記録する社会とフィールドワーク――『「創られた伝統」と生きる――地方社会のアイデンティティー』を書いて

金 賢貞

 本書は、筆者が韓国人留学生として筑波大学大学院に在学した2001年から07年までの約6年間フィールドワークを続けた茨城県石岡市の通称「石岡のおまつり」をめぐるさまざまなローカルな出来事や言説に注目して、石岡という現代日本での地方社会の周縁性を論じたものである。では、なぜ「石岡」だったのか。調査地措定のきっかけや選定の条件についてはすでに本書のなかで述べているので、ここで改めてふれることはしない。
 実は、6年間ずっと石岡のことばかりを調べていたわけではない。市内の多くの町内を歩き回りながら、集中調査地の選定に悩んだこともあれば、母国である韓国と明らかに違う、いわゆる「日本的」な社会構造や文化様式を求めて村落へ調査地を変えようとしたことも何度かある。それでも、最終的に石岡に決めたのは、ナショナルなレベルでそれほど有名ではない石岡のおまつりに対する地元の人たちの愛情と熱意、また、筆者の調査に対する積極的かつ友好的な協力があったからである。
 本書の刊行後、中身に関連して最も評価されたのは、分析対象として提示した資料の深さだと思う。つまり、韓国人の筆者が、祭礼費用の内訳やそのお金をめぐるコンフリクトまで、インタビューによるオーラル・データだけでなく、ローカルで個人的な文字資料まで獲得できたことに対する評価だろう。
 しかし、これは、筆者のフィールドワーカーとしてのキャパシティーによるものではない。もちろん、石岡の人たちとのラポールが浅いものではなかったが、それだけが功を奏したわけではない。これは、最近の韓国でのフィールドワークを通して実感している。
 筆者は、石岡の研究から得た知見を韓国の事例研究によって実証し、ゆくゆくは日韓の比較研究につなげたいと考えている。そこで現在は、韓国のまちづくりのなかでも、地方にたくさん残る植民地時代の建造物を活用して地域活性化を図っている浦項(ぽはん)市の九龍浦(ぐりょんぽ)という漁村地域で調査している。
 1995年にソウル市内の「朝鮮総督府」が取り壊されたことは、日本でもよく知られている。その出来事からもわかるように、韓国の独立後、各地に残った植民地期建造物は「負の遺産」として破壊されるか、政局の混乱、朝鮮戦争、財政窮乏などによってそのまま利用された。しかし、高度経済成長期を経て88年のソウル五輪開催をきっかけに国家の威信を本格的に意識し始めた政府は、「仕方なく」使い続けた植民地期建造物を、日帝残滓の清算の一環として大々的に取り壊す作業に着手した。このように、韓国の植民地期建造物は、破壊か否定的な使用の対象にすぎなかったが、90年代末から変化が現れ始め、2001年にはそれらの保存と活用を促す登録文化財制度が成立した。このナショナルな制度のもとで各ローカル社会では、具体的にどのような変化が起きているのかをローカル・アイデンティティーの観点から調べている。
「近代文化歴史通り」を作った九龍浦でのフィールドワークは、事業内容そのものよりも、関係する住民たちの関わり方や考え方に焦点を当てておこなわれている。やはり、住民と行政、住民の間にもかなり葛藤があったようである。それでその話を聞く。しかし、当時、賛同する住民で作った協議会の正確な名称さえ確定できない。会の代表を務めた人に聞いても状況は変わらなかった。
 2、3回目の聞き取りの際、代表に議事録か会議の配布資料などはないかたずねたが、「そんなものはない」と言い切られた。しかし、会う回数が増え、別の話題についても話し合える仲になると、地元図書館の倉庫のような部屋にもしかしたら当時の文字資料があるかもしれないと言われた。そして、山積みの埃まみれの文書類から関係資料がやっと見つかった。筆者が、このようなものは郷土資料として重要なので、ちゃんと整理して保管したほうがいいとアドバイスしたら、「日本人みたい」と言われた。
 石岡のフィールドワークでは、関係者たちが語る内容を補足し、そのオーラル・データの信憑性を高めるための文字資料の獲得に、ここまで苦労したことは一度もない。集団の代表は言うまでもなく、普通の人たちでも会合などでよくメモし、そのメモや配布資料などを簡単には捨てない。そのため、聞き取り調査は文字資料の獲得にスムーズにリンクした。しかし、そういう環境に慣れていた筆者による韓国の調査はなかなか進まず、悩みの種になっている。
 韓国人として言葉も文化も違う日本でフィールドワークをするのは大変だろうとよく言われる。そのような大変さも決してなくはなかった。しかし、言葉も文化もある程度共有しているはずの韓国の調査のほうが行き詰まりがちなのは、「記録」という文化の違いが影響しているからだろう。