余白については本書第8章「余白のフィロソフィー」でマンダリ人の神話を分析しながら論じたことでもあるが、本やその原稿の余白について語ることは必然的に本と原稿の内容を逆に余白化することであり、本来のものとは別の本をつくる営みになってしまう。だからそれは舞台裏やこぼれ話を語ることと決して同義ではない。
例えば、本書はこれまでレヴィ=ストロースについて書いてきた論文を中心に編まれた論集だが、校正の段階で原稿を読み返して、誤解されつづけてきたレヴィ=ストロースの思想のよりよい理解のための「狂言回し」であるかもしれないにせよ、レヴィ=ストロース同様あるいはそれ以上に、柄谷行人の『探究Ⅰ・Ⅱ』にこだわりつづけているということは、文章そのものからわかる。そして、たとえ自分自身でそのこだわりを「再発見」したにせよ、原稿の余白として記すべきことにも思われない。同様に、他ならぬこの私が他ならぬこの私に執着することをなんとかしたいと、「個」「人格」「身体」「関係性」などの構造主義的理解を研究テーマにしてきたことも、本文とくに第6章から読みとれることであり、これもまた余白とはいえないだろう。余白とは、語ることができないから余白なのである――と述べたところで、ここでの責を免れるとも思われない。だから以下の余白ならぬ空白のページを埋めることになるのは、本書の基調音の変奏というべきだろう。
代替不可能性、かけがえのなさということを考えてみよう。売り上げがダブルミリオンに達したSMAPが歌う「世界に一つだけの花」の歌詞ではないが、一人ひとりの個人はもともとお互いに違う「特別なオンリーワン」である。この歌では、だから「ナンバーワンにならなくていい」し、たとえ一卵性双生児、クローン人間であっても、なお彼らはかけがえのない個体であり、代替不可能ということになる。その意味での「オンリーワン」である。
この歌の1番の歌詞では「それなのに僕ら人間はどうしてこうもくらべたがる、一人一人違うのにその中で一番になりたがる」とある。これは19世紀人類学の思想を彷彿とさせる。そのころ欧米に登場した人類学は、文明の絶頂にいた欧米を発達の頂点に位置づけ、そこからの隔たりに応じて世界中の文化を階層的に配列するという、エスノセントリズムに基づく比較を試み、人類の文化の進化を跡づけようとした。「世界に一つだけの花」はこうした、今日のわれわれにも根づいている考え方を批判しているといえよう。
歌の最初(シングルバージョンのみ)と最後で「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」と歌われる。つまりどんなに見た目は異なっていても、逆にどんなに似ていて遺伝子組成が同じでも、優劣をつける比較の対象にはならない、ナンバーワンを決めるような序列的比較は無意味だといっているのだ。これは進化論的比較を批判し、それぞれの文化の独自性を主張した文化相対主義の立場といえよう。人であること(歌では花であること、「そうさ僕らは世界に一つだけの花」)以外は共通点がないのだから、かけがえのない個体だというレベルでとらえるとき、共通なものがないなら、比較は無意味ということになるのだ。
しかしこのような文化相対主義には支払うべき代償がある。違うのだからそれぞれの固有なものを大事にしなければならないと説くことが、その固有なものを守るために文化の間に隔壁をつくることになり、さらにそれが人種差別につながりかねないおそれも出てくるのだ。
「共通なものがないなら、比較は無意味ということになる」と述べた。しかし互いに全く異なっているということにおいて、じつはお互いが同じだということもいえる。「他と同じ性質を全く有していない」という共通の=同じ特徴を個々が有しているのである。代替不可能という意味での差異が全ての個体の共通性、あるいは同一性になるのである。つまり「違うことは同じこと」であり「同じことは違うこと」なのである。これは荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、人間の個の関係、自己と他者の関係はまさにこのようにしか表現できないのであり、「自己は他者でもある故にかけがえのない自己になる」のである。神話や婚姻の透徹した分析と強靱な思考力で、レヴィ=ストロースが明らかにしたのは、こうした自己と他者の関係性の「構造」なのである。そして、「そうさ僕らは世界に一つだけの花」の「花」とかそれが意味する「人」とは、たんに分類のための普通名詞なのではなく、じつは「他者であるゆえに自己である」個それぞれに与えられる名前といえるだろう。
このような思考に到達できるとき、われわれは、文化相対主義の代償を回避できるのではないだろうか。