大野弘雄(おおの・ひろお)さんが1月23日に亡くなった。享年68。大野さんはアルトゥスから発売されたムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィルの来日公演の音源提供者だった。
大野さんがムラヴィンスキーの公演を録音しようとしたきっかけは、レニングラード・フィルの楽団員からの依頼だったという。ムラヴィンスキーが生前発表した録音は非常に数が限られていた。ある時期は10年以上も全く新譜が出ていなかったこともあった。おそらく、楽団員にとっても自分たちの成果を音として聴く機会も極めてまれだったに違いない。大野さんはレニングラード・フィルの楽団員と直接の交流があり、その楽団員を自宅に招いた際に録音のことを切り出されたらしい。楽団員にとってはツアーの合間の日本観光もおおいに興味があっただろう。しかし、旧ソ連の国家の代表として来日し、特別な思いを込めて演奏したに違いない彼らにとって、その日本公演の音も聴きたいという思いは十分に理解できる。
かくして、数多くの日本公演が大野さんの手によって保管されていたが、むろん日の目を見ることはなかったし、私もそのような噂すら耳にしたこともなかった。それが公になったのは日本ムラヴィンスキー協会主催の、ムラヴィンスキー夫人来日歓迎会の席だった。夫人は言うまでもなくレニングラード・フィルの首席フルート奏者で、公私ともどもムラヴィンスキーを支えていた人物である。夫人はこうもらした。「私の夫はときどき録音をしても、聴いたあとすぐに消せと命令していました。いまにして思うと、録音をした人が主人の言いつけを守らずに、とっておいてくれたらどんなによかっただろうと思います」。そのあと大野さんは、夫人に保管していた録音のことを伝えたようだ。むろん夫人は怒るどころか、望外の喜びだったという。
こうして、この一連の来日公演はCD化されることになった。特に、私のようにその演奏を体験した人間にとっては、興味津々どころの話ではない。そのムラヴィンスキーの来日公演については「クラシックジャーナル」第020号に詳述したのでそれを参考にしていただきたいが、ここではそのなかでも最も印象的なところだけを書きとめておきたい。
まず、シューベルトの『未完成』(ALT053、1977年)である。このとき、私は東京文化会館の最前列右側で、ムラヴィンスキーを見ていた。ムラヴィンスキーは一礼したあと、旧配置の左に陣取る低弦の方を見ていた。しかし、じっと彼らを見ているだけで、演奏がいつになっても始まらない。なぜ始まらないのだろうと思った次の瞬間、低弦奏者たちの左手のポジション移動が見えた。なんと、すでに演奏は始まっていたのだ。空恐ろしいピアニッシモだった。CDを聴くとこのときの様子がはっきりと思い出せる。しかし、実演に接していない人にとって、強弱が極端に激しく、またテープ・ヒスの多い録音という印象を受ける可能性が高いが、これは仕方あるまい。
ベートーヴェンの『田園』交響曲(ALT063、1979年)も忘れることができない。しかも、このCDは当日のプログラムがそっくり1枚に入っている。この『田園』は霧のような柔らかい響きが千変万化する演奏だった。しかし、録音で聴くとやたらに筋肉質な演奏に思えてしまう。最も不思議に思ったのは第4楽章の「嵐」である。ここはものすごく弱く柔らかい音で一貫されていたと固く信じていた。その間、約3分半だったが、私は「なんと風変わりな嵐だろう」と感じていた。だが、このCDで聴くとごく普通にガツンと演奏している。この差は、いまでも全くわからない。そのときは夢でも見ていたのだろうか、とさえ思う。
このCDの最後の『ワルキューレの騎行』は生の演奏にかなり近い。けれども、実際に響いた演奏はこのCDの数百倍もすごかった。私はショックのあまり、終わってもすぐに拍手はできなかった。
ムラヴィンスキー夫人は「日本での演奏は特別なものだった」と語っていたが、実際、あれこれと比較してみると地元レニングラードでの演奏よりも優れたものが多いような気もする。いずれにせよ、二度と聴くことはあるまいとあきらめていた日本公演、これがCDとして聴けるということは、私にとっては言葉に言い表せぬほどの感激である。大野さんの努力に対し、改めて感謝を捧げるとともに、ご冥福をお祈りしたい。
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