本書は、ナショナリズムの要請によって創出された第二次世界大戦時の女性兵士に焦点をあてている。アメリカは「同時多発テロ」を契機に、いま、アフガニスタンのタリバンとの戦争につき進んでいる。この「新しい戦争」と呼ばれるアフガンでの戦争は、まさしくテロ勃発を契機にナショナリズムがどう高揚していくかをきれいに描いてみせている。星条旗があちこちにたなびき、ブッシュ大統領の支持率は上昇カーブを描いた。現段階で、有効な抑止力になるものを世界は想定できない。
太平洋戦争時の日本での女性兵士創出は、戦局に応じて揺れ動く「戦略なき戦略」がもたらしたものと私は結論づけている。戦争では、誰が「味方」で誰が「敵」かの二分法による単純化の力学が作用するが、アメリカの状況はまさにこの構図にはまっており、アメリカから自分の側につくか敵の側につくかとせめよられ、湾岸戦争でのトラウマに引きずられるかたちで、日本は自衛隊の海外派兵に道をつけようとしている。この対応をみていると、戦後50年以上を経ているのに、「戦略なき戦略」を再びたどろうとしている経緯に衝撃を受ける。あれよあれよといううちに自衛隊の武器使用を許容する国外派兵に向けた法案作りがなしくずし的に進行していくプロセスに、1945年の敗戦間近に、同じくなしくずし的に法制化されていった民兵構想との類似がみてとれる。
戦時下日本の高等女学校での「男まさり」の教練の実態を、聞き取りなどを通じて知るにつれ、日本女性が兵士的身体や兵士的精神を受容することを強く期待されていたことが鮮明にとらえられた。他方、第二次世界大戦時のアメリカには、立派な軍服を着用しながらも兵士性の受容を期待されずに事務職などをになった女性兵士が存在した。このみごとなコントラストに対する「なぜ」の問いが、本書を書く動機の一つとなっている。戦時下日本の高女の教練では、文部省の指導を超えて執銃訓練や射撃訓練が組み込まれる事態を生み出し、そこでは廊下は歩くものではなく、兵卒のように小走りに走ることが日常化する高女も登場する。ことにアメリカ軍の上陸拠点とされた海岸地域や外地の高女の教練は、とりわけ「過激」である。北京のある高女の記録によれば、高女生の閲兵分列行進は玄人はだしであると称賛され、銃剣術ではすばやく抜かなければ筋縮のために銃剣が抜けなくなると指導され、突く動作と抜く動作の繰り返しで足のおやゆびに負担がかかり、運動靴の指先部分に穴があいてしまうほどだったという。日本の戦局が破局へと向かうなかで登場する民兵構想に違和感をいだ かせない素地として、時代の潮流を具現しているともいえる女子教育の現場での教育実践が位置づけられる。
戦時の女性兵士創出は、ナショナリズムやジェンダー、国家と暴力など、実に多くの問題を秘めながら、光があてられてこなかったテーマである。だが、日本・ソ連・アメリカ三国の第二次世界大戦時の女性兵士創出を比較すると、思いのほか対照的な類型化が導き出せる。できるかぎりの濃厚な情報提供、奥行きのあるテーマ、そして錯綜する情況の提示によって、本書が読者に多様な問題をなげかけうることを願っている。今後、このテーマはますます重要な領域になっていくだろう。なぜなら、女性兵士志願者数は各国で上昇し、そして同時に、徴兵対象になる男性の兵役拒否がますます増大することは明らかであるからだ。軍隊に入ってくる女と出ていく男の構図は、今後ますます鮮明になるだろう。「IBMを打ち上げるのに腕力はいらない」といわれてきたが、まさにハイテク機器が完備した軍隊は、遠くからのミサイル操作を可能とし「きれいな戦争」を可能としながら、それでもやはり地上戦では生命を犠牲とする覚悟を要請する特殊部隊の活躍が期待される。だが、今後、ナショナリズムにとって英雄であるこうした「国家的使命」を背負った戦士が男性なのか女性なのかは問題 にならなくなるのだろうか、それとも男の最後の砦として生命の危険を伴う地上戦領 域は男性領域として確保されるのだろうか。女性が戦闘領域などに進出することを 「前進」と呼んでいいのかとの問いが、本書に通底する疑問だ。違和感がついてまわる。
本書は第二次世界大戦期の総力戦と女性兵士を比較社会学の観点からあつかっている。社会学と銘打っている以上、時空を違えても一定の条件が近似していれば適用できる理論を含み持つと自負している。社会や国家を考える一つの糸口になってくれれば幸いである。