第6回 『SUMMER NUDE』から12度目の夏【前篇】

柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)

 あの日、走った衝撃は鮮烈だった。
 連載の最初にふれたように、早くから山下智久のドラマには思い入れがあった。けれど、関心はテレビドラマを中心にとどまっていた感じだった。それが、山Pを「アイドル」と単にくくって片づけられない。かといって「役者」として割り切るのもまた違う。2つの顔が、絶妙に重なって相互作用しながら、ほかにない山下智久という表現者は存立している。……そのことに本気で気づかされ、これをなんとなくわかった気にしておけない。山Pの何が、どう心に響いてくるのか。言葉にしなければ、言葉にしたいと強く思った。そのいちばんのきっかけになったのはテレビドラマ『SUMMER NUDE』(フジテレビ系、2013年)だ。
 放送前の予告から、久々の月9らしいラブストーリーの予感にあふれて、作品への期待感は高かった。しかし正直、「山P×夏」の相性のよさ、それがかけあわせられた爆発力を少々甘くみていた。
「3度目の夏が始まろうとしていた。彼女がいなくなって3度目の夏」のナレーションで始まる第1話冒頭。山P演じる主人公・朝日が、ショルダーバッグを斜めにかけ、白シャツに七分丈のパンツ姿で、海岸線をロードバイクで颯爽と走っていく。シンプルで短いシーンだが、それだけで物語は夏らしいみずみずしさにあふれ、見ていると海風を感じ、暑さを吹き飛ばす夏特有のすがすがしい空気が立ち上る。そして、誰もが一度は感じたことのある「夏のはじまり」のあのワクワクした高鳴りが瞬時に伝わってきた。それはまるで、山Pが自転車に乗せて「夏」を運んでくるようで、のっけから釘づけになった。
 その後、シーンをいくつか挟んで、上半身裸の朝日が昼の砂浜で仰向けに寝そべる、夜風に吹かれながら浜辺でたたずみ、そこでそのまま眠ってしまい、まぶしい朝の光で目覚める……と続く。タイトルバックまでの十数分で、山Pは夏らしい「暑」と「涼」をたっぷりと届けていた。
 物語の設定やロケーションも、もちろん夏を演出し、感じさせてくれる。しかしそれ以上に、もっと前提の部分で、山P自身から夏がナチュラルにありありと感じられる。その感覚とリアリティーが圧倒的で、それを軸に動いていくこの作品が良質にならないわけがない。そう確信させた。

2013年の夏の始まりは、山Pだった

 夏クールに放送される、いわゆる夏ドラマはどれも少なからず季節感を主張する。だがこの作品が現れるまでの数年、テレビドラマで夏を味わえる作品は少なかった。とりわけ「夏の海」を全面に打ち出し、「夏の恋」で真っ向勝負する――これはまた紙幅をとって別に語らなければならないが、「海の物語」を描く/観ることに相当の勇気がいる3.11後の状況のもとで、NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』のいわば“裏”で、それとは違う現実との距離感、アプローチを試みたのは意義深い――、そうしたラブストーリーは決定的に不足していた。そんななか、山Pが夏を引き連れるように始まった『SUMMER NUDE』の世界と空気感に、「そう、これこれ! こういう“ザ・夏のドラマ”を観たかったんだ」と、枯渇していた視聴欲を満たされながらうなずいた。
 当時いろいろと批判もあったが、家族だったり社会だったり、作り手がついつい挿入してしまいがちなごちゃごちゃした背景や問題は最小限に抑え、あくまで「夏の海辺の恋愛」に焦点を絞って、とことん愚直に描く。そのスタイルは、往年の月9らしさも漂わせながら、相当に振り切っていて心躍った。
 海! 空! そして恋! もうこれだけで十分に「夏全開」なのだが、そこに山Pが加わると、もう「夏MAX」な感じで、導入から〈ひと夏の物語〉が始まるパワーに満ちて、興奮がやまなかった。

夏を背負える役者

 夏が似合う、あるいは夏になじむ。そうした役者はほかに思い浮かばなくもない。そんななかでも、身ひとつで、存在感だけで、場景を「夏色」に十分に染め上げる。海や太陽、ビールや花火といった「夏の要素」を最大限に引き立てる。それができる役者は、決して多いわけではない。本人も根っからの夏好きで、こんがり焼けた肌と茶髪もよくマッチした山Pなればこそ、という感じがした。「夏の物語」の土台をサラリと、でもしっかり担って立つ。そんな山Pに夢中になった。
 夏を背負える俳優、数少ないそのひとりは山下智久である。そのことを、いやその力を、ふがいないことに当時のぼくはちょっと忘れていた。ドラマの宣伝として際立っていたのは『コード・ブルー』2ndシーズン以来「3年ぶりに月9に帰ってきた」というフレーズだった印象だが、重要なのはそこではない。同じく自身が月9で主演を務め、夏ドラマとして不動の人気を誇る『ブザービート』(2008年)以来の、夏のラブストーリーという点が肝だったはずだ――最近でもニュースサイトの「モデルプレス」が発表した「歴代夏ドラマ」ランキングで、山Pの主演作品は各部門で上位を占めていたし、「夏ドラマ胸キュン男子」ランキングでは『SUMMER NUDE』を含め、山Pの役が10位までに3つも入って、山下智久といえば夏というイメージと、その支持の高さが再確認された。
 ただ夏が舞台なのではない。夏を全身で生き、呼吸するようなおもむき。でも変な誇張や背伸びはなく、じつにナチュラルな自然体で、たたずまいを介して夏を届ける。そんな山Pの役者味が、誇らしいぐらい心地よかった。
 夏ドラマの金字塔というと、月9の歴史では、なんといっても『ビーチボーイズ』だろう。その主演を務めた若き反町隆史に山Pが匹敵するというのはいいすぎだろうか。テイストがまるで違う2人だ。でも仮に反町が「ギラギラした暑い夏」を作り出す好手だとすれば、山Pは「キラキラしながら陰もある夏」を引き出す巧者。そう位置づけて十分な存在だと思う。
『SUMMER NUDE』では、昼間は海の家を軸に活気に満ちてにぎやかだが、一転、夜になるとバーや海岸の夜景を舞台に、独特の静けさと郷愁に包まれる。劇はこの2つを往復し、その狭間で恋が展開していく構成が特色で、面白味になっている。まばゆく暑くて熱気を帯びる、そうした単純な夏模様ではなく、暑さ/涼しさ、明/暗、昼/夜という「夏」の醍醐味ともいうべき特有のコントラストを、作品は存分に取り込んでいる。それが可能になったのは山P(の雰囲気)の貢献によるところが大きい。スターならではの華もありながら、独特の陰もあわせもつ。そんな彼だからこそ表現しえた夏らしさだ。作中で展開する恋愛もギラついた強引な駆け引きや奪い合いではなく、登場人物たちがひそかに想いを寄せ、恋の傷をそれぞれ書き換えていく。そんな物語性の面でも、山P持ち前のほどよいクールな温度感が、太陽が打ち付ける暑さとうまく調合されて、活きていた感じだ。
 劇中にも出てくる海開きに象徴的なように、四季のなかで「夏」ほど、その始まりが意識され、それがぼくらの心を高ぶらせる季節もない。それを山Pはしっかりと、でも軽やかにこのドラマの幕開けで体現してみせて見事だった。
 山Pの夏ドラマは破壊力が凄い。それを彼は、いつだって裏切らないのだ。

「たそがれる背中」で語る

 そんな作品のなかで目に強く焼き付いて残るのが、物語序盤の要所で描かれ、本作のサウンドトラックのCDジャケットにもなっている、朝日が浜辺でひとり両膝を立てて三角座り(お山座り)で「たそがれる姿」だ。それがとにかく絶品なのだ。
 海に向かってだけでなく、元カノが写る大きな看板の前でたたずむときも、朝日の後ろ姿をカメラは遠目から印象的に捉える。忘れられない元カノ・香澄(長澤まさみ)の存在と過去を、朝日は映画のワンシーンのように追想している――それもこの3年間、繰り返し何度も何度も。そんな言葉なき物思いにふけるさまを、もともと独特の哀愁に加えて、寡黙で静寂さもまとう山Pが演じると、とびきり深みある切なさを放って凄まじい。
 映像には表情が映ることも多いが、それに頼らずとも「背中ひとつ」で、人物の哀感を鮮明に表現してみせるのはさすがである。「男は背中で語る」という言葉があるが、山Pの背中はまさにそれだ。
 しかもその背中からは、心情的には湿っぽく後ろ向きで、さびしく悲しさがにじむところだが、山Pが演じるとそうした色の押し付けがない。姿勢よく背筋を正し、目の前(あるいは目を閉じたまぶたの裏に浮かぶ像)を優しくも力強く、まっすぐにまなざす。そんな山Pの所作とシルエットからは、ネガティブを超えて、尊さのようなもの――悲嘆や諦めのなかでも、可能性はゼロに近くても恋人が帰ってくるのを待つ、そう自分で決めた「強い意志」、いや「強い祈り」が垣間見えて、強力な魅力を放つ。
 過去の恋人を3年間も待ち続けるのは、周囲の仲間が言うように「バカ」で、客観的にみて「イタい奴」だ。でも映像に映る朝日には、そういう感じがない。代わりに際立つのは、「大切な誰かを待つ」人間の実直さや、ピュアさのほうだ。それが観る者の心にじわっと染み入ってくる。

片想いの劇を支える

 ストーリー的にいえば、この「たそがれ」は乗り越えられるべきもので、そのことが朝日の幸せにちがいない。だからエールを送りたくなるのが普通だ。でも彼の姿を見るたび湧き起こるのは、それとは正反対の想いだ。
 恋人の帰りをひたすら待つ、そうすることでしか自分を保って生きていくことができない。そんな彼の、歩みを止めてひとりたたずむ光景を、その背中を、このままずっと見ていたい、大事に保存しておきたい。そういう不思議な気持ちに駆り立てられる。
 朝日の心境や境遇がわかる、そうした恋愛ごととしての共感を超えて、可能性や結果はどうあれ、ひとりの人間が「大切な誰かを待ち続ける」ことの意味や意義、もっといえば、そもそも「待つ」とは何か、「待つしかない」宿命とは何か……。そうした大きな問いにしっかりと手が届くクオリティーが、朝日の「たそがれる背中」には詰まっている。
 かつての恋人を忘れられない人物はドラマ的にもベタな設定だが、山Pの「たそがれる姿」がそこに“重み”を与えて、物語を浅薄にさせない。そんなショットをもちえただけで、この作品は十分に成功である。少なくとも、ぼくはそう評価する。
 映画には奇跡のショットがひとつなければならない。小説なら奇跡の一行や台詞がひとつあるのが大切だ――そういう文言を見たことがあるだろうが、ドラマも同じだ。作品全体のイメージの源泉になり、物語のずいになるような場面が、作品世界と質を決定づける。しかも連ドラは、1週間ごとの各回が分割されたコンテンツだけに、その“つなぎ”を果たして作品全体をまとめる原点は、いっそう重要になる。その点、山Pならではの「たそがれる背中」の映像は、男女のすれ違う片想いと三角関係を描くというありふれた恋愛物語を、底で支えて、欠かすことができない役割を果たしている。
 10年にもわたって朝日に片想いしている波奈江(戸田恵梨香)、そこに新たに彼を想う夏希(香里奈)、波奈江のことを長く想い続けている光(窪田正孝)……。誰かが誰かを陰から想う(実際に相手をそっとまなざすショットも多い)、そんな折り重なる片想いから物語はできている。その原点にあるのが、ほかでもない朝日だ。彼はもういない(看板のなかにしかいない)元カノの香澄を記憶のなかから見つめる。その夢想するシーン、つまりひとり「たそがれる」姿に、このラブストーリーの命はかかっている。そこが頼りなくて甘いと、どんなに周囲の人物たちの片想いが強く、またそれを複層的に描いたとしても、恋模様の密度や完成度は落ちる。それを山Pが、しかと重心をもって演じていて見事なのだ。

山下智久を追いかけて……

 このまさに「絵」になる背中のショットを、ぼくは自分のスマホで撮ってポスター大に印刷して、でかでかと部屋に貼り付けながら放送を追いかけた。……それだけでは飽き足らず、はるばるロケ地に何度も出向いて、朝日と同じ海岸で同じ構図で、たそがれてみたりもした。もちろんひとりでだ。山Pやドラマのファンで聖地巡礼をしている人はほかにもいたが、何時間もただ海に向かって三角座りをしていたのは、いつもぼくだけだった……。
 そして問いかけ続けた。「海にたそがれる」、それだけの姿なのに、なぜこんなにも力があるのか。その(魅)力はどこに由来するのか。そのワケをより深く知りたくて、その本質に迫りたくて、あれこれ考えた。そうすると、そのシーン、その場での演技や仕草だけでは決してなく、山下智久という生身の人間のうちにあって、そこから染み出してくる「彼の人間性」にぶち当たるしかなかった。それはつまり、山下智久という人間のあり方であり、彼の生き方や価値観だ。だからこそ比類ない力がある。そう考えるほかない。そこから、ぼくはドラマの考察(の初歩のような)ツイートをしながら、かたわらで山下智久の軌跡をたどる長い旅に出た。

(つづく)

筆者X:https://x.com/prince9093
 
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