玉川裕子
『クラシック音楽と女性たち』を上梓してから、1カ月半あまりが過ぎた。「あとがき」にも書いたことだが、この本が誕生したそもそものきっかけは、執筆者全員が会員である、女性と音楽研究フォーラムが2013年に結成20周年を迎えたことだった。
同フォーラムでは、これまで会員の研究発表や講師を招いての研究会を中心に、女性作曲家の作品による種々のコンサートを開催してきた。詳細についてはフォーラムのウェブサイト(http://www.ac.auone-net.jp/~women/)を参照していただきたいが、ほかの企画への協力なども含めると、20年の間に開いたコンサートは、レクチャーコンサートなども含めて15回前後にのぼる。それに対して出版活動は、アメリカの音楽学分野でのフェミニズム/ジェンダー研究の第一人者であるスーザン・マクレアリの『フェミニン・エンディング――音楽・ジェンダー・セクシュアリティ』の翻訳(新水社、1997年)1点にとどまる。ほかに、フォーラム創立から15年にわたって代表を務めた小林緑編著による『女性作曲家列伝』(〔平凡社選書〕、平凡社、1999年)があるが、同書には多くのフォーラム会員が執筆しているとはいえ、出版自体はフォーラムとしての事業ではなかった。
こうしたなか、発足20年を機に、これまで私たちが考えてきたことを改めて世に問うような書籍を出版したいという声が起こった。2012年初秋のことである。もちろん、出版事情が厳しい状況にあることは承知していた。それでも怖いもの知らずのメンバーの声に押されて出版社探しを始めると、なんと引き受けてくださる出版社が見つかったのである。それが青弓社だった。対応してくださった編集の矢野未知生氏は、男性大作曲家のミューズとしての女性をテーマとする書籍はちらほら見かけるにしても、クラシック音楽での女性そのものの活動を正面から取り上げた書籍はこれまでにほとんどないのでぜひ作りましょう、とおっしゃってくださった。それから足かけ4年、本書はついに日の目を見たが、辛抱強く私たちの作業を見守ってくださった矢野さんには、この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。
ところで、女性と音楽研究フォーラムの会員は、なぜ入会したのだろうか。演奏家から教育者、研究者まで、多方面の職業に携わる個々のメンバーの入会の動機はさまざまである。なかでもいちばん多いのは、女性作曲家と彼女たちの作品に引かれたという理由だろう。クラシック音楽というと男性の作曲家しか存在しないようなイメージがあるが、あるきっかけで女性作曲家もあまた存在したことを知って、これまで彼女たちとその作品が知られていなかった理由を考えながら、できるだけ多くの人に、できるだけ多くの女性作曲家とその作品を紹介したいと考えている会員。あるいは、ある特定の女性作曲家の曲と出合って魅了され、その作品を紹介していきたいと考えている会員。また、作曲家や音楽作品とは違うルートで、女性と音楽の関わりに関心を抱いた会員もいる。たとえば、近代日本での自らの体験や、学術テーマとして家庭教育を考えるなかで、音楽が女性の嗜みとされていた事情に関心を抱いた研究者など。
編著者である私自身についていえば、個人的体験が出発点になっている。1960年代前半のある日、我が家にアップライトピアノがやってきた。「ピアノやる?」と母にきかれた記憶はない。高度経済成長が始まった時期に、典型的な都市中産階級の家庭で育った娘は、ピアノをやるのが当たり前だった。やるからには徹底的にと考える母のもと、優等生の娘は15年後に音楽大学に入学した。しかしこの頃から従順だった娘は考え始める。なぜ、私はピアノをやっているのだろう? しかも、日本という文化圏で筝や三味線ではなく、西洋音楽を。答えを出す前に音大を卒業。私たちを迎えたのはバラ色の未来ではなく、どうやって食べていくかという問題だった。近代社会で女の子がピアノを習うのは自立のためではないらしいということに気づいた私は、そのほかさまざまな偶然の出会いもあって、この問題を胸に抱きながら研究の道に入っていくことになった。
当時の私を知る友人の一人が、本書の感想をさっそく送ってくれた。そのなかで、私が30年前と同じテーマを相も変わらず扱っていることに半ばあきれながら(たぶん)、状況が大きく変わっていることもあわせて指摘してくれた。ピアノ教師をしている彼女によると、カルチャーセンターでもピアノ教室は閑古鳥が鳴き、わずかな生徒も年配の方が多いとのこと。そのうちの女性は、働いている母親にかわって孫の面倒をみなければならず、練習時間をとるのに苦労しているとも書かれていた。また70代の男性が『乙女の祈り』を弾きたいと、練習してレッスンにもってきたこともあったという。
状況は変わった。しかし、いったいどういう方向に向かっているのだろう。よりよい方向に向かっているのだろうか。音楽と関わる道はさまざまなのだから、ピアノを習う子どもが少なくなったことを嘆くのはお門違いだろう。昔、私の世代の女の子たち(と少数の男の子たち)が、いやいやながらピアノを弾かされ、(クラシック)音楽嫌いになるケースが続出していたことを思えば、現代の子どもたちがピアノのレッスンを強要されないのは、むしろ歓迎すべきことだろう。年配の方たちも、好きな曲を楽しんで弾く自由がある。巷には音楽があふれ、その気になれば古今東西のさまざまな音楽にアクセスすることができる。なによりも、多くの女性音楽家たちが活躍しているではないか。
でもはたして、女性たちは、そして男性たちも、過去3世紀に比べて、より自由に音楽と関わっているのだろうか。もし自由だとして、この自由な音楽との関わりは、すべての人に開かれているのだろうか。2015年に世界で起こった出来事を見るにつけ、音楽によって人種や宗教やジェンダーの垣根が揺さぶられて取り払われ、憎悪を乗り越え、誰もがより豊かな生を謳歌する可能性が開ける、と信じるほど私たちは無邪気ではいられない。そうであればこそ、少なくとも音楽との関わりが差別や他者の排除に加担するような結果にならないよう、注意深く考えていく必要はありそうだ。女性と音楽との関わりを切り口に過去の音楽の営みを振り返ることは、その小さな一歩である。私たちは新たな出発点に立っている。
(2015年12月29日執筆)