純愛と死別――『死と死別の社会学――社会理論からの接近』を書いて

澤井 敦

  2004年は、純愛ブームの年といわれた。『世界の中心で、愛をさけぶ(以下、セカチュー)』『いま、会いにゆきます』『冬のソナタ』などなど。ただ私が気になったのは、これらがみな「死別」というテーマを扱っているということだ。もちろん愛と死は、『ロミオとジュリエット』のような古典的純愛を例にあげるまでもなく、ひろく結び付けて考えられるものではある。ただ、その様相は社会的背景に応じて変化する。
  まず、ここでいう純愛のかたちが、基本的には「かなえられない愛」であるが、それでも「はなれられない絆」があるところに存立していると理解しよう。そして、一方で「純粋性への憧憬」がありながら、「俗世間での困難」というか、現実にはそれが存立し難いからこそ、一定の純愛のかたちがブームになると考えよう。どこにでもある平凡なものであれば、小説や映画のなかで憧憬の対象とはなりにくいからである。
 『ロミオとジュリエット』の場合、愛が「かなえられない」のは、家と家との確執、社会的障壁によるものだった。そして、偶然のいたずらに翻弄されてとはいえ、結果的には「はなれられない」絆は、あの世へともちこされることになる。しかし、こうした純愛のかたちがリアルなものと感じられるためには、あの世、そこでの再会ということが、一定程度リアルなものと感じられている必要がある。世俗化が進んだ現代においては、「僕は生き残ったロミオなんだ」という『セカチュー』の朔太郎の言がむしろリアルに感じられてしまう。
  では、日本における半古典的純愛、1964年の『愛と死を見つめて』(2006年にリメイクされてドラマ化されるそうだが)の場合はどうか。この場合、愛が「かなえられない」のは、軟骨肉腫という自然的障壁による。もはや家制度も法律上は消滅した時代である。そして「はなれられない」絆は、病に直面し将来に夢を描けないにもかかわらず、互いを「心の妻」「心の夫」と呼ぶ心情として現れる。社会的背景についていえば、当時はまだ恋愛結婚よりも見合い結婚が多かった。80年代以降のように結婚とセックスが分離する傾向はまだそれほどでもなく、「結婚を前提としたお付き合いをしてください」と申し込むことも普通のこととしてままある時代である。いったん成立した男女の関係が比較的安定したものと見なしうる時代にあって、ミコとマコの純愛はリアルなものと感じられた。しかし現在、マコは、二女をもうけ、かの純愛に関して「パパ、すごいじゃん」と娘さんに言われているそうだ。もちろん、だからといって、2005年の現時点でマコを責める者は、とりわけ若い世代であれば、皆無であろう。
  そして2004年の『セカチュー』である。ここでもまた白血病で彼女が先に逝く。筋書きとしては、『愛と死を見つめて』とそれほど変わりはない(もちろん『愛と死を見つめて』はもともと実在する二人の往復書簡であり、『セカチュー』のようにフィクションではないが)。ただ、ひとつ異なるのは、『セカチュー』の場合(とりわけ映画・ドラマ版の場合)、彼女が亡くなってからの後日談が大きな位置を占めているという点である。朔太郎は、彼女が死んでから10数年経っているのに、彼女のことを忘れられない。いや、忘れられないどころか「彼女はいるんだよ、いるとしか思えない」。ここでは、「はなれられない」絆は、生と死の境を隔てた関係性として現れている。男女の関係、家族の関係が多様化し流動化した状況にあって、一時の心情のもとに成立した関係性は、以前のように安定した自明のものとは見なされ難い。結局、「はなれられない」絆は、この世の枠内では、リアルなものと感じられにくくなっているということである。ただ、純愛をめぐるこうした「俗世間での困難」にもかかわらず、それでも人びとは、「純粋性への憧憬」を捨てることはない。「はなられない」絆が現代においてリアルと感じられるのは、それが生死の境を隔てるというこれ以上ない絶対的な別離を経てもなお存続している、とされる場合である。
  さて、『セカチュー』のような純愛がブームとなるこの現代の社会的背景を、「死の社会学」の観点から理解するとしたらどのようになるか。これに関して、新刊『死と死別の社会学――社会理論からの接近』の第5章、「死別と社会的死」で私なりの整理を試みた。ご一読いただければ幸いである。