自分の本が刊行されるというのは、なんとも晴れがましくうれしいものだ。いままでにも、さまざまなチャンスに、研究論文やエッセイを数えきれないほど(ちゃんと数えたことがないので)発表してきた。でも、それらが載っている本はすべて共同執筆だったので、たった一人で書いたいわゆる単著は、本書がはじめてだった。
単著というものは著者に晴れがましさと同時に、恐怖ももたらす。共著だと大勢で執筆しているので「できた?」「まだ」という情報が飛び交い、「みんなで遅れりゃ怖くない」の標語のもと編集者を泣かせても、それほど罪悪感はおこらない。もちろん、あくまでも「それほど」であって、後ろめたさと申し訳なさはいっぱいであるが。しかし、一人で書いていると、申し訳なさに恐怖が加わってくる。
本書はいくつかの書き下ろしを含んでいるが、それをこの1年間で執筆した。2001年は、私にとって過去・未来すべてを含む人生で、もっとも忙しい年だっただろう。ジェットコースターに乗ったような1年だった。旧正月に雲南省のチベット族芸能調査、3月にロンドンとパリの博物館・図書館で資料収集、5月に上海で国際研究会発表、夏にラサと四川省のチベット族芸能調査、年が明けて3月に上海と蘇州で楽器製作調査。それ以外にも11月に沖縄で国際学会発表、あいまを縫って四国・九州・関東・沖縄などでも芸能調査をおこなった。さらに、これがいちばんビックイベントだったのだが、大阪大学文学部に提出した博士論文「神を請う楽の音――福建省泉州提線木偶戯における技法の象徴性とその継承」を執筆していたのだ。
夏にラサへいくことが決まったときには、日ごろ楽天的な私もあおくなって泣きを入れた。矢野さんはおだやかに「わかりました、待ちましょう」とおっしゃってくださって、しばし猶予をいただいた。けっきょく2カ月にわたる夏休みには1枚も書かなかった。ラサで、ときどき矢野さんの顔が脳裏をチラチラした。このまま企画が流れてしまうのではないかという恐怖のもと、「ごめんね、矢野さん」と西の空の下で手を合わせながら、私は毎日楽しくチベット・オペラを見ていたのでした。
刊行されてからは、また別の恐怖が始まる。出版当日、本屋に偵察に出かけて、並んでいる本書を見つけたとき、まずは小躍りしたいほどうれしかった。そばで本を選んでいる知らない人に「これ私の本、私の!」と言いたいくらいうれしかった。しかしその夜、本書を風呂敷で背負って、営業に精をだしている私の夢をみた。売れなかったらどうしよう。知人から「買いましたよ、おもしろかった」という手紙をいただいて、まずはホッとしている。
青弓社とは、今回はじめてのお付き合いだ。どのような本を出版していたかはよく知らなかったが、お話があったとき、企画内容とその条件をはっきり提示してくださった矢野さんが頼もしくみえて、お引き受けすることにした。『青弓社図書目録』をいただいたけれど、なかなか目をとおすことができなかった。校正が佳境にはいったころ、編集担当の加藤さんを煩わせて日曜出勤してもらい、人気のない青弓社のオフィスで一日中楽譜を手直したり写真を付き合わせたりした。昼食後のひとやすみ、オフィスの一角に青弓社がいままでに出した本が並んでいるのを発見した。私が読んだことのある本があるではないか。さらに、どれとは申しませんが読みたい本がいっぱい。思わず「著者がもらえることになっている自分の本の代わりに、これらの本をもらえませんか」といいたくなるほどだ。一読者にもどって、本屋に探しに行ってみよう。
さて、カバーのカラー見本が刷り上がってきたとき、本当に満足した。デザイナーの方には何度も要求を出して作り変えてもらったが、最終的な出来はすばらしいものとなった。思わず「カバーの抜き刷り(?)を作ってもらえませんか?」とお願いしたくなるほどだ。カバーは、それだけ単独でも欲しくなるほど、いいできあがりだった。
原稿を書くことは大変だったけれど、一方では、フィールドで出会った音楽や芸能を再体験することでもあり、とても楽しかった。過去の体験でも、新たな視点で見直すことで、新たな発見につながることに気づかせてもらった。
またいつか、次の企画でお会いできることを祈りつつ、もうひとつのあとがき「原稿の余白に」を終えることにしよう。