「不思議な視点」で「不思議なもの」を見つけたい――『戦後日本の聴覚文化』を書いて

広瀬正浩

 このたび青弓社から『戦後日本の聴覚文化――音楽・物語・身体』を出す機会を得ました。これは私にとって初の単著となります。
 この本を書店で手に取ってくださった方、あるいは青弓社のウェブサイト内にあります本書の紹介ページをごらんになった方ならご承知かと存じますが、本書はきわめて雑多なテーマを扱っています。
 序章でアニメの『けいおん!』にふれたうえで、冒頭の2つの章で小島信夫という通好みの作家の小説を登場させ、細野晴臣や坂本龍一などといったミュージシャンの実践についての議論を展開したあとに、マンガ『20世紀少年』の作品分析を続けるのです。そして、室生犀星『杏っ子』という古くて渋めの小説から「声フェチ」的な問題をえぐり出し、その流れで、私の暗い(?)情熱に支えられた初音ミク論を展開させる……。このように雑多なテーマを扱っているため、研究書としては無節操だ、と感じられる方もいらっしゃるかもしれませんね。
 ただ、執筆した本人は、無節操だとは露ほども思っていないのです。
 本書の「あとがき」でもふれたことですが、私はここのところずっと、「音声から考える他者論」というのを考えていました。誰かの声を聴くことで、その聴取者はその相手に対し、どのような想像力を構成するのか。音楽の実践を通じて浮き彫りになる、文化の“内”と“外”とははたしてどのようなものなのか。……そうした問題意識を抱えながら、自分が興味をもったさまざまな対象を引き寄せて論じてみたところ、結果的に、文学や音楽などといったジャンルの境界なんて最初から存在しないかのような振る舞いを形成してしまっていた、というわけなのです。おおまじめに取り組んだあげ句、無節操なものに見えてしまうという、この皮肉さ。
 しかし、この雑食的な性格のため、本書を“商品”として発信してくださった出版社や書店の方々は苦労したのではないか、と思います。本書は「文学研究」のコーナーに置かれるべきなのか、「音楽研究」のコーナーに置かれるべきなのか、それとも「文化研究」のコーナーなのか……。この本のどの章を重視するかで本書の位置づけが変化してしまいます。出版社や書店の方々もいろいろと工夫なさったのではないでしょうか。ご尽力に感謝します。

 ところで、本書のタイトルの印象から、戦後期の日本人の聴覚的な経験を記録した資料を網羅的に扱った研究書だ、と本書のことを想像なさった方も、いらっしゃるかもしれません。半分埋もれかけた歴史的な資料を掘り起こし、そこから「事実」を浮き彫りにしていくという、いわゆる「文化研究」によく見られるスタイルは、本書では第5章、8章、9章あたりで少し見られますが、では本書全体では、どのようなスタイルが採られているのか。……私自身の言葉で言うならば、“「不思議な視点」で「不思議なもの」を見つけ出していく”というスタイルです。
 言うまでもなく、一般に、他の人でも言えることをわざわざ自分が言う必要など、どこにもありません。特にそれが「研究」となると、なおさらです。他の人でも容易に獲得できるような視点によっておこなわれる研究は、別に自分がおこなわなくても、他の誰かがしてくれるのです。もし自分が何かについて研究をするならば、他人が簡単には思いつかないような視点、「不思議な視点」で対象を捉え、一見すると何げない、退屈そうに見えるもののなかから「不思議なもの」を見つけていく。そういう実践を通して、私たちのなかに潜在する未開発な感覚を刺激していく。そんなスタイルこそが、私の好むスタイルです。本書では、特に第2章、第9章、第10章あたりが、そうしたスタイルを少しは貫けたかなと自負する章になります。
「不思議な視点」を獲得するためには、「文学研究」「音楽研究」「映像研究」などの諸領域のなかの1つに閉じていてはいけないだろう、と思います。音楽のことを考えながら文学のことを考える、アニメのことを考えながら音楽のことを考える、という“複眼的”な思考が大切なのだろう、と思います。もっともっと貪欲に、いろいろなものを見ていかなければならないのでしょう。

 40歳になる手前でなんとか単著を出せたことに、ひとまず安堵しているところです。しかし、それほどのんびりしているわけにもいきません。私の周りにはきっと、まだ見ぬ「不思議なもの」がいっぱい転がっているはずですし、何よりも私は自分自身の好奇心で窒息してしまいたい。
 私はこれからも、「不思議なもの」を追いかけていきたい。でもそんな私自身が、「不思議なもの」を追いかけたいと考えている誰かの支えになることができればいいな、とも考えています。