柿谷浩一(ポップカルチャー研究者)
山下智久が、ただ好きというのではない。山Pは重要である。カルチャーシーンにとって、さらには時代や社会にとって、そうした側面ももちろんある。でもいちばんは、現代といういまを生きる人間――ぼくら大衆が必要とする価値観や感性に鋭くふれ、その重要性に気づかせ、また届けてくれる存在として、彼は代えがたい役割を果たしている。その意味で大切なのだ。それは「アイドル」というくくりを踏み出て、ひとりの「アーティスト」の力というべきだ。
彼のそんな重大さに気づくきっかけになったのは、2013年の『SUMMER NUDE』(フジテレビ系)だが、もっと以前からぼくは山Pの作品に支えられてきた。いま手元にレンタル落ちのDVDセットがある。店頭にあった外装ケースそのままで、かなりの使用感で古びたものだ。文学研究を志し大学院へ進学してしばらくして、研究も思うように進まず迷子になり、小説も論文も読むのが怖くなっていた時期。とりつかれたように、山Pのドラマを繰り返し観ていた。自分では気づかなかったが、その熱は相当だったようで、当時利用していたレンタルショップが閉店するとき「これはあなたにあげますよ」と『コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~』(フジテレビ系)のセットをもらった。邦画のなかでも人気作で回転率がよかったが、借りた回数が歴代で最も多かったのがぼくだったそうで、こりもせず毎週のように借りる姿が印象的だったと言われた。最後に「山P好きなんですね。医療関係の仕事ですか?」と聞かれ、照れながら否定したのを覚えている。DVDを抱えながらの帰り道、この作品が、この山下智久という存在が、店長の言った「好き」というより、「大事」なんだ。そう自分自身に確認したのが昨日のようだ。思えば、当時のぼくにとって、それは唯一の文学の代わり、いや文学そのものだった。それがいいすぎなら、作品と役者に「文学的な何か」を強く感じて吸い寄せられていた。その想いは、それから数年して本格的に山Pを追いかけるようになって、いっそう強固になる。
山下智久というアーティストとその軌跡は、文学書に負けず劣らず「人間」存在というものに肉薄し、「人間とは何か」について考えさせてくれる。勇気や活力を分けてくれる。そうしたアイドル的な体験、アイドルへ向ける憧れや推し(好き)などではなく、もっと「人生そのもの=人間が生きる」ということに密接に関わる一大事。そして「言葉」をめぐる大切な事象。少なくともぼくにはそう感じられた。だからライフワークのように、この十数年、作品やイベントごとにSNSでコツコツと拙い考察を発信しつづけてきた。そして本業の文学的な仕事のかたわらで、ある程度すべきことをなし終えたら、いつか体系だった論考をまとめたいと願ってきた。だが恥ずかしいことに、数年前患った病もあって、(力を入れているドラマ論を除くと)存分な成果は出せないまま歩みも停滞ぎみになった。そんななか、山Pがポリシーにするフレーズ「人生は一度しかない」が頭をよぎった。
山Pは、今年(2025年)の4月でちょうど40歳の節目を迎える。活動的にも独立して、グローバルな挑戦と国内での活躍。それぞれがいっそう充実し、またひとつピーク(中継点)にきているようにみえる。それを目前にしてぼくのほうは、いわゆるアカデミックらしい学問では納得いく実績を十分挙げられていないが、それが整う「いつか」を待っていては遅い気もしてきた。そして、曲がりなりにも文学・文化を研究し(それも作家の年譜・年表作り、つまり人生を調べて記述する「書誌」という、人間の人生や活動に近い仕事を多くやる機会もあり)、書くことを専業にしてきたぼくなりに、言葉で、それも長い文章で語れることもあるかもしれない。そう少し思いだしていた。そんなタイミングで、かつて文学の仕事を共にし、山P論をまとめたい想いを早くから受け取ってもいた編集者が声をかけてくれた。正直不安もたくさんあるが、山Pが身をもって実践するように、未来を信じて挑戦するのも、きっと悪くない。その想いで、勇気を出して筆をとることにした。
大学の講義で、いつも言ってきた。ぼくが「山下智久論」を書くのは最後の仕事だと。実際どうなるかはわからないが、(そうは思えないかもしれないが)これでも出世や別の仕事をときに一部捨ててでも、少なからず身を切って考察してきた。そんなこれまでの蓄積を基礎に、それを発展させながら、さらに生きる時間をかけて、渾身の愛情をこめて、ぼくなりの視点や切り口、言葉を大切に、「たったひとつの、ぼくだけの山下智久論」を始めてみようと思う。
いまでは誰もが知る、名実ともにスターになった山P。その活動のひとつひとつは、ヒットや成功、反響や名声という形で(そのたびごと、その瞬間に)評価されている。しかし、もっとその表現(力)という観点に目を向けて、それがいかに、どのように「人間の普遍」にふれて重要か。それゆえ大衆の心を捉えてきたか。またどんな形でカルチャーシーンを席巻してきたか。それを主軸に、自分自身が背伸びしたり偽ったりすることなく、あらためて“自分の言葉”で語りたい。惜しまず、語り尽くしたい。SNSで個人の意見や感想、ときに専門家より鋭い批評コメントも可視化され、広く共有される現代。たくさんあふれる山Pのファンたち(通称:sweetie)の言葉は、何より貴重だ。その内容はもちろん、そこにある愛情もできるかぎり尊重したい。そのうえでもなお、山下智久はまとまった言葉で、もっと語られなければならないと思う。その「長いつけたし」をする。そんな想いで「山Pを語る場」に、ぼくも本腰を入れて参加してみる。彼には不思議な力があって、気づくといつの間にか、人々の心に自然とスッと染み入って、いまという時代に当たり前のように、欠かせない形で存在している。いつでも人気や反響は圧倒的だが、それとは裏腹にそうした独特な感覚――山P特有の存在感の前で、ぼくらは妙な「納得」をしている感がある。でも実際、彼の何がどう凄いかを言語化しようとすると決して簡単ではない。その意味でも、ボリュームある言葉で丁寧に語り、確かめることは意義深いと強く思う。
論を始める前に、読者になってくれるみなさんにひとつお願いがある。あえてぼくは今回、ネット上の連載を選んだ。それにはいろいろな理由や考えがあるが、ひとつは上から一方的にわかったように語る、そういう偉そうで傲慢な仕事にしたくはないことがある。紙でも反応や意見はネットに出てくる。でもより積極的に、山下智久を愛する人たち、そこまでいかないが彼の作品を楽しんでいる人々と一緒にこの論を進めていきたい。すでに見取り図はあるが、扱うトピックも(ときにそのボリュームも)要望の声で柔軟に変わってもいい。きれいごとに聞こえるかもしれないが、ぼくの論でありながら「みんなで作り届ける」ことができたら素敵だし、それこそ「Instagram」というネットの場も重要な活動拠点にしている山下智久を、いま追うのにふさわしいスタイルだと思うのだ。だからぜひ、ぼくの「X」でも編集部宛てでも感想を送ってほしい。それと対話もしながら、たぐいまれな表現者たる山下智久について、たぐいまれな新しい批評が展開できたらと願う。
取り上げる毎回の作品や題材は、あえて評伝のように時系列順にはしないことにした。彼のさまざまな側面、その多彩な魅力に、全方向の視点から柔軟に光を当てながら、パズルを完成させていくように、その全体像と歴史をダイナミックに記述することも意識したいからだ。そして、連載という形式がもつ面白みも最大限に生かしたいこともある。次回は何について書くのだろうという読者の期待(次は何を書こうという書き手の思案)は、山Pの言葉を借りるなら「希望しかない未来」であってほしい。どんな状況でも、常に前を向き楽しむことを大切にするのが山下智久。そんな生きざまの彼を対象にするからこそ生まれうる〈語る=読む〉特別なワクワク感も、ぜひ作っていきたい。
筆者X:https://x.com/prince9093
[青弓社編集部から]
次回(第2回)は4月21日に掲載予定です。また、第3回以降は毎月20日ごろに掲載する予定です。ご期待ください。
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