たどり着いたところ――『イタリア、旅する心――大正教養世代のみた都市と美術』を書いて

末永 航

10年ほど前、この本のもとになった雑誌の連載を始めた頃には、日本で西洋美術史を始めた学者たち数人のイタリア体験を、残された紀行文から探っていくつもりだった。ところが、そのひとり児島喜久雄が学習院出身で『白樺』のメンバーであり、高校だけ第一高等学校に行ったので和辻哲郎や九鬼周造と同級生でもある、という具合に広い交友関係をもった人だった。そのお友達をたどっていくうちに、取り上げる人物がどんどん広がっていった。
  有島武郎・生馬兄弟、志賀直哉、阿部次郎など有名な人もいるが、『白樺』を飛び出してヨーロッパで客死した郡虎彦、白樺派の弟分でボーイスカウトの指導者になった三島章道、カトリックの法学者大澤章など、あまり知られていない興味深い人物も紹介している。
  最終的に24人が登場することになったが、それをまとめるのに「大正教養世代」という言葉を使った。「教養派」というは、漱石門下のことだけをさす場合が多いようで、ちょっと曖昧に「世代」ということにしたのである。
『白樺』はわずか300部の同人雑誌だったし、岩波書店は漱石門下の仲間が興した出版社だった。学生時代からこういう身内のメディアがあり、それがどんどん大きな影響力をもつようになっていったこの世代の人たちは、自分を正直に書く、一種の露出癖をもっていた。だからなかなか面白い紀行や日記が多い。この本では宿や食べ物といった旅の細部、ときには性や異性関係にまで踏み込んでいる。
『旅する心』というちょっと気恥ずかしい書名は、有島武郎の紀行文の題名からとった。大正教養世代の人たちが実に「心」好きで、臆面もなく文章や標題に多用するのに気づいたので、これをキーワードにした。戦後ほとんど全員が集合して出すようになった雑誌の誌名は、そのまんま『心』という。
  この本のカバーの装画は、いまはアメリカに住んでいる旧友、版画家の藤浪理恵子さんにつくってもらったが、素材は主にこちらで撮った写真である。漢字を何か入れたいといわれたので、「心景」という文字が入っている。これは児島喜久雄が亡くなった親友の哲学者九鬼周造への万感の思いを込めてデザインした九鬼の詩集『巴里心景』の背文字から借用した。友人たちのなかでほとんど唯一、甘い感傷に浸るのを嫌った児島だったが、この本の装丁では禁を解き、センチメンタル全開で斬新な意匠を展開している。
  この原稿を書き始めたとき、イタリアの16世紀美術史をやっている自分にとって、これは専門外のいわば隠し芸のつもりだった。ここで取り上げた方々がだいたい自分の祖父かその少し上の世代だったから、なんとなく肌のぬくもりを知っているような気がして、「研究」の対象として扱う気にはなれなかった。論文とは違う、もう少しくだけた文章にしようとしたのもそのせいだった。
  しかしこの十年の間に世の中の、そして自分の、ものを書くときの意識はずいぶんと変わった。戦前や戦後、大正・昭和の時代がいろいろな分野で真剣な研究の対象になってきて、立派な業績が次々に現れた。また、そういう研究が本や論文になるときの文体もいろいろなものが出てきた。ちょっと前なら誰かに叱られそうな、くだけたスタイルで研究者がものを書くのが普通になっている。
  自分にとっては表芸と隠し芸の仕切りがはっきりしなくなってきたのだが、そんなことはどうでもいいから、面白いと思うことを書けばいいという気持ちになれたのは、わりに最近のことだった。
  そしてできあがった本は、なんとも欲張りなへんてこなものである。
  ゴシップでたどる日本の美術史学・史でもあるし、もっと幅広い分野で、こんな一握りの仲良しサークルが日本を動かしていたのか、ということをいっている本でもある。その連中の生態を記録したものといってもいい。
  いま、ちょうど忘れられたところだが、この人たちのことは、みんながこれからもっと調べ考えていかなければならないと思う。
  それから、脱線だらけではあるけれど、イタリア旅行が主題である。昔の旅がどんなだったか、日本人にとってのイタリアがどんな存在だったのかもわかる。もちろんちょっと変わったイタリア・ガイドとしてお読みいただくこともできる。
  どれも中途半端だといわれればそのとおりなのだが、著者としてはなんだかどうしてもこうなったので、悔いはまったくない。青弓社苦心の索引も利用して、いろいろに楽しんでいただけるとうれしい。