可能性としてのアマチュアリズム――『写真家・熊谷元一とメディアの時代――昭和の記録/記憶』を書いて

矢野敬一

  ドラマティックな事件や事故を被写体とするのではなく、ごく当たり前の光景を写しただけなのに、なぜか心に残る写真がある。昭和という時代を回顧するさいにしばしば取り上げられるあの写真も、そうした1枚といっていいはずだ。真剣な面差しでコッペパンを口にする少年の姿には、貧しかったがしかし心豊かだった「昭和」という時代の雰囲気が見事に凝縮されている、そう感じる人も多いだろう。
   撮影者は、長野県下伊那郡阿智村(旧・会地村)の小学校教師だった熊谷元一(くまがいもといち)。ちなみにこの写真を収録した岩波写真文庫『一年生――ある小学教師の記録』は、昭和30年(1955年)の第1回毎日写真賞を受賞。土門拳や木村伊兵衛といった錚々たる写真家を抑えての栄冠だった。熊谷は戦前から「コドモノクニ」などの絵本雑誌に作品を掲載する童画家として知られる一方、アマチュア写真家としても昭和13年(1938年)に朝日新聞社から『会地村――一農村の写真記録』を上梓して大きな反響を呼んでいる。明治42年(1909年)生まれで、95歳を超えた現在も住まいのある東京都清瀬市で絵筆をとり、カメラを座右から離さない。
   福音館書店からの絵本『二ほんのかきのき』が、百万部を超えるロングセラーとなっているように、童画家としてはプロを自任する熊谷。だが写真家としては、あくまでもアマチュアだと、その姿勢を崩さない。実際、コッペパンを口にするこの写真を撮影した昭和28年(1953年)、熊谷は地元の会地小学校の1年生の担任教師であり、その立場から自らの教え子を被写体としたのだった。教室内は、屋外に比して当然ながら暗く、さらに現在のように高感度フィルムが容易に入手できたわけでもない。多くの技術的制約を被りながらの撮影だった。しかし当時、岩波写真文庫編集長だった名取洋之助は「光や影などの遊びをする余裕がなかった」結果、「絵画的な美意識にわざわいされずに、如実に現実生活の一片を、覗き見させてくれるのです」と、熊谷の作品を高く評価した(「新しい写真のタイプ」「図書」1955年3月号)。アマチュアとしての限界が、逆に独自の写真世界へと結実していったことを名取の言葉は示している。
   熊谷のアマチュア写真家としての経歴は、その方法論の絶えざる模索と不可分のものだった。たとえば『一年生』を撮影するにあたって熊谷の念頭にあったのは、写真の記録によって、子どもの表面的な行動だけでなく内面的な心の動きまで把握し、指導にあたっての資料として役立てたいという考えである。こうした発想は、一教師というアマチュア写真家ならではのものだろう。実際、『一年生』のページを繰っていると、国語の教科書を読むさいの実にさまざまな子どもたちの姿を写した写真、校内放送を聞いている子どもたちを2、3分おきに撮影し、次第に飽きてくる様子を被写体としたものなど、教師としての姿勢を如実に感じさせる写真が多い。ここからはプロとは違ったアマチュアなりの方法意識の結実が見出せよう。その後もたとえば同じ村の農家に1年間通い詰め、毎日そのくらしを撮影するといった、プロならば最初から敬遠するような忍耐強い試みに取り組んでいる。アマチュアとしての独自の方法意識が、熊谷の撮影姿勢を規定していたことを見逃してはなるまい。
   熊谷が初めてカメラを手にした昭和10年代は、カメラが大衆化する時代の始まりだった。だが購入したパーレットは安価で定評あるものとはいえ、代用教員だった熊谷の月給の約半分の値だった。それと比較して現在、カメラを手にすることははるかに容易になった。携帯電話にはデジカメが標準装備されるまでになっている。かつてのプリクラの流行を見るまでもなく写真の撮影行為はごく日常化しており、ことさら意識されることもない。しかしそれがゆえに写真を撮影する、という行為に対する方法意識はかえって希薄になっているのではないだろうか。誰しもが多様なメディアを利用できるものの、自己満足の域を出ない表現が、ただただあふれかえっているだけという思いを筆者は否定できない。熊谷元一の歩んだ軌跡は、写真や絵本、8ミリ、テレビという出版や映像ジャーナリズムがいっせいに展開していった同時代史としても位置付けられるものだ。そうした展開に熊谷は注意深く、自らの方法を模索しつつ歩調を合せていったのだった。だからこそ熊谷の営為を振り返ることは、アマチュアがメディアにどう関わっていくのかという、その限界と可能性を見究めることにつながる、とあらためて思う。可能性としてのアマチュアリズム、それを問うことこそが本書のねらいといってもいい。

「ナイトメア叢書」という結晶――「ナイトメア叢書」を刊行して

一柳廣孝

  ナイトメア叢書の刊行がはじまった。文化現象としての「闇」への想像力に目を向け、隣接人文諸科学の成果を結集した新たな場となることを目指すシリーズである。東雅夫氏、高原英理氏をはじめ、多くの方々から激励の言葉をいただいた。ありがたいかぎりである。その反面、こうした企画の困難さもあらためて認識することとなり、気を引き締め直しているところである。
   さて、この叢書はいつ、どこから生まれたのか。私の記憶が曖昧なので、共編者の吉田司雄さんにお聞きしたら、別の編著を作っていたときの飲み会で出た企画だという。やはり企画とは、飲み屋で生まれるものらしい。
   吉田さんの指摘にしたがって手帳やメモのたぐいを調べていたら、この企画が出たのは2004年8月1日であることが判明した。メモには、こうある。「ナイトメア。幻想文学や怪奇オカルト系を含みこんだ形で、テーマを決め叢書化。年一回刊行。原稿募集。しかし相手がのってくれるかどうか」
   思い出した。提案者は、吉田さんである。「ナイトメア」の命名者も、吉田さんである。さらに付け加えれば、メモにある「相手」とは、もちろんわが青弓社である。のってくれたわけである。ありがたいかぎりである。
   さて、時代はいま、ぼんやりとした不安に包まれている。それが闇を引き寄せる。1990年代あたりから本格化してきた「闇」への眼差しは、多様なジャンルを越境しながら、さらに増殖をつづけている。こうした動きの背景に、グローバル化が進み多元化された社会の、複雑かつ劇的な変化を指摘してみたところで、あまり意味がないだろう。考えなければならないのは、そうした先の見えない世界で生きざるをえない、私たちの「心」のありようである。
   私たちが「心」の奥底で育ててしまった闇の深さと広さは、いまや論理のレベルで回収できない状況にまで進んでいる。しかし闇が生み出した多様な現象に切り込み、言説レベルで再構成していくそのプロセスは、闇を「闇」として認識するための、貴重な手がかりを与えてくれるだろう。
   「ナイトメア叢書」の第1巻、『ホラー・ジャパネスクの現在』は、私たちの「闇」への眼差しが生み出した結晶のひとつである。村山守さんの装幀、佐伯頼光さんの写真が、編者である私たちの思いを、形にしてくださった。私は一目で、やられました。
   さらに……本書を購入してくださった方は、カバーをはずしてみてください。闇を切り裂いた空間から、こちらを見つめる瞳があなたに突き刺さります。この瞳は、闇の彼方からあなたをうかがう他者の瞳です。また、それは同時に、闇に潜むあなた自身の眼でもあります。ふたつの眼差しが交錯する闇が生み出した結晶として、本シリーズが読者のみなさまに受け入れられますように。

図書館の政治性について考えてほしい――『図書館の政治学』を書いて

東條文規

  青弓社ライブラリーの1冊に『博物館の政治学』という本がある。何かの広告でこの本を知った私はすぐに購入した。著者の金子淳さんは未知の若い研究者だったが、私の問題意識と共通している部分も多く、一気に読んだ。
  ちょうど私が「図書館が「紀元二千六百年」にかけた夢」(「ず・ぼん」第8号、ポット出版、2001年)を書いた直後で、金子さんの著書は、同じ「紀元二千六百年」を博物館をテーマに詳述していた。さらに、昭和大礼や植民地の博物館建設構想などにも言及していて、私が図書館の歴史を調べていて関心をもった領域と重なっていた。
  その後私は、大正(1915年)と昭和(1928年)の天皇の即位大礼と当時の図書館界がどのようにかかわってきたかを調べはじめた。幸い、大正については、その詳細は『大礼記録』が2001年にマイクロフィルム34リールで臨川書店から復刻されていた。『紀元二千六百年祝典記録』の原本を利用させてもらった同志社大学人文科学研究所がこの『大正大礼記録』も所蔵していることを知った私は、また人文研のお世話になった。人文研にはこれ以外にも、大正と昭和の大礼時に東京府や京都府、京都市などが独自に編纂した記録もあって、同じように見せてもらえ、必要なところは自由に複写もできた。
  歴史研究者は資料が集まれば八割方仕事はできているとよく言うらしいが、私も複写物をリュックに詰め込んで香川に戻ったときにはほとんどその気になっていた。
  だが同じころ、職場の大学図書館の新築問題がいろいろな事情で暗礁に乗り上げ、日常業務以外に消耗する仕事が増えていた。帰宅すると酒を飲んで寝るだけの日が多くなり、休日には寝転んで小説を読むかボケーッとテレビを見ている日が続いた。せっかくの複写物も部屋の片隅に積み上げたままになっていた。
  そんな折、「出版ニュース」の清田義昭さんから「書きたいテーマ・出したい本」の執筆依頼が舞い込んだ。十年ほど前に同誌の「ブックストリート・図書館」の欄に書いたことがあったが、研究職ではない私には思いがけないことだった。
  私は、「戦争と皇室と図書館と」という短文を書いた。そのなかで夏ごろまでに「二つの大礼と図書館」というテーマで書き上げたいと記した。半分ハッタリではあったが、自分を強制しないとなかなか書けないと思っていたし、基本的な資料は複写物として手元にあるので、もう八割方書けていると、自分に都合よく解釈したのである。
  しばらくして、今度は青弓社の矢野恵二さんから、青弓社ライブラリーの1冊として『図書館の政治学』というテーマで書いてみませんかというお誘いの手紙が届いた。矢野さんは「出版ニュース」の短文を読んでくれていたのだ。私は、この短文に、確かに「二十数年間の図書館生活ではいろいろなことがあり、その折々に書いてきた図書館をめぐる拙文と地元(香川県)の子ども文庫の会報に毎月連載しているエッセイのようなものがだいぶ溜まっている。奇特な出版人(社)と出会えればいいのですが……」と書いた。
  が、まさかその「奇特な出版人(社)」があらわれると思っていなかった私はうれしかった。矢野さんは、文字どおり本来の意味で、私にとって「奇特な人」になった。
  実をいえば、はじめに記した『博物館の政治学』を読んだとき、私は、同じような問題意識で図書館を対象に1冊書いてみたいと思っていた。私の考えでは、編集委員をしている「ず・ぼん」に毎年80枚から100枚程度のものを書けば3、4年で1冊の本になるぐらいは溜まる。そのうえで、どこか出してくれる出版社を探そうと思っていた。
  ところが、「出版ニュース」に載ったことから矢野さんが声をかけてくれ、『博物館の政治学』と同じシリーズで出してくれるという。こんなにありがたいことはなかった。矢野さんとは当初、無謀にも6カ月ぐらいで書き上げると約束したが、その3倍ぐらい時間がかかってしまった。もちろん私の怠慢のせいだが、その間いくらかほかの資料も見ることができ、楽しみがのびた。
  それにしても、金子さんも書いていたが、博物館と同じく、図書館の政治性について関心を払う図書館関係者はそれほど多くない。現場の図書館員には直接役に立たないかもしれないが、本書を読んで過去そして現在の図書館の「政治性」について少しでも考えてほしいし、それは決して無駄ではないだろうと私は思っている。

「知」を駆け抜けろ!――『メディア・リテラシーの社会史』を書いて

富山英彦

  私が社会学を始めたのは大学院の修士課程からである。その前は科学哲学や図書館情報学を専攻し、幸か不幸か学際的に国文学や民俗学、宗教学や歴史学を手広くかじり、知的な雰囲気を楽しんでいた。そのうえで、きちんと学問に取り組もうと入り込んだのが社会学だった。その大学院の研究や学習の過程で身についた「学問」なるものの方法は、ひとつの小さなテーマや素材に取り組み、深く掘り下げ、論文として完成させるものである。私の偏見かもしれないが「学問」とはそういうものであり、現にいまでも卒論指導などでは、なるべく小さなテーマを深く調べ、論じるようにアドバイスすることが多い。
しかしその一方で、私自身がそんな学問に飽き足らなさを感じていた。テレビで放映されるドキュメンタリーに感心し、芝居の舞台に感動し、小説を読んで没入した。学生だって教室で先生の話を聞くよりは、映画館に足を運んだり、好きなアーティストのライブに出かける方が楽しいに違いない。もしかしたらそうした大学以外のメディアとのかかわりの方が、彼ら・彼女らの人生に影響を与えているかもしれない。
  自分がバブルの頃に学生時代をすごし、高校から大学にかけては「ニューアカ」と呼ばれたファッショナブルな学問スタイルが流行したこともあって、私も格好いい学問に憧れていた。でも、元より田舎者で地味な自分がそんなスタイルになじむはずもない。私は表現の豊かさに惹かれながらも、自分の履歴や生活の糧としての「学問」に踏みとどまり、限界を感じていた。
  本書のテーマは、「豊かな表現」を可能にする「書く」力の獲得が、「読む」ことに支えられてきた「私」のダイナミズムを失わせるのではないかという問題である。そんな表現に対する憧れと疑惑は、私自身の経験のなかで芽生えていった。さらに付け加えれば、「あとがき」に書いた「頭のいい研究者」に対する批判ないし嫌みもまた、自分の憧れと表裏の関係にあることを表明しておこう。
  そんな思いを抱き続ける頃に、青弓社から本書の誘いをいただいた。
  「あとがき」にも書いたけれど、本書の完成までの道のりは長かった。出版という表現形式を甘く見ていたこともあるだろう。編集者の見識は鋭く、批評は辛かった。しばらく経って自分で読み返してもひどい内容だった。それでも出版の機会を待ってくれる編集者に申し訳なかった。最初に書いた丸一冊分の原稿は、そのほとんどを自ら捨てた。
  私は割り切って、資料の世界に没入することを決めた。それが本来は、自分の強みのはずだった。でもこの方法は時間がかかるし、疲れる。金もかかるし、評価もされにくい。何とでも言い訳できるが、とにかく私は資料に没入することから逃げていた。論文の本数がほしい就職エントリーの時期から大学に職を得てからというもの、時間ばかりかかって確実な成果が期待できない研究スタイルから逃げ続けていた。
  私は「出版の危機」に直面し、反省して、真面目に資料に取り組むことにした。でも情報系の大学に身をおく自分にとって、資料へのアクセスには限界がある。古い大学のように文書は蓄積されておらず、都心の大学のように頻繁に大型図書館や資料館に通うことも難しかった。私はとりあえず、所属する大学の図書館が所蔵する新聞の縮刷版をめくることから始めてみた。何かが得られる予感はあったけれど、確信はなかった。電子化されたデータベースを使わずにアナログ資料に取り組む方法は情報収集として効率が悪く、締め切りに間に合わないことは見えていた。でも時代をつかみ、論じるべき「相手」を見つけるためには時間と手間が必要だった。自分の身体に「時代」を染み込ませたかった。
  それと同時に憧れもあった。いままで自分がやってきた小さなテーマや素材を掘り下げるのではなく、近代日本なるもののメディア空間を駆け抜けてみたいと考えた。活字に驚いた時代からテレビに興奮する社会、そして現代のIT革命にいたるメディアの社会史を、人々のリテラシーに着目して書き抜きたいと思った。それはいままで自分が封印してきた手広い考察の方法であり、学生時代に楽しんだ「知」のスタイルに回帰することだった。そうして本書ができあがった。
  もしできるならば、多くの読者が「知」を楽しみ、駆け抜けることの興奮を味わっていただけたらと願っている。

純愛と死別――『死と死別の社会学――社会理論からの接近』を書いて

澤井 敦

  2004年は、純愛ブームの年といわれた。『世界の中心で、愛をさけぶ(以下、セカチュー)』『いま、会いにゆきます』『冬のソナタ』などなど。ただ私が気になったのは、これらがみな「死別」というテーマを扱っているということだ。もちろん愛と死は、『ロミオとジュリエット』のような古典的純愛を例にあげるまでもなく、ひろく結び付けて考えられるものではある。ただ、その様相は社会的背景に応じて変化する。
  まず、ここでいう純愛のかたちが、基本的には「かなえられない愛」であるが、それでも「はなれられない絆」があるところに存立していると理解しよう。そして、一方で「純粋性への憧憬」がありながら、「俗世間での困難」というか、現実にはそれが存立し難いからこそ、一定の純愛のかたちがブームになると考えよう。どこにでもある平凡なものであれば、小説や映画のなかで憧憬の対象とはなりにくいからである。
 『ロミオとジュリエット』の場合、愛が「かなえられない」のは、家と家との確執、社会的障壁によるものだった。そして、偶然のいたずらに翻弄されてとはいえ、結果的には「はなれられない」絆は、あの世へともちこされることになる。しかし、こうした純愛のかたちがリアルなものと感じられるためには、あの世、そこでの再会ということが、一定程度リアルなものと感じられている必要がある。世俗化が進んだ現代においては、「僕は生き残ったロミオなんだ」という『セカチュー』の朔太郎の言がむしろリアルに感じられてしまう。
  では、日本における半古典的純愛、1964年の『愛と死を見つめて』(2006年にリメイクされてドラマ化されるそうだが)の場合はどうか。この場合、愛が「かなえられない」のは、軟骨肉腫という自然的障壁による。もはや家制度も法律上は消滅した時代である。そして「はなれられない」絆は、病に直面し将来に夢を描けないにもかかわらず、互いを「心の妻」「心の夫」と呼ぶ心情として現れる。社会的背景についていえば、当時はまだ恋愛結婚よりも見合い結婚が多かった。80年代以降のように結婚とセックスが分離する傾向はまだそれほどでもなく、「結婚を前提としたお付き合いをしてください」と申し込むことも普通のこととしてままある時代である。いったん成立した男女の関係が比較的安定したものと見なしうる時代にあって、ミコとマコの純愛はリアルなものと感じられた。しかし現在、マコは、二女をもうけ、かの純愛に関して「パパ、すごいじゃん」と娘さんに言われているそうだ。もちろん、だからといって、2005年の現時点でマコを責める者は、とりわけ若い世代であれば、皆無であろう。
  そして2004年の『セカチュー』である。ここでもまた白血病で彼女が先に逝く。筋書きとしては、『愛と死を見つめて』とそれほど変わりはない(もちろん『愛と死を見つめて』はもともと実在する二人の往復書簡であり、『セカチュー』のようにフィクションではないが)。ただ、ひとつ異なるのは、『セカチュー』の場合(とりわけ映画・ドラマ版の場合)、彼女が亡くなってからの後日談が大きな位置を占めているという点である。朔太郎は、彼女が死んでから10数年経っているのに、彼女のことを忘れられない。いや、忘れられないどころか「彼女はいるんだよ、いるとしか思えない」。ここでは、「はなれられない」絆は、生と死の境を隔てた関係性として現れている。男女の関係、家族の関係が多様化し流動化した状況にあって、一時の心情のもとに成立した関係性は、以前のように安定した自明のものとは見なされ難い。結局、「はなれられない」絆は、この世の枠内では、リアルなものと感じられにくくなっているということである。ただ、純愛をめぐるこうした「俗世間での困難」にもかかわらず、それでも人びとは、「純粋性への憧憬」を捨てることはない。「はなられない」絆が現代においてリアルと感じられるのは、それが生死の境を隔てるというこれ以上ない絶対的な別離を経てもなお存続している、とされる場合である。
  さて、『セカチュー』のような純愛がブームとなるこの現代の社会的背景を、「死の社会学」の観点から理解するとしたらどのようになるか。これに関して、新刊『死と死別の社会学――社会理論からの接近』の第5章、「死別と社会的死」で私なりの整理を試みた。ご一読いただければ幸いである。

映画を槍に、時代という怪物マタゴーヘルと立ち向かうために――『映画ライターになる方法』を書いて

まつかわゆま

  「まつかわ先生、これをお預かりしています」とカルチャー・サロンの方から渡された白い封筒。そこからすべてが始まりました。
  数日後、大雨のなか、青弓社にうかがい、「半年で書きます!」と大見栄切ったのは、いまから思えば怖いもの知らずというか、身の程知らずというか。結局、書き上げるまでに1年8カ月ほどかかり、すっかり「狼少年ゆま」になってしまいました。最後のほうは、「もういいです、やめましょう」と言われるのではないかとハラハラしました。
  ともあれ、まつかわゆま初めての映画本の書き下ろしです。正直なところ、マツケンサンバを踊りたいくらいにうれしいです。オレィッ!
  さて。「原稿の余白に」ということで、何が余白にあたるのかしらね、と考えたところ、それは「語り」だと気づきました。『映画ライターになる方法』では、講義でいつも語っていることをもう一度文章として構成しなおし、さらに考察を加え、映画ライターという仕事の発生を映画史的にとらえなおしてみたりしました。それはそれで、自分が考えてきたことや感じていたことが時代という事実にバックアップされて、論になっていくスリリングさがあり面白い経験でした。とかく評判の悪い映画ライターという仕事ですが、調べてみれば映画史的必然から生まれた仕事であり、どんどん変化していく映画業界にとっても観客にとっても必要な仕事なのだという思いを新たにしました。
  本書はハウツウの範疇を超えて、映画と時代と自分とにどのようにして取り組むのか、はっけよいのこった、という奮闘記として読んでいただける本になっているのではと思います。だって、映画って、見る人のもの。観客それぞれの「いま」にシンクロして違う姿を見せるものです。だから、映画を見ながらどのようにして自分の見方を見つけ、自覚し、表現して、面白がってもらえるように書くか、がライターにとっては大切なのではないか、と思うんですね。
  まぁ、私の場合、長いこと女優志願だったこともあってか、読者つまりお客さんを楽しませたいと思ってしまう傾向があり、それが授業や講義、講演や司会となると歯止めが効かなくなってしまいます。それこそが、まつかわゆまのまつかわゆまたるゆえん。だから「語り」なんです。
  原稿を書き上げて、青弓社の矢野恵二さんを映画ライター講座のOG・OB会にお誘いしたときのことです。身振り手振りに声色にと、講義のときのように「語る」私を見て矢野さんビックリ。「まつかわさんって、いつもこんなに熱いんですか?!」。はい。熱いんです。淀川さんも熱い方でしたよね。わたし、醒めているのってだめなんです。だって、好きなんだもん、映画。好きだからこそ、辛口にもなろうというもの。自分の人生の一部として考えてしまうから、感情移入してしまうから、どんなに映画的・作家的評価が高い作品でも、だめなものはだめ、なんですね。女性と子ども、立場の弱い人々を足蹴にするようなニオイがするといやになってしまうし、希望のかけらも感じさせないものは苦手。斜に構えるよりも、真正面からぶつかって、あきらめないで突破していくって映画に熱くなってしまいます。
  そう、私はラ・マンチャの女。いえ、世田谷区生まれのオジョーサマですけどね、ホホホ。でも私の心はラ・マンチャの男、ドン・キホーテ、なんです。私はミュージカル『ラ・マンチャの男』が大好きで、座右の銘は「事実は真実の敵なり」というせりふ。事実はひとつでも、真実はそれを体験する人の数だけあるはず。映画作家も自分ひとりの真実を描くために作品を作ります。その真実にどれだけ迫り、共感し、自分のものにできるかが、私の勝負だと思っているんですね。「夢ばかり見て現実を見ないのも狂気かもしれぬ。しかし、いちばん憎むべき狂気は、あるがままの現実と折り合いをつけて、あるべき姿のため闘わないことだ」というドン・キホーテにならって、映画を槍に、時代というマタゴーヘル(腕が四本ある怪物。実はただの風車なんですが)に向かっていきたいのです。
  2001年9月11日から4年。私の周りにはにょきにょきとマタゴーヘルが立ち並び、どんなに腕を振り回してもひとっつも倒れる気配がない、という状況になっています。けれど気がつけば、腕を振り回しているのは私一人ではなく、みんなそれぞれいろいろな形の槍を振り回して、力いっぱい立ち向かっているのです。映画という槍は、昔はともかく、そして日本では特にそんなに強い武器ではありません。けれど、まったく力がないわけではないと思います。現実を映画という虚構に読み替えてくれることで見えてくる真実があるのです。人はその真実で動きます。それが映画の力だと思います。
  現実と折り合いをつけること、事実だけを見て夢を見ず、真実を考えないこと。そんな世界はいやです。映画の力を信じる映画ライターとして、自分の真実を映画に見つけ、伝えていく。そんな映画ライターになりたい方を勇気づけられる本になれればいいなと思います。

無駄や遊びがあることが豊かさの原点――『企業スポーツの栄光と挫折』を書いて

澤野雅彦

 「企業スポーツ」は、以前から書いてみたいテーマでした。バブルのころ、金が余った多くの企業がスポーツチームを結成し、有名・有望スポーツ選手のスポンサーリングに名乗りをあげ、スポーツにとってはいい状態のように見えましたが、どこか釈然としない感じも持ちました。経営学が専門ですから、「企業スポーツ」が企業労務問題を起源に持つことも知っていましたし、企業でのヒアリングなどで運動部の部長や監督が労使関係などで一定の役割を果たしていることも聞いていました。ところが、このころから広告宣伝や売名行為としか思えないスポーツへの進出が続き、こんなことでは企業スポーツの信頼が失われると感じたのが動機です。
 当時は富山にいたので私のゼミからも何人か地元企業に就職していました。それまで「企業スポーツ」とは無縁だった企業が、サッカー・ワールドカップ誘致の流れで、国立サッカー場建設受注を目指してサッカーチームに出資するに及んで、これは「企業スポーツ」とは何か、経営学徒としてきちんと調べて議論しておく必要を感じたのです。
  それから10年以上が経過し、案の定そのサッカーチームは解散し、社会問題にさえなりました。また、バブルの崩壊を契機に状況は180度転回し、この間「企業スポーツ」も暗転して、チームの休・廃部が新聞紙上を賑わすようになりました。だから、もともとは、「こんなことでいいのか?、企業スポーツ」という議論をするつもりが、「がんばれ! 企業スポーツ」という論調になってしまいました。
  書いてみると、思わぬところから反響があり、驚きました。看護学校の先生から、「以前は学生のクラブ活動がいっぱいあり、看護学校の対抗戦に出ていたのに、学生の元気がなくなるとともに、近年では先生が陣頭指揮に立っても学生は踊らず、ほとんどのクラブで試合に出られない状態になったのも同じ話ですね」といわれました。また、ゼミの学生は、「この本を読んで、出身高校では入学早々に、できるだけ運動系クラブに入るように指導を受けたことを思い出しました。生徒が元気にスポーツをやっていれば問題を起こさずにすむからでしょうね」と話してくれました。
  大学で若い人と接していていちばん気になるのは、どんどん忙しくなっていることです。もちろん社会全体が忙しくなり、世知辛くなっていますが、若い人まで「利益にならないことはしない」ポリシーを持ちはじめて、何か言っても「どんな利益があるのですか?」と聞かれるのは心が寒くなります。また、以前はどこにでもいた仕切り屋とか宴会部長といったインフォーマルな役どころをこなす人も減っています。そんな縁の下の力持ちのようなことをしても、企業でも学校でも、業績や成績に反映されないからでしょうか。そのために、クラブ活動を含むレクリエーションがなくなりつつあります。
  そうはいっても、社会からレクリエーションがなくなるわけではなく、これは、業務となり外注化して生き延びています。よく問題を起こす合コン・合ハイ斡旋業をはじめ、仕切り屋に毛の生えた起業家が登場し、仲間内でその場を盛り上げてきた宴会部長はタレント化してテレビで笑いを売るようになりました。
  これはこれで、雇用を増加しGDPに貢献するのだから、とやかく言うことではありませんが、企業や大学など組織の元気を失わせることは否めず、また、組織のなかの種々の組織運営ノウハウを失わせていることは明らかです。
  最近マスコミなどでは、スロー・フードやスロー・ライフなどといって、個人生活の豊かさに注目する運動をおこなっています。レストランや食堂などでは価格競争が厳しくなって、セントラル・キッチンによるファスト・フードばかりが目立つようになり、ぎりぎりの人員削減によって馬車馬のように急き立てられて働かざるをえない人(私たちの職業も完全にそうなりました)が増えた状況で、難しいことだと思います。しかし、非経済的豊かさに、もう一度注目することが必要だと思います。
  個人生活ばかりではありません。多くの人は人生の3分の1は何らかの組織で働いているのですから、そんな組織のなかでの生活の豊かさを、もう一度考えてみる必要があるように思います。そんな思いを込めて、「企業スポーツ」の再興を論じてみました。無駄や遊びがあることが豊かさの原点であると、もう一度、この社会を考え直す機会として、ぜひこの本を読んでみてください。

「写真にしゃべらされている」のかも――『写真を〈読む〉視点』を書いて

小林美香

  私は大学での講義を生業にしていて、写真史やデザイン、現代美術に関する講義を担当しているが、仕事の内容は無声映画や幻灯会(写し絵)の「弁士」のようなものかもしれない、と思う。パソコンをプロジェクターにつなげて、薄暗くした部屋のなかでスクリーンにさまざまな図版を投映しながら話をする。90分という講義時間を埋めるためには、相当数の図版を用意している。講義中は、それらの図版について自分が知っていること、考えていることを「話している」というよりも、図版のほうから何かの指示を受けて「しゃべらされている」、という感覚に近い。聴講している学生が、私がしゃべるのを見ていて、何かに取り憑かれているようだと感じる(実際、一人の学生からそう指摘されたことがある)ならば、たぶんそのとおりなのかもしれない。つまり、私は写真に取り憑かれて、しゃべらされているのである。
  この「取り憑かれている」感覚は、しゃべることを仕事にするようになる以前から自覚していた。写真を見るということに関心を持つようになったのは、高校生の頃(1988-91年)だったように思う。写真が発明され150年という節目の年(1989年)に重なっていたこともあって、写真史に関する本が刊行されたり、雑誌で特集が組まれたりしていた。当時広島で高校に通っていた私が、写真集を見ることができたのは県立図書館の美術書・大型書のコーナーだった。書棚の前に立って手当たり次第写真集をめくったり、高価すぎて自分では買えない写真集を何度も見たい一心で、数回同じ本を借りたりしていたことを記憶している。その後大学、大学院と経て現在にいたるが、勤務先の大学の図書館であれ、外国の美術館の図書室であれ、書棚に並べられた写真集に手を伸ばして写真に見入っているときの気持ちは、ほとんど変わっていないような気がする。
  見ることをしゃべることへと結びつけていったのは、学校という場所で仕事にするようになってからのことだが、「しゃべること」を体得すべき技や芸としてより強く意識するようになったのは、自主的に企画してきたレクチャーを通してだったように思う。学校での講義は一種の義務的な関係のうえで成立しているが、年齢・職業などさまざまな立場・関心を持つ人に対して、自分の知っていることや考えていることをしゃべり、そのことでお金をいただくということがどういうことなのか、を試行錯誤しながら学んできた。聞き手にも、そして自分にも満足のいく「しゃべり」をすることは難しく、芸の道は厳しく長いものだと思う。
  『写真を〈読む〉視点』というタイトルは、2003年におこなった「写真史の視点」というシリーズ・レクチャーと、2005年におこなった「写真を「読む」」というシリーズ・レクチャーのタイトルを組み合わせている。いわば、ここ数年の講義やレクチャーのような「しゃべり仕事」をまとめる機会をいただいて形になったものである。論文を発表することはあったものの、単著としてまとめることが初めての経験だったこともあり、「しゃべる」ことを「書く」ことへ転換させることは、私にとっていろいろな意味でチャレンジといえる経験だった。書き終えてみて、これまでに人の前でしゃべってきたことが、本という形になって見知らぬ人の手に届く「もの」になった、ということがどういうことなのか、ということに思いを巡らしたりもしている。自分の作った「もの」に対してどう責任をとっていくのかという新たな課題を手にしながら、これから何をしゃべろうかと思案したりもしている。

   写真を見ながらしゃべるラジオ、「デジオ+写真」を不定期に更新しています。
   http://www.think-photo.net/mika/dedio/

絵はがきという窓から何が見えるのか――『絵はがきで見る日本近代』を書いて

富田昭次

  先日、東京・上野にある東京藝術大学大学美術館に足を運んだ。6月11日から開かれていた「柴田是真(ぜしん)展」を見るためである。  
  同展の開催は、やはり、ある美術展を見にいったときに気が付いた。「明治宮殿の天井画と写生帖」という副題の文字に引かれたのである。明治宮殿の天井画とは、千種之間の天井を華やかに彩った、直径1メートルを超える花丸の絵のこと。本書でも千種之間の絵はがきを収めただけに、その制作過程に関心があったのだ。
  とはいうものの、柴田の名は初めて聞いた。原稿を書くときに参考にした『宮城写真帖』や『明治宮殿の杉戸絵』には彼の名前が見当たらなかったからである。だから、同展は二重の意味で興味深かった。
  柴田は円山派の絵師として、また蒔絵師として活躍した。千種之間の天井画112枚(正確には下絵で、これをもとに京都で綴織が制作された)は、宮殿内装の総責任者・山高信離(のぶあきら)の依頼で制作されたという。同展では、長年、花鳥を描いてきた柴田の面目躍如の活躍ぶりが伝わってくるようであった。
  1枚の古い絵はがきが私の好奇心を刺激してくれる。この小さな紙片に興味を持つようになったのも、それが最大の理由だろうか。だから、本書を書いていて実に楽しかった。柴田と明治宮殿の天井画のことも、その絵はがきと出会えなかったら、展覧会に足を運ぶこともなかったかもしれない。
  本書は、歴史的に意味のある内容の絵はがきを時代に沿って並べ、本編は1ページに1点という形で並べたが、そういうルールでそろえると、お見せしたくてもお見せできなかった絵はがきが何点もあった。
  例えば、肉弾三勇士として自爆した3人の兵士の母親たちを写し出した絵はがきである。彼女たちは言うまでもなく、栄誉ある息子の殉死を喜ぶわけでもなく、悲痛な思いに暮れていた。また、函館の大火で焼け出され、着の身着のまま青森駅まで逃れてきた人々を写し出した絵はがきもあった。彼らの途方に暮れた表情が忘れられない。
  そうかと思うと、絵はがきを渉猟するなかで奇妙なものにも出会ったが、収まりどころが見つからず、紹介できなかった絵はがきもある。その1枚に、朝鮮総督府鉄道局発行のものがある。絵柄はこうだ。背負子(しょいこ)のようなものをそばに立てかけて、男が線路を枕に横たわっている。そして、次の一文が印刷されている。 「線路枕○みの仮 明けりゃ妻子の涙○ 皆さんどうか安全な所へお連れください 線路に仮睡死亡者は一ケ年七八人」
  判読できない文字は○としたが、およその見当はつくだろう。どうやら、線路上で仮眠をとっている間に、列車に轢かれ、命を落としてしまう人がいるというのである。いまでは考えられないことだが、なぜ、人々は線路上で仮眠をとっていたのだろう。
  その答えはまだ見出せないが、絵はがきはこのように庶民の暮らしが滲み出ているものも少なくない。近代に生きた人々の生活臭……それもまた絵はがきの魅力のひとつなのである。
  本書を上梓した前後、絵はがきに関する大著が相次いで刊行された。ひとつはブライアン・バークガフニ編著『華の長崎』(長崎文献社)、もうひとつは田中正明編『柳田國男の絵葉書』(晶文社)である。
  前者は、従来から見られるように、ひとつの都市の歴史などを絵はがきを通じてまとめたものだが、大判で、絵はがきも大きく収録されているので、見応えのある体裁に仕上がっている。
  一方の後者は、珍しい切り口で絵はがきを捉えている。民俗学者・柳田國男が旅行先から家族に宛てた絵はがき270枚を通じて、柳田の思考や言動、家族への思いを探ったものである。本書でわかったことだが、柳田も一時期、絵はがき収集に凝ったそうである。収集自体は途中でやめてしまったということだが、絵はがきへの関心が本書に結実したとも言えるのではないだろうか。
  小さな絵はがきの風景の向こうに何かが見える。ひとつのテーマで収集すれば、また一層大きな何かが見えてくる。絵はがきへの興味は尽きることがないようだ。

余白と作品――『児童虐待と動物虐待』を書いて

三島亜紀子

  まったくの雑談ではじめたいが、昔、この題にある「原稿の余白」の実物が好きだった。教科書や授業で配られるプリントに残された空白の白い部分が、なんだか好きだった。さて、何を書こうか、創造的な気分にさせる。嬉々として絵や文字で埋め尽くした。中学時代の英語の教科書のそれは、立派な「作品」となり、捨てるには忍びなくていまも保管してある。
  そんな私だったが、なかなか手が出せない部分があった。表紙だ。ツルツルして書きにくい。ところが、今回出版の運びとなった拙稿『児童虐待と動物虐待』には、すでに「作品」が存在している。同書の裏表紙には、編者として尽力してくださった、矢野未知生氏の「作品」が印字されているのだ。
  これをはじめて目にしたとき、なんとなく、自分のものでない居心地の悪さを感じた。虫歯を治療したあとに残る違和感のようなものである。   これには、裏話がある。矢野氏が書いてくださった草稿を書き替える機会が与えられていたものの、ボヤッとしていて私が原稿をメールで送付したのは、印刷に回したあとのことだったらしい。次の原稿がお蔵入りとなった。

幻のカバー裏原稿
「核家族化や都市化の進行によって急増している」とされる児童虐待を発見・予防するために、法整備や社会制度の設計が推進されている。この社会政策は、人々の<自由>を引き換えにしながら、私たちの社会を変容させつつある。それを、児童虐待や動物虐待の歴史的背景、「世代間で繰り返される虐待」「児童虐待や少年犯罪にリンクする動物虐待」などの語られ方、虐待と母性愛神話の関連性などから析出する。児童虐待/動物虐待とソーシャルワーカーの関係を考察して、現在のケアのあり方や、専門家によるリスクコントロールを称揚する現代社会の心性を解読する。

  あまり変わらないが、本の裏表紙と比べると、微妙に違うことにお気づきかと思う。矢野氏の文章を尊重しながら、私の考えを入れたつもりだった。違和感があった一方で、矢野氏が私の文を読み込んでくださり、彼なりの理解をしてくださっていることに対してありがたいとも思っていた。だから、この原稿がカバー裏に載らないことがわかったときも、あーあ、と思ったぐらいだった。
  それより、カバーの裏側にある文章とカバーの内側にある活字の集積に違いが存在することに対して、ある種のおもしろさを感じた。そういえば、これまで、私あるいは私が書き出したものについての「作品」を目にすることがなかった。そして、私と私が書き出したものに関する「作品」の間に少し違いがある。母が私をモデルに(似ていない)人物画を描き、それが作品展で展示されるさまを眺めていたときのことが思い浮かんだ。
  受け入れられるにしろ受け入れられないにしろ、私の手を離れ、私の知らないところで、いろんなふうに理解される。それが流通するということなのかな、ともぼんやりと考えた。
  でも、「余白」とはいえ、しつこくお蔵入り原稿を載せているのは、やはり気がかりだからだろう。というのも、「はじめに」にも書いたように、題名そのものが誤解を招く恐れがあるからだ。単なる興味本位なんじゃないかと。そして、その立場も、あいまいと受け止める人もいるだろうなという懸念もあった。また「社会福祉学の人間」か、それとも「社会学の人間」か、というような不毛な所在に関する名乗りが要求されるだろうなという予想もあった。
  エクリチュールうんぬんの話じゃないが、書かれたものと現実との間にはずれがある。また書く人は読む人が自分なりに解釈するだろうことを折り込んで書く。これを言い換えると、書かれたものを読む人には、自分なりに解釈する自由があるといえるのかもしれない。ああ、私はプラトンのように潔くハラをすえられるのだろうかと。
  今日は、最後の校正原稿をファクスで出版社に送った日だ。その仕事自体、それほど時間はかからなかったが、それ以外に何をする気にもならず、前に読んだことのあるマンガを読んで無駄に過ごした。そしておもむろに本稿を書き始めたのだが、ひとしきり書き終えてみると、この「余白」には、不安な気持ちが吐露されている。これが出版日を前にした私の気持ちなのだろう。もちろん、そこには、一仕事終えた喜びもあるが。