わたしが上京するのは、年に1度ほどしかない。目的はコンサートなのだが、上京すれば必ず青弓社を訪れる。いつもアポなしで顔を出し、他愛もない世間話をすこしだけすると、目の前のお茶の湯気が消えないうちに退室する。わざわざ多忙な業務の手をとめさせて、長話をするような重要なネタは持ちあわせていない。いつもあたたかく迎え入れてくれるだけで、ありがたいと思っている。
だが、そのときはちがった。ひとつの企画がぼんやりと頭のなかにあった。しかし、鼻息荒くプレゼンをするほどの材料はなく、ターゲットさえ決まっていない状態だった。だから、いつものようにアポなしで青弓社を訪れることにした。あいにく矢野さんは不在で、1分もしないうちに会社を出てきてしまった。年末の出版社がどれほど忙しいかよくわかっているつもりなので、あいさつだけで出てきたのだ。
静かな廊下でエレベーターのボタンを押して、冷たいドアをぼんやりながめていた。そのとき、ドアが開いてエレベーターから矢野さんが降りてきた。互いに驚き、「もう帰っちゃうの?」という社長の言葉に甘えて、再び部屋に入ることにした。
そこでわたしは、まだ輪郭のはっきりしていない企画をしゃべりはじめた。音楽業界で活躍する人材を育成する専門学校で1年間授業をもっていたことがあり、その講義内容を一冊の本にまとめたいと思っていたのだ。きっかけは、自分が授業をするにあたって、何か教科書になるような本はないかと書店をいくつも見てまわったが、ひとつもなかったところにある。かなり苦労をして、ひとつひとつ自分で調べ、徹夜を繰り返して授業の準備をした1年間だった。
音楽シーンで現在起こっている現象を裏側から分析・解説した講義ノートは、学生に向けてつくったもので、これを外に向けて出版するとなると、今度はターゲットが誰になるのか、自分でわからなくなってしまった。とにかく、こんな本はどこにもないから、どうしても出したいんですと、そればかりを矢野さんに訴えていた気がする。そんなわたしに、「年明けにでも、企画書を送ってよ」と言ってくれた。
約束どおり、年が明けてまもなく企画書を送った。ただし、ターゲットは、あいまいなままだった。同時に、「年明けにでも、企画書を送ってよ」という言葉の重みをわたしは疑っていた。あんなとりとめもない話に、本気で企画書を見たいと思ってくれたのだろうか。「企画書を送ってよ」は、編集者なら、昨日入社したばかりの新入社員だって言うじゃないか。忙しい年末の話など、きっと忘れているにちがいない。そんな不安な気持ちのまま、数日が過ぎた。
1週間ほどして、矢野さんからメールが届いた。社内で会議にかけ、ターゲットや方向性などの案を出してくれたのだ。うれしかった。メールを何度も読み返しながら、なぜかドキドキした。こんなに真剣に取り組んでくれていたのに、つまらないことを考えていた自分を恥じた。そして会議で出されたいくつかの提案にもとづき、企画書を練り直すことになった。
あらためて企画書を出して、つぎの連絡を待った。届いたメールは、ゴーサインだった。張り切って原稿を書いた。講義ノートは、原型をとどめないほどに内容がリファインされていった。気がつけば、原稿は450枚にもなっていた。今度は300枚ちょっとにするため、削っていく作業に追われた。
季節は春が終わりを告げようとしていた。初校のゲラを見ながら、いいことを書いてるなあとナルシストになってしまい、校正がなかなか進まない。
いよいよリリースになり、できあがった本を手にとり、また顔がゆるむ。ちなみに、これが青弓社から上梓した10冊目の本になる。もう本は出せないかもしれない、つぎはないかもしれないと思いつつの10冊目だ。うれしくないはずがない。
この出版不況のなか、ターゲットが不明確な企画書と真剣に向きあい、なんとかよい本にしようと取り組んでもらったことに感動する。わたしが、よい本だとうっとりする理由は、もしかしたら、あの年末の日、偶然にもエレベーターから矢野さんが降りてこなかったら、あと1分すべてがずれていたら、この本は誕生しなかったかもしれないと思うからだ。よくぞこの世に生まれてきたと思う。