美術批評の魅力から始めて――『メルロ=ポンティの美学――芸術と同時性』

川瀬智之

『メルロ=ポンティの美学』のあとがきにも書きましたが、この本は私の博士論文を基にしたものです。博士論文を書いている間、苦労したことの一つは、もちろんメルロ=ポンティの哲学が難解だということでしたが、もう一つは論文というものをどうやって書いたらいいのかわからないということでした。
 多摩美術大学の学部時代、私が中心的に読んでいたのは、1970年代から90年代にかけての日本の美術批評でした。指導教員の峯村敏明先生や、ゲスト講師として授業を聞いたことがあった松浦寿夫先生が書いた批評に感動し、そこから刺激を受けて、「美術手帖」(美術出版社、1948年―)や「みづゑ」(美術出版社、1946―81年)のバックナンバーを古書店で探して読んでいました。卒業論文ではワシリー・カンディンスキーを扱いましたが、自分では論文というよりも批評を書いているつもりでした。
 学部在籍中には、彫刻家の黒川弘毅先生の、(いま思えばおそらく西洋やイスラムの中世思想を背景にした)授業を聞いて衝撃を受け、哲学にも関心をもちましたが、そのとき読んだものの一つは、書店で偶然見かけた井筒俊彦の『意識と本質――精神的東洋を索めて』(岩波書店、1983年)でした。当時、イマヌエル・カントの『判断力批判』なども読んでいたと思いますが、私のなかにいまも残り続けているのは井筒です。私は、井筒の強烈に神秘主義的な思想はもちろん、その文体にも魅力を感じていたのだと思います。井筒は、もちろん国際的に著名な大学者ですが、いま学術的な論文として受け入れられているものとは違う、パッションに満ちた書き方をする人でした。こういったわけで、当時の私のなかでは、学問的・学術的ということはほとんど意識していませんでした。
 その後、修士論文ではアルベルト・ジャコメッティの彫刻や絵画を扱いましたが、そのとき読んだ文献で論じられていたモーリス・メルロ=ポンティの名前が、美術家の李禹煥の著作にも登場していることに気づき、その思想に興味をもつようになりました。そして、これを研究しようと東京大学の美学芸術学研究室に修士課程から入りました。様々な意味で自由だった多摩美から東大に移って驚いたことの一つは、学術論文という批評よりもはるかに厳密な形式とその作法でした。特に、修士課程から博士課程に入って数年間は、学問というもの、そして要求されるレベルの高さに適応するために苦労しました。指導教員の佐々木健一先生や西村清和先生をはじめとして、東大美学芸術学研究室の先生方は、このような私に懇切丁寧に論文の書き方を指導してくれました。今度の『メルロ=ポンティの美学』はその成果です。「学術的」「アカデミック」になっているかといえば、足りないところは多々あるかもしれませんが、読者のみなさまに確かめてもらえたらと思います。

 

ギモン2 展示の順番と見る順番は違うの?(第1回)

第1回 展示を取り巻く「時間」とは?

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

「ギモン1」では、作品と出逢う場としての美術館や展覧会という枠組みについて、その歴史的な背景も踏まえながら、特にホワイト・キューブという物理的な空間がもたらすコンテクストに着目しながらざっくりと考えてみた。今回の「ギモン2」では、展示を取り巻く「空間」から「時間」の問題へと視点を移して、一本の展覧会が作り出す時間の流れについて考えてみたい。
 さて、展示の「空間」についてはある程度イメージが湧くものの、展示の「時間」と言われると、すぐにはピンとこない方もいるかもしれない。そこで、本題に入る前に、展覧会というシチュエーションでの時間の流れについて少し頭の準備体操をしてみよう。展覧会で個々の作品を鑑賞するために費やす時間や、美術館などの展覧会場での時間の過ごし方は、例えば映画館で映画を一本見たり、コンサートやライブで音楽を聴くときの時間の流れと何が同じで何が違うだろうか。またテレビで録画しておいた番組を見たり、スマートフォンで「YouTube」などにアップされた動画を見たり、ネット配信された音楽を聴く行為と比べるとどうだろうか。何が展覧会特有の時間の流れを形成しているのだろうか。ここでは、まずは展覧会の順路の話を手がかりに展示を取り巻く「時間」にまつわるギモンを解きほぐしていき、その後、映像や音楽、パフォーマンスなど特定の時間軸をもつことを特徴とした作品の鑑賞について具体的な例をいくつか挙げながら見ていきたい。

展覧会場の順路はなぜ必要なのか

 では、まず手始めに展覧会に出かけるときのことを思い起こしてみたい。あなたは、展覧会場に着いたら、普段どのような手順で展覧会を見て回っているだろうか。会場入り口などで入手できる会場マップや作品リスト、あるいはオーディオ・ガイドなどは活用しているだろうか。それとも、そういうものは煩わしいので、何も持たずに自由に見て回る派だろうか。逆にガイドツアーなどに積極的に参加して、解説を聞きながら展示室を回る派だろうか。また展覧会場にいったん足を踏み入れたら、基本的には引き返したり人の流れには逆らわず、とにかく最後まで順に展示を見て進むことのほうが多いだろうか。
 マップやガイドなどを使わず一人で勝手気ままに展覧会を見たとしても、大半の人は特に不便を感じることなく入り口から出口へとたどり着くが、そのことに特に疑問を抱く人はいないだろう。だが、よくよく考えてみると、大抵の展覧会は入り口から左回り、あるいは右回りになるように作品を配置し、展示室から次の展示室へと一筆書きで順にめぐるかのように「設計/デザイン」されていることがわかる。まず入り口から最初の展示室に入る前、あるいは最初の展示室に入ってすぐのところなどに主催者による「ごあいさつ」パネルが大きく掲示され、展覧会の概要や関係者への謝辞などが述べられている。そして多くの場合、展覧会は章立てになっていて、各章のはじめには、その章がどういったものなのかを解説するウォール・テキストと呼ばれる説明書きがパネルやバナーなどで掲示されていて、そのテキストのすぐ隣から最初の作品を見るように自然に促される。場合によっては、このウォール・テキストには番号まで振ってあって、会場マップや作品リストと対応していることも多く、自分がいま、展覧会全体のうち、どの部分を見ているのかが把握できるようになっている。また通常は、部屋のなかの周り方を示したり、一つの部屋から別の部屋に移る際の方向を示すために、要所要所に「順路」と書かれた表示が矢印付きで掲示されていて、観客が迷わず順を追って展示を見ることができるように配慮されている。さらに出口には、「出口」という立て看板などが出ていることも多く、ご丁寧に「再入場できません」と注意書きが添えられていることも少なくない。もちろんそれでも迷ってしまう人には、監視の方々が優しく順路を示してくれる。こうした展覧会場の順路はそもそもなぜ必要なのだろうか。観客が好きな順番で展示を見ると何か不都合が生じるのだろうか。

順路は誰が決めるのか

 展覧会での作品展示の順序や順路、章立ての仕方を決めるのは、基本的にはキュレーターの仕事だ。同じ展示室でも、どのような順路にするかは展覧会ごとに変わる館も多く、入り口から出口までの各展示室の回り方は、右回りになることもあれば、左回りになることもある。また複数階に展示室が分かれる場合は、上の階から順に下りてくるようにすることもあれば、下から順に上の階へと上がっていくようにすることもある。章立ての仕方は、展覧会の性質によってさまざまである。例えば、一人の作家の回顧展であれば、時系列でその作家の初期の作品から晩年までを時代ごとに区切って展示することが多い。あるいは、グループ展の場合などは、何かしらのテーマ性をもたせて、テーマごとに章を設けて、同じテーマに沿った作品をまとめて展示したりする。いずれにせよ、通常は、展覧会を通して何らかのストーリーを語るように構成するのが、展示の鉄則である。また、このストーリーの流れを支えるロジックが順路と密接に関わってくる。実際には、会場の物理的な制約(壁の位置や床の対荷重、天井高、間口のサイズなど)や予算、安全面の規制、あるいはアーティスト自身のこだわりなど、さまざまな要因によって展示できる作品やその順序・順路の設定も左右される。したがってそのロジックが破綻しない程度に各方面と調整していくのがキュレーターの腕の見せどころでもある。展示空間での作品の物理的な配置の仕方や展示方法、展示構成、部屋の仕様、あるいは展示台や展示ケースといった什器の仕様については、前著『現代美術キュレーター・ハンドブック』(青弓社、2015年)に詳しいので、ここでは割愛したい。逆に今回のギモンでは、とかく作品の見え方、見せ方など、空間的・視覚的な構成やその効果に気を捉われがちな美術展のキュレーションで、キュレーターが設計する展示の順路が生み出す時間と作品自体がもつ時間、鑑賞者が展示室内で体験する時間、という3つの時間の関係に焦点を当てて考えてみたい。

開かれた美術館と主体的な鑑賞者の登場

 まるで宇宙船が舞い降りたような円形のガラス張りの白い建物で知られる金沢21世紀美術館は、「開かれた美術館(1)」をコンセプトに2004年にオープンした。妹島和世+西沢立衛/SANAAが設計した同美術館は、金沢市内の中心部に位置し、建物の構造的にも「開かれた」美術館であり、またプログラムなどのソフト面でも教育普及や市民交流を重視した「開かれた」美術館である。ここでは展示の順路について考えていくために、その構造面について少し詳しく見ていこう。美術館の建物は、ガラス張りの開放的な外観に加え、1階部分の出入り口が東西南北の計4カ所にあり、どこからでも自由に出入りできる。さらに特徴的なのが、展示室の配置の仕方である。一般的な美術館では、四角い空間を仕切るように展示室と展示室が壁を隔てて隣り合っている。これに対して金沢21世紀美術館の展示室は、可動壁を設けず、丸い枠組みのなかに大きさやプロポーションが異なる大小14の展示室が集落のように配されていて、独立した展示室の周りには、必ず廊下がある回遊型の構造になっている。各展示室には番号が振られているが、明確な順路は設けられていない。
 開館記念展の「21世紀の出会い-共鳴、ここ・から(2)」(2004年)では、有料・無料ゾーン両方の館全体にわたって展示がなされ、その回遊性がより一層際立つ展示になっていた。それまで一つの展覧会の展示構成を考えるときに一つのストーリーを作るようにキュレーションしてきたという、同展キュレーターで館の立ち上げに関わった長谷川祐子は、開館記念展では「いくら(キュレーター/美術館側が)ルートを決めても(観客は)自分が好きなところに行ってしまえる」ため、「どんな組み合わせでもエリアごとに成立する(3)」という実験的な展示になったとコメントしている。さらにSANAAの建築のキーワードにもなっている「柔軟性(フレキシビリティ)」を、長谷川は次のように再解釈して語る。「空間と作品との間でぴったりとした対話が成立すれば、一つ一つの作品、それぞれの部屋の強い印象を作ることができる。あとは見る人に自分でルートを作ってもらう。見る人に任せてしまうフレキシビリティなので、任せられる人間も強い認識や選択、自分自身の判断を迫られる。相手に対していろんな潜在能力を要求するフレキシビリティなんです。この美術館は決してオープンで、綺麗で明るいだけでなく、反面アナーキーで、ある意味、人に対して鍛錬を強いる建物だと思います」。開館記念展では、体感型・参加型の作品が数多く展示されたほか、視覚にストレートに訴えかける作品もバランスよく配置され、美術の専門知識がなくとも、素直に楽しめる作品が圧倒的に多い印象だった。美術館の顔とも言えるレアンドロ・エルリッヒの恒久展示作品『スイミング・プール』は、上から覗き込むと、プールの水面の下に立つ人々の姿が見えるという不思議な光景を生み出す。12メートルの天井高がある展示室には、ゲルダ・シュタイナー&ユルグ・レンツリンガーの植物や廃棄物などを用いたインスタレーションが有機的に張り巡らされ、天井から浮遊するように会場を包み込む。脳内の神経ネットワークと生態系の多様性の融合を表現した「脳の森」のなかで、人々はしばし休憩し、散策を楽しむ。あるいはパトリック・トゥットフオコのカラフルな特別仕様の自転車で館内を周遊してみたり、エルネスト・ネトの柔らかなインスタレーションのなかに横たわってゆっくりと身を沈めていくなど、思い思いの時間を過ごす。だが、その一方で、明確な順路がない、ということは、一つひとつの作品の力を借りながら、鑑賞者が自分の身体感覚を使って展示を確認していく作業を強いる展示ともなった。
 開館から15年以上を経た現在の金沢21世紀美術館の企画展示の有料スペースでは普段、企画展とコレクション展、あるいは企画展2本など2つの展覧会が開催されることが多いが、開館記念展同様に、各展覧会の入り口が設置されている以外は、特に矢印付きの順路表示はされず、展示室に番号が振られているだけにとどまっている。今日でも日本の多くの公立館が順路表示を当たり前のように掲示するなかで、来館者に真の意味で「開かれた」美術館であろうとする同館の姿勢は開館以来、崩されておらず、結果として新しい鑑賞のあり方を楽しむ人々の姿が数多く見られる。決められたストーリーを誰かが語ってくれるのを待っているのではなく、鑑賞者自らが自分自身に問いかけながら、その日、そのときでいく通りものストーリーを作っていくような鑑賞の形であり、それは主体的な鑑賞者のあり方を求めているのだ。また、そうした鑑賞者の主体性を自由に促すようなオープンな解釈を許す展示というのは、キュレーター側にとっても相当な鍛錬を強いるものとも言える。キュレーターが用意するストーリーは、一つの解釈を鑑賞者に押し付けるものではなく、鑑賞者に向けて多様な展示の解釈を開くための、ある種の筋道を立てるものにとどめられ、あとは鑑賞者自らにストーリーを作ることが委ねられる。順路を作ること、ストーリーを作ることは、展示を空間的にデザインするだけではなく、時間や体験をデザインすることにつながる。またそれらをデザインする主体は誰なのか、という問題を私たちに突き付ける。ここで今度は、作品そのものがもつ時間、特定の時間軸をもつ作品の展示について考えてみよう。

(第2回に続く)

 


(1)「開かれた美術館」というコンセプトは、もともとは1970年代にポンピドゥ・センター(パリ)が提唱した美術館像。美術の墓場、アートの愛好家に閉ざされた場になっていた従来の美術館を広く一般の人々に開かれた場にしようとした。2000年代以降、日本の美術館にも大きな影響を与えていて、教育普及プログラムの充実や地域との連携が積極的におこなわれている。金沢21世紀美術館は、その代表例の一つ。
(2)開館記念展「21世紀の出会い-共鳴、ここ・から」2004年10月9日-05年3月21日
(3)本稿引用の長谷川のコメントは以下すべて、難波祐子「展覧会 ついに開館!! 金沢21世紀美術館――開館記念展「21世紀の出会い――共鳴、ここ・から」(「美術手帖」2004年12月号、美術出版社)、23ページによる。

 

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ギモン1 どこで展示するの?(第3回)

第3回 美術館の外へ

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

1960年代から70年代の芸術運動

 第2回までで見てきたように、MoMAは当時の時代背景も手伝って、20世紀のアメリカ美術の言説を生成して国内外にそれを発信するうえで中心的な役割を果たした。同時にMoMAのホワイト・キューブは、現代美術作品を展示・鑑賞する1つの規範を確立し、圧倒的な影響力をもって国内外に普及していった。だが、当然ながらこうしたMoMAに象徴されるニューヨークを中心とするアメリカ美術界に対する反動も大きく、1960年代から70年代にかけて、さまざまな芸術運動が巻き起こった。これらの芸術運動は、「美術館」という制度そのものを批判するようなプロジェクト型の作品や、美術館の展示空間を飛び出して屋外で展開される作品など、絵画や彫刻といった従来の展示室でおとなしく鑑賞するタイプの美術作品のイメージを塗り替えるような表現を次々と生み出していった。

インスティチューショナル・クリティークの登場

 1960年代のヴェトナム戦争の時代には、反戦運動や体制批判がアメリカだけではなく、世界各地で展開した。そのような社会背景のなかで、美術の世界でも、権威的な既存の美術館制度や美術界、商業主義や資本主義のシステムにのっとって作品を売買する商業画廊を批判するような表現活動が活発化した。こうした一連の表現活動は「インスティチューショナル・クリティーク(体制批判)」と呼ばれた。例えば、74年にロサンゼルスのクレア・コプリー・ギャラリーで開催されたマイケル・アッシャーの個展では、ギャラリーの展示スペースとオフィススペースを隔てる壁が取り払われ、展示スペースには何も置かないという奇妙な空間が出現した。見えるのは、奥のオフィススペースで働くギャラリストとそこにやってくる顧客だけだが、これは彼らの商取引の様子そのものを見せる「作品」だった。またドイツ出身のハンス・ハーケは、71年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で個展を開催する予定だったが、そのなかで展示を予定していた3つの作品が、美術館側から問題視されることになった。そのうちの1つ、「シャポルスキー・マンハッタン不動産ホールディングス:1971年5月1日時点でのリアル・タイムの社会システム(Shapolsky et al Manhattan Real Estate Holdings, A Real Time Social System as of May 1, 1971)」という作品は、ニューヨークのシャポルスキー不動産の20年にわたるハーレムなどの低所得者層居住地域を含むエリアでの不正な疑いのある不動産取引や物件の情報を142枚の写真と図表などで示したものだった。この作品は「不適切である」と見なされて、ほかの2作品とともに展示を取り下げるよう館長からハーケに要請があった。だがハーケがこれを拒否したため、開催の6週間前に展覧会が中止されることになった。これはグッゲンハイム美術館の理事会メンバーのなかにシャポルスキーと関係の深い人物がいたためと言われているが、詳細は明らかにされることはなかった(12)。ハーケはまた70年にMoMAで開催されたグループ展の「インフォメーション」で、入り口に投票箱を設置し、当時ニューヨーク州知事選挙で再選を目指していたヴェトナム戦争支持派のネルソン・ロックフェラーに州知事選で投票するかどうかを来場者に投票させる作品を展示した。このようにインスティチューショナル・クリティークの作品は、その多くが批判の矛先としている美術館やギャラリーなどの展覧会の現場そのもので実践されていた。それは美術館や展覧会というメディアそのものが、これらの作品の成立には不可欠であること、また美術館や展覧会はそうした批評を実践する場として機能するきわめて優れたメディアであることも図らずも実証することになった。

美術館の外への志向

 また同じく1960年代から70年代にかけては、反戦運動のなか、大資本に支えられた商業主義的な美術館やギャラリーに抗して、科学への不信や自然回帰への思想が高まり、「ランド・アート(Land Art)」や「アースワーク(Earthworks)」と呼ばれる、美術館のホワイト・キューブ空間ではなく、屋外の大自然など、ある特定の場所でだけ成立するような「サイト・スペシフィック(Site-Specific)」な作品の制作が、アメリカやイギリスを中心に多くの作家によって実践された。アメリカでは、マイケル・ハイザーがネバダ州にある峡谷の断崖の岩石丘をブルドーザーで掘削して長さ457メートル(1,500フィート)、幅39.1メートル(30フィート)、深さ15.2メートル(50フィート)の巨大な溝を出現させた「ダブル・ネガティブ(Double Negative)」(1969年)を作ったり、ウォルター・デ・マリアがニューメキシコ州の雷多発地帯の平原に400本の避雷針となるステンレス鋼製のポールを立てて、稲妻が落ちる現象そのものを作品化した「ライトニング・フィールド(Lightning Field)」(1977年)を発表した。またロバート・スミッソンは、ユタ州のグレートソルト湖という塩湖に石と土で長さ457メートル(1,500フィート)、幅4.57メートル(15フィート)の渦巻き状の堤を築く「スパイラル・ジェッティ(Spiral Jetty)」(1970年)を制作した。イギリスでは、リチャード・ロングが野山を歩いて、歩行を重ねることで草原に痕となった1本の線を写真に収めたり、その場にある石を集めて円形に配置するなど、歩行の痕跡を作品として発表した。同じくイギリスのハミッシュ・フルトンは、人里離れた山中などを歩き、その過程を詩のようなテキストと写真で記録し表現するなど、歩行という行為そのものを作品化した。
 このように従来の美術館での展示に抵抗する形をとった作品は、ホワイト・キューブを前提として制作される絵画や彫刻とは異なる多様な形態をとるものが大半を占めることになった。あらかじめ完成した作品をもってきて展示するのではなく、その場で制作して「設置(=インストール)」し、展示後は解体する「インスタレーション」と呼ばれるスタイルの作品や、アイデアやコンセプトを重視してテキストによる指示(インストラクション)など非物質的な表現を展開した「コンセプチュアル・アート」、一過性の出来事を作品とするハプニング、イベント、パフォーマンスなど形が残らない作品、あるいは音楽や舞台など異ジャンルと交錯するような作品など新しい表現が台頭した。また1970年代には、美術館や商業画廊に対して、「オルタナティヴ・スペース(alternative space)」と呼ばれるスペースが次々と誕生し、これらの実験的な新しい表現を積極的に紹介した。
 さらにヴェネチア・ビエンナーレなどと並んで国際展の代表格の1つである、77年に始まったドイツのミュンスター彫刻プロジェクトでは、単なる野外彫刻展の域にとどまらないユニークな取り組みをおこなっている。同プロジェクトは、屋外や街中に彫刻作品などを配置するのだが、展覧会が始まる数年前から参加作家がミュンスターにきて、歴史的な背景などを綿密にリサーチし、地元の人々と関わり合いながら、その場にふさわしいサイト・スペシフィックな作品を制作・発表することを特徴としている。通常の国際展は、ビエンナーレ、トリエンナーレ(それぞれ2年に1度、3年に1度の意味)という名が示すとおり、数年に1度開催されるものが大半だが、ミュンスターでは10年に1度という気が長いスパンで実施され、多くの作品が初回開催からミュンスターの街にそのまま残されたり、発展的に継続されたりしている。
 このような美術の動向に対して、美術館やギャラリー側もすぐに呼応し、1度は美術館の外へ出たインスタレーション作品やパフォーマンス作品、あるいはランドアートやアースワークといった作品でさえ、美術館やギャラリーの展覧会に取り込まれていくこととなった。例えばスイス人キュレーターのハラルド・ゼーマンによる1969年にスイス・ベルンの美術館で開催された「態度が形になるとき(When Attitudes Become Form)」展は、コンセプチュアル・アートやインスタレーションの作品を美術館内外のスペースで紹介した伝説的な展覧会になった。マイケル・ハイザーは、建物解体用の鉄球をクレーンで吊ってスイングさせて美術館前の舗道を破壊し、リチャード・セラは、熱して溶かした鉛を展示室の床に撒き散らした。ダニエル・ビュラン(ビュレンヌ)は、彼のトレードマークの白とピンクの縦縞のポスターを無許可で街中に貼りまくって逮捕された。この型破りな展覧会では、美術館は実験室と化し、おおよそ考えうる「美術館での展覧会」の常識を根本から覆した。

1980年代の絵画ブームの再熱

 1980年代に入ると、70年代に盛んだった禁欲的で難解なコンセプチュアル・アートやミニマル・アートなどへの反動から、情動的・具象的な表現を主とする絵画であるニュー・ペインティング、新表現主義といった名称で呼ばれるアートがドイツ、イタリア、アメリカなど世界各地で同時多発的に出現した。アメリカのジャン=ミシェル・バスキアは、ストリートのグラフィティのようなタッチで、人物などをカンヴァスに描き、人気を博した。またドイツのアンゼルム・キーファーは、ナチス・ドイツの負の歴史や『旧約聖書』などに登場する神話や伝説などから着想を得た歴史的・神話的主題を巨大な画面に油彩のほか鉛、砂、藁などの素材を重ねて描いた。これらの新表現主義の絵画は、国際的な美術市場を活性化するとともにホワイト・キューブでの展示の主役へ絵画が返り咲くことになった。

1990年代の参加型作品への注目

 さらに1990年代に入ると、空間全体を作り込むような体感型のインスタレーションや、観客が参加することで作品が成立するような参加型の展示が美術館でも盛んに取り上げられるようになった。こうした動きは、美術館だけでなく、ビエンナーレやトリエンナーレなどの国際展や芸術祭でも同様の傾向が高まった。こうして美術館や展覧会は、静かに作品と対峙する場所にとどまらず、作品を体感したり、作品に関わり合ったりするような場所としても機能し始めた。
 リクリット・ティラヴァーニャは、1990年代の初頭にニューヨークの画廊で「パッタイ」というタイ風焼きそばを作ってその場にきたゲストに振る舞い、展覧会の会期中には、食べたあとの様子もそのまま展示するという作品を発表した。ブエノスアイレス生まれのタイ人で外交官を父にもつティラヴァーニャは、幼い頃から移動の多い生活を送ってきた。たまにタイに帰って祖母の家に集まった親戚や友人に振る舞われるタイ料理と、料理を囲みながらそこで交わされた会話や出会いを作品化したのが「パッタイ」だった。また「無題(デモ・ステーション)」と題されたシリーズでは、美術館や国際展の会場内に仮設の舞台が設置され、展覧会の会期中その舞台で、バンドの演奏や演劇など、地元の人たちが企画するプログラムが展開する活動そのものを作品として発表した。
 ティラヴァーニャのように絵や彫刻のようなモノとしての作品ではなく、人と人が交わるコミュニケーションを生み出す場や、人との関係性・社会性そのものをアート作品として発表するアーティストたちが1990年代の初頭から相次いで登場した。これをフランス人キュレーター、美術批評家のニコラ・ブリオーが98年に『関係性の美学(Esthétique relationnelle/Relational Aesthetics)』という本にまとめて発表し、「リレーショナル・アート」として注目を集めた。
 人との関係性や社会性について考えたアートは、1960年代、70年代のアーティストもすでに実践していて、そのこと自体はいまに始まったことではない。例えば70年代にゴードン・マッタ=クラークは、ニュージャージー州にあった一軒家をチェーンソーで真っ二つに切断した「スプリッティング(Splitting)」を作品として発表したり、ニューヨークのソーホー地区で「フード(Food)」という営利を目的としないアーティストがシェフを交替で務めるレストランを運営し、そこでのさまざまな人たちの繰り広げる交流そのものを表現活動とした。ただし、これらの実践の背景にあったのは、当時の資本主義や美術館といったシステムへの批評であり、政治色が強いものだった。これに対して、90年代以降のリレーショナル・アートの作家たちは、あくまでも自分の私的な体験や個人的な動機などから、人と人のつながる場としての美術を探求しようとしていたところに大きな違いが見える。こうした傾向は、60年代や70年代のインスティチューショナル・クリティーク的な実践が抗ってきた「体制」や「国家」、あるいは「資本主義」といった当時の確固たるシステムが、90年代以降、時代の変化とともに軒並みその権力を失い、美術館や展覧会自体の役割や立ち位置も大きく変わっていることとも深く関わっていると思われる。こうした90年代以降の現代美術作品の発表の場は、かつての批評の対象とされた美術館や画廊、あるいはヴェネチア・ビエンナーレなどの国際展といった「展覧会」の枠組みが主流であり、美術館でもこうした実践を受け入れるべく、街中や地域コミュニティーと美術館をつなぐようなプロジェクト型の展覧会を展開するなど、新しい試みを柔軟に次々と実施している。

メディアとしての展覧会、美術館

 これまで見てきたとおり、美術館、あるいは展覧会は、近代化の過程で現在の原型となる形が生まれ、さらにMoMAのホワイト・キューブの登場によって、美術館の展覧会という枠組みのなかで作品と鑑賞者が出逢う環境が確立されていった。興味深いのは、こうしたホワイト・キューブに反旗を翻し、多様化していった現代美術作品も、美術館や展覧会の文脈に結局は取り込まれ、新しい美術の歴史を生み出し続けていることである。これは、常にいまあるものに対しての反動や批評から新しい美術を生み出そうと二項対立的に「発展」してきた西洋美術史の性格に寄るところも大きいのではないかと思われる。一方でMoMAのホワイト・キューブは、現在でも健在であり、現代美術界を牽引する存在の1つであることに変わりはない。つまり、美術館だろうが屋外での芸術祭や国際展だろうが、こうした「展覧会」というメディアは、ある意味、ホワイト・キューブのように外界から遮断された、作品と出逢うための異次元空間を生み出す装置としていまも変わらず機能しているのだ。そしてこれらの出逢いを言説化し、美術の文脈に位置づけるメディアとして、展覧会は、そのときどきの時代背景や美術理論を巧みに反映し、ときには自己批評もいとわず、変化し続けている生きたメディアと言えるだろう。これから続くギモンでは、これまで少々駆け足で見てきた「展覧会」というメディアと、それを作り出すキュレーターについて、 もう少し時間をかけて、それらを構成する要素1つ1つをより深く具体的に掘り下げて見ていくことにしたい。

 


(12)詳細はバルセロナ現代美術館(MACBA)の収蔵作品解説を参照のこと(https://www.macba.cat/en/shapolsky-et-al-manhattan-real-estate-holdings-a-real-time-social-system-as-of-may-1-1971-3102)。

 

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第23回 トップスターのサヨナラ公演に思う

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 宝塚歌劇105周年の今年、星組の紅ゆずると花組の明日海りおという2人のトップスターが立て続けに退団するという異常事態になりました。『宝塚イズム40』(12月1日発売予定)では、『39』の紅に続いて明日海の退団を特集、5年半にわたる在位でトップの座を極めた宝塚歌劇史上まれにみるフェアリーの魅力のすべてを解き明かすべく、鋭意、編集作業中です。
 現在、そのサヨナラ公演が、宝塚から東京へと、さよならフィーバー真っ最中といったところです。紅のサヨナラ公演は小柳奈穂子作・演出による『GOD OF STARS――食聖』と酒井澄夫作・演出の『Éclair Brillant(エクレール ブリアン)』。一方、明日海は植田景子作・演出の『A Fairy Tale――青い薔薇の精』と稲葉太地作・演出の『シャルム!』。いずれも2人にゆかりの深い作者が、それぞれの最後の公演のために腕によりをかけた作品です。しかし、同じサヨナラ公演といっても2人の個性に合わせた対照的な作品が並びました。サヨナラ公演といっても千差万別。とはいえ、そこには厳然とした決まり事もあります。そこで、その最近の傾向を振り返ってみることにしましょう。
 トップスターのサヨナラ公演は、そのトップスターが下級生のころから特にゆかりのある演出家が担当し、そのスターの宝塚生活最後の公演のために新たなキャラクターを書き下ろすのが基本的なセオリーになっています。
 ここ10年を振り返ってみると次のようになります。
 
 星組・安蘭けい 『My Dear New Orleans』植田景子(2009年)
 宙組・大和悠河 『薔薇に降る雨』正塚晴彦(2009年)
 花組・真飛聖  『愛のプレリュード』鈴木圭(2011年)
 月組・霧矢大夢 『エドワード8世』大野拓史(2012年)
 雪組・音月桂  『JIN――仁』齋藤吉正(2012年)
 宙組・大空祐飛 『華やかなりし日々』原田諒(2012年)
 花組・蘭寿とむ 『ラスト・タイクーン――ハリウッドの帝王、不滅の愛』生田大和(2014年)
 雪組・壮一帆  『一夢庵風流記 前田慶次』大野拓史(2014年)
 宙組・凰稀かなめ『白夜の誓い――グスタフⅢ世、誇り高き王の戦い』原田諒(2015年)
 星組・柚希礼音 『黒豹の如く』柴田侑宏(2015年)
 月組・龍真咲  『NOBUNAGA信長――下天の夢』大野拓史(2016年)
 雪組・早霧せいな『幕末太陽傳』小柳奈穂子(2017年)
 宙組・朝夏まなと『神々の土地』上田久美子(2017年)
 星組・紅ゆずる 『GOD OF STARS――食聖』小柳奈穂子(2019年)
 花組・明日海りお『A Fairy Tale――青い薔薇の精』植田景子(2019年)
 
 タイトルとスターの名前を見ると、当時の舞台が走馬灯のように次から次へと目の前を駆け巡ります。そして、それぞれの作品に作者がスターの個性を渾身の思いで生かそうとした努力が見え隠れして、懐かしさが込み上げます。これ以前は、植田紳爾や小池修一郎、正塚晴彦といったベテラン作家がサヨナラ公演を書いていましたが、ここ10年は、世代交代してトップスターにゆかりのある若手作家が担当することが多くなってきました。というのも、トップスターのサヨナラ公演は、黙っていてもチケットは完売し営業的には心配する必要がないので、若手作家の腕試しにはもってこいの場になっているからです。
 ついついサヨナラの思いに流されて、涙もろい感傷的な作品になりがちですが、『幕末太陽傳』や『神々の土地』のような独立した作品として十分鑑賞に堪える作品も生まれてきています。とはいえ、クライマックスには退団するトップスターが次期トップに決まった二番手スターに組を託すというセリフや歌が必ずあって、ファンの涙を誘うことになっています。それが度を超すと、内輪のセレモニーになりすぎて、見ていて気恥ずかしく感じることもしばしばです。今年の2本は、それがあまり仰々しくなくてほっとした次第。作品的にも紅と明日海の個性に合わせた軽いコメディーとファンタジーでした。
 上の表にもあるように、退団するスターにはすでに代表作といわれる作品があって、サヨナラ公演はファンサービスといったものが多く、今年の2人も、紅には落語の世界を舞台化した『ANOTHER WORLD』(作・演出:谷正純)、明日海には萩尾望都原作の『ポーの一族』(脚本・演出:小池修一郎)があるので、そのイメージを膨らませたような作品になっているといえるでしょう。ラストに次期トップスターに組を託すというバトンタッチが用意されているのはセオリーどおりでした。
 そもそもサヨナラ公演というのはいつごろから始まったのでしょうか。サヨナラ公演の千秋楽にサヨナラショーを開催するようになったのは1963年の明石照子が最初といわれていますが、サヨナラ公演となると定かではありません。退団することが宿命づけられている宝塚のトップスターにとって、それこそ100年前からサヨナラ公演はあったことになります。でも、退団発表があり翌日に記者会見があってサヨナラ公演というパターンは、少なくともこの50年前から確実に続いてきました。そして「宝塚はサヨナラで稼ぐ」という言葉どおり、劇団のドル箱になっているのもそのころから変わりません。
 サヨナラ公演の演目はトップスターに対する当て書きの作品で再演しづらく、いかに優れていても再演というのはなかなかありません。和央ようかと花總まりのサヨナラ公演だった宙組公演『NEVER SAY GOODBY』(2006年)は小池修一郎のオリジナルミュージカルの秀作ですが、2人に遠慮してか、いまだに再演されていません。しかし、例外もあります。それが一路真輝のサヨナラ公演だった『エリザベート』(1996年)です。この作品はウィーン発のミュージカルということで他の作品とは意味合いが違うかもしれませんが、一路のサヨナラ公演はオリジナルを大幅に変更して上演したことで宝塚歌劇にぴったりの作品に生まれ変わり、現在に続くヒット作になったのだと思います。サヨナラ公演が、宝塚歌劇の財産になった稀有な例でしょう。始まりはサヨナラ公演でしたが、最近ではトップお披露目公演で上演することが多くなりました。そういえば、今回退団する明日海のトップお披露目は『エリザベート』でした。
 とりもなおさずサヨナラ公演は、宝塚歌劇ならではのビッグイベントであることはこれからも変わらないでしょう。そして、スターが替わっても、常に新鮮さを保ち続けることが宝塚歌劇の魅力の一つであることも変わりはないと思います。

 

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放送の自由を守るために――『政治介入されるテレビ――武器としての放送法』を書いて

村上勝彦

「文庫本を読むのにも1週間かかるのに、2日で読んだ。モヤモヤしていたものが消えた」「倫理規定とか義務規定とかというのは、学者の話と思っていたが、放送法の目的から説明があってはじめてその意味がわかった」
 本書を読んでくれた先輩や仲間の感想である。言いたかったことが伝わったと、素直に喜べた。
 実は私は放送局で長年仕事をしていたので放送法はある程度知っているつもりだったが、誤った理解しかしていなかった。放送法は放送局を規律するためにある、と思っていた。というのも、放送法第3条に「番組編集の自由」があるが、そのすぐあとの第4条に「善良な風俗」「事実はまげない」などの番組準則が続いているために、それに反すれば社内で処分を受けるのはもちろんこと、郵政省や総務省から注意されても仕方がないと単純に思っていた。放送は免許事業であるため、放送番組には一定の枠があり、その枠に触れるかどうかを判断する権限を行政はもっていると何の根拠もなく思い込んでいた。あたかも行政が司法判断をする裁判所であるかのように、である。
 しかし、放送法制定時の国会で辻寛一電気通信委員会委員長が述べた、軍や官僚が放送を握って軍事宣伝の道具にした歴史を繰り返さないために放送法を制定する、という委員会報告を読み、はじめてその出発点を知った。これで、視点と理解が百八十度変わった。そして、戦後に新聞紙法や出版法が廃止されたにもかかわらず、なぜ新憲法の下、放送法ができたのかがすんなり理解できた。つまり放送法は、放送が限られた電波を使っていて影響力が大きいために、権力の介入を許さず、それを防ぐために制定されたという、ごく当たり前のことを知ったのである。
 放送局で働く多くの人たちは、「放送の自由を守る」という思いをもっている。私もそうである。しかし「放送の自由」とは何か、何から何をどう守るのかということをしっかり考えることはなかった。ひと言で言えば、自由とは拘束されないことだ。拘束するには権限がいる。しかし放送法は、放送番組に関して拘束する権限を行政に与えていない。放送法は、放送局が自ら枠を決めて自ら律することを求め、その枠の基本を第4条に記しているのだ。そして自律しているかどうかの判断を政府や国家に許していない。その判断は放送局が自律的におこなうものであり、それを評価するのは視聴者である。
 この基本を知らないと、「放送の自由を守る」という言葉は、理論が伴わない単なるスローガンにしかならない。同時に、「自律」がとてつもなく重いものであることも十分には理解できないのである。
 本来ならば放送局で働く人が知っておかなければならない放送法のこの意味を、社内研修などでは残念ながら聞いたことはなかった。そのためか、「公共の電波を使うので規制が必要」といわれると、そうだろうなと思ってしまうのである。私はそうだったし、多くの仲間もそうである。それではいけないと思い、できるだけわかりやすく放送法の意味を伝えられないかとこの本にまとめたつもりだ。
 放送法を知っているつもりだった私があらためて放送法に関心をもったきっかけは、5年ほど前に、先輩の紹介で日本マス・コミュニケーション学会の会員になったことである。年に2回発行されている学会誌に投稿論文の場があり、それに投稿した。学生時代、リポートは書いたことがあるが、論文というものは経験がなく書き方の基本も知らなかった。
 最初の投稿は、番組への行政指導と放送局の自律という大テーマで、査読者もお粗末さにびっくりしたのだろう、参考文献をはじめ論文のイロハを丁寧に教えてもらった。そのおかげで、国会議事録を中心に一から事実を積み上げ、行政が放送法の解釈を変えてきたこともよくわかった。その際最も参考になった1つが『放送法を読みとく』(鈴木秀美/山田健太/砂川浩慶編著、商事法務、2009年)であり、「目からうろこ」だったのは、先に記した放送法制定時の辻寛一委員長の発言だった。今年初めの学会誌にようやく投稿論文が掲載され、自分の放送法の解釈に誤りはないと思い、青弓社の矢野恵二氏や社員のみなさんのお力で本にすることができた。
 現代は、真偽取り交ぜて様々な情報が飛び交い流布され、その一方で官邸を中心とした政府の情報統制が進んでいる。そんな時代だからこそメディアの真価が問われる。特に放送は放送法を理解し理論武装しないと政府にからめ捕られる恐れが強い。

 放送に携わる人たちをはじめ放送に関心がある人たちに、無知だった筆者の悔恨が詰まった本書を手にしていただければ幸いだ。そして、放送法を闘う武器としてともに生かせればと思っている。

 

ギモン1 どこで展示するの?(第2回)

第2回 現代美術と出逢う場所としての美術館――第二次世界大戦以降の展開

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 第1回で美術館や展覧会の歴史的な成り立ちを概観してきたが、これらの近代的な枠組みは、第二次世界大戦後に美術の中心がパリからニューヨークに移り、「現代美術」が登場することで、さらに大きな変遷を遂げていくことになる。ところで「現代美術」あるいは「現代アート」という言葉だが、それに対応する英語である「Contemporary Art」を文字どおり訳せば、正確には「同時代美術」になる。一方で「モダン・アート(Modern Art)」については、英語でも日本語でも時と場合によって「近代美術」と「現代美術」のどちらも意味することがあり、その用法が混在している。そもそも何をもって「近代(モダン)」と定義するかについては、「ポスト・モダン(Post-Modern)」の思想が1970年代末から80年代にかけて広まったことも手伝って、いまだに議論が尽きない。よって近代美術と現代美術の区分についてもさまざまな見方があり、一概には言えないのだが、本稿では便宜上、第二次世界大戦以降の美術を現代美術としながらも、それ以前に制作された美術(近代美術)についても、状況に応じて現代美術の文脈のなかで論じていくことにしたい。
 現代美術と出逢う場所として、最も象徴的な存在が、1929年に開館したニューヨーク近代美術館(通称MoMA〔モマ〕)だろう。アメリカは、西洋美術史的観点から見れば、国としての歴史が浅く、ヨーロッパ諸国に比して当然ながら西洋美術品のコレクションが乏しい状況にあったが、20世紀に入って個人の資産家を中心としたフィランソロピー(篤志家)の精神に基づいた新しい美術館が次々と誕生した(5)。なかでもMoMAは、名称こそ「近代」美術館だったが、アメリカの圧倒的な経済力と文化政治戦略の後押しを受け、近・現代美術、特に同時代のアメリカ美術を牽引していきながら、新しい美術館像を国内外に発信していき、後続する世界各国の近・現代美術館のモデルになった。日本でも1952年に開館した東京国立近代美術館は、MoMAをモデルとして構想されたことで知られている(6)。

ホワイト・キューブの衝撃

 MoMAの果たした役割とその影響は多岐にわたるが、まずはそのなかでもMoMAの代名詞ともなった「ホワイト・キューブ(白い立方体)」と称される独特の展示空間に着目してみよう。ホワイト・キューブとは、その名のとおり、装飾性を廃した白い壁で四方を囲まれた中立的な展示空間である。そこでは、作品と作品の間隔が程よく空けられ、鑑賞者が1つ1つの作品とゆったり向き合える展示が基本とされた。このような展示方法は、それまで主流だったルーヴルのサロンのように、壁に額装された絵が上から下までびっしりと何列にもなって隙間なくかけられるスタイルや、華美な装飾が施され、調度品に囲まれた部屋の壁に絵画を配する展示とは非常に対照的だった。
 サロン式の展示からの脱却については、MoMAのホワイト・キューブの登場以前から、さまざまなアプローチが試みられていた(7)。例えば19世紀半ばには、ロンドンのナショナル・ギャラリーでは、展示する作品点数を減らして、目線の高さが中心となるように展示されるようになった。またそれによって生じた壁の余白部分にも注目が集まり、当時の科学的な根拠に基づいて、金色の額縁と寒色系の落ち着いた色彩で描かれる絵をよりよく見せるために、既存のグレーがかった緑色の壁を赤く塗り替えた展示室が登場した。また20世紀の初めにはボストン美術館がこれまでの展示方法を見直し、作品を選択して、多くても2段がけまでにして絵画を展示したり、展示にふさわしい壁の色や照明についての検討を重ねた。さらに1930年代にはアメリカだけでなく、ナチス・ドイツ政権下でも美術館の展示室の壁を白くする試みがなされていた。だが、こうした先駆的な試みをはっきりと一つの展示スタイルとして確立し、規範を示したのは、MoMAにほかならなかった。
 初代館長アルフレッド・バーによる1936年の「キュビズムと抽象美術(Cubism and Abstraction Art)」展は、バー自らが作成した有名なダイアグラム(系統図)に集約されているように、19世紀末のセザンヌや新印象主義からピカソらのキュビズムを経由して抽象美術へと帰結していくモダン・アートの系譜を示す歴史的な展覧会だった。400点近い絵画や彫刻、ドローイング、家具などを展示したこの展覧会はMoMAが示す20世紀の美術史観を体現するものであり、その展示方法にもバーの明確な意図が示されていた。壁は白く塗られ、敷物などのないむき出しの木の床やタイルの床の部屋が用意され、照明の装飾は外されてシンプルなものとされ、作品1つ1つをよく鑑賞できるように配置された。この展覧会で確立されたホワイト・キューブにおける展示方法は、1939年に現在の場所に開館したMoMAでも、踏襲されることになった。
 MoMAのホワイト・キューブは、当然ながら人々の鑑賞体験にも大きな変化をもたらした。ホワイト・キューブという装置は、人が作品と出逢うためだけにある特別に設えられた空間であり、そのなかに身を置く鑑賞者は、ただひたすら作品と向き合うしかない。おそらく今日、「美術館」というと多くの人が思い浮かべる、大きな白い空間で、静かに作品と対峙する、というイメージはこのMoMAのホワイト・キューブの展示のイメージだろう。それはホワイト・キューブについて論じたブライアン・オドハティーが指摘しているように、中世の礼拝堂のような厳格なルールにのっとって構成された「下界から閉ざされ、窓は塞がれ、壁が白く塗られ、天井が光源となる」空間である(8)。そこでは「アートは、それ自体の生を得る(9)」。ホワイト・キューブは、作品と人が出逢うための物理的な環境を創出しただけではない。ホワイト・キューブは、日常性から切り離された人工的で、時間の流れも止まったような神聖な雰囲気で満たされた空間のなかで、人々が作品との対話を通して自己の内面を見つめ直し、自分と作品との関係性を厳かに構築していくような精神的な環境をも作り出したのだ。いまでも美術館というと、「静かに鑑賞するように」注意を受けることが多いが、それは、他の人の鑑賞の妨げにならないように、各自が作品とじっくり向き合えるように、という配慮が感じられる。このような鑑賞態度は、典型的なMoMAのホワイト・キューブの遺産と言えるだろう。
 このように美術館という装置は、MoMAのホワイト・キューブの登場により、人々が、個々の作品と静かに対峙する空間へと大きく変貌した。またホワイト・キューブという白い容れ物は、中身の作品が入れ替わることを容易にし、企画展や特別展など、展覧会ごとに内容の異なる展示にも対応しやすい空間を作り出すことに貢献した。さらにはあるホワイト・キューブから別のホワイト・キューブへと展示を移行することも可能にして、ある美術館で仕立てた展覧会を別の美術館へと巡回させることも容易になった。また作家側も、美術館や画廊のホワイト・キューブで展示されることを前提として作品を制作することが格段に増えたと言えるだろう。

美術館で展示されるものとは――MoMAの役割を中心に

 これまで見てきたようにMoMAのホワイト・キューブは、人々が作品を鑑賞するための特別な環境を整えて、美術館における作品展示のあり方に対する一つの規範を示した。ここであらためて美術館で展示されるものについて考えるにあたり、先のオドハティーが述べた次の言葉に着目したい。「そのような環境〔ホワイト・キューブの環境の意:引用者注〕では灰皿は聖なるオブジェに、近代美術館に置いてある消防ホースは美学的な謎に見えてしまう(10)」。確かにホワイト・キューブの閉ざされた展示空間は、そこにあるものを何でも作品に変えてしまう魔力をもっている。だが、灰皿でも消防ホースでも、はたまた粉チーズ容器でも、美術館の展示室に置かれたら何でも作品となるほど、事は単純ではない。ましてや、サロン式の展示と違って、ホワイト・キューブの一室に展示できる作品の点数は、極端に絞られた形となったわけだが、その部屋に何をどのように展示するかを決めるキュレーターの役割も飛躍的に重要なものになった。何をもって作品とし、それをどういった文脈の展覧会で美術館に展示するかという点も、MoMAのアプローチは革新的で戦略的であり、特筆に値するものだった。
 MoMAは、大富豪でフィランソロピー活動に熱心だったロックフェラー一族の1人、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー2世の妻であるアビー夫人と、彼女と交流のあった上流階級のリリー・P・ブリス、コーネリアス・J・サリヴァン夫人という3人の女性によって現代美術を展示する施設として創立された美術館である。アビー夫人は1920年前後から現代美術に興味をもち、アメリカ人画家の作品を購入し、コレクションしていくだけにとどまらず、生活に困窮した芸術家たちの生活費や留学資金なども積極的に支援した。初代館長のアルフレッド・バーは、絵画や彫刻だけでなく、建築、デザイン、映画、写真など当時美術館で展示されることがなかったジャンルの作品についても、独立した部署を与えて展覧会を企画する、という画期的な試みを導入した。つまり、MoMAは美術館に展示することで、これまで美術の文脈で扱われることがなかったもの、「作品」とされていなかったものを「作品」として定義づけ、美術史のなかに位置づけていき、次々とその指標を示していく存在だったのである。これについては、また作品の収集にまつわるギモンのところでも、詳しく見ていきたい。
 MoMAのホワイト・キューブ空間における作品展示を考えるうえで、最も象徴的な存在であったのが、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコなど抽象表現主義と呼ばれる作家たちの作品だった。彼らは一辺が3、4メートルもあるような巨大なカンヴァスの画面いっぱいに抽象的な線や色面を描くことで、それまでのヨーロッパにはない新しい表現を生み出していった。彼らの作品は、ホワイト・キューブの白い空間に非常によく映え、ホワイト・キューブで盛んに展示されるようになるにつれ、それに呼応するかのように彼らのカンヴァスもますます巨大化していった。
 抽象表現主義は、もともとは第二次世界大戦の戦火を逃れてヨーロッパからアメリカに移り住んだアーティストたちの影響を受けて、1940年代中盤からニューヨークを中心に始まった芸術運動である。先に挙げたジャクソン・ポロックやマーク・ロスコのほか、ウィレム・デ・クーニング、バーネット・ニューマンなどがその代表格だが、彼らを一躍スターの座に押し上げたのは、クレメント・グリーンバーグやハロルド・ローゼンバーグといった美術批評家だった。当時のアメリカは、東西冷戦のただなかにあった。ソヴィエト連邦では、抽象絵画に代表されるモダニズムを批判し、社会主義リアリズムを奨励していた。これに対して、新しいアメリカの美術を象徴するような抽象表現主義は、それらのプロパガンダ的な具象絵画や彫刻とは一線を画し、個人の作家の自由な表現を推奨するものとして、対抗するにはうってつけの存在だった。
 アメリカで抽象表現主義がもてはやされた1940年代から50年代にかけてMoMAの理事長(President)を務めたのは、アビー夫人の息子で、のちにニューヨーク州知事、アメリカ合衆国副大統領まで務めたネルソン・ロックフェラーだった。彼は、抽象表現主義の熱心な支援者として知られていた。彼自身のプライベートなコレクションだけでも2,500点以上の抽象表現主義の作品があったが、さらにそれを上回る数千点もの作品がロックフェラー財閥の傘下にあるチェース・マンハッタン銀行の各建物のロビーや壁面を飾った。グリーンバーグらの理論的なサポートでお墨付きを得た抽象表現主義は、バー館長の下で、MoMAでも積極的に収集・展示された。また当時の社会主義勢力に対して情報戦で文化面でもアメリカの優位を示そうとしていたCIAによる強力な後押しもあり、MoMAの抽象表現主義を中心とするコレクションをヨーロッパで巡回展の形で紹介する国際プロブラムが50年代に盛んに実施された。56年までに同プログラムによる34の展覧会が実施され、そのなかには国際展で現在でも権威あるヴェネチア・ビエンナーレへのアメリカ参加も含まれていた(11)。

(第3回に続く)

 

[補足]MoMAの過去の展覧会については、現在すべてアーカイブ化され、オンラインで観ることが可能である。例えば「キュビズムと抽象美術」展については、下記のURLから閲覧できるので、参照されたい。
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2748?locale=ja

 


(5)アメリカのフィランソロピストたちによる美術館の創設については岩渕潤子『大富豪たちの美術館――アメリカ・パトロンからの贈り物』(〔PHP文庫〕、PHP研究所、1995年)に詳しい。また美術館の成り立ちについては同じく岩渕潤子による『美術館の誕生――美は誰のものか』(〔中公新書〕、中央公論新社、1995年)を参考のこと。
(6)戦後から現代に至るまでの日本における学芸員とキュレーターの歩みとその変遷については、拙著『現代美術キュレーターという仕事』(青弓社、2012年)を参照されたい。
(7)「How the White Cube Came to Dominate the Art World」(https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-white-cube-dominate-art)
(8)Brian O’Doherty, Inside the White Cube: The Ideology of the Gallery Space, 1976, University of California Press, p.15.
(9)Ibid., p.15
(10)Ibid., p.15
(11)Frances Stonor Saunders, ‘Yanqui Doodles’, in The Cultural Cold War: The CIA and the World of Arts and Letters, 1999, The New Press, New York, pp. 252-278.

 

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第22回 柴田侑宏さんをしのんで

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 
 105周年を迎えた宝塚歌劇の後半世紀の間、宝塚の作品群に確固とした品格を生み出した最大の功労者、柴田侑宏氏が2019年7月19日、闘病の末亡くなった。87歳だった。7月21日に通夜式、同22日には告別式が西宮市内のエテルノ西宮でしめやかに営まれた。通夜式には、榛名由梨、鈴鹿照、高汐巴、寿ひずる、平みち、杜けあき、湖月わたる、朝海ひかる、蘭寿とむ、龍真咲らOG、松本悠里、轟悠、明日海りお、望海風斗らの現役生、告別式にも紫苑ゆう、黒木瞳、愛華みれ、真琴つばさ、稔幸、大空祐飛ら多くのOGや現役生をはじめ多くの関係者が参列し、故人の冥福を祈りました。
 
 柴田作品を演じていないトップスターはいないといっていいほど宝塚になくてはならない作家・柴田氏の訃報にふれて、『宝塚イズム』では12月発売の次号で柴田氏の追悼を予定していますが、その前に“宝塚の至宝”柴田氏の足跡と思い出を振り返っておきたいと思います。

    *

 柴田氏が宝塚歌劇団に入団したのは1958年(昭和33年)。関西学院大学を卒業、上京して数年後のことだった。歌劇団入団の経緯を、ご本人に取材した話をもとに再現してみよう。お兄さんが日活の映画監督だった松尾昭典氏だったことに影響されて、自身も大学卒業後、東京で脚本家修業をしていたのだが、宝塚歌劇団が募集したテレビドラマの脚本コンクールに応募して入選、面接で宝塚に来たときにそのまま入団が決まり、演出助手として採用されたのだという。それまで宝塚歌劇は一度も観たことがなかったという。26歳のときだった。当時OTV(毎日放送と朝日放送の前身)に宝塚歌劇の番組枠があって、入団早々、そこで民話ドラマシリーズを担当することになり、同期の新人作曲家だった寺田瀧雄氏とともに担当、右も左もわからず、しかも生放送の番組で大変苦労したそうだが、このシリーズは寺田氏とのコンビ誕生のきっかけになったほか、その後の宝塚での脚本執筆に大きな糧になったという。
 柴田氏は1961年暮れに宝塚新芸劇場での花・月組合同公演の3本立ての一本だった民話歌劇『河童とあまっこ』でデビュー。翌年12月の星・雪組合同公演の一本、舞踊劇『狐大名』で大劇場デビューを果たした。若手のころは日本物の作家というイメージが強く、私が最初に柴田氏の作品にふれたのも71年の星組公演『ノバ・ボサ・ノバ』初演と一緒に上演された『いのちある限り』ではなかったかと思う。鳳蘭、安奈淳、大原ますみという星組ゴールデントリオといわれた3人が山本周五郎原作の人情物に挑戦した作品で、鳳の似合わない青天姿で伝説的な舞台だ。
『ノバ・ボサ・ノバ』の強烈な衝撃度に隠れて見過ごされがちだが、『いのちある限り』も故寺田瀧雄氏の名曲がちりばめられたさわやかな感動作だった。その後、同じ鳳蘭ほかの主演でバウホールで一度だけ再演されている。ほぼ同時期の『小さな花がひらいた』(花組、1971年)そして『たけくらべ』(雪組、1973年)と、このころの柴田作品は珠玉のような作品群が並ぶ。
 一期上の演出家・植田紳爾氏(年齢的には一つ下にあたる)が1974年に『ベルサイユのばら』を発表して、社会現象的なヒットを飛ばしたことが柴田氏に大きな刺激を与え、これまで宝塚では扱われなかった古代王朝や幕末を題材にした『あかねさす紫の花』(花組、1976年)や『星影の人』(雪組、1976年)を連続して発表。いずれも高い評価を得て、ポスト『ベルばら』に貢献、宝塚での存在を絶対的なものにした。
 1972年の月組公演『さらばマドレーヌ』から洋物にも積極的に取り組み、74年の星組公演『アルジェの男』に次いで発表した75年の雪組公演『フィレンツェに燃える』で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞、演劇界での名声も確立された。生前、柴田氏から「僕の作品で再演するとしたら君は何を観たい?」と問われて真っ先にこの作品を挙げると、ご本人も「機会があったらやりたい」とおっしゃっていたのだが、なぜか再演されずじまいだったのが悔やまれる。
 柴田氏の作風は、人間ドラマとして緻密に計算され、ストーリーとしての破綻がなく、結末を観客にゆだねて、観終わった後に深い余韻が残るという作品が多いのが特徴。一方、オリジナルでは『バレンシアの熱い花』(月組、1976年)のように、トップスターの個性や組の構成を考慮して、各人各役を当て書きしながらドラマとしても大胆な構成で書き下ろすなど、宝塚歌劇の座付き作者としての職人技には他の追随を許さないものがあった。『バレンシアの熱い花』初演は榛名由梨、順みつき、瀬戸内美八が主演だったが、客席の熱気はいま以上の信じられないパワーがあって圧倒されたことをよく覚えている。
 1985年、月組の剣幸のトップ披露公演『ときめきの花の伝説』はスタンダールの『ヴァニナ・ヴァニニ』の舞台化だったが、このときの舞台稽古で「最近、視野が狭くなって」とおっしゃっていたのをよく覚えている。その後、病気が進行して失明に近い状態になって新作の執筆が困難になってしまわれたのは慙愧に堪えない。それでも、自作の再演時には、必ずそのときのトップスターの個性や組の構成に合わせて役を書き足したり場面を増やしたりといった補筆を欠かさず、稽古場には必ず顔を出し、舞台稽古や初日なども付き添いの方と一緒に必ず客席でごらんになっていた。
 つい最近も稽古場で、出演者が立ち位置を間違えると、すかさず柴田氏の叱咤の声が飛び、演出を担当していた中村一徳氏が「見えないというのは嘘で、実際は見えているのではないかと思った」というほど、稽古場での柴田氏の集中力は研ぎ澄まされていたという。
『アルジェの男』(2011年)が霧矢大夢時代の月組で再演されることが決まったとき、私が講師をしている毎日文化センターの「宝塚歌劇講座」にゲスト講師として『アルジェの男』の創作秘話について話していただいたことがある。詳しい内容は忘れてしまったのだが、女性が演じる男役とかは特に意識することなく、しっかりした内容があってドラマに納得性があれば、品格さえ保てばどんな題材でも宝塚で上演できる、という確固たるポリシーをもっておられたのはよく覚えている。
 柴田氏の作品は宝塚を離れても十分通用するが、宝塚以外の舞台からの誘いには一切応じることはなく、宝塚一筋に邁進してこられた。宝塚を観たことがなかった演劇青年が宝塚のどこにそれだけの魅力を感じ創作活動の源となったのか、そのあたりをきちんと聞いておくべきだったといまになって悔やまれてならない。宝塚らしさとか宝塚の限界という常識を取っ払って次々に新境地を開拓されたのは、宝塚を一度も観たことがなかった演劇青年がある意味宝塚を冷徹な目で見ていたからにほかならないと思います。コデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』が『仮面のロマネスク』(雪組、1997年)という見事な宝塚の作品に生まれ変わったのも柴田氏ならではの手腕でしょう。

   *

 そんななかで私がいちばん好きな柴田作品はといわれれば、松あきら、順みつき時代の花組公演『エストレリータ』(1981年)を挙げます。2人がダブルトップといわれていた時代の書き下ろしで、ブラジルのリオデジャネイロを舞台にしたトライアングルラブ。どちらも際立つように書かれたその手腕が見事で、ほとほと感心した覚えがあります。この作品も再演されていません。このことは生前、柴田氏にもお伝えしたことがあって「へーえ」と意外そうな返事をされながらもまんざらでもない表情をされたのが、いまとなっては宝物になってしまいました。合掌。

 

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ギモン1 どこで展示するの?(第1回)

第1回 作品と出逢う場所

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 いま、この連載を読んでくださっているあなたは、「現代美術」や「キュレーター」といったものに少なからず興味をもっている方にちがいない。あるいは、何らかの形で実際に現代美術関連の仕事に携わっている方かもしれない。そんなあなたの記憶のなかで、「現代美術」や「キュレーター」に関心をもつきっかけになるような展覧会や作品に初めて出逢ったのは、どこだっただろうか。
 私の場合は、忘れもしない、1993年秋にロンドンで開催されていた「20世紀のアメリカ美術(1)」展だった。ごった返す主会場のロイヤル・アカデミー・オブ・アーツより、いくぶん静かな郊外にあるサブ会場のサーチ・ギャラリーの最後のセクションの一角にその作品はあった。
 暗い部屋の奥の壁一面に雪山と思われるモノクロ映像。鮮明ではなく、絶えずゴォーというノイズが入ってうごめいている。手前には小さな乳白色のキューブの部屋。内部は裸電球1つで灯され、粗末な木のテーブルと椅子が置かれている。テーブルの上には金属製の水差しと、水が入ったグラス。そしてその簡素な部屋とはおよそ不釣り合いな小型モニターに映し出されたカラーの山の静止映像。部屋に近づくと、スペイン語と思われる言語で何かをささやき続けている男の声が聞こえる。ふと脇にある説明に目がとまる。「ビル・ヴィオラ」という聞き慣れないアーティストの名前。作品タイトルは「十字架の聖ヨハネの部屋」(1983年)。
「スペインの詩人で神秘家の十字架の聖ヨハネ(1542-91)はカトリック教会の弾圧を受け、1577年に9カ月間幽閉された。独房には窓がなく、背を伸ばして立つこともできなかった。頻繁に拷問を受けながらも、聖ヨハネはのちに代表作となる詩の多くをこの期間に書いている。そこでは愛、恍惚、暗い夜道、市壁や山々を超えた飛翔などが詠われている(2)」
 その説明を読み終わるやいなや、まるで雷にでも打たれたかのようにビリビリとした衝撃が全身に走った。ささやく声は聖ヨハネの詩の朗読であり、小さな部屋は彼の独房、山の映像は彼が詠った世界だったのだとその瞬間すべてが一度につながって、「十字架の聖ヨハネ」という時代や国を超えた一人の人物と、それを作品として表現したアーティストの美しい精神世界が、突如として自分のなかに広がったのだった。当時の私は、現代美術のことなど何ひとつ知らない社会人類学専攻の学生だった。だが、これは尋常な事態ではないと思い、とにかく現代美術に関わっていかなければと半ば勝手な使命感にも似た思いから、将来進むべき道を決めてしまった。もちろん、それからすぐに現代美術に関する職に就けたわけではなかったのだが、このたった一つの作品に出逢ったせいで(おかげで?)、極端な言い方かもしれないが、ある意味、人生が変わってしまった。事実、あれから四半世紀以上たったいまも、こうして現代美術やキュレーターに関する仕事に携わっているのだから。

  *

 と、こんな個人的な昔話にお付き合いいただいたのには、わけがある。それは、これから本連載を通して現代美術やキュレーターをめぐる数々のギモンを考えていくうえで、こうした個々人の私的な実体験や現場での実践などが、それらの問いに対して思考を開くための糸口になることが珍しくないからだ。なかでも特に展覧会での現代美術作品の鑑賞体験は、ときに強烈な原体験になって人々の心を動かす。それは、美術館や展覧会が、きわめてアナログなメディアであることと深い関係があると思われる。
 そこで本連載最初のギモンは、何よりもまず作品を展示する場所、アートと出逢う場所についてあらためて考えてみたい。あなたにとって作品が展示してある場所といえば、まず初めに浮かんでくるのは、やはり展覧会を開催している美術館やギャラリーなどの屋内の展示室だろうか。それとも街中や屋外などで作品展示を展開する芸術祭やビエンナーレ、トリエンナーレと呼ばれる大型の国際展だろうか。あるいは最近は、特に若い世代を中心に映像作品をスマートフォンの動画サイトなどで視聴するケースも多いだろう。そもそも作品を展示する場所は、作品にとってどういった意味をもつのだろうか。美術館の展覧会で作品を展示することは、自宅に好きな絵を飾ったり、いつでも好きなときにスマホで動画を見るのと何が違うのだろうか。今回のギモンの入り口として、ここではまず、古典的とも言える「美術館」の「展覧会」という枠組みのなかで作品に出逢うことに着目し、「美術館」と「展覧会」を一つの装置、あるいはメディアとして捉えて考えてみよう。というのも、作品展示をする場所として王道とも思える「美術館」や「展覧会」のあり方も、実は平坦な道のりではなく、その役割や定義は、時代によって大きく変遷してきたし、いまもなお変化し続けているからである。と同時に、その変遷を経てもなお、「美術館」も「展覧会」も作品と人が出逢うためのメディアとして機能し続けていることについても考えてみたい。

美術館と展覧会の歴史的背景

 それでは美術館・博物館、ならびに展覧会の歴史を簡単におさらいしてみよう。今日おなじみの美術館や博物館といった施設は、現在は日本では社会教育のなかに位置づけられ、そこで展示される作品や資料の数々は、広く公衆が享受することが当たり前になっている。だが、長い美術の歴史のなかで、いまのような形で展示物を誰でも見ることができるようになったのは、比較的最近の話だ。ただし「美術の歴史」といっても、往々にして語られるのは、洞窟壁画に端を発し、古代メソポタミア、エジプト、ローマ、ギリシャ、中世のキリスト教美術、ルネサンスを通って近代へと単線的に発展していく西洋美術史であることは、頭の片隅に入れておく必要がある。西洋中心(より厳密に言えば西欧と米国中心)だった単線的歴史観に基づく美術史(history of art)に異を唱え、アジアやアフリカ、中南米などの複数の美術史(histories of art)がグローバルな文脈で盛んに語られ始めたのは、1990年代になってからである。そのことは現在の現代美術とキュレーションを取り巻く状況を考える際に非常に重要な視点なので、本連載でものちほど追って詳しくふれていきたい。だが、「美術館(博物館)」「展覧会」は、西洋美術史、ならびにそれを支える西洋中心の言説と歴史観のなかから生まれてきたものなので、ここでは便宜上、西洋美術史の流れのなかで、これらの成り立ちの歴史的背景を見ていこう。

美術館というシステム

 はじめに人々が美術と出逢った場所としては、それを「美術」と定義するかどうかは議論の余地が大いにあるものの、西洋美術史的に言えば、スペインのアルタミラやフランスのラスコーで知られる旧石器時代のものとされる洞窟内に描かれた壁画、いわゆる洞窟壁画だろう(3)。それらは鑑賞目的というよりも、呪術的・宗教的な意味合いが強いものだったと考えられている。その後も長きにわたってさまざまな神に捧げられるもの、それらを祀るもの、儀礼や儀式、布教に用いられるものなど、宗教的な目的でさまざまな美術品が作られた。棺に納められる副葬品だったり、神殿を飾る神々の彫像、教会の祭壇画や天井画、色鮮やかなステンドグラスに描かれた『聖書』の物語など、美術は人々を日常生活から別の世界へと誘うような特別な場所で接することができるものだった。あるいは、時の権力者の富や名誉を彩るような宝剣や装身具、さらにルネサンス期になると、パトロンとなる王侯貴族や商人など富裕層のために描かれる肖像画や贅沢な調度品の数々が、彼らの邸宅や宮殿を飾ってきた。
 また15世紀から18世紀の大航海時代には、ヨーロッパの王侯貴族などの間で、アジアやアフリカ、アメリカ大陸、オセアニアなどの「未開の」地から珍しい動植物の標本や剥製、化石や鉱物、部族の仮面や彫像、絵画、陶磁器などを集めた「驚異の部屋」(ヴンダーカンマー〔Wunderkammer〕、同様のものにイタリアのステュディオーロ〔studiolo〕など)と呼ばれる私的なコレクションが形成されていくことになる。これらの「驚異の部屋」のいくつかが今日の博物館の前身になっていて、例えばイギリスの大英博物館は、医師であり収集家だったハンス・スローン卿のヴンダーカンマーのコレクションがもとになっていることで知られている。またフランスのルーヴル美術館は、もともと宮殿だったが、フランス革命後に王室所有の美術コレクションが国有財産化されて「美術館」として広く一般に公開されるようになった。ルーヴルの例のように、市民革命などを経て、もともとは特権階級の人々しか観覧できなかった美術品の多くが、「博物館」「美術館」という形で現在は誰もが享受できるものになっているケースも多い。

万国博覧会というフォーマット

 展覧会については、コレクションを公開する形の展覧会は、先にふれた美術館や博物館の前身になるヴンダーカンマーなど、王侯貴族の邸宅などの一室をごく限られた人々を対象に実施していた先例がある。そのほかルーヴル宮でも王立絵画彫刻アカデミーの会員らの作品を「サロン・カレ(方形の間)」という一室で展示する通称「サロン」が革命より少し前の1737年から実施されている。だが、今日のようにより多くの一般の人々に向けてそのときどきの最新の物品や美術工芸品を紹介するようなスタイルの展覧会は、主には産業振興を目的とする博覧会の歴史がもとになっていると言えるだろう。
 市民革命や産業革命を経て、各国の優れた物品などを陳列する国際見本市的な博覧会である万国博覧会(国際博覧会。通称、万博)が19世紀から世界各地で開催されるようになり、今日に至っている。特に万博は、各国の技術や芸術の粋を世界に紹介して国の威信を内外に知らしめる、国威発揚的な性格をもっていた。1851年の第1回にあたるロンドン万国博覧会では、クリスタル・パレス(水晶宮)と呼ばれる当時類を見なかった鉄骨とガラスという素材を駆使した巨大な建物が建造され、主会場になった。また1900年のパリ万博(第5回)ではエッフェル塔が建てられ、その姿は現在でもパリを象徴する観光名所になっている。日本も第2回のパリ万博(1867年)で江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩が出展するなど早くから参加していて、1873年のウィーン万博からは明治政府が日本として公式参加して日本庭園や神社を造ったほか、浮世絵や工芸品、名古屋城の金のシャチホコなどを展示した。またパリやウィーンでの万博における日本の出展が、いわゆる「ジャポニスム」と呼ばれる日本ブームを巻き起こすなど、こうした万博の開催は、各国の優れた最新の技術や文化を直接肌で感じる機会となった。
 日本国内でも博覧会は明治に入ってから盛んに開催され、内国勧業博覧会が東京(上野)のほか京都や大阪でも開催された。また同じく東京・上野公園で開催された東京府勧業博覧会で建てられた建物が「竹之台陳列館」として美術関係団体に貸し出され、明治から大正期にかけて美術展会場として用いられた。政府主催の美術振興策として組織された文部省美術展覧会(通称、文展。現在の日展の前身)も同館で開催された。このように近代になってから、欧米を中心にいまの博物館、美術館、展覧会の原型ができ、日本も明治政府が近代化を果たすなか、その流れを受けて美術館や展覧会という装置を取り入れてきた。ちなみに「美術」という言葉は江戸時代まで日本語にはなかったが、ウィーン万博の出品分類をきっかけに「美術」という官製訳語が日本で用いられ始めたことは、日本での美術史の形成や言説を考えるうえで非常に興味深い(4)。
 これまで美術館や展覧会の歴史的な成り立ちを概観してきたが、これらの近代的な枠組みは、第二次世界大戦後に美術の中心がパリからニューヨークに移り、「現代美術」が登場することで、さらに大きな変遷を遂げていくことになる。

(第2回に続く)

 


(1)American Art in the 20th Century: Painting and Sculpture, 1913-93, Martin-Gropius-Bau, Berlin, 8 May – 25 July 1993; Royal Academy of Arts, London, 16 Sept. – 12 Dec. 1993.
(2)ヴィオラ自身による作品解説。『「ビル・ヴィオラ はつゆめ」展覧会カタログ』木下哲夫/近藤健一訳、2006年、淡交社、54ページ
(3)2018年2月22日の「Science」誌など最近の研究では、洞窟壁画の起源はこれまで想定されていたよりさらに数万年もさかのぼった約6万5,000年前にホモ・サピエンス(現生人類)ではなく、ネアンデルタール人によって描かれたとされている。
(4)「美術」の初出については諸説あるが、いずれも明治のこの時期に翻案されたものである。明治以降の日本における美術の受容については、北澤憲昭著『眼の神殿「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年〔ブリュッケ、2010年〕)をぜひ一読していただきたい。

 

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はじめのギモン 現代美術って何でもあり?

難波祐子(なんば・さちこ)
(現代美術キュレーション。著書に『現代美術キュレーター・ハンドブック』『現代美術キュレーターという仕事』〔ともに青弓社〕など)

 とある日曜日の昼下がり。お昼ご飯にパスタを食べたあと、中学3年生の息子と珍しく将来、何をやりたいかという話になった。そこでふと息子が「現代アートって簡単だよね」と言って、テーブルの上に出しっ放しにしていたパルメザンチーズの容器をひっくり返した。

「ほら、これ、なんか周り全部白いバックにして、白い台の上に置いて、ケースに入れて、その周りになんか紐みたいなの張って「入らないでください」とか「さわらないでください」って書いてさ、で、四角い紙みたいなのに「〇〇〇〇(自分の名前)」って書いて、「この作品は、現代社会をいままでの発想とは真逆の発想で捉えることを表している」とかって説明書けば終わりじゃん」
「ちなみにタイトルは?」
と聞くと、
「逆パルメザンチーズ」
(爆笑)
「え、それってでも、デュシャンじゃん」
と私。
「そーだよ、デュシャンが便器ひっくり返してアートって言うから、何でもアートになったんじゃん。でも、デュシャンがそれもうやっちゃったから、現代アート何やっても、面白くないよね」
「え、あんたデュシャン知ってるの? 学校で習った?」
「いや、俺、観たもん。小学生のとき、美術館で観た」

 はじめに断っておかなければならないが、息子は、親がアート関係の仕事に携わっているために、確かに小さいときから現代美術の展覧会にあちこち連れ回されていたので、本人も知らないうちに、一般的な中学3年生と比べれば、常日頃からアートに接するという、ちょっと(いや、かなり)特殊な環境で育ったかもしれない。それにしても展覧会慣れしていた当時小学3年生だった彼にとっても、便器がうやうやしく展示されていた光景は、よっぽど印象的だったのだろう。いまではすっかり展覧会を観に一緒に出かけることもなくなってしまった、自称「現代美術嫌い」のわが子から、こんなにいとも簡単に粉チーズ容器一つ使って、現代美術の概念と展示について核心を突くような発言が飛び出すとは、正直思ってもみなかった。

  *

 ここで本題に入る前にデュシャンって何?と思った方のために、少し補足を。読者のなかには、マルセル・デュシャンの名前はともかく、この便器の「作品」には、どこかで見覚えがある人も多いだろう。この作品が初めて登場したのは、1917年のニューヨークのこと。出品料を払えば無資格無審査で誰でも出品できる第1回アメリカ独立芸術家協会の展覧会に出品するため、市販の男性用小便器をひっくり返し、「R. MUTT」という作者の名前を示す署名と「1917」という制作年を入れて「Fountain(泉)」というタイトルを付けた「作品」が、出品料を添えて同協会宛てに送られてきた。だが、無資格無審査を謳っている展覧会であったにもかかわらず、この作品は委員の間で議論を巻き起こし、展覧会オープンの1時間前まで話し合いはもつれ込み、会場になったグランド・セントラル・パレスの展示室に置かれることはついぞなかった。この協会の主要メンバーの一人だったデュシャンは、このことをきっかけに同協会を辞任した。後日、この作品は同じくニューヨークにあった「291」という画廊で展示され、同画廊を主宰していて、写真家であったアルフレッド・ スティーグリッツによって撮影された。その写真には「R. Muttによる「泉」」「独立芸術家協会から出品拒否にあった」というキャプション(作品タイトルなどの説明書き)が添えられ、「リチャード・マット事件」と題された匿名の論説とともに雑誌「ザ・ブラインド・マン(The Blind Man)」に掲載され、広く知られることになった。この作品の制作過程や出品に至るまでの経緯をめぐっては諸説あり、デュシャンの手によるものではないとする研究者もいるが、そもそもオリジナルの「泉」を直接目にした人はごくわずかであり、ここでその真偽を検証することは目的ではないので割愛する。もっとも、作品本体は現存せず、現在、世界各地の美術館で見られる「泉」は、50年以降、デュシャン公認で複数個、再制作されたレプリカであるのがこの話をどこまでもややこしくしているのだが、それも含めて非常にデュシャンらしいエピソードである。ちなみに現在は作品保護のために展示ケースに入って展示されているものがほとんどだが、オリジナルは、むき出しのまま展示してあった。
 ともあれ、「便器がアートになる」という「泉」のインパクトは大きく、一般的には「デュシャン=便器の人」のイメージが定着しているが、デュシャンが提示した大いなるギモンのなかで、「泉」はほんの一例にすぎない。デュシャンは、この「泉」の前にも、既製品を用いた作品である「レディ・メイド」のシリーズを発表している。大量生産されている複製可能な日用品を「作品」として提示することで、「美術作品は、作家自身の手によるものであり、唯一無二のオリジナルである」というそれまでの美術の固定概念を根底から覆した。また美術作品といえば美しいもの、視覚的に魅力的なもの、という考え方に対しても、デュシャン自身が、視覚的に無関心と感じる既製品をあえて選択し、それを「アート」と呼んでしまえば、なんでも「アート」になってしまう危険性を指摘することで、新しい思考を創出しようと試みた。これは、美術史のなかではまぎれもなく歴史的な一大事件だった。以来、デュシャンは「現代美術の父」と呼ばれ、いまだに多くの人によって参照され、語られている。

  *

 さて、そろそろ本題の「逆パルメザンチーズ」に戻ろう。確かに息子が言うことは一理ある。デュシャン以上の歴史的転換を巻き起こすような現代美術の作品は、そうそう出てくるものではない。だが、あれから100年以上たった今日でも、現代美術は絶えるどころか、さまざまな形で発表され、多くの人々の目に届けられ続けている。作家たちは何のために日々、作品を作り、それを発表するのだろうか。ネットに投稿された写真や動画なら瞬時に世界中の人たちに発信し、シェアすることができる世の中で、私たちはなぜいまだに美術館や展覧会などにわざわざ足を運んで、人が作ったものを観にいくのだろうか。
 美術の展覧会を作る仕事に「キュレーター」という仕事がある。美術館では一般的に「学芸員」と呼ばれている仕事だ。作家が作品を作るように、キュレーター、あるいは学芸員と呼ばれる人たちは、展覧会を作る。なぜそのような仕事が必要なのだろうか。作家が作った作品をただ展示すればいいのではないのかと思う人もいるだろう。そもそも展覧会とは何だろうか。また作品は美術館の「展示ケース」に入って、白い部屋に飾られて、作家名とタイトルと説明書きが添えられたら、便器でも粉チーズ容器でも本当に「アート」になってしまうのだろうか。そんなのは、単なる言いがかり、詭弁にすぎないのではないだろうか。絵画や彫刻を美術館や展覧会で観て、その「美しさ」に感動を覚えることには納得できても、便器を「アート」として飾るような現代美術の展覧会は、「意味不明」と感じる人も多いだろう。一方で、近年、街中などでも展開する現代美術の「芸術祭」や「トリエンナーレ」という名称で知られる大規模で国際的な展覧会は、どこも大人気だ。こうした現代美術の展覧会を作るキュレーターは、例えばゴッホやモネの展覧会を作るキュレーターと何が違うのだろうか。そもそもキュレーターはなぜ展覧会を作り、それを多くの人が観にいくのだろうか。現代美術の展覧会のことをひとたび考え始めると、さまざまな疑問が湧いてくる。

  *

 これから始める本連載は、現代美術をめぐるさまざまな問いのなかでも、「現代美術のキュレーター」という仕事と「展覧会」という仕組みに着目し、キュレーターが展覧会づくりで抱きがちな、ささやかだが大切な問いの数々を10の「ギモン」として取り上げて、読者のみなさんと一緒に考えていきたい。そして最終的には、本連載を書籍の形にまとめて刊行したいと考えている。
 具体的な構成は次のとおりである。まずは、展覧会における空間・場所・時間軸をめぐる2つの「ギモン」から始めていく。「ギモン1 どこで展示するの?」では、展覧会を開催する場所としておなじみの美術館やギャラリーについて、その歴史的な背景なども見ていきながら、美術館や展覧会という場所にまつわるギモンについてあらためて考える。続く「ギモン2 展示には順番があるの?」では、実際の展示空間での作品の配置や、展示空間で鑑賞者が体験する時間についてのギモンについて具体的な例を見ながら検証していく。次に展示の主役である作品をめぐるギモンとして「ギモン3 何を展示するの?」と「ギモン4 作品って誰が作るの?」という2つの「ギモン」を通して、作品が作品として成立する仕組みなどについて再考する。そして今度は展覧会の観客をめぐるギモンに目を向け、「ギモン5 日本人向けの展示ってあるの?」「ギモン6 赤ちゃん向けの展示ってあるの?」という2つのギモンを中心に、観客の文化・社会的背景と展示の関係について、実例なども踏まえながら見ていく。続いて、現代美術という私たちが生きている現代と同時代に生まれる作品に特有の作品収集にまつわる問いを「ギモン7 どうして美術館は作品を集めるの?」と「ギモン8 何を残すの?」を通して考える。そして最後に、これらのギモンの総括的な問いかけとして「ギモン9 どうして「展覧会」を作るの?」と「ギモン10 キュレーターって何をするの?」の2つを通して現代美術の展覧会とキュレーターについて再び考えてみたい。この最後の2つのギモンについては、連載ではなく、書籍にまとめる際に書き下ろす形で発表したい。また書籍化にあたっては、それまでの連載についても必要に応じて手を加えながら、まとめていきたいと考えている。

  *

 こうした問いに一つずつ向き合うことで、これから展覧会を企画しようとしている初心者から、長年、展覧会に携わっている現役学芸員、キュレーターまで、幅広い層にとって「展覧会」とは何か、キュレーションとは何か、という古くて新しい問いにそれぞれの立場から考えていくための手がかりになってほしい、とひそかに期待している。またキュレーターに限らず、普段、展覧会や美術館に行くことに関心がある多くの方々にも、なぜ「展覧会」に私たちが惹かれてしまうのか、「キュレーター」とは何をする人たちなのか、という根源的な問いについて考えるきっかけになることを祈っている。デュシャンが投げかけた大いなるギモンへの応答になるかどうかは、はなはだ心もとないが、この小さなギモンへの問いかけの積み重ねが、ヴァーチャルなモノづくりが席巻するいまの時代に「展覧会」というアナログなメディアで勝負するキュレーターの大「ギモン」についていま一度考えるための糸口となれば幸いである。

[補足]デュシャンの画像は著作権フリーで下記からダウンロード可能である。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marcel_Duchamp,_1917,_Fountain,_photograph_by_Alfred_Stieglitz.jpg

 

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第21回 105周年宝塚、激動の上半期

薮下哲司(映画・演劇評論家)

 真夏並みの暑さとなった2019年5月末、令和と年号が変わって初めての『宝塚イズム39』が完成、そろそろ全国の書店の棚に並ぶころになりました。今回は原稿依頼の締め切りぎりぎりになって星組の紅ゆずる、花組の明日海りおとトップスター2人が次々に退団を発表し、いつも以上にずいぶん慌ただしい編集作業になりました。できあがってきた最新号は、105周年宝塚の華やかな話題のうちにはらむさまざまな問題も提起していて、こちらが思っていた以上に充実した内容で、読みごたえがある一冊になりました。
 巻頭特集は「さよなら紅ゆずる&綺咲愛里」。類いまれな美形コンビとしてファンを魅了してきた星組のトップコンビの退団を前に、私が彼らの宝塚でのこれまでの軌跡をリードで振り返り、現在の宝塚で2人がどんな位置を占めるコンビだったのかなど、彼らの魅力を鶴岡英理子、宮本啓子、永岡俊哉、木谷富士子の4人が分析します。
 2人のサヨナラ公演『GOD OF STARS――食聖』(作・演出:小柳奈穂子)はおろか、プレサヨナラ公演となったドラマシティ公演、楽劇『鎌足――夢のまほろば、大和(やまと)し美(うるわ)し』(作・演出:生田大和)さえまだ始まっていない時期に原稿を依頼したとは思えない論考がそろい、執筆者たちの2人への愛の深さを改めて理解するとともに、サヨナラ公演に臨む彼らへの期待の大きさもうかがい知れます。
 その紅&綺咲のプレサヨナラ公演『鎌足』の開幕直前の4月末に、星組の次期トップスター人事が宝塚歌劇団から発表され、星組の二番手スターで人気、実力とも急成長の礼真琴が順当にトップ就任することになりました。また、相手役が4月29日付で花組から星組に組替えになることが発表されていた舞空瞳であることも同時に発表されました。舞空が動くことで宙組の芹香斗亜が星組に里帰りしてトップになるのではという噂がSNSで流れていたこともあって先手を打ったとも考えられなくもありませんが、思いがけず早いタイミングの次期トップ発表でした。
 大阪の梅田芸術劇場では、メインホールで5月4日に礼主演の全国ツアー公演『アルジェの男』(作:柴田侑宏、演出:大野拓史)が初日、階下のドラマシティでは『鎌足』が一日違いの5日に開幕。ゴールデンウィーク後半の劇場周辺は宝塚ファンで終日ごった返しました。ただ、退団が決まっているトップスターが中劇場、次期トップスターに決まったばかりの二番手スターが大劇場で公演というのが、発表前ならまだしも発表されてからでは、なんとも複雑な感覚にとらわれました。
 トップスターが退団を発表したあとの次期トップスターの発表時期はさまざまで、サヨナラ公演が終わってもなかなか発表されないケースがあったりするなかで、今回は、トップのプレサヨナラ公演前、次期トップに決まった二番手スターが主演する全国ツアー公演前に発表されました。星組生え抜きスターの昇格人事ということもあって、比較的スムーズにバトンタッチができたのではないでしょうか。ただ、場内の熱気はドラマシティよりもメインホールのほうが上回っていました。新しいスターを求める宝塚ファンの正直な思いが如実に表れていて何とも言えない気持ちになりました。常にフレッシュなスターを求め、新旧交代を繰り返してきた宝塚105年の歴史はこういうことだったのかなあと妙に納得できた瞬間でした。
 一方、そんな宝塚のなかで、新旧交代の波にうまく乗れず、ファンに惜しまれて退団していったスターもいます。月組の美弥るりかと星組の七海ひろきです。実力はおろか人気も抜きんでていて、とりわけ美弥はショーでは二番手羽根まで背負い、いつトップになってもおかしくないという位置まできながら、何らかの力とタイミングが合わず、退団という選択をせざるをえなかったスターです。七海もその男役としての美貌と人気は現在の宝塚で一番といわれたほどでした。そしてもう一人、二番手スターの位置まできながら専科入りという選択をした愛月ひかるがいます。ファンはセンターに立つ3人を夢見ながら、その寸前に糸を断たれたのですから、その計り知れない無念さは容易に察しがつきます。この3人の決断がこれからの宝塚にどんな影響をもたらすのか、宝塚全体を覆うもやもやとしたストレスにならなければいいのですが……。
 美弥と七海は、花組の明日海や雪組の望海風斗と同期生。宙組の真風涼帆や月組の珠城りょう、そしていま星組の礼真琴がトップになるなど、宝塚の時計はどんどん進んでいきます。そんななかで美弥と七海が、その歯車からこぼれたとしたらもったいないとしかいいようがありません。あとは愛月の頑張りに期待するしかないのでしょうか。
『宝塚イズム39』ではそんな3人に対する愛ある応援として「美弥・七海・愛月、105周年の決断」という小特集も組みました。水野成美、岩本拓、宮本啓子、永岡俊哉が3人への渾身の思いをぶちまけます。3人のファンの方たちは必読です。
 OGロングインタビューは、昨年末退団、女優として始動したばかりの元月組トップ娘役愛希れいかが、退団後の第一作となった東宝版『エリザベート』への熱い思いを語ってくれました。暮れには『ファントム』のクリスティーヌ役も決まり、ますますの活躍が期待される愛希の宝塚愛に満ちた近況報告をお楽しみください。
 大劇場公演評、新人公演評、私と鶴岡の外箱対談、東西のOG公演評とレギュラー企画もたっぷり。今年初演から45周年を迎え、年初に一大スペシャルイベントが組まれた『ベルサイユのばら45――45年の軌跡、そして未来へ』はOG公演評で詳しくお伝えしています。
 あとは実際に手を取っていただくしかないのですが、決して損はさせない一冊に仕上がっていると思います。そして次回は、記念すべき『40』。人気絶頂のさなか11月24日に退団する花組のトップスター、明日海りおのさよなら大特集号です。明日海の魅力をどんな切り口で探っていくかこれからじっくりと知恵を絞りたいと思います。いまから楽しみにしていてください。
 

 

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