新ヶ江章友
本書を書き上げたあと、様々な不安が心をよぎった。その不安はいまも続いている。調査対象者とのラポール関係を築くのが難しかったと書いたが、あのようなことを書いてもよかったのだろうか。このようなことを考え始めると、本が出版できたことの喜びとともに、憂鬱な気持ちが何度も心を去来していった。
私は2006年に、「HIV感染不安の身体――日本における「男性同性愛者」の主体化の批判的検討」という論文を筑波大学の紀要に書いた。この内容は大幅に改稿して、本書の第3章として所収している。この論文は筑波大学附属図書館のウェブサイトからダウンロードが可能で誰でも読むことができるが、これ自体が、いわゆるエイズの活動をおこなっている「ゲイ・コミュニティ」のなかで物議を醸してしまったようなのである。この論文は、日本の「ゲイ・コミュニティ」を批判したものとしてゲイ・アクティビストやエイズ・アクティビストたちに受け入れられてしまった。書いた文章が一旦筆者の手を離れると、それを読んでどのように解釈するのかは読者に委ねられる。読者による解釈の意図がどのようなものだったかはまた別の問題として、私の論文が「ゲイ・コミュニティ」に対して何らかの刺激を与えたことで、私は今後「ゲイ・コミュニティ」とどのように関わっていくことができるのかを常に思い悩みながら現在に至っている。
私が書いた2006年の論文は、読み方によってはたしかに「ゲイ・コミュニティ」批判ととらえられかねない側面もある。しかし私があの論文で述べたかったことは、特定の個人やコミュニティを批判することではなかった。2000年代当時、世界だけではなく日本の「ゲイ」の間で、HIV/AIDSをめぐる公衆衛生施策を通して一体何が起ころうとしていたのかを、その活動に巻き込まれながらも距離をとるという人類学的「反省」の視点から現場を見ることが、そのときとても重要であるように感じたのだ。その現場で一体何が起こっているのか――そのことを言語化し、自分なりに納得したいと思った。その成果が、本書『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』だと言える。
日本の「ゲイ」とエイズをめぐって、どのような知が形成されていったのか。そのうえで、MSM(Men who have Sex with Men、男性と性行為をする男性)が「ゲイ」という主体としてどのように立ち上がっていくのか。本書では、この点を執拗に追い求めている。
科学的知識が決して価値中立的で客観的なものではなく、研究者たちが生きる研究室のなかの日常的実践の延長線上で生成されるという、科学人類学におけるいわゆる「実験室研究」の見解は、MSMのHIV/AIDS感染リスク行動の調査研究にもあてはまる。純粋科学としての数学や物理学などの知識生成とは異なり、社会とより密接なつながりをもった疫学の知識生成では、その政治性がより顕在化してくると言えるだろう。厚生労働省の研究費の配分の仕方、アンケートを収集するための「ゲイ・コミュニティ」と研究者との連携のあり方、誰が味方で誰が敵かなど、そのような人間関係(=権力関係)のもとで、客観的だと言われている科学的知識(この場合、疫学的知識)はより政治性を帯びながら生成されてくる。しかし本書で描かれていることは、日本の「ゲイ」とHIV/AIDS研究をめぐる様々な実践のうちの、ほんの氷山の一角を示したにすぎない。その背後には、実はもっと多様な権力をめぐるドラマが隠れているのだ。
本書の大きなテーマの一つになっているのが、「ゲイ」というアイデンティティと国家との関係である。私たちは国家を、人間の生き方や行動を統治していく一つの暴力機構としてとらえることもできる。その国家との結び付きを強めながらエイズ施策を展開していくという「ゲイ・コミュニティ」の構図そのものが、一体何を意味するのか。1980年代の雑誌「薔薇族」(第二書房)は、HIV/AIDSの流行にともなって日本の「ホモ」たちに批判の目が向かないよう、読者たちにおとなしくしようと呼びかけていた。だが弱者の立場に置かれたマイノリティが国家の政策と連携し始めるとき、そこで一体何が起こるのだろうか。社会学者の森山至貴は『「ゲイコミュニティ」の社会学』(勁草書房)で、「ゲイコミュニティ」についていけなさという重要な問題提起をおこなっている。しかし私にとって、「ゲイ・コミュニティ」は何か不安なものに見えてくる。ここで言う「ゲイ・コミュニティ」とは、東京・新宿二丁目などの繁華街を指しているのではない。私が言いたいのは、同性愛者同士のつながりそのものに不安を感じるのではなく、「ゲイ・コミュニティ」をコミュニティとして語ろうとする人々の語り方そのものに、何か不安なものを感じるのである。
日本の「ゲイ」のあり方を国家との関係から分析するという試みは、まだ端緒についたばかりだ。海外では同性婚をめぐる法の整備が進んでいるが、日本では今後どうなるのだろうか。本書に示したとおり、1980年代のエイズ問題に対してこの国がどのような反応を示したのかを見ればわかるが、同性婚をめぐる問題に対しても、「対岸の火事」としてすませるわけにはいかない日がくるのではないか。そのとき、生殖医療をめぐって国内でくすぶっている様々な問題が、今度は同性婚と接続されながら議論されることになるのかもしれない。この問題は、文化人類学のなかで長年議論されてきた親族研究に、新たな一ページを刻んでいくことにもなるだろう。研究だけではなく日常生活でも、同性婚は親族や家族の意味そのものを大きく書き換えていく可能性を秘めている。そのとき、この日本という国自体が、そして日本の「ゲイ」自身が、この問題に対してどのような反応を示すのだろうか。日本で同性愛の生の様式が真の意味で試されるのは、おそらくはこれからだろうと私自身は考えている。