柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)
エッセンス引き立つ「大人の役者」へ
山下智久の代表作といえば、誰もがテレビドラマ『コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~』(フジテレビ系)をまず思い浮かべるだろう。放送のスタートは2008年。その後スペシャルドラマを挟んで、10年には2ndシーズン、17年には3rdシーズンと続篇が放送されて、集大成である翌年の劇場版は、その年の邦画No.1を記録し、実写邦画の歴代興行収入5位にいまも君臨している。足かけ10年にも及ぶ大ヒットシリーズ。その軌跡は、まさに作品(と彼が演じた藍沢耕作)が大衆に愛された証しであり、平成という時代に記憶されるひとつの社会現象だったといって過言ではない。
実際、しばしばいわれるように放送当初まだ配備も含めて一般的ではなかったドクターヘリが作品とともに普及していき、人々の認知度向上にも作品は貢献した。視聴をきっかけに、救急医療を志して第一線で活躍している人もいる。社会に与えたそんな影響のかたわら、この作品と役どころが、山P自身へもたらしたものも小さくなかった。
それまでも山下智久は、数々のドラマ作品にコンスタントに出演して、人気を積み重ねていた。主だった作品を挙げるだけでも『池袋ウエストゲートパーク』に始まり、『ランチの女王』『Stand Up!!』『ドラゴン桜』『野ブタ。をプロデュース』『クロサギ』、そして前年(2007年)に反響を呼んだ月9『プロポーズ大作戦』と、ドラマ面での活躍は目覚ましく、視聴者からの人気やニーズも着実に高まっていた。一方で役者歴の面でいうと、ひとつの転換点に差しかかってもいた。
というのも『コード・ブルー』放送時の山Pは、23歳(4年半かけて大学を卒業する年)。ちょうど「青年」から「大人の男」へ。役者として次のステージに入りかけていた時期。それまで演じてきた人物の多くは、元気や活力に満ちていて、ときにチャラさも含む、フレッシュないまどきの若者や現代っ子という印象が強かった。それとは打って変わって『コード・ブルー』の藍沢先生は、若いけれど落ち着きがある。また明るく活発というのとは違って、無愛想なまでに感情を表に出さず、常にクールでドライ。どちらかといえば「陽」よりは「陰」、「動」よりは「静」。そうした要素を強くまとった、従来とはひと味違う人物像。それがぴたりとハマった。彼が元来持ち合わせている特性――山下智久という人間の根幹にあるエッセンスと見事にマッチしたのだ。そして名演技が生まれた。
例えばこのころ、NEWSのメンバーとして出演したテレビ番組を思い出してみると、デビュー時に比べるとやや淡泊で大人しい、そんな印象を感じる部分も増しつつあった。でも決して無愛想とか内気というわけではなく、自分からあえて主張する感じはやや弱いが、しっかり己(の世界観)をもっている。歳を重ねて徐々ににじみ出るそんな「静かに光る個性」に惹かれた人も多いはずだ。見た目のイメージだけではわからない、それだけでは十分につかみきれない本性。静穏で控えめだが、秘めた想いはチャレンジ精神にあふれて情熱的。男ぶりある外貌ながら、繊細でピュアなハートをもつ。そうした山P特有の〈立体的で彫りのある存在〉のかたち――それがのちの30代前後にかけてさまざまな役や表現の幅を広げ、現在へ至る飛躍の支柱になっていくのだが――、そんな彼のなかに宿って眠っている魅力を、役のうえで、そして演技として全面に引き出して輝かせてみせたのが『コード・ブルー』、そして藍沢耕作だった。
役者人生を開いた代表作
10年の月日をかけて進む物語は、シーズンを追って、主人公と仲間たちの成長のドラマを形作っていくが、それは生身の山下智久自身が「大人の役者」へ移り変わる重要な過渡期と重なってもいた点を見逃してはいけない。(もちろん前後の他作品の役割もあるものの)この時期の彼が役者として一歩大きく展開=熟成していく、その大事な舞台と推進力になったのは『コード・ブルー』だった。劇中の人物が、ただ歳を重ねて頼もしくなっていくのが刺激的だっただけではない。(主人公だから当然のこととはいえ)どのキャストにもまして、作品を通じ、劇中人物と一緒に、現実の山下智久もたくましく変貌していく。彼がもつ本質的な魅力が発見され、演技もますます深まっていく。
そのダイナミックでスリリングな一面、すなわち役者人生の劇的なターニングに立ち会うことが、ストーリーのもっと底で劇(ドラマ)を深くして、観る側をワクワクさせて楽しませていた感も大きい。
後年になって山下智久は、この作品当時「芸能界引退も考えた」と回顧している。学業と仕事の両立、さらにはグループと単身での役者活動のバランス。理由はさまざまあっただろうが、実際の理由はここでは重要ではない。現在(とそれまでの活躍ぶりを知るいま)から振り返るとき、『コード・ブルー』が彼の役者生命の節目に位置していたこと。誤解を恐れずにいえば、この作品があることで彼は前に進めた。役者の歩みを止めなかった。その決定的な出来事こそが重要であって、それは実に運命的で奇跡のように感じずにはいられない。
代表作というのは、単にひとりの俳優の最も有名で優れた作品ではない。その役者の特色・個性がよく表れた作品、つまりその人自身ともいえるような一作を指してこそのもの。その意味で、自身のもちうる「山Pらしさ(個人の実存に深く関わる本質)」と深く結び付き、彼の本領を開花=深化させたこの作品こそ、代表作といわなければならない。とりわけ、1stシーズン(2008年)から2ndシーズン(2010年)にかけての藍沢=山Pの成長ぶり――彼のオーラとたたずまいは物語の設定以上の飛躍ぶりで、その端正さ、頼もしさ、自立した安定感……、たった1年半の短いスパン(時間)ながら「成長して大人になったなぁ」という感触を強く与えた。それは文字どおり、山下智久の新たなステップと幕開けを体現する証しだった。
〈寡黙〉の表現力
そんな『コード・ブルー』の核をなして、山Pの芝居力が最もよく発揮されていたのが、ほかでもなく〈寡黙の表現〉だ。何といっても藍沢先生の魅力は、自分の気持ちをあまり語らない、その沈着として物静かなたたずまい。そんな彼が下す現場での判断や決断は、ときに非情で冷酷にも映る。世間話や無駄口を叩くなどのカジュアルなコミュニケーションを積極的にとらないため、メンバー間の協調性に欠ける面もなくはない。でも本当は、人一倍「人情」に厚くて「温かい心」にあふれて優しい。そうしたギャップ、そこから染み出す「人間味」が、観る者の心をグッと惹き付けてはなさない。こう書くと簡単そうだが、山Pのその演じ方――〈寡黙〉の作り方は見事なまでに徹底していて、繊細だった。それをあらためて強く評価しておきたい。
口数が少ない人物像はともすると、陰を含んでミステリアスにも映りかねない。でも藍沢先生には、そうしたマイナスな意味の「わからなさ」がない。何を考えているかつかめずに物語が邪魔されることもない。それは場面ごと、ショットの瞬間瞬間に、彼の「心」がメリハリをもってありありと伝わってくるためだ。でも藍沢の表情は、普段も緊急時もさして大きく変わらない。むしろ冷静な処置のため、いつにもまして顔つきは険しさを漂わせて動じない。命令や叫ぶときなどの例外を除けば、せりふ回しや声色にも目立った変化もあまりなかったりする。
つまり彼の心情(変化)は「言葉」だけでなく、顔を中心にした「身体」からもうかがい知れない。にもかかわらず、「胸の内」が確かに感じ取れる。矛盾した奇妙な言い方だが、実際そうなのだ。そして、これこそが藍沢という人物の深みであり、演じ手の山Pの凄みにほかならない。
それを支える肝になっているのが〈細部の演技〉。ストーリーを追っているだけでは気づかないほど、ごく微細な動きが要所にある。目や口元のわずかな力み具合、頬や喉などの顔周りの筋肉の変化、皺の作り、眼光の強弱、語気のハリ……。それが意図された芝居によるものか無意識なのか、もはやわからないレベル。その域へ達するほど、山Pは身ぶりに頼ることが許されない役柄のなかでも、刹那にある「心」を丹念にハートで演じようとしている。わかりやすく変化しない表情のなかにも、心の機微を見事なまでに写し取った。目にしてはいるが、見えてはいない。そんな難易度が高い「心の演技」を彼は実現した。その表現力と役者魂は並大抵のものではない。
人間的な「感情」を表す凄み
しかもそこでのポイントは、微小な演技から染み出る感情に、とてつもない「厚み」と「深み」が感じられることだ。ストーリー展開から、藍沢が何を悩んでいるのか、その課題や問題のありかは知ることができる。だが多くの場合、その心情自体はというと、喜怒哀楽のこれといって取り出せる単純なかたちをしていない。救命処置のとっさの判断と指示、患者との対話や酷な宣告、同僚に向けるさり気ない意識やまなざし。どの場合でも、厳粛さをベースにしながら、そこに痛みや悲哀、ときには落胆や絶望、そして慈悲・祈りといったあらゆる〈想い〉が入り交じった重層的な心の内を覗かせる。その感情のありようが、実に生々しくリアルなのだ。――現実のぼくらがそうであるように、人間の感情や心理というのは渦を巻いて混濁したものだ。
この作品は、スカッとする救助救命に終着しないことがひとつの特色。患者を救えた/救えなかったにかかわらず、緊迫した危機や目を背けたくなる悲運、その逆のつかの間の安堵や安心。そのどれにも、じわっとくる言い知れぬ感銘があって、決して「助かってよかった」だけではない独特な余韻をそっと伴う。それは物語の中心にある藍沢の心が、いつも安易に割り切られることなく、さまざまな想いをない交ぜにして、自己のなかでグッと抱える。苦悩や葛藤はもちろん、うれしさや喜びでも、安易に感情の出口を探さず、解決や妥協をせず、とことんまで自己のなかで突き詰めるように大切に抱え対峙する。その「感じ方」が深遠で、ときに重たく、また実直。それが藍沢という人物の真骨頂といえる。
そしてそれは、作られた「フィクションの(なかの)心」ではなく、そこに確かに「現実の人間の心」がある、もっといえば、藍沢耕作という人間が生きている。そうした圧倒的な手応えを与える。医師という職業も救急という場所も、一般の人々には現実離れしたもの。でも藍沢耕作が遠いかりそめの存在などではなく、強力な親近感でもってそこにいる。だからこそ、特別な感銘や共感も生まれる。そんな「人間を感じさせる」、もっといえば「人間をつくる」力の点でも、山Pの演技は桁違いに秀逸だったのだ。
テレビドラマや映画の続篇が始まると、主人公の誰々が帰ってきたとよく言うが、『コード・ブルー』が新シーズンを迎えるたびに経験する感覚は、どの作品よりも強烈な実感に満ちている。それは山Pの演技のもと、まるで現実世界のどこかに藍沢耕作が存在していると感じるためにほかならず、だからこそ「藍沢にまた会いたい」という視聴者の想いもまた熱狂的なものになった。物語がただ面白いからという理由だけでなく、10年という長い時をまたぐ作品のシリーズ化の持続には、山Pの芝居力の貢献もきわめて大きかった。
演者と役。それらが違うものだとよくよく知りながら、どこかで山下智久も、藍沢耕作もともに存在しているような確かな錯覚、いや実感。そのなかで『コード・ブルー』は永遠にぼくら視聴者(大衆)と一緒に時を刻んで、不朽の名作であり続けることだろう。
連載初回にも少しふれたが、ぼくは5年前に病気をした。不自由はいまも続く。そこに追い打ちをかけるように別の病も重なり、先がみえない治療や経過観察で通院も増えた。そして何かの運命のように、母の手術もつい先日あった。そんななかで(ときに病院の待合室の片隅で)、医療を扱う同作を原稿のために見直すのは怖くもあった。どうしても患者目線に傾いて、目を背けたくなる。そんな瞬間や場面もなくはなかった。でも想像した不安など気にならないほど、のめり込んで再鑑賞できた。
それは、そのつどの治療やそれに伴う判断をめぐる苦悩に焦点を当てるのではなく、それよりもっとずっと先にある「命」を前にして、決して解決や答えなどない途方もない苦悩を抱えるということ。その苦痛のなかでも表情ひとつ変えず、その宿命をひとりグッと内に抱えて凝視しながら、それでも前進しようとする藍沢先生の静かで強くひたむきな姿があったからだ。そんな到底まねできない生き方をする藍沢という人間に、何度も作品を見返していたあのころよりも、より強い尊敬と感謝がいま胸にひたひたと満ちてくる。山下智久らしさあふれる、彼の役者としての新たな扉を開けたこの作品は、時間がどんなに経ってもやはり観る人間に響く。
筆者X:https://x.com/prince9093
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