第10回 ヴィリー・ブルメスター(Willy Burmester、1869-1933、ドイツ)

平林直哉(音楽評論家。著書に『フルトヴェングラーを追って』〔青弓社〕など多数)

パガニーニの再来と謳われた逸材

 未曾有の大災害である関東大震災が起こった1923年(大正12年)の4月、世界漫遊の途次、ドイツのヴァイオリニスト、ヴィリー・ブルメスターがピアニストのヴィリー・バルダスを伴って日本の土を踏んだ。彼らは約4カ月間日本に滞在し、東京、大阪、京都、神戸、広島などを訪れている。ほぼ同時期にはフリッツ・クライスラーも来日していた。この2人のヴァイオリニストは5月頃、大震災の前触れといわれる地震に遭遇したが(関東大震災が起こったとき、すでに2人は日本を去っていた)、ともに人生初の地震体験だったという。リサイタルは、クライスラーのほうは大入り満員だったが、ブルメスターのそれは空席が目立った。クライスラーのレコードはビクターに多くあったが、これらは当時日本では非常に有名だった。一方、ブルメスターのレコードはほとんど流通しておらず、それでチケットの売り上げに差がついたらしい。かくしてブルメスターは「今度日本に来るときには、ビクター・レコードに録音してからにしよう」とつぶやいたらしいが、2度目の来日は、ついに果たされることはなかった。
 ブルメスターは1869年、ドイツのハンブルクに生まれた。父の手ほどきでヴァイオリンを始め、7歳のときに公の場で演奏して注目を集める。81年、巨匠ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムに認められ、12歳のときにベルリン高等音楽院に入学。しかし、その3年後(4年後とする説もある)、ヨアヒムは「ヴァイオリン以外の科目は全くだめ」として、ブルメスターを破門したとされる。87年、チャイコフスキーがハンブルクを訪れた際、ブルメスターがチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』を弾くと、チャイコフスキー自身から絶賛された。この成功がきっかけで、ブルメスターは88年と92年にロシアに招かれている。ハンス・フォン・ビューローとも交遊関係をもち、ヘルシンキ・フィルハーモニーのコンサートマスター(1892-94年)も務めた。94年11月、ベルリンでデビューし、注目を集める。ちなみに、当時のベルリンではヨアヒムやパブロ・デ・サラサーテ、レオポルト・アウアーなど、伝説のヴァイオリニストたちがしのぎを削っていた。1923年に日本を訪れてはいるものの、それ以降の活動状況についてはほとんど何も知られていない。33年、故郷ハンブルクで死去。
 ブルメスターは来日した際、“パガニーニの再来”と宣伝されていた。実際、ブルメスターは節目でパガニーニを演奏していたようだが、幸か不幸か、パガニーニの録音は残っていない。後年、ブルメスターはパガニーニ弾きのイメージを変えようとしたが、うまくいかなかったとされる。また、特にベルリンではヨアヒムを意識し、ドイツ物はなるべく避けていたともいわれる。晩年は病気説もあるが、いずれにせよ、最後の10年間はそれほど活発に活動していなかったようだ。
 2018年12月、東京・神田神保町のレコード社・富士レコード社が創業88年を記念して、CD『ヴィリー・ブルメスター全録音集』(F78-2)を発売した。ブルメスターの全録音とはいえ、曲数は13、SP盤14面分である。内容は以下のとおり。

バッハ「アリア」、同「ガヴォット」、ラモー「ガヴォット」、デュセク「メヌエット」、ヘンデル「アリオーソ」、同「メヌエット」、同「サラバンド」、シンディング「アンダンテ・レリジオーソ」(以上、1909年9月27日、ベルリン、グラモフォン)

フンメル「ワルツ」、ブルメスター「ロココ」(以上、1923年、日本、ニットーレコード)

ラモー「ガヴォット」、メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲ホ短調より第2楽章」(以上、1932年1月、デンマーク、エディソン・ベル)

 わずかこれだけの枚数なのに、過去に全録音を収録した復刻盤が存在しなかったのには理由がある。それは、特に日本録音とデンマーク録音が中古市場では極めて稀少であること。数が少ないということは、すなわち値が張るということ。日本録音は一時50万円ともいわれたが、デンマーク録音もそれと似たり寄ったりであるらしい。そんなわけなので、全点持っているコレクターは世界的に見てもごく少数であるため、上記の復刻CDも複数のコレクターがSP盤を持ち寄って完成したという。
 ブルメスターの音はピンと張っていて、透明感がある。しかも、音色は高貴な香りを漂わせ、上質な甘さもある。パガニーニ弾きといわれただけあって、切れ味はあのブロニスラフ・フーベルマンを思わせるし、ゲオルク・クーレンカンプのような男の哀愁みたいなものも感じさせる。唯一、ラモーの「ガヴォット」は新旧で聴き比べられるが、全体の解釈の基本は全く変わっていない。両方とも、とても魅惑的な演奏である。デンマーク録音は亡くなる前年の電気録音であり、これがブルメスターの実際の音に最も近いと思われるのだが、一方では1909年の録音にこれだけの情報量があるのかと、改めて驚いた。
 ところで、ブルメスターは来日の際、当時大阪に本社があったニットーレコード(日東蓄音器)に2曲、録音している。わずか2曲ではあるが、『ロココ』は唯一の自作自演として貴重である。来日アーティストの日本録音としては、テノールのアドルフォ・サルコリがヴェルディの歌劇『リゴレット』からの「女心の歌」を1912年に収録した例があるが(ロームミュージックファンデーションの『SP名盤復刻選集Ⅰ』に収録)、器楽奏者としてはこのブルメスターが最初ではないだろうか。当時はもちろん、マイクによる収録ではなくラッパ吹き込み(アコースティック録音)である。
 実は、私はブルメスターの全録音集のCD解説を依頼されたのだが、その際、インターネット上に流布している録音データの根拠を探し求めたのである。つまり、収録は4月とか、場所は大阪であるとか書かれているが、知る範囲では明確な根拠を示したものはひとつもない。
 当時の録音データがある可能性が最も高いと思われたのは、かつてニットーレコードが発売していた月刊誌「ニットータイムス」だった。調べた結果、この雑誌を最も多く所蔵していたのは大阪の国立文楽劇場の図書閲覧室と、京都市立芸術大学の日本伝統音楽研究センターだった。しかし双方が歯抜けだったため、私は2日かけて2カ所を訪ねたのである。
 その結果、録音データは一切見つからなかったが、以下の2点だけは確認できた。
①ブルメスターのレコードは1923年の「10月売り出し」である。
②予定では数曲以上録音するはずだったが、録音技師の不手際で、2曲しか商品化できなかった。
 ①「ニットータイムス」1923年10月号には「10月売り出し」の広告もあるが、同じ号にはブルメスターのレコードを買って感激した読者の投稿があるので、SP盤は8月末か9月の初め頃には店頭に出ていたと推測される。
 ②「ニットータイムス」1927年5月号の「吹込のEpisode」という記事のなかで、何度やってもうまくいかず、会社は莫大な吹き込み料金をフイにしたと記されている。
 録音場所は、可能性としては大阪本社の吹き込み所(録音スタジオ)が最も高いだろう。録音後、ただちに敷地内の工場でプレスできたからである。しかし、当時の「ニットータイムス」を見ると、東京にも吹き込み所はあったし(九段下にあったが、2012年にビルが解体された)、さらに意外なことには、ニットーレコードはあちこちに臨時吹き込み所を設置して録音していたのである。当時、きちんと調整されたピアノがあちこちにあるとも思えないので、ブルメスターの録音だって彼らが滞在していたホテルだったかもしれないし、どこかの練習室のような場所だったことも考えられる。
 大物アーティストの来日録音はしばしば雑誌の記事になっていたので、ブルメスターの録音についても、同様の記事が見つかれば解決できたかもしれない。ということで、インターネット上に記されているブルメスターの録音データは、1923年以外、全く信用がないものだと念を押しておきたい。なお、ブルメスターは『芸術家生活50年』という自伝(ドイツ語、英訳もあるらしい)を著していて、そのなかには日本滞在の章があるのだが、残念ながら日本録音についての記述は全くない。
 余話。自伝によると、ブルメスターは日本滞在後、クライスラーと同じ船に乗ってアメリカに渡ったという。

 

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