学者の私が書く意味がありませんから、それは当然だと思いますが、そのため、関係者からするとちょっとさわりにくい本なのかもしれないな、とも感じています。多くの方が仕事として関わる世界ですから、受け取り方は立場によってさまざまなのは当然です。
 一ファンとしての私は、JKAを代表とする運営組織の現状や広報戦術について、いろいろ思うところがあります。こうしたら、ああしたら、と、「twitter」などで「文句」を言うこともあります。しかし、本書は、そのような短期的な問題意識からではなく、もっと広い視点に立って書いたものです。競輪PRにとって一見否定的に映る事例についても、競輪という文化を読み解くために必要だと判断したことしか扱っていません。ジャーナリズム的な視点からは読者を引き付ける要素になりそうなことであっても、本書の目的とは関係ないと判断しふれていない事象も多くあります。読んでいただいた人には蛇足だと思われますが、念のためその点を明確にしておきたいと思います。
 本書の「あとがき」に書いたように、本書はファンの視点、観客席側から得られる情報だけで構成しています。次の本を出すチャンスがあれば、選手の視点にもっと踏み込んで書いてみたいと思います。バンクのなかからはどんな景色が見えるのか。教えてやってもいいという選手(現役、OB含め)がいらっしゃいましたら、ご連絡をいただければうれしいです。くしくも、今年は競輪誕生70周年にあたります。結果的に、アニバーサリーイヤーでの刊行となりました。未来に向けて、競輪の歴史を振り返る機会として、本書は『競輪70年史』が出るまでのつなぎの役割くらいは果たせるのではないかと考えています。関係者のみさんからの感想やご批判も、ぜひお聞かせいただきたいと願っています(編集部をとおしてでも構いませんし、「facebook」には本名で登録していますのでそちらでも大丈夫です。お気軽にご意見をお寄せください)。
 
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 最後に、刊行後に気づいた点、ちょっとした後悔について書いておきます。これから本を出される方の参考までに。
 20年前、最初に出版のお誘いを受けたのは、社会学選書シリーズ「青弓社ライブラリー」の企画だったのは既述のとおりです。このたび、再挑戦となった折にも、「青弓社ライブラリー」として出すかどうかという選択がありました。「青弓社ライブラリー」に入れるには、分量的にもっと削る必要があるとのことでした。カバーデザインも含め、通常単行本形式のほうが自由度が高く、広い読者に届くかもしれない、ということでこのスタイルを選びました。本の完成度を高める意味では正しい選択でした。ただ、読者層は、「青弓社ライブラリー」の一冊だったほうが広がったかもしれないなとも感じています。
 本が出てすぐ、大阪梅田の紀伊國屋書店に足を運びました。いつも立ち寄る社会学関係棚には1冊もなく、あったのは「趣味/実用書」コーナーの「ギャンブル」棚の片隅でした。「競輪」と書いた仕切り板に挟まれていた数冊の予想ハウツー本の間に、ひっそりと(これは主観ですが)置かれていました。『競輪文化』が競輪の棚にあるのは、至極当然なのですが、正直ガッカリしました。これでは、競輪を知らない人に、偶然手に取ってもらう可能性はゼロに近いなと思ったからです。趣味を深めるという意味では「役に立つ」本だと自負していますが、一般的な意味での実用書ではありませんし。
 ネット書店とは違う、リアル本屋さんのメディアとしての魅力は、何げなく立ち読みに来たようなお客さんと、未知の本とをつなげる点にあると思います。「青弓社ライブラリー」で出していたら、社会学の棚にも置かれたでしょう。青弓社から同時期に出た、笹生心太さんの『ボウリングの社会学』や、話題作になっている倉橋耕平さんの『歴史修正主義とサブカルチャー』の近くに置いてもらえていたら、どこかで意外な出合いがあったかもしれません。20年前に話をいただいたときの書名案は『競輪の社会学』でした。何となく、競輪ファンに誤解を与えるんじゃないかという懸念もあって(うまく理由が説明できないのですが)、今回は社会学を書名に入れない方向でいこう、と考えていました。不要なこだわりだったような気もします。内容に照らして、現在のタイトルと副題は、適切なものですし、シンプルでわかりやすくなったと思っていますが、書名に「社会学」が一言入っていれば、そちらにも置かれただろうことを考えると、ちょっともったいない選択だったかもしれません。まぁ、「小手先」の話ではありますが。
 本書は、社会学、スポーツとしての自転車(「乗る自転車」ブームで紀伊國屋書店にもかなりの点数の本が並んでいました)、ノンフィクション、戦後史、サブカルチャー、などの棚と親和性の高い内容だと思います。もし、書店関係者でごらんになっている方がいらっしゃいましたら、いまからでも、ご一考くださいますよう、よろしくお願いいたします。
 
 大学院時代の指導教官の伊藤公雄先生は、本を出すなら10年は読めるものを書くべきだ、と言っておられました。ちなみに、伊藤先生のデビュー作も青弓社でした(『光の帝国/迷宮の革命』1993年)。本書をそこまで長生きさせられる自信はありませんが、東京オリンピックに向けて競輪、自転車、スポーツ界でいろいろ動きがありますし、スポーツをめぐる社会問題が話題になることも続いています。また、カジノをめぐっていろんな議論もなされていますので、まだしばらくは、本書で考察したことの社会的な需要はあると思います。
 さらなる出合いを期待して、長い「言い訳」を終わります。

 

第15回 宙組20周年を祝う――誕生の思い出とともに

薮下哲司(映画・演劇評論家。元スポーツニッポン新聞社特別委員、甲南女子大学非常勤講師)

 新トップスター、真風涼帆、星風まどかが主演する宙組公演、ミュージカル・オリエント『天(そら)は赤い河のほとり』、ロマンチック・レビュー『シトラスの風――Sunrise』が3月16日から宝塚大劇場で開幕しました。新トップ披露とともに1998年に宙組が誕生して以来、今年で丸20年になるのを記念した公演です。
 宝塚歌劇はもともと16人の少女から出発したことはご存じでしょう。104年たった現在、花、月、雪、星、宙の5組に専科、宝塚音楽学校の生徒を加えて常時約500人の団員を抱えるスケールの大きな劇団に成長しました。しかも団員はすべて未婚の女性。公演回数は年間1,500回、動員数は270万人。都心から離れた2,500人収容の宝塚大劇場が平日昼間でも満員の盛況、こんな劇団は世界広しといってもここだけです。
 当初は「少女歌劇」という一つのグループでしたが、劇団が創立されて7年目の1921年に花組と月組が誕生しました。大阪公演に続く東京公演が大成功、本拠地の宝塚も年ごとに動員数が増え、プールを改造して作られたパラダイス劇場だけでは手狭になり、箕面にあった公会堂劇場を宝塚に移設して2館での上演が実現したことがきっかけで、年長メンバーを花組、年少メンバーを月組に分けて2班体制にしたのです。おとぎ歌劇が中心だった公演もバラエティーに富んだ演目が上演できるようになり、さらに人気が高まりました。
 その後、両劇場が火災で焼失し、4,000人収容(補助席、立ち見席を含む)の宝塚大劇場を建設、その開場に合わせて雪組が誕生しました。1924年のことです。
 星組ができたのは1933年。春日野八千代のための組ともいわれていますが、翌年の東京宝塚劇場オープンに合わせて創設されました。戦時色が濃くなり、レビューの公演が禁止され、大劇場閉鎖になった一時期、星組は廃止されますが、戦後、大劇場再開とともに復活しました。
 以後、長い間、4組体制で公演がおこなわれてきましたが、老朽化した東京宝塚劇場を改築することになり、宝塚歌劇の東京での通年公演が実現(それまで東京宝塚劇場での宝塚歌劇の公演は年間8カ月でした)することを前提に1998年、65年ぶりに新しい組、宙組が誕生したのです。組の歴史は宝塚の発展の歴史でもあります。
 その宙組誕生に際しては、因縁浅からぬ思い出があります。東京宝塚劇場の建て替え計画が発表された1997年初頭、宝塚の新しい組の誕生が噂され始めました。しかし、開場は2000年ということで、歌劇団内部でも新組増設には賛否両論があり、まだ懐疑的でした。一方、歌劇団は1998年1月下旬から香港が中国に返還されて1周年になるのを記念した香港公演が決まっていて、各組からメンバー45人が選抜されていました。この公演はスポーツニッポン新聞東京本社が創刊50周年を記念、スポンサーとなって主催した公演でした。スポーツニッポン新聞社は当時、大阪、東京、西部の3本社制をとっていて、それぞれ独立採算制でした。創刊50周年に宝塚歌劇のスポンサーになるというなら、本拠地に近い大阪本社がイニシアチブをとるのが自然ですが、諸事情で東京本社単独の主催となり、結局、記事発信は大阪、事業としては東京本社という形でおこなわれることになり、担当記者だった私は事前のパブや香港公演初日取材などでスタッフ同然に駆け回りました。
 香港公演の準備と並行して東京宝塚劇場の建て替え工事が始まり、歌劇団は建て替え中の代替劇場を模索していました。当初は帝国劇場を代替劇場として使用することになっていて、実際、1997年には雪組公演と星組公演を実施しています。ところがこれには莫大な金額がかかることが判明。あわてて別の劇場を探したのですがどこも一長一短でなかなか決まらず、八方手を尽くした結果、有楽町南側にあった都有地を新劇場オープンまでという条件付きで借りることができ、仮設の「1000days劇場」を建設することになりました。新大劇場オープンの3年前に、思いがけず通年公演も前倒しで実現できることになり、そこでローテーション的に4組では無理が生じ急きょ新組が必要となって、当初は新組として集められたものではなかった香港公演メンバーが、前倒し的に新組メンバーにスライドしたのでした。これが宙組誕生の真実です。
 香港公演の取材をしているこちらとしては、途中でこのメンバーが新組にスライドすることはわかっていたのですが、都有地のクリアに時間がかかっている裏事情もあったので記事化を抑えていたら、都有地の使用許可がまだ下りていないうちに他社が「宝塚新組結成」とスクープ、劇団が激怒して、その社の記者を出入り禁止にしたといういきさつもあります。その後都有地の使用許可が下りて5組化が実現したので、結果的には大スクープになったのですが、内情を知っているこちらにとっては痛しかゆしといったところでした。
 1997年12月12日、大阪市内のホテルで大々的に新組発表の記者会見がおこなわれました。新組の名前は一般公募され、約2万通の応募のなかから選ばれたのが「宙」組でした。書道家の望月美佐さんが屏風に巨大な筆で「宙」と大書したときは一瞬よくわからなかったのですが、それは出席していた初代トップスターの姿月あさとらも同じだったようです。2月19日に宝塚大劇場で開かれた「宙組20周年記念イベント」のときにも、「リハーサルのときにも聞いていなかったので本番で初めて知りました。最初にウ冠を書かれたので噂になっていた“虹”ではないなと思い“空”かと思ったのですが、“寅”に見えて、司会者が“そら”と言われたのも“とら”に聞こえ、一瞬、みんなで顔を見合わせました。すぐに“そら”とわかって、みんなで“寅”でなくてよかったとホッとしました」と話して、満員の会場を沸かせていました。姿月によると「空は空席とかで縁起がよくないので、宙になったとお聞きしました」と言い、「でも普通、“宙”を“そら”とは読まないですよね」と、当時の戸惑いを正直に話して、さらに笑いを誘っていました。とはいえその宙組も20年、その間に姿月あさと、和央ようか、貴城けい、大和悠河、大空ゆうひ(祐飛)、凰稀かなめ、朝夏まなと、そして真風と8人のトップスターを輩出、エネルギッシュでダイナミックな組というイメージが定着してきました。年月が過ぎるのは早いものです。

 6月1日に刊行予定の『宝塚イズム37』は、11月退団を発表した月組トップ娘役・愛希れいかの惜別特集をメインに、宙組20周年を記念して宙組の魅力をさまざまな視点から分析した特集も組みます。宙組愛に満ちた数々のエッセーをお楽しみください。

 

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第7回 コンテンツツーリズム(アニメ聖地巡礼)――イマジネーションとテクノロジーのゆるやかな関係(2)

須川亜紀子(横浜国立大学教員。専攻は文化研究。著書に『少女と魔法』〔NTT出版〕など)

はじめに

 第6回連載で、“伝統的”アニメコンテンツツーリズムの例として、『夏目友人帳』の聖地である人吉市で起きている現象を分析した。妖怪というイマジネーションの産物が出てくるこの物語の聖地では、ニャンコ先生のぬいぐるみやアニメでのキャストボイスを務めた声優たちのサインが観光案内所に置いてあるくらいで、アニメキャラの等身大パネルや、像などは一切建てていない。コラボしたポスターやうちわ、グッズなどは夏祭りやイベントで販売されるものの、知るひとぞ知るというような、アニメ以外の観光客に軋轢を与えない配慮がなされているといっていい(1)。アニメを「売り」として全面的に利用していない態度も、ファンたちが反感を抱かない要因だろうし、アニメ放映が終了している間も、サステイナブルなコンテンツとしてファンを惹きつけることにもつながっていると思われる。ファンは、ひっそりとそれぞれが抱いた情景を思い浮かべ、聖地を旅し、二次元キャラクターたちと同じ空間を共有し、思いを馳せる。
 こうしたイマジネーションとともに旅をする“伝統的な”コンテンツツーリズムに、一つの新風が吹いている。AR(Augmented Reality:拡張現実)アプリを利用したコンテンツツーリズムである。本連載第7回では、ARアプリによって、コンテンツツーリズムのシーンがどう変わってきたか、また「2.5次元的な空間」にどう影響するのかを考察してみよう。

富山県南砺市の『恋旅~True Tours Nanto』の試み

 富山県南砺市には、『花咲くいろは』(2011年)、『SHIROBAKO』(2014-15年)、『さくらクエスト』(2017年)など、元気なワーキングガールたちを描いた傑作オリジナルテレビアニメで有名なアニメ制作会社P.A.WORKSがある。その南砺市が、PR用の短篇アニメをP.A.WORKSに委託して制作、2013年に公開されたのが、『恋旅~True Tours Nanto』(以下、『恋旅』と略記)である。『恋旅』は、P.A.WORKSの08年の作品『true tears』に関わったスタッフを中心に制作され、声優も『true tears』で主要キャラクターを演じた名塚佳織、高垣彩陽、井口裕香、吉野裕行、石井真らが、『恋旅』の主要キャラクターを演じているというつながりが深い作品である。そうした連続性は、モデルとなった舞台に関係がある。『true tears』の舞台の主要なモデルは南砺市城端地区(旧城端町)であり、『恋旅』が同市のPRアニメということであれば、必然的なつながりだった。
『恋旅』は、「富山県南砺市を巡る「3つの恋の物語」(2)」で、南砺市の観光スポットを舞台にしている。また、このアニメは専用アプリ「恋旅アプリ」をダウンロードして、カーナビなどのワンセグによるエリア放送、または南砺市内各庁舎、観光協会で視聴が可能になっている。つまり南砺市を訪れないと視聴できない仕組みになっている(プロモーションビデオは「YouTube」で視聴できるので、興味ある方は見てほしい)。
 地域誘致型のPRアニメという点も斬新だが、南砺市の試みが先駆的なのは、いち早く「恋旅アプリ」にARカメラ「恋旅カメラ」機能を搭載して観光誘致を試みたことである(3)。ARカメラを指定されたスポットで起動すると、アニメ『恋旅』のヒロインが現れ、観光名所と一緒に写真撮影ができる。自撮りや第三者に頼んで、自分がキャラクターと一緒に写真に入ることもできる。キャラクターのポーズのパターンは一つだが、季節ごとに衣替えをして、リピーターにも飽きさせない工夫がされている。また、「恋旅」フォトラリーという企画もあり、その写真を指定の場所で提示するとお土産(ポストカード)がもらえるキャンペーンなど、ファンの「恋旅カメラ」による写真撮影の動機を促している。紙媒体のスタンプラリーはすでに全国各地で採用されているが、「恋旅」は、モバイル機器を使ったデジタル技術によるスタンプラリーならぬ、フォトラリーであり、徐々に流行していた自撮りやのちに大流行する「インスタ映え」を予感させるような仕掛けが施されてあったことは重要である(4)。

イマジネーションとAR+カメラ

 では、コンテンツツーリズムの重要なファクターである物語性や“2.5次元空間”の構築には、ARとARカメラはどのような影響があるのだろうか。アニメ『恋旅』は、各話5分の3話で構成されている短篇である。長期間かけて描かれるテレビアニメやアニメ映画とは異なり、物語性によるファンの没入感は浅薄であろうと予想される。しかし、『true tears』のファンが、舞台の類似や声優の重複を手がかりに、『true tears』を参照しながら『恋旅』を楽しむ、という場合もあるかもしれない。たとえば、「この場所は『true tears』のあの場面にも出てきた」とか、「このシーン、比呂美(CV名塚佳織)っぽいね」とかいった具合である。そこに確かにイマジネーションははたらいていて、可視化されなくともファン一人ひとりの脳裏に、クロスレファレンスをしながら、キャラクターは現前しているはずである。
 そのようなイマジネーションの世界に、ARカメラによるキャラクターの可視化された姿が現れた場合、イマジネーションは阻害されるのだろうか、もしくは別の何かが体験できるのだろうか。
 ARによってスマートフォンのようなモバイルメディアをもつ人々の行動とソーシャリティが劇的に変化したのは、2016年の「Pokémon GO」の登場からだろう。そのベースにはもちろん、ゲームやアニメ『ポケットモンスター』(テレビ東京系)の物語性の共有がある。おそらくほとんどの『Pokémon GO』プレイヤーは、子どものころに『ポケモン』を観たり遊んだりした経験があり、おなじみのキャラクターがよく知る街並みに出てくる感覚は、3次元から2次元世界へ入り込んでしまった、まさに“2.5次元感覚”といっていいだろう。エルキ・フータモによると、「『Pokémon GO』は「拡張現実」の時代、すなわち、私たちが同時に二つの世界ーヴァーチャルとリアルーに住まい、作用を及ぼすことのできるヴィジュアライゼーションシステムの時代の到来を告げている(5)」という。
 こうした状態は、第1回連載で言及したように「ハイブリッドリアリティ(混交現実)」とも呼べる。『Pokémon GO』のプレイヤーたちは、サイバー世界と現実世界が混ざり合ったところで、ゲームを楽しむのである。ゲーム制作者の予想に反して、プレイヤーの間では、ゲームとは異なるコンテキストでのキャラクターとの遊戯も生まれた。ARカメラによる、ポケモンキャラクターを使ったお遊びである。たとえば、部屋のなかにポケモンが現れたら、コーヒーカップのなかに入るようにカップを配置して撮影したり、外でポケモンと自撮りしたりした写真をSNSにアップして楽しむという遊戯である。こうしたSNSへの写真の投稿のためのゲームという位置づけは、『恋旅』のARカメラの仕組みと通底する。しかし、『Pokémon GO』の場合、場所性にプレイヤーの関心があまり向かないため、観光誘致利用にはさほど大きな効果がなかったようである(6)。逆に場所性を意識しない功罪として神域や立ち入り禁止場所に入るプレイヤーに批判が集中したことは周知のとおりだ。

別府地獄めぐりの鬼岩坊主地獄に落ちそうなマリル 筆者撮影

 コンテンツツーリズムとARを考察する際、実はこの「場所性」がキーになっている。「場所性」といっても、必ずしも特定の観光名所を指すわけではない。『Pokémon GO』がゲームという看板を掲げながら、ゲームとは異なる文脈での遊びを誘引したのとは逆に、コンテンツツーリズムのARアプリは、観光アプリの看板を掲げながら、“ゲーム”的な使われ方もされている。次項では、筆者を含めゼミの学生たちがおこなった秩父でのコンテンツツーリズムとARの調査をベースに考えてみたい。

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』と『心が叫びたがってるんだ。』の聖地・秩父

 2017年11月、筆者は横浜国立大学須川亜紀子研究室ポピュラー文化スタジオ・ゼミの学生(以下、ぽぷすたと略記)とともに、埼玉県秩父市でコンテンツツーリズムとARの調査をおこなった。秩父はいうまでもなく、A-1 Picturesのオリジナルテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)(以下、『あの花』と略記)と、『あの花』スタッフが結集して制作されたアニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』(2015年)(以下、『ここさけ』と略記)の聖地である。『あの花』とは、幼なじみの仲間「超平和バスターズ」の一人めんま(本名:本間芽衣子)の事故死をきっかけに疎遠になっていた仲間が高校生になった夏、「超平和バスターズ」のリーダー的存在だったじんたん(本名:宿海仁太)の前に突然めんまが現れ、それをきっかけに仲間が再会し、めんまの願いを叶えるため奮闘するうちに絆や心の傷を回復していく物語である。『ここさけ』は、おしゃべりの好きな主人公成瀬順が、幼いころ父親の不倫を目撃し、結果的に両親の離婚を招いてしまったことを契機に言葉が話せなくなり孤立していたが、高校生になって自分を理解してくれた仲間に出会うことで言葉と自尊心を回復していく物語である。どちらも感動的で、老若男女にかかわらず広い層に多くのファンをもつコンテンツだ。
 この2作品は秩父市と公式にコラボしていて、街中にはキービジュアルやキャラクターのフラッグやパネル、ラッピングバス、自動販売機などが放送・上映終了後の現在(2018年2月現在)でも見ることができる。実際、2017年7月に『ここさけ』が実写映画化されるなど、いまだ人気や話題が衰えない息の長いコンテンツのため、調査日にも“コンテンツツーリスト”に出会うことができた(詳細は後述)。

『あの花』ラッピングバス 学生撮影
旧秩父橋の『あの花』自動販売機 筆者撮影

 この調査で検証したのは、ソニー企業が2015年から運営しているARアプリ『行けるアニメ!舞台めぐり』(以下、『舞台めぐり』と略記)の利用状況とコンテンツツーリズムに関する意識である(7)。このアプリは、アニメ作品の「聖地」をチェックインポイントとして地図上に記しているため、地図ナビとしても使える。また聖地(チェックインエリア)で“写真を撮ってチェックイン”ボタンを押すと、キャラクターがポップアップで現れ、聖地の背景や自分と一緒に写真が撮れる。その写真をすぐアップする機能や、チェックインポイント達成率がパーセンテージで表示される機能もあり、近くで同じアプリを使っているユーザーの存在可否もわかる。作品によっては、キャラクターボイスも聞ける。『あの花』では、チェックインごとにめんまの声を聞くことができた。(聞かない選択もできる。『ここさけ』にはキャラクターボイスはなかった)。ぽぷすたの面々は、このアプリを使ってコンテンツツーリズムを体験しながら、『あの花』『ここさけ』のコンテンツツーリストにインタビュー調査をおこなった。質問内容は事前に作成したが、効率性確保のため2班に分かれ、同じ質問内容だが、半構造化式のインタビューを採用し、自由回答でさらに関連した質問をすることもあった。また、インタビューイーとの取り決めによって詳細な文言は掲載しないため、本連載ではまとめを報告するだけにとどまっている。
 調査では、『あの花』チームと『ここさけ』チームがそれぞれ特定のチェックインポイントとなる場所(聖地)を数カ所選んだ。『あの花』チームは羊山公園、旧秩父橋、定林寺、秩父神社を、『ここさけ』チームは横瀬駅、大慈寺、牧水の滝、デニーズを巡った。両チームとも代表的な聖地を選択したが、『あの花』チームは、羊山公園では『あの花』関係のツーリストには1人しか出会えず苦戦した。『ここさけ』チームも、駅では皆無だった。主にデータが取れたのは、非観光スポット、つまりアニメを知らない人はあまり訪れない旧秩父橋、定林寺、大慈寺であった。実施日時は2017年11月25日(土)の午前10時から午後5時。移動手段は徒歩とバスである。当日は、関連イベントが開催されているわけでもなく、アニメや映画の上映直後というわけでもないため、インタビューイーのサンプル数は限られているが、逆にいえば『あの花』『ここさけ』コンテンツツーリズムが日常的におこなわれている様子を点描できる可能性がある。とはいえ、以下で分析するデータは経年調査ではなく、サンプル数も少ないため、不十分であることを前提に論じていることをあらかじめ断っておく。より精密な調査については、今後の課題として考えたい。
 
物語性とAR

 ARアプリに関して、インタビューした10組20人全員のうち、『舞台めぐり』を実際に使った経験がある人は2組で、ほかは、DLしているが利用していない、利用したことはないが聞いたことがある、など利用率は低かった。ほとんどの人が聖地の場所を雑誌やネットの情報、そして西武秩父駅前にある観光案内所で配布されている「聖地マップ」を頼りに巡っていた。『あの花』に関しては、JTBのムック『るるぶ あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(JTBパブリッシング、2014年)が出版されていて、詳細なガイドブックになっている。また、観光案内所で『あの花』と『ここさけ』の「聖地マップ」が配布されているので、事前情報がなくても容易に「聖地」を巡ることもできる。

『るるぶ あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(JTBのMOOK)、JTBパブリッシング、2014年

(1)旅の目的
 インタビューイーは、『あの花』『ここさけ』の聖地を巡っている人に限ったが、旅の主目的を聞くと、「秋の紅葉や温泉など、秩父観光をするついでに聖地も見てみようと思って来た」、もしくは「近くに住んでいるので来てみた」いうもので、『あの花』『ここさけ』聖地巡礼を主目的に訪れていた人は1人だった。秩父観光をメインに訪れた人々は、ほかの代表的な秩父の観光地も巡りながら、アニメ聖地にも来ていた。近くに住んでいるという人々は秩父訪問は初めてではないので、何か変わったことをしようと聖地を巡ってみたというケースだった。アニメコンテンツツーリズム(またはアニメ聖地巡礼)というと、コアなファンだけがおこなっているイメージが先行しているが、「聖地巡礼」の行為自体の流行やアニメ・漫画自体の受容数の増加や公言度の高まりにより、いわゆるライトな動機(主観光のついで)でおこなう、いわば“副次的コンテンツツーリズム”も増加していると思われる。

(2)情報入手の方法
 こうした副次的コンテンツツーリズムで、聖地巡り関連の情報をどのように入手したかを質問すると、次のようになった(複数回答あり)。

 ネット上の情報 10組
 紙媒体のガイドブック 0組
 観光案内所で配布された聖地マップ 1組
 ARアプリ 3組

 民間企業が運営するデータベース的聖地巡礼マップからファンがアップしているブログ的なサイト、「ツイッター」などのSNSまで、あらゆる情報、写真から聖地を特定した人が多数観察された。ネットからの情報入手は、どのコンテンツツーリズム調査でも利用率が高い。ARアプリは、まだ利用者と非利用者にコンテンツごとのばらつきがあるようだ。特に『舞台めぐり』はサービス開始からまだ間もないので、知名度がさほど高くなく、(増加しているものの)ラインナップタイトルが限定的である(8)。そのためこのアプリを知る機会が、コンテンツによって異なるのは仕方がないだろう。

(3)ARアプリの利用状況
 ARアプリ「舞台めぐり」の利用状況については、次のような結果となった。

 存在を知らなかった。1組
 存在を知っているが、あまり使っていない。5組
 部分的、または補助的に使っている。3組
 ほぼすべての機能を使っている。1組

(4)キャラクターとの写真撮影について
 ARアプリを知っている人すべてが『舞台めぐり』をダウンロードしていた。しかし、使用頻度が少なく、使いこなせていない(またはあえてあまり使っていない)という人が多く、地図だけ、写真だけなど、部分的な使用方法が顕著だった。『舞台めぐり』の写真機能を利用した、キャラクターとの写真撮影の有無を聞くと、意外とキャラクターには固執していない組がほとんどだった。なかには「風景が好き」「キャラクターも含めて物語全体が好き」という、物語性やランドスケープを中心とした消費をしていた人が、調査対象には多かった。
 逆に、ぽぷすたの面々は『舞台めぐり』を使うのが初めてだったので、キャラクターがチェックインエリアで現れたことに感動し、『Pokémon GO』で見られたようなツーショット写真や遊び写真を撮って遊んでいた。

めんまドリンクとめんまのスリーショット 学生撮影
『ここさけ』の順とツーショット写真を撮る学生 学生撮影

作品内容とARキャラクター

『あの花』と『ここさけ』は、心の傷や仲間との絆を描いた青春譚である。好きなキャラクターをインタビューイーに聞くと、それぞれ一人挙げてくれたが、「みんな好き」「全体で一つ」「物語や風景が好き」という意見が多かった。したがって、「舞台めぐり」を利用していても、写真をアップしたり、アップされているほかのツーリストの写真を見たりということまでは興味がない人が大半だった。その温度差は、主目的としてのコンテンツツーリストか副次的なものか、という差異と、作品において前景化しているのがキャラクターなのか物語なのか、という差異によって出てくる。当然ながら、ツーリストの好みもその受容の仕方に大きく起因する。聖地を見つけること自体が好きなツーリストや、ピンポイントで聖地を訪問するよりも、迷いながら街をぶらぶらして物語空間そのものを楽しみたいツーリストも存在する。物語上、そのほうが2.5次元空間をより深く実感できる作品もあるだろう。
 本調査のインタビューイーも、2組はリピーターだったが、残り8組は副次的コンテンツツーリストであるため、足跡を残すこと(ARアプリ上に写真をアップする)にあまり固執していなかった。ぽぷすたの学生も、作品自体は好きだがリピーターになるほどでもなく、チェックインポイントの制覇(パーセンテージで数値化される)や、キャラクターのポップアップをどこから撮るか、などに夢中だった。ARアプリサイトに自分が撮った写真をアップするよりも、誰がいつアップしているのかに興味があるようだった。
 ぽぷすたの学生たちは、キャラクターが出てくることで、想像の幅が少し狭まると感想を述べた。しかし、それはキャラクターの出現自体ではなく、キャラクターのバリエーションの問題もあるかもしれない。『舞台めぐり』でのキャラクターパターンは1キャラクターにつき1種類である。チェックインポイントによって出現するキャラクターは異なるが、一人のキャラクターの変化はない。コンテンツツーリストたちにとって、アニメのシーンと同じ角度で“再現”写真を撮影することは重要な目的であり、『舞台めぐり』もチェックインエリアで、アニメのワンシーンを画面上に薄く重ねて、同じアングルでの写真撮影を可能にさせている機能もある。しかし、そこにキャラクターを入れたい場合、キャラクターのパターンが一つなので、違和感が生じる。
 
ARキャラクターと聖地

 たとえば、この聖地である(写真)。ここは、『あの花』でじんたんがうなだれていたベンチである。筆者の写真の腕が悪いのもあるが、じんたんのキャタクターパターンはこの立ち姿しかないため、興醒めな写真である。したがって、“再現”写真を撮りたくても、うなだれたじんたんは再現できず、ユーザーのイマジネーションと可視化された写真の場面に大きな齟齬が生じる。

ベンチとじんたん 筆者撮影

 しかし、ARキャラクターによって、場所の聖地化が可視化される利点もある。上記の例のベンチも、キャラクターが写っていない場合、物理的にはただのベンチである。そこにじんたんを配置させ、じんたんという意味内容と紐付けされることで、じんたんのベンチが可視化され、聖地として認識されやすくなるのである。こうした例は、非観光地の聖化や意味生成にも通じる。たとえば、駅が聖地となっている場合もアニメ作品には多いが、駅は公共の場所であり、人によって社会文化的意味は異なる。しかし、駅にARキャラクターを配置させて写真を撮ることによって、駅に「色」がつくのである。こうした使われ方のほかに、『Pokémon GO』ユーザーに見られたようなキャラクターの私物化、ネタとしての利用(遊戯)なども『舞台めぐり』でおこなわれていて、アプリの「ゲーム化」とソーシャリティに大きく影響を与えている。

イマジネーションとテクノロジーのゆるやかな関係の未来

 ここまで、AR技術とコンテンツツーリズムについて、イマジネーションとの関係性を中心に論じてきた。聖地にいわゆる「巡礼ノート」が置いてある場合、そこにメッセージやイラストを描くことが、足跡を残すことになる。神社の場合は、絵馬がメッセージボードとして機能している。ほかに、レストランや宿泊施設であれば、グッズやぬいぐるみを置いてもらうことも足跡になるだろう。しかし、野外の小規模な聖地である場合は、ARキャラクターの出現は、聖地の可視化に貢献するのではないだろうか。
「ここで○○も立っていたなあ」とか「あの家が○○の家か」など、イマジネーションをフル稼働して2.5次元空間を楽しむコンテンツツーリズムだが、ライトなツーリスト(副次的コンテンツツーリスト)も含め、ツーリストの目的も多様化している。そうした状況で、今後コンテンツツーリズムにおいて、テクノロジーとイマジネーションのゆるやかな関係はどうなっていくのだろうか。VR(Virtual Reality:仮想現実)も視野に入れながら、今後も考察していきたい。

*こうした問題群から、筆者は2018年2月27日(火)14:00から「第4回「2.5次元文化」を考える公開シンポジウム――コンテンツツーリズム、AR、イマジネーション」を開催する(参加無料。ただし事前登録制)。興味のある方は、ウェブサイトを参照していただきたい(http://www.ynu.ac.jp/hus/urban/18907/detail.html)。


(1)一般社団法人人吉温泉観光協会の事務局アドバイザー中神寿一氏によると、「あえて「何もしないおもてなし」」のスタンスを取っているという(2018年2月9日、筆者によるインタビュー)。
(2)『恋旅~True Tours Nanto』公式ウェブサイトのキャッチコピー(www.koitabi-nanto.jp)[2017年12月1日アクセス]。
(3)「恋旅アプリアップデート!~ヒロイン3人秋服に衣替え♪~」(www.koitabi-nanto.jp/archives/2357)[2017年12月1日アクセス]
(4)Philip Seaton, Takayoshi Yamamura, Akiko Sugawa-Shimada and Kyungjae Jang, Contents Tourism in Japan: Pilgrimages to “Sacred Sites” of Popular Culture, Cambria Press, 2017, p.231.
(5)エルキ・フータモ「『Pokémon GO』とメディア熱の歴史」太田純貴訳、「特集 ソーシャルゲームの現在――「Pokémon GO」のその先」「ユリイカ」2017年2月号、青土社、51―63ページ
(6)中川大地「ふたつの「GO」が照らす〈空間〉と〈時間〉――『Pokémon GO』『Fate/Grand Order』が体現する脱ソーシャルゲームの道筋」同誌92ページ
(7)「行けるアニメ!舞台めぐり」(https://www.butaimeguri.com/)[2017年12月1日アクセス]
(8)2018年2月18日時点で、78タイトルである。

[謝辞]この場をお借りしまして、インタビューに快く応じてくださった一般社団法人人吉温泉観光協会事務局アドバイザー中神寿一様、そして秩父観光されていたみなさまに厚くお礼を申し上げます。また、一緒に調査をおこなった横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程2年(ぽぷすた)のみなさん、3、4年(ぽぷゼミ)のみなさん、OBの有志のみなさんにも感謝いたします。

[青弓社編集部から]
本連載は第7回で終了します。これまでの連載に加筆・修正して、書き下ろしを加えて書籍化する予定です。刊行日などが決まり次第告知しますので、楽しみにお待ちください。

 

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博士論文を出版する――『ボウリングの社会学――〈スポーツ〉と〈レジャー〉の狭間で』を書いて

笹生心太

 本書は、自身の博士論文の内容を大幅に加筆・修正したものである。その内容は、本書の第2章、第3章に相当し、1960年代半ばから70年代初頭のボウリングブームを主題としている。
 博士論文を提出したのが2015年3月末のことで、本書の出版が17年12月末のことである。この2年9カ月の間に何があったのかについて、少し話をしたい。本書の「舞台裏」として楽しんでいただくほか、一般書(ないし平易な学術書)の出版を考えておられる若い研究者の方々の参考になれば幸いである。

 2015年7月、博士論文が電子公開された。電子公開とは、博士論文の全文を、PDFでインターネット上に公開するというものである(例えば私の博士論文は、一橋大学機関リポジトリ:https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/27388 で全文を読むことができる)。そして電子公開の直後、大変光栄なことに、ある出版社から、ほぼそのまま学術書として出版するという話をいただいた。
 この提案についてどうすべきか考えている際、たまたまたどり着いたのが、青弓社の編集者である矢野未知生さんが「版元ドットコム」という本の情報サイトに書いていた「博士論文を本にする」という文章だった。興味深かったのは、博士論文の電子公開が進むこれからの時代に「博士論文を本にする」ことの意味やあり方についてだった。矢野さんの結論としては、「学術的議論は電子公開、その要旨をわかりやすく一般に公開する機会として商業出版」として使い分けるべきだとしている。
 この話は非常に参考になった。私自身のことを思い起こしても、大学生時代に「青弓社ライブラリー」シリーズにふれた経験は人生に大きな影響を与えていた。周知のように、このシリーズは「まだ誰も論じていない、面白くて社会的な意義があるテーマ」をコンセプトにしている。吉見俊哉ほかの『運動会と日本近代』や坂上康博『にっぽん野球の系譜学』、野村一夫ほかの『健康ブームを読み解く』など、「ありそうでなかった」テーマについて平易に論じられていて、大学生の私は知的好奇心をくすぐられ、研究の世界に憧れを抱くようになった。
 こうした経緯から、自身の博士論文も、やはり若い人たちの知的好奇心を喚起するような書籍にしたいという思いが強まり、青弓社に企画を持ち込んだ。これが2016年3月のことで、博士論文提出から丸1年後だった。そして打ち合わせ後、「青弓社ライブラリー」シリーズからの刊行を目指すことが決まった。

 だが、50年以上前のボウリングブームの時期だけを取り扱っていても、商業ベースに乗せるのは難しいようだった。そこで、追加で資料を集め、調査をし、ブーム以降のボウリングの動向を書籍に盛り込むことになった。それが、最終的には本書の第4章、第5章になる。
 ここで苦労したのは、資料収集や調査それ自体ではなく、得られた成果をどうまとめるかということだった。ボウリングブーム期を〈スポーツ〉と〈レジャー〉という視角から分析した以上、それ以降の時期も同様の視点で分析しなければ話が分裂してしまう。しかも、初学者にも興味をもってもらうような見方でなければならない。この点については、四六時中、まさに寝ている間にも悩まされた。
 2016年5月ごろ、突然頭のなかに閃光が走った。その際に思い付いたのが、本書の趣旨である「流行期にはボウリング業界全体が〈スポーツ〉と〈レジャー〉を柔軟に使い分けていたが、流行期以降はボウリング場単位で、〈スポーツ〉のボウリング場と〈レジャー〉のボウリング場に分化していった」というストーリーだった。
 正直、確固とした実証的裏付けがあったわけではなかったが、矢野さんも前述の文章で、博士論文を一般書にするならば、「「研究者に対する防御」より「積極的な意見表明」をする」べきだと書いていて、この言葉も大きな後押しとなった。

 このようにして、本書のおおまかなストーリーは固まった。このストーリーをベースにして企画書を作成し直し、青弓社から正式にGOサインが出たのが2016年9月だった。企画書の持ち込みから約半年である。
 そして、こうしたストーリーをより臨場感があるものにするために、ボウリング場の現場に向かった。これまで資料と格闘していた私にとって、現場の葛藤や舞台裏を知る作業は非常に面白く刺激的だった。なお、その成果は本書第5章に反映されている(個人的には、読者にはこの第5章から読んでいただきたいと思っている)。
 こうして、2017年3月にはほぼすべての調査が終了した。そこからはひたすらに書き、読み、直す、を繰り返していった。また、研究者仲間に草稿を読んでもらいアドバイスを受けた。こうして、第1稿を提出したのが、17年8月のことだった。それから校正作業を経て、17年12月に無事に出版できた。

 以上の2年9カ月は、本当にあっという間だった。その間、つらいと感じた瞬間はただの一度もなかった。それはやはり、孤独に打ち込んできた自分の研究成果が日の目を見るという大きな喜びがゴールにあったからだと思う。妻に「この研究に何の意味があるのか」「結論は何なのか」などと問い詰められながらここまできたが、ようやく一言言い返すことができそうである。

「原稿の余白に」の余白に、もう少しだけ付け加えたい。すでに述べたように、私は「青弓社ライブラリー」シリーズが好きで、特にあのシンプルなカバーに憧れていた。そのため、本書の刊行が決まった際には、「やはりボウリングのピンをイメージして、白地に赤線のカバーになるのだろうな……」などと妄想していたので、まったく異なるカバーイメージ案が出てきた際は驚いた。積年の憧憬にも似た思いが叶えられることはなかったが、それにも劣らぬ、いや、それをもしのぐ素晴らしいカバーで装ってあり、大変感謝している。
 また、写真の選択が素晴らしい。カバー画像をごらんになればわかるように、ボールがヘッドピン(先頭のピン)の位置からややずれている。ボウリングでは、ヘッドピンにまっすぐボールが当たってもストライクは出ない。斜めからえぐるように当たることで、ピンがよく飛び散るのだ。
 本書も、この写真のように、ボウリングという誰でも知っている題材について斜めから切り込むことで、大きな反響が生まれてほしい。そして何より、ボウリングのように長く、いろいろな人々に愛されるような本であってほしいと思っている。

 

第14回 2018タカラヅカ、始動!

薮下哲司(映画・演劇評論家。元スポーツニッポン新聞社特別委員、甲南女子大学非常勤講師)

 2018年の宝塚大劇場は、永遠に年を取らないバンパネラ(吸血鬼)の美少年の愛と苦悩を描いた萩尾望都原作による伝説の少女漫画を舞台化した『ポーの一族』(花組)から幕開け。連日、立ち見がでる満員盛況に沸いています。
 脚本・演出は、『エリザベート』(1996年初演)はもちろん『るろうに剣心』(雪組、2016年)や『All for One』(月組、2017年)などここぞというときには必ず登板して、ことごとく期待に応え、劇団はおろかファンからも最も信頼が厚い“宝塚のエース”的存在、小池修一郎です。彼は原作を宝塚歌劇団入団前から愛読し、宝塚入団の折はぜひ舞台化したいと念願していたという逸話が公演解説やプレスリリースにまで紹介され、原作漫画を知らないファンが観る前から特別な感情を抱くように巧みに操作された宣伝文句と、主演がこの原作の舞台化を待っていたかのようなフェアリー系スターの代表格、明日海りおとあって、期待感はいやがうえにも盛り上がりました。チケットは発売と同時に全期間完売、幸先のいいスタートです。
 短いエピソードの連続で、しかも時代を自由に行き来する原作はかなり大胆な構成で、漫画を読みつけていない者にとってはその世界観になかなか入りにくい壁があり、どんな形で舞台化するのだろうかと興味津々だったのですが、少女漫画独特の耽美的な作画の魅力を巧みに再現し、『ポーの一族』の世界を宝塚の舞台によみがえらせました。
 舞台は1964年の西ドイツ、フランクフルトから始め、バンパネラ研究家が「ポーの一族」について解き明かしていくという構成をとったのも、原作の複雑な時制を整理する役割をうまく果たしたようです。ただ、全体の構成としては、主人公のエドガーがバンパネラにならなければいけなかった理由など前半の説明部分がややくどく、エドガーが永遠の時をともに過ごすパートナーとして選ぶ後半のアラン(柚香光)とのくだりが淡白になり、ストーリーとして盛り上がりに欠いたのがやや期待外れ。ここをきっちり描かないと『ポーの一族』を舞台化する意味がないと思うのですが、原作ファンの感想を聞いてみたいもの。とはいえ、ラストのエドガーとアランが永遠の旅立ちに出る場面の2人の美しさは、宝塚でしか観ることができないものでした。
 入団当初『ベルサイユのばら』(1974年初演)の演出家・植田紳爾から「100周年のオスカルが見つかった」と注目され、以来、スター候補として大事に育てられ、花組トップスターに就任した明日海。『エリザベート』のトート、『新源氏物語』(1981年初演)の光源氏、『ME AND MY GIRL』(1987年初演)のビル、『Ernest in Love』(2005年初演)のアーネスト、『仮面のロマネスク』(1997年初演)のバルモンと先輩が演じてきたさまざまな役を演じ、本人の真摯な取り組みもあってどれも役を自分のものにしてきましたが、エドガーは本来の明日海の個性である役に初めて出合ったといえるのではないでしょうか。もう少し前に出合っていたらとも思いますが、多くの個性的な大人の男性を演じた後だからこそ表現できる少年のセクシーさというものもあって、まさにいまだけの輝きを放っています。エドガーは永遠の時を生きますが、それを演じる明日海はいまだけしかエドガーを演じることはできません。その貴重ではかない一瞬をぎりぎりに共有できたことをうれしく思います。
 明日海の次回作は博多座で柴田侑宏の万葉ロマンの名作『あかねさす紫の花』(1976年初演)で、中大兄皇子と大海人皇子の二役を役替わりで挑戦します。一路真輝、春野寿美礼、瀬奈じゅんら多くの先輩が演じてきた作品で、本人も月組時代に小さな役で出演していて、歌劇団スタッフによると、いつかは演じてみたいと憧れていた役なのだそうです。中大兄と大海人を同じ公演で二役で挑戦するのは明日海が初めてで、個性が異なる2人の皇子を両方演じるというのも明日海の幅広い演技力を証明しているようです。
 その後には『MESSIAH(メサイア)――異聞・天草四郎』で、若くして逝った悲劇のキリシタン大名に挑みます。ようやく明日海らしい作品が続きます。トップ就任後5年、充実期にさしかかった2018年の明日海りおの今後の動向に注目したいものです。
 
 元日の拝賀式に続いて9日に小川友次理事長が会見し、昨年(2017年)の実績と2018年の抱負を述べました。それによると、昨年も宝塚歌劇の動員は4年連続で270万人を超えました。本拠地の宝塚大劇場と東京宝塚劇場の両方で動員が100パーセントを超え、特に大劇場の動員の伸びが著しいそうです。100周年の余韻が続くなか、この好調を持続するために、さらなる新たな挑戦を続けていきたいとも。また生田大和や上田久美子、田渕大輔、野口幸作ら若手作家の成長を高く評価しています。デビューまで5年から10年かかる作家の育成に努めるべく今年も新人を採用し、演出部を37人に拡充するといいます。一方、チケットの発売方法を一新、一人でも多くの人に宝塚歌劇を適正な価格で観てもらえるようにするのが狙いだそうです。これと関連して、公演のライブ中継やテレビ放送の拡充も図りたいとのことでした。
 一方、2018年も台湾公演をおこなう予定ですが、将来的にはニューヨークなどの欧米での公演も視野に入れて、本場ブロードウェイで公演をしても遜色のないプロフェッショナルを育てたいという夢も披露していました。昨年『グランドホテル』(月組)で来日したトミー・チューンが愛希れいかを激賞したことも刺激になっている様子で、ニューヨークの舞台から声がかかるようなスターを育てるのが目標だそうです。好調の波に乗った、笑顔が絶えない会見だったようです。経営的な部分への質問が多く、スターの人事的な話題にはふれられませんでしたが、その分安定期ということなのかもしれません。
 4年連続270万人突破は劇団史上初の快挙で、これほどおめでたいことはありません。理事長も、チケットが取れないという苦情に対処するのがいちばん心苦しいと話していました。ただ、チケットに関しては、平日の昼間を埋めるために団体回りをする営業係の血と汗と涙の努力の結晶を忘れてはなりませんし、私設ファンクラブのチケットの大量買い占めに頼っていることなどまだまだ問題はたくさんあります。毎公演観る人も多く270万人のうち何人がリピーターかということを考えると、実質的にはファンの数はその半数にも満たないのではないかという統計の専門家もいます。熱心な宝塚ファンに支えられて、いまの繁栄があるというのも事実でしょう。
 とはいえ東京宝塚劇場の雪組公演も滑り出しは好調で、2018年の宝塚は順風満帆の船出といってよさそうです。わが『宝塚イズム』は12月発売の『36』が朝夏まなとのサヨナラ特集をメインに好評に推移し、6月1日発売予定の『37』に向けて動きだす新春を迎えています。本体の好調の原因を徹底的に解明する特集を組むのも面白いかも。そんなことも考えながら、編集会議に臨む所存です。
 
 では今年も『宝塚イズム』をよろしくお願いいたします。

 

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