オカルト番組って……なくならないんじゃないの?――『オカルト番組はなぜ消えたのか――超能力からスピリチュアルまでのメディア分析』を書いて

高橋直子

「えっ、消えたの?……なくならないんじゃないの?」
 本書の刊行直前(2019年1月26日)のこと、見本のカバーを見つめたまま、T先生はそうおっしゃった。私は答えに窮した。現状でオカルト番組がまったく放送されていないわけではないし、本書はオカルト番組が消えると予想するが、消えるかどうかを問題としているわけでもない。どこからどう答えたらいいものか、尊敬する先生を前に逡巡してしまった。回答できずにいる私に、先生は「まぁ、読めということですね」とおっしゃった。恐縮至極。
 その家路、執筆時に考えたあれこれが思い浮かんでグルグル回り、ふと、フリードリヒ・エンゲルスのことを思い出した。教科書にカール・マルクスとセットで名前が出てくる、あのエンゲルスである。1870年代、交戦国同士がともに戦場で最新式の銃を使用したことに驚いた彼は、兵器がここまで進歩したからには、もうこれ以上は兵器改良の余地はないと考えた。隣国が軍備に力を入れれば、それと同等の軍備をもたなければならないという状況では、軍事費が増大して遠からず国家財政はもちこたえられなくなる、と予想したのである。この予想が無残に裏切られたことはいうまでもない。たしかに軍備競争は国家の出費を増大させたが、財政破綻を引き起こしはしなかった。反対に、戦争準備行動は、数々の工場を稼働させることで、ある種の経済問題を解決するのに役立ちさえした。工業の進歩の結果、戦闘の諸条件や技術は新たな次元へと突入していったのである。
「消えたの?」という問いかけは、「現状、消えてないよね?」という単なる疑問なのではなく、オカルト番組が消えるという予想は無残に裏切られるのではないか、という反論である場合が多いのではないかと思う。いまは下火といっても、また新たなスターが出現すればブームが起こるのだろうという見方は、馴染み深いものである。また、BS、CSとチャンネルが増えたことは、オカルト番組の出口が増えるということでもある。
 私がエンゲルスのことを思ったのは、この頃、ロジェ・カイヨワの『戦争論』(原題はBELLONE ou la pente de la guerre〔「ベローナ、戦争への傾斜」〕。ベローナは古代ローマの戦争の女神)を読んでいたから。カイヨワは戦争を礼賛する言論によって、戦争が人びとの心をいかに引き付けるかを考察して、「戦争と祭りはともに社会の痙攣である」と論じた。痙攣は、意志も反省も到達できない内臓の深みで起こる。戦争も祭りも、知性では理解することも制御することもできない、社会(集団)の根底にある恐ろしい力の沸騰・噴出のようなものである、というカイヨワのひそみにならえば、オカルトもまた社会の痙攣に連なる現象である。
 2019年1月29日、『オカルト番組はなぜ消えたのか』刊行。この書名の本が書店に並ぶことは、10年前ではありえなかったのではないか――いま、「なぜ消えたのか」と問うことが了解される(との前提で出版される)ということは、本書の内容にかかわらず、ある意味をもつものだと思う。
 デジタルメディアの長足の進歩の結果、オカルトがエンターテインメント化される諸条件や演出は新たな次元へと突入していくことだろう。そうであればこそ、いま、その歴史の一端を振り返る意味があると思う。
 本書は、かつてどのようにしてオカルト番組が成立し、オカルト番組を介したコミュニケーションがどのように変化してきたか、その経緯と現状を分析している。本書の分析が、新たな次元へ備える一助となるならば、たとえオカルト番組が消えなかったとしても、著者としてはこのうえなく幸せである。