第19回 2018年を振り返り、19年を展望する

薮下哲司(映画・演劇評論家)

『宝塚イズム38』(12月1日発売)は2018年の宝塚を振り返るという意味合いも込めて「5組の診断」を特集に組みましたが、トップスターのサヨナラ特集とは違って、現在の宝塚全体を俯瞰することができて、なかなか充実した内容になったと自負しています。書店での反応も、個別のファンだけでなく宝塚を応援するファン全般に受け入れてもらうことができているようで、われわれ編著者が予想していた以上に好評だそうです。トップスターの退団発表がなく、ギリギリまで特集を決めかねていただけに、思いがけないうれしさとともに、読者のみなさまのニーズが何なのか、編集をするうえでの新たな課題を突き付けられた思いもしています。いずれにしても、楽しんでいただいていればこのうえない喜びです。
 宝塚歌劇は2019年に105周年を迎えます。つい先日100周年だと思っていたのですが、時がたつのは早いものです。100周年でマスコミがこぞって取り上げたおかげもあって、以来、好調な観客動員が続いています。それは、足が遠のいていたオールドファンや初めての若いファンがそのときに観劇して、宝塚歌劇の魅力を再認識し、リピーターになったからにほかなりません。ちょうどそんなときに上演された『ルパン三世――王妃の首飾りを追え!』 (雪組、2015年)や『るろうに剣心』(雪組、2016年)などの作品が、宝塚を見る彼らの目を変えたのではないでしょうか。「宝塚って意外と面白いやん」、それが現在の隆盛につながっているのだと思います。スタッフの企画力とそれに応えた出演者、演出力の成果だと思います。
 2018年の宝塚歌劇は、そんなファンを十分に満足させた充実した一年でした。少女マンガのカルト的名作を初めて舞台化した花組公演『ポーの一族』、人気ミュージカル『エリザベート――愛と死の輪舞』(月組)、そして『ファントム』(雪組)の再演が宝塚大劇場、東京宝塚劇場ともに連日満員の人気を呼びました。ほかにも台湾で上演した星組公演『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀』のような人形アニメを舞台化するという新しいジャンルの作品にも果敢に挑戦、新作の合間にヒット作をバランスよく配置したバラエティーに富んだ陣容で話題を呼び、作品のレベルも比較的高い水準をキープできたのが何よりでした。宝塚大劇場では台風で二度休演するという不測の事態もありましたが、珍しくトップスターの退団がなかったのも安定感につながっています。
 そんななかで年末にディズニーリゾートにある舞浜のアンフィシアターで初めておこなわれたコンサート『Delight Holiday』(花組)が、これからの宝塚歌劇の一つのあり方を示していてなかなか興味深い公演でした。花組のトップスター、明日海りおを中心とした18人の選抜メンバーによる公演でしたが、本拠地では見られない男性客の姿が目立ち、普通のコンサートと同じようにペンライトを持ってタカラジェンヌを応援する姿が新鮮でした。場所柄、ディズニーランドのショーを見る感覚だったのかも。コンサートといえば最近では星組トップ時代の柚希礼音がおこなった日本武道館での大掛かりな公演がありましたが、そのときよりずいぶんとリラックスした感覚でした。
 内容も平成最後の年にちなんだ30年間のヒット・メドレーやディズニー・メドレーなど、いつものレビューとは一味違った選曲。トップ娘役の仙名彩世が歌った安室奈美恵の「Hero」は聴きものでした。
 宝塚歌劇にとって男性客の開拓は長年の懸案だったのですが、全国の映画館でのライブビューイングが拡充されて、宝塚歌劇が気軽に楽しめるようになったことも一因かもしれません。ライブビューイングはこれまで東京宝塚劇場での千秋楽公演に限られていましたが、2018年からは宝塚大劇場の千秋楽をはじめ、中日劇場、博多座、赤坂アクトシアター、さらに宝塚バウホール公演までおこわれるようになっています。これに加えて、放送開始とともにNHK-8Kでのライブ放映も始まりました。充実したコンテンツを生かして、今度はさらなる男性ファンの獲得へ――宝塚歌劇の攻勢は来年も続きそうです。
 来年の宝塚は宝塚大劇場が星組公演『霧深きエルベのほとり』、東京宝塚劇場は雪組公演『ファントム』からスタートします。元日、2日のそれぞれの初日には各組トップスターが勢ぞろいして口上をおこない、105年目の開幕をことほぎます。『霧深きエルベのほとり』は菊田一夫作で、1963年に初演された伝説的舞台の再演。20世紀初頭のハンブルクを舞台に、船乗りと深窓の令嬢の身分違いの恋を描き、当時のトップスター、内重のぼるの当たり役になった作品で、その後2度、再演されています。昭和の香りがする宝塚のクラシックといえば、大体の雰囲気はわかっていただけるでしょう。それを実力派の若手作家である上田久美子が現代の女性の視点でどんな形でよみがえらせるのか、興味は尽きません。
 前半のラインアップはその後、明日海りお率いる花組の一本立て大作『CASANOVA』、珠城りょうが宮本武蔵に扮する月組公演『夢現無双――吉川英治原作「宮本武蔵」より』、真風涼帆が星組時代に新人公演で主演した作品に挑戦する宙組公演『オーシャンズ11』、望海風斗が悲劇の新選組隊員に扮する雪組公演『壬生義士伝』と続きます。話題性があるオリジナルにヒット作の再演という安定路線はそのまま継承しながら、105年を乗り越えようという狙いです。後半もさらに話題作が続きます。
『宝塚イズム39』は6月1日発売です。105周年前半の成果の検証と後半への展望が、次号の大きなテーマになるでしょう。トップスターの変動もそろそろありそうな予感もしながら、4月には話題の新人の初舞台も控えていて、105周年の宝塚歌劇はマスコミを巻き込んでまたまた大きな旋風を巻き起こしそうです。宝塚ウオッチャーとしての『宝塚イズム』執筆メンバーも東奔西走、多忙な年になりそうですが、編著者としてはそのあたりの話題性に流されず、しっかりと宝塚のいまを見守っていきます。ご期待ください。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第10回 ヴィリー・ブルメスター(Willy Burmester、1869-1933、ドイツ)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

パガニーニの再来と謳われた逸材

 未曾有の大災害である関東大震災が起こった1923年(大正12年)の4月、世界漫遊の途次、ドイツのヴァイオリニスト、ヴィリー・ブルメスターがピアニストのヴィリー・バルダスを伴って日本の土を踏んだ。彼らは約4カ月間日本に滞在し、東京、大阪、京都、神戸、広島などを訪れている。ほぼ同時期にはフリッツ・クライスラーも来日していた。この2人のヴァイオリニストは5月頃、大震災の前触れといわれる地震に遭遇したが(関東大震災が起こったとき、すでに2人は日本を去っていた)、ともに人生初の地震体験だったという。リサイタルは、クライスラーのほうは大入り満員だったが、ブルメスターのそれは空席が目立った。クライスラーのレコードはビクターに多くあったが、これらは当時日本では非常に有名だった。一方、ブルメスターのレコードはほとんど流通しておらず、それでチケットの売り上げに差がついたらしい。かくしてブルメスターは「今度日本に来るときには、ビクター・レコードに録音してからにしよう」とつぶやいたらしいが、2度目の来日は、ついに果たされることはなかった。
 ブルメスターは1869年、ドイツのハンブルクに生まれた。父の手ほどきでヴァイオリンを始め、7歳のときに公の場で演奏して注目を集める。81年、巨匠ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムに認められ、12歳のときにベルリン高等音楽院に入学。しかし、その3年後(4年後とする説もある)、ヨアヒムは「ヴァイオリン以外の科目は全くだめ」として、ブルメスターを破門したとされる。87年、チャイコフスキーがハンブルクを訪れた際、ブルメスターがチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』を弾くと、チャイコフスキー自身から絶賛された。この成功がきっかけで、ブルメスターは88年と92年にロシアに招かれている。ハンス・フォン・ビューローとも交遊関係をもち、ヘルシンキ・フィルハーモニーのコンサートマスター(1892-94年)も務めた。94年11月、ベルリンでデビューし、注目を集める。ちなみに、当時のベルリンではヨアヒムやパブロ・デ・サラサーテ、レオポルト・アウアーなど、伝説のヴァイオリニストたちがしのぎを削っていた。1923年に日本を訪れてはいるものの、それ以降の活動状況についてはほとんど何も知られていない。33年、故郷ハンブルクで死去。
 ブルメスターは来日した際、“パガニーニの再来”と宣伝されていた。実際、ブルメスターは節目でパガニーニを演奏していたようだが、幸か不幸か、パガニーニの録音は残っていない。後年、ブルメスターはパガニーニ弾きのイメージを変えようとしたが、うまくいかなかったとされる。また、特にベルリンではヨアヒムを意識し、ドイツ物はなるべく避けていたともいわれる。晩年は病気説もあるが、いずれにせよ、最後の10年間はそれほど活発に活動していなかったようだ。
 2018年12月、東京・神田神保町のレコード社・富士レコード社が創業88年を記念して、CD『ヴィリー・ブルメスター全録音集』(F78-2)を発売した。ブルメスターの全録音とはいえ、曲数は13、SP盤14面分である。内容は以下のとおり。

バッハ「アリア」、同「ガヴォット」、ラモー「ガヴォット」、デュセク「メヌエット」、ヘンデル「アリオーソ」、同「メヌエット」、同「サラバンド」、シンディング「アンダンテ・レリジオーソ」(以上、1909年9月27日、ベルリン、グラモフォン)

フンメル「ワルツ」、ブルメスター「ロココ」(以上、1923年、日本、ニットーレコード)

ラモー「ガヴォット」、メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲ホ短調より第2楽章」(以上、1932年1月、デンマーク、エディソン・ベル)

 わずかこれだけの枚数なのに、過去に全録音を収録した復刻盤が存在しなかったのには理由がある。それは、特に日本録音とデンマーク録音が中古市場では極めて稀少であること。数が少ないということは、すなわち値が張るということ。日本録音は一時50万円ともいわれたが、デンマーク録音もそれと似たり寄ったりであるらしい。そんなわけなので、全点持っているコレクターは世界的に見てもごく少数であるため、上記の復刻CDも複数のコレクターがSP盤を持ち寄って完成したという。
 ブルメスターの音はピンと張っていて、透明感がある。しかも、音色は高貴な香りを漂わせ、上質な甘さもある。パガニーニ弾きといわれただけあって、切れ味はあのブロニスラフ・フーベルマンを思わせるし、ゲオルク・クーレンカンプのような男の哀愁みたいなものも感じさせる。唯一、ラモーの「ガヴォット」は新旧で聴き比べられるが、全体の解釈の基本は全く変わっていない。両方とも、とても魅惑的な演奏である。デンマーク録音は亡くなる前年の電気録音であり、これがブルメスターの実際の音に最も近いと思われるのだが、一方では1909年の録音にこれだけの情報量があるのかと、改めて驚いた。
 ところで、ブルメスターは来日の際、当時大阪に本社があったニットーレコード(日東蓄音器)に2曲、録音している。わずか2曲ではあるが、『ロココ』は唯一の自作自演として貴重である。来日アーティストの日本録音としては、テノールのアドルフォ・サルコリがヴェルディの歌劇『リゴレット』からの「女心の歌」を1912年に収録した例があるが(ロームミュージックファンデーションの『SP名盤復刻選集Ⅰ』に収録)、器楽奏者としてはこのブルメスターが最初ではないだろうか。当時はもちろん、マイクによる収録ではなくラッパ吹き込み(アコースティック録音)である。
 実は、私はブルメスターの全録音集のCD解説を依頼されたのだが、その際、インターネット上に流布している録音データの根拠を探し求めたのである。つまり、収録は4月とか、場所は大阪であるとか書かれているが、知る範囲では明確な根拠を示したものはひとつもない。
 当時の録音データがある可能性が最も高いと思われたのは、かつてニットーレコードが発売していた月刊誌「ニットータイムス」だった。調べた結果、この雑誌を最も多く所蔵していたのは大阪の国立文楽劇場の図書閲覧室と、京都市立芸術大学の日本伝統音楽研究センターだった。しかし双方が歯抜けだったため、私は2日かけて2カ所を訪ねたのである。
 その結果、録音データは一切見つからなかったが、以下の2点だけは確認できた。
①ブルメスターのレコードは1923年の「10月売り出し」である。
②予定では数曲以上録音するはずだったが、録音技師の不手際で、2曲しか商品化できなかった。
 ①「ニットータイムス」1923年10月号には「10月売り出し」の広告もあるが、同じ号にはブルメスターのレコードを買って感激した読者の投稿があるので、SP盤は8月末か9月の初め頃には店頭に出ていたと推測される。
 ②「ニットータイムス」1927年5月号の「吹込のEpisode」という記事のなかで、何度やってもうまくいかず、会社は莫大な吹き込み料金をフイにしたと記されている。
 録音場所は、可能性としては大阪本社の吹き込み所(録音スタジオ)が最も高いだろう。録音後、ただちに敷地内の工場でプレスできたからである。しかし、当時の「ニットータイムス」を見ると、東京にも吹き込み所はあったし(九段下にあったが、2012年にビルが解体された)、さらに意外なことには、ニットーレコードはあちこちに臨時吹き込み所を設置して録音していたのである。当時、きちんと調整されたピアノがあちこちにあるとも思えないので、ブルメスターの録音だって彼らが滞在していたホテルだったかもしれないし、どこかの練習室のような場所だったことも考えられる。
 大物アーティストの来日録音はしばしば雑誌の記事になっていたので、ブルメスターの録音についても、同様の記事が見つかれば解決できたかもしれない。ということで、インターネット上に記されているブルメスターの録音データは、1923年以外、全く信用がないものだと念を押しておきたい。なお、ブルメスターは『芸術家生活50年』という自伝(ドイツ語、英訳もあるらしい)を著していて、そのなかには日本滞在の章があるのだが、残念ながら日本録音についての記述は全くない。
 余話。自伝によると、ブルメスターは日本滞在後、クライスラーと同じ船に乗ってアメリカに渡ったという。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。
 

第18回 『宝塚イズム38』発売と、宝塚歌劇の様々な動きに思う

鶴岡英理子(演劇ライター。著書に『宝塚のシルエット』〔青弓社〕ほか)

 いよいよカレンダーが残り1枚になりました。すでに手元にあるチケットは2019年のものが格段に多くなっていて、月日の流れの早さには驚愕するばかりの毎日です。
 そんななか、そのカレンダーがラスト1枚になった12月1日、『宝塚イズム38』が店頭に並び始めました。今号の特集は「明日海・珠城・望海・紅・真風、充実の各組診断!」と題して、男役トップスターの交代が全くない年だった2018年のいまだからこそ語れる、花、月、雪、星、宙、各組の魅力と勢力分析を語ろうという企画で、それぞれの組の魅力や可能性を「我こそは!」と自負する書き手のみなさんが語っています。
 とはいえいつものことなのですが、「書籍」である『宝塚イズム』の締切り設定は雑誌と比べてかなり早く、これらの原稿がすでに上がってきていて校正作業が始まろうかという段階で、花組トップ娘役の仙名彩世が2019年4月28日花組東京宝塚劇場公演『CASANOVA』千秋楽をもって退団、宙組男役スターの愛月ひかるが宙組博多座公演『黒い瞳』『VIVA! FESTA! in HAKATA』千秋楽翌日の19年2月26日付で専科に異動することが発表され、私を含め書き手たちは原稿の差し込みと修正作業に追われました。いずれもここでこのような人事が動くとは予想していなかった事態で、格別な想いがあります。
 仙名彩世はこれまでトップスターになるための第一関門と考えられていた新人公演のヒロイン経験をもたずにトップ娘役の座をつかんだ人で、彼女の存在が、いまも与えられた場所で懸命に努力を重ねている、後に続く娘役たちにどれほど大きな励みを与えたか計り知れません。さらに、円熟期を迎えているトップスター明日海りおの3人目の相手役でもありましたから、明日海よりも先に単独で退団する道を選んだことには驚きもありました。けれども現在舞浜アンフィシアターで上演中の『Delight Holiday』で、一世を風靡した『アナと雪の女王』の「Let it Go」を東京宝塚劇場と変わらないキャパシティーを誇る大舞台で堂々と1人センターを張って歌いきる姿を見ていると、どこかでは満願成就のすがすがしさも感じます。あと半年、彼女のトップ娘役としての輝きを目に焼き付けていきたいと思います。
 一方愛月ひかるは、同期生の芹香斗亜が二番手男役スターとして加入して以来、宙組での立ち位置に一抹の不安こそ覚えてはいましたが、芹香とは巧みに居どころを分け、なお重要な役柄を演じてきていて宙組悲願の生え抜きトップスターの期待をその双肩に担っている人という想いは変わりませんでしたから、ここでの専科異動の衝撃は大きなものでした。ただ博多座公演『黒い瞳』では、トップスターに拮抗するほどの大役であるプガチョフを演じることが決まっていますし、現在発表されている範囲での2019年の宝塚作品ラインアップを見ても、この公演には愛月が必要なのではないか?と思えるものがすでに何本もあり、二枚目役からキャラクター性が濃い役柄まで幅広く演じられる愛月が専科に異動することは、発展的思考での人事だと信じたいと思います。専科で活躍したのちに組トップとして帰還した例は過去にも多いこともあわせて、愛月の今後の活躍に期待したいです。
 そんな人の動きのなかで、これは全く締め切りに間に合いようもなかったのが、星組スターの七海ひろきの2019年3月24日星組東京宝塚劇場公演『霧深きエルベのほとり』『ESTRELLAS(エストレージャス)――星たち』千秋楽をもっての退団発表でした。紅ゆずるが率いる星組では礼真琴が二番手スターとして確立していて、上級生の七海の進退に危惧するものがなかったのか?と言われれば、確かにその懸念は常にありました。しかし、星組全体のビジュアル度を確実に高めている「美しい男役」である七海の貴重さと同時に、『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀』の実質的な主人公・殤不患(しょうふかん)を堂々と演じて実力面でも申し分がない進化を遂げていた七海をぜひ大切なスターとして生かしてほしいと念願していただけに、この発表には無念の想いがつきまといました。それこそ専科に異動して多彩な活躍をしてほしかったという想いはいまも消えませんが、やはりそれは七海本人の美学にも左右されることなだけに、多くを語ることはできません。ただだからこそ、限られてしまった「男役七海ひろき」を堪能できる時間を大切にしたいですし、七海本人にもファン諸氏にも、喜びにつながるはなむけが贈られることを切に願います。
 こうなってくると、七海の同期生である月組の美弥るりかへの想いもまた大きくなっていますが、大劇場公演の休演で案じられた体調も無事に整ったようで、11月18日、連日立見席まで完売の大盛況のなか千秋楽を迎えた月組東京宝塚劇場公演『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフ1世役を盤石に務める姿に接して、心から安堵しました。フィナーレ冒頭の歌手、また男役群舞の「闇が広がる」のセンターなどで魅せる美弥の華やかさは圧倒的で、やはりいまの月組の豊かさを語るのに欠かせない人材であることを、いわば不在が証明した形になったと思います。2019年、主演を務めるバウホール公演『Anna Karenina』も壮絶なチケット難公演と化していて、千秋楽のライブ・ビューイングも決定し、ますます大きな存在になっていくことでしょう。さらなる活躍に期待したいです。
 そんな明日海りお、珠城りょう、望海風斗、紅ゆずる、真風涼帆が率いる各組に加えて、さらにもう一つ組が必要ではないか?とさえ思えるいまの宝塚の贅沢な陣容を語った『宝塚イズム38』では同時に「若手作家を語りたい!」と題して、小柳奈穂子、生田大和、上田久美子など期待の作家陣にもフォーカスしています。豊富なスターをどれだけ輝かせることができるかは、作家がいかに優れた作品を書いてくれるかにかかってくるだけに、こうした目線での論考も随時取り上げていきたい一つです。また、前述の月組公演『エリザベート』で大輪の花を咲かせて宝塚を巣立っていった愛希れいかが最も新しい宝塚OGスターとなりましたが、そんなOGたちの活躍を今号でも数多く取り上げています。近年では、東西に分けているにもかかわらずOGたちの活動が多彩なあまり、紙幅との兼ね合いが常に悩みの種ですが、今後も宝塚育ちの表現者たちにも丁寧な視線を注いでいきたいと思っています。
 なかでも大きな柱である「OGロングインタビュー」には、女優として破竹の勢いの活躍を見せている朝夏まなとが登場してくれました。ヒロインデビューを飾った『マイ・フェア・レディ』、12月8日に初日を開ける『オン・ユア・フィート!』の話題はもちろん、宝塚時代のターニングポイント、宙組のトップスター時代、さらに現在OGとして宙組の下級生たちや宝塚歌劇全体への想いを、非常に素直な言葉で語ってくれた、8,000字に及ぶ充実の内容になっています。こちらもぜひお楽しみください。
 こうして、慌ただしい師走のなかではありますが、一人でも多くの方に新刊を手にしていただけることを願いながら、変わらずに熱い想いを込めて宝塚を見つめる一年が過ぎていくのを感じる今日この頃です。

 

Copyright Eriko Tsuruoka
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第9回 ドゥヴィ・エルリ(Devy Erlih、1928-2012、フランス)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

異形のフランス・ヴァイオリン奏者

 ドゥヴィ・エルリはパリに生まれ、父からヴァイオリンの手ほどきを受けた。1941年からパリ音楽院でジュール・ブーシュリに師事(マルク・ソリアノ編著『ヴァイオリンの奥義――ジュール・ブーシュリ回想録:1877→1962』〔桑原威夫訳、音楽之友社、2010年〕のなかに、師ブーシュリについて記したエルリの一文が掲載されている)、44年、パドゥルー管弦楽団の演奏会でデビュー。翌45年、パリ音楽院を首席で卒業。55年、ロン=ティボー・コンクールで優勝、その年に初来日を果たす。その後、広く世界中で活躍するが、80年代以降たびたび日本を訪れ、多くの音楽祭に出演したり後進の指導にあたった。2012年2月、交通事故によって死去。
 エルリは特に日本にゆかりが深い奏者であったのにもかかわらず、一般的には指導者としての印象が強い。しかも、彼の録音の大半はデュクレテ・トムソン、フランス・ディスク・クラブ(Le Club francais du Disque)など、フランスのマイナー・レーベルにあるため(しかも、これらのマスター・テープは廃棄されている)、一般的な認知度を得にくい状況である。
 エルリのヴァイオリンはひとことで言うならば、情熱的で戦闘的であり、豊かなロマンがふつふつと湧き上がるようなものである。したがって、フランスの多くのヴァイオリン奏者に共通するような粋でしゃれた味わいをもちながらも、全体の印象はかなり異なっている。
 では、エルリの何から聴けばいいのか。比較的入手しやすいものでは、inaの2枚組みCD(番号なし)がある。このなかにはベートーヴェン(「第2番」)、ブラームス(「第3番」)、ドビュッシー、ルーセル(「第2番」)、ラヴェル、ミヨー(「第2番」)などのソナタ(録音:1960-62年、モノラル、放送録音、ピアノはジャック・フェヴリエ)が収録されている。やや乾いた音のスタジオ収録だが内容は充実していて、特にブラームス、ルーセル、ラヴェルが傑出している。しかし、彼の個性がより明瞭に表れているのは、ボーナス・トラックに含まれた、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」、1955年のロン=ティボー・コンクールでのライヴである。これは、誰にも似ていない、特別に個性的な演奏だ。ジャック・ティボーのような自在さにもあふれているが、ゲルハルト・タシュナーのような粘り強さと、ブロニスワフ・フーベルマンのような、次々と敵をなぎ倒すような突進力もある。モノラルだが、音もいい。
 同じチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』には、ピエール・デルヴォー指揮、コンセール・コロンヌ管弦楽団とのステレオ盤もある(録音:1962年3月28日、パリ、サル・ワグラム)。この演奏はデュクレテ・トムソンのLP(DL-CC-108)で聴いた。これはスペイン・プレス盤だが、オリジナルのフランス盤は数万円以上するので、手を出せない。演奏の基本は1955年ライヴと同じだが、全体のテンポはいくらかゆったりしている。しかし、やはりステレオの恩恵は大きく、ヴァイオリンの音がみずみずしい(そのほか、デュクレテ・トムソンには別録音のモノラル盤もあるらしいが、これは未聴)。
 グリーンドア音楽出版からはデュクレテ・トムソンのLP復刻が出ているが、同じ音源が別々のCDに入っていたり、使用LPの情報や録音データが記されていないなどの不備があるので、いちおう以下の2点をあげておく。
 ひとつはラロの『スペイン交響曲』(デジレ・エミール・アンゲルブレヒト指揮、ロンドン・フィルハーモニー交響楽団)である(GDCL-0031。ほかの資料によると録音は1956年10月29-31日、パリ、アポロ・シアター)。この曲はティボーの十八番だったわけだが、そのティボーに共通するような自在さは感じられる。しかし、エルリの演奏はもっと筆致が力強く、激しい。音は悪くないが、LP盤のノイズをカットしたせいか、高域にちょっと不自然な箇所もあるものの、それほど気になるという程度ではない。
『ドゥヴィ・エルリーの芸術』(GD-2058)はデユクレテ・トムソンのLP2枚分の小品が収録されている(録音:1955年、57年、ピアノはモーリス・ビューロー、アンドレ・コラール)。サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」など、エルリにはサラサーテがぴたりと合っているかもしれない。反対に、クライスラーの小品(「プニャーニの形式による前奏曲とアレグロ」「愛の悲しみ」「中国の太鼓」ほか)は、その濃厚な歌に多少違和感を感じる人もあるだろう。私自身は好きだが。
 最近CDになったバッハの無伴奏ソナタ&パルティータ全曲(ドレミ DHR-8061/2、録音:1969年)には、ちょっと驚いた。これはアデ(Ades)のLP復刻である。本当ならばアデのオリジナルLPで聴きたいのだが、3枚そろえると30万円から50万円程度必要なので、これはあまりにも現実離れしている。復刻に際しては盤面のノイズをきれいに除去してくれているのだが、そのせいか、ときどき高域に不自然な箇所がある。だが、安価で聴けるようになったことを素直に喜んだほうがいいだろう。とにかく、バッハの無伴奏で、これほど挑戦的で起伏が激しいというのは記憶にない。たとえば、『パルティータ第2番』。最初の2曲のスピード感はどうなのだろうか。〈シャコンヌ〉だって、音のドラマにあふれている。そのほかの曲も緩急の差が激しく、歌うところはしっかりと気持ちを込めている。これだけ個性的なのだから、あちこちで賛否が飛び交ってもよさそうに思うが、なぜかあまり話題にはなっていない。
 1980年10月7日、パリのサル・ガヴォーでのリサイタル、これは数少ないステレオ・ライヴである(スペクトラム CDSMBA008。2枚組みだが、もう1枚はミシェル・オークレールのライヴ)。モーツァルトのソナタやウェーベルンなどが収録されているが、惜しいことに高域に持続的なノイズが混入していて、ちょっと気分がそがれる。ただ、最後に収録されたベートーヴェンの『クロイツェル』は立派(ピアノはブリジッテ・エンゲラー)。幸いなことに、このベートーヴェンあたりになるとノイズはかなり目立たなくなり、かなり普通に聴ける。
 1990年12月に桐朋学園で収録された『現代無伴奏ヴァイオリン作品集』(フォンテック FOCD3129)も、エルリの演奏のなかでも重要である。内容はバルトークの「ソナタ」、ジョリヴェの「ラプソディックな組曲」、三善晃の「鏡」、マデルナの「アマンダより」である。これは、なかなかすさまじい切れ味と熱気である。これは長くカタログにあるものだが、これを聴いて、ほかのエルリの演奏を聴いてみようと思う人がもっといてもよさそうな気がする。
 以下はLPで聴いたものだ。ハチャトゥリアンの『ヴァイオリン協奏曲』(セルジュ・ボド指揮、セント・ソリ管弦楽団、Le Club francaise du Disque 64、録音:1956年3月30日、パリ、サル・ワグラム)。これはすばらしい。リズムはたいへん弾力性があり、伸びやかに歌う箇所での艶々した音色は忘れがたい。ある中古レコード店の店主がかつて「これはとてもいい演奏なんですけど、あまり知られていないですね」と言っていたが、全面的に賛同したい。
 バルトークの『ラプソディ第1番』(カレル・フサ指揮、セント・ソリ管弦楽団、Le Club francaise du Disque 4、録音:1953年9月12日、パリ、Maison de la Mutualite)も生き生きとして、冴え渡った演奏である。モノラルながら、音もいい。
 メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』(エルネスト・ブール指揮、南西ドイツ放送管弦楽団〔バーデンバーデン〕、デュクレテ・トムソン 255C048、録音:1957年7月、収録場所不明)もある。これはフランス盤の25センチ(10インチ)。音がこもっていて風呂場みたいであり(周波数特性がRIAAでないせいか?)、ちょっと聴きづらい。ほかのLPだと違う音かもしれないが、いい演奏だとは思わせるのだが、実感として伝わりづらいのが残念である。
 エルリが1955年に来日した際、彼の演奏を聴いた平島正郎は「さすがに技術はすばらしいが、音程を時に高くとりすぎる点が気にならないではなかった」(「シンフォニー」1955年12月号、東京交響楽団)と記している。これは誤解を招きそうな言葉である。つまり、「高くとりすぎている」というのは“間違っている”と受け取られがちだからである。かつてローラ・ボベスコが彼女自身の音程について「私の音程の取り方は、ちょっと変わっているでしょ?」と言っていたように、音程の取り方とは、実に一筋縄ではいかない。音程の取り方は育った環境や教わった先生など実にさまざまな要素が絡み合って熟成され、それが独自の音色と表裏一体になっている。それに、意図的に、正しいか間違っているかのスレスレを採用することだってあるだろう。こんなことも覚えている。確かピアニストのスティーヴン・コワセヴィチだったと思う。彼はベートーヴェンのソナタを演奏するときに荒っぽい感じを出したくて、調律の際、ほんのわずかオクターヴを狭めると言っていた。つまり、不協和音に、少しだけ近づけるわけである。
 自分はちゃんと聴いているぞということを強調したいのか、特に日本では弦楽器奏者に対してだけではなく、歌手やオーケストラなどにも音程がどうのと書く人は多い。本当に音程が悪ければ、そんな演奏家はすぐに消えてしまうだろう。だから、音程音程と騒ぐ人ほど、音程のことはわかっていないような気がする。

 

Copyright Naoya Hirabayashi
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。
 

第17回 月組、美弥るりか休演に思う

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 地震、大雨、台風と日本中、大変だった2018年の夏も終わりを告げ、ようやく秋らしくなってきました。宝塚大劇場も地震のときは「ショー・マスト・ゴー・オン」(小川友次理事長)と誰もいない劇場で公演を強行、ファンからの苦情が殺到して、さすがに台風のときは3時の回を休演するなど、危機管理のもろさが露呈されました。そんななか月組公演、ミュージカル『エリザベート――愛と死の輪舞(ロンド)』(潤色・演出:小池修一郎)宝塚大劇場公演でフランツ・ヨーゼフ役を演じていた美弥るりかが、9月22日から26日まで休演するという“事件”が起きました。
 初日に観劇したとき、ソロパートで高音が思うように出ておらず、音域が広い楽曲に思いのほか苦戦している印象で、やはり『エリザベート』という作品は一筋縄ではいかないのだなあと再認識していたのですが、やはり美弥自身の声の調子が本調子ではなかったということが、この休演でわかったのでした。
 出演者の休演は毎公演のようにありますが、今回のようなスタークラスの途中休演は最近では珍しいことです。『エリザベート』では2003年花組の東京公演のとき、退団公演だったエリザベート役の大鳥れいが体調を崩して休演、新人公演で主演した遠野あすかが急遽代役に立ったことがありました。新人公演では、カットされた曲があるため必死に覚え、やっと終わったと思ったら「まだフィナーレがある」と言われ、「やったことがなかったフィナーレがいちばん大変だった」とのちに聞いたことがあります。
 代役稽古は普段はおこなわれませんが『エリザベート』の場合は、不測の事態を考慮して必ずおこなわれていて、今回もそれが功を奏し、代役初日となった22日は2回公演とも15分ずつ遅らせて開演、フランツ役の月城かなと、ルイジ・ルキーニ役の風間柚乃らが熱演、主演のトート役の珠城りょうやエリザベート役の愛希れいかを筆頭に全員が一つのものを作り上げる緊張感にみなぎって、すばらしい出来栄えだったそうです。
 とはいえ、今回の休演騒動の裏に出演者たちの過酷なスケジュールが原因の一つに挙げられるのは想像に難くありません。このところの宝塚の過酷なスケジュールは想像を絶するもので、一般の企業ならとっくにブラックといって過言ではないでしょう。
 ちなみに今年の月組は1月が稽古、2、3、4月が宝塚大劇場と東京宝塚劇場で本公演、5月から3班に分かれて稽古、6月が赤坂ACTシアターなどで公演、7月が稽古、8月から『エリザベート』と休みなしのスケジュールが組まれていました。
 関係者の話では、美弥の場合「2、3、4月のショー『BADDY(バッディ)――悪党(ヤツ)は月からやって来る』(月組、2018年)で両性具有のような役を熱演して連日声を酷使したことで疲労がたまり、その後、休みなしに稽古、公演が続いたために、喉を休めることができなかったことが原因ではないか」といいます。
『エリザベート』は8月23日に開幕しましたが、その前の稽古の時点で、珠城、美弥らの喉の調子が本調子ではなかったため、ずっと声を出さない状態での稽古が続けられていて、演出の小池氏が初日を前にかなり焦っていたという話も伝えられています。
 完全な本調子に戻らないまま開幕してしまったわけですが、そのつけが1カ月後にまわってきたということでしょうか。休演する2日前、20日の終演後に2019年の宝塚バウホール公演『Anna Karenina(アンナ・カレーニナ)』のポスター撮影があり、それが深夜にまでずれ込み、翌21日の公演で美弥が声の異変を訴えたことから、急遽、新人公演でフランツを演じた輝生かなでが歌だけ吹き替えることになり、事なきを得ました。一日、様子を見たのですが、結局、22日から休演という最悪の事態になってしまいました。代役公演の決定は当日の朝9時。それから代役の場当たり、黒天使などの役替わりと、舞台裏は大変だったようです。出演者の体調管理の問題も浮き彫りになりました。
『雨に唄えば』(月組、2018年)に続いて『エリザベート』というスケジュールの立て方にもやや問題ありというほかありません。どちらもしっかりとした海外ミュージカルで、本来はじっくり時間をとって稽古してから本番という作品ばかり。それを1カ月あるかないかの短い稽古期間で上演という普通では考えられないサイクルで回しているのが宝塚。それをやってしまえるのも宝塚ということもいえますが、生徒たちの宝塚愛に製作サイドが甘えていて、ついつい無理をさせてしまうのだと思います。
 2019年も『ON THE TOWN(オン・ザ・タウン)』(月組)や『20世紀号に乗って』(雪組)などのミュージカルが次々に予定されています。これらはもともと宝塚のために作られたミュージカルではないので、女性だけで演じる宝塚では無理なナンバーがあります。とはいえ振りやキーを変えるとクオリティーが落ちるため、結局、出演者が無理してしまうのです。第2の美弥を出さないためにも、もう少し余裕をもったスケジュールを立ててほしいものです。
 さて『宝塚イズム38』(12月1日刊行予定)がいよいよ始動しました。現在、続々と原稿が集まってきている段階ですが、花組のトップ娘役・仙名彩世の退団が、原稿締め切り後に発表されました。これからそれをどうはめこむか頭が痛いところですが、常に動いているのも宝塚、どういうふうに料理されるか『宝塚イズム38』にご期待ください。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

長いあいだ魅せられ続けて、一冊に――『風俗絵師・光琳――国宝「松浦屏風」の作者像を探る』を書いて

小田茂一

 制作時期も作者も不詳の六曲一双の作品『松浦屏風(婦女遊楽図屏風)』(国宝。大和文華館蔵)の画面には、遊女や禿など18人が、何人かずつのグループを構成しながら描かれています。筆者はこの『松浦屏風』に半世紀近くにわたって関心をもち続けてきました。『松浦屏風』が展示される季節には、時折、奈良の大和文華館へと足を運びました。そしてこれとあわせて、尾形光琳作品を鑑賞することを通じて、今回の著作の枠組みを形成している仮説の一つずつが時間をかけて積み重なってきたと言えます。一双の屏風に展開されている多様な意匠を、光琳との関連で解き明かせるのではと考察したのが、本書のベースとなる内容です。
『松浦屏風』の遊女たちの面立ちや手指の表情などは、同じ大和文華館所蔵の光琳作品『中村内蔵助像』(1704年)の、内蔵助の顔貌や指先の繊細な表現法に似通った描き方になっているように感じられました。そしてまた、一双の画面に何株ずつかの燕子花が組み合わされ、繰り広げられている光琳作品『燕子花図屏風』(根津美術館蔵)とも、『松浦屏風』は近似的な画面構成であるように見えていました。『燕子花図屏風』に描かれる燕子花の配列パターンは、金箔地に人物群を並置した『松浦屏風』の画面では、華やかな小袖をまとった遊女たちへと姿を変え、画面に強いメリハリをもたらしているように思われます。『松浦屏風』もまた、『燕子花図屏風』と一対になる作品として尾形光琳によって構想され、18世紀初頭前後の元禄期に相次いで描かれたのではないかと推察するに至りました。本書に記したそれぞれの仮説は、何かの拍子にふと感じ取った一つずつのイメージの積み重ねがベースになっています。
 晩年の光琳が画房を兼ねて京の街なかに建造した大きくゆったりとした住まいが、熱海のMOA美術館の敷地内に復元されています。これを見るとき、光琳がひとりの「風俗絵師」として、かなりの成功を収めていたことが感じ取れます。この住居の2階には、広い画室が設えられています。
『松浦屏風』と光琳の連関をたどっていく過程で最もヒントがほしかったのは、作品の制作時期についての絞り込みでした。作品が描かれたのは18世紀初頭前後の元禄期ではないかという推定の根拠は、『松浦屏風』の画面のなかにありました。作者はカルタをめぐって、粋な趣向を凝らしていたのです。本書では、このことが最後に気づいた事柄でした。画面に描かれているカルタは「天正カルタ」ですが、この「天正カルタ」に「三つ巴」マークが追加されることで「うんすんカルタ」へと変遷しました。そして作者は、「うんすんカルタ」に新たに加えられたのと同じ「三つ巴」を、カルタに興じる遊女がまとう打掛図柄に反復文様として描出しているのです。このことは『松浦屏風』の作者が、カルタのこの大きな変化に着目しながら、カルタに興じている人物の衣裳図柄として適用するアイデアを構想したものと推察しました。この事実は、作品が描かれたであろう時期を限定してくれると考えます。
 本書では、カルタをはじめ、江戸時代の「風俗」的事象についての把握が、論を進めるうえでの大きな要素になっています。しかし筆者にとっては、十分な理解を持ち合わせていない分野です。また「風俗」は、いわば生活文化を具現化したものといえ、大衆の営為でもあるがために、各時期のキーとなる情報や記録は、それほど多くは残されていません。しかし、風俗を反映させながら描かれているこの『松浦屏風』を解明していくにあたって、たとえば衣服や髪形の流行とその変遷、遊里の日常のありようなどへの知見は、描かれた時期と作者像をイメージするうえで多いに越したことはないと考えます。このような事情もまた、これまで『松浦屏風』について十分な議論がおこなわれてこなかったことにもつながっていると感じています。
『松浦屏風』の描写内容と光琳芸術とのつながりを積み重ねていく取り組みを続けているあいだに、世のなかのデジタル化は急速な進歩をとげました。一枚の画面に面差しが似た人物が繰り返し登場する『松浦屏風』の「異時同図」としてのありようや、尾形光琳作品との顔貌などの近似性といった事項の検証は、たとえば「顔認識システム」を援用しながら、より精緻にできるかもしれないとも感じています。IT利用による比較方法などについては意識しながらも、今回は触れることがありませんでした。本書での検証内容は、あくまで肉眼での見え方による評価に基づいたものなのですが、デジタル技術を用いた図像解析なども、今後の研究を進めるうえでの課題のひとつかもしれないと考えています。

 

棚田にも犬像にもその土地と切り離せない物語がある――『犬像をたずね歩く――あんな犬、こんな犬32話』を出版して

青柳健二

「青柳さんには、棚田の写真も犬像の写真も同じようなものなんですかねぇ?」
 ある新聞社から犬像の取材を受けたとき、記者からそう聞かれて、私はハッとしました。
 実は数年前、犬像の写真を撮るようになったとき、私の写真を見てくれていた人からは「犬像?」とけげんな顔をされたのです。それまで撮っていた棚田の風景写真と犬像の写真では、被写体として大きく違っていたからでした。
 ある雑誌に企画を持ち込んだとき、担当者が「犬像」の意味がわからないようだったので、「渋谷駅前にありますよね、忠犬ハチ公の像が。あんな感じの犬の像なんですが、全国にたくさんあるんです」と説明してようやくわかってもらえたのですが、しかし今度は、あからさまに、犬の像なんか写真に撮る価値があるのか?、それのどこがおもしろいんだ?というふうに感じているようでした。なので、企画は当然ながら没でした。
 それまで普通にあったもののなかに新しい価値を見いだすのが写真家の仕事だと思っていますが、その端くれでもある私は、他人にその新しい価値を知ってもらうのは難しいこともわかっています。
 実際、棚田を撮り始めたときも同じだったのです。いまでこそ、棚田という言葉も市民権を得てすぐわかってもらえますが、1995年頃は、棚田なんて10年もすれば全部なくなってしまう過去の遺物くらいに思われていたし、「棚田って何ですか?」と同じように聞き返されていた時代もあったのです。
 でも私のなかでは、棚田にも犬像にも、何か共通するものがあるとうすうすは気がついてはいました。それが言葉にならなかったのですが、他人に指摘されて、その思いは確信に変わりました。
 棚田にも犬像にもその土地と切り離せない物語がある、ということなのです。棚田の場合、その土地の歴史や地形が、雲形定規のような棚田の形を決めているといってもいいでしょう。犬像も、その土地と切り離せない物語をもっています。犬像が「そこ」にある意味が私には大切なのです。
 私は、その土地がもつ物語を探して歩くのが好きなようです。全国各地に点在する物語を探して、それをまとめるという作業は、棚田も犬像も同じかなと。
 ある犬像は、街のキャラクターになったところもあります。たとえば、静岡県磐田市のしっぺい太郎の物語から、ゆるキャラ・しっぺいが、奈良県王寺町の聖徳太子の愛犬・雪丸の物語からは、ゆるキャラ・雪丸が誕生しています。その土地独特の犬たちが、現代にゆるキャラとしてよみがえっているのです。何もないところから作り出されたフィクションの犬ではありません。もちろん誕生当時はフィクションの犬もあったかもしれませんが、それが何百年もの歳月をかけて、その土地の歴史に組み込まれています。
 だから、どこにあってもいい犬像(土地とのつながりがない犬像)には、あまり興味がわきません。今回の書籍での私なりの「犬像」の定義からは外れるからです。例えば、あの携帯電話会社の白い「お父さん犬」の像ですね。その土地に根差した物語がないからです(そもそも、これはコマーシャルなのですが。もちろん、「お父さん犬」も何百年かたてば歴史になるかもしれませんが)。
 だから犬像は棚田と同じように、町おこしに結び付きます。土地独特の魅力を、棚田や犬像が代表していると言ってもいいかもしれません。実際、「しっぺい」も「雪丸」も、町おこしに一役買っています。
 ところで、人の顔の判別には「平均顔」説というのがあります。例えば、日本人なら日本人の顔の平均を知っているので、そこからどれだけ外れているかの「差」で判別しているということです。外国人が日本人の顔がみな同じに見えるというのは、日本人の「平均顔」を知らないからで、反対に、日本人は外国人の「平均顔」を知らないので、みな同じに見えます。
 海外旅行すると、その国の滞在が長くなるにしたがって、その国の人の顔の区別がつきやすくなるという体験は私にもあるので、この説は説得力があります。
 多くの犬像を見て回ることで、その犬像の「平均顔」がわかってきます。そのとき、個々の犬像の全体における位置というのが客観的に見えてきます。今回の著書で、13章のカテゴリーに分けたのも、それが理由です。平均値がわかれば、個々の犬像の意味というか、性格もわかるということなのです。
 読者のみなさんには、本書を持って犬(忠犬・名犬)にゆかりがある場所をたずねる「聖地巡礼」をしてみてはいかが?、と提案します。
 多くを回ることで、先に言ったように、犬像の平均値がわかり、個々の犬像についてもより客観視できるようになるだろうし、こんなにもいろんな意味をもっている犬像があるのか、こんなにもバリエーション豊かな犬像の物語があるのかと、驚くことがたくさんあると思います。そこから、犬と人間の関係、もっと言えば、動物や自然との関係なども見えてくるのではないでしょうか。

 

最終回 ユーミンの生まれた街で――八王子と国道20号線/国道16号線

塚田修一(東京都市大学・大妻女子大学非常勤講師。共著に『アイドル論の教科書』『失われざる十年の記憶』(ともに青弓社)、『戦争社会学ブックガイド』(創元社)など)

八王子と国道20号線

 先頃上梓した『国道16号線スタディーズ』(青弓社、2018年)で扱いきれなかった国道16号線(以下、16号と略記)沿いの地域について気になる読者がいるかもしれない。そんな地域の一つ、東京都八王子市について、この場を借りて考察してみよう。
 八王子の性格にとってまずもって重要なのは、甲州街道、すなわち国道20号線(以下、20号と略記)である。
 甲州街道の宿場町として栄えた八王子は、交通の要衝でもあり、特に江戸時代後期から明治にかけては、上州や甲州からの生糸が、甲州街道を通って八王子に集まった。また、明治期の八王子は、西陣や桐生、福井などと並ぶほどの、国内でも有数の絹織物産地となる。その商品は「八王子織物」として全国に流通した(1)。

ユーミンと20号線

 この八王子で呉服商として財をなしたのが「荒井呉服店」だった(1912年創業)。アーティスト・松任谷由実の実家である。だから、ユーミンを規定しているのもやはり20号なのだ。彼女の楽曲がもつ「中産階級」性、大月隆寛の指摘を借りれば、「ただ単にカネを持っている、というのでなく、ある程度の「趣味」を支えうるだけのある程度のカネを持てる生活基盤を持ち、またそのカネを正しく「趣味」の分際を守ってゆく程度に使ってゆく、そんな生活上の価値観がぶれることのないある階級(2)」性は、この甲州街道=20号を通ってもたらされたものにほかならない。
「子供の時は自宅とお店がうなぎの寝床みたいに通りを二つ、表通りが甲州街道っていう国道20号線と、裏通りと、間が100メートル以上あるかしら。そこに細長くあって(3)」と語る、20号に面したこの家で、彼女の感受性は養われたという。
「家がイマジネーションかきたてられる場所でもあったっていうか。空想するのが好きな子だった。私のね、全国区の感じっていうのは、その頃の影響かもしれない。すごくたくさん大阪や京都の人の出入りがあったんで、関西弁とか関西ノリっていうのに慣れてたから(4)」
 また、デビュー後のユーミンは、都心からの帰り道にもやはり、都心と八王子を結ぶこの20号を通ることになる。ただし、彼女は20号の高速道路版である中央自動車道を使うことのほうが多かったのかもしれない。よく知られているように、都心から八王子に向かう中央自動車道の風景を歌ったのが「中央フリーウェイ」(『14番目の月』〔1976年〕収録)である。
 松任谷正隆からプロポーズを受けたのもやはり、20号の近くを走るクルマのなかだったようだ。
「〔松任谷正隆からの〕プロポーズも、クルマの中だった。送ってくれる途中でね。中央フリーウェイを八王子で出ちゃうとわりとすぐなんだけど、府中で出て、高幡不動のほうを通って帰ることがあったわけ。気にいってる景色があって、あちらに友達が住んでるということもあったしね。府中で出て、造成地みたいなところ通るときに彼がいったような覚えがあるなあ(5)」

八王子と16号

 だが、それでも気になるのは、八王子、そしてユーミンにおける16号の存在である。ユーミンの実家の「荒井呉服店」は、ちょうど20号と16号とが重なっている(だから、20号でもあり16号でもある)区間に面しているのである(写真1・2)。

写真1 八王子駅近くの国道20号線。この先から20号と16号が重なる(2018年4月26日撮影)
写真2 国道20号線/16号線に面した荒井呉服店(2018年4月26日撮影)

 明治期までの八王子で、現在の16号は産業道路だった。八王子に集まった生糸は、ここから現在の16号を通り、横浜へと運ばれ、諸外国へ輸出された。だからそこは「絹の道」や「日本のシルクロード」と呼ばれた。八王子市内の16号の近くには「絹の道資料館」がある。
 しかし、16号についてのユーミンの認識はそれとは異なるようだ。

ユーミンと16号線

 ユーミンが16号を歌った曲に、「哀しみのルート16」(『A GIRL IN SUMMER』〔2006年〕収録)がある。この曲について、ユーミン自身がこうコメントしている。
「ルート16、国道16号線というのは、横浜や横須賀と厚木、座間の基地を結ぶ米軍の物資を輸送する軍用道路でした。八王子の生まれで、基地も近かったし、私があの頃感じた独特のキッチュ感を、歌に織り込んで……。(略)思い浮かんだのは、国道を疾走する車。フロントガラスを叩きつける激しい雨、土砂降りの雨。昼間なのか、夜なのか、土砂降りの雨でわからない。時刻がわからない。それに前も、先も見えない。募る不安、焦燥感。今日限り、これっきり、という最後の別れのドライブ…………(6)」
 まず、「16号は軍用道路だった」という彼女の認識を確認しておきたい。『国道16号線スタディーズ』の第5章「「軍都」から「商業集積地」へ――国道十六号線と相模原」(塚田修一/後藤美緒/松下優一)でも記述したが、ベトナム戦争中は、アメリカ軍相模原補給廠で修理された戦車がこの道を通って横浜ノースドックへ運ばれた。「わりと湘南方面に友達がいろいろできて、海とか見に行ってたわけ。クルマ持ってる子とじゃないと付き合わなかったから(7)」というユーミンが、友達の車で送り迎えしてもらっていたとすれば、この「軍用道路」としての性格が濃かった時期の16号を通っていたはずである(9)。
 それにしても、「キッチュ」という評価が気になる。確認しておくが、ユーミンはアメリカ軍基地に対しては好意的である。少女時代に立川基地や横田基地に入り浸っていた思い出を語っているし(9)、立川基地を歌った楽曲として、「雨のステイション」(『COBALT HOUR』〔1975年〕収録)や「LOUNDRY――GATEの想い出」(『紅雀』〔1978年〕収録)があることもよく知られている。
 しかしユーミンは、それなりに身近であったはずの16号沿いの神奈川のアメリカ軍基地については歌わないのだ(10)。そしてそれらの基地を結ぶ16号を「キッチュ」と感じていたのである。実際、そんな16号を、ユーミンは「中央フリーウェイ」の実に30年後まで歌わなかった。
 ユーミンにとっての「アメリカ軍基地」とは、あくまで立川や横田のことなのだ。神奈川のアメリカ軍基地、そしてそれを結ぶ16号は、ユーミンにとっては、特別意識することなく、「素通り」するものとしてあったのだ。
 ――いや、こうしたユーミンの振る舞いは、多分、正しいのだ。この「意識されない」「素通りされる」というあり方こそ、本書で描き出した16号のあり方の一つ――本書第7章「不在の場所――春日部にみる「町」と「道」のつながり/つながらなさ」の鈴木智之の言葉を借り受ければ、「不在の場所」――にほかならないのだから。
 そして、「2000年代」以降に浮上する、16号のロードサイドのどこか殺伐とした空気感を「16号線的なるもの」と呼んでその背景を考察し、さらにはそこを生きるトラックドライバーについても考察した(第3章「幹線移動者たち――国道十六号線上のトラックドライバーと文化〔後藤美緒〕)にとってみれば、ユーミンが、2000年代になって「最後の別れのドライブ」の舞台として16号を歌ったこと、しかもその歌詞には「長距離便(トラック)」が歌い込まれていることに、ちょっとした必然性を感じてしまうのである。


(1)八王子市市史編集委員会編『新八王子市史 通史編5 近現代』上、八王子市、2016年、136―138ページ
(2)大月隆寛「みんな〈ユーミン〉になってしまった」『80年代の正体!――それはどんな時代だったのか ハッキリ言って「スカ」だっだ!』(別冊宝島)、JICC出版局、1990年、46ページ
(3)「永遠の不良少女と呼ばれたい」、角川書店編「月刊カドカワ」1993年1月号、角川書店、24ページ
(4)同記事23―24ページ
(5)松任谷由実『ルージュの伝言』(角川文庫)、角川書店、1984年、118―119ページ
(6)BARKS「最新作『A GIRL IN SUMMER』を松任谷由実本人が全曲解説!」(https://www.barks.jp/news/?id=1000023346)
(7)前掲『ルージュの伝言』55ページ
(8)多くの人は意識しないだろうが、「海を見ていた午後」(『MISSLIM』〔1974年〕収録)で歌われ、お洒落なデートスポットとなった横浜・山手(正確には根岸)のレストラン「ドルフィン」の近くには16号線が走っているのだ――八王子と「ドルフィン」を結ぶ道はこの16号線である。
(9)「八王子の家から、20分ぐらいで立川とか横田のベースへ行けたわけ。(略)だいたいはハーフの友達とか、みんな16ぐらいでもうクルマ持ってたから、そういう友達に迎えにきてもらうのよ。ベースに行くとPXでレコードも買えるのね。彼女たちはおしゃれとか男の子に夢中で、どうしてそんなにレコード買いあさるのよ、って変な眼で見てたけど、私はもうレコードに夢中。輸入盤は840円ぐらいだったんじゃないかな」(前掲『ルージュの伝言』42―43ページ)。
(10)岡崎武志は、「天気雨」(『14番目の月』〔1976年〕収録)に歌われる「白いハウス」は、米軍座間キャンプ内の米兵住宅のことではないかと推測している(岡崎武志『ここが私の東京』扶桑社、2016年)。ただし、それは16号線ではなく、「相模線にゆられて」ながめているものである。

 

Copyright Shuichi Tsukada
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第16回 キリシタンと宝塚歌劇の相性――『MESSIAH』を中心に

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 月組のトップ娘役、愛希れいかのサヨナラ特集をメインにした『宝塚イズム37』が書店に並んではや1カ月、そろそろ年末(12月1日刊行予定)の『38』に向けて始動する季節になってきました。とはいえ、例年にない酷暑の夏、なかなか頭の切り替えができません。
 宝塚大劇場では現在、花組のトップスター、明日海りおが天草四郎時貞に扮したミュージカル『MESSIAH(メサイア)――異聞・天草四郎』(作・演出:原田諒、7月13日初日)を上演中です。
 天草四郎時貞は江戸時代初期、幕府による禁教令が敷かれたあとも隠れキリシタンの人々が多くいた九州・天草の地に流れ着き、島原藩主のキリシタン弾圧と過酷な年貢の取り立てに天草そして島原の人々のために立ち上がり、救世主(メサイア)といわれたカリスマ的存在の少年です。2018年6月30日に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に決まり、天草四郎時貞が総大将として立てこもった原城跡も指定されるという絶好のタイミングで初日を迎え、明日海の渾身の熱演もあって公演は大いに盛り上がっています。
 とはいえ2017年末、明日海率いる花組が『ポーの一族』を上演する直前にこの公演が発表され、『ポーの一族』の主人公エドガーが14歳、天草四郎時貞も16歳前後、トップスターの明日海に少年役が続くということと、いまなぜ天草四郎なのかと上演に疑問を投げかける人も多かったのですが、世界遺産が発表されたいまとなっては原田の慧眼と歌劇団の先見の明に納得せざるをえなくなったことでしょう。原田は、倭寇の頭目・夜叉王丸が天草に漂着して天草四郎時貞と名乗り、隠れキリシタンの人々の熱い信仰に感動して、弾圧する島原藩主に対して立ち上がる決意をするという新解釈でストーリーを展開、天草四郎時貞の年齢を実際よりもかなり上の20歳前後に設定しました。これなら明日海ファンもすんなりと受け入れられる設定です。そのおかげでこれまでに知られた伝説とはかなり趣が異なった作品に仕上がっているともいえますが、無神論者の少年がなぜ人々のために立ち上がり、人々はそれに従ったのかという説明には納得できるものがあり、信仰とは何かを改めて考えさせられました。
 一方、天草四郎時貞はこれまでにも何度か宝塚歌劇で取り上げられています。1972年の花組公演『炎の天草灘』(作・演出:阿古健)では甲にしき、83年の月組公演『春の踊り――南蛮花更紗』(作・演出:酒井澄夫)ではショーの一場面ですが大地真央が演じています。阿古版は、天草四郎時貞が立ち上がるまでを描いていました。それに対して原田版は、原城陥落シーンのあとエピローグも含めた完全版。1時間35分でここまでまとめた手腕はさすがでした。とはいえ、甲も大地もいずれもその時代を代表する宝塚のカリスマスター。宝塚歌劇には悲劇の美少年がことのほか似合います。
 ついでにキリシタン大名と宝塚という観点で上演歴を調べてみると、キリスト教を日本に伝えたといわれるポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルの日本渡来400年記念と銘打った歌劇『高山右近』(作・演出:香村菊雄)を1949年に上演していました。神代錦がキリシタン大名の右近を演じ、星組で初演、雪組で続演しています。それに関連して63年にはローマ遣欧少年使節の悲哀を描いた大作、ミュージカル・ロマンス『不死鳥のつばさ燃ゆとも』(作:平岩弓枝、演出:春日野八千代)を上演しています。春日野が自ら中浦ジュリアンに扮して主演した話題作で、これも雪組と月組で2カ月連続上演されています。
 迫害のなか、長年にわたって生き続けた隠れキリシタンのピュアで強い信仰心は、どことなく宝塚歌劇自体の特殊性と通じるところがあり、宝塚でもたびたび取り上げられてきたようです。そのあたりを考えても、いま天草四郎時貞は宝塚歌劇で上演する絶好のタイミングなのかもしれません。「清く、正しく、美しく」は創始者・小林一三が提唱した宝塚のモットーですが、これも隠れキリシタンの精神に共通するところがあり、謎多き天草四郎の真実が、宝塚というフィルターを通して透けて見えてくるのも面白いところです。
 天草四郎時貞と隠れキリシタンからとんでもないところに飛び火してしまいましたが、宝塚歌劇はそれくらい様々なジャンルの作品を平気で羅列して上演するところです。エリッヒ・マリア・レマルクの『凱旋門』があるかと思えば、萩尾望都の『ポーの一族』があり、モンキー・パンチの『ルパン三世』まで。そこに、いかに宝塚らしさを見いだすかが作者の腕のみせどころなのです。
 2018年後半は、いまや『ベルサイユのばら』以上の切り札となった空前のヒットミュージカル『エリザベート――愛と死の輪舞(ロンド)』の再演、レオナルド・ダ・ビンチの愛憎を描いた新作『異人たちのルネサンス』、そして人気ミュージカル『ファントム』再演と続きます。安定路線のあいだに少しばかりの冒険を加えて、新鮮さを保持していくというやり方は、ここ数年のパターンです。19年以降も当分はこの方針が続いていくようです。
 トップスターの布陣は、2017年の宙組・朝夏まなと退団以降はまだ動きはありませんが、次期トップスター候補が出そろってきた19年には一気に各組の新陳代謝がありそうです。『宝塚イズム38』も、新しい動きを見据えながら準備をしていきます。ご期待ください。

 

Copyright Tetsuji Yabushita
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。

第8回 国道16号線の団地とニュータウンをめぐる――八千代市周辺を学生とドライブする

佐幸信介(日本大学教授。共著に『失われざる十年の記憶』〔青弓社〕、『触発する社会学』〔法政大学出版局〕など)

はじめに

 国道16号線(以下、16号と略記)を白井市や船橋市、八千代市、千葉市のあたりを車で走っていると、様々な「団地」や「ニュータウン」に出合うことができる。古いものも新しいものもある。
 郊外を論じる際に多摩ニュータウンが取り上げられることが多い。『失われざる十年の記憶――一九九〇年代の社会学』(青弓社、2012年)のなかで「郊外空間の反転した世界」を論じたときも、私自身が想定していたのは多摩センター周辺の郊外だった。しかし、16号を補助線にしてみると、あらためて東京以外の神奈川、埼玉、千葉にある多様な郊外型の集合住宅群の空間的なボリュームの大きさに気づかされる。16号は、団地やニュータンの歴史をたどり直すことができる格好のフィールド・ロードである。
「住宅55年体制」という言葉がある。戦後政治の55年体制に意味を重ねた言い方で、住宅の分野でも「戦後体制」が1955年に始まったことを指している。住宅金融公庫(1950年)、公営住宅法(1951年)に加えた住宅公団の設立(1955年)の3本によって戦後の住宅政策の整備が進められてきた。この戦後体制は、持ち家政策と住み替え(ハウジング・チェーン)によって、住宅階層を形成した。そして、「持ち家-ハウジング・チェーン-住宅階層」の垂直的な構造は、住むための空間を郊外へと水平的に拡張した。
 しかし、住宅公団は1981年に解散して、その後、住宅・都市整備公団(1981年)、都市基盤整備公団(1999年)、さらに都市再生機構――UR都市機構(2004年―)へと制度再編を経ることになる。現在では、ポスト戦後とか、ポスト・バブルといった言い方がなされ、90年代の後半以降、住宅55年体制のシステムは変容して、住宅の供給と需要のほとんどが市場の論理のなかで進められる。その結果、都市空間の新たなジェントリフィケーションの進行や社会的格差を生み出した。住宅も空き家問題をはじめシステム内が虫食い状態の空洞化が生じている。また、団地やニュータウンの高齢化も問題となっているが、それは人口的な高齢化だけでなく、住空間もまたエイジングするのだということをあらためて思い知る。

ドライブ1――八千代台団地に向かう

『国道16号線スタディーズ』の拙論「死者が住まう風景」を書くために、八千代市や佐倉市に在住している学生にも同行してもらい、八千代市周辺を車で2回ほどドライブした。1回目の取材は主に霊園をまわり、2回目は団地やニュータウンにまで範囲を広げることにした。霊園については、「死者が住まう風景」で検討しているので、このリレーエッセイでは団地やニュータウンに触れてみようと思う。
 まずは、公団住宅で最も古いものの1つである「八千代台団地」。1957年に入居が始まった。京成電鉄・八千代中央駅には石碑がある。テラスハウス型で、2階建ての住戸が連なる住棟がおよそ30棟。こじんまりとした集住空間である。八千代中央駅から5分ほどのところにあり、住宅街のなかにたたずんで建っているという印象。ここを見つけるのに多少迷ったが、八千代台団地を目にしたとき、ある種の感慨を覚える。確かに古くなっているが、同時期の阿佐ヶ谷住宅と同様に、50年代の住宅公団は高層の団地とは別のプランに挑んでいたことがうかがえる。

写真1 八千代中央駅前にある石碑(筆者撮影)
写真2 八千代台団地(筆者撮影)

 住棟の配置はシンプルだが、集住することが集落の形へと空間的に拡張していきそうな可能性があったのでないかと感じる。阿佐ヶ谷テラスハウスもそうだが、この団地もモダニズム的で、もしこの方向性が集合住宅の1つの軸になって試みがおこなわれていたら、私たちの戦後の住む経験も違うものになっていたのではないか。
 以前、仙台市の市営住宅をプランニングした小野田泰明さんに案内してもらったことがあるが、その集合住宅も集落的だった。八千代台団地を前にして、仙台の市営住宅のことを思い出すと、途絶えてしまった可能性の重要性を感じる。積層型の団地が★戦後的:傍点★な形式として量産されてきたのに対して、仙台の市営住宅のような集合住宅の公的な試みは、熊本の県営保田窪団地や、岐阜のハイタウン北方など限られたものしかない。

ドライブ2――高津団地・村上団地・米本団地

 次は、高津団地、村上団地、米本団地。ある意味で典型的な団地である。
 高津団地は1972年に入居開始。16号から成田街道を習志野方面に向かった、左側のエリアに造成されている。陸上自衛隊習志野演習場がすぐ近くにある。村上団地は、76年に入居開始。16号と東葉高速鉄道・村上駅が交叉するエリアに立っている。この団地は、長期にわたって建設されていて、92年まで新しい住棟が建設されていたようだ。米本団地は、70年に入居開始。16号沿いに立ち、村上駅や勝田台駅との間をバスが運行している。駅が徒歩圏内になく、16号とともに造成された団地である。
 米本団地、高津団地、村上団地の順に新しいが、立地は米本団地が異質である。丘陵地に林立する住棟群である。また、比較的新しい村上団地の住棟は、高層で立てられているものもあり、高層へと向かった住戸プランをみることができる。
 同行した学生たちの感想は、直接的で辛辣でさえある。「マンションだと直接外とつながっている感覚があるが、3つの団地はどこも敷地内には入っていけないような感じがあり、ここに住むにはフィルターが1つあるような印象」とか、「住んでもいいなあと思えるのは、○○団地だけ。町っぽい雰囲気があって、団地の外ともなじんでいる感じがする」「団地に住んだことなく、イメージがいままでもっていなかったけれど、古くなるというのにもいろいろなタイプがあるということがわかった」など。

写真3 高津団地(筆者撮影)
写真4 村上団地(筆者撮影)
写真5 米本団地(16号から、筆者撮影)

 少なくとも現時点では、千葉県の郊外にある団地は、学生にとっては住む対象からは除外されている。かといって集住のスタイルそのものを拒絶しているわけでもないようだ。東京都内の団地をリノベーションしたアートスペースに顔を出す者や、中央区のまだ残っている長屋形式の集合住宅や近くにある銭湯を気に入り、近所付き合いを楽しんでいる者もいたりして、その意味では住むことから派生する経験的な意味の幅を重視している。

ドライブ3――千葉ニュータウン

 印西市から北総線沿いに16号に向かって車を走らせると、これまでみてきた団地とはまったく異質な千葉ニュータウンの風景のなかに入り込んでいく。千葉ニュータウンは、印西市、白井市、船橋市の3つの市にまたがる広域かつ大規模なニュータウンである。駅は、北総線の西白井、白井、小室、千葉ニュータウン中央、印西牧の原、印旛日本医大と6つの駅の範囲におよぶ。計画は1966年に始まり、入居の開始は79年。未造成の更地のエリアがあり、その規模は現在でも拡張し続けている。

写真6 千葉ニュータウン(筆者撮影)

 荒涼感がある平地に突如として現われた千葉ニュータウンの姿に、「千葉ニュータウンだ!」と車内で声が上がる。北総線沿いの道路には、ファミリーレストラン、ラーメン屋、家電量販店、ホームセンターなどが乱立して、ロードサイドの典型的な風景だ。観覧車も見える。「ビッグホップガーデンって、ちょっと元気ないんだよね」「あの観覧車は、小さい頃1回だけ乗ったことがあるけど、あまりいかなくなった」「イオンモールができたことが影響しているんだろうか?」「ここのファミレスは、日本で一番くらいの売り上げらしい」「ここのスパもけっこうはやっていると思う」――団地では言葉少なだった学生たちが、千葉ニュータウンとロードサイドでは、会話が闊達になったことが印象的である。
「千葉ニュータウンといえば、神聖かまってちゃんのこの曲でしょ」と、車のカーステレオにスマートフォンからBluetoothでつなぎ、「26才の夏休み」という曲が流れ始める。
「26才の夏休み」は、千葉ニュータウンを歌った曲だ。ボーカルの「の子」は、千葉ニュータウンで育った。メンバー4人のうち、3人が幼なじみ。神聖かまってちゃんは、ライブのバンドである。そして、「YouTube」と「ニコニコ動画」とSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でつながる。
「神聖かまってちゃんは、映画の『ロックンロールは鳴り止まないっ』(監督:入江悠、2011年)が、最初だった」「高校1年か2年のときだよね。あのときは、何か触れてはいけないバンドだと思っちゃってた。でも、高校のときは、ついつい聞いていた」「またライブにいきたくなった。単なるノリじゃなくて、自分もハラハラする感じってほかにないし」「非リア充とか言われたりするけど、そう言われることに、の子は嫌がっているって聞いたことがある」「激ヤバなバンドだよね」(ちなみに、激ヤバは肯定的表現)
 千葉ニュータウンから生まれたロックは、自動車のドライブにはふさわしくない。車から見える整った風景と、車内の音楽、会話とがねじれだす。それは、私自身が神聖かまってちゃんをめぐる学生の会話から、完全に孤立してしまったからかもしれない。スピーカーから流れる、の子の声は、千葉ニュータウンの「僕」の世界を叫んでいる。

 

Copyright Shinsuke Sakou
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。