柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)
最初期からあふれる哀愁
山下智久との最初の出会いは、いまでも忘れられない。それは、まだアイドルとしても駆け出しだった15歳の山Pが、役者としての知名度を一気に上げ、その存在感を強く印象づけたテレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(TBS系、2000年。以下、『IWGP』)だ。そこで演じた、いつもスケッチブックを開いて絵を描いている素朴な専門学校生のシュンが、ぼくの胸を妙にとらえた。長瀬智也演じる主人公を中心とするヤンチャな仲間のなかで、ひとり口数が少なくシャイで内気で、メンバーの端っこにそっといて、人のあとをついていく控えめな姿は文字どおり脇役らしかったが、そのオーラは異彩を放って鮮烈だった。
幼さが残るフェイスはかわいらしく、その甘さも、マイルドさを絶妙にブレンドして個性的だった。だが、なんといっても最大の魅力は、彼のたたずまいからじんわりと伝わってくる「哀愁感」だった。本音を話せる友達もなく、自分の居場所もない。そんな彼が池袋の公園で出会った主人公たちに「仲間に入れてくれる?」と願い出て、気づけば陽キャのメンバーに自然と交じっていく。作品を見返してみると、そんなシュンの心情については驚くほど説明がないことに思い当たる。だがそれが必要ないほど、あてどない孤独と隠した悲哀の心のうちを、たたずまいでもって山Pは十分に表現してみせた。どこか独特の「陰」や「憂い」を含む、そんな山Pの長所が役のうえで本領発揮されるのはまだ先のことだが、役者人生の本格的なスタートともいうべきこの時点ですでに、彼の特性は芽生え、力をみせていた。
時代とリンクしながら
作中の不良たちは、どこにぶつけていいかわからない若者特有の鬱憤や持て余したエネルギーを、ギャングという破天荒な生き方に転化することで生きている。だがシュンは、そんな彼らの友達になっても、振り切って同じようには生きられない。その優しさとピュアさあふれる不器用さ、そしてそこにうっすらと漂う独特の悲哀は、彼個人の生き方や性格、置かれた環境を超えて、あの時代の空気感にふれている気配があって目が離せなかった。
物語の舞台である2000年には、社会もカルチャーも新世紀を前に、まさに転換期を迎えていた。1990年代から2000年代へと移りゆくその年は、J-POPやギャル文化などが勢いを増し、文化的にはポップでポジティブな雰囲気が加速した。その一方で、前年ブームになった「ノストラダムスの大予言」に象徴される終末観や、バブル崩壊後の不況など、負のムードも依然として尾を引いて残存していて、社会全体に「明/暗」「陽/陰」が混濁したようなモヤがかかった時代だった。
そのなかで漂う、どことない閉塞感、つかみどころがない停滞感……。1990年代ほどではないが、いや、それよりも曖昧で不明瞭になりつつあるからこそ、むしろいっそう厄介になったその重圧が、若者たち一人ひとりを覆っていた。山P演じるシュンはその象徴のような人物で、暗澹とした「時代の重し」を喧騒や暴力へと置き換えることができず、ひたすら自分のなかに閉じ込めて抱え、都会の街に置き去りにされながら、もがき生きるようで哀切に映った。シュンがまとうおぼろげな「哀愁」は、生身の山下智久が元来もつ個性の反映でもある。けれども、それが時代の雰囲気とリンクし、当時の平凡で等身大の若者(どちらかといえばオタク寄り)の実像をリアルにつかんでいたのは、若き山下智久の役者力のたまもので、彼の役者人生の原点として、しかと評価し記録されるべきところである。
尾崎豊の影をみる
この作品の放送時、ぼくは大学3年にさしかかるころだった。進学にともなって上京して2年。東京にもようやく慣れ、自分の居場所や少ない友人をかろうじて見つけ出しつつあった。だがその半面で、なんともいえない寂しさも自覚するようになっていて、どちらかといえば社交的で活発ながら、不器用な性格のため、そうした本音を誰かに話すことも、また紛らわす方法や解決策も見いだせず、どこかスッキリしない日々を送っていた感触も強かった。
そんなぼくに、山P演じるシュンは鋭く刺さった。
この文章のために当時の手帳を掘り起こしたところ、ドラマの感想がペンで走り書きしてあるのを見つけた。そこには「山下智久のシュンは、風貌も年齢も職種も全く違うが、どこか尾崎豊の影がある。平成の尾崎だと思う」とあって、われながらなかなか面白いことを書いているなと読みながら、当時考えていたことが思い出されてきた。
尾崎豊は、若者の孤独や葛藤や傷を「冷たい都会の街」に重ねながら、悲痛な叫びとして歌い続けた伝説のミュージシャンだ。彼が歌った、街の喧騒や群衆のなかでたたずむちっぽけで寂しげな青年は、シュンの姿とどこか重なった。事実、シュンが求めたのは、単なる友人でも恋人でもなく「仲間」。自分がこの世界に存在してもいいんだ、そう思わせてくれる人。あるいは、自分が生きる意味を与えてくれる人間関係で、それは「愛」と言い換えてもいいものだった。それは、まさに尾崎が追求したものにほかならない。器用ではないけれど、純粋なまでにまっすぐに、勇気をもって、自分とは全く違う不良グループという世界に飛び込んで、愛ある絆を都会の街に求めた。
同じ東京の真ん中、同じ都会の空の下で寂寞としていたぼくは、そんなシュンが他人事とは思えず、とにかくいとおしく、大好きだった。それだけに、物語が進んでシュンが亡くなったときは、どうしていいかわからなくて狼狽した。そんな記憶が強くよみがえる。
圧倒的な死のシーン
もう昔の作品だけに、前後の細かいストーリーは忘れてしまっている人もいるだろう。しかし、シュンの死が脳裏に色濃く焼き付いているのはぼくだけではないはずだ。それは、作品の真のクライマックスといっても過言ではないほど、どこか魅惑的で、インパクトがあった。ギャングの抗争に巻き込まれ、犠牲になってシュンは殺されてしまう。その悲しみももちろん大きかったが、なんといっても胸を突き刺して衝撃的だったのは、その死(体)の圧倒的な美しさである。
主人公が仲間たちのたまり場にあるロッカーを殴ると、開いた扉からおもむろに、手足を拘束されたシュンの死体が、無数の黒い羽根とともに静かに倒れてくる。蒼白な顔と黒い羽根、体を拘束する白い袋と黒い布。そのコントラストのなかで、シュンは死んだというより、まるで永久の眠りに就いたようで、神秘的な威光を放って圧巻だった。作中にはケンカ、傷害、殺人……、数々のバイオレンスが散りばめられているが、そのすべてを自分の肉体と死でもって代わりに償い、昇華し、浄化するようにも映って、それがさらに胸を苦しくした。
その姿を見ながら、ストーリーの流れうんぬんとは別に――つまり、シュンという人物への喪失の感情とは別に、そのもっと奥底から湧いて出てくるかたちで――、悲しさとは違う涙がすっと頬に伝ったのを鮮明に思い出す。少なくとも当時のぼくは、それまでほかのどんな作品や物語でも、そうした涙を流したことはなく、初めての経験だった。
自分で形容するのは恥ずかしいが、物語によって動かされる感情とは切り離された、妙に静かで純な、心というより「魂」が泣いて、「魂」から流れる涙。そんなふうに感じられるものが目から流れた。場面を観た心境としては、ひたすら悲しくてやり切れない。でも、そんな次元ではない、感情という尺度では到底説明できない心の揺れのようなものが、命のはかなさや、愛に飢えた都会の若者の救いがたさと一緒になって襲ってきて、どうしようもなかった。目を閉じて、体を倒す。ただそれだけのアクションであるにもかかわらず、そこまでの感慨をもたらす山Pの芝居に、言葉がなかった。
シュンが優しい人間であることはストーリーから十分わかっていたが、山Pの死の演技は、どれほど彼の心が美しかったかを余すところなく伝えて見事だった。心が清くピュアな人物なればこそ、その死も途方もなく必然的に美しい。その事実、いや真実を目の当たりにして、犯罪や乱闘にまみれた物語のなかで、シュンが心をけがすことなく、ひたすら仲間の「愛」を求め、その「愛」に囲まれ支えられた短い人生だったことを思うと、また胸がギュッとなった。そして、山Pは「美しい心」の持ち主を演じさせると一級であることが、役者としての彼を見るのは初めてながら、強く確信できた。
こうしたもろもろの想いや発見を含め、若いぼくのなかで、血の気が引いたシュンの蒼白の顔は、色白が特徴的だった尾崎豊の面影にも接続しながら、特別な出来事として深く胸に刻み込まれたのだった。
開花する「美」の表現力
このあと、山Pは年齢と作品を重ねるたび、その外貌に磨きがかかって、そこに向けた賛美や評価はうなぎ上りになっていった。しかし、そうした外見の美しさの魅力はもちろんだが、彼のなかで真に優れていて、また評価すべき点は、何かを――とりわけ対極の位置にある「怒り」や「悲しみ」だったり、「醜さ」や「悪」といったものを、極上の「美」でかたどってみせる、そしてそこに、ひと言では形容しがたい深遠な感銘を作り出す表現力だと思った。山P自身も美しいが、美を芝居のエッセンスにしうる。それを、役者・山下智久の本格的な幕開けの記念碑であるシュン役のときから、強く感じてきた。
そんな『IWGP』からちょうど25年がたち、山Pが直近でみせた成果である配信ドラマ『神の雫/Drops of God』シーズン2(Hulu/Apple TV+、2026年)でも、その魅力はふんだんにあふれていた。(詳しいことは別の回に譲るが)例えば最終話で、山P演じる一青とカミーユが寄り添って海を眺めるシーン。海も空も、2人の前に広がる世界は、ほの暗くくすんで重たい。2人の心は極限まで傷つき疲弊し、孤独と絶望に満ちて、そのさまは「精神の死」と呼んでも大げさではない。だがその暗澹と絶望さえも美しく見える。絶句するほど、どこまでも美しい。そう、決して美しくなどないはずなのに、とびきり崇高に映える。それゆえ、観る側を襲う悲痛は凄まじい。
このシーンに限らず、そんな光景が『神の雫』には幾度もあった。その静謐な「美しい絶望」の2人に息を飲み、何度もそれを見返しては余韻にひたっていると、内容も状況もぜんぜん異なるが、あるときふと、シュンの死の場面が脳裏をかすめた。
まっすぐな山Pへ
『IWGP』から、早いもので四半世紀近い月日がたった。いまでは国内だけでなくグローバルに評価される一流の俳優になった山Pは、芝居の幅も格段に広がり、スキルも増した。だが、ただ拡張しバラエティーに富んだ進化を遂げたというより、原点である『IWGP』から最新作『神の雫』シーズン2まで、持ち前の個性や特質を基軸にしかと据えながら、腕前を磨いてきたという印象が強くある。そんなまっすぐな姿勢の山下智久が好きだ。そして、その歩み方と軌跡を、ドラマのなかの彼に出会ったあの日にさかのぼって想うと、なんとも誇らしくさえ思えてくる。
今日、4月9日で、山下智久は41歳の誕生日を迎えた。『IWGP』でいうと、年長の主要人物・横山署長を演じた、当時の渡辺謙(1959年生まれ)を越える年齢だ。劇中で最年少の人物だった山Pが、である。そう考えると、この間の時間、そこにあった著しい成長と飛躍もいっそう感慨深い。
そして毎年、この日に強く想う。原点から延びる「一本道」を地道に、でも果敢に歩み続ける山Pを、これからも変わりなく見せてほしいと。そして、ぼくもそれをまっすぐ追い続けていきたいと。
筆者X:https://x.com/prince9093
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