丸山友美(法政大学大学院博士後期課程、法政大学兼任講師)
私は『国道16号線スタディーズ』で2つのドキュメンタリー番組を取り上げる予定だ。私がドキュメンタリーに関心をもっているからか、ゼミの先輩であり本書の編者である西田善行さんが、国道16号線(以下、16号と略記)を取り上げた2つのドキュメンタリー番組で書いてみないかと、声をかけてくれた。新しいことへの挑戦は大切だ。そう考えて、私は二つ返事で本書のもとになる研究会への参加を決めた。だが、番組を見始めた途端、私は大きなショックを受ける。
番組の1つ、16号を取り上げた『ドキュメント72時間』に父が出てきたのである。いや、「父」がいるように見えてしまうのである。画面に現れた消防士が、私の父だとは断言できない。父に確認して自慢されても面倒なので、番組を見せることなど絶対にしない。けれども、歩き方、身のこなし、声のかけ方のどれをとっても、私には「父」にしか見えないのである。それは、商店街に1人で暮らす高齢者が救急搬送される場面。取材クルーは現場で近隣住民に話を聞きながら、高齢者の孤独を「16号の風景」として映そうとする。しかし、父がこのエピソードに映り込んでいると「気づいて」から、私の目は全身銀色の父ばかり追ってしまう。搬送者に声をかけ、ストレッチャーを動かす父。救急車に担架を乗せる父、指さし確認している父。私の頭は「16号」を探究するどころか、画面のいたるところに現れる「父」に振り回されてしまったのである。
映画『アメリ』(監督:ジャン=ピエール・ジュネ、2001年)で主人公が告白するように、私は、画面のなかの物語から逸脱する存在に魅力を感じる。彼女が楽しむように、キスシーンのすぐ後ろの壁で這い回るハエがいないか探したり、俳優が脇見運転する時間を心のなかで数えたりする。メディア論の大家マーシャル・マクルーハンは、映画はシナリオに書かれた言葉よりはるかに豊富な現実(視覚的要素)を映すメディアであるために、余計なものを映し込むのだと指摘する(1)。人間の目よりも優れたカメラが、シナリオよりももっと複雑な現実を映像の内に撮り込んでしまうからだ。ただし、統語法のうえに成立する映画は、その豊富な現実を後景に押しやって、観客に物語世界に没頭するよう要求する。だから、観客はロマンチックな雰囲気を台無しにする壁のハエを見落とすし、事故を起こさない見事な脇見運転テクニックを、熱情を伴った女性への視線として読み込もうとする。『ドキュメント72時間』で出合った「私の現実」は、私がちょっと変わった観客ゆえに見つけてしまったものだった。
『ドキュメント72時間』は、16号の幸福を探すことを目標にしたドキュメンタリーだった。もしかしたら『ドキュメント72時間』は、日常の記録を装いながら、日常に存在する意識が及ばない“盲点”を映しているかもしれない。それは、「私」が見つけた「父」であり、極私的なフィルターを通して構築される“再発見”された16号の面白さである。
もう1つのTVK『キンシオ』(2010年―)は、画家キン・シオタニのフィルターを通して16号を再発見する番組である。彼は、16号からかなり離れた公民館に車を走らせたり、旧街道(絹の道)を歩いたり、日光街道や奥州街道との交差点を丹念に確認したりする。『ドキュメント72時間』と比べると、キンシオの好みがてんこ盛りで、郊外型の店や人々の語りはほとんど登場しない。平たく言えば、「わかる人だけわかればいい」というタイプの、マニアックな場所や店ばかりなのだ(地元住民からすると「どうしてそこに?」と思う場所かもしれない(2))。キンシオのフィルターを通して再現された16号の面白さは、人々の日常からごっそり落ちた土地の記憶であり、その土地の記憶と出合うには、16号から思い切りはみ出す必要がある。神奈川の走水から千葉の富津に表れる「郊外的」な景色を見落として、彼は地域が育む記憶の積層に「16号の姿」を読み込んでいく。これが、キンシオのフィルターを通して再発見された16号の面白さである(3)。
2つの番組には、16号の「内と外」という違いがあるように思える。そうであるならば、16号の幸福を探して、その内側にべったり張り付いた『ドキュメント72時間』には、どんな盲点が記録されているのだろう。このあたりを分析してみたら、国道を描くドキュメンタリーの面白さを説明できるかもしれない。
注
(1)マーシャル・マクルーハン『メディア論――人間の拡張の諸相』栗原裕/河本仲聖訳、みすず書房、1987年、276ページ
(2)キンシオは横浜では朝食のかわりに文明堂に立ち寄るが、私なら平沼にあるそば屋の角平を紹介したと思う。ここの「つけ天」はおいしさとボリュームを兼ね備え、「つけ天」発祥の店として、週末や大みそかには長蛇の列ができる。私たち執筆メンバーは、2016年3月に1泊2日のフィールドワークを実施した。そのときは、ファミリーレストランのほうが「16号らしい」と思い黙っていたが、瀬谷のサイゼリアで昼休みをとることになり、299円のミラノ風ドリアを口にしたとき、角平でつけ天を食べたほうがやる気が出たなと思ったことを白状しておく(だから、2日目に柏で「ホワイト餃子」を思い切り食べたときは幸せだった)。
(3)とてもマニアックな店や場所ばかりを取り上げる番組で、私が住む横浜を通り過ぎたあとは、何度も眠気に襲われた。しかし、だからこそ、地元民がキンシオの番組を見ると、「ああ、あそこだ!」と言わずにはいられない魅力がある(実際番組には、「見ているよ!」と声をかけてくる人が映り込んでいる)。『出没!アド街ック天国』(テレビ東京系、1995年―)と違うのは、街を知らない視聴者に観光したいと思わせるのではなく、街の住民が見落としている「街の魅力」を見つけることで、街を好きにさせてしまうところにあるように思う。
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