拙著『写真、時代に抗するもの』が出版された。できあがってほやほやの本に頬ずりして、にまにましながら、さすってみる。もう読む必要もないのに、何回も見返して、ことあるごとに取り出してページをめくる。そうした幸せな躁状態がすこし落ち着いて、つくづく眺めて思うのは、「わたし、よくこれだけ仕事してきたよね」。
1989年に東京都写真美術館の学芸員になってから今年の7月に東京都現代美術館に異動するまでの13年間で、この本と98年に出版した『ヌードのポリティクス――女性写真家の仕事』の2冊をまとめることができた。13年間で本2冊というのは普通の書き手としては少ないのかもしれない。けれども美術館の学芸員としては、「よく」と自画自賛してもバチは当たらないのではないかと思う。なにせ、学芸員の仕事の9割以上は雑務である。展覧会のための調査や研究、図録の論文書きなどは雑務の合間のわずかな時間をかすめてやるか、勤務後や休日に家で書くしかない。日本の学芸員が雑芸員といわれる所以である。自他共に認めるめんどくさがり、怠惰このうえないわたしが、こんな状況で、「よく」これだけ仕事をしてきたものだとわれながら感心する。好きな仕事だし、やりたい展覧会だからではあるが、怠け者のわたしを衝き動かしていたのはそれだけではない。それは「怒りのパワー」とでも呼ぶべきものである。
本当にわたしは怒っていた。美術館とはどんなものであるかもちゃんと調べずに美術館を作ってしまい、まっとうな組織構成も人事もせず、10年にも満たないうちに、入館者が少ないからといって予算を大幅に削減したり廃館をにおわす、東京都のいいかげんな文化行政に対して。自分の権利だけを主張して、義務をなおざりにする役人化した学芸員に対して。コンセプトだけ考えれば展覧会ができると思っている大学の先生に対して。展覧会を金儲けのイベントとしか考えていない一部の新聞社事業部に対して。普段美術館に興味もなく来もしないのに、海外旅行でたまたま立ち寄った美術館の聞きかじりをわけ知り顔で吹聴し日本の美術館をけなす政治家や一般の人に対して。自分の写真だけは美術館で取りあげられるべきだと信じ込んでいる写真家に対して。専門分化も役割分化もできていない日本の美術館に対して。貸館になっても専門家以外の館長が就任しても、異を唱えるどころかその問題点すらわかっていない写真界に対して。写真のことなど何の興味もなく勉強もしていないのに展覧会を企画する「現代美術」のキュレーターに対して。そもそも批評文化が成立しないこの国の文化的貧困について……。
もちろんわたしは自分のことを棚に上げている。そんなことははなからわかっている。しかし、上は日本の文化情勢から、果ては日常の細々とした出来事まで、毎日毎日何かが起こり、怒りの種は尽きず、怒髪天を衝くような環境でわたしは暮らしていた。
最近わたしは怒らなくなった。「大人になったね」ともたまに言われる。45歳の女をつかまえて「大人になった」もないもんだけれども、確かに大声を出すことも、怒りで身を震わすことも少なくなった。愚痴をこぼすのもめっきり減った。何が起こってもたいがいのことではあわてふためいたりはしない。状況が好転しているからではなく、むしろその逆で、美術館や写真を巡る状況は悪化の一途を辿っている。しかし経験とは恐ろしいもので、怒りのハードルはどんどん低くなっていく。めったなことでは動じなくなった。
わたしは自分の身に起こっているこの変化がおそろしい。これは成熟と言うよりもむしろ、諦念が忍び寄っているのではないか。嫌悪してきた予定調和の世界に、知らず知らずに自分も身を浸しているのではないか。エネルギー値が落ちてきているような気もする。
怒りの代わりに人を動かすのは何だろう。人によっていろいろあるだろうけれども、わたしの場合の答えはわかっている。そしてわたしはいま必死でそれを探している。