南田勝也
『ロックミュージックの社会学』のリマスターに注力しているとき、つくづく自分は「三」という数字に惹かれているのだなと感じた。多少なりとも意識はしていたが、『決定版』のために針をも通さぬよう論理を再点検しているなかで、そう自覚した。
私がたびたび用いてきたロック音楽文化の「三つの指標」は、より反体制的な立場へ接近しようとするアウトサイド指標、より非日常的な領域へ踏み出そうとするアート指標、そしてバカげたことをあえて成し遂げようとするエンターテインメント指標だ。この三つを頂点とする「三角形」を想定し、そのあいだに張り渡される緊張関係を一つの「構造」として考えてきた。難解な芸術とわかりやすい娯楽、大衆的広がりとコアな共同体、政治的実践と芸術的実践といった対立が、互いに引き寄せ合い、ときに反発しあう。その運動のなかで文化はかたちを変え続ける。私はその空間を「ロック場」と呼び、ロックの本質とは固定的な実体ではなく、差異の関係のなかでそのつど立ち現れるものだと捉えてきた。
しかし、なぜ「三」なのか。この問いは以前にも考えたことがあるのだが、あらためて自問してみると、いくつかの理由が思い当たる。文化研究の系譜において、文化を複数の領域に分節する発想に親しんできたことは確かだし、鶴見俊輔やフィリップ・タグ、サイモン・フリスらが示してきた三区分(伝統/大衆/民俗という文化類型)の視点も背景にあるだろう。だがそれ以上に、社会科学一般の思考習慣との対比が、自分の志向を浮き彫りにしているように思う。
社会学は伝統的に二分法を好む。フェルディナント・テンニースの「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」、エミール・デュルケムの「機械的連帯から有機的連帯へ」など、近代社会の成立を説明する際には対照的な類型が提示されてきた。変化を論じるときも、近代化や都市化といった「○○化」はビフォアとアフターを前提とする。さらに縦軸と横軸を組み合わせれば四象限が得られ、理念型の整理や調査設計において有効に機能する。ロバート・K・マートンの顕在的機能と潜在的機能、順機能と逆機能の区別、タルコット・パーソンズのAGIL図式などを思い起こせば、社会学がいかに四角形的思考に親和的であるかは明らかであり、私自身も長くこうした図式の恩恵を受けてきた。
それに比べると、三角形はやや哲学的であり、美学的である。社会学の三大始祖のうちもっとも哲学に近かったゲオルク・ジンメルが指摘したように、二者関係に第三者が加わると相互作用の性質は質的に変化する。仲裁者、調停者、あるいは観察者としての第三者が介入することで、関係は単純な対立を超えた複雑さを帯びる。また、大澤真幸が論じた「第三者の審級」のように、実在する個人を超えた超越的視点を想定する議論もある。こうした発想は、数量的な整理だけでは捉えきれない社会的経験の層を示している。
さらに美学の領域に目を向ければ、テオドール・アドルノの否定弁証法が想起される。ヘーゲル的な止揚の運動とは異なり、矛盾を安易に解消することなく、その非同一性にとどまろうとする態度である。音楽作品に向き合うとき、私たちはしばしば合理的な説明を拒む何かに出合う。理性だけでなく、未知のものを未知のまま受け取る感受性が求められる。そこでは二項対立に収まりきらない第三の契機が不可欠になる。だからこそ私は、ロックという美的表現を考えるときには、三角形に立ち返ってしまう。
音楽社会学が音楽そのものを主題とすべきか、それとも社会的文脈を重視すべきかという問いは古くから繰り返されてきた。しかし実際には、作品と聴き手の関係、音楽を媒介としたコミュニケーション、さらには感情や記憶のはたらきといった問題を考えるとき、哲学や美学の視座を取り込まずにはいられない。そして、その複雑な関係を見通すためのモデルが必要になる。
振り返れば、私が三角形にこだわってきたのは、世界を単純な対立ではなく、複数の力が拮抗しつつ動き続ける場として捉えたかったからなのだろう。三つの点を結ぶことで生まれる微妙な歪みや緊張は、文化の運動性を直感的に示してくれる。三角形は決して安定した図形ではない。わずかな力の変化で形を変え、内部のバランスを揺らし続ける。その可変性こそが、私にとって思考の足場となってきたのである。
――と、そんなことを考えながら、先日刊行された『音楽史事典』(日本音楽学会編、丸善出版)の自分の担当項目を確認していると、「日本のロック」の項で私は、その始祖としてジャックス(1967-69年)、はっぴいえんど(1969-72年)、フラワートラヴェリンバンド(1970-73年)の三つのバンドを挙げていた。こんなところにまで……と、思わず苦笑してしまった。どうやら、この癖は当分抜けそうにない。
『ロックミュージックの社会学 決定版』試し読み