李承俊(イ・スンジュン)
本書は、名古屋大学大学院文学研究科に提出した博士論文をもとに、一般書として書き直したものです。博士論文のタイトルは、『日本人の疎開体験をめぐる文化史的研究』です。これが、『疎開体験の戦後文化史――帰ラレマセン、勝ツマデハ』になったわけですが、大幅な改訂や修正をおこないました。特に、外国人の不自然な日本語を数回にわたってチェックしてくださった出版社の方々に、改めて感謝を申し上げます。
本書に関する感想としてよく耳にするのは、「新しい」という言葉です。疎開に対するとらえ方が新しい、論じているテキストの選定が新しい、疎開体験の語りを戦後という枠内で読み解いていくという試みが新しい……など。研究のレベルでいえば、先行研究に対するリスペクトが見えない、ともなるでしょう。そのような声は謹んで拝聴したいと思います。
もし本書が新しいとしたら、それは2019年現在、疎開体験者の声に耳を傾ける人々が増えることを願ってのことです。いままでの疎開に関する研究や体験者のさまざまな声は、津々浦々に届いて読み手・聴き手に何らかの感化を巻き起こしてきたと思います。現在、戦時期の体験としてもっともよく語られるのが、疎開体験です。一方で、いままでと同じ言い方、論じ方で同じ内容を繰り返すだけでより多くの方々に疎開体験について考えてもらうことができるかどうか、自問自答せずにはいられませんでした。そこで私は、人文学研究という領域では諸刃の剣である「新しさ」というものを、あえて、しかし徹底して追求していくことにしました。その成果である博士論文は、そもそも一般書になる運命を定められていたかもしれません。
「新しさ」を追求した結果ともなるでしょうか、本書には終章がありません。全体の議論をまとめて、できなかった点を反省し、今後の課題を提示するような部分がない、といっていいと思います。実をいうと、あえて書きませんでした。もしより学術的な方向性をもつような本だったら、終章にあたる部分は必要だったと思います。たとえば、戦時期の疎開体験が戦後に語られる際に主に3つの位相を呈する、第1は戦争体験とする語り、第2は戦争体験としない語り、第3は「田舎と都会」の出合いとしての語り、という具合になるでしょうか。こうまとめてしまうと、なぜか3つの位相がそれぞれ独立して存在しているような印象を読者に与えてしまうのではないか、ということを思わざるをえませんでした。
本書は、まとめずに終えた、といえます。博士論文では以上のように整理し、それが現代社会の戦争という問題とどのように接続するのか、今後の展望のようなことを述べました。対して本書は、第9章「疎開を読み替える――戦争体験、〈田舎と都会〉、そして坂上弘」で終わります。ここでは、本書のそれまでの議論を取り入れてまとめていくかのようであって、第2部「戦争を体験しない疎開――「内向の世代」・黒井千次・高井有一」で取り上げた「内向の世代」の坂上弘をいきなり召喚します。1970年前後の高度経済成長期というコンテキストを下敷きに、坂上が自らの体験に基づいて書いた疎開体験の表象をどのように読み取ることができるのかに関して述べて終わります。
第9章の後に終章を入れなかったのは、疎開というキーワードが、どこまで広がっていき、どの領域にまで接ぎ木されていくのかという「実験」のプロセスと結果を、より鮮やかに感じ取ってもらいたいという、私の勝手な願望によります。たくさんの読者に、一般書として本書を読んだことをきっかけに疎開をめぐって自由に想像の翼を広げてもらいたかったのです。終章の空白は、読者に向けて仕組まれた余白です。
これらに対する評価も批判も、本書を手に取ってくださったみなさまの自由です。ぜひ聞かせてください。本書の扉を開くことで、疎開ということに関して改めて考えてみるという内向きの体験が生じ、それを機におじいちゃん・おばあちゃんの疎開体験はどのようなものだったのか、それがいまどのように語られているのか、といったような興味が湧くという外向きの体験が生じるのであれば、本書の役割は果たされたと思います。