占いは人間の営みの一つ――『占いにはまる女性と若者』を書いて

板橋作美

 今日の日本に、占いはあふれている。ところが、占いについて、それを真正面から論じたものはないに等しい。それどころか、私が占いについての本を書くと言うと、周囲から、とくに大学のような「知的」な場所では、うさんくさいものを見るような顔をされる。
 私は、昨2012年、小学校高学年から中学校低学年の生徒を対象とした占いについての本を監修したのだが、出版社の編集者から、ちょっとしたことで文部科学省に問い合わせたら、「占いですか?」と学校教育に占いなどありえないという反応だった、という話を聞いた。もちろん、それは当然で、私も学校で占いを教えるべきだなどと思ってはいない。
 ただ、人間というものを考えようとしたら、占いの問題は、避けて通りすぎるわけにはいかない問題の一つではないだろうかということだ。占いは、科学などよりもはるか昔からあり、また科学が発達した今日でもなくなることがない。それほど、占いは人間のあり方と深く結び付いている。
 占いは、人間の営みの一つである。いったい、人間以外の動植物の何が占いなどするだろう。占いは、人間が人間であるゆえん、人間が文化をもち、社会のなかで生きるということそのものに関わっている。
 私は占いの専門家ではない。私は、迷信とか俗信とか言われるもの、具体的には禁忌やまじないや予兆、あるいはキツネ憑きなどの憑きもの信仰に関心をもっている。そして、そういう迷信を人はなぜ信じるのかを考えてきた。占いは、その一部である。
 中村雄二郎は、現代思想・現代哲学の主要ポイントの一つは〈深層的人間〉の発見であり、1960年代初頭に出た3冊、フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960年)、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』(1961年)、そしてクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962年)がその問題に初めて光を当てたとしている(『西田幾多郎Ⅱ』〔岩波現代文庫〕、岩波書店、2001年、10-12ページ)。子供、精神病者、未開人らの深層的人間、そして中村がそれに加えた女性は、近代社会の内部と外部であるいは固定化され、あるいは見捨てられてきた。彼らにおいては、生は、意識的・主知的でなく、無意識的・身体的であり、またパトス的・共感的原理に支配されているとされてきた。
 彼らは、その感性的資質のために迷信にとらわれやすい人とされてきた。逆に言えば、迷信とはそういう人に固有な知識あるいは思考とみなされたのである。未開人は迷信に支配され、子供の知識と思考は迷信的であり、女性は迷信に弱いとされる。迷信の一つ、憑霊信仰では、霊的存在に憑依された者は異常な言動を示し、それは医学的には精神を病んだ人、つまり彼らは精神病者とみなされる。
 しかし、本当にそうなのだろうか。深層的人間の知識と思考は、男女の別なく、ごく普通の現代人にも潜んでいるし、われわれの知識と思考のなかには、子供、精神病者、未開人、女性と通底する何かがあると私は考えている。迷信は、一部の人間の特殊な精神に関わるものではなく、すべての人間にとって根源的な何かと結び付いているのではないかと考えるのである。柳田国男も、迷信について、「時あつては我々自身の、胸の中にさへ住んで居る。現に自分なども其一例で、今でも敷居の上に乗らず、便所に入つて唾を吐かず、竈の肩に庖丁を置かず、殊にくさめを二つすると誰かが蔭口をきいてるなどと、考へて見る場合は甚だ多い」(「青年と学問」『定本 柳田國男集』第二十五巻、筑摩書房、1964年、257ページ)と書いている。
 迷信は、特別な思考法とか論理によるものではなく、ごく日常的な思考法や論理に基づいているからこそ、いまでもなくなることがないのだ。占いは、そういう迷信の一つなのである。