金子 淳『博物館の政治学』「博物館人の非政治性」への実践的な批判

 「博物館は政治的な存在である」と言うと、どのような印象を持たれるだろうか。青弓社の本を好んで読まれるような方はおそらく、「何をいまさらあたりまえなことを」と思われるだろう。あるいは、もしかすると、昨今の「カルスタ」の洗脳を受けた凡庸な物言いとして映じるかもしれない。
 ところが、それが「あたりまえ」でも「凡庸」でもない、そうした思考とはまったく無縁の世界があるのだ。それは、驚くなかれ、「博物館界」とよばれる博物館関係者のコミュニティである。博物館に関係する職に就いているからこそ、博物館そのものについてきちんとした思考をめぐらせているだろう、と考えるのは幻想である。
「博物館人独特の非政治性」とは、いまは亡き博物館学者・伊藤寿朗氏の言だ。うまいことを言ったものだと思う。博物館人は、概して博物館という〈場〉には関心がない。学芸員は自分の研究に没頭していればよく、博物館を単なる研究業績の発表の場としてしか考えていない輩も多い。あるいは、欧米から新しい手法を取り入れて、それを移植するのに躍起になっている人もいる。しかしそこには、みずからの依拠する博物館という〈場〉にどのような政治的な力学が作用しているかという問い直しの視点は微塵もない。自己の行動も、そうした政治性に刻印されたものであるにもかかわらず、である。
 みずからの政治性に無関心・無頓着だからこそ、政治的に利用されるか、逆に政治力を駆使しようとする。観念的に権威を批判しながらも、結局はみずから権威にすり寄り、そして権威を振りかざすという自己矛盾。このことを伊藤氏は、「裏返しの政治主義」と言っている。これまた、うまく言ったものだ。
 博物館界は硬直している。内部からの鋭いメスは望むべくもない。カルチュラル・スタディーズ、表象文化論、美術史、社会学、文化人類学など、いわゆる博物館〈外〉の領域で、博物館に関するすぐれた研究成果がまとめられているという事実も、その傍証となっている。
 だから、冒頭で述べた「博物館は政治的な存在である」という命題に関しても、いわゆる青弓社の購読者層の方々と博物館〈内部〉の関係者とでは、その受容のされ方がおおいに違ってくるはずだ。「そんなことはあたりまえだ」と思われた方には、その具体相(難しい言い方をすれば「歴史的展開過程」)を丹念に見てほしいし、それとは無縁の人には、まずはそういう見方・とらえ方もあるということを知ってほしい。この本を書き終えて、そんな感触をもっている。
 実は、このギャップに改めて気づかされたのは、青弓社の矢野恵二さんと打ち合わせ兼雑談をしていたときだ。「博物館の政治性」の話をしていて、博物館〈内部〉の関係者にはそういう感覚がないということを矢野さんに伝えるのに四苦八苦したからだった。矢野さんが言うには、「『博物館が政治的な存在である』のはあたりまえのこと。どうしてそこに立脚してものを考えられないのかが不思議だ」とのこと。
 これは新鮮な驚きだった。でも、ある社会では「あたりまえ」のことも、別の社会ではまったくそうでなくなることは、それこそ「あたりまえ」のことである。こんな会話をしていて、いかに博物館界が「別の社会」であるかを思い知らされた。
 ところで、私自身は現場の学芸員である。だから、「博物館界」に棲む正真正銘の「博物館関係者」である。このままでは、当事者性のない無責任な戯言ととらえられてしまうかもしれない。ただ私自身は、これらのことを、実践者として博物館に携わる者の自己批判として考えている。内部にいる人間だからこそ、いったん博物館の存在そのものを疑って、その政治性・権力性を引き受けたうえで、ものを考えたり発言したり実践するべきだと考えている。そういう課題を自分自身に課しているつもりである。
 最後は自己弁護&決意表明のようになってしまったが、こんなことも行間に読み取ってもらえれば幸いである。