インターネットから生まれた学術書――『公文書をつかう――公文書管理制度と歴史研究』を書いて

瀬畑 源

 本書『公文書をつかう――公文書管理制度と歴史研究』は、学術書の出版としてはやや異例の経緯をたどって出版された。
  そもそもこの本は、2009年の秋に、編集者の矢野恵二氏が私のブログ(「源清流清――瀬畑源ブログ」http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/)を読んで執筆をもちかけたことから始まる。私は当時大学院博士課程の院生であり、論文も多く書いているとは言いがたい研究者だった。そのため、公文書管理問題についてこういうことを書いてほしいという明確な要望があるのだろうと思いながら矢野氏に会いに行った。
  ところが、矢野氏は会って早々、私に「どういうことが書きたいですか?」と投げかけてきた。そこで、思い付いたことをとめどなく話すと、「では企画書を私に提出してくださいますか?」と言った。私は内心「本どころか博論さえ書いていないのに、私に任せてしまって大丈夫なのか?」と逆に心配になってきた。すると矢野氏は、「ブログを見て、これだけのことが書ける人ならば大丈夫だと思っている」というような趣旨のことを話してくれた。
  私はこのとき、「ああこの方は、ブログや論文といった掲載された「媒体」で判断するのではなく、「書いたもの」をそのまま評価してくださったんだ」と感じた。それは私にとっては何よりもうれしいことだった。
  私のブログは、国(宮内庁)を相手とした情報公開訴訟を他の方に知ってもらうため、2006年8月に作ったものだった。初めは読者を引き付けるために、研究テーマである天皇制に関する時事問題を中心に取り上げ、公文書管理問題はあくまでも副次的なものにすぎなかった。しかし、自分が資料公開で苦しんでいる原因が公文書管理制度にあることに気づきはじめ、公文書管理問題についての記事が少しずつ増えていった。
  私のブログが公文書管理問題に偏っていくきっかけになったのは、2008年1月に歴史学研究会総合部会で情報公開法と公文書管理問題について報告したことである。この部会にはアーカイブズ関係者が多数おとずれ、用意していた教室に入りきらないほどだった。もちろん、集まった方の多くは他の報告者が目当てだっただろうが、なかには私のブログを読んでくださっている方もいた。そして、私が話した情報公開請求などで培ってきた知識を面白がってくださる方もいた。これまで私はブログを「自分の裁判のため」に書いてきたのだが、それにとどまらない広がりがあることに気づかされた。
  ちょうどこの時期は、福田康夫氏が首相に就任し、公文書管理法制定の動きが現実化し始めたときだった。裁判も終わり、ブログを今後どう運営していこうか考えていた私は、このまま福田首相の公文書管理法制定の動きを追い続けることが、せっかくこれまで読んでくださっていた方の期待に応えるものだという考えに至った。また、一人の研究者として、この問題についてブログを書くことが、自分の研究成果を社会に還元する方法になるとも考えた。そこで、論文を書くレベルの緻密さを保ちながら情報をわかりやすく伝えるという方針をもって、ブログを書き紡ぐことにした。
  そして、公文書管理法制定の動きについてブログを書けば書くほど、様々な分野の方が私のブログの存在に気づき、読んでくださるようになっていった。次第に、メールで直接連絡をとってくださる方も現れ、私自身も公文書管理法制定運動に深く関わるようになった。歴史学の学会では知り合えない様々な分野の方とブログを介してつながることができ、私が普段知りえないような情報をたくさん教えてもらった。その知見をもとに、さらにブログを執筆していくという好循環ができていった。
  自分にとっては、このブログは「社会への窓」の役割を果たしていた。だからこそ、わかりやすく読みやすい文章にしようと何度も推敲を重ねてから記事をアップロードしていた。そして私には、論文を書くこととブログを書くことは、同じくらい重要な意味を持つものになっていった。矢野氏はそのブログの文章を評価してくださったのである。
  本書の執筆中には、調べてわからなかったことをtwitterで聞いてみたり、ブログなどを通して知り合った方にメールで問い合わせたりした。まさに、インターネットがあったからこそ生まれた本だったと改めて思う。
  人と人とのつながりの不思議さを感じながら、今後もその関係を大切に、そして広げていきたいと思う。

アートと日々の営み、人々の働き――『芸術は社会を変えるか?――文化生産の社会学からの接近』を書いて

吉澤弥生

 編集者から『芸術は社会を変えるか?』という書名を提案されたとき、これは私には荷が重いのでは……と気後れしたのを覚えている。それからの数年間、何とかその輪郭に収まるように執筆を進めてきた。本書の大半を占める大阪での事例研究のなかには進行中の事業も多く、「いつまで」参与観察を続けるべきかを悩み続けた。結果的に、大阪市立近代美術館建設計画と大阪府立江之子島アートセンター建設計画が始動し、ダブル選挙が決まり、おそらくいろいろ状況が変化してここ10年の大阪の〈芸術運動〉が次の段階に入るであろう年に本書を上梓できたことは、何かに導かれたようなタイミングだった。
  第3章第2節を中心に取り上げたブレーカープロジェクトに、新たな展開があった。2008年以降はまちなかで神出鬼没に制作発表していて恒常的な拠点をもっていなかったのだが、今年度から地域に根ざした創造拠点をつくり、若手アーティストなどの作品制作や発表の場として整備していくことになったのだ。拠点となるのは西成区にある「福寿荘」。持ち主はきむらとしろうじんじん『野点』の開催をはじめ、当初からブレーカープロジェクトに参加して折にふれ協力してきた住民である。自らが一から作った(!)このアパートを壊すのではなく、地域の子どもや高齢者が集えるような場所にしていきたいというその住民の思いを大事にしながら、スタッフは初夏からその築60年を迎えようとする古い木造アパートに入り、掃除と改修作業に取り組んだ。その後も、参加アーティストとサポートスタッフはじめ多くの協力者とともに改修して展示空間づくりを進め、ちょうどいま、その「新・福寿荘」で梅田哲也展覧会「小さなものが大きくみえる」が会期を迎えている(2011年12月4日まで)。夜間限定プログラムなど、滞在場所があるからこその試みも用意された。数十年間さまざまな人が暮らし、去っていき、そしてここ数年は床が傾き壁が剥がれていた建物を、アートプロジェクトとして再生させたさまざまな人の思いと働き。人々の日々の営みからアートは生まれ、そして再び日々のなかへとゆっくりとその波紋を広げていく。
  さて、数年にわたる現場のフィールドワークを通して政策上の課題を考察する作業と並行して、筆者は次第に現場の人々のさまざまな仕事に関心を抱くようになった。第5章第2節「芸術という労働」がそれにあたる。もちろんアートプロジェクトはアーティストがいてこそ成立するが、実際の現場は多様な人々の働きによってつくられている。肩書はキュレーター、ディレクター、アドミニストレーター、マネージャーなど、立場はフリーランス、派遣社員、嘱託職員、NPOスタッフなどさまざまだ。ボランティアスタッフの存在も欠かせない。こうした人たちの多くはプロジェクトの表面には出てこない、いわば「名もない」労働者である。そしてリサーチ、進行管理、渉外、書類整備、そして関係づくりのための作業(感情労働)といった、表には出にくい、あるいは形として残らない事務作業を担っている。
  労働への関心を抱いたのは、自身がアートNPOで仕事をしている経験も大きい。NPOでは毎月の定例会議、理事会、年に一度の総会があるが、たいていメンバーは他の仕事(生活費を得ている仕事)を終えてからの開催なので、夜も遅くなると体力的にきつい。理事・監事といった役員ももちろんボランタリーである。事務局は書類作成、会計、広報、備品管理などなど、順調に進めば進むほど目に見えない仕事を担う。ちゃんと雇用できればいいが、一般的にみて簡単なことではない。ディレクターは事業ごとに先方との打ち合わせや調整を進め、メンバーはそれぞれに割り振られた業務を遂行するが、支払いがたいてい納品後なので、それぞれが労働している時点でその対価を受け取ることはできない。まさに季節労働者だ。筆者も経験があるが、毎月ある程度の収入を見込めなければ、仕事のための投資もままならず、社会保険などはどうしても後回しになる。
「芸術」と「労働」を同じ地平で論じることにはいろいろな反発があるだろう。しかし現在のアートプロジェクトやアートNPOの活動に、労働は不可欠だ。筆者としてはまずアートに携わる人々の労働がどんな様子なのかを知るところから始めたいと、少しずつ聞き取り調査を進め、今年(2011年)春にインタヴュー集『若い芸術家たちの労働』を制作して公表した。現在、来春に公表するその続篇のために調査を進めている。これからも日々の営み、そしてさまざまな人々の働きのなかに、アートの輪郭を見定めていきたいと思う。

千里の道の第一歩――『「中国残留孤児」の社会学――日本と中国を生きる三世代のライフストーリー』を書いて

張嵐

「中国残留孤児」の社会学――日本と中国を生きる三世代のライフストーリー』のもとになった博士論文の執筆からすでに2年近く経った。中国残留孤児をめぐる事情も「中国残留孤児国家賠償請求訴訟」の事実上の和解と「新たな支援策」の実施によって大きく変わった。
  厚生労働省が2005年3月に公開した「中国帰国者生活実態調査」(2003―04年実施)によると、現在の生活状況が「苦しい」「やや苦しい」の合計が孤児64.6パーセントだった。それに対して10年10月に公開された「平成21年度中国残留邦人等実態調査結果報告書」によれば、「苦しい」「やや苦しい」と答えた帰国者は28.6パーセントで、前回調査より30パーセント以上減少した。また、「収入が増えた」「気持ちのゆとりが増えた」「役所・福祉事務所の対応が良くなった」「親族訪問に行きやすくなった」などの理由で、「新たな支援策」に対して、約80パーセントの残留孤児は「満足」「やや満足」と答えている。さらに、帰国後の感想についても、約80パーセントの帰国者は、帰国して「良かった」「まあ良かった」と答え、前回調査(64.5パーセント)より大幅に増加している。
  中国残留孤児をめぐる問題を円満に解決し、彼らが望んでいた「日本人らしい」生活をようやく送れるようになったのだろう。だとしたら、裁判の結果が出る前の彼らの暮らしをいま書く意義はどこにあるのかと思う人もいるかもしれない。
  しかし、一つ忘れてはならないのは、裁判の朗報を聞けず失意のままこの世を去った残留孤児は決して少なくないことである。論文の執筆中、残留孤児の訃報を何度も受けた。
  一人の調査協力者が癌をわずらったと聞き、手術後にお見舞いに訪れた。裁判の中心メンバーとして積極的に参加していた人物である。声を出すことすら困難だったが、私に対して「裁判は絶対勝ちます」と力強く訴えた。しかし、その一カ月後に訃報が届いた。裁判の結果が出るわずか数カ月前のことだった。
  その協力者はきっと裁判の結果を自分の耳で聞きたかったのにちがいない。裁判の勝利を信じる、そのときの目の輝きをいまでも忘れることができない。そして、その無念を思うと心が痛む。
  中国残留孤児は、一般人の想像を超える辛酸を嘗めながら中国と日本の狭間でさまざまな困難と闘い、一生懸命生きてきた。そのときどき、その時点の彼らの気持ちをそのまま記録することに大きな意義があるように思う。本書が彼らが懸命に生きてきた証しになれたらとてもうれしく思う。そして、残りの人生をどうか健やかに穏やかに過ごしてほしいと切に願う。
  日本と中国は古来から「一衣帯水」と喩えられ、お互いに欠かせない大切な隣国である。しかし、戦争のせいで中国国民だけではなく日本国民の多くも犠牲になった。日中戦争の記憶が現在も両国関係に大きく影響し続けているのも事実である。
「忘却」は恐ろしい。過去を忘れると同時に、過去の失敗から学べる教訓も一緒に忘れてしまうかもしれないからだ。それは再び同じような過ちを犯す恐れにつながるだろう。豊かで平和な日常に埋没している多くの人たちが、第2次世界大戦を忘れ、世界の戦乱に関心をもたなくなった。戦争の悲惨さと痛々しい教訓を継承しなければいけない。「戦争とは、決してあってはならないもの」と戦争経験がない世代へ伝えなければならない。戦争経験者が少なくなったいま、戦争経験がない私たちの世代の責任である。
  中国の春秋戦国時代の思想家である老子がこう言った。

  九層の台は、塁土より起こり、千里の行も、足下より始まる。

 高層の建物も一盛りの土を丹念に積み重ねることででき、千里の道も一歩より始まるという意味である。一人だけの力は限られる。しかし、いくらどんなことでもはじめは小さいことから始まる。この言葉は私の座右の銘であり、この道理が日中友好関係の構築にも通じると私は考えている。歴史・過去から学ぶと同時に、お互いの違いを認識し、理解し、小さいことから始めることが大切である。本書を私にとっての千里の道の第一歩にしたいと思っている。

第38回 ラザレフとラフマニノフの『交響曲第1番』

 11月11日(金)、日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に行き、ラフマニノフの『交響曲第1番』を聴いた。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。この公演に先立ち、9日(水)にはラザレフ指揮の新プロジェクトに関する記者会見がおこなわれたが、その内容は日本フィルのサイトで全文読むことができる(http://www.japanphil.or.jp/cgi-bin/news.cgi#628)。
  この『交響曲第1番』は初演が大失敗となり、そのためラフマニノフは極度のノイローゼに陥り、作曲が全くできない状態になった。それを救ったのがダール(ラザレフはダーリと言っていた)博士で、この博士の治療が功を奏し、名作『ピアノ協奏曲第2番』が誕生したのはあまりにも有名な話である。
  この『交響曲第1番』の初演(1897年3月15日、ペテルブルク)がなぜ失敗に終わったか、それは上記のラザレフの記者会見での発言に明らかだが、要するに本番前に指揮者のグラズノフが飲み過ぎたというわけである。酩酊状態で、まともに指揮ができなかったのが失敗の最大の原因だったようだ。
  でもこの初演当日、前半ではグラズノフの『交響曲第6番』の初演もあり、その日はダブル初演。もしも指揮者グラズノフが酩酊状態であるならば、自作の『第6番』だってまともに棒を振れなかったはずだ。けれども、こちらが失敗したという話は聞いたことがない。ただ、リハーサルのときにグラズノフはラフマニノフの作品についてあれこれと修正の要望を出したと言われているが、そうなると単なる酩酊ではなく、ラフマニノフの『交響曲第1番』への根本的な共感が希薄だったのが失敗の要因とも考えられる。
  11日、腰の手術を終え、元気になったラザレフは指揮台を所狭しと動き回り、オーケストラからまことに鮮烈な音を引き出していた。9日は記者会見に先立ってリハーサルを公開していたが、非常に細かく練り上げていた。その日はちょうど第3楽章をリハーサルしていたが、途中で第2ヴァイオリンに難所があり、そこをかなりしつこく繰り返していた。最後になって第3楽章の通し演奏をおこない、時間は残り3分。ここで終わるだろうと思っていたが、ラザレフは先ほど集中的にやっていた第2ヴァイオリンを再び取り上げていた。時間を無駄にせず、望む音への熱き情熱をもったラザレフ、だからこそ本番にあのような冴えた音が出るのだろう。
  この『交響曲第1番』は初演が大失敗したため、とうとうラフマニノフ生前には2度と演奏されなかった。だが、ラザレフのような指揮で聴いていると、長く封印されるほどの駄作とは思えないし、これはこれで独特の味がある作品だと認識を新たにした。
  ところで、記者会見終了後、ラザレフに直接話を聞いてみた。以下、Q=質問、A=ラザレフの答えである。
Q「先ほどプロコフィエフ、スクリャービン、フラズノフ、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーのプロジェクトについてお話をしていただいたのですが、たとえばスクリャービンはピアノ協奏曲も含まれますか?」
A「もちろん、やります」
Q「ボロディンの作品は?」
A「『交響曲第2番』ならやってもいいと思います」
Q「カリンニコフは?」
A[うーん、旋律はきれいだけれど(『交響曲第1番』の第1楽章の第2主題を歌う)、起承転結がない」
Q「ハチャトゥリアンは?」
A[いやだ!」
Q「えっ、そうなんですか」
A「まあ、『スパルタクス』『仮面舞踏会』ならやってもいいですが。『スパルタクス』の初演のとき、ハチャトゥリアンはリハーサルでトロンボーンにもっと出せ、もっと出せと要求しました。その翌日、同じことを要求しました。これじゃあ、うるさくてしようがない。ほかにハチャトゥリアンの何をやればいいのでしょうか?」
Q「交響曲とか」
A「『交響曲第3番』のことですか? あんなやかましい交響曲、それに優秀なトランペット奏者を20人も集められませんよ。とにかく、ハチャトゥリアンはやりたくない」
Q「そうですか。ありがとうございました」
 
  一説によると、ハチャトゥリアンは旧ソ連の体制を支持していたため、ロシアの演奏家の間ではおおっぴらにハチャトゥリアンを賛美できないとも言われている。だが、一方では「ハチャトゥリアンは決して優遇されておらず、苦しんでいた」とする説もある。旧ソ連のことになると、どこまでが本当でどこまでがウソなのかはよくわからない。はっきりしているのは、ラザレフの指揮でボロディン、カリンニコフ、ハチャトゥリアンらの交響曲は今後聴けそうもない、ということである。

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第37回 サイトウキネンに行く

 5月頃だろうか、ある人から「サイトウキネン、行ったことないんですか? 一度くらい行ってもいいんじゃないですか?」と言われ、ふとその気になった。だが、チケットを手配し終えた頃には別の人からこう言われた。「行って面白いのかなあ?」。私はそれに対しこう返答した。「動けば何かが生まれる」
  今回、私は2回松本を訪れた。1回めは8月19日(金)におこなわれた「ふれあいコンサートⅠ」である。曲目はモーツァルトの『ピアノ四重奏曲第2番』、プロコフィエフの『五重奏曲作品39』、バルトークの『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』。演奏は小菅優、伊藤恵のピアノほか、ほかのメンバーはサイトウキネンのオーケストラに名前が入っている人たちである。特にプロコフィエフとバルトークは日頃めったにやらないので、こういったプログラムが聴けるのがまさに音楽祭ならではだ。この2曲、初めて生で聴いたせいか、非常に面白かった。地震の影響で予定していたザ・ハーモニーホールが使用不能となり、松本文化会館の中ホールに急遽変更になったのは演奏者側にも不運ではあったが、お客さんの反応は非常によかった(バルトークではピアノの弦が演奏途中で切れるという事故にも初めて遭遇。小菅さん、怪力ですな)。
  2回めは8月26日・松本文化会館(大)のオーケストラコンサート、指揮はヴェネズエラの新鋭ディエゴ・マテウス、曲目はチャイコフスキーの『「ロメオとジュリエット」序曲』と『交響曲第4番』、中プロはバルトークの『ピアノ協奏曲第3番』(独奏:ピーター・ゼルキン)、そして27日・まつもと市民芸術館主ホールでのバルトークの『バレエ「中国の不思議な役人」』(指揮:沼尻竜典)と歌劇『青ひげ公の城』(指揮:小澤征爾)である。
  日程順に触れていくと、マテウスの演奏は若くてバリバリである。「エネルギッシュでよかった」という人もあれば、「オーケストラを鳴らしすぎ」と感じた人もいた。私も確かにちょっと騒々しいとは思ったが、オーケストラの献身的な熱演はそれなりに気持ちがよかった。ゼルキンのソロはマテウスとは正反対の渋く正統的なものだった。
  27日は何と言っても『青ひげ』で小澤が出るかどうかで話題が持ちきりだった。初日の21日だけ振って、23日、25日は降板である。前日の26日、私は関係者からその周辺の話を聞いたけれど、感触としては絶望的のように思えた。
  27日はまず『中国の不思議な役人』を見る。私はバレエについては全く詳しくはないが、この新潟を本拠地とするバレエ団ノイズムはなかなかやるな、と思った。存分に楽しませてもらった。
  そこでいよいよ後半の『青ひげ』。会場には「本当に小澤は出てくるのか?」という雰囲気が漂っていたが、小澤の姿が見えたとたんにどっと湧いた。ブラヴォーも出ていたような気がする。オーケストラのメンバーもみんな、「あ、来た!」と満面の笑みを浮かべていた。私が聴いた感じでは、始まって5分程度は指揮者とオーケストラの一体感がいささか希薄に思えた。でもそれはしようがない。オーケストラにとっては6日ぶりの小澤の棒である。しかし間もなく本調子となり、私も音楽に集中できた。総合的に言えば、一部にバレエの扱い方に違和感を感じたことを除けば、上々の公演だったと思う。
  終演後、何度もカーテンコールに応えていた小澤の姿を見ると、2度も降板したほど体調が悪いようには思えなかった。「小澤は今日も無理でしょう」と言っていた知人に「出た! お化け、じゃない小澤、本当に出たぞ」とメールしたら、即座に「それはラッキーでしたね」と返ってきた。
  サイトウキネンというオーケストラだが、確かに寄せ集めの欠点があると言えばある。まとまりという点では直前の8月24日に聴いた読売日本交響楽団(指揮は小林研一郎)の方が上だった。しかし、このオーケストラのメンバーによって先ほど触れた珍しい室内楽やオペラなど、短期間に多彩なプログラムを楽しめるのはありがたいことである。それに、フェスティバルの存在自体も、日本のクラシック界の発展に大きく寄与していることは間違いない。
  私は今回初めて松本を訪れたが、遅まきながらこの街並みのすばらしさにたちまちファンになってしまった。特に感激したのは縄手通り、中町などの古い建物や石垣が残っている付近である。小さなお店や資料館もあって、身も心も、そして財布も軽くなった。また、ほとんどのお店にはサイトウキネンのミニTシャツが飾ってあって、街全体がこのフェスティバルを盛り上げようとしているのにも感心した(ただひとつ気になったのは、主に松本駅周辺にある街頭のスピーカーから流れ出るBGM。これはない方がいい。ちょっと無粋)。
  今回は昼間ちょこっと観光し、夕方、夜が仕事(演奏会)というわけだったが、次回はできるならば完全にフリーな日を1、2日程度付け加えてサイトウキネンに行きたいと思った。
  松本訪問、予想をはるかに上回る収穫だった。「動けば何かが生まれる」、これはやはり正解だったのである。

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風景の呪縛――『トポグラフィの日本近代――江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』を書いて

佐藤守弘

 本書で考察した対象は、題にあるとおり近代における〈トポグラフィ〉、すなわち場所/環境の表象だが、そのなかで重要な役割を果たすキーワードが〈旅行/観光〉である。にもかかわらず、私自身はとにかく生来の出不精で、観光旅行というものを好まない。京都に生まれ育ち、東京とニューヨークに遊んだ10年ほどを除いては、35年もこの偏狭な盆地に暮らしていることとなるが、京都市内でさえ知らないところが多い。普段の行動範囲は相当に限られていて、物を買うのもネットでの通信販売が多い。もちろん学会や校務出張などの目的があれば遠出もするが、基本的に旅行そのものには楽しみを見いだせないのである。だから、「気ままなぶらり旅」などは考えられない。ニューヨークに6年ほど住んでいたが、アメリカのその他の場所に旅行した経験は片手で足りる。いまでも、京都から大阪に行くことさえ、気分としては〈小旅行〉なのである。
  とはいえ、それでも家族というものがあると、観光旅行のようなこともおこなわなければいけないわけだが、そうなるともう大騒動となる。なんとか旅行に目的を見いだそうと、ウェブを検索し目的地の情報を収集する。その場所の歴史を調べる。そこを描いた絵画や写真を捜し出す。現地のガイドに負けないくらいの予備知識を詰め込んで旅に出るのである。同行者こそいい迷惑で、延々と私の講釈を聞かされるはめに陥る。さらに、あれも見よう、ここにも行こうと分刻みのスケジュールを立ててしまって、同行者を疲れさせて、迷惑をかけることになる。もちろん私自身もそれ以上に疲れ果てる。あげくの果て、旅行なんて大嫌いということになるのである。
  そんな人間が、旅と抜きがたく関わるトポグラフィックなイメージをなぜ扱うことになったのだろうか。考えてみたら、これは、京都という観光都市で生まれ育ったことと無関係ではないのかもしれない。幼少期から日常のなかに観光者の存在があり、私はそのまなざしに晒され続けていた。もちろん観光者にとって、私がとくに注目するべき存在であったと言いたいわけではない(べつに祇園祭のお稚児さんの格好をして歩いていたわけではないし)。むしろ彼ら/彼女らの視野の端に気づかれることもなくたたずむネイティヴだったのだろう。いわば、私自身も風景だったのだ。
  ところで、以前、京都芸術センターが発行していた「diatxt.」という雑誌の第二期に「ピクチャリング・キョウト」という、視覚文化のなかでの京都をさまざまな角度から検証するエッセイを連載していたことがある(第9号〔2003年4月〕―第16号〔2005年9月〕)。連載のタイトルを「ピクチャリング・キョウト」としたのには理由があった。英語のto pictureという動詞には、「描く」という意味だけではなく、「想像する」という意味がある(本書でもたびたび引いたジェームズ・ライアンの“Picturing Empire”という本のタイトルから借用した)。私のような生活者にとって京都という都市は、さほど特殊な街ではない。居酒屋があって、パチンコ屋があって、コンビニがあって……。普通の日本の地方都市と一切変わりはない。それがメディアに登場した途端、「宮廷文化の香りの漂う古都」になったり、「はんなりとしたもてなしのある街」になったり、「和とモダンの溶け合う街」になったり、ときには「実は革新的な街」にまでなったりしてしまうのである。すなわち、イメージ、あるいはテクストによって表象された時点で、京都という都市は、想像された〈キョウト〉となるのである。
  この連載エッセイの一部は、『トポグラフィの日本近代』の第3章「伝統の地政学」へと引き継いだのだが、それだけではなく、江戸泥絵における江戸(第1章「トポグラフィとしての名所絵」)、横浜写真における日本(第2章「観光・写真・ピクチャレスク」)、芸術写真における無名の山村(第4章「郷愁のトポグラフィ」)の、それぞれが表象する場合も同様である。そうした表象による場所性の構築を解きほぐすことで、トポグラフィに反乱を起こさせてみようというのが本書の試みであったことは、中平卓馬や辺見庸の言葉を借りて、「あとがき」に記したとおりである。
  私自身、京都の風景の一部だったのだろうし、メディアの表象による「京都性」の言説に翻弄されてきた。私がトポグラフィの研究に携わってきたもともとの理由は、もしかすると京都の呪縛から逃れたい、それを除霊したいという、そんなごくごく私的な理由からであったのかもしれない、と初の単著を上梓したいま、思う。

 そういえば、旅が嫌いな理由は、もうひとつあった。乗り物が嫌いなのである。たとえば電車に乗っている時間が楽しめない。じゃあ、眠ればいいのだが、これが眠れない。出張などのとき、なんとか時間をつぶそうと本を数冊――研究書、小説、エッセイなどをバランスよく――、それに駅で雑誌を買い、仕事もできるようにラップトップ・コンピュータ。以前はそれに携帯音楽プレイヤーと携帯ゲーム機を持っていっていたが、iPhoneを手に入れてからは、少しは荷物が少なくなった。でも荷物が重いのには変わりない。これが海外旅行となるとえらいことになってしまう。というわけで、現在取り組んでいるテーマのひとつが、〈鉄道の視覚文化〉なのだが、これもまたこじつければ、前例のとおり除霊作業なのかもしれない。

殺人と〈殺人〉――『死刑執行人の日本史――歴史社会学からの接近』を書いて

櫻井悟史

死刑執行人の日本史』は、わたしの初の単著である。高校生のころ作家志望だった身としては、自分の書いたものが1冊の本になることほどうれしいことはない。ただ、当時は、締め切りに追われるという言葉の響きにさえ憧れを抱いていたが、実際に経験してみると、ただただ大変なものでしかないことが、今回よくわかった。締め切りに間に合うように送ったゲラが、宛名と依頼人の名を間違えて書いてしまったために戻ってきたときなど、血の気が引く思いだった。このような間の抜けたミスもする、まだ右も左もわからぬような一大学院生が本を出版することができたのも、ひとえに編集者の矢野未知生さんをはじめとする関係各位のおかげである。あらためて感謝したい。
  さて、本書の執筆にあたって最も心を砕いたのは、死刑の存置か廃止かといった議論からいかに距離を置くかということだった。
  どのような研究をしているのかと問われ、死刑執行人についての研究ですと答えると、必ずといっていいほど、あなたは死刑存置派かそれとも廃止派かといった問いが返ってくる。それが重要な問いであることは重々承知しているが、わたしの関心は、犯罪ではない殺人=〈殺人〉にある。そのために、死刑存廃について個人的に考えていることもあるが、そこはあえて明確にしなかった。
  刑法199条に規定されている殺人事件が発生したとき、多くの人は憤る。その一方で、多くの人が〈殺人〉としての死刑執行を赦すばかりか、むしろ積極的に勧めさえする。〈殺人〉を拒否すると、非難されることさえある。だが、実際にアメリカ合衆国で起こった事件として、死刑が執行された後に、死刑執行を停止する命令が届いたことがあった。また、イギリスでは死刑執行後に冤罪が発覚する事件があった。そうした事件に直面したとき、犯罪としての殺人と、犯罪ではない〈殺人〉との境界線はきわめて曖昧なものでしかないことに気づかされる。わたしの関心は、その殺人と〈殺人〉の区分の曖昧さから生じる問題にこそあった。その問題を最も肌で感じているのが死刑執行人であり、そのために彼らはつねに殺人と〈殺人〉の類似性に悩んできたのではないだろうか。それが、死刑執行人の苦悩なのではないか。
  死刑執行人の苦悩を持ち出すと、必ず指摘されるのは、職務なのだから仕方がない、いやならば辞めればいい、死刑が廃止されれば問題は解決する、といったことである。しかし、それほど単純な話ではない。極論すれば、それを述べるためだけに本一冊分の歴史記述が必要だったのである。だから、もしもこの点がうまく記述できているとすれば、まだまだ未熟な本書であっても、多少の意義はあったのではないかと思うが、そこは読者のみなさまのご判断に委ねたい。
  ここでも繰り返しておけば、本書から「したがって死刑を廃止すべきである/存置すべきである」といった答えを導き出すことはできない。なにか提言できるとすれば、明治から現在にいたるまで、誰が死刑執行を担うべきか、死刑執行を担うとはどういうことか、といったことがほとんど議論されないまま、なしくずし的に刑務官の職務の一部とされてしまっている現状があるため、死刑執行を一時停止し――死刑判決の停止までは提言できない――、そのことについてきちんと議論したほうがいい、というぐらいのことである。そこでの議論の争点は、「なぜ人は人を殺してもいいのか」になるのではないだろうか。
  人を殺すことについて多くの示唆を与えてくれる映画として、本書でも取り上げた『ダークナイト』(監督クリストファー・ノーラン、2008年、アメリカ映画)を挙げておきたい。この映画は、バットマンに人を殺させようとするジョーカーと、殺させられることを拒みながらジョーカーと戦うバットマンのストーリーである。バットマンがジョーカーの罠に落ちて、人――ジョーカー自身も含む――を殺してしまったなら、それはジョーカーの勝利となる。ジョーカーと戦って勝利するためには、ジョーカーを殺さずに戦い続けるしかない。だが、バットマンは、どうやってジョーカーに勝利すればいいのだろうか。かくして、ジョーカーはいう。「どうやら永遠に戦い続ける運命だぜ」
  しかし、本当にそうなのだろうか。もし、そうだとすれば、それはいったい何を意味するのか。そして、殺させようとする力にどう抗すればいいのか。わたしがいちばん気になるのはこの点であり、今後も考えていきたいと思っている。
  最後に、『ダークナイト』に限らず、わたしは自分の関心についての多くの示唆を、映画、小説、漫画などの創作作品から得た。本書では、そのことに少ししかふれられなかったが、この場を借りて、すばらしき作品たちに感謝の意を表したい。

第36回 フルトヴェングラーのSACD

 EMIミュージックから発売されたフルトヴェングラーのSACD、ベートーヴェンの『交響曲第5番+第7番』(TOGE-11003)と同じく『交響曲第9番「合唱」』(TOGE-11005)を購入した。音は予想どおり、ノイズを大幅にカットし、聴きやすく丸めたものだった。
  チラシやCDのブックレットにはマスタリングに際して使用した機器のことがいろいろと書いてあったが、これだけさまざな回路を通してしまえば、原音から遠くなるのは当然だろう。なかでも問題なのはCEDAR(シーダー)かもしれない。このシーダーは作業がしやすいということでノー・ノイズと同様に世界中で使用されているノイズ・リダクションだが、これらを通すだけでも音はかなり変質してしまう。かつてBMGがメロディア音源を発売した際、ノー・ノイズを使用した輸入盤が入ってきて、ファンから総スカンを喰ったことがある。そのため、国内盤はノー・ノイズを使用する前のマスターを使用してプレスしたこともあった。ただ、ノイズレスは最近の傾向でもあり、これに慣れている人には、今回のような音の方が心地い良いのかもしれない。
  音とは別の問題もある。先に『第9』から述べるが、これには指揮者が登場して盛大な拍手が起こり、そのあと指揮者が何事かをしゃべっているという、いわゆる“足音入り”の版である。しかし、少し前に日本フルトヴェングラー・センターの関係者がフルトヴェングラー夫人のもとを訪れ、この個所を夫人に聴いてもらったところ、彼女は「夫が演奏前に話しかけることはありえない。当日もこのようなことはなかったはず」と述べたという。当日の模様については、夫人の記憶違いということもありうるだろう。けれども、私個人の経験の範囲でも演奏会で演奏前に指揮者が何かを言ったような場面に遭遇したことはない。ましてやこれは『第9』である。あのような開始の音楽である。フルトヴェングラーの人間性やその音楽、さらには戦後初のバイロイト音楽祭の開幕曲という状況も考慮すれば、確かにこのささやきは不自然である。けれども、帯にはあえて「足音、喝采入り」と、これを売りにしている。
  また、この『第9』にはEMIと同じ日の演奏だが、全くの別テイクというものが発売されている。これは最初に日本フルトヴェングラー・センターが世界で初めてCD化し、現在ではオルフェオから一般発売されている。一時は「EMIはリハーサルであり、オルフェオこそが本物のライヴ」と言われたほどだったが、その後は逆に「オルフェオの方がリハーサルで、EMIこそがライヴのテイク」という意見も出され、その謎はいまだに解明されていない。その点についてはCD解説で金子建志氏による的確な推察が記されているが、今回のSACD化に際し、制作者もしくは研究者などによるさらに一歩突っ込んだ調査報告がほしかった。
  今回のSACDシリーズで最も注目されると思われるのは『第7番』の新発見マスターかもしれない。これまでの言われてきたことを整理すると、以下のようになる。この『第7番』(1950年1月録音)は最初磁気テープに収録されたが、当時はまだSP時代末期だったためにこのテープからSP用の金属原盤が作製された。この時点で最初のマスターは廃棄。しかし、LPの普及が加速化したため、SPの金属原盤から再度磁気テープ用のマスターが作製された。この作業が終わった時点で金属原盤も廃棄。ところが、再度作製された磁気テープには第4楽章に女声のノイズが混入していたことが判明した。最初のマスターと、その次に作られた金属原盤ともに廃棄してしまったので、このノイズは除去できず、そのままの状態のマスターがその後世界中で使用されていたのである。
  以上のような事情を知っている人ならば、今回の新発見マスターこそ廃棄されたと信じられていたいちばん最初のものだと思うに違いない。だが、私の試聴結果は現在使用されているマスターの双生児と考えている。まず、聴いた感じでは低域のゴロゴロ、ボソボソというノイズが共通している。さらには旧マスターほどではないが、かすかに女声の混入ノイズも聴き取れる。今回はおそらくそのノイズは可能な限り除去したのだろう。それに、オリジナル・マスターは万が一のために複数存在する場合があるからだ。たとえば、EMIの本社から日本をはじめドイツ、フランスなどの支社に原盤を提供するときにはコピー・マスターからさらにコピーしたものを送ったりする。この点についてはCD解説には特に触れていないが、EMI側の説明を読んでも、単に新発見という事実はわかるのだが、これがファンが期待する最初のものかどうかは判然としない。
  ここで一度冷静に考えてみると、先ほど触れた磁気テープ作製→金属原盤作製→再度磁気テープ作製、この流れは本当の話なのかとも思う。つまり、最初にマスターを作製した時点ですでにノイズが混入し、その言い訳のためにこうした話が作られたとか……。
  来月に予定されているブルックナーの『交響曲第8番』(TOGE-11012)も、ちょっと気になる。この録音は1949年3月だが、EMIの原盤はこれまで14日と15日の演奏が混合されたものが使用されていた。この2日間の演奏は現在では分別されて発売されているが、これについてSACDの発売予告では何も触れられていない。もしもその混合原盤のままSACD化されるのだとしたら、ちょっと時代錯誤という感じがする。

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自然体の軽やかさ 追悼・熊谷元一先生―― 『写真家・熊谷元一とメディアの時代――昭和の記録/記憶』 を書いて

矢野敬一

 手元からいつの間にか小型のカメラを取り出し、シャッターを切る。その所作がいかにも自然で軽やかだ。だからこそ被写体も構えることなく、写真に収まる。10年ほど前のことだろうか、筆者が見た熊谷元一先生の撮影場面での印象だ。熊谷元一写真賞授賞式の後、かつて先生が勤務したこともある長野県阿智村の小学校でのことだった。自然体が身についたその姿は熊谷先生の生き方そのものだ、と改めて思ったことがいまも印象に残っている。
  大型のカメラとたくさんの機材を使って、構図一つ決めるのにも時間をかける撮影方法もある。しかし熊谷先生のやり方は、およそその対極といってよい。先生自身、その仕事を三足のわらじ、と言っていた。小学校教師、童画家、そして写真家の三つだ。だが写真家については、絶えず自分はアマチュアだ、ということを強調されておられた。そしてアマチュアでしかできない仕事を自分はするのだ、ということも。先生の写真家としての仕事の軌跡を見ていると、アマチュアに徹したことのすごみ、さえ感じる。
  代表作の岩波写真文庫『一年生』は、小型のキヤノンⅡDで主に撮影した。フラッシュは用いない。撮影という点では、かなり制限があったことになる。だが受け持ちの新入生を被写体とする一年に及ぶ撮影の日々は、いきいきとした子供たちの姿をカメラに収めることに成功した。一発勝負、ではなく時間をかけて関係性を築き上げ、その可能性をフルに活かすというのが、熊谷先生の撮影手法といってよい。根気強い撮影ができるアマチュアならではのやり方だ。
  それは自分の生まれ育った村を被写体とし続けたことにも通じる。戦前、若き小学校教師時代に朝日新聞社から刊行された写真集『会地村 一農村の記録』から、その写真家としてのキャリアは始まった。当時、郷土という問題が注目されていたこともあり、この本は一躍脚光を浴びる。戦後になると、今度は農村婦人の問題がたまたま社会問題となっていたこともあり、岩波写真文庫から『農村の婦人』を刊行する。だがその後社会問題となった過疎や出稼ぎといったジャーナリスティックな被写体は、ことさら追い求めることはなかった。そういったこともあって、絶えず日常の生活を記録し続けても写真集として刊行する機会を得ない年月がその後続く。普通なら、そこで撮影を中断なり断念してしまうだろう。それをしなかったところが、熊谷先生のアマチュアとしての足腰の強さだ。昭和50年代以降になると昭和を回顧する機運の高まりとともに、熊谷先生の写真は時代の証言者として再び注目される。そして『ふるさとの昭和史』での日本写真協会賞功労賞、『熊谷元一写真全集』全四巻での毎日出版文化賞特別賞他、多くの受賞につながっていく。
  なぜ熊谷先生にだけは、こうした仕事ができたのか。先生の口からよく出たのは「~をするとおもしろいんではないか」という言葉だ。そんな軽やかな自然体で「おもしろさを見つける達人」だからこそ、ありきたりの暮らしのなかからもおもしろさを見逃さず、被写体にし続けることができたのではないか。そうした姿勢は童画家としての仕事、教師としての仕事にも一貫していた。童画家としての代表作『二ほんのかきの木』は、カキの木を中心として、村の一年の生活を風情豊かに描いた作品だ。あたりまえすぎる題材におもしろさという生命を吹き込むという姿勢は、ここにも息づいている。教え子との関係も、そうだ。自然体で接するなかから、その後教え子とのコラボレーション『五十歳になった一年生』や『一年生の時戦争が始まった』が生み出されていった。
  そうした日常の暮らしの現場からおもしろさを見出し、70年以上にわたってカメラや絵筆でつぶさに写しつづけてきたまなざしが、閉じられた。熊谷元一、享年百一歳。最後にお目にかかったのは、今年七月。誕生日のお祝いにご挨拶に行った折だ。もうその温顔に触れることができない寂しさを胸に、先生のご冥福をお祈りする。

ライトノベルの歴史に向き合って――スタンスをめぐるあれこれ

――『ライトノベルよ、どこへいく――一九八〇年代からゼロ年代まで』を書いて

山中智省

 言説資料を手がかりにライトノベルの歴史と動向を捉え直す。そんな本書の試みをいま一度振り返ってみると、あらためて実感するのは歴史認識と資料選定の重要性、あるいはその難しさである。
  例えばライトノベルの歴史をめぐる議論のなかで、「歴史のスタート地点をどこに見出すのか?」という問題は避けて通れないものだろう。これに対して「それは○○年/年代からだ!」と即答できる方もいるかもしれない。しかし「答えに迷うなぁ…」という方もけっこう多いのではないだろうか。当然「ライトノベルの歴史」と言っても、いつ、どこから、どのように捉えるかによって、浮き彫りになる歴史は様々に形を変えうる。場合によっては数百年前、それこそ『源氏物語』の時代にまでさかのぼってみることも不可能ではないのだ。したがってライトノベルの歴史に向き合おうとすれば、まずはそのスタンスを明確にすることから始めなければなるまい。
  私も学生時代、本書のもとになった修士論文執筆時にこうした作業をおこなったものの、いざ考え始めるとこれがなかなか難しい。スタート地点ひとつとっても、朝日ソノラマ文庫や集英社コバルト文庫の創刊、新井素子や氷室冴子といった作家がデビューした1970年代か、はたまた角川スニーカー文庫や富士見ファンタジア文庫の創刊、神坂一『スレイヤーズ!』(富士見ファンタジア文庫)が登場した1980年代末頃か………これまでの指摘を踏まえると様々な候補が思い浮かぶ。さて、どうしたものか。すでに収集済みだった資料と向き合いながら悩んだ末、今回は冒頭で述べたテーマとカルチュラル・スタディーズの応用である文化研究のスタンスを軸に、ライトノベルという名称が誕生したとされる時期に絞り込むことで落ち着いた。
  しかし安心したのも束の間、続いては資料の選定作業が待ち構えていて、こちらも一筋縄ではいかなかった。どのような資料をそろえるか次第で歴史の見え方も変わってくる以上、選定作業は万全を期したいと考えていた。とはいえ、掲げたテーマに沿う資料は非常に膨大で、ある時は市立図書館で「活字倶楽部」や「SFマガジン」を、県立図書館で「出版月報」や「出版指標年報」を10年から20年分閲覧請求し、またあるときは国会図書館で「電撃hp」や「ザ・スニーカー」のバックナンバーを読み漁り………気がつけば図書館めぐりに明け暮れる日々。かさむ交通費とコピー代。新たに収集する資料も次から次へと増えていき、果てしない宇宙をさまようごとく途方に暮れたこともしばしばだった。
  そんなときは恩師・一柳廣孝先生やゼミメンバーから「ちゃんと絞り込もうね~」とのあたたかい(?)助言をいただきつつ、先の歴史認識を考慮したうえで「特定の小説群が「ライトノベルとして」語られた言説資料」という枠組みで収集するよう努めた(とは言うものの、興味深い資料を見つけるとついつい集めてしまったのだが)。そういえば、かつてゼミの先輩からこうした作業について「それが決まれば研究の6割から7割は終わったも同然」と言われたのを憶えている。誇張もあると思うが、要するに「研究の6割から7割」を占めるほど重要性が高いというわけで、いま思えば苦労して当然のことだったわけだ。そうした苦労の果てに本書があることを思うと、いまさらながら感慨深い。
  さて、以上の過程を経て紡ぎ出されたのが、本書で示したライトノベルの歴史と動向である。今回浮き彫りになった事柄によって、これまでのライトノベルを捉え直す、あるいはこれからのライトノベルの行く先を考えるきっかけにしていただければ幸いである。また今後のライトノベル研究のなかで、ジャンル認識や文学/文芸観の変遷をめぐる議論の叩き台として本書をご活用いただけたなら、著者としてこれ以上の喜びはない。

 最後にもうひとつ。本書のために素敵なイラストを描いてくださったゼミの大先輩・佐藤ちひろさんに、あらためて深く感謝申し上げます。内容と見事にシンクロしたイラストの魅力を、読者の方々もぜひご堪能ください!