松下優一(法政大学大原社会問題研究所環境アーカイブズRA。共著に『失われざる十年の記憶』〔青弓社〕ほか)
筆者にとって国道16号線(以下、16号と略記)とは、何よりもまず、鉄道駅(JR線および京王線の橋本駅)へ向かうべく、ほぼ毎日のように横切る道路である。幅が広く、交通量が多く、大型車両が行き交うその道を渡るのは、いつも少し億劫だ(たいてい、長い信号待ちや地下道への迂回を強いられる)。電車で各地へ通勤する者にとって16号は、行く手を遮る障害物、多少の緊張感とともに横切る対象として現れる。
このエリアに暮らしてはや数年になるが、思えば私は16号を横切るばかりで、道に沿って移動したことがないのだった(特に用がなかったからである)。そこで、今回のリレーエッセーでは、16号に沿って歩く、という非日常的な行為に出ることにしたい。区間は相模原市緑区。陸橋続きで、自動車ならあっという間に通り過ぎてしまうような距離だが、その沿線風景を見ていくと「16号的」要素連関が浮かび上がってくる、のではないだろうか。
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相模原北部から八王子、福生、入間・狭山にかけては、16号のルートのうちで最も“山”が近づく区間である。横浜方面から北上すれば左手に、埼玉方面から南下すれば右手に“山”=関東山地が見える(関東山地は、相模川を挟んで北の秩父山地と南の丹沢山地に分かれていて、相模湖や津久井湖は相模川のダム湖にあたる)。橋本駅に入る京王線や駅周辺の少し高い建物から西の方角を眺めると、山の近さがよくわかる。
2016年の夏、私たちはメディア報道で「相模原市緑区」という地名をしばしば目にすることになった。「相模原障害者殺傷事件」の現場(津久井やまゆり園の所在地およびその容疑者の居住地)として、である。ただし、「事件が起きた場所は10年前までは相模原市ではなかった(1)」。緑区は、10年に政令指定都市になった相模原市の北部に位置し、JR横浜線・相模線と京王線が乗り入れる橋本駅を中心とした区域と、06年から07年に合併した旧・津久井郡4町(城山町・津久井町・相模湖町・藤野町)の広大な山間部からなる。16号は、緑区の東端をかすめるように走っている。写真は相模原から津久井・相模湖方面へ向かう幹線である国道413号線の分岐点。津久井方面へは葬儀屋の手前で左折、直進すればJR横浜線の踏切。
横浜線の踏切を渡って北へ行くと元橋本交差点。ここで16号は八王子バイパスと旧道に分岐する。地上に横断歩道はない。
写真4 八王子バイパスと多摩丘陵(2016年12月3日撮影)
16号緑区区間の北端。墓地の向こうには「境川」が蛇行し、東京都・町田市との境界線をなしている。このあたりは「元橋本」の地名のとおり、お寺や墓地があり、歴史が漂う。16号は境川を越えると東京都道47号線(通称・町田街道)と交差し、多摩丘陵にぶつかる。
横須賀から58キロ、横浜から35キロ。新宿まで京王線特急で40分足らず。画面奥のタワーマンションが立ち並ぶあたりに、緑区の区役所ができた。ちなみに現在、首都圏には4つの緑区があり(ほかに横浜市・さいたま市・千葉市)、どの緑区も16号沿線である。
横浜方面に南下すると、向かって左側に、長いコンクリートの壁と送電線、そびえ立つ大小の鉄塔の群れが現れる。この一帯には、住宅地の頭上を送電線が走る“『ウシジマくん(2)』的な風景”が広がる。画面右の信号機には「自転車事故多発地点」という警告看板が立っている。左手に折れると、かなたまで続くコンクリート塀の有刺鉄線が殺伐たる雰囲気を醸している。写真1の右手に見える鉄塔はここに立つ。
変電所からさらに南下すると左手に小学校。優先されるべき歩行者にはなかなか出会わない。
さらに南下すると、16号は国道129号線や津久井広域道路などと立体交差し、やや東に折れる。ここも横断歩道はなく、歩行者や自転車は地下道を通らなければならないのだが、枝分かれした地下道は複雑で、方向感覚をまひさせる。そのため往々にして意図せざる場所に出る羽目になる。
五差路の地下道を無事抜けると、左手に巨大な箱のような建物が現れる。物流施設のようだ。やはり沿道に人影はない。
右手に16号、左手に日本山村硝子の工場。突き当たりはJR相模線、その向こうは神奈川医療少年院、中央区である。中央区の16号は道幅が広い直線区間で、銀杏並木が続き、ロードサイドの商業施設が増え、沿道は華やいで見える。この風景は、基地の痕跡である。道路の直線は戦前の軍都計画の名残だし、相模原初のロードサイド店は、道沿いに休憩施設がほしいという駐留アメリカ軍人や外国人観光客からの声を受けて1955年に開設された相模原レストハウスだったという(3)。
もちろんある。ロジテック橋本の向かい。奥にもう一軒あり。
ここは大小さまざまな工場が立ち並ぶエリア。この一帯は、さながら巨大な迷路だ。まず、同じような工場や倉庫の建屋が続くので場所の見当をつけにくい。また、歩道がない道路が人を拒み、車両に脅かされる(工業団地なので当然だが)。夕暮れどきに迷い込めば、人外の心細さを味わうことができるだろう。
最近このあたりに増えた気がする。モノは捨てないかぎり蓄積されていく。そして、大都市住民の居住スペースは限られている。これはあふれたモノ、持て余されたモノたちが行き着く先、ということになるのだろうか。
写真14 相模原市北清掃工場(2016年12月3日撮影)
ゴミ収集車出動。相模原北部の廃棄物はここに集まる。粗大ごみを持ち込める施設も併設されている。
視界が開け、何やら大きな建物が取り壊されている。ここにあった学校は2013年に移転し、それ以後廃墟になっていた。
写真16 送電線の狭間の荒地(2016年12月3日撮影)
立て看板によれば、障害者福祉施設の建設予定地であるようだ。台地を下って少し行けば、相模川に出る。
写真16+1 相模川と圏央道(2015年8月10日撮影)
相模川にかかる巨大な橋(県道510号線/津久井広域道路新小倉橋)の上は、足が竦むような高さである。奥の山が城山。手前を横切るのが圏央道の橋梁。画面右奥に城山ダム(ダム上を国道413号線が通る)、その向こうは津久井湖や相模湖が連なるエリアになる。遥拝。もはや16号からずいぶん離れたところまで来てしまった。
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さて、今回の撮影地点は、以下の地図のとおりである。相模原市緑区の橋本エリア(相模川と境川のあいだに広がる台地)を、おおよそ東北南西に巡ったことになるだろうか。ルートとしては途中で16号を外れ、五差路で分岐する県道508号線(相模原から津久井への路線を複数化すべく整備中の「津久井広域道路」)に沿って北西へと向かっているが、この道は中央区から続く16号直線区間の延長線である。地図で見れば単純そうだが、実際に歩くとなれば話は別である。まず途中で歩道がなくなる。また工業地帯の道路が直線ということは大型車両のスピードが出るということであり、沿線の工場から輸送トラックがしばしば出てくるということである。自転車や歩行者は気が抜けず、車が怖くて脇道に逃げ込む。すると工場地帯をさまよう羽目になる。このルートを歩こうとされる奇特な方々はくれぐれも気をつけてほしい。
なお採録は見送ったが、橋本変電所周辺に立つ送電線鉄塔の風景は、夕映えの山のシルエットとともに実にフォトジェニックである。鉄塔好きなら西へ続く送電線をたどるのも一興だ。橋本駅はアリオ橋本付近の相模線の歩道橋から撮るのがいい(相模線・横浜線・京王線が集散する様子が楽しめる)。境川付近は、曲がりくねった深い谷川に白鷺が歩き、町田街道と多摩丘陵周辺は『ブラタモリ』(NHK、2008年―)的な歴史散歩にもってこいではないだろうか。相模川付近では、段丘上の畑地にたたずむひまわりののどかさに癒される一方で、城山(津久井城)東麓は、巨大な橋梁や山を貫く圏央道、ダムや発電所など新旧の建造物が集中していて(小倉橋は1938年、城山ダムは65年完成、新小倉橋は2004年開通、愛川―高尾山間の圏央道は14年開通)、開発的近代の地層を露出させるかのように織りなす山河と人工物のスペクタクルが目をうつ(4)。やがてこのあたりの風景には、リニア中央新幹線が重なることになる。東京からほぼ途切れなく広がった都市が、“山”にぶつかる場所。東京の西の淵。そこでは20世紀に夢見られた近代的プロジェクトがいまなお作動し、堆積し続けている。
図1 撮影地点
『相模原市・愛川町 第6版』(〔「都市地図――神奈川県」第10巻〕、昭文社、2016年)を利用。
注
(1)猪瀬浩平「土地の名前は残ったか?――吶喊の傍らで、相模湖町の地域史を掘る」、「緊急特集 相模原障害者殺傷事件」「現代思想」2016年10月号、青土社、232ページ
(2)真鍋昌平『闇金ウシジマくん』(ビッグコミックス)、小学館、2004年―
(3)箸本健二「消費と商業をめぐる相模原市の現代史」、相模原市教育委員会教育局生涯学習部博物館編『相模原市史現代テーマ編――軍都・基地そして都市化』所収、相模原市、2014年、684―685ページ
(4)相模湖周辺の開発については、ひとまず前掲「土地の名前は残ったか?」参照。
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