第40回 子連れ対策の強化を望む

 1月12日午後、三浦文彰のリサイタルに行ってきた(調布市文化会館たづくり・くすのきホール。ピアノは菊地裕介)。私は開演2分ほど前に着席したが、間際になって目の前の席に5歳と3歳くらいの女の子と、その母親とおぼしき客が座った。「あ、こりゃあ演奏を台なしにされてしまう」と思ったが、全くそのとおりだった。
 特に妹と思われる方は演奏が始まるやいなやゴソゴソと動く。それを制する母親。これの繰り返しである。すぐ前の席だからいやが応でも視界に入ってくる。周囲の他の客が何か言いだすかと思って静観していたが、誰も何も言わない。ずいぶんと寛容なようだ。
 私はこれまで、このような子連れに何度演奏をじゃまされたことだろう。そのたびに直接注意し(これまで、少なくとも2組の親子にはお帰りいただいた)、さらには係員にもその旨を告げてきた。でも、この悪習はいっこうに改善されない。このたびも注意しようと思ったが、しょせんは調布という郊外である。それに、三浦という若い男性ヴァイオリニストが主役であり、平日の午後ということになれば、ある程度質がよくない客層が予想されるのに、それを見込めなかった自分も悪いのだろう(同じ列の初老の男性は演奏中にいきなり携帯電話を取り出し、画面をチェック。暗い客席で携帯の画面を見ると異様に目立つことを知らないらしい。それに、演奏中にさえ携帯をチェックしなければならないようだったら、聴きにこなくてもいいはずだ)。
 ひどく気分を害されたので後半を聴く気力をなくし、会場を去ろうとした。そして、係員にひとこと「何であんなに小さい子供を入れるんですか? 非常に行儀が悪くて迷惑です。とても後半を聴く気にならないので帰ります」と言ったのだが、「未就学児の入場はできないことになっておりますが」との返答。「2、3歳くらいは未就学児ではないんですか?」と言ったら、「申し訳ありません」で終わり。生演奏は二度と再現できないのだということをもっと重要視してもらわなければ困るのだが、でも主催者にとってはチケット代さえもらえれば、それで問題はないのだろう。ちなみに、この日の三浦のリサイタルは完売だった。
 前半を聴いただけの印象を振り返ると、デビューCD(プロコフィエフの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』『ヴァイオリン・ソナタ第2番』/ソニークラシカル MECO-1006)で聴き取れる音よりも、実際の彼の音はもう少し柔らかくて繊細である。次回は“都会”のホールで口直しをするとしよう。
 先日、コンビニでビールを買ったら、レジで「20歳以上」というボタンを押せと言われた。これは「年齢確認」なのだろうが、明らかに20歳以上だとわかる50歳を過ぎたおじさんにもボタンを押させるのは無駄というか、ほとんど意味がない作業ではないか。
 それと同じく、ほとんどのチラシに書いてある「未就学児のご入場はご遠慮ください」という断り書きも、もはやたいして意味がないものとなっているようだ。繰り返すが、生演奏の再現は2度と不可能である。それを思えば、主催者は明らかな未就学児を連れた客に対して毅然とした態度でお引き取り願ってもいいのではないか。

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テキヤの生き方――『テキヤ稼業のフォークロア』を書いて

厚 香苗

 できあがったばかりの本書を調査協力者に手渡すために、私は2012年2月24日、東京・墨田区東向島の地蔵坂を訪ねた。最寄りの曳舟駅の改札を出ると、完成を5日後に控えたスカイツリーがすぐ近くにあって、すでに航空障害灯が点滅していた。その白いLEDの光を見て、30年ほど前、曳舟駅前の大きな工場の屋根に群生していたタンポポの黄色い点々を思い出した。まず地蔵坂通り商店会会長の西村寅治さんを訪ねた。西村さんをはじめ、かつてお世話になった方々は変わりなく過ごしていて安堵した。しかし地蔵坂のほうはというと縁日なのに人がまばらで活気がない。
 露店は3店舗しか出ていなかった。冬とはいえ少なすぎる。そのうちの1店舗では顔見知りの「テキヤさん」がたこ焼きを売っていた。私のフィールドワークにつきあってくれたのは東京会(仮名)のテキヤがほとんどだった。その方は東京会のテキヤではないけれども、彼が所属するテキヤ集団も東京会と同様に、おそらく近世以前から続く古い集団だ。あいさつをするとうれしいことに私を覚えていてくれた。東京会の方々から教えてもらったことをまとめたと伝えて本書を1冊手渡すと、「字が細かくてダメだ」とすぐに返された。読んではもらえなかったが、とりあえず地蔵坂で商いをする現役のテキヤに本を見てもらえたのでよかった。ではたこ焼きを買って帰ろう、そう思って私はたこ焼きの値段を尋ねた。すると彼は「いいよ」と言う。代金はいらないから、ひとつ持っていけということだ。いまは「新法」でテキヤが困っているから本を出してもらうと助かる、と感謝されたのである。この「新法」とは、2011年10月に施行された東京都の暴力団排除条例のことだろう。
 地蔵坂に行った翌日、かつて地蔵坂の縁日のセワニンを務めていたが、すでにテキヤを引退しているS夫妻の千葉県にある自宅を訪ねた。8年ほど前に目印として教えられた県道沿いの看板はすでになく、さんざん道に迷った末に見覚えがある一軒家にたどり着いた。インターホンを押すと妻であるネエサンが出て、夫のSさんも在宅していた。2人とも久しぶりの再会を喜んでくれて、勧められるままに家に上がり込んで本書を差し上げた。そしてコーヒーをいただきながら思い出話に花を咲かせた。
 Sさんは、かつて自分が所属していた東京会の近況を少し知っていた。最年長者だった大正生まれのオヤブンは数年前に亡くなり、その下の世代のオヤブンも何人かはテキヤを引退、別のテキヤ集団に「養子にいった」若いオヤブンもいるとのことだった。話の内容から、テキヤ社会の擬制的親族関係が現在でも崩れていないことがうかがえる。また本書で紹介した神農像は、Sさんがテキヤを引退するときに東京会の現役のテキヤに譲ったという。神農信仰も続いているようだ。
 江戸=東京は人口が多く、年中行事や祝祭空間も豊富なので、ほぼ常店といっていいような安定した露店商いがおこなわれてきた。それをテキヤたちも自覚している。だから学術的な関心からテキヤの「伝統」を考察する本を出しても、イタリアのカモッラを題材としたノンフィクション・ノベル『死都ゴモラ』を出版したことで、警察の保護下にあるというロベルト・サヴィアーノのようにはなりえない――そんな確信のような思いが下町育ちの私にはあった。本人たちが「テキヤは3割ヤクザだ」と言うのだから、まったく何も心配していなかったといえば嘘になるが、フィールドワークというものは対象によらず、やってみなければわからないものだ。本書の出版からもう1カ月以上がたった。関係者に本を配り歩いて、喜ばれたり、呆れられたりしたが、身の危険は感じていない。「3割ヤクザ」だから「新法」に影響されたりするものの、やはりテキヤは第一に祝祭空間を彩る昔ながらの商人なのだろう。
 西村さんに「Sさんの家を訪ねるつもりです」と言うと、「もしSさんに会えたら遊びに来るように伝えて」と頼まれた。Sさんにそれを伝えると「そうね。そのうち行ってみるか」と笑顔で答えた。しかし祝祭空間とは縁が薄い静かな郊外で暮らし、日帰りバスツアーに参加して神社仏閣めぐりを楽しむこともあるという、そろそろ古稀を迎える老夫婦が、引退したテキヤとして地蔵坂に出かけることはおそらくないだろう。西村さんもそれを承知しているような気がする。私も自宅の住所と電話番号をS夫妻に知らせてきたけれども、連絡はないだろうと思っている。

〈音楽する〉ことの原点へ ――『同人音楽とその周辺――新世紀の振源をめぐる技術・制度・概念』を書いて

井手口彰典

 音楽漬けの学生時代、部活のオーケストラだけでは飽き足らず、夜な夜なDTMで楽曲を自作しては酒のツマミにと学友らに聴かせて悦に入っていた。刺激にもオリジナリティーにも欠ける当時のサウンドを聴き返せば、思わず赤面して逃げ出したくもなる。だがいまや30も半ばのオッサンとなった旧友らに「いや~あれは若書きの習作だったから」などと軽口を叩きながらも、音楽の流れを自ら組み立て、それを誰かに聴いてもらうという「あの」プロセスが、たとえようもなく楽しいものだったことを私は確かに記憶している。
 そんな形容しがたい楽しさに突き動かされつつ、誰に望まれるわけでもない曲を戯れに書きつづっていたある日、中学時代の悪友との再会があった。下宿で酒を酌み交わしながら、私はいつものように自作曲を披露してみせた。一通り聴き終えた後で奴が発した言葉の具体的な文言こそ忘れてしまったが、そのインパクトだけは強く印象に残っている。つまり、「これ即売会で売ってみないか?」。
 あくまで20世紀末の一般的な大学生と比べての話だが、当時から私は、いわゆるオタク系文化にずいぶん馴染んでおり、したがってコミケット(コミックマーケット)や同人文化についても「知識として」ある程度まで知っていた。ただ、そこに実際に参加したことはそれまで一度もなかったし、参加するという可能性を検討したこともなかった。そんな私を、悪友は「とりあえず」とコミケットにいざなったのだ。その際に受けた衝撃を、どう表現すればいいだろう。まだ社会にオタク的なものが今日ほど氾濫しておらず、インターネットも常時接続化されていないナローバンドが主流の時代、初めて東京ビッグサイトに足を踏み入れた私の頭のなかは、「ナンナンダ、コレハ」と完全にフリーズした。
 数日後になんとか冷静さを取り戻したとき、私の脳裏には二つの思いが並立していた。第一に、悪友の甘言に乗って表現者(本書の用語を使えば「サークル参加者」)として作品を発表してみるのは相当に面白いのではないか、という予感。そして第二に、ひょっとすると自分が目にしたこの文化は、そのうち取り組まなければならない修士論文にとって恰好のネタになるのではないか、という打算。かくして私は、同人音楽の世界へと足を踏み入れることになる。
 以来、趣味なのか研究なのか自分でもよくわからないまま、十数年にわたって同人音楽との関係を続けてきた。そうした緩やかで輪郭のぼやけた営みの集大成として、本書がある。いま改めて考えてみれば、それは非常に幸福なことだ。一般的に語られる「学者は自分の好きなことを研究できる」というイメージが必ずしも妥当でないことは、たとえばさまざまな社会問題(DVにせよアルコール依存にせよ)の専門家が決して当の問題を「好き」なわけではないことを考えればすぐに理解できるだろう。しかし幸いにも私は、純粋に自分の興味・関心に沿って考え抜いた結果を、こうして書籍の形で世に問うことができている。人生のめぐりあわせに感謝しなければなるまい(ただし悪友本人にそんなことを言うのは癪なので黙っておくが)。
 とはいえもちろん、自分の好きな対象を研究するというプロセスは、ただ楽しいというばかりではない。そこには慣れ親しんだ領域だからこそ生じるさまざまな問題もある。たとえば我々は、身近なものをほかよりも贔屓目で見てしまいがちだ。あるいはよく知っている文化であるがゆえに、それを(エラそうにも)研究する自分と、勝手に研究「されてしまう」人々との意識のズレをつい忘れてしまいそうになる。自分では「身内を訪ねている」ようなつもりが、当事者には「他人が家に土足で上がり込んできた」と受け止められてしまう可能性は決して低くない。そんな過ちを犯していないだろうか、という省察は、本書を執筆し推敲するなかで繰り返し自問してきた事柄だ。
 ただ、先に述べたようないくつかの危険性を十分に自覚しながらも、しかし同人音楽について何かを語ることは、やはり私にとって非常に魅力的な、心躍る作業だった。同人音楽とはおそらく、〈音楽する〉という意志の、現代における最も純粋な発露のひとつだ。優れているとか劣っているとかではなく、ただ楽しいから、やる。そのようにして生み出されてきた諸々のサウンドに耳を傾けながら、私はかつて自分自身が味わっていた同様の楽しさを追体験しているのかもしれない。
 実はこのエッセイを執筆している現在、拙著の書店への配本はまだ完了していない。一般の読者諸氏から、あるいは同人音楽コミュニティーから、いったいどのような反応をいただくことができるのか。戦々恐々としつつ、しかし「やれるだけのことはやった」と半ば開き直りつつ、座してその結果を待つことにしたい。

第39回 枝並千花が弾くワルターのソナタ、TPPのこと、など

 2012年はブルーノ・ワルターの没後50年だが、それにふさわしい演奏会が4月9日にある(東京オペラシティ・リサイタルホール、19時開演、ピアノ:伊藤翔)。それは枝並千花ヴァイオリン・リサイタルで、ワルターのソナタの本邦初演がおこなわれることだ。このソナタは1909年にウィーン・フィルのコンマス、アルノルト・ロゼーのヴァイオリン、ワルター自身のピアノで初演されたもので、CDは過去にオルフェオ・デュオ(Vai Audio VAIA 1155)とハガイ・シャハム(Talent DOM 291093)があった。
 このソナタは伝統的な3楽章形式で、演奏時間は約30分。ワルターは師マーラーにあこがれ、そのマーラーと同じく指揮と作曲の双方の分野で活躍することを夢見たが、マーラーの死後、ワルターはぷっつりと作曲をやめてしまった。最近、ワルターの『交響曲ニ短調』(レオン・ボトシュタイン指揮、北ドイツ放送交響楽団、CPO 777 163-2)がCD発売されたが、これはちょっと歯ごたえがある内容だった。さすがのマーラーもこれを聴いてウームと思ったらしいが、まあそれは理解できる。
 でも、このワルターのヴァイオリン・ソナタは聴きやすい作品である。枝並はすでにフランクとフォーレのソナタが入ったアルバム『夢のあとに』を発売しているが(MA Recordings MAJ-506)、このアルバムで聴くしなやかな美音から想像すると、ワルターのソナタへの期待もぐんと高まってくる。ちなみに、4月9日のワルター以外の演目はコルンゴルトの『から騒ぎ』から4つの小品、R・シュトラウスのソナタである。
 ヴァイオリンといえば、ある人が12月26日にソウルでチョン・キョンファのリサイタルを聴いてきたということである。ソウルでやるのだったら、少なくとも東京で1回くらいはやってほしいとは思うが、そう簡単にならないのはいつもの彼女のこと。新録音の話も浮上しているとのことだが、目下のところどうなるかは全く不明である。
 話題はみなさんもご存じのTPP、環太平洋経済協定というものに変わる。詳細は知らずとも、なんとなく欧米諸国が自分たちの都合のいいように物事を運びたいために仕組んだワナのような臭いが漂うのだが、「文藝春秋」2012年1月号(文藝春秋)の記事「警告 著作権が主戦場になる!」を読んで、やっぱりと思った。
 この記事を書いたのは弁護士の福井健策だが、福井によるとこのTPPには著作権の保護期間の延長も含まれているという。つまり、現在日本の保護期間は50年だが、TPPに加盟してしまうと70年に延長されるのである。もしもそうなったら、私が現在やっているCD制作は廃業に追い込まれる。公共の利益のために延長されるというのならば仕方がないが、福井も書いているように、この延長は「ミッキーマウス保護法」なのである。ミッキーマウスの保護期間が切れそうになると延長される、それが過去に繰り返されているのだ。一部の企業が自分たちの利益を守りたいがために法律をねじ曲げる。これは、植民地支配的な発想だ。世界の多くの国は北朝鮮を野蛮な国と思っているようだが、この「ミッキーマウス保護法」もそれと同じレベルである。2011年に打ち立てた誓いは、ディズニーランドなどには決して足を踏み入れない、ディズニー関連商品を絶対に買わない、である。
 話題はふたたびコロッと変わる。最近、エードリアン・ボールト指揮、ロンドン・フィルのシューマンの『交響曲全集』を買った(First Hand FH-07、3枚組み)。これは1956年の録音だが、信じがたいほどの鮮明なステレオである。演奏もめちゃめちゃすばらしい。シューマンの全4曲が揃ったCDではポール・パレー指揮、デトロイト響(マーキュリー)が最高だと思ったが、そのパレーは『第4番』だけがモノラルだった。対するボールト盤は4曲すべてステレオである。3枚めはベルリオーズの序曲集だが、こちらも冴えざえと響き渡っている。

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アップデートする――『現代美術キュレーターという仕事』を書いて

難波祐子

 原稿を書く仕事は基本的には締め切りがあるものだが、今回は書籍ということで、ある意味、ゆるやかな締め切りだった。だが、展覧会となると、そうはいかない。展覧会の会期はずいぶん前から決まっていて、必ずその期日までに準備をしてオープンさせなければならない。何かの事情で準備に支障をきたしても、よっぽどでないかぎりオープンの日を変更することはできない。本書でも少しふれたが、現代美術の展覧会をおこなうときはアーティストに新作をお願いすることも多い。それが物故作家の展覧会とは違った同時代の美術を扱う展覧会ならではの醍醐味であったりする。だが、まだ見ぬ作品を想像しながら、展覧会オープンの日という絶対の締め切りを控えた展覧会準備というのは、本当に心臓に悪い。展覧会は、たいてい内覧会というパーティーを一般公開の前日の夜などにおこなうのだが、そういった催しには、お世話になったスポンサーの方々や協力してくださった大使館の大使など、大事なお客様がおおぜいお見えになる。さらに記者会見も内覧会前に開かれることもあり、報道関係者にも展覧会の説明などをしなければならない。直前まで設営のためジーンズ姿で現場をバタバタ駆け回っていても、内覧会前の10分ぐらいで小綺麗な格好をして、何食わぬ顔であいさつをしなければならない。さらになんとか無事にオープンできても、油断はできない。会期中もよりいい展示を目指して掲示や案内表示を増やしたり、作品のメンテナンスをするなど細かい手直しがけっこうある。会期中はトークやレクチャー、ワークショプなどの関連イベントも開催されることが多く、たいていは展覧会が開けても休む暇はない。展覧会は、それを観に来てくださるお客さまがいて初めて命が吹き込まれる。展示してそれで終わりではなく、会期中、改善できるところは改善し、少しでもいいものにして終わらせなければならない。何が起こるかわからない不確定な要素満載の展覧会をおこなう現代美術のキュレーターは、ある意味、本当に博打打ちだと思う。実施に際してトラブルが続くと、正直、何を好き好んでこんな仕事をやっているのだろう、と展覧会をするたびに思うことも少なくない。だが困ったもので、「喉元過ぎれば」で、展覧会が終わってしばらくたつとまたやりたくなってしまうのだ。こうなると、もう病気なのかもしれない。
 本書も、準備にずいぶんと時間がかかってしまったが、多くの方々のご好意とご協力をたまわり、おかげでようやく世に送り出すことができた。だが、展覧会と同じで、出版してしまえばこれで終わり、ということはない。この本を手に取ってくださった方々にとって、本書が現代美術に関わる何かのヒントになったり、刺激になったりすれば本望であるし、お気づきの点やご意見があれば、フィードバックをお寄せいただきたい。また現代美術という「ナマモノ」を扱った本書は、時間の経過とともにアップデートする必要に迫られるだろう。さまざまなフィードバックをもとに、なんらかの形で今後も本書をよりいいものにしていくことができればと願っている。

インターネットから生まれた学術書――『公文書をつかう――公文書管理制度と歴史研究』を書いて

瀬畑 源

 本書『公文書をつかう――公文書管理制度と歴史研究』は、学術書の出版としてはやや異例の経緯をたどって出版された。
  そもそもこの本は、2009年の秋に、編集者の矢野恵二氏が私のブログ(「源清流清――瀬畑源ブログ」http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/)を読んで執筆をもちかけたことから始まる。私は当時大学院博士課程の院生であり、論文も多く書いているとは言いがたい研究者だった。そのため、公文書管理問題についてこういうことを書いてほしいという明確な要望があるのだろうと思いながら矢野氏に会いに行った。
  ところが、矢野氏は会って早々、私に「どういうことが書きたいですか?」と投げかけてきた。そこで、思い付いたことをとめどなく話すと、「では企画書を私に提出してくださいますか?」と言った。私は内心「本どころか博論さえ書いていないのに、私に任せてしまって大丈夫なのか?」と逆に心配になってきた。すると矢野氏は、「ブログを見て、これだけのことが書ける人ならば大丈夫だと思っている」というような趣旨のことを話してくれた。
  私はこのとき、「ああこの方は、ブログや論文といった掲載された「媒体」で判断するのではなく、「書いたもの」をそのまま評価してくださったんだ」と感じた。それは私にとっては何よりもうれしいことだった。
  私のブログは、国(宮内庁)を相手とした情報公開訴訟を他の方に知ってもらうため、2006年8月に作ったものだった。初めは読者を引き付けるために、研究テーマである天皇制に関する時事問題を中心に取り上げ、公文書管理問題はあくまでも副次的なものにすぎなかった。しかし、自分が資料公開で苦しんでいる原因が公文書管理制度にあることに気づきはじめ、公文書管理問題についての記事が少しずつ増えていった。
  私のブログが公文書管理問題に偏っていくきっかけになったのは、2008年1月に歴史学研究会総合部会で情報公開法と公文書管理問題について報告したことである。この部会にはアーカイブズ関係者が多数おとずれ、用意していた教室に入りきらないほどだった。もちろん、集まった方の多くは他の報告者が目当てだっただろうが、なかには私のブログを読んでくださっている方もいた。そして、私が話した情報公開請求などで培ってきた知識を面白がってくださる方もいた。これまで私はブログを「自分の裁判のため」に書いてきたのだが、それにとどまらない広がりがあることに気づかされた。
  ちょうどこの時期は、福田康夫氏が首相に就任し、公文書管理法制定の動きが現実化し始めたときだった。裁判も終わり、ブログを今後どう運営していこうか考えていた私は、このまま福田首相の公文書管理法制定の動きを追い続けることが、せっかくこれまで読んでくださっていた方の期待に応えるものだという考えに至った。また、一人の研究者として、この問題についてブログを書くことが、自分の研究成果を社会に還元する方法になるとも考えた。そこで、論文を書くレベルの緻密さを保ちながら情報をわかりやすく伝えるという方針をもって、ブログを書き紡ぐことにした。
  そして、公文書管理法制定の動きについてブログを書けば書くほど、様々な分野の方が私のブログの存在に気づき、読んでくださるようになっていった。次第に、メールで直接連絡をとってくださる方も現れ、私自身も公文書管理法制定運動に深く関わるようになった。歴史学の学会では知り合えない様々な分野の方とブログを介してつながることができ、私が普段知りえないような情報をたくさん教えてもらった。その知見をもとに、さらにブログを執筆していくという好循環ができていった。
  自分にとっては、このブログは「社会への窓」の役割を果たしていた。だからこそ、わかりやすく読みやすい文章にしようと何度も推敲を重ねてから記事をアップロードしていた。そして私には、論文を書くこととブログを書くことは、同じくらい重要な意味を持つものになっていった。矢野氏はそのブログの文章を評価してくださったのである。
  本書の執筆中には、調べてわからなかったことをtwitterで聞いてみたり、ブログなどを通して知り合った方にメールで問い合わせたりした。まさに、インターネットがあったからこそ生まれた本だったと改めて思う。
  人と人とのつながりの不思議さを感じながら、今後もその関係を大切に、そして広げていきたいと思う。

アートと日々の営み、人々の働き――『芸術は社会を変えるか?――文化生産の社会学からの接近』を書いて

吉澤弥生

 編集者から『芸術は社会を変えるか?』という書名を提案されたとき、これは私には荷が重いのでは……と気後れしたのを覚えている。それからの数年間、何とかその輪郭に収まるように執筆を進めてきた。本書の大半を占める大阪での事例研究のなかには進行中の事業も多く、「いつまで」参与観察を続けるべきかを悩み続けた。結果的に、大阪市立近代美術館建設計画と大阪府立江之子島アートセンター建設計画が始動し、ダブル選挙が決まり、おそらくいろいろ状況が変化してここ10年の大阪の〈芸術運動〉が次の段階に入るであろう年に本書を上梓できたことは、何かに導かれたようなタイミングだった。
  第3章第2節を中心に取り上げたブレーカープロジェクトに、新たな展開があった。2008年以降はまちなかで神出鬼没に制作発表していて恒常的な拠点をもっていなかったのだが、今年度から地域に根ざした創造拠点をつくり、若手アーティストなどの作品制作や発表の場として整備していくことになったのだ。拠点となるのは西成区にある「福寿荘」。持ち主はきむらとしろうじんじん『野点』の開催をはじめ、当初からブレーカープロジェクトに参加して折にふれ協力してきた住民である。自らが一から作った(!)このアパートを壊すのではなく、地域の子どもや高齢者が集えるような場所にしていきたいというその住民の思いを大事にしながら、スタッフは初夏からその築60年を迎えようとする古い木造アパートに入り、掃除と改修作業に取り組んだ。その後も、参加アーティストとサポートスタッフはじめ多くの協力者とともに改修して展示空間づくりを進め、ちょうどいま、その「新・福寿荘」で梅田哲也展覧会「小さなものが大きくみえる」が会期を迎えている(2011年12月4日まで)。夜間限定プログラムなど、滞在場所があるからこその試みも用意された。数十年間さまざまな人が暮らし、去っていき、そしてここ数年は床が傾き壁が剥がれていた建物を、アートプロジェクトとして再生させたさまざまな人の思いと働き。人々の日々の営みからアートは生まれ、そして再び日々のなかへとゆっくりとその波紋を広げていく。
  さて、数年にわたる現場のフィールドワークを通して政策上の課題を考察する作業と並行して、筆者は次第に現場の人々のさまざまな仕事に関心を抱くようになった。第5章第2節「芸術という労働」がそれにあたる。もちろんアートプロジェクトはアーティストがいてこそ成立するが、実際の現場は多様な人々の働きによってつくられている。肩書はキュレーター、ディレクター、アドミニストレーター、マネージャーなど、立場はフリーランス、派遣社員、嘱託職員、NPOスタッフなどさまざまだ。ボランティアスタッフの存在も欠かせない。こうした人たちの多くはプロジェクトの表面には出てこない、いわば「名もない」労働者である。そしてリサーチ、進行管理、渉外、書類整備、そして関係づくりのための作業(感情労働)といった、表には出にくい、あるいは形として残らない事務作業を担っている。
  労働への関心を抱いたのは、自身がアートNPOで仕事をしている経験も大きい。NPOでは毎月の定例会議、理事会、年に一度の総会があるが、たいていメンバーは他の仕事(生活費を得ている仕事)を終えてからの開催なので、夜も遅くなると体力的にきつい。理事・監事といった役員ももちろんボランタリーである。事務局は書類作成、会計、広報、備品管理などなど、順調に進めば進むほど目に見えない仕事を担う。ちゃんと雇用できればいいが、一般的にみて簡単なことではない。ディレクターは事業ごとに先方との打ち合わせや調整を進め、メンバーはそれぞれに割り振られた業務を遂行するが、支払いがたいてい納品後なので、それぞれが労働している時点でその対価を受け取ることはできない。まさに季節労働者だ。筆者も経験があるが、毎月ある程度の収入を見込めなければ、仕事のための投資もままならず、社会保険などはどうしても後回しになる。
「芸術」と「労働」を同じ地平で論じることにはいろいろな反発があるだろう。しかし現在のアートプロジェクトやアートNPOの活動に、労働は不可欠だ。筆者としてはまずアートに携わる人々の労働がどんな様子なのかを知るところから始めたいと、少しずつ聞き取り調査を進め、今年(2011年)春にインタヴュー集『若い芸術家たちの労働』を制作して公表した。現在、来春に公表するその続篇のために調査を進めている。これからも日々の営み、そしてさまざまな人々の働きのなかに、アートの輪郭を見定めていきたいと思う。

千里の道の第一歩――『「中国残留孤児」の社会学――日本と中国を生きる三世代のライフストーリー』を書いて

張嵐

「中国残留孤児」の社会学――日本と中国を生きる三世代のライフストーリー』のもとになった博士論文の執筆からすでに2年近く経った。中国残留孤児をめぐる事情も「中国残留孤児国家賠償請求訴訟」の事実上の和解と「新たな支援策」の実施によって大きく変わった。
  厚生労働省が2005年3月に公開した「中国帰国者生活実態調査」(2003―04年実施)によると、現在の生活状況が「苦しい」「やや苦しい」の合計が孤児64.6パーセントだった。それに対して10年10月に公開された「平成21年度中国残留邦人等実態調査結果報告書」によれば、「苦しい」「やや苦しい」と答えた帰国者は28.6パーセントで、前回調査より30パーセント以上減少した。また、「収入が増えた」「気持ちのゆとりが増えた」「役所・福祉事務所の対応が良くなった」「親族訪問に行きやすくなった」などの理由で、「新たな支援策」に対して、約80パーセントの残留孤児は「満足」「やや満足」と答えている。さらに、帰国後の感想についても、約80パーセントの帰国者は、帰国して「良かった」「まあ良かった」と答え、前回調査(64.5パーセント)より大幅に増加している。
  中国残留孤児をめぐる問題を円満に解決し、彼らが望んでいた「日本人らしい」生活をようやく送れるようになったのだろう。だとしたら、裁判の結果が出る前の彼らの暮らしをいま書く意義はどこにあるのかと思う人もいるかもしれない。
  しかし、一つ忘れてはならないのは、裁判の朗報を聞けず失意のままこの世を去った残留孤児は決して少なくないことである。論文の執筆中、残留孤児の訃報を何度も受けた。
  一人の調査協力者が癌をわずらったと聞き、手術後にお見舞いに訪れた。裁判の中心メンバーとして積極的に参加していた人物である。声を出すことすら困難だったが、私に対して「裁判は絶対勝ちます」と力強く訴えた。しかし、その一カ月後に訃報が届いた。裁判の結果が出るわずか数カ月前のことだった。
  その協力者はきっと裁判の結果を自分の耳で聞きたかったのにちがいない。裁判の勝利を信じる、そのときの目の輝きをいまでも忘れることができない。そして、その無念を思うと心が痛む。
  中国残留孤児は、一般人の想像を超える辛酸を嘗めながら中国と日本の狭間でさまざまな困難と闘い、一生懸命生きてきた。そのときどき、その時点の彼らの気持ちをそのまま記録することに大きな意義があるように思う。本書が彼らが懸命に生きてきた証しになれたらとてもうれしく思う。そして、残りの人生をどうか健やかに穏やかに過ごしてほしいと切に願う。
  日本と中国は古来から「一衣帯水」と喩えられ、お互いに欠かせない大切な隣国である。しかし、戦争のせいで中国国民だけではなく日本国民の多くも犠牲になった。日中戦争の記憶が現在も両国関係に大きく影響し続けているのも事実である。
「忘却」は恐ろしい。過去を忘れると同時に、過去の失敗から学べる教訓も一緒に忘れてしまうかもしれないからだ。それは再び同じような過ちを犯す恐れにつながるだろう。豊かで平和な日常に埋没している多くの人たちが、第2次世界大戦を忘れ、世界の戦乱に関心をもたなくなった。戦争の悲惨さと痛々しい教訓を継承しなければいけない。「戦争とは、決してあってはならないもの」と戦争経験がない世代へ伝えなければならない。戦争経験者が少なくなったいま、戦争経験がない私たちの世代の責任である。
  中国の春秋戦国時代の思想家である老子がこう言った。

  九層の台は、塁土より起こり、千里の行も、足下より始まる。

 高層の建物も一盛りの土を丹念に積み重ねることででき、千里の道も一歩より始まるという意味である。一人だけの力は限られる。しかし、いくらどんなことでもはじめは小さいことから始まる。この言葉は私の座右の銘であり、この道理が日中友好関係の構築にも通じると私は考えている。歴史・過去から学ぶと同時に、お互いの違いを認識し、理解し、小さいことから始めることが大切である。本書を私にとっての千里の道の第一歩にしたいと思っている。

第38回 ラザレフとラフマニノフの『交響曲第1番』

 11月11日(金)、日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に行き、ラフマニノフの『交響曲第1番』を聴いた。指揮はアレクサンドル・ラザレフ。この公演に先立ち、9日(水)にはラザレフ指揮の新プロジェクトに関する記者会見がおこなわれたが、その内容は日本フィルのサイトで全文読むことができる(http://www.japanphil.or.jp/cgi-bin/news.cgi#628)。
  この『交響曲第1番』は初演が大失敗となり、そのためラフマニノフは極度のノイローゼに陥り、作曲が全くできない状態になった。それを救ったのがダール(ラザレフはダーリと言っていた)博士で、この博士の治療が功を奏し、名作『ピアノ協奏曲第2番』が誕生したのはあまりにも有名な話である。
  この『交響曲第1番』の初演(1897年3月15日、ペテルブルク)がなぜ失敗に終わったか、それは上記のラザレフの記者会見での発言に明らかだが、要するに本番前に指揮者のグラズノフが飲み過ぎたというわけである。酩酊状態で、まともに指揮ができなかったのが失敗の最大の原因だったようだ。
  でもこの初演当日、前半ではグラズノフの『交響曲第6番』の初演もあり、その日はダブル初演。もしも指揮者グラズノフが酩酊状態であるならば、自作の『第6番』だってまともに棒を振れなかったはずだ。けれども、こちらが失敗したという話は聞いたことがない。ただ、リハーサルのときにグラズノフはラフマニノフの作品についてあれこれと修正の要望を出したと言われているが、そうなると単なる酩酊ではなく、ラフマニノフの『交響曲第1番』への根本的な共感が希薄だったのが失敗の要因とも考えられる。
  11日、腰の手術を終え、元気になったラザレフは指揮台を所狭しと動き回り、オーケストラからまことに鮮烈な音を引き出していた。9日は記者会見に先立ってリハーサルを公開していたが、非常に細かく練り上げていた。その日はちょうど第3楽章をリハーサルしていたが、途中で第2ヴァイオリンに難所があり、そこをかなりしつこく繰り返していた。最後になって第3楽章の通し演奏をおこない、時間は残り3分。ここで終わるだろうと思っていたが、ラザレフは先ほど集中的にやっていた第2ヴァイオリンを再び取り上げていた。時間を無駄にせず、望む音への熱き情熱をもったラザレフ、だからこそ本番にあのような冴えた音が出るのだろう。
  この『交響曲第1番』は初演が大失敗したため、とうとうラフマニノフ生前には2度と演奏されなかった。だが、ラザレフのような指揮で聴いていると、長く封印されるほどの駄作とは思えないし、これはこれで独特の味がある作品だと認識を新たにした。
  ところで、記者会見終了後、ラザレフに直接話を聞いてみた。以下、Q=質問、A=ラザレフの答えである。
Q「先ほどプロコフィエフ、スクリャービン、フラズノフ、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーのプロジェクトについてお話をしていただいたのですが、たとえばスクリャービンはピアノ協奏曲も含まれますか?」
A「もちろん、やります」
Q「ボロディンの作品は?」
A「『交響曲第2番』ならやってもいいと思います」
Q「カリンニコフは?」
A[うーん、旋律はきれいだけれど(『交響曲第1番』の第1楽章の第2主題を歌う)、起承転結がない」
Q「ハチャトゥリアンは?」
A[いやだ!」
Q「えっ、そうなんですか」
A「まあ、『スパルタクス』『仮面舞踏会』ならやってもいいですが。『スパルタクス』の初演のとき、ハチャトゥリアンはリハーサルでトロンボーンにもっと出せ、もっと出せと要求しました。その翌日、同じことを要求しました。これじゃあ、うるさくてしようがない。ほかにハチャトゥリアンの何をやればいいのでしょうか?」
Q「交響曲とか」
A「『交響曲第3番』のことですか? あんなやかましい交響曲、それに優秀なトランペット奏者を20人も集められませんよ。とにかく、ハチャトゥリアンはやりたくない」
Q「そうですか。ありがとうございました」
 
  一説によると、ハチャトゥリアンは旧ソ連の体制を支持していたため、ロシアの演奏家の間ではおおっぴらにハチャトゥリアンを賛美できないとも言われている。だが、一方では「ハチャトゥリアンは決して優遇されておらず、苦しんでいた」とする説もある。旧ソ連のことになると、どこまでが本当でどこまでがウソなのかはよくわからない。はっきりしているのは、ラザレフの指揮でボロディン、カリンニコフ、ハチャトゥリアンらの交響曲は今後聴けそうもない、ということである。

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第37回 サイトウキネンに行く

 5月頃だろうか、ある人から「サイトウキネン、行ったことないんですか? 一度くらい行ってもいいんじゃないですか?」と言われ、ふとその気になった。だが、チケットを手配し終えた頃には別の人からこう言われた。「行って面白いのかなあ?」。私はそれに対しこう返答した。「動けば何かが生まれる」
  今回、私は2回松本を訪れた。1回めは8月19日(金)におこなわれた「ふれあいコンサートⅠ」である。曲目はモーツァルトの『ピアノ四重奏曲第2番』、プロコフィエフの『五重奏曲作品39』、バルトークの『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』。演奏は小菅優、伊藤恵のピアノほか、ほかのメンバーはサイトウキネンのオーケストラに名前が入っている人たちである。特にプロコフィエフとバルトークは日頃めったにやらないので、こういったプログラムが聴けるのがまさに音楽祭ならではだ。この2曲、初めて生で聴いたせいか、非常に面白かった。地震の影響で予定していたザ・ハーモニーホールが使用不能となり、松本文化会館の中ホールに急遽変更になったのは演奏者側にも不運ではあったが、お客さんの反応は非常によかった(バルトークではピアノの弦が演奏途中で切れるという事故にも初めて遭遇。小菅さん、怪力ですな)。
  2回めは8月26日・松本文化会館(大)のオーケストラコンサート、指揮はヴェネズエラの新鋭ディエゴ・マテウス、曲目はチャイコフスキーの『「ロメオとジュリエット」序曲』と『交響曲第4番』、中プロはバルトークの『ピアノ協奏曲第3番』(独奏:ピーター・ゼルキン)、そして27日・まつもと市民芸術館主ホールでのバルトークの『バレエ「中国の不思議な役人」』(指揮:沼尻竜典)と歌劇『青ひげ公の城』(指揮:小澤征爾)である。
  日程順に触れていくと、マテウスの演奏は若くてバリバリである。「エネルギッシュでよかった」という人もあれば、「オーケストラを鳴らしすぎ」と感じた人もいた。私も確かにちょっと騒々しいとは思ったが、オーケストラの献身的な熱演はそれなりに気持ちがよかった。ゼルキンのソロはマテウスとは正反対の渋く正統的なものだった。
  27日は何と言っても『青ひげ』で小澤が出るかどうかで話題が持ちきりだった。初日の21日だけ振って、23日、25日は降板である。前日の26日、私は関係者からその周辺の話を聞いたけれど、感触としては絶望的のように思えた。
  27日はまず『中国の不思議な役人』を見る。私はバレエについては全く詳しくはないが、この新潟を本拠地とするバレエ団ノイズムはなかなかやるな、と思った。存分に楽しませてもらった。
  そこでいよいよ後半の『青ひげ』。会場には「本当に小澤は出てくるのか?」という雰囲気が漂っていたが、小澤の姿が見えたとたんにどっと湧いた。ブラヴォーも出ていたような気がする。オーケストラのメンバーもみんな、「あ、来た!」と満面の笑みを浮かべていた。私が聴いた感じでは、始まって5分程度は指揮者とオーケストラの一体感がいささか希薄に思えた。でもそれはしようがない。オーケストラにとっては6日ぶりの小澤の棒である。しかし間もなく本調子となり、私も音楽に集中できた。総合的に言えば、一部にバレエの扱い方に違和感を感じたことを除けば、上々の公演だったと思う。
  終演後、何度もカーテンコールに応えていた小澤の姿を見ると、2度も降板したほど体調が悪いようには思えなかった。「小澤は今日も無理でしょう」と言っていた知人に「出た! お化け、じゃない小澤、本当に出たぞ」とメールしたら、即座に「それはラッキーでしたね」と返ってきた。
  サイトウキネンというオーケストラだが、確かに寄せ集めの欠点があると言えばある。まとまりという点では直前の8月24日に聴いた読売日本交響楽団(指揮は小林研一郎)の方が上だった。しかし、このオーケストラのメンバーによって先ほど触れた珍しい室内楽やオペラなど、短期間に多彩なプログラムを楽しめるのはありがたいことである。それに、フェスティバルの存在自体も、日本のクラシック界の発展に大きく寄与していることは間違いない。
  私は今回初めて松本を訪れたが、遅まきながらこの街並みのすばらしさにたちまちファンになってしまった。特に感激したのは縄手通り、中町などの古い建物や石垣が残っている付近である。小さなお店や資料館もあって、身も心も、そして財布も軽くなった。また、ほとんどのお店にはサイトウキネンのミニTシャツが飾ってあって、街全体がこのフェスティバルを盛り上げようとしているのにも感心した(ただひとつ気になったのは、主に松本駅周辺にある街頭のスピーカーから流れ出るBGM。これはない方がいい。ちょっと無粋)。
  今回は昼間ちょこっと観光し、夕方、夜が仕事(演奏会)というわけだったが、次回はできるならば完全にフリーな日を1、2日程度付け加えてサイトウキネンに行きたいと思った。
  松本訪問、予想をはるかに上回る収穫だった。「動けば何かが生まれる」、これはやはり正解だったのである。

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