第3回 ミステリー・キャラクター・数学の固有性――『容疑者Xの献身』から『浜村渚の計算ノート』へ

西貝 怜

 現代の小説群は、キャラクターに代表されるように、新たな形質を取り入れその取捨選択を繰り返し、まるで進化の途中である。特にミステリー小説は、推理のあり方をいまも重要視しながら、キャラクターを導入することで新たな様相を獲得している。ならば、この推理におけるキャラクターの機能の一端を示せれば、現代の「小説の生存戦略」の理解も深まるだろう。

はじめに

 ミステリー小説といえば、作中で何か事件が発生してその犯人や謎の真相を探偵が推理によって明らかにする、というのが多くの作品に共通するスタイルである。しかし城平京『虚構推理(1)』(2011年)は、一見してミステリーとは思えないような事件の解決方法を描いている。妖怪が事件の一部始終を見ていて探偵にその真相を伝えたり、その探偵が殺人事件を沈静化するために嘘をついたりしている。このような事件へのアプローチの何がミステリーなのか。
 諸岡卓真は、『虚構推理』では嘘で事件を解決するという点で推理での「真実の追究」が後退することになっているが、そのために事件を解決するための様々なアプローチとしての推理の楽しさを描いていると述べている(2)。この『虚構推理』の推理のあり方について拙稿ではさらに考察を進め、罪を犯し謎を作り出す犯罪者と、本来は真実を探求することで立場を異にするはずの探偵が嘘を重ねるという点で接近してしまう倫理的問題を抱えている、と指摘した(3)。
 このような「変革」や「奇想」などと呼ばれるような事件への独特なアプローチを中心に、近年ではミステリー小説の多様性が大きくなっている。そのような様相は、キャラクターの描き方とも関連深い。たとえば『虚構推理』で主人公の2人は、不死者で都合のいい未来を選択できる能力を持つ青年と妖怪らの神となった女子高生である。この強いキャラクター性を持つ2人があってこそ、以上のような解釈が成立する。しかし、ミステリーでのキャラクターの機能についての言及は多いとは言えない状況である。
 そこで本稿では、数学の描かれ方に着目して、ミステリー小説でのキャラクターの機能の一端を示してみたい。数学を扱う理由は、以下の2点である。
 数学はその強い客観性から、ミステリーで真実を明らかにする道具として利用されやすい。しかし数学者という生き方があるように、数学はただの道具ではなく、人間のあり方に密接に関わっている。ならばミステリー小説での数学を考えることは、作品内の登場人物のあり方の考察にもつながるというのが1点目。2点目は、東野圭吾『容疑者Xの献身(4)』(2005年)と青柳碧人『浜村渚の計算ノート』所収「log.10『ぬり絵をやめさせる(5)』」(以下、「ぬり絵」と略記)がともに4色問題を扱っていながら、両者は大きく異なる数学と人の関係を描いているからである。特に後者はキャラクターを描いていることから、前者との比較でその機能が示すことが期待できる。
 以上から、まずは4色問題を解説しながら『容疑者Xの献身』から考える。

4色問題と後退する数学の固有性

 世界地図であれ日本地図であれ、はたまた架空の世界の地図であれ、平面に描かれたありとあらゆる地図を塗り分ける。隣り合った領域を同じ色にしてはいけない。このとき、地図を塗り分けるのに必要な色は、最小で4色であるか否か。これを検討するのが4色問題である。
 1976年のケネス・アッペルとヴォルフガング・ハーケンによる4色問題の「4色で塗り分けられる」という証明は、計算を機械におこなわせた複雑なものだった。その後、例えば2004年にもジョルジュ・ゴンティエがより簡潔に、機械を用いた4色問題の証明を発表している。このように4色問題については、これまで複数の報告が「4色で塗り分けられる」と主張している(6)。それにもかかわらずいまだ4色問題が検討されている理由の一つに、美しさの問題がある。そしてその一端を『容疑者Xの献身』は見事に描いている。
『容疑者Xの献身』では、石神という数学教師が、人を殺めてしまった母娘を庇い、罪を逃れられるように奔走する。探偵役は、石神と大学時代からの友人である物理学専攻の大学准教授の湯川である。この2人についての学生時代の回想シーンで、石神は4色問題の証明を手作業で試みている。湯川はアッペルとハーケンによって機械を用いて4色問題が証明されたことについて言及する。すると石神はその証明を「美しくない」と述べる。湯川はそんな石神を「エルデシュ信者」と称する。
 ポール・エルデシュは美しさを意識した数学研究をおこなっていたとして、たびたび数学の美しさを述べる際に言及される数学者である。この数学の美しさというのを一言で述べるのは難しい。ただ、4色問題ではその証明での美のあり方ははっきりしている。4色問題は、地図を塗り分けるという具体的なイメージを喚起させるものでありながら、いまだ機械に頼るという証明方法しかなされていない。この証明は、人間の具体的なイメージが介在する余地がない複雑な計算によるものなので、美しくないのである。この現状を踏まえ、「エルデシュ信者」として石神が人間の実感を伴った手作業による「美し」い4色問題の証明を志しているのだ。
『容疑者Xの献身』では、もう一場面で4色問題が登場する。のちに石神は罪を犯したその母娘を庇って逮捕され、留置所に収監される。そこでの就寝時間中に石神は、頭のなかで天井のシミを点と見なして、それらの点を結んで平面の図形を作っていくことで架空の地図を作る。石神はその図形を4色で塗り分けていくのだ。この場面で石神は、かつての自分は他者からの評価などにも悩んでいたが、数学の本質は他人と比較されるようなものでなく自分だけが理解すればよいこと、それは庇っている母娘を「美し」いと思ったことで気づけたと語る。この気づきによって自殺を思いとどまった石神は、「崇高なるものには、関われるだけで幸福」という境地に至ったとも述べる。
 石神にとって数学もその親子も「崇高」であり、その「美し」さの実感には具体的なイメージが必要である。ただ、数学にもその親子にも「関われるだけで幸福」であるために、石神は留置所でも耐えられるのである(石神はその親子のために別の罪を犯してはいるが)。より具体的に述べるならば、その親子との関係のうえで留置所に入り、そこで4色問題を「美し」く証明しようとするのではなく、その事例的問題を解くのが、作中のいまの石神の「幸福」なのである。
 4色問題で作中の過去と現在をつなぎ、石神の数学者としての内面という文学的命題が『容疑者Xの献身』では描かれている。ただ、そのためにせっかくの4色問題固有の「美し」さの問題もこの内面と結び付くことで薄れ、それは留置所内で脳内で解ける数学の問題はほかに多数あることからも言えるだろう。以上から本作では、4色問題は他の数学の問題として変換可能なものであることから、その数学としての固有性が後退しているのである。

渚というキャラクターによって保持される数学の固有性
 
『浜村渚の計算ノート』シリーズは、数学的な知見を用いてテロを実行する組織「黒い三角定規」と、女子中学生の浜村渚を含む警察グループとの戦いを主に描いている。「ぬり絵」では、「黒い三角定規」が洗脳した者らを利用して殺人事件を頻発させる。警察は当初、その事件の出現パターンが不規則に見えるために後手に回っていた。しかし渚の協力を得た警察は、「黒い三角定規」が犯人らの名前に含まれる色で市町村を色分けしていく4色問題の論理で事件を起こしていたことを突き止める。そして渚は市町村合併を提案する。その意図は地図を4色で色分けできないようにするための工作であり、それがかなえられることで「黒い三角定規」は敗北を認めて、この事件は沈静化した。
 以降もシリーズでは様々な数学上の問題も出てくるが、それはまず犯人側の論理として提示され、渚がそれを解いていくことで事件を解決していく。このミステリーという構造上、扱われる数学の問題は丁寧に説明され、その固有性は担保される。ただ、本作では、ミステリーとして謎の解明に結び付くゆえに数学のアイデンティティが強く描かれる、というだけではない。
 当初、事件の主犯格の実行犯は市町村合併が「ルール違反」と述べる。しかし、その場その場でなく先々の色分けも考えていれば市町村合併をおこなっても「黒い三角定規」による犯罪は完遂できたという渚の指摘によって、その実行犯は敗北を認める。そして事件が終わっても渚は4色問題で遊んでいる。誰よりも4色問題に渚は向き合う。そんな渚はシリーズを通して、犯罪を怖がり、同級生と遊び、苦手な科目の宿題に悩むような普通の中学生と繰り返し強調して描かれる。ただの女子中学生でしかない渚の数学への愛ゆえの真摯で具体性がある態度に、シリーズを通して警察も犯人らも感化され、魅了されていく。
 すなわち、ミステリーという構造に乗っかりながら、この渚の態度を読者に理解させるためにも、作中で数学の具体的で詳細な説明が必要なのである。強調される普通の女子中学生であるというように、渚のそのような数学をとことん追求するほどに好きというギャップのあるキャラクター性によって、『浜村渚の計算ノート』シリーズでは数学の固有性が強く表れているのである。

おわりに

 石神は犯人側、渚は探偵側という違いはある。ただ、どちらも数学を強く愛好し、それによって培った論理的能力で事件に関わっている。謎を解かせまいとする数学と、謎を解こうとする数学に、その固有性が表れる違いはそれほど大きくないはずである。石神は具体的な数学の問題を用いて事件を起こしてはいないということだけが、『容疑者Xの献身』で4色問題の固有性が薄れてしまっている原因ではないのは、先述のとおりである。数学への態度を、人間の内面に回収させるか、あるいはキャラクター性の一つにするかが、事件を追及する者としての石神と渚の大きな違いの一つである。
『浜村渚の計算ノート』シリーズのミステリーとしての構造は、『虚構推理』のように独特なものではない。しかし、渚というキャラクターを、事件を数学で解決するというわかりやすいミステリーの構造にはめ込むことによって『浜村渚の計算ノート』シリーズは、謎や事件を解決するための道具以上に数学の価値を強く描いている。ただ、人間の深い内面に触れないで、社会的役割や個人的な性質などのようにキャラクター性を示すのに数学を用いれば、数学とそれに関わる人間を縦横無尽に描けるかというと、そういうわけではない。
 たとえば王城夕紀『青の数学(7)』(2016年)では、ネット空間上での数学バトルが描かれる。そのために様々な数学の問題が提示される。ただこの作品は、主に高校生らの数学への価値観や、これに関する議論に代表されるような数学を通じた人間関係を強く描こうとしている。すなわち『青の数学』は、数学に関わる人々の青春を描くことが主眼に置かれているので、種々の数学の固有性が希薄になっている。数学好きというキャラクターをミステリーに配置する『浜村渚の計算ノート』と、青春物語に配置する『青の数学』では、数学の固有性のあり方が真逆である。
 青春、ミステリーと同様に、SFやファンタジーなどの小説のテーマ的なジャンルだけが、作中の数学の固有性を規定しないのは確かだろう。そのジャンル的な物語に、一つの内面に特化するのではなく、様々な特性を持つキャラクターが配置されることによって、数学と人との関係の描き方もより豊かになりうるのではないだろうか。『浜村渚の計算ノート』がミステリーとしては古典的でありながら、キャラクター概念を導入することで数学とミステリーの新たなあり方を示しながらも、『青の数学』のような作品もあるように。


(1)城平京『虚構推理――鋼人七瀬』(講談社ノベルス)、講談社、2011年
(2)諸岡卓真「創造する推理――城平京『虚構推理』論」、日本近代文学会編集委員会編「日本近代文学」第87巻、日本近代文学会、2012年
(3)西貝怜「ミステリと謎――『虚構推理』の正義の行方」「ジャーロ」第69号、光文社、2019年、308―313ページ
(4)東野圭吾『容疑者Xの献身』文藝春秋、2005年。なお本稿では2008年に刊行された文春文庫版を用いる。
(5)2009年に講談社birthシリーズで販売された青柳碧人『浜村渚の計算ノート』(講談社)が初出ではあるが、本稿では以下を用いる。青柳碧人「log.10『ぬり絵をやめさせる』」『浜村渚の計算ノート』(講談社文庫)、講談社、2011年、5―69ページ
(6)この4色問題の論理的な詳細や歴史について知ることができるものとして、以下を挙げておく。ロビン・ウィルソン『四色問題』茂木健一郎訳(新潮文庫)、新潮社、2013年
(7)王城夕紀『青の数学』(新潮文庫nex)、新潮社、2016年

 


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